2009年4月2日木曜日

ルネサンス事典(抜粋) 7

ペトラルカ(1304-74):フランチェスコ・ペトラルカ(元来の姓はペトラッコ)は「黒派」の教皇派によって追放されたフィレンツェの公証人の息子として、アレッツォで生まれた。ヴァルダルノ地方(アルノ川渓谷部)のインチーザで数年を過ごした後、アヴィニョンに移された教皇庁の後を追って、1311年一家はプロヴァンス地方に移住。イタリア、フランスを広く旅したが、1353年までペトラルカの本拠地はプロヴァンス、とりわけヴォクリューズに入手した別荘であった。トスカーナ出身のコンヴェネーボレ・ダ・プラートから文法と修辞の基礎を学ぶと、ペトラルカはモンペリエ、ボローニャで法律を学ぶように強いられたが、アヴィニョンでの自由な生活を好んで法学研究を放棄した。1327年4月6日、アヴィニョンの聖クレール教会で、ラウラと彼が呼ぶところの女性に出会った。ラウラに関しては、ペトラルカが彼女を愛し、イタリア語の詩やラテン語の作品の中で彼女を賛美したと言うこと以外殆ど何もわかっていない。ペトラルカは、教皇庁において法が気の人文主義活動にも参加した。そして既に20代には古代のテクスト(とりわけ歴史家リウィウス)の研究と校訂を決意していた。しかし詩人たちの研究も行い、教父に関する研究も或る程度行っていた。  1330年、恐らくは経済的な理由から下級品級につき、聖職禄を受け始めた。またコロンナ家からは、保護と友情を受けた。しかし独身と剃髪を心に決めてはいたが、単に表面的な義務を果たしていたに過ぎず、聖職者と言う身分にもかかわらず1337年には息子ジョヴァンニ、1343年には娘フランチェスカが誕生した。1330年代40年代にはイタリア語による詩を書き、人文主義文化の中枢的人物ともなり、顧みられることの無かったテクストを発掘、使用可能にした。例としては、特に1333年リエージュで発見されたキケロの『アルキアス弁護』や、1345年ヴェローナで発見されたキケロの書簡が挙げられよう。この書簡発見に刺激されて、ペトラルカは自分の書簡を収集するようになった。また数々の革新的な作品にも着手した。著名なローマ人から始められた一連の伝記(『名士列伝』)、スキピオ・アフリカヌスの生涯を基にした叙事詩『アフリカ』、代表的な歴史的著作『記憶にとどむべきことども』、などがその例である。これらの作品はいずれも完成を見なかった。しかし『アフリカ』とペトラルカの名声は、桂冠詩人の栄誉をもたらすには十分であった。ナポリでアンジュー家のロベルト王から試問を受けた後、1341年4月8日ペトラルカはカンピドリオの丘で悦ばしげに景観を受けた。桂冠を受けた初の近代詩人の誕生である。  戴冠式は、ペトラルカのローマ志向の究極点であった。またペトラルカは古代ローマの共和政体の復活を目指したコーラ・ディ・リエンツォの試みを支持した。コロンナ家との関係が悪化し、1347年コーラの試みが失敗すると、彼は政治への積極的関与から身を引き、当時の君公たちの支配と保護を受け入れた。このため、しばらく後には共和国フィレンツェの友人たちをいささか落胆させる事となった(フィレンツェの友人には、1350年以降ボッカチオも含まれていた)。1340年代にはイタリア語の詩を書いているペトラルカの姿が見られたが、この時期の詩では以前から顕著だった実存的な不安がより執拗なものになっている。加えて、彼はラテン語作品を書いて人文主義研究とキリスト教徒の習慣とを調和させようと試みたり(『孤独生活について』1346)、あるいは人文主義研究を放棄してキリスト教徒の禁欲的な生き方を受け入れようと試みている(『わが心の秘密』1342-43)。1348年ペストでラウラが他界すると、危機はいっそう深刻さを増したが、美学・文学的な形でしかこの危機は解消されなかった。しかしながら、考えが動揺したおかげで、ペトラルカは作品の中で、複雑かつやや作為的な自己肖像を創造する事ができた。当時の文化にはやはり複雑な変化が生じていたが、ペトラルカの肖像はその記録としての一面も有している。  1353年以降、ペトラルカはイタリアで暮らした。はじめはヴィスコンティ家の庇護のもとミラノに腰を落ち着けたが、ついでパドヴァ、ヴェネチア、パヴィアと居を移した。人生の最後の6年間は、フランチェスコ・ダ・カッラーラが土地を与えてくれたヴェーネト地方のアルクアで過ごした。ペトラルカが生涯を終え埋葬されたのも、同地であった。この期間ペトラルカは、以前に着手した著作に取り組み続けた。大きな影響力を誇る事になった対話作品『逆境順境への対処法について』を書き、また批判に応えて自分自身と自分が愛好する学問を弁護するため、一種の反駁文を書き上げた。こうした反駁文の中でも最も重要な作品『医師に対する反駁』は1352年にプロヴァンスで書き始められたものだった。寓意的な作品『勝利』は決して完成を見なかった。しかし極めて多数のイタリア語の作品からなる『俗語詩片集』(カンツォニエーレ)は、ペトラルカの亡くなる直前になって、決定稿と思しき形に到達した。  このイタリア語による詩集は、ヨーロッパの文学に莫大な影響を与えた。彼は「ペトラルカ式」ソネットを創設したわけでもなければ、ほかの顕著な改革を導入したわけでもなかった。しかし、彼は先行する俗語文学の総合を為しえた。そしてこの総合は微妙さ、音楽性、一貫性・まとまり、古典性などの点において斬新であった。これが魅力を持つにいたった詩集である。この作品は独自の形式的完璧性を備えているように思われ、選び抜かれた言葉の中に隠された豊かさを探ろうとしているように見える。そしてしかも、明晰さや聡明さ、時折示されるおどけぶりにもかかわらず、この詩集には魅惑的なものと把握しがたいものとが宿っているように思われる。ダンテと較べてみると、ペトラルカはそれほどラテン文化を重視していないと見えるかもしれない。しかし、次の世紀の人文主義の繁栄の為に、不可欠の素材を与え最初の手本を示したのは、ラテン語学者・ラテン語作家としてのペトラルカの実践、その目的と深さであった。「人文主義」、「歴史と年代記」などの点でペトラルカは「最初の近代人」と呼ばれるにいたった。ベンボ、ピエトロ(1470-1547):ボイアルド、マッテオ・マリア(1441-94):スカンディアーノ伯爵にして、フェラーラ公エステ家の廷臣、宮廷人。ボイアルドは1400年代を代表する抒情詩人の一人であるが、騎士物語叙事詩『恋するオルランド』によって、主としてその名が残っている。彼はこの作品の第2巻までを完成し(1483年刊)、第三巻を書き始めていた(1495年刊)。第1巻では、アーサー王伝説の放浪騎士のように、オルランドと騎士達が失恋して伝説の当方の地をさまよう。第2巻ではエステ家を讃えるためにかけの主題が導入されている。どちらの場合も民衆的なジャンルに宮廷的な思考と役割を担わせている。はからずも『狂乱のオルランド』で同じ話を引き継いで書く事になったアリオストに土台を提供した。『恋するオルランド』は、より有名な続編(『狂乱のオルランド』)と同じく、活力、皮肉、想像力に満ちている。ただ、娯楽的要素の裏に高尚な意味を含ませると言うアイオストが持つ絶妙の感覚がかけていた。この作品はフランチェスコ・ベルニによって方言色を薄めた形に書き換えられた(1541年刊)。美しく立派なトスカーナ語で書かれていたために、学者・文人から受け入れられ19世紀まではこのベルニ版が読まれていた。ボッカチオ、ジョヴァンニ(1313-75):ボッカチオはチェルタルドあるいはフィレンツェn生まれ、青春時代をナポリで過ごした。そこで家業と法律を学びながら、宮廷の末席に連なった。彼の青春時代の恋人「フィアンメッタ」は、ロベルト王の私生児であった可能性もある。彼の文学的・学問的関心はナポリ時代に始まり、1340年に家族によってフィレンツェに呼び戻された後も続いた。フランス封建制の伝統を受け継ぐ宮廷的ナポリと、商業ブルジョワジー的フィレンツェの二つを体験したおかげで、彼は『デカメロン』において14世紀の人々の生活と心情の複雑な統合を見事に実現しえた。  ボッカチオの初期の作品は一様ではないが、イタリア語による芸術的散文を駆使して初めて本格的な物語に挑み、また(恐らくはイタリア文学史上で)はじめて「八行詩節」による物語を書くなど、一貫して革新的であった。以下、創作時期は非常に大まかである。『フィローコロ』(1336-38)はフローリオとビアンコフィオーレの話を散文で語る。一方『フィロストラト』(c1334)と『テセイダ』(1339-41)はそれぞれチョーサーのトロイラスを詠った詩と、『カンタベリー物語』の一挿話たる「騎士の物語」の材源となった詩篇である。『ディアナ神の狩猟』(c1334)はナポリでの交友グループの中にいた何人かの女性たちを神話化している。この作風はフィレンツェに戻った後も続き、より複雑な作品『アメート』(『フィレンツェの乙女らの喜劇』1342)が書かれた。『アメート』はフィレンツェの歴史、ボッカチオ自身の生活、新しい女性たちの交友グループを神話化し、また同時に異教的な官能性でキリスト教的慈愛を象徴しようと試みている。『アメート』は田園を舞台にしており、それ自体古典文学様式の復活であった。一方『フィアンメッタの悲歌』(1342-44)は自伝的な含みのある心理小説で、恋人に捨てられた女性の苦悩が分析されている。その他、フィレンツェに戻ってからの仕事としては『愛の幻影』(1342-43)、『フィエーゾレの乙女の物語』(1344-46)がある。  著名な『デカメロン』(c1350)は、10人の若い貴族が1348年にフィレンツェを襲ったペストを逃れて田園に行き、そこで戯れに牧歌的な宮廷を作り、全部で100話からなる話を、お互いに語り合って楽しもうとする設定である。それらの話は、最も理想的なものから最も卑しいものまで、広い範囲にわたっている。多くはペテン、冒険、生き残り、自負心を主題にした話で、ヴィットーレ・ブランカをして、「商人の叙事詩」と言わしめた。貫通が成功して大喜びする物語が数多く描かれているため、この本は様々ニッ反された。だが逆にまた、ボッカチオを社会的・宗教的タブーに対する「自然な」行為の王者として祭りあげる事にもなった。だが真実は、恐らくもう少し複雑であろう。利己的な商人的日和見主義の話がある一方で、無私の紳士的「礼節」の話がある。そして集められた話の最後を締めくくるのが、超人的な定説と忍耐を持つグリセルダである。一部に描かれた登場人物の放縦な性的行動を規範的と見るのか、あるいは娯楽的と見るのかどうかは、虚構の役割をどのように考えるかによるであろう。それには、これらの虚構の物語を語っているのが、自らは非の打ち所ない礼節を持って振舞う、これまた虚構の人物たちである事も念頭に置くべきだろう。ともかくこの書物はその偏見の無い詳細なリアリズム、想像力と柔軟な文体、人間の行為を形而上学的な存在(神)と関係付ける事の少ない描写によって、中世文学の鋳型を打ち破ったように思われる。『デカメロン』は大変な成功を収め、迅速に普及し、広くヨーロッパ的な影響力を誇った。16世紀のイタリアでは、ベンボによって俗語散文の模範例として推奨された。  女性嫌悪の感情を爆発させた『コルバッチョ』(c1365)を書き上げるまでに、ボッカチオは新たにペトラルカと親交を結び、その影響下、ラテン語による人文主義的著作を書いていた。古典神話と歴史に関する彼の要説は、後のルネサンス時代に参考文献として用いられた。特に強い影響を与えたのは『異教の神々の系譜』(c1350)で、神話と詩全般に関する系統立った寓意的解釈を含んでいる。彼はまた、ダンテを賛美する伝記、そして最初は講義の形で発表された『神曲』冒頭の幾つかの歌章への注釈を書いている。彼は、後年厳粛な人文主義者となったため、『デカメロン』を書いた事を後悔し、自らの作品である事を認めなかった。しかし後世の読者は概して、それとは異なった見方をした。ボッティチェリ、サンドロ(1445-1510):サンドロ・ボティチェッリは西洋美術史の中で傑出した天才の一人である。ふぃリッピーの・リッピとともにフィリッポ・リッピに師事し、恐らくは一時ヴェロッキオの工房でレオナルドとともに働いた。このような背景からすれば、ボッティチェッリの遠近法及び短縮法、建築的な構想そして解剖学についての理解は当然期待できる事であろうが、彼の名声はむしろ作品に見られる純粋な詩的味わいに基づくのである。ボッティチェッリが、資格の捉えた事実を芸術のために改変した事は、20世紀のピカソの場合と同じく、遠近法や短縮法、解剖学などに関する無知や無能の結果とみなすべきではない。彼は時に繊細で、時に力強く、また晩年にはどぎつく強烈な効果を示した第一級の色彩画家であったけれども、その芸術の真髄は、線描の比類なく流麗な特質にあった。この事がもっとも純粋に見て取れるのは、ダンテの『神曲』挿絵のペン素描(1485-95)であろう。  1470年代から80年代初頭にかけての「マギの礼拝」連作は、とりわけロンドンやワシントンのナショナル・ギャラリー、フィレンツェのウフィツィ美術館にある作品によって知られるが、そこにはレオナルドが取り入れる事になる、斬新なピラミッド型の求心的構図への試みが認められる。またこの連作、中でもメディチ家の人々すべての肖像を描きこんでいるウフィツィの作品は、彼の肖像画家としての力量をも示す。彼は多くの等身大の肖像画でその技量をいかんなく証明している。ボッティチェッリを最高級の画家に高めたのは、その芸術の技術的側面とともに、それを根底で支える思想的内容にあった。事実、作品の多くに、ロレンツォ・デ・メディチを取り巻くフィレンツェの新プラトン主義者、特にマルシリオ・フィチーノの思想を読み取る事が出来る。しかし彼は、その作品が特殊な哲学的教訓を直接に視覚化しているという意味での新プラトン主義者でなかったことは明らかである。それは彼が「遠近法の画家」でも「解剖学の画家」でもないのと同様であった。やはり1470-80年代に描いた「マルスとウェヌス」、ウフィツィ美術館の「春」、「ウェヌスの誕生」「パラスとケンタウロス」など有名な神話画連作には、無数の作品解釈が試みられてきた。しかし彼が視覚言語に取り組む際の特徴である、あの本質的で多面的な両義性は決して解消される事が無かった。「春」の画面中央にたたずむ女性は神話の人物像であると同時に聖母マリアでもある。3美神の古典的な群像には古代の線描と同じくゴシック線描の完成が見られる。ボッティチェッリは実際にメディチ家の人文主義サークルの特徴であるキリスト教徒古代思想の統合に深く関わりながら、後にはサヴォナローラに心酔した。ロンドンの「神秘の降誕」(1500の年記あり)やミュンヘンのピエタのような晩年の作品を特徴付ける激しい宗教性は、この時の回心に力を借りたものである。ポリツィアーノ(1454-94):本名アンジェロ・アンブロジーニ。人文主義者としての名前ポリツィアーノは出身地モンテプルチャーノに由来する。同地でメディチ家と関係のあった町人階級の一家に生まれた。1464年に父が殺害された後、フィレンツェに移り、とりわけラテン氏の研究と著作を開始した。そしてついにはロレンツォ・デ・メディチの保護を勝ち得た。1475年にはロレンツォの息子ピエロの家庭教師に任ぜられ、メディチ家の一員として生活するようになった。この時期にフィレンツェの指導的学者・思想家たち(アルギュロプロス、フィチーノ、ランディーノら)と交流した。しかし彼の才能は新プラトン主義よりはむしろ文献学及びラテン語・イタリア語による詩作の方に向いていた。1457年には『(ジュリアーノ殿の)騎馬試合のスタンツェ』を書き始めた。この作品の一部はボッティチェリの絵画と関係している可能性もある。しかし1478年のパッツィケの陰謀でジュリアーノ・デ・メディチが殺害されたために詩を中断、サルスティウスを範として同陰謀の歴史を書いた。ロレンツォの支配の安定性に疑念を抱き、またロレンツォの妻クラリーチェ・オルシーニから疎まれたため、1479年、フィレンツェを去ってマントヴァに赴いた。マントヴァでは、フランチェスコ・ゴンザーガのためにイタリア語による最古の牧歌劇『オルフェウス物語』を書いた。しかし1480年フィレンツェに戻り、ロレンツォから大学のギリシャ、ラテン雄弁術の教授職に任命。死にいたるまで同職を務め、ギリシャ・ラテンの文学・文化のより深遠で洗練された領域に向けて研究を継続した。研究は博識な『論叢』や、大学での開講時に朗唱された詩『森』、一連のギリシャ語による寸鉄詩などの成果となって結実した。ギリシャ語による詩は、ポリツィアーノがこの言語に真に精通したイタリア初の人文主義者だったことを示している。深遠な思想家ではなかったが、ポリツィアーノは、当時の最も卓越した文献学者として、またイタリアの抒情詩に新たな繊細さと音楽性をもたらした詩人として今も賞賛され続けている。詩人としては、軽やかな筆致、確かな筆致によって古典的な様式と俗語文学の様式とを融合した。ボルジア家:アラゴン家の血筋を引くスペイン系イタリア人の貴族の家。ボルジア家はイタリアでは常に外国人と見られ、一つにはこの事から同家の芳しからざる評判が説明される。同家において傑出した最初の人物で財を為したのが教皇カリストゥス3世(1455-58)。彼が教皇となった際、ローマにいる彼に数名の親類のものが加わった。そこには財産目当ての多くのカタルーニャ人が付き添った。カリストゥスの甥のロドリーゴが教皇アレクサンデル6世として登極するが、そのロドリーゴの子供の中にルクレツィアとチェーザレがいる。ボローニャ:ポー河を使った通商路への入り口を持ち、アペニン山脈を越えてフィレンツェへ向かう交通路がエミーリア街道に接続する場所にあったボローニャは、戦略上の要衝であり、大学のおかげでヨーロッパで最も影響力のある知的中心地でもあった。都市部では恐らく1500年に5万人、1580年には6万2千人の人口を有し、更に広大なコンタード(周辺農村部)もあった。重要な造幣所の所在地でもあった同市は毛織物、麻そして(ルネサンス期にはより貴重な産業であった)絹の生産が盛んであった。しかしコムーネ(自治都市)の有力者は主に土地所有者であるか、あるいは大学に関係を持っていた。1278年からは教皇領の一部となった。  14世紀に教皇領を揺さぶった様々な困難のさなか、ボローニャは多彩な政体を経験した。まず自由なコムーネに始まり、レガート(教皇特使)(ベルトラン・デュ・プージェ、在任1325-34)の直接支配、シニョーレ(僭主)(タッデオ・ペーポリ、シニョーレ1337-47)の統治、ミラノから進出したヴィスコンティ体制(大司教ジョヴァンニ、シニョーレ1350-54;マッテオ、シニョーレ1354-55)ヴィスコンティ家の反抗的な分家の支配(ジョヴァンニ・ダ・オレッジョ、シニョーレ1355^60)、教皇特使によるサイドの直接支配(1360-76)、そして1376からもう一回自由なコムーネに至っている。14世紀末、「自由体制の16人の改革者」として知られる委員会を通して教皇の宗主権や支配を認めつつ、政府の実験は限られた寡頭政治家の手に集中していた。15世紀にベンティヴォッリオ家が代々「16人」の委員会を利用し、君主と言うよりもあくまでも「第一の市民」として振舞いながらコムーネを支配するようになった(1443-1506)のは、指導的な家門同士の絶え間ない闘争を背景としていた。教皇ユリウス2世の教皇領再建に伴ってボローニャは教会の直接支配に復帰し、16世紀にはカール5世の戴冠地となった(1530)事や、教皇の代官に任じられたフランチェスコ・グィッチャルディーニの過酷な支配(1531-34)、そしてトレント公会議がこの都市に一時的に移動した事以外、特に目立ったところも無かった。  ヴィターレ派(14世紀中ごろ)やフランチェスコ・フランチャ(1515没)はさておき、16世紀後半のカラッチ一族や彼らの追随者が大輪を咲かせる以前には、名声を得たボローニャ出身の美術家はいなかった。しかし多くの美しい宮殿や教会堂(サン・ペトローニオ聖堂(1380着工)もそこに含まれる)が14世紀と15世紀に建造され、16世紀後半から17世紀にかけての壮大な町並み再建を切り抜けてその姿をとどめている。しかしながら、ボローニャの真の栄光は大学にあった。ボローニャ大学は12世紀の法学「ルネサンス」の中心地で、15世紀にもなお「法学の母」であり、16世紀には他の様々な研究でも目を見張らせる存在であった。ポンポナッツィ、ピエトロ(1462-1525):パドヴァ学派に属する最も著名なアリストテレス主義的哲学者の一人で、主としてパドヴァ(1509まで)とボローニャ(1512から)で教えた。1516年にポンポナッツィは、彼のもっとも有名な著作『霊魂の不滅について』を刊行した。この議論は、霊魂の不滅がアリストテレス主義的な合理的論証によって証明されうるかどうかをめぐって、長らく論争されてきた問題から始まる。彼はアリストテレスがキリスト教と合致すると言う解釈を受け入れるアクィナスの解決に同意しない。彼はまた、霊魂が死後に身体から去って普遍的知性に合一すると言うアヴェロエスの見解をも退ける。彼の解決とは、霊魂は部分的には身体に結び付けられているが、理性を持ち永遠の抽象作用である限り、不死性にも与っていると言うものであった。同書においてポンポナッツィは、霊魂の不滅が道徳にとって必要であると言う見解に反駁している。この見解に対して彼は道徳的な行為はそれ自体が報酬であって、現世の生の目的であると言うストア学派的な見解を提示している。ストア哲学は全体として、彼にとって最も適切な人生観であったように見える。  ポンポナッツィのこれらの理論は、宗教的な論拠から激しく攻撃された。彼はアヴェロエスに同意してはいなかったが、全体としてはパドヴァにおいて勢力があった、宗教的心情と哲学的論証を分離する「アヴェロエス的伝統」に属していた。彼は霊魂の不滅を論証不可能とは考えたが、しかし信仰の問題として疑ったと言う証拠は存在しない。彼浜二つの重要な著作、『魔法について』と『宿命について』を残し、それらは死後に刊行された。前者において、彼は正統的な見解を攻撃しながら、超自然的事象と見える多くのものは自然学的に解釈できると論じた。マキアヴェッリ、ニッコロ(1469-1527):フィレンツェの政治理論家、劇作家。十分な人文主義的教育を受けた後、マキアヴェリは1498年に共和国政府の官僚の一員となり、主に戦時十人委員会の書記官として勤務した。この委員会は軍事・外交上の任務の遂行について責任を負うものである。国政とのこの日常的な接触に加えて、使節の任務で当時の政治的事件の幾人かの主役(ルイ12世、マクシミリアン1世、ユリウス2世、チェーザレ・ボルジア)の宮廷へ出かけもした。だが、メディチ家のフィレンツェ支配が復活したのに伴って、1512年に彼が解雇された事により、こうした国政とのかかわりは突然に終わった。前体制及びその名目上の指導者ソデリーニとのかかわりの深さ、それに1513年はじめの反メディチ陰謀事件での共謀の疑いのため、マキアヴェリはどれほど悔やんでも政府の仕事から永久に締め出される事になった。例外と言えば、1521年のつまらない使命と1526年の(フィレンツェの要塞都市を視察する委員会の)臨時の書記官のポストぐらいであった。  引退に追い込まれ、フィレンツェの南方7マイル、ペルクシーナのサンタンドレーアの小村にある自分の農村で暮らしながら、彼はいくつもの作品を生み出した。それらが彼の名声の元となっている。1513年の『君主論』、1513年或いは1516年から1519年にかけて書かれた『ローマ史論』(リウィウスの最初の10書についての論議)、1518年の『マンドラゴラ』、1519-20年の『戦術論』、そして1520-25年の『フィレンツェ史』。……  マキアヴェリは学究肌ではないにしても、古代の政治構造と指導者の熱心な研究者であった。彼にとり人文主義とは、彼自身の時代に応用できる教訓へ近づくということであった。彼は生来の熱情的な作家であり、国政の問題を論じても、書簡で彼の多少騒がしいライフスタイルを叙述しても、あるいは詩や今なお上演に耐えるほどの劇作品を作っても有能であった。『マンドラゴラ』はゴルドーニ以前にイタリアで書かれた最も見事な喜劇であり、『クリツィア』(1524)も殆どこれに劣らない。彼が政治的な著作を書こうとするエネルギーは、情熱的に抱いていた次のような幾つかの確信によって支えられていた。自身の経験は彼に権威者としての資格を与えたこと。人間のかわらない本性と政治的・戦術的状況の繰り返しは、現在が過去から学ぶ事ができ、またそうすべきであるということ。政治は公的な偶発事の迅速な処理に関わる問題であるから、個人的で、キリスト教的な救済と言う長期に及ぶ機会に適合する道徳の見地から論じられるべきではないということ。さらに領土の範囲が安定し、市民が無欲で公務の重さを担うほど十分に政治的に成熟しているならば、共和制は君主の統治よりも好ましいと言う事。地元の人間で編成された軍隊は、傭兵隊や同盟国から借りた兵力よりはるかに勝っている事。政治的な成功は、警戒心、諸々の事件の意味するところに敏感な感覚、実行主義、緻密に計算された無節操にかかっている事。  マキアヴェリは無心論者でもなく、詐欺や残忍さそのものを擁護した人物でもなかった。だが、彼の個人的核心に見られる論争的な調子と、自分は物事がいかにあるべきかと言う事よりも、むしろ実際にどうであるかを述べているに過ぎないと言うその主張との間には、釈然としない関係があり、今日でもそれは16世紀末に彼を政治的民間伝承の邪悪な「マキアヴェル」にした衝撃力を何がしか残している。