2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 10
リウィウス(前50-後17):膨大な量ゆえにリウィウス(ティトゥス・リウィウス・パタウィヌス)の、建国から紀元後9年までの時期を扱ったローマ史は、写本の伝承過程で10書1巻単位でまとめられ分割されていたが、うち幾つかの巻は散逸していた。リウィウスの再発見は、アヴィニョンに教皇庁が……リッピ、フィリッピーノ(1457-1504)リッピ、フラ・フィリッポ(-1469):画家フィリッポ・リッピは、1421年にカルミネ修道院に孤児として預けられた。しかし彼の強いられた宗教生活に対する不適合は、詐欺行為で審判を受け、修道女ルクレツィアを篭絡し、はては結婚して息子をもうけるというその行状のうちに現れている。彼の息子フィリピーノも著名な画家になった。彼は一貫してメディチ家の後援を受け、主に板絵画家として活躍し、1420年代のマザッチョ流の荘重さや明快さから世紀半ばのより軽く、線的で、より明白に複雑な美術への移行を示している。つまりそれはドナテッロの成熟していた作品、そしてロッセリーノやデジデーリオ・ダ・セティニャーノなどの彫刻家の作品に大きな影響を受けているのである。リッピは極めて個性的な方法で、ドナテッロと同じく新しい幾何学的遠近法に固有の、空間と平面、絵画と域との複雑な相互作用について探求した。最も早い時期の年季入りの作品「コルネート・タルクィーニアの聖母」(1437)からプラート大聖堂内のフレスコ画連作(1452)そして神秘性を増して行く晩年の「キリストの降誕」(1466-69)までの諸作を通じて、彼の探求はウッチェッロやピエロ・デッラ・フランチェスカのような画家たちの、より明晰な理論家の努力とは対照的に、絶えず奥底に潜在するモティーフの創出に向かった。料理:作者不詳の「料理の書」(c1440)からバルトロメオ・スカッピの「6分冊の著作」(ベネチア、1570)にいたるまで、食物に関する書物は数多くある。これらの書物は最初、中世の本草学と動物学の影響を受けていた。次に15世紀半ば以降、古典的な医学及び農学に関する著作(食物に関する人文主義的アプローチとでも言うべきものを作り上げた)の栄養学的観点を反映するようになり、そして最後に1520-30年代から北ヨーロッパの「見せる」料理を取り入れる。しかし一貫して力点は健康と家政、それに客のもてなし方全般の中で料理をどう位置づけるかにおかれ、詳細なレシピは少ない。 幾つかの一般的傾向は明らかになっている。北部ではオリーブ油よりもむしろ獣脂に頼っていた事。下ごしらえした(例えばローストする前にゆでた)肉が好まれた事。ソースの上に香料をかけるのが好まれた事。出来上がったものの新鮮さが強調された事。そして地方の伝統からも流通の問題からも「イタリア」料理なるものは無いと認識されていた事である。パスタ(マカロニ、トルテッリーニ、ラザーニャ)、ニョッキ、ポレンタ、米、そしてナポリ王国ではピザというように、現存するでんぷん食品はすべて言及されている。また肉(子牛肉を含めて)への言及もあり、ことに猟獣・鳥類に重点が置かれている。更に色々なチーズ、ソーセージ(フィレンツェ、ボローニャ以北)、魚、そしてトマトとウイキョウ以外の野菜も取り上げられている。しかし要塞の兵士や船員に配給された基本食糧(豆、小麦粉、巣、油、酢漬けの魚と肉、ぶどう酒)のリストと、特別な客にふさわしい献立に関する記述との間を埋める史料は殆ど無い。ルネサンス:イタリアにおける文化的運動と、それが各地に及ぼした影響を表示するフランス語の呼称。それはまた次の仮説、すなわち人類の集団的体験を時代的に区分して記述するには、そのとき最も有力な知的かつ創造的な観点に立つ、つまり一つの歴史的時代としてこれを見るのが有益である、と言う仮説に基づく呼称である。イタリアでは、ルネサンスの時代は一般に14世紀の第2世代(1330年代以降)から、16世紀の第2または第3世代(1530年代から60年代以降)まで続いたとする見方がとられている。250年もの長い期間を、単一の再生の時代と考える事は出来ないが、その時代の人々が同時代人という自己認識を共有する限りでは、そこに一応のまとまりを認める事もある程度正当化されるであろう。 ペトラルカにとって古代ローマの偉業を理解し讃えようと勤めた事は、それを無視していた中間の時代の世代を軽蔑する結果になった。彼はそれら中間の世紀を知性の眠りの時代、いわば「暗黒」の時代とみなした。そして彼自身の時代の可能氏を秘めた光の時代、余りにも長い間忘れ去られていた古代の偉業に関心を寄せ、それと競い合うべき、活気に満ちた復活の時代であると見た。学者としてだけでなく、詩人並びに多作の文筆家としての彼の名声は、この時代感覚、新たな可能性の時代に生きると言う感覚の共有者を急速に増やした。ここでいう共有者とは、やがて人文主義として知られるようになる知的環境の中で仕事をした人々である。恐らく新たな精神的雰囲気の中に生きる感覚は、知的興奮にたとえる事が出来よう。その興奮はマルクス主義的分析が、政治的生活だけでなく、知的かつ創造的生活の重要性を見直すためにも、利用されうるとする認識に伴うものである。しかしながら人文主義の高揚した熱気は非常に長く続いた。なぜならそうした活力の核にある古代の史的実体は極めて膨大で力強く、その事については(暗殺者がブルータスの霊力を借り、又異教を崇拝する物好きがキリスト教を嘲ったときを除けば)、論争にならなかったからである。それに加えてローマの、そしてギリシャの過去の業績を見習う必要に基づく学問的意欲亜、それは為しうる事だと言う同時代の美術や文学からの証言に支えられたからでもある。イタリアの諸戦争がイタリアの誇りをひどく傷つけたときでさえ、ヴァザーリはなおも美術が活力を取り戻す過程をたどる事ができた。その過程は結局1564年のミケランジェロの史とともに終結に向かうのだが、14世紀には既に始まっていたのである。 ヴァザーリの「美術家列伝」はヨーロッパでは定評のある教科書になった。リナシタ、またはこの語をますます包括的になる職業経験に関して適用した「美術の再生」から当然の結果として生じたものは何か―――「列伝」で自分が取り上げた問題を彼はこのように要約している。しかしこの語「ルネサンス」は長い間あれやこれやの「ルネサンス」つまり美術の、学問の、文学のルネサンスであった。ジュール・ミシュレの「フランス史」で、「ルネサンス」と題された一巻が1855年に出版され、初めてこの呼称はある時代とそこに起こった全ての事柄を指す語となった。ついでヤーコプ・ブルクハルトの依然として啓発的な「イタリア・ルネサンスの文化」が1860年に出て、初めてルネサンスと言う言葉は必然的に、とりわけイタリアと結び付けられ、またより一般的には人類発展の一段階、すなわちそれに選考するものや後続するものとは本質的に異なる事が明らかだと思われる、一つの発展段階と結び付けられた。 それ以降「ルネサンス」は様々の意味を持つ用語となった。ある時代やその動向を示す呼称に留まらず、特定の「概念」を表す言葉となった。それはブルクハルトの懸念にもかかわらず、個人主義、万能礼賛、そして没道徳性さえ暗示する概念である。人間は既に中世の思想の牢獄を脱し、世界はその拡大する物質的、精神的視野を含めて今や人間の意のままである。文化は個性と行動によって決まる。ルネサンスはこうしてルネサンス人の活動の場面となり、その成果ともなった。一方プロテスタンティズムと社会的規範により、道徳的に規制されていた北欧世界(そこから俊敏な学者や啓蒙家が出た)にとって、「ルネサンス」は厳しく批判されるか、それとも羨ましがられるか、いずれかであった行為と思考の方法の象徴となった。 余りに主観的な解釈に陥った用語は、批判を呼ばずにはいなかった。今世紀に入って異議を申し立てられたのは、主として次の点である。(1)自己充足的な歴史的段階などと言うものは無い。中性に特徴的なものの多くがルネサンスに流入、或いは貫流しており、ルネサンスの特質の多くが同様に実験科学の時代、産業化の時代、激化する民族主義やマスメディアの時代にまで刺激を与え続けている。(2)ルネサンスの美術や文学は、ヴァザーリが大雑把な見方で一まとめにしたほど、一貫して発展したものではなかった。美術や文学の目的意識や様式から見て、そこには初期、「盛期」、後期の諸段階があった。(3)特定の時代の「文化」と「歴史」の間には、一定不変の調和はもとより、実際的な一致も無い。「ルネサンス」文化はベネチアでは遅れて始まったし、ジェノヴァには更に遅れてやってきた。両都市は繁栄を極めた政治・経済活動の中心であったにもかかわらずである。(4)文化的エリートの立場から時代を規定する事は、総体的な民衆社会の運命から目をそらす事になり、容認しがたい。 こうして異議を唱えられたけれども、この用語にはまあ大部分の魅力と有用性が多く残っている。18世紀から19世紀初頭にかけての(美術や文学などの)「復活」という言葉よりも「再生」の語が選ばれたのは確かに偶然ではない。なぜかと言えば、それは個人的、精神的、そして心理学的な熱望(使い古された全てを含む過去の記録を消し去り、新たな出発を期待する)その熱望への共鳴を、社会的に拡大したからである。用語の使用が慎重でなければならないのは、このように後から付け加えられる主観的な理由によるのだが、それにしてもこれらの異議は、知識と感受性を大きく伸ばす役割を果たしたものとして、これを受け入れる努力を惜しんではならない。レオ10世:レオナルド・ダ・ヴィンチ(142-1519):フィレンツェの公証人の庶子で、西洋美術史上最も偉大な万能の天才。ヴァザーリはその「美術家列伝」中の第3期にあたるルネサンス美術の絶頂期、すなわち古代の偉業に追いつき、ついにはそれを凌駕した時代の記述を、まさにこの天才から始めている。運動競技、音楽、素描、絵画、彫刻、建築、都市計画、遠近法、光学、天文学、飛行術、水力学、航海術、軍事、構造力学、機械工学、解剖学、生物学、動物学、植物学、地質学、地理学、数学と、レオナルドの興味は尽きる事が無い。様々な考察と実験を記録した大量の手記と素描は、彼自身の精神活動の全貌を明かすわけではないが、ルネサンスの意味を理解するためには不可欠のものである。彼が「画家は万能でなければ賞賛に値しない」と述べた事はなんら驚くにはあたらない。又彼は「忍耐力の欠如、即ちおろかさの母は、手早さを賞賛する」とも述べており、こうした画家の心得についての彼の考えをはっきりと想像する事ができる。 レオナルドの画歴ははっきりと4つの主要活動期に分けられる。第1期フィレンツェ時代はロドヴィーコ・スフォルツァに仕えるためミラノに旅立った1482-83年までの時期である。ヴェロッキオのもとで修行を積み、師と共同制作をし、1472年には親方として画家組合に登録されている。単独で手がけた最初の大作は、ウフィツィ美術館にあるヴェロッキオ風の「受胎告知」である。この時期の主要な活動成果は「ジネブラ・ベンチの肖像」(1474)、「カーネーションの聖母」と「ブノワの聖母」、そして1481年に着手され、未完に終わった大作「マギの礼拝」である。 次いで最初のミラノ時代(1483-99)には、現存する傑作として2点の「岩窟の聖母子」と「最後の晩餐」がある。ルーブル美術館の「岩窟の聖母子」はほぼ確実に1483年に制作が始められた。またロンドンのナショナル・ギャラリーにある同一主題の作品は、数え切れない論争を巻き起こして来たが、その制作はほぼ疑いなく1490年代半ばに着手されている。それはフランス軍侵攻に際してレオナルドがミラノを脱出したため未完のままに残され、彼がミラノに戻った1506年以降に完成された。又ブロンズの「フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像」は巨大な馬体の粘土模型の段階で終わり、その模型も後に破壊されてしまった。 第2期のフィレンツェ時代(1500-05)に受けた最初の重要な注文は大フレスコ壁画「アンギアーリの戦い」(1502-03)で、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」と対を成してフィレンツェ共和国の評議会の間(パラッツォ・ヴェッキオ)を飾るはずであった。「モナリザ」、「聖母子と聖アンナ」、そして後者の下絵はともに彼の新しい「スフマート技法」の開花を示す作品である。 最後の活動期が第2期ミラノ時代(1506-)以降である。彼は2作目の「岩窟の聖母」を仕上げるために1506年にミラノに戻り、フランス国王フランソワ1世の画家兼技師となった。ところがレオナルドは、もう一つの主要な騎馬像「トリヴルツィオ騎馬像」の仕事は別として、ますます科学的研究に打ち込んで行ったようである。事実、晩年の絵画様式に関して現存する唯一の記録はルーブル美術館蔵の「聖ヨハネ」だけである。恐らくこの作品は、彼がローマに出発した1513年以後、フランスに旅立つ1517年以前に制作されたのであろう。そのフランスで1519年、レオナルドは国王に与えられたクルーの館で没する。 レオナルドの科学的な、とりわけ解剖学的な発見が、それだけでは歴史の流れを変えなかった。なぜならそれは主として、それらがレオナルドの存命中に発表されず、また弟子フランチェスコ・メルツィに遺贈された彼の手記も、1570年のメルツィ没後まで人の目に触れなかったためである。勿論戦車のような発明の多くは、後世になって蒸気機関や内燃機関により供給される事になる原動力がまだ存在しないため実用化されなかったのである。しかしながら手近なものの核心に迫る彼の比類なき能力が生彩を失う事は無かった。例えば戦車戦の原理を規定した事、又解剖図の基本的問題は、それが扱う多層的3次元構造の性質にあると考え、筋肉や腱の機能を力戦に還元して問題を解決した事、更には中世都市の人や物の流れの問題を解決するために機能を分化させた多元的な道路・運河システムを提唱した事などである。いずれにしても彼は直面している問題の本質的な特徴を射抜き、根本的な解決案を提示したのである。 レオナルドはその生涯と作品の殆どあらゆる面で、分岐点、すなわち近代世界へと向かう道を決定する重大な瞬間に立っていた。彼は中世の「普遍性」という観念に固執しつつも、観察と実験及び事実に基づく知識の蓄積を重視する事により中世的な「普遍性」には到達できないとみなして、専門分化した近代世界への先導役を果たした。彼は美術家の優れた才能と独自の社会的役割を主張して、中世の社会において甘んじていた、安全だが卑しい職人的地位から美術家を解放する道を開く事に寄与した。そして美術家が「個人」であり、かつ社会的には流動的な存在で、成功も失敗も本人の意思にゆだねられる事業家と言う、近代の美術家のさきがけとなった。彼は又美術家の新しい役割、すなわち手仕事に従う単なる職人としてのほかに、思索家及び理論家としての役割をも果たす新たな美術家像を自ら体現している。 そうした点で彼は美術アカデミーや美術学校の発展に先鞭をつけた。同時にレオナルドの純粋にて仕事的・技術的な技の展開は、新たな熟練の頂点を極めるものであった。つまり彼は、前例の無い繊細さと正確さで、自然世界を再現する美術家の技量を伸ばした点で、ペンや鉛筆を、美術家の心の奥底に生じる全てのざわめきやおののきをも記録する地震計に変えたのである。フロイトはレオナルドの「聖アンナと聖母子」の下絵を精神分析することが出来たが、それだけでなくレオナルドが芸術家にして科学者、芸術家でありつつ同時に解説者、さらに 情報伝達者へと向かう道は又、往々にして無理解な大衆を前にして、芸術家が自己啓発、自己表現そして自己隔離(孤立化)という近代世界に至る過程でもある。実際、図案家としてレオナルドは、各描線の持つ表現的可能性を、アントーニオ・ポッライウォーロを除く彼以前のどんな芸術家よりも、はるかに深く追求した。又初期の平行線影(けば付け)と銀筆画の様式から、第1期ミラノ時代の終わりに発展させた曲線の線影様式を経て、晩年の素描の赤チョークと黒チョークによる点描法に到達する彼の素描力の進歩は、画家としての成長にとって欠くことのできない基礎を彼に与えた。レオナルドの素描は、美術及び視覚的理解のための範囲の広さと重要性において他に較べるものが無い。 レオナルドは、芸術は科学的実験とは異なって、まさに独創性と一回性のうちに本質的価値を有するものであり、彼の科学的な仕事は全てその芸術に奉仕するものだと主張し続けた。当時の医者たちではなく、レオナルドとその同僚の美術家たちこそが、外的観察によって為しえる事の限界に達したときに、解剖と解剖学に手を染め、人体の内部にあってその外観を規定する力と構造に関する知識を広げたのである。又美術家が製図術の精度を高めたのは芸術のためであったが、カメラが発明される以前の数世紀間に、自然科学がこれほど急速な進歩を遂げたのは、この製図の技術なしには考えられない事であった。レオナルドは、まさに西洋文明市場の一つの不思議な時代、すなわち美術が近代科学世界への歩みの先頭に立ち、科学の萌芽が最高の芸術を成就させるための触媒だった。その摩訶不思議な時代に生きたのである。歴史と年代記:ペトラルカは歴史的な距離を知的(かつ情緒的)に把握した。この把握に従えば、過去は過ぎ去ったものであり、過去自体の支店から再構成されねばならず、過去が現在につなぎとめられているのは個人の郷愁と好奇心によってである。こうしたペトラルカの理解以来、歴史記述は始めて時間的展望を体系化する感性を獲得し、それとともに時代錯誤に対する慎重さ・用心も生まれた。つまりそれは過去の時代は現在と混同してはならない固有の習慣を持っているとの認識の深まりであった。ペトラルカは自分が最も賞賛する古代のローマの人物たちを受取人として書簡を書いたが、その彼がはっきりと理解していたのは次の事であった。すなわち、書簡のあて先たる古代文明は神の意図的操作によって、キリスト教の刑事に適した環境として、存在を与えられたのではないと言う事(この点に関しては、ダンテは異なった信念を抱いていた)。啓示が、神の計画に従い、古代文明を現在につなぎとめているのではない。ペトラルカは、この事を明確に理解していた。時間の感覚が明確になり非神話化されると、それによって歴史記述は、中世の年代記とははっきり一線を画す批判的精神を備えるようになった。中世の年代記は、人物や事件に魅力があるにもかかわらず、それらを創造者・神の手中にある粘土細工とみなしていた。かくして「歴史」は「年代記」とは異なる道を歩み始めた。「歴史」の方がより有益なものと思われるかもしれない。だがこの事は現実とはならなかった。近代の歴史家は基本的にブルーニやブラッチョリーニ、ポンターノ、ベンボなど、いわゆるペトラルカ以降の人文主義的史家を尊重してはいる。しかし実際に利用されたのは、ヴィッラーニやサヌートなどの年代記作者の方であった。しかも情報源として、また娯楽のために読まれたのは、年代記作者の編年体に史家の透徹した解釈を付け加えたコーリオやマキアヴェッリ、グイッチャルディーニ、パルータといった作家であった。 人文主義者らの前衛的取り組み全体を通して、古典の手本に対する敬意が共通して見られた。そしてこの敬意が原因となって皮肉な事が生じた。15世紀初期までには次の原則が確立していた。すなわち同時代や身近な時代の歴史叙述はカエサルを、戦史はサルスティウスを、制度史はリウィウスを手本とすること、また(とくにキケロなど)古典作家に基づいて、次の事も確立していた。史家の文体には威厳が無くてはならない事、その題材は政治及び軍事を扱わなければならない事、著者の加筆や架空の演説と言った文学的工夫によって、読者に教育上よい効果をもたらすよう、題材は構成されねばならない事(つまり読者が賢者の手本に習い、邪悪な人物の見本を避け、過去と現代の出来事との関連性を知りたいと思うように、題材は展開されなければならない)。 こうしたわけでキケロなどの古典の原則は又、歴史家は年代記作者とは異なり、「一体何が起こり、何が言われたかだけではなく、どのように、なぜそのような事が生じ、言われたのか」を説明しなくてはならない、と強調していた。しかしながら行動や事件の原因を論じる事で年代記を改良しようとする衝動は、主として題材の選択と扱い方に見られる新たな主観的態度によって相殺されてしまった。こうして(日記や家族誌、伝記、都市の年代記などによって)出来事を記録しようとする衝動が、かつて無いほど強力になったまさにその瞬間に、新たに再構想された「歴史」自身がまず時間感覚の罠に絡めとられる事となった。(時の性質が再検討されたにもかかわらず)。更に、ラテン語による人文主義的史家達は多くが書記官であったし、別の仕方で政府の記録文書を閲覧する事もできた。にもかかわらず、彼らはむしろ年代記を焼きなおす事を好んだ。又彼らは史料の比較及び批判的考察は先送りにして、彼らの叙述が古代ローマ史と彼らの都市との接点に及ぶときまで行おうとはしなかった(人文主義者達の関心の源泉が、まさにこの接点にあったからである)。 ラテン語による歴史は主として表現形式と伝達すべき事柄に関心を寄せていたが、16世紀全体を通じて書き続けられた。他方、俗語による年代記もその活力を保持していた。解釈・説明的でありながら、しかも自由に史実に立脚したタイプの歴史著述が生まれたのは、16世紀前半におけるこの両者の融合によってであった。(1494年以降の戦争が結果として大きな変化と屈辱をもたらしたのはなぜか。この原因を説明した意図する苦しい欲求も、やはりこの融合を助長した)。このタイプの歴史著述はウォルター・ローリー卿ら後継者達の賞賛を勝ちえ、今日もなおその有用性と魅力を失っていない。例としては特に、マキアヴェリや(1528『フィレンツェ外交史』をもって、原史料の細部にわたる比較検討の先駆となった)グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ナルディらの手になるフィレンツェ史、またコーリオのミラノ史やパルータのヴェネチア史が挙げられるが、中でも最も卓越しているのはグイッチャルディーニの『イタリア史』であろう。これら著作形は俗語を使用することで、年代記の直接性と多様性を尊重した。他方、歴史的著作の教育的な目的を認め、また如何に過去の叙述を後世に伝えるかを著者が慎重に選択する事を認める点で、彼らは人文主義者達の成果をも反映していた。ローマ: 教皇領の一部でありながら、ローマは都市として独自の自治政府を有していた。周辺地域に住む土地領主でもある有力な諸家門に対しての都市政府の政治的劣勢は、14世紀から15世紀初頭までの大半の時期に、教皇がその実務拠点をよそに置かざるを得なかったという理不尽さや、政府が市に通ずる道を管理する能力を欠き、貿易拠点としての利益追求が出来なかった事から生じた貧困のうちに露呈していた。1347年、ローマの自治政府はコーラ・ディ・リエンツォとともに勝利と栄光の瞬間を見たが、結局それもわずか数週間で無に帰した。同規模(1400年の人口は約2万5千であった)の都市のうちで最少の商人・専門職(法律家、公証人など)層しかもたず、とりたてて産業も国際貿易も地元銀行も無かったローマは、局地的市場の中心都市であり、牧畜の中心地であり、巡礼者相手の不精な宿主であった。都市の歳入の大部分を我が物にし、同市と他国との政治的関係の全体も掌握しようと言う教皇権の要求には不服であったにもかかわらず、都市としてのローマは教皇権に規制して栄えたに過ぎない。その繁栄が漸く蘇ったのは、アヴィニョン教皇庁時代の長い空白があり、それに続いて所在の定まらない教皇権による散発的な統治が行われた後に、教皇ニコラウス5世(在位1447-55)によってローマが永続的な教皇庁所在地と定められてからの事である。 ローマの都市景観をミラノ、フィレンツェ、ベネチアのそれと競合しうるものにする過程が、マルティヌス5世(在位1416-31)の下で始まったのは真実である。教皇としての権威は阻まれたものの、彼はサン・ピエトロ聖堂やヴァティカン宮殿の修復に着手し、諸教会堂を再建し、マゾリーノ、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、マザッチョ(1428頃ローマで没した)といった美術家たちを集めた。またエウゲニウス4世は晩年(1443-47)に画家と彫刻家達を招いた。しかし街路や広場を改善・美化し、その配置を整備しようと言う確固たる意志が示されたのはニコラウス5世によってであった。その過程は遅々たるものであった。実際それは16世紀末においてもいまだ途上にあった。だが、その発展は歴代の教皇から支持され、財産税譲与のおかげで豪奢な暮らしが約束された枢機卿達によって支持され、又教皇権の本拠としてのローマは永遠普遍であると言う期待感によって支持された。そして更に部分的には歴代の教皇の同郷人によっても促進された。彼らは人口増加に寄与し、ついには教育があって裕福な、かなり大規模な中産階級を生み出したのである。 1440年にロレンツォ・ヴァッラが教皇は偽造文書(「コンスタンティヌスの寄進状」)に基づいて世俗的権力を要求していると告発したが、都市の利益のためこれほど必要とされた権威に反対するようローマの都市行政当局を説得するには遅すぎた。しかしながら漸く1530年代になって、パウルス3世の支持を得て、ミケランジェロの設計で、彼らの政府の拠点である議会場を複合的なカンピドリオ広場に変える壮大な改築計画が始められた。 古代ローマの遺跡の方は研究や調査が行われ、学者や芸術家によって賛美されたものの、新生ローマに建築石材や大理石や石灰を供給するために次第に解体されて行った。しかしその新都市の建築は、こうした遺跡によって多大な刺激を受けていたのである。オカルト:現在「オカルト」という言葉は、超自然的な事象や、日常的な理解を超えた現象、又それに関わる知識や教義に関して用いられている。「オカルト」という言葉は本来「隠す」occultoというラテン語に由来しており、ルネサンス期においては自然の中に「隠されているもの」を探求する態度一般を指していた。もし精神が人間に与える影響の法則を探求すれば、それは占星術になり、自然界の中の究極の元素を探求すれば、それは錬金術になる。当時は宇宙を万物が照応する「魔術的な力のネットワーク」とみなし、その力を見出し、更にはその力を利用する「自然魔術」の理念が流布していたのである。火薬:黒色火薬、すなわちカリ硝石・硫黄・木炭からなる爆発性物質は、13世紀から14世紀にかけて中国からヨーロッパに伝えられた。次いで、火薬を利用した銃器が各地で製造され、それまでの戦争の形態を一変させて行った。記憶術:記憶のための技法の組織化は、古代ローマ時代に始まり、発想・配置・修辞・発表とともに修辞学の5分科の一つを形成していた。当時の雄弁家達は、演説の内容を記憶するために、想像上の建物の各部屋に演説の要点と結びつけた像を配置しておき、実際に演説するときには、像からの連想によって思い起こしたのである。ルネサンスになると、記憶術はこうした実際的な使用に益するだけではなく、像の象徴的な考察を通して、ルルスの結合術やカバラの数秘術と結びつき、万物を把握しようとする形而上学的な方法と理解されるようになった。代表的思想家としてはジューリオ・カミッロやジョルダーノ・ブルーノがいる。教父:古くは教父paterなる称号はキリスト教の伝統の証人として司教たちに与えられたが、4世紀末から教理に関して特説した過去の著述家達に限ってこれを使った。その中でもアタナシウス、バシリウス、ナジアンゾスのグレゴリウス、クリュゾストモスらはギリシャの、アンブロシウス、ローマの大グレゴリウスはラテンの各教会の4大博士として知られた。彼らは正統的教説、聖なる生涯を送って公認された。教父時代は一般に西方教会ではセビリアのイシドルス(c560-636)、当方ではダマスコのヨアンネス)c675-750)をもって終わったとされる。三美神:Aglaia(光輝)、 Euphrosynee(喜び)、 Thaleia(花盛り)の三美神で春の芽生えの力を表し、古典古代、ルネサンスに数多の作例がある。前6世紀には既に三美神の図像が見られ、初期の着衣増が裸像へ変化するのは、アフロディテの場合と同じく前4世紀頃になる。セネカの『恩恵論』(1世紀)は恩恵を与える神、受け取る神、返す神の輪舞とし、第1神は美徳を公にしないように後ろ向き、第2神は善行を広めるべく正対し、第3神は側面を示す。ルネサンスの新プラトン派を代表するピコの肖像メダル(1485)は裏面に三美神を囲んでpulchritudo(美)amor(愛) voluptas(快楽)と記し、愛を中央に、美と快楽を左右に配している。ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィの肖像メダル(1486)はcaritas(貞節) pulchritudo(美) amor(愛)と銘記され、快楽に変わってこの貞節が美と結ばれて愛に結晶する。この女性的解釈がボッティチェリの「春」に描き出されている。ラテン教会とギリシャ教会:キリスト教は成立の当初から複雑多様な民族、文明を包括していた。東のギリシャ文化圏と西のラテン文化圏の関係は、本質的には一致していたが、教理の解釈、典礼や教会法の実践において異なっていた。ラテン協会の中心はローマのバチカンであり、教皇を首長に仰ぐのに対して、ギリシャ教会にはアレクサンドリア、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムなどの管区に総大主教が君臨する。1054年ローマ教皇レオ9世が、ローマ教会の教説と典礼を否定したコンスタンティノープルの総大司教ミカエル・ケルラリオスとその支持者達を破門するに及んで、等材料教会の分裂は決定的になった。その後も東西教会の統一運動は試みられ現在に至っている。錬金術:ヨーロッパの錬金術には様々な側面があり、エリクサーと呼ばれる霊薬を作成したり、卑金属を貴金属に変成しようとする技術や、生成消滅する世界を構成する四つの元素とは異なる「第5元素」や自然界の究極の根本元素としての「賢者の石」を創出する探求が含まれていた。ルネサンスにおいては、占星術や魔術思想と結びつきながら盛んになったが、新しい分野を開拓した人物にパラケルススがいる。彼は、ガレノス流の4体液説に反対し、万物は硫黄・水銀、塩の3原質から構成されると言う錬金術思想に基づく医学を展開した。