2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 4
社会階級シャルル8世修辞学:修辞学とは聴衆に好感を与えたり、説得したりする目的で巧みに言葉を用いる技術。人文主義の誕生に先立って存在したが、特にキケロの『弁論家について』およびキケロ偽書『ヘレンニウスにささげる修辞学』の視点から、新たな考察の対象となった。修辞学はまた、古代のテクストの研究を更に進めるための刺激となり、その研究成果をいかに表現するかという問題の基本的な指針ともなった。 中世のイタリアでは修辞学は「書簡作法」と「公証人文書作法」に分かれていた。「書簡作法」を支えていたのは、書簡作成を職業とする人々で、特に重要なのは書記局の官吏たちであった。「公証人文書作法」が意味するのは、公文書や商取引および婚姻にかかわる契約書などを起草する公証人の技量・能力で、法律に関する議論や法廷弁論の組み立てとますます結びつくようになっていった。ペトラルカ以降の人文主義修辞学は、古代の演説の実例や公の場における弁論に関する理論書に関心を向けた。こうして「書簡作法」「公証人文書作法」の二つは融合され、書面であれ口頭であれ、文体に配慮しながら効果的に議論を展開する技術が生み出された。或る特定の主題や聴衆に対して、全体のスタイルとしてはどのようなものが最適であろうか。文および段落の長さはどうするか。議論を構成する要素を文や段落の中でいかにつり合わせて展開していくか。文、段落などの部分をいかに操作して節を作るか。更には複数の節をいかにくみ合わせるか。こうした考察が修辞学研究の中に含みこまれることになったのである。修辞学は、賞賛を博したいと望む弁論家の要求に奉仕した。話者が法廷の弁論家であるか、議会の政治家であるか、また大学の学期はじめに開講演説を行う学者であるかは問題ではなかった。修辞学の訓練は、適切な口調を発見し、弁論を組み立て、それを記憶する際に役立った。キケロやクインティリアヌスの教えるところでは、何事も完全に知り尽くした上でなければ、議論すべきではなく、実際に身をもって実感したのでなければ、感情は効果的に表現できない。それゆえ、彼らのいう完璧な弁論家とは、広い教養と洗練された感情を兼ね備えた完全な人物を意味していた。人文主義的教育における修辞学重視の傾向は、かくして多彩な哲人実務家という理想にたどり着いた。修辞学は目的に対する著作家の洞察力をも助けた。必ずしも論証形式を取らなくても、著作家の主題は古典に範を仰ぐ何らかの完璧な定式に合致させることが可能だった。主題が歴史なのか伝記なのか、或いは個人の礼賛なのか年の描写なのかは問題ではなかった。すべての題材には、適切な始まりと中間部、終わりがあり、喜びと感銘を与えてくれる言葉で論じられた。 古典古代の文学作品が持つ効果は、如何にして得られたのであろうか。効果的な言葉や句、声調の使用に関して、古典文学から何を学ぶことが出来るのか。人文主義者が古典文学に関心を抱いた主要な動機は、実に修辞学であった。(一般にキケロ)ただ一人を模範とするよりも折衷したほうがいいのかどうか。そうした問題の考察にも、当然のことながら修辞学はたどり着いた。このことが今度は、作家が用いるべき裁量のイタリア語の形態は何かという議論に影響することとなった。修辞的な色彩はまた哲学的な言説の組み立ての中にも広がっていった。理想の弁論家は哲学者であらねばならず、隠して哲学者は弁論術、すなわち修辞学を知っていなければならなかった。 いうまでもなく扱い方を誤ると、文体に対するこだわりは空虚さ・中身の欠如を生み出す危険性があった。モデルの模倣はおろかな追従を生み、議論の形式を写し取ることは瑣末な衒学趣味を生み出しかねず、更にはまた、著者の立場が実際にはどちらにあるのか読み手の心の中に混乱をきたす原因ともなりかねなかった。今日「修辞学」というと軽蔑的な調子がこめられているが、そうなったのはこうした要因のためなのである。マキャヴェリは『君主論』の献辞の中で、自分が示さねばならないのは平明な文体であって、「長い章句や大げさな言葉、著作家の多くが題材を飾るために用いている表面だけの美辞麗句の類」ではないと表明した。このときのマキャヴェリは「修辞学」にこめられている軽蔑的な調子を先取りしているように見えるかもしれない。しかしながら、彼が行おうとしていたことの意味は、きわめて実際的なことを解き促す際に「直截体」genus humilisとして知られる文体レベル、つまり文飾のないスタイルを的確に選択したということなのである。それゆえ『君主論』献辞のマキャヴェリは、実際には彼が修辞学の伝統を徹底的に知り抜いていたことを意味している。この修辞学の伝統において彼は記憶に残る議論の仕方や巧みな文章法を習得したのである。寿命:かつて、誕生時に予想される寿命の平均は30歳を下回っていた。その為当時の人々は、一生のサイクルというものを考えるときに、我々のような見方をしなかった。彼らは「中年」という観点で物事を考えなかったのである。我々が「人生半ばの危機」と呼ぶものは、彼らにとっては老境に入った印であった。ミケランジェロは42歳で、またアレティーノは45歳のときに自分のことを「老人」と呼んでいる。人口の大半は若者が占めていた。1427年のトスカーナでは全人口の44%が19歳以下であった。それゆえ子供たちが7歳で徒弟や召使としてはたらき始めたとしても驚くにはあたらない。また修道女は12歳で修道請願を立てたし、そうでない少女は18歳で結婚するのが当たり前であった。20歳になっても未婚のままでいればオールドミスとみなされることがしばしばであった。フィレンツェでは少年は政治的には14才で成年に達し、18歳で納税と軍役義務を負うようになった。他方、ベネチアで貴族が大評議会に議席を得るのは通常、25歳になってからで、30歳までは元老院議員にはなれなかった。ベネチアが老人に牛耳られていたことはよく知られている。1400年から1570年までの23人のドージェについて見ると、ドージェに選出されたときの年齢の平均は72歳である。これとは対照的に教皇は平均54歳で選ばれていた。この時代、人々が自分の生年月日を正確に知らないのはごく普通のことであった。トスカーナでは公職就任の際の適確性について当局が目を光らせていたおかげで、他の地域よりはいくらかましであった。つまりこの生年月日に関する正確さは、ルネサンス期フィレンツェの近代性の一面を物語っている。女性の地位人文主義:人文主義humanismとは19世紀の造語で、或る学習計画および、それによって条件付けられた思考や表現を指した。それは15世紀後半以来人文主義者の領分として知られていたものを表す(人文主義者とは人文学studia humanitatis、すなわち学校、大学などで開講されていた学芸科目の担当教師のこと)。人文学は15世紀後半までには文法、修辞、歴史,詩、道徳哲学に関するラテン語テクストの研究を対象に含むようになっていた。その学習内容は、人間とその性質および才能を扱う世俗的なものであった。だが、ルネサンスの人文主義は「人道主義」とは区別されねばならないし、合理的で非宗教的な人生態度という近代的な意味での「ヒューマニズム」とも何ら関係がない。 中世にも人文主義の研究対象の多くは、よく知られた古典文学のテクストという形で潜在はしていた(こうしたテクストにはウェルギリウス、オウィディウス、ホラティウス、サルスティウス、セネカなどの作品が含まれていた)。関心が改めてそれらに向けられ、これらの著作家に対する想像力に満ちた理解がよみがえるには、まず第一に、彼らのもつ純粋に文学的な価値を新たに再評価して、そのような成果が達成された理由を認識する必要があった。そして、著作家自身と彼らが生きた時代についてより明確な展望を持つことが不可欠であった。こうした関心は、すでに14世紀はじめの30年代までにはパドヴァやヴェローナ、ナポリに認めることが出来る。ペトラルカとともに人文主義は登場する。質的価値と目的に対する感受性、人格と歴史的距離に関する理解、古典作品編集を通じて本来の姿を復元し、修道院の書庫に忘れられて顧みられることなく横たわっている他の作品をもっと発見したいという渇望、更には古典文学作品に対抗しようとする願望が生じる。このような願望はキリスト教の超俗性とは対立するある種の野心を生み出し、精神を動揺させたが、結果として自己反省を促すことにもなった。こうして現代と古代との関係は、ますます意識的なものになっていった。 古代世界の想像力による復元がカトゥルス、キケロ、更にリウィウス、ウィトルウィウス、クインティリアヌスとテクストごとに進むにつれて、古代世界の連関はより明白になっていった。彼らの意味するところはもはや決して不明でなく、彼らの個性は息吹を取り戻し、彼らが生きた社会の文脈に置き直された。古代の著作家たちによって、広大な時空を占める一つの文明世界の展望が提示された。この展望には、はっきりと意識された明確な距離感が伴っていた。更にまたこの展望には、闇の時代から、帝国時代(まずはギリシャ、次いでローマ)を経て、蛮族による混乱時代へといたる、完結した全体の循環が具わっていた。時間の隔たりがあるとはいえ、イタリア人たちにとっては、この文明はごく身近にあって、魅力を発揮した。ローマの貨幣や彫像が鋤で掘り起こされたし、南部にはギリシャ語を話す集落も存在したからである。こうした要因が組み合わさって、彼らは古代世界を手本と見ることが出来るようになった。古代世界からは、行政や戦術、芸術品の作成に関する事柄、逆境に耐えるための方法などが学ばれた。これら手本と競い合うことは、一層容易に受け入れられることとなったが、それは人文主義時代の文化的繁栄に誇りが抱かれていたためであった。この自負をフィチーノは1492年に、このように表明している。「それは疑問の余地無く黄金時代である。この時代に文法、雄弁、詩、彫刻、音楽など、殆ど死滅していた自由学芸はよみがえった。」 近年の人文主義の定義は、関連・付随の主題に重きを置いている。個人の政治への参加を奨励する、キケロのような著作家の役割を強調する「市民的人文主義」。活動的生への準備を重視する「人文主義的教育理論」。古典形式の適用に重きを置く「芸術的人文主義」。古代、特にギリシャ語テクストが入門書として復権したことを重要視する「科学的人文主義」。「実用的人文主義」は、例えば軍事や農業に関連する事で、現在の助けになる方法を模倣しようとした、などなど。しかし人文主義の核心は、13世紀においても16世紀においても、自分の読むテクストを正しく肯定しようとする人文主義者個人のこだわり・配慮にあったのである。神の霊感に由来する古代の英知の源泉を忍耐強く掘り起こすことによって、概して研究者たちは宗教を反駁するのではなく、むしろ宗教を補強したいと考えていた。こうした研究者をキリスト教に対立するものと見れば、誤ることになろう。ちょうどそれと同じように、もし人文主義という言葉の定義に、学者の苦心の跡が留められていなかったならば、誤解を招くことになるだろう。神話数学:ルネサンス期の人々にとって数学は、興味深い二面的な意味を持つ主題であった。一方において15世紀の知識人にとって英雄的存在であったプラトンが精神の訓練に数学の重要性を強調していた為、初歩的な幾何学や測量のような実践的な側面を含む数学は、人文主義的な教養の一部であった。他方、数学は数秘術やカバラ的な予言や占星術のような秘儀的な主題をも意味した。したがって「数学者」という名称は、これらのどちらかの分野、もしくは(カルダーノのように)両方の分野の実践家を示す可能性があった。神秘的ではない数学は複数の科目から構成されていた。通常の教育を受けた学者は(中世において大学の卒業生すべてがそうであったように)、幾何学、数論(「算術」)、音楽理論、そして初歩的な数理天文学という「クアドリウィウム」と呼ばれた4学科を学び、その一方で16世紀にはエウクレイデスの俗語役によってあまり高い教育を受けていない人々の間にも幾何学の知識が広まった。だが高度な数学は少数の人々のものであった。 16世紀にはボンベッリやコンマンディーノのような人文主義的数学者によって難解なギリシャの数学者の著作のラテン語訳や、また平易な書物のイタリア語訳が作られた。アルキメデスの新しい版は、純粋数学者のみならず数理物理学者に深い影響を与えた。アポロニオスの翻訳は円錐曲線の研究に道を開き、ディオファントスの翻訳は数論に道を開いたが、最大の発展はアラビア数学から受け継いだ3次方程式に関するものであった。応用数学の分野では、例えばパチョーリの実践的な商業算術の梗概のような、著作中で中世の遺産が活用される一方、測量、築城術、砲術に関して数多くの手引書が登場した。ギリシャの数学は新しい可能性を切り開いた。最も重要なものは遠近法の研究であり、これは15世紀および16世紀の絵画にとって中心的なものとなった。レオナルドがパチョーリと共同作業をしたことも驚くにはあたらない。これほど重要ではないが、ビリングッチョの鐘の鋳型の「造形」法にかんする理解もその一例である。数学は地図の作成にとっても重要であり、プトレマイオスの『地理学』の再発見(1410)の後、それは芸術家と学者にもう一つの共同作業の場を提供した。ラメッリのような技術者は自分の職業を数学の一分野とみなしていた。 純粋数学が15世紀のプラトン崇拝によって促進されたように、数学の魔術的な側面は同じ世紀の新プラトン主義、ピュタゴラス主義、ヘルメス主義への耽溺によって促進された。これらすべては、古代の人々が幾何学や数論の神秘的な応用を認めていたとの新念に弾みをつけ、それでなくとも勢いを得ていた当時の占星術や数秘主義の流行を助長した。ここで、合理と非合理の間に線を引くのは難しい。パチョーリが理論的に研究した「プラトンの」立体(正多面体)やその他の立体を、他の人々は神秘的な側面から研究した。どちらのアプローチがより実りあるものかを決めるのは困難だった。スコラ哲学scholasticism:この用語は両義的である。それは中世の学校と大学で用いられた教授と解説の特徴的な方法、即ち問題の設定、議論、そしてその解決を記述する際に用いられる。それはまたこの方法によって特に定式化された主題を記述する際にも用いられる。主題とは即ち、キリスト教神学と緊密な結びつきを持ちアリストテレスのテクストと注釈に依拠した哲学、および精神的な心理は形式論理の道具によって捉えられうるという過程を持った神学の事である。このようにして「スコラ学」は、中世思想と殆ど同義語になった。このようなものであれば、それはルネサンス思想の対極にあるものと見えるだろう。ペトラルカやヴァッラのような著作家が、中世の学問の方法と内容を嘲笑したということは、とりわけこのような印象を強めることになった。 しかしヴァッラの『聖トマスへの賛辞』(1457)における「神学者たちは弁証論をさけ、聖書や初期のギリシャ・ローマの教父たちといった、精神的理解の源泉に改めて耳を傾けるべきである」という強固な主張にもかかわらず、スコラ学的方法は神学や「アリストテレス」哲学といった、中世的な実践が最も根強く残っていた領域で勢力を保ち続けた。加えて、中世の学者たち、とりわけトマス・アクィナスは、新プラトン主義的哲学者たちによってさえ、尊敬の念をもって引用されている。スコラ哲学が、いわば「片付けられた」のは、人文主義の中心的な関心(道徳哲学、文献学、歴史、修辞学)が大学に依拠した中世の学問と異なり、弁証論的な解説の形式に適していなかったからであった。しかしその存在を無視することは、新しい学問と古い学問との相違を誇張することになる。ストア哲学:ヘレニズム時代に人気があった古代の哲学。その創始者。その創始者キティオンのゼノン(前336-264)がアテナイの壁面に絵のある柱廊(ストア)をいったりきたりして歩く習慣があったことからその名がついた。ストア哲学者たちは哲学を、論理学、自然学、そして倫理学に分けた。何者にも乱されず自らに満ち足りた賢者の理想を掲げる倫理学は、キケロとセネカの関心を特にひきつけたが、この二人の著作はルネサンスにおいても道徳教育の教科書であり続けた。エピクテトスの『提要』やディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者の生涯』といった、ストアの教説を伝える他の古代のテクストも大きな影響力を持ち、頻繁に再販された。ルネサンスにおいてストア哲学をもっとも熱烈な形で復興したのは恐らく二人の北方人、即ちフランス語と英語で広く読まれた『ストア哲学者たちの道徳哲学』を著したギヨーム・ド・ヴェール(1556-1621)と、プラトン主義とアリストテレス主義を奨励したユストゥス・リプシウス(1547-1606)であった。学究的な哲学者たちの間でよりも、一般教養面でより影響力があったとはいえ、ストア主義はイタリアではポンポナッツィのようなアリストテレス主義者たちの間に若干浸透した。ポンポナッツィは、「徳とはそれ自体の報酬である」というストア哲学を特徴付ける立場を是認していた。スフォルツァ、ロドヴィーゴ:聖堂建築と典礼:占星術:占星術、即ち星辰が地上の出来事へ及ぼす影響を予言する術は、ルネサンス思想において重要な役割を果たし、一般に学問分野として受け入れられていた。占星術への反論は科学的というよりもむしろ、自由意志の制限という宗教的なものだった。占星術は新プラトン主義の神秘主義的傾向によって更に促進された。フィチーノは占星術的決定論に対して注意する必要性に気づき当惑していたが、実際には星辰に大きな力を賦与し、論考『天上的な生を得ることについて』では、読者に、人生の計画を練る際には占星術を利用するように勧めている。他方、彼の若き同時代人ピコが『占星術反駁論』において、占星術に対する多面的な攻撃を表明し、科学による正確な時刻計算を行う可能性と人間の運命への精神の一般的影響を否定した。しかし占星術的信念が広く流布していたことは、ピコの著作に対する冷淡な反応から明らかである。 占星術への関心は理論的なものだけではなかった。予言は頻繁に国王や教皇に対して提供され、しばしば彼らによって利用された。例えばある占星術師はアレクサンデル6世のために『占星術年報』を著し、レオ10世の侍医も占星術に関する著作を出版した。16世紀初頭には、パドヴァの哲学者アゴスティーノ・ニーフォが占星術を擁護し、チェーザレ・ボルジアの犯罪を天上の影響に帰した。15世紀初頭に最も影響のあった占星術関係の著者はルーカ・ガウリコであり、予言によってパウルス3世に感銘を与え、司教の地位を得た。16世紀後半においても世間一般の信仰は相変わらず強く、占星術の科学的基礎を強化しようという試みがなされた。その際の主な敵は、科学的懐疑主義よりもむしろ改革された教皇庁の敵対的態度、とりわけシクストゥス5世の教書(1586)であった。戦闘:同業者組合(ギルド):同業者組合は本質的に、手工業の各職種の親方あるいは自営の商人や専門職の連帯組織であった。イタリアではこうした組合の起源は非常に古い時代までさかのぼる。すでに6世紀のナポリに複数の同業者組合があったことを示す資料が残っている。元来、同業者組合は一種の親睦団体で、共同で宗教上の祭礼を執り行い、またメンバーの争議に立ち会うものであったが、やがて他の機能も果たすようになった。その経済的機能は商品の企画を管理し、組合が特定地域における特定の活動を独占できるようにすることにあった。その一方で政治的には都市国家の政治に関与するという機能を持っていた。14世紀のフィレンツェに顕著なように、都市によっては組合の加入者のみが公職につく資格を持っており、したがって豪族も、梳毛工や染色工のような非熟練労働者も公職からは排除された。フィレンツェでは1378年にこうした階層が独自の組合を作る権利を要求し、シエナやボローニャでも同様の抗議運動が見られた。 組合は芸術のパトロンでもあって、組合の会議所のために絵画を描かせ、大聖堂の建設基金に寄付をし、フィレンツェのオルサンミケーレ聖堂の彫像群作成のような共同事業に協力した。組合同士は対等ではなかった。フィレンツェでは法律家や銀行家のような社会的信望のある職種を含んだ7つの「大組合」が14の「小組合」の上位にあった。そして一般にこの組合のヒエラルキーが、祭礼の行列に並ぶ順序に反映していた。こうした同業者組合の黄金時代は13,14世紀であった。1348年以降の景気の後退によって職人が親方になる機会は減り、親方とその下にいる職人との間の対立の溝は深まることになった。また15,16世紀になると、経済活動の基盤が商工業から土地へ転換したことで、組合はその社会的重要性を減じた。都市によってはブレッシャやヴィチェンツァのように、同業者組合に加入していることは、実際のところ都市の公職につくための資格であるどころか公職追放の条件となった。組合は自立性を失い、国家による管理の末端機構となった。例えば16世紀のベネチアでは、組合は国有ガレー船のこぎ手を供給する責任を負わされていたのである。同信会:都市計画:ニッコリ、ニッコロ:八聖人戦争:1375年8月から1378年7月18日にわたるフィレンツェと教皇庁との間の戦争。戦争名は誤称であって、聖職者から戦費の為の税を徴収した8人の「聖人」と、共和国のために戦いを指揮した戦時8人委員会とが混同されたものである。この戦いは中部イタリアの覇権を競う潜在的な対立関係の爆発であり、伝統的なグエルフ党「教皇派」としての両者の同盟関係を打ち砕いた。戦争の主唱者たちと、グエルフ会に蝟集した保守的な反対勢力との分裂は、教皇グレゴリウス11世による破門と聖務禁止により深刻化した。また高額な税と中断された貿易がもたらす経済不況はチョンピの反乱を引き起こした。フィレンツェは高い賠償を支払って平和をあがなわざるを得なかった。それにもかかわらず、フィレンツェ人を教皇権への政治的依存から引き離す上で、この戦争は決定的な一段階を記したのである。パチョーリ、ルーカ(c1445-1517):数学者。若いころはベネチア商人アントーニオ・ロンピアージに雇われていた。1470年代にフランシスコ会の修道士となり、神学の研究に打ち込んだ。当時彼は各地を旅しながら数学を教えていたが、1497年にはロドヴィーコ・スフォルツァに招かれミラノに移った。ここではレオナルド・ダ・ヴィンチと共同研究を質得る。1500年に彼はピサに赴きエウクレイデスについて講義を行い、その『原論』のラテン版を1509年に出版した。彼の『算術、幾何、比と比例についての大全』(1494、ベネチア)はその名の通り、数論と(幾何学的)比に関する百科事典であったが、主要な関心は実践的な算術(複式簿記を含む)と代数学にあった。彼の『神聖なる比例』(1509、ベネチア)は数学的・芸術的比例についての著作で、正多面体やその他の多面体に関する議論を含んでいる。図のいくつかはレオナルドによる。パッツィ家:パトロン:ルネサンス文化は文芸庇護という時代の機運の中で開花したとの見方は自明のこととされているが、実は依然としてあいまいのままである。文芸庇護の役割は実際に不適切に位置づけられているだけでなく、誤解を招く言葉の魔力によっていまだにその本質が見えない。ルネサンス期における雇用の人選に当たって、当時の価値基準が、有能な秘書や会計士を雇う場合と実力のある文筆家や音楽家を採用する場合との間に設けた区別は、現代の我々が前者に「雇用」、後者に「庇護」という言葉を当ててもかまわないといえるほどはっきりとしたものではない。文化の後援には三つの形態があった。第一は(たとえば祭壇の為の1点の絵画や、賓客を歓迎するための1篇のラテン語詩、より豪華な邸宅など)社会的慣習がそれを求めたために、ある特定の作品に対してその作家に支払うという形態。この場合は、作品の出来映えが識別可能である限り、購入手続きは簡単であった。第2は、ある作家個人が支援を受けなければ達成できないと思われる潜在的業績を示したときに、その作家の創作活動を着実に後援するという形態。第3は、その支援自体に価値があると信じられるが為の、文化的表現行為としての何らかの支援という形態である。 14世紀から16世紀までの画家、彫刻家は(必然的に建築家も)、その場限りの美術品の取引や友人達による時折の美術家の作品推挙が相当数に上ったにもかかわらず、高い素材を使うにはやはり注文を待たねばならなかった。「投機」的な作品制作は、主に宗教的作品など、工房の仕事としてはごく日常的なものに限られていた。しかし作品の需要がそのようであったので、名のある美術家達は経済的保証を歓迎したにせよ、通常は専属の継続的な雇用という形式での保証は必要としなかった。また美術作品のどんな購入者でも、ある美術家の全作品を求めたり、その美術家が宝の注文を受けることを阻止するために、契約で拘束しなければならないほど多くの祭壇や壁龕、あるいは建築用地を持っていたわけではない。それにしても、ある美術家は一定期間、ある雇用主のために製作することが有利である、あるいは遣り甲斐があると思ったかもしれない。その一方、ある雇用主は傑出した才能の美術家を暫くの間独占したいとか、趣味の合う美術家集団の作品に対して、最優先の請求権を持っていたいと望んだかもしれない。しかし全体としてみれば、雇用主と美術家の間にはお互いの利益の交錯があった。それが上述の文化後援の第2番目の形態を一時的なものにし、真の意味で美術家の成長を促す契機にはしなかったのである。 長期契約で雇われている「宮廷」美術家は、いずれにせよ通常は何でも屋、つまり肖像画や祭壇画から祝祭行列の衣装、あるいは庭園の設計に至るまでの構想に自己の才能を傾けた。例えば教皇ユリウス2世とミケランジェロとの関係のような、ある美術家の作品の質を実際に高めうるかもしれない、美術家と雇用主との創造的な相互関係などは、きわめてまれな現象であった。実際、傑出した美術家に対しては、雇用主は主人というよりはむしろ嘆願者であった場合があり、これが「庇護者」(パトロン)の意義にいまひとつの疑問を投げかけるのである。つまりミケランジェロが歴代教皇のために喜んで制作したように、ティツィアーノは君主達のために進んで仕事をしたが、だからといって教皇ユリウス2世や神聖ローマ皇帝カール5世、あるいはウルビーノ公が格別の顧客であったわけではなく、むしろ「庇護者」であったとみなされるであろうか。16世紀には美術家自身が、経済的実益を担う名誉職を探すことで問題をいっそうあいまいにしたが、こうした現象は美術家庇護というよりも一層顧客関係に近いものであった。 ジョット以来、美術作品の注文には取捨選択が行われてきた。15世紀末からは美術家の社会的地位も知的水準も向上したが、その過程に貢献したのは最高の作品を目指しての美術形の競合であった。そうしたことをきっかけに、次第に有名人士が美術作品を所有する事に誇りを感じるようになり、更には美術に金を浪費する事が権力者の楽しい務めと看做されるようになった。しかし1600年までの美術庇護は、いまだ殆ど「芸術」という概念に触れることが無かった。美術は人々に喜びや気晴らし、そして感銘を与え、さまざまな出来事や人物を記録、或いは記念し、そして(特に宗教的な意味で)教訓を与えさえした。しかし本質的には、いまだ美術の卑近な目的から殆どはなれることは無かったのである。15世紀末以降、人々が同時代の優れた絵画を所有することに誇りを抱いたのは確かであるにも拘らず、美術作品の収集と、それを美術家に霊感を与えるために公開することは、ロレンツォ・デ・メディチの庭園や教皇シクストゥス4世のヴァチカン宮のように、主として古代の作品に限られていた。そして美術分野における「芸術のための芸術」という考えは、芸術庇護などはるかに及ばぬところにいた美術家たちの作品に対する関心の中に生じたのである。音楽家や作曲家の場合も、いかなる理想的或いは騎士気取りの庇護形態も必要としなかった、需要と均衡が保たれていた時代にも、文芸庇護は見出されるに違いない。(音楽は自由学芸の中に列せられているという、その地位からして、また音楽が人間の感情を揺さぶる力を持つと認められているという理由によって)「音楽」という理念は「美術」という理念よりも一層容易に、あまたの演奏者とは切り離されていた。それにも拘らず、雇用側は市の評議会であれ、大聖堂参事会または一個人であれ、自分達はまさに誰よりも時代の流行の最先端を行く結果をもたらしうる人物をめぐって、張り合っているのだというほどの自覚しかなかったのである。 そして文学:この分野の報酬は、過去に関しては学者が由緒ある古文献を掘り出しよみがえらせ、訳出する能力を参考に、また未来については銘文なり歴史なり伝記なり、更にまれには空想的な著作(ポリツィアーノの『騎馬試合のスタンツェ』(1475)やアリオストの『狂乱のオルランド』(1516))なりを通じて、パトロン一門の家名とそれらの主人公とをそれとなく結びつけることによって不朽のものとする、その程度に応じて支払われた。宮廷芸術家のようなお抱えの作家は、雑役婦にも似た役割を期待された。つまり彼の場合は家庭教師であり、舞台作者であり、年代記者であり、時には外交官役まで勤めたのである。ダンテやペトラルカから始まり、タッソやブルーニにいたるパトロンと芸術家の関係は、文学よりもむしろ「文筆」にまで広がっていた。印刷術という金銭上プラスになる発明は、まだ海のものとも山のものともはっきりしておらず、献呈本といった注目すべき工夫があったのは、創作者としての自己表現事態がまだ価値あるものとは思われず、一般には認められていなかったという印象を強める。