2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 9
メダル:メダルは15世紀のイタリアに導入されて以来、驚くほど短期間のうちに美術工芸品として成熟を遂げた。その一因には、珍重され収集の対象となった古代ローマの貨幣がメダルの形式の手本となった事が挙げられる。つまり表面にはプロフィールの胸像、裏面には異なった意匠をあしらい、周囲に銘文を刻むと言う基本的な形式である。メダルの目的はローマ皇帝が(自分の事績を記念するために鋳造させた)最高級の貨幣のように、或る人物や出来事を記念する事もあった。通貨的価値は持たず、素材も(ブロンズあるいは鉛など)貴金属ではなく、選ばれたごくわずかな人々に肖像を回覧する手段であった。それはまたミニアチュール(細密肖像画)の用途を先取りし、実際にしばしば肖像メダルが襟元に飾られた。裏面には(表面に刻まれた)肖像本人の生涯に関連する歴史的な出来事を記録したり、宣伝的描写をしたりする事もできたが、より一般的にはその人物のいわば「本質」を伝えると称する意匠があしらわれていた。 ルネサンス期の人々が、古代ローマの人物やその作品を賞賛し、また個人の人格を強調し、名声を希求し、そして象徴や図像によって人間の気質を要約する好みを持っていた事を念頭に置けば、メダルを注文するという流行がいかに速やかに広がったかが容易に理解される。メダル制作の先駆者はピサネッロであった。彼が1438年から1439年にかけてメダルの鋳造を始める以前の先行例はごくわずかであり、しかもそれは貨幣同然に扱われた。ピサネッロは10年間で表裏別々の蝋型を用いるブロンズ・メダルの鋳造形式を確立し、やがて1560年代から1570年代にボンバールダ(アンドレア・カンビ)が表裏一体の打型法で鋳造した中空の薄いメダルがこの分野の主流となるまで継承された。ピサネッロのメダル制作は、まずヴェローナのマッテオ・デパスティ(1467没)に影響を与えている。フィレンツェにようやく一流のメダル作家が登場するのは、ニッコロ・フィオレンティーノ(1430-1514)が1485年に制作を始めたときであった。この領域の専門家としては他にもスペランディーオ、アンティーコ、カラドッソらの名が挙げられる。これらの作家たちや、その影響を受けた多くの無名作家のメダル作品は貨幣を拡大したり、記念銘板を縮小したりするというメダルの本領からの逸脱を免れているために、今も収集の対象となっている。メディチ、コジモ・デ(1389-1464):1434年は、その前年に下された判決による追放からコジモが呼び戻された年で、これ以後、フィレンツェの政治を牛耳る諸集団でのコジモの影響力は決定的なものになった。指導力を発揮する彼の一族がいなければ、フィレンツェは多大な損害をこうむる政治的な乱戦状態に逆戻りするであろうと言うような感情を生み出したほどであった。こうして彼は世襲の支配者としての一族の創始者となり、同家は15世紀にはまったく表に立たなかったが、16,17世紀には公然とフィレンツェの運命を方向付けた。富が育ち、より権威を与える都市においてこの事を成し遂げるには、財を必要とした。これをコジモは銀行経営者であった父ジョヴァンニから受け継いだが、商売の才能もまた受け継いで、その財産を増やした。共同経営者や支配人の選択において洞察力があり、帳簿をつけるにも几帳面で、また投資家として想像力にあふれていたコジモは、商業や工業からも銀行業からも自分の富を引きだしたが、その富のおかげで、知らず知らずのうちに人望を得、更に多くの富を獲得する手段を得た。大方のイタリアの国政が都市規模に留まっていた事を考えると、シカゴなりダラスなりの選挙区政治の「ボス」、若しくはマフィアの縄張り地域の「パードレ(父親)」に彼が擬せられてきたのもいわれが無いわけではない。父(1429没)に助けられ、銀行業を営むいとこのアヴェラルド(1434没)に支援されて、コジモは当時支配的であったアルビッツィ体制によって追放されるに当たって一つの党派を後に残した。その党派が直ちに彼を連れ戻し、以後殆どためらうことなく、コジモの事を市内部で自分たちの宮利益や地位を損なうような政府決定から保護してくれる、不断の保証人と見ていたのである。金融業者としての高い能力と党派を統括するものとしての天与の際に、コジモは更に二つの資質を加えた。政治上の経歴での成功を確実にするのは実践面での細かな事柄で、これに熟達したものはそれまでにもいたが、そうした他の人々から彼を際立たせたのがこれら二つの資質であった。政治家として彼は、フィレンツェの支配するトスカーナという範囲を超えて見通す展望を持っていた。これは国際的利害を伴う商社の事業によって助長され、また実際の所その事業に必要でもあった。しかし、彼の政治上の同僚たちが、この都市の外交策の決定は勿論実際にそれを練り上げるについても、最終的には彼にかなり自由な裁量権を与えようと言う気になったのは、そして本当はコジモがフィレンツェの支配者であると言う外国の君主たちの意見を受け入れたのは、単なる商売上の眼識以上のものからであった(コジモがフランチェスコ・スフォルツァのミラノ公国奪取を促し、後にはこれを支援したときに、それをフィレンツェの利益のためと受け入れるまでは、彼らはかなり慎重に事態を注視していた。) 第2の「格別な」資質はそれほど具体的なものではない。それは他人が持つ純粋な知的資質に対するコジモの敬意、そしてそうしたものへの事実上の依存である。彼は写本を購入し、図書館を創設し(サン・マルコ修道院やパディア・フィエゾラーナに図書館を設け、さらに自分自身の図書館も造った)、アルギュロプロスやマルシリオ・フィチーノといった優れた学者を後援し、芸術家ドナテッロやミケロッツォ(コジモの居館を設計した)に極めて強い関心を寄せたが、それはただ学芸保護の理念に対する賢明な配慮からの事ではなかった。正しい判断を下せば、学芸保護はすべからく社会的地位を高めたのであり、コジモは自分自身と自分の子孫のために野心的であった。それにもかかわらず、彼自身の野心を超える価値観に由来するある種の天分を、コジモが他社の中にかぎつけた証拠があり、この事が自分の周囲から得られるものに単純についていくというだけではない人物として、彼を際立たせているのである。 ……同時代人が明らかにしている限りでは、彼の性格は得体の知れないようなものではないにしても,曖昧なままである。実際これらの同時代人が彼の挙動の家父長的単純さと庶民的な知恵を強調したことは、後々も子孫に彼と匹敵するものがいないほどの、彼の多面にわたる行動力を自家薬籠中のものにしたいという熱望を表している。メディチ、ロレンツォ・デ(1449-92):ロレンツォの父ピエロは病弱であったために実権を委ねられた期間は短かった(1464-69)が、その短い間に彼はメディチの政治的主導権(彼の父コジモにより獲得された支配的立場)に対して当然の成り行きから生じた反動を切り抜けていた。したがっえピエロと交代したときにロレンツォは弱冠20歳であったものの、フィレンツェの指導的諸家門は過去において多くの財と名を没落させた泥沼の党は主義に戻るよりもむしろ、彼の一族の名と彼自身の富の背後に集結する心構えが出来ていた。ロレンツォはイル・マニーフィコ(堂々たる人物)という呼び名で知られる。これは実際には君主の血統を引かずに政治的権威を有する立場にいるようなものであれば誰に対しても付与された、ありふれた敬意の称号に過ぎなかった。だがロレンツォがこのような称号を受けるものとして選ばれてしかるべきかというとき、そこには二つの要素が反映している。すなわち、イタリア戦争が非常に長くて悲しいイタリアの屈辱の歴史を導いたので、後代のフィレンツェ人から、平和と豊かさとまがう事なき豪華な時代を支配したのは彼であるとみなされた。そして19世紀の非イタリア系の歴史家たちがこの礼賛的な郷愁感に飛びつき、フィレンツェが文化的主導性を発揮した最後の偉大な局面(フィチーノやピコ、フィリピーノ・リッピやボッティチェリやヴェロッキオ、レオナルドや若いミケランジェロ、ポリツィアーノやプルチ、それに詩人兼パトロンであるロレンツォ自身の時代)を単独で作り出した人物がロレンツォであるという彼ら自身の歴史観に、それを当てはめたのである。 ……15世紀後半のフィレンツェの知的・芸術的イメージに貢献する才能を呼び出した魔術師としての彼の役割は簡潔に評価できよう。高度に知的で注意深く教育された青年なら当然そうであったように、彼は知的な思索、芸術的努力で発揮される資質に応えた。だが、芸術のパトロンとしての彼の役割は、市内の芸術家に自ら作品を注文するよりも、他人に勧めて彼らを雇わせる事であった。彼はジュリアーノ・ダ・サンガッロがナポリ王のために仕事をするよう手はずを整えた。ボッティチェリから「春」と「ヴィーナスの誕生」を得たのは、彼の又従兄弟ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチであり、サンタ・トリニタ聖堂やサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の一連のフレスコ画のためにギルランダイオに支払いをしたのは、仕事上の彼の協力者たちであった。後者の作品は、ロレンツォ自身がこの上なく大事にした買い物の一つたる古代の遺物タッツァ・ファルネーゼ(古代のめのう製の皿)の10分の1の費用しかかかっていない。自身の財布に負う彼の趣味はもっぱら、この種の作品に代表されるような一層私的な美術形式に向かった。すなわち、古代の壷,カップ、カメオ、宝石、青銅製の小彫像と言った小さくて高価な品である。彼はジュリアーノ・ダ・サンガッロに、彼の気に入りの田舎の隠遁地の一つ、ポッジョ・ア・カイアーノの農園を改造するよう注文し、またペルジーノ、ギルランダイオ、ボッティチェリ、フィリッピーノにある彼の別荘を装飾するよう注文した。 彼は確かにそうした田園生活への趣味の拡大を率先した人物であった。この趣味は、彼がスポンサー役を買って出た馬上槍試合とともに、フィレンツェの都市貴族層を貴族的なイタリア北部地域風のものに近い生活様式へと向かわせた、より相対的なリーダーシップの一部をなしていた。政治的役割を果たす上で、彼は一門に許された独断専行の度を越さないよう骨を折り、注意を払っていた。しかしその政治的役割を超えたところで、又彼がなおざりにした銀行家としての役割も超えたところで、ロレンツォの種々の関心が示唆するものは、政治家にして党派の統括者たる人物の内部にそこから抜け出したがっている思慮深い学者君主がいたと言う事である。それでも彼は自らの家門の確固として好ましい中心であり続けた。フィレンツェの他のどの家よりも、たずねてくる貴顕の士、芸術家、文学者をもてなす事にやぶさかでなかったかもしれないが、いかなる意味においてもラルガ通りの居館が一種の宮廷の中心をなしていたと見る事は出来ない。父や祖父がそうであったように、彼も自らの家門の事に心を奪われ、一族のために野心的になった。1489年に後の教皇レオ10世となる自分の息子ジョヴァンニのために教皇インノケンティウス8世から枢機卿職の約束を取り付けたときほど、一門の名を普及のものとするのに貢献した事は無かった。メディチ家:13世紀に近郊のムジェッロ渓谷からの移住者としてフィレンツェにやってきたのがメディチ家の始まりであり、同家が政治的影響力と莫大な富を持つと紛れも無く認識されるようになったのは、ようやくジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)の生存中のことであった。1434年以降、都市の指導者となったのは彼の息子コジモであり、その役割はコジモの息子ピエロと孫ロレンツォによって強化された。追放の期間(1494-1512,1527-30)に続いて、公そして大公となったメディチ一族によるほぼ絶対的なトスカーナ支配が行われたが、そこまでの歩みは、二人のメディチ出身の教皇レオ10世とクレメンス7世の在位により容易となったものである。同家はパトロンとして讃えられたり、或いは反対に僭主として非難されたりして、一族の閲歴に関する歴史記述でも議論が分かれてきた。同家の紋章の球が丸薬(メディチとは「医者たち」の意)に由来するのか、それとも硬貨(彼らの富の起源が銀行業にあることを示すものとして)に由来するのかは不明である。紋章(Impresa):イタリアよりも圧倒的に封建制の色合いが濃く、政治的に一定の形態を持っていた国々に較べると、イタリアの紋章学は効果的な家門や見分けのつきやすい旗印を生み出す事ができた。しかしその一方、決まった形式の無いそのとき限りの紋章を作ると言うやり方で発展したので、洗練された紋章体系を持つ事は無かった。そうしたものは、中央の権力が組織的にコントロールする事で生まれるからである。イタリアにおいて想像力と治世をひきつけたのは、一つの図像として純粋に個人的な形での紋章であった。これは通常、モットーが一緒に記されており、その紋章を持つ人間が支持する、或いはあこがれるものに関しての個人的認識を表現したり、一般的に尊重されている何らかの資質(隠れた強さ、信頼に足る用心深さなど)や観念(プラトン的愛の本質など)にその人間とを結び付けて見せるものであった。こうしたかタイの紋章は帝政ローマ時代の貨幣に触発され、1430年代からはこれがメダルの裏面に、つまり肖像のついていない側に固有の特徴を与えるようになった。しかしこの慣習が一般に広まって行き、木版画や絵画に表現され、ジョーヴィオの『戦いと愛の紋章に関する対話』(1555)のような著作の中で説明されるようになったのは、フランス貴族が現れてからであった。1494年以降イタリアを侵略したフランス王の軍隊の中にあって、彼らは盾や軍旗につけた正規の家紋とともに、馬鎧や陣羽織に各自の寓意的図案(エンブレム)をはためかせていたのである。 これは自己表現の一形態であった。イタリア人の想像力は事にこうしたものを受け入れる体制が出来ていた。それは、エジプトのヒエログリフが研究されたり、カバラにおいてヘブライ語のアルファベットの個々の文字の意味が考察されたりしていたおかげであり、又人々が古典文学に親しんでいたせいでもあった。つまりそうした古典文学は、一匹の蜂と弓の絵がテオクリトスの詩を想起させることを可能にした。クピドが蜂に刺された傷の痛みを訴えたとき「お前は別の形でもっとつらい痛みを与えるではないか」とウェヌスが彼に言った、という詩である。紋章はその中に、一種の視覚的な謎掛けとなる力を隠し持っていた。元来はまじめで慎重な自己顕示であったものが、ヴィクトリア朝時代の判じ絵にも似た、より一般的な判じ物となり、ついにはその図案を考え出した学者から、その意味を見抜くに違いない博学な人間へのメッセージとなった。しかしそのころ、つまり16世紀半ばまでには紋章は個人の紋章たる事をやめ、エンブレムと殆ど区別できないものになっていたのである。様々な観念がイタリアに端を発して、17世紀もかなり経つまで教養あるヨーロッパ人の想像力をよぎって行ったが、視覚的にコード化されたこれらの観念の纏め上げられた形が、エンブレムであった。狭く特殊化した分野においてではあったが、紋章はルネサンス期のイタリアが一つの観念を受容し、変化させ、再輸出しえた事の好例である。ユダヤ人:1300年以前、イタリアには比較的少数のユダヤ人しかいなかった。実質的に無視できないほどの人数は14,15世紀にドイツから、又1492年の追放令の後にスペインとポルトガルから移住してきたのである。17世紀初頭には3万5千人のユダヤ人がイタリアにいた。彼らは特に金融業(銀行から質屋まで)や古着の取引に従事したり、金細工師や医者になったりした。もともと彼らには自分たちの固有の居住区で生活する傾向が常にあったが、16世紀になると外界から隔てられたゲットーに住むことを強制された。まず1516年にベネチアで行われ、(かつて鋳造所、ベネチア方言で「ゲト」のあった地区に居住させられた)その後ローマ、フィレンツェ、その他の都市でも同じ措置がとられた。ユダヤ人はユダヤ人であることを示す特別な衣類を身につけることも強制された。例えば赤や黄色の帽子である。ローマのカーニバルでは反ユダヤ主義が行事化されていた。このカーニバルではユダヤ人は裸で競争をしなければならず、その上見物人にものを投げつけられたのであった。こうした反ユダヤ主義はしばしば、フランシスコ会の説教師によって煽り立てられた。彼らは何かあればすぐさま、ユダヤ人を儀式殺人の罪や聖体を汚した罪、又疫病を広めた罪で告発したのである。反ユダヤ主義は対抗宗教改革の間に優勢になって行ったように思われる。教皇パウルス4世とピウス5世は反ユダヤ人政策を承認し、続いてジェノヴァとルッカからユダヤ人が追放されている。イタリアのユダヤ人の中にはルネサンス文化を吸収したものもいた。ナポリでゴンサロ・デ・コルドヴァの侍医を務めていたレオーネ・エブレーオは、1501年ごろに有名な新プラトン主義的著作『愛についての対話』を書いた。反対に人文主義者でもヘブライ語を学ぶものがいた。その中にはジャンノッツォ・マネッティと、キリスト教的なカバラの研究に熱心であったピコも含まれている。しかし1548年以降、ベネチアのユダヤ人は出版業に携わる事を許されなくなった。そして1553年にローまでタルムードやその他のユダヤ教の書物が焚書となったことは、キリスト教とユダヤ教の文化的異花受精の時代が終わった事をはっきりと示している。ユーモア:ボッカチオの『デカメロン』に始まり、ロレンツォ・デ・メディチの謝肉祭の歌、マキアヴェッリやアレティーノの喜劇、そしてベッリーニの「神々の宴」(ただし完成させたのはティツィアーノ)のようなやんわりとした嘲笑のこめられた絵画を経て、16世紀末の庭園の「驚き」を狙った噴水に至るまで、イタリアの文化はどれもユーモアに欠けていない。とはいえ、微妙な陰影を加える話者の声の調子を欠いたり、聴衆の間に引き起こされた反応がわからない場合には、ユーモアの理解は困難である。 15世紀には、ユーモアの概念について自覚がもたれるようになった。これに先鞭をつけたのは、キケロの『弁論家について』であった。『弁論家について』では例を交えながらユーモアのことが論じられているが、このキケロの著作は15世紀の人文主義者たちの基本的なテクストであった。ポンターノは『会話について』(1499)でユーモアを定義し、又その例証を行った。カスティリオーネも『宮廷人』第2巻で同様の事を行い、「笑いを引き起こすのは、ふさわしくない点を持ちながらも、実際には不都合でない何物かである」としている。カスティリオーネは駄洒落・地口を承認する一方で、パロディーには言及していない(パロディーは古代や近代の古典的作品をもじってユーモアを生み出す手段の一つで、文学や美術で使われ、15世紀末からますます盛んに用いられる事となった)。またヒトを動物から区別するユーモア感覚の三つの主要な源泉(逸話、当意即妙な受け答え、いたずら)を、カスティリオーネは強調している。それぞれの源泉の例として挙げられているものに、集まった仲間たちがどれほど頻繁に笑ったかが語られているが、それだけでは(面白さがわからず)物足りなく感じられるかもしれない。しかし、そうした例がうけることを彼が当然視していた事は理解できる。1438年から1452年の間に、ブラッチョリーニは272の実例を集めたが、その中にはこっけい或いは単に小利口なだけのことわざが相当数含まれていた(1548年になってようやく出版)。陽気なトスカーナの司祭アルロットが書いた冗談、ふざけ話は、1514年頃に出版された。16世紀中ごろまでには、印刷、手書き,口頭などで沢山の数の実例が流布していたので職業的文筆家ロドヴィーコ・ドメーニキはこれらを3巻にまとめた。その後、ユーモアが出版される事はまれとなった。ただし、注意深く皮肉をこめたタイプのものや天下周知の標的を持つタイプのもの(すなわち、農夫や教育者をからかうもの)は例外だった。出版がまれとなったのは、性的な裏の意味をこめたものや、あからさまに卑猥なもの、権威主義者をへこませる意図で書かれた逸話などが禁止されたからであった。出版界はますます服従の姿勢を強めていた。反宗教改革の雰囲気が支配的になると、同様にして、実感のこもった反聖職者主義はしたいし貧弱化していった。ほめろ素敵な笑いもまた同様に衰退し貧弱化していった。その理由は、古代の神々は嘲られたものの、こうした嘲りは憂慮すべき事に、異教の神々がキリスト教徒の想像力の中に棲みついていることを暗に意味していたからであった。 ルネサンス期の自覚は、ユーモアの源泉だけでなく、その効果をも分類した。カスティリオーネは冗談について次のように書いている。「控えめなユーモアと上品さによって特徴付けられるものもあれば、辛らつさを隠し持っていたり、あからさまな形で備えているものもある。又耳に入るや否や笑いを引き起こすものもあれば、考えれば考えるほど笑いを引き起こすものもある。笑いとともに赤面を引き起こすものもあれば更には又怒りの表情を呼び起こすものもある。……傭兵傭兵隊長ラファエッロ・サンツィオ(1483-1520):盛期ルネサンスの美術家のうちで、恐らく最も影響力を持ち、又確かに最も愛された画家。ラファエッロはウルビーノの凡庸な画家ジョヴァンニ・サンティの子として生まれた。19世紀に作られた多くの好ましい神話にもかかわらず、19世紀に作られた多くの好ましい神話にもかかわらず、父親サンティの作品にもラファエッロを描いた「肖像」は存在しない。1508年の後半にローマに入るまでの彼に伝も情報は乏しい。記録に残る最も早い時期の作品は1500年に委嘱された1点の祭壇画(聖ニコーラ・ダ・トレンティーノ祭壇画)だが、それについても殆ど何も知られていない。彼は1494年、父の没後にペルジーノの工房に入ったはずであり、1502年か3年までにはチッタ・ディ・カステッロやペルージャのパトロンたちから大きな注文を受けるようになっている。1504年から1508年にかけてはフィレンツェで活動しながらも、ウルビーノやペルージゃとの関係を切らずにいたが、この事は彼の人気と行動的性格を示唆している。 彼は1508年の秋にローマに到着したらしく、そこで教皇ユリウス2世の居室装飾のために採用され、まず「署名の間」(1511)から作業に着手した。また銀行家アゴスティーノ・キージの注文で、トラステーヴェレにある別荘のフレスコ画装飾も手がけた。この二箇所の仕事で、彼はセバスティアーノ・デル・ピオンボ、ブラマンテ、ソードマ、ロット、ペルッツィらとの面識を得た。勿論ミケランジェロともであったのであるが、彼はラファエッロをひどく嫌い、システィーナ礼拝堂天井画からアイデアを盗んだと非難した。実際ラファエッロはミケランジェロから大きな感化を受け、ローマにおいてフィレンツェ時代の優雅な様式から古典的な荘重さへの発展を遂げている。すなわち見事な筋肉表現や人体の複雑なポーズへの興味など、システィーナ礼拝堂天井に描かれた青年裸体像の影響が見られる。この荘重さは「ヘリオドロスの間」のフレスコ画(1511-14)で一層明らかになる。システィーナ礼拝堂天井画が完成するのは1512年の事であるが、足場は1511年8月に聖母被昇天の祭日を祝うために取り外された。その際にラファエッロが天井画を見た可能性は高く、ブラマンテと一緒にミケランジェロの背後からこっそり見たと言うヴァザーリの主張は受け入れがたい。 1513年にユリウス2世が没すると、今度はレオ10世のお気に入りの美術家となった。そして教皇の居室装飾の継続を約束されたばかりか、ブラマンテの死後(1514)、サンピエトロ大聖堂造営主任の地位を引き継ぎ、古代ローマ美術の監督官としても活動する。ローマが再建・拡張されている16世紀に、彼が古代美術の監督官に任命された事はとりわけ興味深い。なぜなら、それは過去に行われた破壊についての関心の高まりを反映しているからである。これらすべてに加え、ラファエッロはキージ家のために働き続け、同家のサンタ・マリア・デラ・パーチェ聖堂及びサンタ・マリア・デル・ポポロの礼拝堂を装飾し、またその別荘のためにクピドとプシュケーの物語を扱ったフレスコ画連作の下絵を制作した。 彼が最後に受けた大きな注文は、システィーナ礼拝堂のためのタピストリーの下絵、及び枢機卿ジューリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)が発注した「キリストの変容」の制作であった。ラファエッロは1520年の聖金曜日に思いもかけず突然他界し、受注した作品の多くが未完に終わる。最後の7年間に彼はあまりに多くの仕事を引き受けすぎたため、大規模で有能な工房をもってしても、それらを片付ける事ができなかった。彼は自身の名で知られる作品の多くを手がけたように見えるが、実際の制作の多くは助手たちの手にゆだねられた。そのために美術史家たちは諸作品の作者を特定する事に忙殺される結果となった。 ラファエッロは美術に消しがたい足跡を残した。すなわち彼は「ユリウス2世の肖像」(1512)によって肖像画に革命をもたらし、盛期ルネサンス様式として知られる事になる美術様式を集大成したのである。彼は他の美術家たちの成果を吸収し、それらを自家薬籠中のものにする能力を持っていた。近年、彼は画像の「甘美さ」ゆえに反発を受けてきたが、それは実際には19世紀と言う時代が好んだ美的概念なのである。「カスティリオーネの肖像」のような作品やタピストリーの下絵に描かれた量感のある人物像には、畏敬の念を起こさせ知的な刺激を与える、形態の自在な把握が見られる。恐らくラファエッロの最も偉大な業績は、あらゆるレベルで見るものの心に訴え、非常に深遠で複雑なものを簡潔で理解しやすい形にしている点であろう。ランディーノ、クリストフォロ(1424-92):フィレンツェの人文主義者。ロレンツォのサークルの主要メンバーであり、重要な文芸理論家。彼の『カマルドリ談論』(1474)は新しいプラトン主義者たちの想像上の見解を提示している。この著作はカマルドリ会修道院で行われた議論を記録したものと称しており、そこではロレンツォとアルベルティが実践的生活と観想的生活をめぐって論争し、アルベルティとフィチーノが最高善の問題を議論し、アルベルティがウェルギリウスの『アイネイス』の寓意的解釈を披瀝している。ランディーの自身は平凡な詩人であり、彼の多大な影響は、彼が新しいプラトン主義を神的知恵の源泉としての詩と言う観点に適用した事に起因する。1481年に彼はダンテの『新曲』の注解を刊行し、この広く流布した著作は『新曲』を寓意的な詩として、またダンテをフィレンツェの愛国者、教皇権の敵対者として描いている。