2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 6
フェラーラ:ポー川流域の主要な都市の中で最も東よりに位置する都市。17世紀末までは、船の航行が可能なポー側の支流が市壁の側を流れていた。初期の都市とその後背地の経済は、デルタ地帯の肥沃な沖積土を利用した農業生産を始め、河川利用の商業活動とそれに伴う通行料や税に支えられていた。中世末期には,世襲貴族層がフェラーラの労働集約型農業経済を確実にコントロールできるようになった。この貴族層も1332年以降は今度は自分たちが、世襲の君主となったエステ家に支配された。フェラーラ侯として、そして1471年以降はフェラーラ公として、同家の統治は300年にも及んだ。フェラーラがみすぼらしい停滞地域から独自の建築や文化の様式を持つ優雅で繁栄したこの地方の中心都市に発展したのも、同家の支配下にあったからこそであった。国家の成功は豊かな農村経済、国外での軍事活動による収入(エステ家は傭兵隊長でもあった)、役職にある中心たちの高い行政能力、そして思慮深い一連の結婚に基づいている。エステ家はフェラーラ戦争ばかりでなくイタリア戦争も切り抜けた。 パトロンとなるべき富裕な市民階層が弱体であったため、フェラーラの宮廷中心の美術は均質性を見事に保っていた。15世紀後半の絶頂期でもこの都市の人口は3万人を超えることはなかったと思われるが、大都市の様相を呈していた。往時を忍ばせる最も代表的な世俗建造物は、町の中心にあるベンヴェヌート・ダ・イーモラ設計(1385)のエステ城である。エステ家のニッコロ2世に対して企てられた陰謀が失敗した余波の中で建てられ、ほぼゆるぎない政権を象徴するかのように聳え立っている。これに高架で屋根つきの橋(1475)によってエステ家の公邸がつながり、そのファサードは小さな広場をはさんでロマネスク様式のサン・ジョルジョ大聖堂に面している。 これらの中心的建造物やさらに第2次世界大戦で破壊されたもの以外にも、フェラーラには15世紀から16世紀にかけて建てられた多くの宮殿や聖堂がある。 15世紀の主要な宮殿で現存するのが、エステ家の邸宅兼迎賓館のパラッツォ・スキファノイア(無憂宮)である。「月暦の間」と呼ばれる大広間には、おそらくペトラルカの『勝利』に霊感を受けたと思われるエステ家のボルソ(在位1450-71(1413生))の宮廷の様子、黄道12宮の象徴、12ヶ月の神話や寓意を図解した大きな連作フレスコ画(1471)の一部が見られる。この壁画群は最近の研究で新たな重要性を帯びた。それらの研究によって、破壊されて久しいフェラーラの他のいくつかの宮殿も、同じ絵画的伝統の下で仕事をした宮廷美術家によって広く装飾されていたことが明らかになったからである。また16世紀に建てられた大建造物の中でも、パラッツォ・デイ・ディアマンティは高貴なイタリア建築の最良の例となっている。2面に12600個のダイヤモンド上にとがった切石が上張りされているこの建物は、ロッセッティが設計したもので、彼の手がけた大掛かりで正式に計画された都市拡張の中心となるように意図されていた。 パトロンであるエステ家のエルコレ1世の名をとって「エルコレの追加」と呼ばれたロッセッティによる市壁の拡張は、フェラーラの都市空間を3倍にした。新しい地域ではいくつもの私邸、教会堂、女子修道院などが誕生した。しかし、意匠があまりにも野心的であり、市壁の内側の都市の大部分の地域は20世紀まで発展しないままであった。1580年にフェラーラに立ち寄り、アルフォンソ2世に好意的に迎えられたモンテーニュは人口激減を記し、大通りに草が生えたことも報告している。そのころまでに、自己満足的で次第に視野の狭くなっていった貴族層は、実際上、経済をないがしろにしていた。1598年にフェラーラに対する古来の支配権の正当性を主張した教皇庁は、レガート(教皇特使)を通じてこの重要なルネサンス都市を……財政的にも文化的にも失墜させ、そのままになってしまったのである。フォルトゥーナ(運命):偶然、宿命、不運、逆境、不慮の出来事、運命。人の願いを逸脱させたり妨害したりする、これらのものの諸相は、古代世界では気まぐれな力強い女神、フォルトゥーナを通じて表現された。これは人間の努力を挫折させる諸力を擬人化したものであるが、人文主義者たちが古代の神話に関心を抱いたためによみがえった。恋愛における敗北であれ戦闘における敗北であれ、合理的には説明できないような現象を解き明かす際に、神の意志を持ち出すことを避けて、運命の女神が流行の逃げ口上としてしばしば用いられた。しかし彼女、運命の女神がより一般的に持ち出されたのは政治的文脈においてのことであり1494年以降外国勢力の侵入にイタリアが対処できないでいる間のことだった。 マキアヴェッリは政治問題に関する積極的な助言が、運命への悲観的な言及を持って迎えられる傾向に気づいた。そのため彼は、『君主論』の最後から2番目の章を、この主題のためにささげることとなった。運命が人間の行動の半分を決定することはマキアヴェッリも認めるのであるが、彼はこのことが敗北主義につながってはならないと力説する。印象的な二つの比ゆにおいて、マキアヴェッリは運命を河川や女にたとえている。川の水は、用心深く掘割や水路をめぐらせることによって、害を受けることなく避けることができるし、女は女であるがゆえに、情熱や暴力によって押さえつけることができる。反宗教改革下の教会は、神の意志への服従に代わって異教の女神を持ち出すことにはますます神経質となり、検閲を行って、カスティリオーネの『宮廷人』のような異端的な意図のない書物からさえも、運命の女神への言及を削除させた。服装:1300年から1600年まで、ヨーロッパの他の地域と同様にイタリアでも、服装は社会的地位を示す主たる手段の一つであり、目立った消費の主要な対象のひとつでもあった。宝石、金糸を織り込んだ布、そして毛皮はそれを身に着けるものの富とともに地位をもあらわしたのであり、その使用は節倹令によって規制されていた。枢機卿やベネチアの元老院議員などの高位高官は、彼らのまとう立派な長い外衣で即座に見分けがついた。だからこそカーニヴァルの仮装は、日常社会の破壊を示す有効なシンボルだったのである。富裕で他人に雇われることのない女性は、長いすそ、高いかかと、こった被り物といった非機能的な服装をすることによって自分の地位を誇示した。また一枚のヴェールが、あるいはヴェールをかぶっていないことが、ある女性が未婚か既婚か、はたまた寡婦かということを知らしめた。同様に赤い帽子や鈴は娼婦であることを示した。一般のベネチア貴族が黒い外衣というシンプルな格好で人目を引いたように、ジェノヴァの女性たちはヴェールを被らない事で異彩を放っていた。300年にわたるファッションの変化を要約するのは不可能である。しかし、最初は贅沢を禁じていたものが最後にはこれを制限するにとどまった節倹令の変遷は、次第に平等性の薄れていった社会構造を明らかにしている。プラトンと新プラトン主義:ルネサンスにおけるプラトン主義と新プラトン主義の復活は、その時代を特徴付ける知的特色のひとつである。文学(カスティリオーネとロンサール)から科学(ブルーノとガリレオ)にいたる広範な領域において、ポルトガルとスコットランドからハンガリーとポーランドにいたるヨーロッパの全域において、それは多大な影響を及ぼした。古代において最も影響力があった二つの哲学派のひとつの創始者、プラトン(前428-348)はアテナイに生まれた。ソクラテスの弟子であった彼は、師が399年に没した後も自らの哲学を発展させ続け、自身はアリストテレスの教師となった。プラトンはその大部分を対話編という形式において、力強い説得力ある文体で書き記しつつ、『国家』、『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』、『ピレボス』、『ティマイオス』、『テアイテトス』、『法律』など、不滅の名声を持つ約30の著作を残した。 プラトンの哲学は、明らかに彼岸的な特徴を持っており、現実の精神的で非物質的側面を強調している。アリストテレスとは対照的に、彼は知識と哲学に直感的で叡知的な基盤を与え、それは感覚経験よりもむしろ霊感に、そして知識の超可感的源泉との直接的な精神的接触に依存している。こうして、数学は自然界に接近する重要な手段として常に強調されているが、経験科学はプラトンの思想において中心的な役割を演じていない。詩的霊感や協和といったテーマ、および正義や幸福のような中心的な道徳的教説の厳密な分析のおかげで、彼の著作は、何世紀にもわたって広く読まれてきた。彼の著作はどちらかというと体系性を欠き、多くの内的な矛盾や問題をはらんだままに残されていたので、彼の最も早い時期の弟子たちによってすでに批判的分析を受け、敷衍されていた。古代におけるプラトンの最大の弟子であるプロティノスは、プラトンの業績を体系化し補充した。彼はこの伝統をより神秘的で精神的な方向に転換させ、同時にこの哲学により首尾一貫した形態を与えた。こうした修正、および他の古代のプラトン主義者による修正から、「新プラトン主義」は生じたのである。 中世を通じヨーロッパでは、プラトンの著作のごくわずかの部分しか知られていなかった。とはいえ、古代末期の多くの文献を介して、プラトンの教説についての間接的な知識は、15世紀にいたるまで意義深い「運命」を享受してきたのではあるが。ペトラルカは、哲学の権威者としてアリストテレスよりもプラトンを好み、プラトン主義に対する関心の、ルネサンスにおける偉大な再興の口火を切った。プラトンの実際の再出現は、1400年ごろに彼の著作の大部分のギリシャ語テクストがコンスタンティノープルからイタリアに齎されて起こった。いくつかの著作のラテン語訳は、15世紀の初頭になされたが、全著作がラテン語に翻訳されるためにはフィチーノを待たねばならなかった(1484年刊行)。フィチーノはまた、フィレンツェ郊外のカレッジにあるメディチ家の別荘に集う、形式張らないプラトン・アカデミーの創始者でもあった。フィチーノ自身の解釈は、プラトンのテクストに見出しうるものをはるかに超えており、彼はプラトン以外の多くの著作を利用した。その中にはプロティノス、ヤンブリコス、プロクロス、そしてヘルメス・トリスメギストスとオルペウスの著とされるテクスト、カルデア人の託宣などの一連の偽書などが含まれ、フィチーノはこれらすべてをラテン語に翻訳した。彼はプラトン哲学とキリスト教の親近性を強調し、両者をその源泉で結合されている、真理への平行する道程とみなした。そして、プラトンはモーセ五書に触れて、そこからいくつかの観念を取り入れたと考えた。彼はこの点で、プラトンは「ギリシャ語を話すモーセである」と述べたヌメニオス(後2世紀)に同意する。 フィチーノによるプラトンと新プラトン主義者の翻訳はしばしば版を重ね、数世紀にわたってプラトン主義の知識にとって標準的な源泉となった。彼のイタリアにおける後継者の中では、ピコとフランチェスコ・ダ・ディアッチェート(1466-1522)がおそらくもっとも有名であり、アゴスティーノ・ステウコ(c1497-1548)は、キリスト教的プラトン主義を「永遠の哲学」へと発展させた。フィチーノの著作の影響は、次第にイタリア以外の国にも現れるようになった。フランスでは、サンフォリアン・シャンピエ(c1472-c1539)とジャック・ルフェーブル・デタプル(c1460-1536)が、またイギリスとではジョン・コレット(c1457-1519)とトマス・モア(1478-1535)がいる。 プラトンの著作集の、最初のギリシャ語版は、1531年にベネチアでアルドゥスによって刊行されたが、1578年にパリでアンリ・エティエンヌによって刊行された版が、おそらくより大きな評判をとったようである。エティエンヌの版に付されたジャン・ド・セール(1540-98)の新しいラテン語訳は、フィチーノの翻訳に部分的に取って代わることはあっても、完全にそれに代わることはなかった。ルネサンスを通じて、いくつかの対話編がイタリア語やフランス語に翻訳され、中でもルイ・ル・ロワ(1577没)の翻訳が流布するようになったが、全著作が俗語に翻訳されることはなかった。アリストテレスの場合とは異なり、プラトンと新プラトン主義への関心は主として大学の外で広まった。特にフランスとイタリアの多くのアカデミーでは、プラトンのテクストが熱心に読まれた。おびただしい版と翻訳の存在は、プラトンの著作の広範囲にわたる一般的な需要を示している。プラトンはまた、きわめて限定された規模においてではあるが、大学でも読まれた。たとえばいくつかの対話編は時折ギリシャ語学習の一部として読まれた。ブルーニ、レオナルド(1370-1444):アレッツォに生まれ、それゆえしばしば「アレティーノ」と呼ばれた彼は、15世紀前半を通じてフィレンツェの人文主義の中心的な存在であった。サルターティとクリュソロラスの影響の下に、彼はラテン語とギリシャ語の精通者となった。1401年ごろ、彼はフィレンツェの共和制と文芸を讃えて、『フィレンツェ市礼賛の辞』を著した。ミラノの専制の圧力に反抗して、フィレンツェの政治的人文主義が発展したというハンス・バロンの最近の説において、この著作は重要な役割を演じている。ブルーニがどこまで政治的確信を持って書き、どこまで修辞学の実践家として書いたのかについては議論の余地がある。とにかくこの作品は、フィレンツェの政治思想へのブルーニの強大な影響の始まりとして重要である。 教皇庁秘書の任に就いた後、彼は1415年にフィレンツェに戻り、終生そこに留まった。1427年以降、彼は前任者サルターティのように書記官となり、政治的・文学的生活において唯一無二の中心的位置を占めた。そして、卑しい家柄の出身にもかかわらず、富と影響力の両方を獲得した。1415年以来、彼は休むことなくルネサンスの歴史書の最初の大作であるラテン語著作『フィレンツェ市民の歴史』を執筆し続けた。この著作は、古典期の歴史家の冗長な散文体と文学的優美さを模倣しつつも、文化的発展を自覚し、原典の批判的使用にも基づいている。その冒頭で彼は、イデオロギーの点でフィレンツェの創設と、帝政期ではなく共和政期のローマとの重要な結びつきを詳述し、共和制と古典主義と社会的繁栄の三社の結合を強調した。フィレンツェの政治にかかわるその他の著作の中で1421年に執筆された『軍隊論』は、信頼できない傭兵隊長の雇用に依存する当時の傾向に抗して、市民軍を擁護した。彼の最後の著作のひとつである『同時代の歴史への注解』は、独特の仕方で1440年にいたるまでの同時代史を人文主義者の文体を使って論じている。 ブルーニは、指折りのギリシャ語学者の一人であり、ギリシャ語をラテン語に翻訳するというルネサンスの計画に早くから寄与していた。彼は、アリストテレスの『倫理学』と『政治学』を翻訳したが、この翻訳は、より優れた学識とより多くの正確さによって中世の訳に取って代わろうという、明白な意図に基づいてなされたのである。それまでラテン圏の読者には読むことのできなかったプラトンの著作のいくつかも、彼は独創性を大いに発揮して翻訳した。とはいえ、彼はプラトンの思想の影響を受けなかったどころか、それに不快感を抱きさえした。彼は、アリストテレスとキケロから得られた哲学的印象、そして哲学者であるとともに政治家でもあるというキケロの理想を抱き続けた。しかし彼は、その際に、アリストテレスやキケロの思想とキリスト教との関係を真剣に考慮することはなかった。この点においても、彼は自らが主役を務めたフィレンツェの人文主義の時代を象徴している。ブルネレスキ:ブルーノ、ジョルダーノ:フレスコ:イタリアのフレスコ画は、あまりに湿度の高いベネチアを除いて、聖堂や公私の宮殿、邸館の壁面を装飾する当時常用された方法であった。しかし16世紀の間に、大きな油彩カンヴァス画の艶やかな効果や、それについで綴れ織(タペストリー)への好みが高まったことから、フレスコ画の出番は壁面上部、織り上げ部分、および天井を覆うことを除いて減少していった。「ブオン・フレスコ」あるいは「真正フレスコ」技法では、下絵を描くための地塗りと「イントナコ」という漆喰が用いられる。この下地用の漆喰は中級品できめが粗い。上塗り用のきめの細かい漆喰をよく固着させるためである。(場合によっては、この下地一面にさらに引っかき傷をつける)。ついで下地に直接フリーハンドで下絵の構図全体を素描する(シノーピア)。下絵を描くもうひとつの方法は、原寸大の下絵素描(カルトン)を用意し、その輪郭線をナイフで下地に刻みつける(インチジョーネ)、あるいは輪郭線に張り穴をうがち墨の粉を吹き付ける(スポルヴェロ)などして下絵を転写する技法である。そして下絵のある地塗り層の上に、一日に描ける面積(ジョルナータ)だけの漆喰を薄く上塗りする。その日に描く下絵部分は、上塗り層に同じ転写方法か筆で描きなおし、ようやく画家は漆喰が乾燥するまでに、水で顔料を溶かして絵を描き始める。漆喰の乾燥とともに顔料は漆喰にしみこんで定着し、堅牢な壁画が出来上がる(したがって構成の美術専門の盗賊が、フレスコ画の色彩や絵を実際に損ねることなく、作品の「一片」を剥離することが可能であった)。フレスコが制作に要した日数は、たいてい一日分の仕事(ジョルナータ)を示す漆喰の継ぎ目から判断できる。真正フレスコの顔料では不可能な効果の表現や細部の仕上げは、最後に「乾いた」顔料または「フレスコ・セッコ」(乾いたフレスコ)で加筆することができる。これは乾いた漆喰面に(固着剤を加えた)顔料で描く技法で、画面全体をこの方法で制作したもっとも有名な作例がダ・ヴィンチの「最後の晩餐」である。プレトン、ゲオルギオス・ゲミストス(1355-1452):ビアビザンツ末期の主要な思想家で、イタリア・ルネサンスにおそらく決定的な影響を与えた。彼は生涯の大半を、ペロポネソス半島のミストラの文化的中心地で過ごした。そこで彼は、奇妙なプラトン哲学を発展させ、それを『法律』で詳述したが、どうやら彼は古典古代の多神論への回帰を擁護したように思われる。1438-39年に彼は、皇帝ヨハネス8世に随行して、フィレンツェ公会議に出席した。そこで彼は、当地の人文主義者たちに深い印象を与えたようである。恐らくこのことをきっかけとしてコジモ・デ・メディチはプラトンの翻訳を熱心に奨励することに熱中するようになり、且つ又ストラボンの『地理書』Geographiaがイタリアで知られるようになったのである。彼の『プラトン哲学とアリストテレス哲学の相違について』(1439)は、フィレンツェとローまでのプラトンの著作の研究を触発したが、ルネサンス・プラトン主義を生んだのは、この研究なのである。プロティノス:(c204-270):ギリシャ語で著作を書いた、エジプトの異教的哲学者で、古代におけるプラトンの最も重要な後継者。54編の短い哲学的論考からなる彼の仕事は、一つの著作にまとめられ『エンネアデス』と題されている。プロティノスは、プラトンの哲学を体系化し、他の古代の哲学的・宗教的伝統に由来する多くの要素を自ら組み入れて総合した。プロティノスの新プラトン主義は神秘的で極めて直感的な特質を持ち、神の絶対的な超越性と一性、および思惟を介して神的な本質に与る人間の霊的可能性を強調するものであった。古代においては、アウグスティヌス(354-430)や偽ディオニュシオス(5c)の諸著作に影響を与えたが、『エンネアデス』が中世を通して直接的に知られることはなかった。そのギリシャ語テクストは15世紀に発見され、フィチーノによってラテン語に翻訳された。フィチーノはまた詳細な注解を施している。ギリシャ語テクストの初版は1580年にバーゼルで刊行された。プロティノスの著作はルネサンス期に広く流布し、プラトンの新プラトン的解釈に重要できわめて思弁的なニュアンスを加えた。文学:ダンテが『神曲』の永遠の今として選んだ年1300年と、ブルーノが異端の嫌疑のためにローまで火刑に処せられた1600年との間に横たわる数世紀に、イタリアはヨーロッパ全体の模範となるような文学やその他学芸を生み出した。14世紀の偉大な著作家たちは中世末期の文明を要約していると同時に、一方ではゴシック的完成やスコラ的専門家の終焉をも予告していた。ここに至って力点は教育へと推移し始めた。しかも、それは「人文学研究」に基づく文学的傾向を帯びていた。またそれは世俗的な古代および自然界の再評価を伴うものであったため、15世紀と16世紀に対してはルネサンスと言う問題をはらんだ名称が与えられることとなった。暗黒の千年間を経て、古典古代の諸価値が再生したと言う考えは、ペトラルカによって表明されていた。ペトラルカはダンテやボッカチオとともに「3大作家」と呼ばれ、トスカーナ語を地方の諸俗語の中から卓越した地位に高め、イタリア文学の規範を築いた。 ダンテの『神曲』は、ファッツィオ・デッリ・ウベルティの『ディッタモンド』のような14世紀の韻文作品の手本となったが、ペトラルカとボッカチオの俗語およびラテン語作品の影響はより広範で直接的であった。文人・学者の典型であったペトラルカは、中世および古典古代の形式を用いて執筆したが、彼の活動が来るべきルネサンスに大きな影響を与えた。ペトラルカのラテン語書簡及び牧歌、対話編、叙事詩、喜劇といったジャンルが人文主義者の著作の指針となったように、彼の『カンツォニエーレ』は恋愛詩の道を切り開いた。ボッカチオは、伝統的な短編物語集に文学的な形式を与え、中世フィレンツェの商人階層や都市社会のポートレイトを創造するとともに、封建時代の宮廷的な生き方を郷愁をこめて描いた(この宮廷的な生き方は、ルネサンスの作家たちの想像力をかきたて続けた)。『デカメロン』の後には、サッケッティの『小噺三百』やセル・ジョヴァンニの『ペコローネ』、その他の短編物語集が続いた。ボッカチオのその他の散文及び韻文作品も、同様に大きな影響力を持った。ボッカチオは、キケロ風から庶民風に至るまで、幅広い散文作品を書き、また物語手段としての「八行詩節」を洗練することによって将来の文学を形成したが、彼の古典神話及び歴史に関するラテン語作品もまた、同様の影響を及ぼした。14世紀を通じて襲来した不幸な一連の疫病や飢饉、経済危機は、ボッカチオやペトラルカの晩年の作品、およびペトラルカ流群小詩人たちの作品に影響を与えた。こうした危機の状況はまた、現世に対する幻滅や霊的使命を俗語で熱烈に表現した、宗教文学に対しても刺激となった。たとえば、シエナの聖カテリーナは、宗教的改心を説く神秘的な祈りや書簡、対話作品を極めて熱のこもった調子で著した。 1374年のペトラルカの死から約百年後のポリツィアーノの登場まで、イタリアの詩は生彩を欠いていたが、15世紀における文学作品の生産は活発であった。15世紀の最初の数十年間の成果は、散逸したテクストないし誤写をこうむったテクストの再発見・修復であり、ラテン語学者及び著作家らによる文献学及び文体の完成であり、ギリシャ語文献の研究開始であった。人文主義運動と市民生活及び社会制度との連携は、フィレンツェ共和国書記長官サルターティによって緒についた。これをブルーニやブラッチョリーニといった弟子たちが継承し、テクストの修復や歴史記述という新しい学問に大きな貢献をなした。ミラノやフェラーラ、マントヴァなどの公国、ナポリ王国、教皇領もまた人文主義的な文学研究を奨励したが、時にヴァッラの場合のように(コンスタンティヌス帝の寄進状の真贋に関してなど)過激な文献学的帰結にたどり着いた。15世紀も後期に入ると、古典文学ジャンルの新たな支配が確立され、たとえばフィレンツェのフィチーノのアカデミーなどいくつかの拠点では、人文主義的文学研究はますます観想的性格を強めるようになった。ラテン語の文体の変化は、必然的にイタリア文学に影響し、優れたラテン著作家の何人かは同時に、最高の俗語作品の著者でもあった。こうした卓越した俗語作品の例としては、アルベルティのトスカーナ語対話編『家族論』やサンナザーロ作『アルカディア』、ポリツィアーノ作『騎馬試合のスタンツェ』が挙げられよう。大衆文学は田園風抒情詩や笑劇、都市の宗教劇などの分野で開花した。ロレンツォ・デ・メディチやその他の作家たちは、こうした大衆文学の形式をより洗練された主題のためにも利用した。マズッチョ・サレルニターノとその同時代人たちは、依然として根強い短編物語への要請にこたえた。大衆文学の最も活力に満ちた形態は、フランスからイタリアに移入されたカロリング王朝やアーサー王の物語で、プルチの『モルガンテ』やボイアルドの『恋するオルランド』に代表される八行詩節の叙事物語として新しい文学的地位を獲得した。 16世紀ともなると、俗語文学はその最盛期を迎えた。「高尚な」洗練された現代語の形態をめぐって激しい「言語論争」が繰り広げられたが、14世紀の古典の例が現代語の慣用の中に吸収同化された。古典作品を競って模倣することが、大多数の文学的試みの基準となり、素材とジャンルの多様な融合を引き起こした(この混合・融合が、盛期ルネサンスの特徴である)。近代劇は、ギリシャ・ラテン演劇と中世の物語及び見世物とを融合して、フェラーラやフィレンツェで産声を上げた。マキアヴェリとグイッチャルディーニは同時代の事件を扱い、(政策や心理の観点から)古代史と比較しながら考察することによって新しい歴史観を提示した。カスティリオーネはプラトンやキケロらの対話編をモデルとして、ルネサンスの宮廷社会のイメージを描き出した。ボイアルドの『恋するオルランド』を継承する形でアリオストは作品を書いたが、オウィディウスやウェルギリウスそして「言語論争」へのベンボの回答から学び取った教えのいくつかを、その叙事物語『狂乱のオルランド』の中で生かした。16世紀の数知れない抒情詩人たちの大多数は、レオーネ・エブレーオと彼の後継者たちの新プラトン的愛の理論からも、ベンボからも等しく影響を受けた。 そうした理論や宗教改革の精神が契機となって、16世紀のヴィットーリア・コロンナやミケランジェロ、デッラ・カーサの抒情詩では、ペトラルカ的伝統に内在していた特質がより鮮明なものとなった。ブルーノの抒情詩にいたると、哲学的な要素が究めて過剰となるが、他方、その機知と奇抜な発想、風刺などはベルニ、さらに後にはマニエリストたちによって引き継がれ、ジャンバッティスタ・マリーノ(1569-1625)に連なる道を整えた。劇作品と並んで、短編物語も成功を収めた(演劇は短編物語から話の筋を借用していた)。とりわけグラッツィーニのようなフィレンツェ作家は、猥雑な俗語表現に向かう傾向を示したが、ジラルディやバンデッロの教訓的かつ悲劇的で扇情的な傾向とは好対照を成している。アカデミーの数が増加するにつれて、確立された新古典的文学の規範は、反アカデミー主義者の挑戦を受けることになった。こうした挑戦は、アレティーノのような多産な便宜屋的物書きやドーニのような奇想作家、チェッリーニのような独学の独善的山師など、「不正規兵」とでもいうべき個人によっても行われた。 16世紀後期は批評の世紀として知られている。アリストテレス『詩学』が修復されたテクストによって流布し、これが火種となって理論的著作が爆発的勢いで現れたからである。フレンチェスコ・ロボルテッロの注釈(1548)に続いて、G.C.スカリージェロやカステルヴェトロなどの論著が刊行され、後の新古典主義理論や文芸批評という近代的「学問」の基礎が築かれた。こうした機運の中で、タッソは『解放されたエルサレム』を執筆・改訂し、自作を弁護した。トレントの公会議は、宗教改革へのカトリック側の回答を用意したが、著作家達は教会の再統一政策の奉仕者としてかり出される事となった。他方、印刷術の普及は、文学作品に未曾有の伝達力を与え、翻訳やアンソロジー、文化的自立の手段となるその他書物の刊行を促進した。 時代精神の趨勢に従って、新たな中世主義とも呼ぶべき普遍性再評価の動きが生じ、形式の歴史的洗練に対する新古典的愛着(この愛着は、人文主義が獲得したもの)と結びついた。また、この新たな中世主義は、過去2世紀間の俗語文学とも結びついた。対抗意識と否定の姿勢とはしばしば同居しているものだが、それらは逆説の文学に寄与した。そして、対象法と言うありふれた修辞技法が、一つの心理状態の表現にまでなった。形式に内在する極端な緊張(すなわちかどにまで推し進められた粉飾法、誇張法、奇想などの技法)は17世紀にいたってようやく完成されるものではあるが、タッソやグァリーニ、ブルーノらの奇抜な文体にはこうした特長がすでに観察される為、バロック文学の先駆とみなされている。文芸理論:ルネサンスの文芸理論は、人文主義者たちの論争から、プラトン=フィチーノ的な理想美の概念を受け継いだ。また、模倣の原理を発展させ、古典修辞学から文芸作品の諸規則を引き出し、練り上げた。詩学と文法、修辞学、歴史、道徳哲学の間の関係については、さまざまな立場が共存した。16世紀前半を通して、モデルの模倣が文芸理論の中心的トピックであった。ラテン語韻文ではウェルギリウス、ラテン語散文ではキケロ、俗語韻文ではペトラルカ、俗語散文ではボッカチオがモデルとされた。これらはベンボが理想とした作家であり、彼は言語(文法と修辞)の問題を最重要視した。ラテン語に関しては、理論・実践の両面において、ヴィーダの著作が例となり、模倣の理想を示してくれる。ヴィーダは叙事詩がもっとも崇高なジャンルだと考え、ウェルギリウスを最も洗練されたモデルであるとみなした(1527)ヴィーダにとってのウェルギリウスは、ベンボの同志……。文武:戦いに励む人生か、学問や著述に励む人生か。どちらにより価値があるか、15世紀から盛んに議論の対象となった。現実が、戦争を傭兵で済ませる寡頭制的共和国と、統治者と廷臣が自ら戦いに望む国家に分離している事もあって、議論はいくらか白熱した。理想とされた尾は両者の組み合わせであった。それゆえ、1476年に描かれた肖像画では、傭兵隊長フェディーコ(ウルビーノ公)は、武具をつけたまま写本に目を通している。カエサルが武器によって為した輝かしい業績は、もし筆を振るっていなければ記憶されたであろうか。文武をめぐる議論は普通こうした均衡のほうに収斂して行った(カスティリオーネの『宮廷人』も例外ではない)。これは武装した文官より教養ある軍人を養成しようという教育理論の大きなうねりを反映している。ペスト:ペストはイタリアでは8世紀以来絶滅していたが、1347年10月に東方貿易ルート伝いに再び現れてイタリア半島を襲い、その後全ヨーロッパに広まった。1348年の1年間、黒死病はリンパ腺腫やさらにはもっと致命的な敗血症や肺ペストの症状を引き起こしつつ、次々に発生して町や村を襲った。その恐怖についてはボッカチオが『デカメロン』の序文で印象的に描写している。これ以来、最初のときほどには広まらず、もっと散発的な発生ではあったとはいえ、ペストは18世紀まで周期的に流行した。たとえば1575-77年の流行ではベネチアの人口の30%が死んだ。パッラーディオの作ったレデントーレ(救世主)聖堂は、このときのペストの終息を記念したものである。予防策としては感染した家族を蟄居させる事、ペスト病院に患者を隔離する事、「感染した」衣類を焼却する事などが考えられていたが、どれも効き目は無く、絶望感を軽減してくれる事も無かった。ペストの社会的影響は論議の種である。しかしおそらくは14世紀の後半にペストがイタリアの人口を半減させ、フィレンツェやジェノヴァのように経済的中心地であったいくつかの都市では、すでに1340年代に生じていた経済不況が一層顕著になった。15世紀になっても、地方により多少差異はあったものの、1470年代以前に人口が著しく増加し始めたといことは、ありそうにもない。 美術とメンタリティに関する分野では、ペストの影響力を大きなものと見る主張が為されて来ている。1348年から1380年までのフィレンツェとシエナでは、宗教感情とそれを反映する美術とがより暗鬱な形を取って、以前ほど信仰の中の人間的な側面を反映しなくなり、その分神的・超絶的で不安をそそる側面を反映するようになったと思われる。しかしながらクマネズミとこれにたかってペストを運ぶ蚤にとっては、美術のパトロンである金持ちの石造りの家よりも、貧民のあばら家の方が居心地の良い環境となりえた(その上、金持ちはしばしばペストの発生した地域から引っ越す事もできた)。恐らくはこのために、トスカーナ以外ではペストに起因すると考えられる文化的変化の証拠を見出す事が難しい。そして15,16世紀のイタリアでこの病気が美術に与えた主たる影響と言えば、ペストから守護してくれる聖人たち、聖ロクスと聖セバスティアヌスが頻繁に描かれたと言う事くらいであろう。それにもかかわらず、ルネサンスの人間的な業績が生まれるにいたった背景には、明らかにペストの持続的な脅威があったと言う事を思うと興味深い。ベッサリオン枢機卿(c1403-72):博識な教会人、人文主義者、そして手稿の収集家。トレビゾンド(ギリシャ)に生まれ、東西教会の絆を深めるために、フェラーラとフィレンツェの公会議(1438-39)に赴いた。1439年に枢機卿に任命されてからイタリアに居を構え、数多くの外交と行政面において教皇庁に仕えた。彼はまた、同時代の主要なイタリア人及びギリシャ移民の人文主義者たちの大部分にとって、庇護者にして友人であった。彼自身の書いたものとしては、プラトン哲学に関する諸著作及びギリシャ語からラテン語への翻訳がある。彼は1468年にベネチア共和国に遺贈したギリシャ語手稿の収集は、サン・マルコ図書館の中核になった。彼はラヴェンナで逝去した。