2009年4月2日木曜日

ルネサンス事典(抜粋) 5

パラッツォ:バルバロ、エルモラーオ(1453-93):アルモーロ・ディ・ザッカリーアは、古代哲学のテクストに人文主義の文献学的技法を適用する「哲学的文化」の主たる先駆者であった。ベネチア貴族である彼は教師や国家の役人としての生涯を送った。1491年、ローマ大使であった時、彼はインノケンティウス8世によってアクイレーイアの総大司教に任命されたが、ベネチア政府は彼がこの職を受諾する事を許可せず、彼は亡命中に死去した。彼は百科全書的な関心の持ち主であり、科学に造詣が深く、植物学者として活動するとともに、美的感受性も強かった。アリストテレス学者として、彼はこの哲学者の意味を彼が利用できる語彙によって説明しようとした。また、アリストテレスの諸著作を、大学の学部で教えられている断片だけでなく、全体として研究する必要性を強調した。彼の最も野心的な著作は『プリニウス修正』であり、同書で『博物誌』の数多くのそれまで意味不明だった箇所を、ギリシャ語とラテン語の語源学についての深い造詣によって解明している。犯罪:犯罪というものはヒトが(あるいはとりわけて政府当局が)定義する。その為には多くの指針がある。即ち宗教的伝統、脈々と受け継がれてきた社会的・経済的慣習や価値尺度、それに、いかなる種類の行為であれば所与の住民集団が罪と認めて処罰に同意しそうか、という漠然とした認識である。ルネサンス期イタリアの諸都市は、他の点ではきわめて多様で個性的であるのに、犯罪の定義とその行為への対応については強い類似性を示す傾向にあった。これは、これらの都市がぎょうせい・司法について同じような発展段階を経てきたことを反映しているのである。  歴史家は大別すると3種類の史料を用いて、ルネサンス期の犯罪を研究している。(1)都市法令集。公法の内容と有効な刑罰についての詳細な情報を与えてくれる。(2)裁判記録。法がどのように執行されていたか(あるいはいなかったか)を正確に判断する助けとなる。(3)補助史料。たとえば犯罪行為や法の執行に関する同時代の年代記の記述、同様の関心を反映した日記や覚書、悪というものの問題の一部としてこの論題を取り上げた道徳哲学の論文などである概してこうした史料は、理想主義の革命論者や飢えた夜盗、神を冒涜した罪で舌を切られるというので半狂乱の職人、或いは魔女の罪で徐々に焼き殺される計に処せられた老女などが犯罪をどう見ていたかを、我々に教えてはくれない。むしろ犯罪を引き起こされた社会の側の視点から犯罪を見せるのである。しかしこのような人々の声も時には記録の中に現れ、複雑で悩める社会の人々が非常に多様であったことを目の当たりにさせてくれる。彼らは衣食住にも事欠き、何よりも無学である。ルネサンス期の犯罪者はしばしば、残酷なまでに弱者を省みない社会の犠牲者であった。  ルネサンス期の法令集は、政治的・社会的秩序に対する脅迫的な関心を反映している。こうした秩序を脅かす者、特に陰謀を巡らす者は死刑か少なくとも追放に処せられた。大逆罪は、それが幼い君主を穏やかに批判しただけであっても、最悪の報復をもたらす可能性があった。また、殺人や放火から強盗、偽造、多種多様な性犯罪に至るまで、もろもろの犯罪に死刑が適用された。刑罰の過酷さは一般に「同害刑法」(目には目を)の考えによってのみならず、犯罪を抑止するという理屈によっても正当化されていた。このため多くの死刑が公衆の面前で実行されたのである。こうした慣行の背後にあるメンタリティというものは、15世紀のいくつかの都市当局の決定に見られる。すなわち犠牲者となるはずの人間が逃げおおせてしまった場合に、公共の建物の壁面に死刑を宣告された人物の絵を描くことになっていたのである。これらの「さらし絵」は、当時でももっとも短命な絵画であった。しかし、現存しているものも一つならずあることが分かっている。  確かに家の財産と社会的地位があれば、法の完全な執行を容易に免れた。特に性犯罪の場合がそうであった。こうした犯罪では、同じ違法行為でも男が犯した場合と女が犯した場合とでは、社会もまた凡そ異なった判断を下した。たとえ都市政府の権威がしばしば不安定であったにせよ、その政府の司法システムは実に有効に公的秩序を守る機能を果たした。法を犯したものを更正させることはおろか、監禁するための大規模な施設も一般には無かったという状況を考えれば、これは実に驚くべきことである。ルネサンス期の最も成功した犯罪者は、おそらく盗賊であったろう。彼らは文明の狭間に巣食い、どこにでも動けて知性にも明るい有利さを生かして、土地と無力なおびえた農民とを食い物にしていたのである。ピウス2世:ビザンツ帝国:ローマ帝国は既に330年にコンスタンティヌス帝によって新しい首都(コンスタンティノープル)を与えられていたが、その帝国の東半分が何時の時点でギリシャ的な中世のビザンツ帝国になったかについては、歴史家は意見の一致を見ていない。というのも東の帝国においては連続性は1453年まで破られておらず、また丁度歴代の皇帝達がアウグストゥスとコンスタンティヌスを解雇し続けたように、文学者はホメロスやトゥキュディデスという基準を維持する試みをやめなかったからである。14世紀半ばまで西欧人は、それが論理学であれ神学や神秘主義であれ、ただその実際の内容のためだけにギリシャ語の著作についてずっと関心を抱き続けた。ペトラルカとボッカチオはギリシャ文学の美的特質を鑑賞するためにギリシャ語を習いたいと願った最初のラテン人だったように思われる。それまで何世紀もの間、そういう人間は出なかったのである。二人がその能力の十分にある教師を見つけようとした時の困難さには驚くべきものがあった。1342年にアヴィニョンでペトラルカに授業をしたカラブリアの修道士バルラームは、熟達した数学者・論理学者であった。彼は後にナポリでパオロ・ディ・ペルージャ(1348没)が異教の神話についての著作を刊行するに当たり、これを援助できた人であった。しかしギリシャ語の研究が人文主義者によって有効な形で行われるようになったのは、サルターティが1397年にクリソロラスにフィレンツェで講義をするように依頼してからのことであった。クリュソロラスは人文主義者と類似した文学的関心を抱いていたことから、イタリア人に対してギリシャ世界を読み解いて見せることが出来た。彼の弟子たち、特にブルーニとヴェルジェーリオは次の世代の指導的人文主義者となった。中世におけるラテン人とギリシャ人の間のやり取りの主要な題目は教会組織の相違に関するものであったが、それはカトリック教会と正教会との間の分裂状態へと次第に硬化して行った。再統合の問題は1054年から1439年の間に少なくとも30回は論議された。この交渉の殆どが結局政治的にも知的にも不毛なものと分かったが、ビザンツ帝国の状態が絶望的になるにつれて西方との接触はますます緊密になった。ビザンツ皇帝ヨアンネス5世は1369年から71年までイタリアで過ごし、一人のカトリック教徒となって死を迎えた。またマヌエル2世は援助を求めてヨーロッパをめぐり、1399年から1403年までミラノ、パリ、ロンドンを訪れた。  ビザンツ帝国の最後の世紀には目覚しい芸術的な開花が見られ、それと初期ルネサンス美術との共通した特徴はまだ十分には説明されていない。ギリシャ人は西欧の思想を1360年ごろから認めるようになったが、そのころデメトリオス・キュドネスがトマス・アクィナスを翻訳した。こうしてフェラーラ=フィレンツェ公会議でのギリシャ人とイタリア人との出会いにおいては、以前よりもずっと心温まる雰囲気がかもし出された。人文主義者はプラトン主義者のゲミストス・プレトンなどのギリシャ人らを古代文化のいける代表として歓迎した。一方ギベルティやゴッツォリのような美術かは、異国的な東方の訪問者の思い出を作品の中に組み入れた。1439年7月6日にフィレンツェ大聖堂で宣言された再統合は、1453年にコンスタンティノープルが陥落する前でさえも、なお実を結ぶことはなかったが、しかしその公会議の文化的刺激は一世代の間感じ取られた。プラトン主義はフィレンツェで根付いた。ベッサリオンは西欧に定住してベネチアに蔵書館を残した。ベネチアではクレタ島を追放された人々のグループが、ギリシャ語の活気ある研究の継続に貢献した。ギリシャ語の講義が1463年にパドヴァに設置され、マルコス・ムスロス(1517没)がアルドゥスのために、印刷された最初のギリシャ語テクストを編集した。コンスタンティノープルにおいて古代は決して死滅してはいなかったわけであるから、西欧のルネサンスと比べられるようなビザンツ・ルネサンスはありえなかった。ビザンツ人たちの果たした役割は、世界に対する蔵書家としての役割であった。美術家の社会的地位:ルネサンス期全般を通じて、美術家の大半は社会的にはかなり低い身分の出であった。したがってブルネレスキ(公証人の子)、アルベルティ(貴族)、レオナルド(公証人の庶子)、ティツィアーノ(ヴェーネト地方の名家)、ミケランジェロ(貴族)らの出自は例外である。事実ミケランジェロの父親は、息子が選んだ道を貴族であるブオナローティ家の名誉にかかわるスキャンダルとみなした。試みに1420年から1540年にかけて活動した136名の画家、彫刻家、そして建築家を取り上げると、うち96名は職人あるいは小売商人の子弟であった。しかもかれらは 強制的に各同業者組合(画家は医師・薬種小組合、彫刻家は石工・木工組合)の一員であることを義務付けられ、社会階層の中でも低い地位に置かれていた。美術家が始めて組合の法的制約から解放されたのは、フィレンツェで1571年にトスカーナ大公の勅令が交付されたときであった。最も美術家の社会的地位がいかなるものであれ、14世紀におけるダンテのジョット礼賛以降美術か個人が広く名声を得る事例も現れる。フィリッポ・ヴィッラーニが『フィレンツェ年代記』(c1340)に画家数名の人名を記述したころから、明らかに社会は美術家に対して、鍛冶屋や大工の技量を評価するのとは別種の敬意を払うようになった。  さらに15世紀を通じてさまざまな複合的要因が、美術と美術家に対する公衆の関心を昂揚させた。その要因とは以下に列記すると、人文主義者が、プリニウスの『博物誌』中に、中世以前の美術家が社会的に尊敬されていたという記述を再発見したこと。優れた美術を攻勢するのは、実践的な訓練や手のわざと同じく、美術家の知性および理論的な原理の把握であると認識されるようになったこと(大部分はアルベルティの著作の感化であるが)。ミケランジェロを「神のごとき」と形容するようになる、芸術家の、記録するだけでなく創造する神のような能力、すなわち個人的天才という概念が生じたこと。そしてカスティリオーネが『廷臣論』の中で、当時の貴族社会における自然の関心事として彫刻と絵画の優劣比較を通じ、画家ラファエロとの友情を強調し、さらには宮廷人に絵を描くように勧めている(それまでは音楽のみが上流人士のたしなみとされていた)ことなどである。ただし宮廷人に絵を勧めるのは、スケッチが事実上有益であるという、厳密には高利的な目的からの発言である。  美術家の社会的地位は、ヴァザーリによって新たなる段階を迎える。ヴァザーリは『美術家列伝』中に、王侯貴族が美術家に大いなる敬意を払った事例を喧伝している。たとえば、フランス王フランソワ1世が臨終のレオナルドを腕の中に抱いたとか、神聖ローマ皇帝カール5世がティツィアーノに賞賛の言葉を惜しまなかったという逸話である。ティツィアーノはそれまでに、ピエトロ・アレティーノという彼の賛美者を獲得し、ロドヴィーコ・ドルチェの『アレティーノと題された絵画についての対話』(1557)の中で始めてその芸術が完全に論じられた。1531年、バンディネッリが自らのささやかな美術学校を「アカデミア」と名づけている。そして1563年、ヨーロッパで初めてその名に値する美術アカデミー(アカデミア・デル・ディセーニョ)がフィレンツェに設立された。また同じ年にトレント公会議は、美術が精神に及ぼす影響力を承認する教令を公布している。  こうした敬意にもかかわらず、ルネサンス期における美術家の社会的地位は、おおむね美術家個人の人柄や成功の度合いに左右されるという、依然としてそれまでのあいまいな状態が続いた。美術家はやはり注文を待ち、パトロンが求めるならば、どんな飾り物であれ手を染めるのが当然と思われる、単なる職人に過ぎなかった。したがって美術家がより高い社会的地位を得るチャンスは、実際のところ……今日の美術家の場合とあまり違わない状態であった。美術理論:フィチーノ、マルシリオ(1433-99):ルネサンス=新プラトン主義の最も重要な創始者。人文学と医学を学んだ後に、1450年代にギリシャ語学習に取り掛かった。1462年以降、コジモ・デ・メディチが彼の気前のよいパトロンとなったが、それはプラトンのラテン語訳を所有したいというコジモの切望をフィチーノがかなえてくれると期待したからであった。1463年から69年の間に、フィチーノはプラトンの対話編を翻訳した。こうしてフィチーノはプラトンの思想が西欧に始めて知られるようになり、ルネサンスのプラトン主義の主要な道具を提供することになった。この訳に続いて、フィチーノは彼自身の重要な哲学的作品『プラトン神学 霊魂の不滅について』(1469-74)を書き上げた。この著作は、一般的な形而上学を叙述するとともに、身体からの魂の独立を論じ、統一性、自己充足性そして理性という神の諸特徴を分有するという理由で、魂の不滅を主張した。異教哲学に没頭していたにもかかわらず、フィチーノは1473年に神父となり、つましい聖職身分でロレンツォ・デ・メディチの支援を受けた。フィチーノは1494年にメディチ家支配が妥当されるまで、メディチ家の仲間で構成されたプラトン・アカデミーの主導的な精神であった。1494年以後、サヴォナローラに対する彼の態度はあいまいであった。第2の翻訳に払われた大きな努力は、西欧がそれまで直接的な知識を持たなかった著作家プロティノスについてのものであった。この翻訳およびプロクロスやその他の作者たちの翻訳によって、フィチーノは、彼に続く人たちのために古代末期の新プラトン主義の基礎的テクストを伝えた。この業績は、彼のプラトン訳に比較しうるものである。  『プラトン神学』以外にフィチーノの思想を内包する著作としては、主としてプラトンとプロティノスについての注釈および二つの独創的著作、『キリスト教論』(1474)と『三重生論』(1489)がある。彼の哲学は構成の厳密さを欠くとは言え、新プラトン主義的伝統を極めて力強い仕方で再興している。彼は宇宙を、粗悪で多様な資料から神の純粋な一性と不可分性へと上昇する存在の位階とみなす。被造物は、この階層のさまざまな地点に広がっている。純粋な思惟の能力を持つ人間の魂は、この階層の中心点にある。人生の目的とは、魂をできる限り質料から自由にし、できるだけ神の近くへと上昇させることである。フィチーノは、意志と理性の二つの翼に支えられて神へと上昇する魂のイメージを普及させた。さらに、人間の最高の活動は観想であり、それによって才能ある人間は物質から解放される、という思想の普及も彼に負うものである。  フィチーノは、ルネサンス思想で重要視されることになった、異教思想とキリスト教思想とのさまざまな矛盾をはらんだ融合に対して責任を負っている。プラトンの『饗宴』への初期の注解で、彼は愛の理論を展開した。人間への愛情である「プラトン的愛」は真の精神的愛に近づくことができ、それへの道を開くことができる。フィチーノがとりわけ関心を持ったのは、キリスト教徒それ以前の宗教との関係であった。ギリシャ人やエジプト人などのキリスト教以前の古代人たちの著作はキリスト教的真理を暗示する太古の神学を体現している、と彼は信じた。キリスト教が唯一無二なものであると確信しながらも、彼は、キリスト教を一般の宗教の世界の中に位置づけようとした先駆者の一人である。彼はまた、古代末期のヘルメス文書を重視し、その中のいくつかを翻訳したが、それはこれらの文書が古代末期よりもはるか前に書いた、太古の知恵の宝庫であると、彼が誤って信じたからである。これらの文書は、魔術に関する彼の関心を刺激し、特に『三重生論』で魔術の実践の擁護へと彼を向かわせた。彼はまた、占星術にも関心を持っていた。これらの傾向のために、彼は最晩年に、ローマで教会からの理解しうる嫌疑を受けることになった。彼がこの嫌疑から自由になるには、若干の困難が伴った。フィレンツェ:1338年、ジョヴァンニ・ヴィッラーニはフィレンツェの人口を9万人と概算したが、その数字はイタリアで最も繁栄している経済に便乗した恒常的な人口流入の頂点を反映するものであった。そのころに行われたばかりの建築事業としては、市壁の3回目の拡張、パラッツォ・ヴェッキオ(市庁舎)、ポンテ・ヴェッキオの改築、大聖堂とその鐘楼、それぞれドミニコ会とフランシスコ会のために特に建てられたサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂とサンタ・クローチェ聖堂などがあった。12世紀以後、独立したコムーネ(自治都市)が聖俗の土地領主をしっかりと統制していたが、1338年当時になると新たに台頭した富裕な商人が農場を買占め、そこに自分のためにヴィッラを建て始めた。1282年より都市自体の内部にいる豪族(マニャーティ)層が政治的に無力化され、ギルドの構成員(銀行、商人、手工業者など)だけが都市の官吏となる資格を得た。1293年のさらなる反豪族法(正義の規定)制定に強化されて、都市の政府は都市の富を創造しているものたちによって運営された。  しかし、政体が如何に合理的で、党派の出現や個人的野心の追及を防ぐため、如何にうまく考案されていようとも、ヴィッラーニの時代の都市社会は暴力的で分裂していた。土地所有から得る富や好戦的な性格のおかげで、マニャーティは甘言やら出任せやらで支持を取り付けたクライアント(有力者の被保護・支持者)を通して、かなりの間接的権力を得る事ができた。法律は決してマニャーティのためのものではなかったが、彼らは法を威圧することができた。彼らの私闘(フェーデ)は市民生活を市内戦のようにしていたように思われる。ダンテは、グエルフ党の黒派(教皇庁の支持を受けたタカ派)がハト派の白派に対して勝利したとき、味方する側を誤っていたために1301年に追放された。そして、グエルフ党の町としてフィレンツェは、皇帝がイタリアに軍隊を派遣したり、その支持者たちを促してグエルフ党の隣人たちを苦しめさせたりするたびに起きた対外的な危機にさらされた。こうして1315年、フィレンツェ軍はモンテカティーニでピサのギベリン党に敗れ、1325年にもアルトパーショでやはりギベリン党のカストルッチョ・カストラカーニに惨敗した。同市がこの挑戦に応じることは社会内部の対立によって不可能になり、その内紛状態を打開するために、国家機構を一時的に停止して行政上の権限を外国人であるカラブリア公カルロすなわちナポリ王ロベルトの息子に認めるという、最後の非常手段がとられることになった。これは、それまでに多くのコムーネがシニョリーア(僭主制)に変えられるにいたっていた措置であった。そして、長続きはしなかったものの、政府は1342年から43年にかけても同じ試みをしなければならなかったのである。  このとき、バルディやペルッツィという商会の破産で悪化した経済的危機を処理しそこねたことによって政府の無力さが,一層明らかになった。しかしながら新救世主のアテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌはあまりにも尊大だったので、一年もしないうちにあらゆる社会集団が連携して彼を追放した。1348年に黒死病が人口の半分近くを殺戮して打撃を与えた時期は、社会的緊張のため政府が身動きならなくなるのを阻止しようとする穏当な決定が目立ったときであった。疫病がもっとも大きな打撃を与えたのが最も貧しく生産活動に従事しない住民であったこともあって、経済の復興は緩やかではあったが目覚しかった。だが膨張主義国家のミラノとの戦いがまもなく起こり、1375年にはアヴィニョンにあった教皇権に対する悪評高い戦争、すなわち8聖人戦争が続いた。当時、政府を牛耳っていた党派によって、教皇は教皇領を通ってアドリア海に至るフィレンツェの通商路を脅かされていると考えられたのである。戦費調達のための食料品課税は貧困者を、特にいずれにしても所得の低かったチョンピ(都市最大の産業であった毛織物業の日雇い労働者)を新たな絶望のふちに追い込んだ。1378年、彼らは反乱を起こし、政府に迫って参政権を自分たちにまで拡大させたが、それも政府が彼らに脅威を感じた数週間に過ぎなかった。  国内的にはこれは重要な日付である。つまり、このときから1494年まで、富裕な商人家門とマニャーティ(ギルドに加入すれば官職につくことが許されるという抜け道を利用して)とが、「庶民」(ポポロ・ミヌーティ)からの自衛手段として協力することによって、政府は徐々に寡頭政治の性格を帯びていった。対外的にはミラノとの一連の戦争の最中に無力となってしまった。1402年、ヴィスコンティに殆ど征服されかかっていたそのときに、フィレンツェはジャンガレアッツォ公の死で救われた。数年後、二度にわたるナポリの攻撃をかわしている。1425年、フィレンツェは新たにイタリアの内陸勢力となったベネチアと同盟し、ヴィスオンティの勢力拡大の新たな脅威を退けたところであった。しかも同じころ、征服あるいは購入によって、アレッツォ(1384)、モンテプルチャーノ(1390)、コルトーナ(1411)、ピサ(1406)、リヴォルノ(1421)と、トスカーナ地方におけるフィレンツェの支配力は拡大していた。領土拡張主義の弾みがついた同共和国は、1428年にミラノと和睦するや否や、しぶとく独立を保つルッカを征服しようとした。それは費用がかかった挙句に失敗し、責任者である寡頭支配層の一派、特にその党派の主導者リナルド・デリ・アルビッツィに非難が集中した。この非難に対する彼の返答は、1433年に反対派の中心的な指導者コジモ・デ・メディチの追放となって表れた。しかしアルビッツィへの支持は減る一方であった。その翌年、彼自身が追放され、コジモはフィレンツェに凱旋したのである。  1343年と1378年の危機の後と同様に1434年にも、今度は一人の人物を中心に体制をつくろうという動きがあったこの人物は慎重に顧客関係を作り上げ、旧来の貴族であろうと新しい富裕層であろうと、フィレンツェ人が生活や資産に関して尊重するという価値観を代表していた。党の人物コジモは政体を巧みに利用しており、マフィア的な意味での「親分」であることは、死後の1464年に「祖国の父」という敬称を共和国の決議で与えられるはるか前に容認されていた。それは支障なく行われた。以前から公認されていたことでもあった。そしてこれは効果があった。それほどに社会内部の構想は静まることがなく、コジモが、当時彼のクライアントで友人でもあったフランチェスコ・スフォルツァ支配下の旧敵ミラノとフィレンツェとの和議を結ばせたときでさえ、フィレンツェの対外関係は安定することがなかったのである。というのも、彼の銀行家としての富は、フィレンツェに前例を見ない最大の居館を立てて、大方の嫉妬を買う危険があったときでさえ、殆どの事柄に自分の意見を通すことができた決定的要素であった。しかもそれらは、結局は大部分がひとつの階層の意見であった。したがって、彼の死に際して息子ピエロがこの変わらぬ共和政体の舵取りを引き継ぐというのも、それまでコジモを支持してきた、あるいはあからさまに彼に反対するのは避けてきた人々の同意によるものであった。ピエロは父の威厳のある親しみやすさは持ち合わせておらず、1466年には体制内部から挑戦を受けることになった。しかし1434年の時のように自己防衛の本能がイデオロギーに打ち勝ち、ピエロが1469年に死ぬと、後継者は異論をさしはさむ予知なく彼の20歳になる息子ロレンツォに決まった。  だがある一族が市政を3世代にわたって支配するとなると当然反動が出てくる。それが最も激しい形で表出したのが1478年にロレンツォ暗殺を謀ったパッツィ家の陰謀とその直後の戦争で、このとき、ともにフィレンツェの敵であるシクストゥス4世とナポリ王フェランテはそろって、ロレンツォが非合法的に支配するフィレンツェではなくロレンツォ自身を攻撃することを主張した。結局はロレンツォの死後から2年経って彼の息子ピエロがフィレンツェを追われ、拡大議会制の政治形態がとられることになる。この体制はサヴォナローラに支持されており、今回に限っては権力の個人への集中はもちろんのこと寡頭支配層への集中も防ぐように考案されていた。  しかしながら、約3千人の市民に議席を与えたこの政体の「民主化」は、イタリア戦争の幕開けとも時を同じくした。必然的に、未経験な人々が短期間の役職につくことから生じた遅延や優柔不断を見て、多くの人間がそれほど平等主義ではなくともより効果的な指導体制を切望した。この方向に向かって正式な一歩が踏み出されたのは、ゴンファロニエーレ(国家主席)が終身職とされ、このベネチアのドージェ(国家元首)と同様の地位にピエロ・ソデリーニが選ばれた1502年のことである。非公式には、重要な役職は(新しく代議権を与えられた人間に黙秘された)旧体制の構成員によって占められた。1512年、教皇ユリウス2世がフィレンツェを自分の反フランス政策(ソデリーニはこれに抵抗した)に従わせようと決意していたころ、親メディチ派には教皇方のスペイン軍によって加えられた圧力に完全に屈服しそうな雰囲気があった。というのもソデリーニは逃亡し、ロレンツォの息子である枢機卿が当主となっていたメディチ家は、当初はただの有力市民として復帰を認められるに過ぎなかったからである。  翌1513年、ジョヴァンニが教皇レオ10世として登極し、さらにハドリアヌス6世在位の後再びメディチ家の教皇クレメンス7世が誕生したことは、フィレンツェ人を君主支配の理念に慣らす助けとなった。ただし、この支配が代理人を通して行われなくなったのは、ようやく1527年から30年までの最後の共和制での最終的な方向転換の後になってからである。アレッサンドロ・デ・メディチの支配によって、フィレンツェもついに数世紀前にシニョーレの支配を受け入れていたコムーネの列に加わった。1537年のアレッサンドロ暗殺によって得られた変化の機会でさえ生かされなかった。コジモ1世からは公家(1569からは大公家)の長い血筋が、絶対的世襲という形で君臨するところとなった。学者たちがつい最近になるまで、共和国時代の14,15世紀ではなく16世紀のフィレンツェの歴史に(そして次第に統合されていったトスカーナの歴史に)なかなか関心を向けようとはしなかったのは、他のコムーネと同様の政体になるのが遅れたことに対する賛辞ととるべきだろう。