2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 3
個人主義:イタリアのルネサンス期の特色が、人間の個性についての新しい認識と表明であるという、議論の余地ある概念は、ブルクハルトによって生み出された。……「中世においては、人間は自分自身に関して、種族、民族、当は、家族、あるいは組合の一成員としてのみ、すなわち若干の一般的なカテゴリーを通してのみ意識していた。イタリアにおいてこのヴェールは始めて空中に霧散した。国家および現世のすべての事物についての客観的な処理と考察が可能となった。同時に主観的な側面が、それに相応する強調を持って自らを確証した。つまり人間は精神的な個人となったのである。」 この概念はそれに生来の、ロマン主義的な魅力のために広く受容された後に、会議を持って考え直されるようになった。ウィリアム征服王やピエール・アベールのような個性に満ちた時代を言外に貶めることに対して、中世研究者から憤慨の声が発せられた。またルネサンス学者は団体的結合、すなわち家族と親族、顧客関係、同業者組合(ギルド)、教区の組織、同信会、アカデミー(これらはすべて必要とされた相互援助の馴染み深い方式を表している)が引き続き協力であったことを強調した。おそらくこうした結合は14世紀に最も弱まったであろう。この時期には先例のないほど多数の人々が田舎から都市へ流入したために、また彼らの教育の機会が、社会的変動を促進した都市環境のために、自らの伝統的な背景から切り離されたのである。また不確実で、ある点ではいまだ特別な実験的商取引と事業に従事した人々に留意するならば、新しい個人主義について語ることが可能であり、また実際それを枢要な側面と見ることは可能である。しかしその後、こうした傾向は弱まった。いくつかの領域において、例えば成長しつつある官僚制の重圧によってますます束縛された君主たちの場合に、あるいは継承した社会的地位と忠実な臣下を持つ能力が次第に評価されるようになった傭兵隊長たちの場合においては「個性」を開花させる必要性も機会も消滅してしまった。 この時代の人々についての我々自身の認識は、その証拠の特質によって、すなわち人々を以前よりももっと三次元的にあらわすようになった美術と豊かな個性を提示している文学によって影響されている。しかしこれらが、古代の美術と文学に対するいや増す関心によっていやおうなく昔ながらの意識が変化させられた以上に、人々の意識が現実に以下に変化したかを実証するのは困難である。確かに、知識人たちの間では、歴史的な距離についての新しい意識が、個人を時の中に「置く事」を可能にした。肖像画、墓、碑銘は、個人として記憶されたいとの希望を示している。人文主義的な教育者は、人間の精神と身体の可能性の十全な発展を強調した。そして自分がいかなる存在かを知りたいとのこれらの衝動の中心には、人間の個性の本質そのものにかかわる文学があった。ペトラルカは『順逆二境への対処法』で、神によって「我々の似姿に、我々の類似に従って」作られた物としての人間に対するキリスト教的な強調と、人間の精神は神的なものと協和しており、もし正しく導くならば、それを探求し、それに到達しうるというプラトン主義的概念をともに提示している。そして他の被造物は人間に役立つためにあるいは観想のために作られたという意味でこれらの見解に、ペトラルカは第3の、今度は古典古代の道徳哲学に由来した見解を付け加えている。つまり正義、節度、寛容といった徳は、実際に用いることによって最もよくはぐくまれ、それらを極めてよく用いた人々のことを述べる作家において、最もよく学ぶことが出来るのである。このことは過去の軍人や為政者など、偉大な行動人の研究を正当化し、実際、彼らの模倣をも正当化した。というのは、名声を獲得することは、もしそれが神によって人間に植えつけられた最高の性質を示すためになされたならば、賞賛されるべきものだったからである。ペトラルカ自身は、個人の本性の実現と、それを実践において育成することとの間で、つまり実践的生活と観想的生活の間で動揺していた。しかし、この論題がひとたび語られるや、もはやそれをとめることは出来なかった。そしてジャンノッツォ・マネッティの『人間の尊厳と卓越性について』(c1452)とピコのより力強くより熱狂的な、同じテーマについての『人間の尊厳についての演説』(1486)の時代には、この主題についての論考はそれ固有のジャンルを形成するまでになっていた。しかしながらこの影響が碑文の表現に現れたり、芸術家や著作家に自分自身の作品の創造的才能という観点から眺めさせ、したがって自分自身をより確信に満ちて表現させたとしても、あるいはマキャベリが全く個人的な知的能力、つまり「ヴィルトゥ(徳、力)」をまったく気まぐれな「フォルトゥーナ(運命)」に相反するものとみなしたとしても、個性についての理論がひとつの社会全体を、多少とも個人的なものと考えることはなかったし、その成員たちが他の者たちから際立たせるような機会を与えることもなかった。古代模倣:ペトラルカに始まる人文主義者が古典の著作を収集したように、15世紀初頭には美術家が古代の美術品や建築遺構に高い関心を示すようになる。美術家による古代の受容はまず美術遺産を素描するという形で始められた。それらの素描は、しばしば美術家の臨写手本あるいは単に古物研究として役立つよう素描帖の形に編集された。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノおよびピサネッロは、そのような記録を残した最初の画家である。ピサネッロは、古代美術品の素描を他の習作とともに一巻本にまとめているがこれを自分の工房で利用したに違いない。また博学な古物愛好家であるチリーアコ・ダンコーナは、商用でのギリシャおよび小アジア旅行の途上で、こうした古美術品の素描を残したものの、あいにく現存するのは模写のみである。 建築素描についてはブルネレスキがローマで描いたとされる素描が実際にどのようなものであったかは不明であるが、ジュリアーノ・ダ・ダサンガッロの素描帖2巻が現存する。その素描集は何年もかけて編集され、遺構の全体図のみならず、柱頭、柱礎、そして柱身といった細部も描かれている。もっとも多彩で興味深いのが、現在エル・エスコリアル宮にある古代遺物の素描帖であろう。それはおそらくギルランダイオの工房に由来し、彫刻、浮き彫り、建築物の細部、そして少数の画趣に富む眺望図などの素描を含み、用途はもっぱら画家の見本帳であった。16世紀になると、アミーコ・アスペルティーニやリゴーリオらによる同様の素描帖が現存する。ラファエッロが1519年にレオ10世の命を受けた、記述と素描からなる古代ローマ研究は未完のままに終わり、その概要については何一つ知られていない。娯楽・競技:肉体的な技を競う競技は普通に行われたものであった。貴族は貴族で、狩や馬上槍試合、つるした環や立てた的を走る馬上から槍で突くクィンターナの試合をしたし、一般の都市住民のほうはまた彼ら同士で模擬戦を行った。こうした模擬戦には、ピサの「ジョコ・デル・ポンテ」(橋取り合戦)や、ベネチアのカステッラーニ組とニコロッティ組との間でやはり橋を取り合って戦われた「グェラ。デイ・プーニ」(拳骨戦争)のようなものがある。それに比べればカルチョやパッローネのような球技はさほど暴力的ではなかった。フィレンツェ(サンタ・クローチェ広場)やベネチア(サント・ステファノ広場)では、これらの試合大勢の観衆を集めていた。テニスは16世紀末にフランスからイタリアに入ってきた。各種の競走(男子、女子、馬、水牛、ゴンドラなど)もまた、ありふれたスポーツの形態であった。シエナのパリオの起源は13世紀にまでさかのぼる。現金をかけたり、けんかになったり神をののしったりするという理由で、しばしば教会や国家の当局に断罪されたにもかかわらず、賭け事も一般に広まっていた。男たちは模擬戦の結果やこれから生まれる赤ん坊の性別、教皇やドージェの選挙の結果にもかけた。またカード・ゲームでも賭けをしたが、これは16世紀に上流階級の間でさいころ遊びに取って代わっていった。チェスはこの時代を通じてずっと楽しまれており、15世紀半ば以降はチェス「名人」の概念のようなものも出てきた。子供の遊びの保守的傾向はよく知られている。ルネサンス期のイタリアでは子供はかくれんぼや目隠し遊びなどをして遊んでいた。しかし我々が「室内ゲーム」と呼ぶものは16世紀のイタリアで比較的新しく発展したもので、こうしたゲームの決まった形式や標準的な遊び方は印刷された手引書のおかげで確立した。そうしたゲームには言葉の巧みさを競うものもあり、また運勢を占ったり、エンブレムを考案したり、宮廷風恋愛についての問いに答えたりといったことをするものもあった。カスティリオーネの『宮廷人』の仲での会話は、食後の数時間の楽しみを追求した成果である。コーラ・ディ・リエンツォ(c1313-54)ゴンザーガ、ジャンフランチェスコ2世(在位1484-1519)(1466生)ゴンザーガ家:1328年以来マントヴァを支配し、神聖ローマ帝国から辺境伯(1433)と公爵(1530)の称号を授けられた。モンテフェルトロの公爵領は結婚の協約によって加えられた(1531)。彼らは傭兵隊長として軍事的役割を引き受け、学問と芸術の卓越した保護者だった。彼らの安定した支配は教会にまで広がり、(1461年から1483年まで枢機卿を務めたフランチェスコ以来ゴンザーガ家は枢機卿を輩出した)、また16世紀には分家が小さな公告を支配した。サヴォナローラ、ジローラモ(1452-98):ドミニコ会修道士にして「殉教者」。彼はフェラーラで、著名な学識ある医者の息子として生まれた。突然の改心によって1475年にボローニャのサン・ドミニコ修道院に入り、神学者と説教師としての名声を確立し、1482-85年の間、そして1490年にはロレンツォ・デ・メディチの招きによってフィレンツェのサン・マルコ修道院に移り、1491年には修道院長になった。政治についてのあからさまな率直さと情感に訴える力を持った説教師として、彼はメディチ家の物質主義と権威の乱用をとりわけ攻撃したので(ロレンツォの死の床に呼ばれた)、1494年のピエロ・デ・メディチの追放の際に、広い基盤を持った貴族的体制を求める党派によって歓迎された。 この党派の最も傑出した非公式的代表者として彼もまた、1495年反乱を起こしたピサ回復の失敗、そしてフィレンツェを政治的に、また経済的に孤立させることになったフランスとの同盟(サヴォナローラの教皇アレクサンデル6世に対する個人的な宿怨のために事態はいっそう悪化した)、これらのために市民の不評判を買った。政治的な対立に加えて(これはサヴォナローラが破門後も説教し続けたことで増大した)、彼がフィレンツェ市民に説いた道徳的十字軍という雰囲気に対して嫌悪があった。彼は個人的な罪と宗教的退廃からイタリア全体を浄化するという、神から与えられた役割の遂行を求めたのである。動転した事態と重大な危機の時代に、フィレンツェ市民の自信を大いに鼓舞した彼は、まずかれらに反省を求める良心となり、次に彼らから見放された犠牲となった。1498年にフィレンツェ政府が教会と手を組み、彼を排除しようとすると、異端の告発を(拷問の助けを借りて)するのに反対するものは殆どいなかった。結局サヴォナローラは吊るされて火刑に処された。 この殉教者の死、彼の賭博行為に対する清教徒的な追及、謝肉祭の歌謡への風刺、虚飾の焼却、宗教美術の使用に対する厳格な態度、彼の最も従順な追随者「泣き虫党」についての同時代人の軽蔑的な報告、これらが後代への異例な影響とその理由をあいまいなものとしている。彼の個性は力強さと同時に魅力を備えていた。彼の学識は、深いものでも独創的なものでもなかったが、ピコのような人文主義的学者までひきつけるほど広いものであった。彼はサン・マルコ修道院の有能かつ実行力ある院長で、説教壇以外では政治家のような威厳を持つため2度も侵略したシャルル8世への大使に選ばれている.おそらくは常にフェラーラ地方のアクセントで話していたのだろうが、彼はフィレンツェ市民を讃える時も罵る時も、自分自身が完全にフィレンツェ人であるかのように振舞った。彼はフィレンツェ市民が神によって特別な運命に定められており、また君主制が理論上は最上であるが例外的にフィレンツェ市民の知性は自由な政体を求めるという、内に秘めた民衆の信念に力を与えた。彼は初期の陰鬱な終末論を脱して、フィレンツェ市民を浄化し、彼らが神に祝福された生活を追求するのを可能とするような千年王国を描き出した。改悛の要求と政体批判をまじえた彼の説教は,困惑させたり魅了させる力強さを備えていた。それは速記で書き留められたり草稿を元に書き下されたものから生き生きと再現できる。彼を焼いた灰はアルノ川に投げ入れられたが、彼の思想は1527-30年最後のフィレンツェ共和制を生み出した主要な原動力の一つとして浮上し、彼は今一度、フィレンツェのキリスト王と宣言されたのである。サルターティ、コルッチョ(1331-1406):古典主義とフィレンツェ書記官長の職務の緊密な連関を確立した人文主義者。サルターティは書記官長の地位(1375年から1406年まで)を得る前に、公証人として訓練を積み、ルッカの書記官長を務めていた。彼はまた熱心なラテン学者でペトラルカの友人であり、ペトラルカの詩『アフリカ』が完結するように望んでいた。8聖人戦争(1375-78)中の外交文書を作成し、彼の技量は再びジャンガレアッツォ・ヴィスコンティに対するフィレンツェの戦闘で重要な働きを果たした。ジャンガレアッツォは、サルターティの一通の書簡は一群の馬に匹敵すると語ったと伝えられている。サルターティは、私生活においてはストア的な厳格さを保ち、フィレンツェ社会ではきわめて尊敬される人物となった。彼はいくつかの衒学的な人文主義的論考、すなわち修道的生活に関する議論である『現世と宗教について』(1381)、自由意志について論じた『宿命と幸運について』(c1396)、古代の伝説の寓意的意味を詳細に論じた『ヘラクレスの功業について』(c1391)を著している。しかし、彼の文芸上の主な重要性は、他の人々を鼓吹した点に求められる。フィレンツェにおける生涯を通じて、彼は熱狂的な人文主義運動の中心人物であり、彼が招聘したクリュソロラスをおそらく例外として、15世紀初頭の輝かしい人文主義派を創出するために最も多くの貢献をしたのである。産業:ルネサンス期イタリアの主たる産業は織物製造業であった。1427年のフィレンツェでは、自分の職業を申告した世帯主の38%が織物産業に従事していたし、申告数の最も多い10種の職業のうちには織布工、毛織物業者(織元)、刷毛工、亜麻織物業者、染色工が含まれていた。コモもまた織物の都市であったし、クレモナもそうであったが、こちらはもっぱらファスティアン織(綾織の一種)を生産していた。ルッカとジェノヴァは絹織物の都市であった。ヴェネチアは他に遅れて織物製造に転じたが、1600年にはおよそ25000反を生産していた。その他のイタリアの重要な産業としては、まず建築業があった。特にロンバルディアに関してはそうである。またミラノやブレッシャでは武器・武具の製造業、ベネチアとジェノバでは造船業が挙げられる。ガラス工芸、石鹸製造、砂糖精製はどれも、ベネチアで重要な位置を占めるものであった。この都市はまた、16世紀初頭にはヨーロッパの中心的な印刷産業も抱えている。ところが教会国家は、ボローニャの製糸業を除けば、殆ど産業を持たなかった。更に南部に関して言えば、ナポリやカタンザーロその他の都市で働く織布工がいたものの、全体として(シチリアを含めて)この地域は羊毛と生糸を輸出し、織物を輸入していたのであった。 工業は都市に限られたものではなかった。都市の同業者組合(ギルド)はこれを都市に限定したかっただろうが、そうはならなかったのである。紡糸(女性の仕事)と織布(男女ともに従事した)はごく普通に農村に見られる職業であった。また15世紀のリグーリアの山地には鍛冶場やガラス製造場、それに製紙用の水車さえも設けられていた。産業の構成体は通常、規模の小さなものであった。ベネチアでは1軒の作業場にわずか6台の織機しか許されなかった。しかし組織の分散は必ずしも自立を意味したわけではない。織布工はしばしば織機を織もとの商人から借りていたし、いずれにしても原料の供給については商人に依存していた。彼らはしばしば現物で支払いを受けたが、これは紛れも無い従属のしるしである。織物産業においては、分業の結果として26の異なる職種が含まれることになったので、とりわけ様々な行程を統括するために企業家が明らかに必要であった。しかしながら、この当時の大身代は手工業で築かれたわけではなく、商業と銀行業で築かれた。それは産業資本主義というよりも、むしろ商業資本主義だったのである。 国家的資本主義の一例であり、小規模体制の産業が支配的であった中では例外中の例外でもあるのが、ベネチアの造船所である。これは船大工から縫帆工まで約1500人の人間を雇用する一大造船企業であり、流れ作業方式の組み立てラインに似たような技術を利用していた。もし教皇シクストゥス5世が、自分の立てた計画通りにコロッセオを織物工場にすることに成功していたとしたら、これに匹敵するものになっていたであろう。彼はローマの貧民を働かせるためにそうしようと企てていたのである。国家による産業への介入は通常、生糸生産のために1エーカー当たり一定数の桑の木を植えるように土地所有者に命じたり、奢侈禁止令との絡みで外国産の織物の輸入を禁じたり、役人にその地元で作られた衣類を身につけるよう求めたり、といった事に留まっていた。印刷業の場合にもっとも顕著なように、産業の機械化傾向はあったが、産業革命のようなものは全く無かった。1300年から1600年までのイタリアの産業の業績の変化は測定するのが難しいが、大体の傾向は衰退へ向かうものであったように思われる。織物業も造船業も印刷業もすべて、次第にイングランドやオランダに太刀打ちできないようになっていったのである。シクストゥス4世(在位1471-84(1414生)):リグリア出身のフランチェスコ・デッラ・ローヴェレはフランシスコ会士、司教、枢機卿、学識ある神学者、模範的な聖職管理者であった。教皇としての最初の関心は十字軍のためのヨーロッパ中の支援を取り付けることだった。大方の無関心にもかかわらず、彼は何とか一艦隊を集めることが出来、この艦隊はスミルナを占領したが、次いで内輪もめの状態に陥った。しかし彼はまもなく半島の政治を、殆ど完全に掌握するようになった。彼は、教皇領の直接的な統治を再確立するという、いまだ果たされていない仕事に着手し、この仕事を進める援助者として先例の無い数の親類縁者を教会の重要な地位につけた。だが、彼ら自身の野心がこの仕事を助ければ助けた分、混乱を引き起こし、教皇庁とローマの貴族一門の中に手厳しい敵対者を作り出し、弱体化して相手にされなかった教皇領を見慣れていた近隣諸国の疑惑を募らせた。 彼は、最初フィレンツェに対するナポリの戦争に(1478-79)、ついでナポリに対するベネチアの戦争に(1482-84)巻き込まれた(彼はフェラーラを征服しようとしてベネチアを支援する約束をした)。どちらの戦争からも教会は利益を得ることは無かった。他方、シクストゥスはバチカン図書館の蔵書の増加に寄与し、古代遺物のコレクションのまことの設立者となった。彼はシスティーナ礼拝堂を建立して一部を装飾させただけではなく、システィーナ聖歌隊を組織して、音楽の中心地としてローマの名声を生み出した。レート、アルギュロプロス、フィレルフォなどの訪問者や移住者によって、ローマは人文主義的学者を魅了する点でフィレンツェの競争相手となった。図書館を装飾するために雇ったメロッツォ・ダ・フォルリに対する特別の愛顧のおかげで、我々はレオだけではなく、また彼の議論の余地ある甥たち、すなわちラッファエーレ、ジュリアーノ(後のユリウス2世)、ジローラモ、ジョヴァンニの肖像を、更に彼の図書係で、ローマを再建し、古の栄光を回復しようとするシクストゥスの努力を讃えた記銘を指差すプラーティナの肖像を持っているのである。自然:人間が自然界という意味での「自然」にどのように対応してきたかということは、自然に対する人間の反応の痕跡によって部分的に判断されうるにすぎない。なぜなら絵画や文学、造園、そして住宅の配置にしても、全て自然への対応は慣習に支配されているからである。絵画について言うならば、風景画は長きに渡って肖像画の下位におかれていた。しかしアンブロージョ・ロレンツェッティがフレスコ画「善政の寓意」(1337-39、シエナ)を描いてから、個別的に観察された自然の細部を装飾的に組み立てた風景ではなく、広々とした田園の実景の幻影を表そうとする傾向が生じた。幾何学的な線遠近法がそのような場面を構成する助けとなり、ひとたび風景画が統一的なまとまりを獲得すると、今度は個人の心情を表すことも可能になった。……その後、ニッコロ・デッラバーテやヤーコポ・バッサーノといった画家たちの作品は、風家が事実上、まことの主題であるかのように画面内の人間を支配している絵画への嗜好を示している。……文筆家たちはペトラルカ以来、田園に見出した慰めであるとか、牧場や森、小川のせせらぎ、そしてそれら自然の中の小鳥や草花に感じる喜びを言い表してきたが、殆どの場合そこには読者の注意を喚起するための作為的要素がある。つまりその田園の描写には、古典田園詩の借用、北方騎士道の冒険や狩猟の楽しみへの活発な反応、田園と都市との対立などといった要素が織り込まれているのである。ただし教皇ピウス2世がその自伝的『回想録』のなかに表明した田園の喜びは明らかに純粋なものであり、その感情は教皇が自らの宮殿にアミアータ山を広々と展望するピエンツァの地を選択したことに示されている。もとより田園生活を送るについては、土地の領主であるとか、夏場に都市で発生する疫病からの非難とかいう、それなりの理由が実際にあった。けれどもゴッツォリがパラッツォ・メディチにフレスコで描いた城郭的別荘が、きわめて自由に点在する風景(「マギの礼拝」)は、画中の田園の住まいが実用的であるとともに快適であるとみなされたことを示唆する。そして1470年代以降、田園の別荘(ヴィッラ)が次第にその防御的側面を失うにつれて、快適な田園の住まいといういまひとつの側面がはっきりと現れてくる。……時測法:ルネサンス期のイタリア人、とりわけ商人は時間のことを、浪費すべきではない高価な必需品であると考えていた。彼らは時計に従って生活するようになった最初のヨーロッパ人内に数えられる。機械仕掛けの時計は13世紀の末ごろに発明され、14世紀以降のイタリアの主要な都市ではどこでも、時計台の時計として見受けられるようになった。一方、家庭用のぜんまい時計の出現は15世紀にさかのぼりその中には目覚まし時計まで含まれていた。更に懐中時計も1500年ごろに現れている。しかし時間のほうは現代のような方法で数えられたわけではなかった。短い時間はクレドかあヴぇ・マリアの祈りを1,2回唱えるのにかかる時間で計られた。また昼間(日の出から)の時間と夜間(日没から)の時間を別々に計測する古代ローマ式の方法も、時計で一日を24時間に区切る方法と並んでまだ使われていた。「夜の2時に」というのも普通の言い方ならば「22時に」というのも普通なのである。一年は、ローマやフェラーラのように1月1日に始まると考えられていた都市もあれば、フィレンツェやベネチアのように3月の終わりに始まるとされていた都市もあった。時測法の大きな変化はこの時代の終わり近くに生じた。太陽年と教会暦年との間の食い違いをなくすために、教皇グレゴリウス13世が1582年に勅書を出し、その年の10月から11日間を省くことによって暦を修正したのである。実践的生活と観想的生活:洞窟にすんで木の根を食する陰修士を除いて、瞑想する少数の人々に依存して生活する。修道院、書斎、大学、そして写字室は、官吏や商人や軍人によって支援され擁護されている。中世キリスト教は来世での救済を得るために現世を放棄することを強調したが、その結果、社会ははたらいたり闘ったりする人間と、祈る人間とに理論的に分断されることとなった。この定式は、14世紀イタリアの市民生活という多忙で社会的に複雑で政治的に苦労の耐えない状況においてますます不適切なものになった。とりわけ道徳や倫理学に関して、キリスト教的著作よりも古代ギリシャ・ローマの著作の意義に何にも増して思いをめぐらせていた。個人の写気的信用を危ういものにした。この葛藤に感動的な表現を与えたのがペトラルカの『秘密』(1342-43)である。本書は不安定な対話であり、そこで著者は、女性を愛し名声を博し、異郷文学を学習することに対する自らの傾向を、同じ誘惑にはじめは負けたが、後にこれに打ち勝ったアウグスティヌスを使って非難させている。 ペトラルカがすべての異郷作家の中でとりわけ魅力を感じたのはキケロであった。キケロは、人間の情念が持つ、頼りになるが移ろいやすい性質、或いは死といったテーマに関する、勇敢な道学者であった。キケロによる無二の友人ポンポニウス・アッティクス宛の所管を345年に発見し、キケロが国政に深く介入していたことを知ったとき、ペトラルカはキケロの遺霊に向けた手紙の中で、自らの動揺と失望を表明した。アリストテレスやプラトンのような哲学者が、彼らの知恵を君主たちにどの程度まで惜しげ無くささげたか、道徳哲学は自己完成への個人の強い衝動と社会における個人の役割との間隙を埋めるためにどの程度まで構想されていたのか、ということが古代世界についての知識の増大によって明らかになったのもこの時代である。 サルターティやブルーにのような、哲学的関心を持つ人文主義者たちが書記官としても、つまり一種の政治家として職につくことによって、知恵と救済の追及は必ずしも政治への参画と矛盾しないという考えが、おそらく助長された。この考えはパルミエーリやアルベルティのような思想家によって支持されたので、15世紀中ごろまでに弁解がましい語調から脱却することになる。その際に特に寄与したのが、世俗的な生活に責任を持って参入するにふさわしい人間を形成するために考案された、古代とキリスト教の両方の理想に基づく教育上の諸理論であった。高利貸の(つまり巨額な)利益を教会が是としないために、遺言を作成する際に良心の同様が商人を襲うことがあったとはいえ、15世紀末までには、実践的生活と観想的生活をめぐる論争は下火になった。古典の影響を受けた道徳哲学によって個人に押し付けられた規範は極めて厳しいものだったので、来世を主眼に置いたキリスト教的倫理学との矛盾は露呈しなかった。実際、正義や度量の大きさといった特定の徳は、それらを行使する能力を持った人たちにおいてのみ完全に発揮されると考えられていたのである。この論争は、カスティリオーネの『宮廷人』のような著作では、軍務に服する公的な生活と文芸をたしなむ私的な生活との相対的な長所をめぐる論争という、より肩のこらない領域へと移されることになった。