2009年4月2日木曜日

ルネサンス事典(抜粋) 8

魔術:15世紀後半のイタリアでは学究的魔術の復興とも言うべきものがあったように思われる。ピコが討論のために提示した900の論題の中には、魔術研究を擁護したものがある。彼にとっては、魔術者(マグス)の力は人間の尊厳の例証だった。彼の友人フィチーノは批判に対して魔術を擁護し、賞賛している。「自然」魔術は惑星の影響を含むもので、明らかに良心的である。「儀礼」魔術は超自然的な仲介者を伴うもので、キリスト教と矛盾する疑いがあった。16世紀の傑出した魔術者としては、『自然魔術』(1558)の著者であるジャンバッティスタ・デッラ・ポルタのほか、ロドヴィーコ・ラザレッリやブルーノがいる。後者二人は『ヘルメス文書』に夢中になった。『ヘルメス文書』とは、神ヘルメス・トリスメギストスに帰されたギリシャ語文書の事で、魔術的な力を獲得するための指導書と理解された。この学究的魔術は、世俗的魔術と共存し、恐らくそれに影響を与えていた。世俗的魔術についてはあまり知られていないが、恋の妙薬、堕胎、紛失物の発見未来の予言、邪悪なまなざしからの護身などに関わっており、それを行うものは魔術師として告発される危険を伴っていた。男女の魔法使いは、本物だろうが偽者だろうが、また善人だろうが悪人だろうが、16世紀のイタリアの偽職では重要な役割を果たしている。たとえば、アリオストの『魔術使い』、ドヴィツィの『カランドリア』、グラッツィーニの『魔女』、ブルーノの『カンデライオ』などが挙げられる。マニエリスム:マニエリスムを反・古典的、あるいは反・盛期ルネサンス的であるとして完全に否定的に定義するのは歴史的な事実を無視するものである。というのはマニエリスムの源泉の多くがラファエッロやミケランジェロの作品に発しているからである。初期マニエリスムの建築・彫刻の形式を作った主導的な作家は、ミケランジェロ自身であった。他方、ヴァザーリが使った「マニエラ」という言葉に基づいてマニエリスムを定義する難しさは、その後の用法が定まることなく、しかも無数の異なった文脈に用いられている点にある。マニエリスムを単純に「様式的な様式」と見る事は、やや同語反復的であり、また例えば人体を引き伸ばすなど極端な様式性を特徴とする国際ゴシック様式など、他の多くの様式との相違点を明確にする事もできない。  イタリアではラファエッロとミケランジェロに続いて、指導的な画家たちが新たに展開する様式に取り組んだ。まずマントヴァのパラッツォ・デル・テの建築と装飾で最も注目されるジューリオ・ロマーノ、フィレンツェのポントルモ、ロッソ、ブロンジーノ、サルヴィアーティ、シエナのソドマとベッカフーミ、その他パルミジャニーノ、バロッチそしてタッデーオ及びフェディーコのツッカロ兄弟らが挙げられる。ヴァザーリ自身は画家であると同時に建築家であり、この様式の建築分野でセルリオ・サンミケーリ、ブオンタレンティ、ヴィニョーラ、リゴーリオら、多くの作家とともに多彩な局面を展開した。また彫刻では、誰よりもチェッリーニ、アンナマーティそしてそしてジャンボローニャがマニエリスムを代表する。ロッソとプリマティッチョは、フランソワ1世治世下のフランスにこの新しい美術をもたらし、第1次フォンテーヌブロー派の基礎を作った。さらにマニエリスム様式の分派がヨーロッパ全土に広がり、特にフランドルのアントワープとネーデルラントで注目すべき成果を生んではいる。ただしこれら広範な地方様式の多くは、イタリア語で意味するマニエリスム様式とは殆どにてもにつかぬものであった。  本来的な意味でのマニエリスムとは、盛期ルネサンスから直接に発展し、その盛期ルネサンス様式の単一の、或いは複数の側面を極限にまで推し進めた、一連の互いに閉鎖的な実験の総体の事である。盛期ルネサンスの美術家たちは二次元の平面に3次元の立体を描写すると言うまさにその行為から生じる矛盾を、創作に必要な出発点としてのみ扱う事によって解消しようとした。それに対して、例えばサルヴィアーティのようにマニエリスムの多くの画家たちは、その矛盾自体を興味の中心にすえた。同様にジュリオ・ロマーノは円柱、片蓋柱、エンタブラチュアなど実用的な建築部材に公認されている構造的機能に疑問を投げかけ、(パラッツォ・デル・テにおけるように)逆説的にそれらがいかなる現実の荷重をも支えていないと言う機能的欠陥に注意を喚起した。建築においても絵画においても同じように二重の機能と計算されたあいまいさがいたるところに認められる。形式と内容、現実と理想、極端な自然らしさと不自然さ、表現対象の大きさとそれを取り囲み、時には恣意的にその対象を切断する事すらある枠組み、こうした両極間には絶え間ない緊張がある。あらゆる点でマニエリスムは最高の技量に基づく、緻密に計算され、高度に洗練された様式なのである。  マニエリスムは、20世紀の美術様式の多様な創造性に通じる点が多いにもかかわらず、バロック様式が展開するまでの、あまり特色の無いつなぎの期間に過ぎないと考えられる事があまりにも多い。ところが実際マニエリスムは、盛期ルネサンスとともに、17世紀の新たな様式を条件付ける主な要因の一つなのである。ミケランジェロの時代にあっては(彫像を閉じ込めている)石塊の、その制約性が彼の芸術にとってどれほど創造的であったにせよ、ジャンボローニャがミケランジェロの、この拘束衣から彫刻を開放した事が、バロックのベルニーニには重要な事であった。それと同じように、盛期ルネサンスの絵画空間は、画面内に舗床の様にくまなく方眼を設定する事により、数学的に計測され、それゆえにまた限定された遠近法的空間であるが、それを解体する事は、バロックの躍動し、自由に広がる限界の無い空間を展開するためには不可欠の前提であった。ミケランジェロ・ブオナロッティ(1475-1564):彫刻家、建築家、詩人。自身は彫刻家として知られる事を望んだ。当時フィレンツェの多くの美術家とは異なり、かなりの社会的身分を持つ家系(貴族)の出身で、当初は父親の反対にあったが、ようやく1488年ギルランダイオの元に弟子入りした。しかし彼がギルランダイオのもとにいたのはごく短期間で、ついでベルトルド・ジョヴァンニの工房へ行ったと思われる。そのベルトルドはメディチ家がサン・マルコ修道院近くの庭園に集めた古代彫刻の中で、若い彫刻家たちを養成していたと伝えられる。ただしこの伝聞の扱いは慎重にしなければならない。というのは、当時メディチ家には優れた古代彫刻の収集品が無かったし、ベルトルドはもっぱらブロンズ彫刻に携わっていたからである。ミケランジェロは晩年になって彼の伝記作者コンディヴィに向かい、実際には独学だったと強調しているが、恐らく真実を語ったのであろう。彼は現存する素描が示すように、ジョットとマザッチョの作品を模写するためにフィレンツェの教会堂を訪ね歩いた。フレスコ画法についてはギルランダイオの工房で身につけたと思われ、また彫刻の道具の扱いについてはコンディヴィが言うように、石工たちの間で道具を借りてみよう見真似で学んだ。  1490年からロレンツォ・デ・メディチが没する1492年まで、ミケランジェロはメディチ家で暮らし、そこで彼はフィレンツェの指導的な知識人たちやフィチーノ、ランディーの、ポリツィアーノといった新プラトン主義者たちと知り合ったと考えられる。その一方で彼はまた、フィレンツェ人たちが皆そうしたように、サヴォナローラの説教を聴き、この修道士の著作を学んだに違いない。ミケランジェロの最も早い時期の現存作品はこの時代のもので、作品に見られる鋭いコントラストの中に、彼が生涯にわたって追及した問題が既にそれとなく示されている。それは2点の大理石浮き彫り、「ラピタイ人とケンタウロスの戦い」と「階段の聖母子」である。前者は、ポリツィアーノが提示する古典的主題が、古代ローマの石棺装飾の手法に倣って深く彫刻されており、また深遠な雰囲気の後者についてはドナテッロの「リリエーヴォ・スキアッチャート」と呼ばれる浅浮き彫りの技法が用いられている。  古典的主題とキリスト教的主題と言うこの興味深い対照は、ミケランジェロ最初の記念碑的政策において再び顕著に現れる。その2点の作品はいずれもメディチ家が追放された後、混乱状態にあったフィレンツェから逃れた先のローマで製作された。1496年、彼はヤーコポ・ガッリのために酔った「バッコス」(フィレンツェ、バルジェッロ美術館)を刻んだが、その当時、これを「古代美術の驚くべき作品」と考える人々がいた。他方でこれとは対照的に、フランスの枢機卿の委嘱で1499年までに完成した「ピエタ」は、清澄で感動深いキリスト教の信仰に基づく美術作品である。母マリアのひざの上に横たわる死せるキリストと言うモティーフはドイツ起源であるが、ミケランジェロは北方の厳しいリアリズムを古典的で抑制の聞いたピラミッド状群像に変形している。  1501年のフィレンツェ帰還後、ミケランジェロは巨大な大理石彫刻「ダビデ」像を完成し、1504年にパラッツォ・ヴェッキオ前に設置された。だびでは、自由のために強敵と戦う有徳の戦士として、長い間フィレンツェの人々に愛されてきた主題である。またこの時期には未完成の2点の「聖母子」とミケランジェロ最初の絵画作品がある。「トンド・ドーニ」は聖家族を描いているが、この作品は当時フィレンツェでレオナルドが製作に当たっていた「聖アンナと聖母子」からの影響をはっきりと示している。しかし人物像のがっしりとした彫塑的な扱いはミケランジェロ独自のものである。そしてパラッツォ・ヴェッキオ「評定の間」のために、フィレンツェ史の一場面を扱ったフレスコ画「カッシーナの戦い」の注文を受けるものの、実現には至らなかった。ただこの巨匠の素描若干と、敵襲の知らせにあわてる水浴中の兵士たちを描いた、実物大の下絵の模写1点が残されているに過ぎない。これはミケランジェロがただ人間の姿だけを通じてすべてを表現しつくす事に、どれほど熱中したかを示す意味で重要な作品である。  このフレスコ壁画の制作は、教皇ユリウス2世によって中断された。1505年3月、ユリウスは自分の墓を建設させるためにミケランジェロをローマに召還したのである。この仕事はその後30年間ミケランジェロを拘束した。それははじめ約40体の人物像を擁した独立の記念建造物をサン・ピエトロ大聖堂内に設置するという豪壮な計画であったが、契約が更新されるたびに次第にささやかな規模に縮小されていった。最終的に姿を現した、かなり平凡な墓の構成(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂)は、ミケランジェロの弟子たちが纏め上げたものである。しかしそれは彼の代表的彫刻作品の一つである「モーセ」が残された事によってわずかに彼の面目が保たれている。この墓のために完成されながら分散してしまった彫刻には、2点の所謂「奴隷』像がある。この「墓の悲劇」についてはミケランジェロ自身も悲しげに語っている。  教皇ユリウスとの口論の末に彼はいったんローマを去ったが、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂の天井画を制作するため1508年に呼び戻される。ミケランジェロは最初、この仕事を固辞した。それでも結局仕事を受ける代わりに、若干の技術的な問題を除いて、この巨大な作品をたった一人で、しかも誰の干渉も受けずに制作する事を強く要求した。この礼拝堂の壁面には既にユリウスのおじに当たる教皇シクストゥス4世の代に、モーセとキリストの生涯の諸場面が描かれていた。今回はミケランジェロがこれらの壁画に天井画を付け加えたのであるが、主題として祭壇から正面入り口に向けて旧約聖書の天地創造からノアにいたる物語が描かれた。それらの物語は天井を大小の区画に分割する建築的枠組みの中に収められ、各場面の四隅に「イニュード」、すなわち裸体青年像が配されている。それらはいかなる図像学的意味も伴わない、純粋に装飾的な、美しさあふれる人物像である。物語の両側面に7人の預言者と5人の巫女像が交互に配置され、窓の下の半円壁間部(リュネット)にはキリストの先祖たちが描かれている。壁画と天井を覆う絵画は、総合するとキリスト教世界の歴史についての一貫した説明図を構成し、祭壇の背後の壁面の『最後の審判』(1536-41)で論理的な帰結を示す事になる。「最後の審判」は最初に教皇クレメンス7世、ついでその死後パウルス3世から依頼されたフレスコ画であるが、床から天井へと上昇する画面は、最後の審判と言う主題を比類ない緊張感と力強さを持つ感動に満ち満ちた劇的な出来事に仕立てている。  ミケランジェロに初めて建築を依頼したのはメディチ家であった。そのサン・ロレンツェ聖堂正面部の設計案は実現しなかったけれども、1520年から同家出身のジューリオ枢機卿、後の教皇クレメンス7世の依頼により、一族の大霊廟建設に携わった。しかし1534年にミケランジェロは未完のままにそれを残し、フィレンツェに永遠に別れを告げてローマに居を移した。サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂の形と装飾は、使者を祭る場としての礼拝機能を尊重している。そこではジュリアーノと炉連津レオの肖像彫刻は聖母子像の法を向く。また「昼」「夜」「朝」および「夕」の彫像が現世の時間を表し、救世主であるわが子に哺乳する聖母の像と、その上方に描かれることになっていたキリスト復活のフレスコ画が永遠を語る。この礼拝堂には新プラトン主義的なものは何も無い。ミケランジェロのすべての宗教的作品と同じく、敬虔なキリスト者の精神がそこに浸透している。事実、ミケランジェロ作品の表面にあからさまに新プラトン主義の思想が現れているのは彼が熱愛した若き友人トンマーゾ・ガヴァリエーリのために作った、後年のソネット数編と寓意的な素描だけである。メディチ家礼拝堂の仕事を進める傍らで、同じサン・ロレンツォ聖堂のラウレンツィアーナ図書館も設計している。これは玄関広間に流れ落ちる三重階段を伴うが、その建築的構成要素は期待されている機能と明らかに矛盾しており、マニエリスム建築のさきがけとなっている。  1547年1月、彼は1506年にブラマンテが着手したサン・ピエトロ大聖堂再建の主任建築家に任命された。この仕事でのミケランジェロの最も重要な貢献はサン・ピエトロ大聖堂の巨大な円買いだが、彼の設計原案は施工に当たって一部修正された。また1542年から1550年にかけて、教皇パウルス3世の依頼でヴァティカンのもう一つの礼拝堂、パオリーナ礼拝堂のフレスコ画「聖ペトロの磔刑」と「聖パウロの改宗」を制作した。これらの人物像は彼らの受難と奇跡的な改宗を強調しつつ、あらゆる因習的な形態美を回避しながら、幾分反宗教改革的な精神を示している。1530年代末にミケランジェロはヴィット0リア・コロンナに出会う。彼女のために彼は宗教的創作のうちで最も熱烈なソネットをささげ、大英博物館の「磔刑」やボストンのイサベラ・スチュアート・ガードナー美術館の「ピエタ」のような最高に感動的な素描の作品を描いた。実際、作家としての門出の時期とまったく同じように、再び「ピエタ」は彼を熱中させる主題になった。現在フィレンツェ大聖堂にあるピエタ群像は、自らの墓のために用意されていたものであり、「ロンダニーニのピエタ」は臨終を迎えたときにもまだ彼の工房にあった。  ミケランジェロの作品に関する限り、彼の様式が示す美しさと強烈な独創性は、どんなに要領よく説明しても正しく評価する事はできない。その様式によって彼は「神のごときミケランジェロ」と呼ばれ、「畏敬の念を起こさせる力」という特質と結び付けられる事になった。他のいかなるルネサンスの芸術家においても、ドナテッロやレオナルドにおいてさえ、ミケランジェロの場合ほど、思想に物質的形態を与える手の業に熱情が溶け込む事は無かった。入念に磨いて仕上げた初期の作品(サン・ピエトロの「ピエタ」、フィレンツェの「ダビデ」)であれ、或いは彫り跡を残しつつ形態を精神的に追及した、恐らく最も我々を感動させる晩年の作品であれ、精神的創造と物質的創造の融合する感覚がこれほど見事に伝わった例は無い。システィーナ礼拝堂天井画に描かれた神の手の、アダムに伸びる場面がミケランジェロの芸術の象徴となっているのは単なる感傷ではない。存命中の彼の名声は限りなく大きかったけれども、彼は自分自身の着想と、ごく少数のパトロンの意向以外には従うまいとかたく心に決めていたので、彼の仕事に寄せられるどんな注文にも殆ど応じなかった。そのごく少数のパトロンと言うのは、彼の創造力を掻き立てるか、または少しも干渉しないか、どちらかの理由で彼が忠実になろうとしたパトロンたちのことであった。ヴァザーリにとってミケランジェロこそは時代ごとに美術が古代の偉業や自然そのものが提供する範例に出会い、さらにそれらを乗り越えてゆく過程の頂点に立つ者であった。巨匠の死に際してフィレンツェは盛大な葬儀を執り行った。その葬儀が彼の偉大さを明らかにしようと意図したように、自己の芸術理念を個々の美術作品の膨大な集大成の上に表出するために、ミケランジェロほど多くのことを成し遂げた芸術家はいまだかつて存在しなかったのである。ミラノ:ミラノは共和制のフィレンツェ、ベネチア、ジェノヴァなどとは対照的に、シニョーレ(僭主)の統治が最も成功し勢力を持つ例となった。航行に適した河川には恵まれなかったが、周囲の肥沃な環境と、ポー川、アッダ河、ティチーノ河、コモ湖、マッジョーレ湖やスイスを通るアルペン・ルートから近かった事がその経済成長を約束した。ミラノの富、人口、及び産業についてはボンヴェシン・ダ・リ-ヴァが詳述しており(c1288)、それはちょうどヴィスコンティ家が都市の自治政府や競争相手のデッラ・トッレ家を凌駕しつつあった時代である。同家のこの統治はマッテオ1世によってシニョリーアとして確立され、1447年まで継承された。ヴィスコンティ家の膨張主義的な野望は近隣のロンバルディーア諸都市を支配するだけでは到底満たされないもので、ジャンガレアッツォ時代(1385-1402)に頂点に達した。同家を王侯並みの支配家門にしようと言う彼の望みは、公位を皇帝によって承認された事(1395)と娘のヴァレンティーナがオルレアン公ルイのもとに嫁いだこと(1387)によって満たされたーーしかし後者は、やがてフランスがミラノの継承権を要求する決定的な原因となる。  北イタリアに覇権を確立し、君主としての威厳を整える(フランスやブルゴーニュを除いて、ジャンガレアッツォの宮廷の贅沢さに匹敵するものは無かった)というヴィスコンティ家の政策が、ミラノの名声と利益よりもむしろ自家のそれのために行われたものであったとしても、同市も確かにその受益者であった。税は高く、強力な同業者組合も自由な市民団体も無かった(1396年以降、都市法が改訂されて900人評議会が任命されたが、どの道無力で、政府の主要機関はミラノ公のコンシリオ・セグレート(秘密評議会)とコンシリオ・ディ・ジュスティツィア(司法評議会)であった)が、ミラノでは例外的に活発な経済活動が続いた。手工業の中には織物業(毛織物、木綿のファスティアン織(綾織の一種)、高級絹織物)と、金工品、特に甲冑と武具の製造が含まれていた。14世紀後半には伝染病を抑えるための衛生関係の法整備が進み、効果を発揮した。また交通手段は運河によって改善された(ミラノとティチーノ河を結ぶナヴィリオ・グランデ運河の建設は、ジャンガレアッツォによって進められた)。時に残忍で気まぐれであり、また多くの戦争で常に勝利を得たわけでもないのに君主としての権威が受け入れられた理由は、都市の得たこうした恩恵から説明されるであろう。ジャンガレアッツォの死はヴィスコンティの中部イタリアへの勢力拡大を頓挫させ、またフィリッポ・マリア(ミラノ公、在位1412-47)はヴェネチアの本土進出を殆ど阻止できなかった。  ペトラルカは後援者だった大司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティ(1354没)の政治体制を賞賛した。そして1世紀後、フィリッポ・マリアに雇われていた人文主義者の一人ピエール・カンディド・デチェンブリオは、政治形態、立地条件、気候その他の良好さといった点でミラノはフィレンツェより好ましいと記した。自由な市民の統治と言う幕間劇(アンブロシア共和国、1447-50)は、ミラノの社会的・経済的有力者層の支援を欠いて成功せず、ベネチアの攻撃を背景にかつての従属都市の離反を目の当たりにした。その後を継いだスフォルツァ家のミラノ公たち(1450-99)は一層用心深い対外政策を進める必要に迫られた。メディチ家の支配するフィレンツェとの同盟はフランチェスコ・スフォルツァにとって最も重要であったし、また公国内の従属諸都市の最有力の一族と依存関係を形成しなければならなかった。しかしながら本質的には、彼らの政策はヴィスコンティのやり方を継続したものだった。たとえばロドヴィーコの下では専門的行政官の登用及び臨時の内密な専門家組織の利用が行われ、こうした行政官は「金の代理人」と呼ばれた。ガレアッツォ・マリアの暗殺(1476)が市民の反乱をまったく誘発しなかった事、ロドヴィーコさえも亡命先から短期間戻った際(1500)に歓迎された事は意味深長である。  スフォルツァ家は彼らが作らせた建築物によって大いに自分の家系の永続性を具体化して見せた。まず巨大なミラノ大聖堂の建設がジャンガレアッツォによって推進された(1387)。ただしこれは公式には聖堂専属で独立経営の「ファッブリカ」(工房)に委任され、ロドヴィーコ・スフォルツァの下で、ファサードを除いてほぼ完成に達した。またフランチェスコ・スフォルツァはポルタ・ジョヴィア城を修復した。運河建設も続行され、特にミラノとアッダ河を結ぶマルテザーナ運河の建設が進められた。しかしながらフランチェスコの下では、メディチ支配のフィレンツェとの新しい関係もミラノの建築物に示された。ことにフィラレーテの設計したオスペダーレ・マッジョーレ病院やメディチ銀行の支店であったパラッツォ・メディチがそうである。後者の支配人を務めたピジェッロ・ポルティナーリ(1468没)は、サン・エウストルジョ聖堂のうちに自分の為の礼拝堂を作ってもらっている。ブラマンテの理解ある後継者であったロドヴィーコはサンタ・マリアプレッソ・サンチェルソ聖堂とサンタ・マリア・プレッソ・サンスティーロ聖堂を建てさせ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂を完成させ、更にミラノの守護聖人(聖アンブロシウス)をいただくサンタンブロージョ修道院のために新しい回廊を造営した。またミラノの過去の歴史に対する彼の関心は、ベルナルディーノ・コーリオにミラノの歴史を書くよう委託した事に示されている。  ミラノを領有する事は、ヴィスコンティ家とスフォルツァ家にとって北イタリアの覇権を握るための鍵であった。16世紀にはその重要性は更に明白であった。ミラノはルイ12世によって建設されたフランス占領軍政府の首都であり、それは1500年から1521年まで(皇帝マクシミリアンを後ろ盾とするマッシミリアーノ・スフォルツァの支配下にあった1512-1515の虚しい中間期を除いて)続いた。その後、ミラノはフランソワ1世とカール5世の争奪戦の対象となり、まずフランソワの、そしてカールの最も重要な戦利品となった。カールの支配は最初、傀儡のミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ2世を通して行われた(1521-35)。ミラノは幾度も多大な戦禍をこうむり、特に1526年の攻囲では被害が大きかった。1535年にはスペインの占領軍を後ろ盾にして、皇帝の総督による直接統治が始まった。圧政の程度については誇張されるべきではない。というのも、総督の権威は専門の文官によってバランスが取られ、また失政があれば、上院を通して、或いは皇帝への直訴によって意見する事も或る程度は可能だったからである。こうして1546-55年に総督であったフェランテ・ゴンザーガは、稜堡を備えた巨大で経費のかかる要塞を建設させたと言うので、抗議とそれに続く調査の結果、公職を追われたのである。また産業と人口も回復(1576年に行われた教会の国勢調査では全人口は9万で、これは15世紀末の資産調査の数値とほぼ一致する)した。名声:生前に自分の行為の非凡さを認められ、死後もその功業によって尊敬される。これが名声と言うものであった。真の「グローリア」(名声)の本質については多くの議論があった。これは公益と結びつかねばならないのかどうか、これをもたらす行為はキリスト教の倫理に従うべきなのかどうか、また悪評とはどう違うのか。宗教上の人物と言えども、この概念の埒外に置かれはしなかった(ヴェネチアのフラーリ(フランシスコ会)の聖堂名はサンタ・マリア・グロリオーサ(栄光の聖母マリア)であった)。しかし圧倒的に多くの場合、名声と言うものは世俗的な成功、及びその結果としての世間からの評価と言う観点から捉えられ、有力者の生活様式に、また文学や肖像や墓石に自らの記念を刻むときの表現形態に、決定的な影響を与えた。この名声と言う概念はそれ自体、中世的な信仰(「世の名声ははかなくもうつろう」)を否定するものであり、それゆえにルネサンスの個人主義を証明するものであるとみなされてきた。また文化上のパトロネージにも極めて大きな影響を与え、更には文筆家や芸術家は勿論の事、それ以外の分野で活動する人間をも刺激して、ライヴァルを乗り越えようという気にさせたと考えられる。