2009年4月2日木曜日
ルネサンス事典(抜粋) 2
エステ家:この古い貴族の家系に関する最初期の資料はカロリング朝時代のトスカーナにまでさかのぼるが、よく知られているのは1250年からナポレオンの時代までの北イタリアの政治と文化に果たした指導的な役割によってである。その領地をパドヴァ近郊のエステの帝国領から広げ、エステ家は中世後半はしだいにポー側流域の東半分を統治するようになった。1267年以来フェラーラとその後背地を支配し、最終的には支配地を西はモデナとレッジョまで、北はロヴィゴの平坦地まで拡大した。その時代の支配階級の家系としては、きわめて長期にわたって安定した政権を維持した。この成功を説明しようとする近年の試みは、彼らの行政能力、社会的問題や経済的問題への配慮、内部の反対者に対する迅速な抑圧などを指摘している。この家系からは多数の著名な支配者、高位聖職者、そして視覚芸術、文学、舞台芸術の保護者が出ている。支配者階級間の政略結婚を利用し、特に16世紀には他の貴族の家系と緊密な関係を築いた。その相手となったのは、イタリアではスフォルツァ家、ゴンザガ家、モンテフェルトロ家であり、北ヨーロッパではハプスブルク家、ヴァロワ家、ハノーファー家である。遠近法オウィディウス科学家族構成ガリレオ・ガリレイガレー船キケロ騎士道技術:ルネサンスの技術は、科学以上に中世の創意を基盤として発展した。ウィトゥルウィウスは建築に影響を与え、フロンティヌスは水道の建設に影響を与えたが、16世紀にもっとも注目されたのは羅針盤、火薬、印刷術の発明(それぞれ12,13,15c)であった。ルネサンスの技術者には多方面の知識が要求され、建築家には民間と軍事の区別も、設計者には建築と機械の区別も存在しなかった。海事のみは他と異なる知識が要求された。造船は特殊な技能であり、その建築家は不足していたが、ルネサンス期には交易と探検のための完全装備の帆船が発展した。そして科学(天文学と数学)の応用によって、航海者が大洋上で自分の位置を決定することが容易になった。ただし、イタリア人が活躍したのは探検の初期だけであった。 運河と水利技術、治水と運河建設の歴史は途切れることがない。と言うのも社会が適度に組織化されれば、必ず治水、土地改良(水はけを良くする)、灌漑,水運の便などが必要とされるからである。こうした作業の初期の中心地はミラノであった。13世紀にミラノはティチーノ川と結ばれ、15世紀にこの都市は別の運河によってコモ湖やポー川と結ばれた(後者にはレオナルドも関与した)。これらの運河はやがて中世の水門より洗練された閘門の発展を促し、15世紀には囲い式の閘門が考案された。これらは1450年代にアルベルティによって『建築論』に記載された。この書物はルネサンス期の建築と技術の密接な関係を明白に示している。最初期のデッサンの中にレオナルドによるもの(1470頃)があるが、彼は後に斜接扉(水門などの開閉に用いられる両開きの扉)を考案した。ミラノの運河のひとつは導水橋の上を通っているが、当時としては斬新な構造物であった.ローマ近郊のポンティーネ湿地の排水は1514年ごろから何度も計画された.他の人々と同様にレオナルドの構想もよく考えられたものであったが、シクストゥス5世の時代(!586頃)まで作業は殆ど行なわれなかった。こことトスカーナにおいて17世紀初頭に、排水、治水、港湾建設などの作業が着手された(ガリレオはコンサルタントとしては余り成功しなかった)。河川の制御には動力源としての利用もあった。製粉機や一般的な伝動装置のための水車は中世後期にますます広い範囲で使われるようになったが、当時の発明の際ある人々の考察の対象となった。……これらの人々やその後継者らは、ポンプ、杭打ち機、歯車クランク、水力や他の機会に適した調速期などの数多くの設計図を作成した。実用的なものもあったが、一部の独創的なアイデアは、より進んだ冶金学や製造技術を必要とした。 窯業:中世のヨーロッパには、同時期に中国やペルシアで発展していたような洗練された陶器制作技術がかけていた。この技術はスペインに伝わり、錫白釉の上に光沢のある銅の釉薬をかけたイスパノ=モレスク冬季を生み出した。11世紀初頭までにイタリアの陶器製作所は、錫の釉薬を用い、つぼを金属塩で装飾し、誤解を招きやすいマヨリカ焼きの名で呼ばれるイタリアで最初の洗練された陶器を生み出した。15世紀までにスペインから銅の釉薬の技術を手に入れ、この世紀と次の世紀には複数の製造拠点が発展を遂げた。芸術的な達成度やスタイルはそれぞれに異なる独特のものであるが、用いた技術はどこも同じであった。これらは1550年ごろに、カステルドゥランテの陶器製造業者の一員であったキプロス人ピコルパッソ(1524-74)が『窯業に関する3巻本』の中で記述している。そこには年度や着色剤の調合、轆轤の製作、釜の設計、器の焼き方についての詳しい情報も記載されている。 ガラス:イタリアではガラス製造技術は、1291年以降ベネチア共和国に、それもとりわけムラーノ島に集中していた。14世紀にここで着色ガラスが製造された。15世紀中ごろまでには透明ガラス(クリスタル)と眼鏡用のガラスが製造されていた。イタリア人は海草の灰を用いてソーダガラスを製造した(北方のガラスは必然的に木灰を用いた)。成分やこれらを融解させる坩堝の製作、あるいは釜の製作はいずれもビリングッチョによって詳説されている。また着色ガラスに必要な素材はアントーニオ・ネーリによって『ガラス製造術』(1612)の中で明記されている。ネーリはクリスタルガラス、鉛ガラス、焼付けガラスの製法についても記述している。ベネチア製のガラスに対する高い評価は、そこで発展した精巧な造詣と装飾の技術に負っているが、これはムラーノで訓練されたガラス職人によってヨーロッパ中に普及した。ガラスは器や窓や鏡ばかりでなく装身具としても使われたことを忘れるべきではない。機械技術:建築家、軍事技術者、発明からが用いた機械装置は多彩であり、偉大な古代の機械の多く(起重機)、中世の新しい機械の若干(風車、製材鋸、ポンプ、水力ハンマー),そのほかに15世紀及び16世紀に発展した機械などがある。すべては建築家や技術者の手稿に記述され、後には「機械の書」の中で印刷されたが、その豊富な図版はルネサンスが機械仕掛けの創意工夫を好んだことを示している。シクストゥス5世治下のヴァチカンのオベリスク設置は,すべてがそれほど実用的な装置であったとはいえないにせよ、その証拠である。精巧な歯車とクランクによる動力伝達装置に多くの関心が払われた。機械装置は生活のすべての側面に適用され、図書館でさえもその対象となった。より世俗的な水準では、職人の機械的な工夫が新たな織布法を生み出し、紬車も改良された。 印刷術:活字による印刷術が最初に発展したのは北方ドイツであったが、15世紀のベネチアではトランプの印刷が広く行なわれており、ベネチアや他のイタリア諸都市がすぐにこの新技術に着手し、印刷本の作成でドイツを脅かすにいたった理由は、恐らくこの事実によって説明される。この技術には、プレス機の利用や粘性のある印刷インクの開発だけではなく、鋳造活字の政策も必要だった。最も古い解説はビリングッチョによるもので、1540年に、組成、鋳型や母型の製法、そしてここの活字の鋳造について記述している。その後3世紀にわたって利用された方法と基本的に同じであった。 火工術:正確に言えばこれは冬季、ガラス、活字鋳造など火に関連する(おおむね化学的な)技術を含んでいる。加えて、採鉱や冶金、金細工の作業、鋳鐘術、鋳砲術、青銅像の鋳造、鉱物の扱いが含まれる。これらの職業は完全には区別出来ない。金細工師、鉱山業者、冶金術師、金属鑑定人はいずれも貴金属(金や銀)を発見して生成する方法や、金を銀から分離する方法を知る必要があった。伝統的な慣習の要素が強いために、化学的過程に関する知識の増大は隠されていた。12世紀には強い無機酸は知られていなかったが、14世紀までには強水ないし分離酸(銀を溶かすが金は溶かさない硝酸)が登場していた。ビリングッチョの時代までには硫酸や王水(現在は硝酸と塩酸の混合物だが当時は鉱物の混合から作られた)が知られていた。塩酸に対する明確な言及が始めて登場するのは1600年ごろである。合金の製造や金属鉱石の採鉱は広く実践されていた。イタリアにおいては、水銀の採鉱と、アマルガムや金細工での利用、そしてその毒性は広く知れ渡っていた。 鉱石の精錬や金属の精製には様々な炉、火床、ふいごの作成が必要だった。ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタも、チェッリーニもビリングッチョもみな新しい反射炉のデザインを記述している。最初にこれを描いたのはレオナルドであった。機械の製作も砲身の穿孔や火薬の調合を含む鋳造技術と関連しており、火工術の範疇に含まれるものであった。16世紀の末までは科学の技術が薬学に広く使われることは無かった。例外は蒸留によって植物エキスを抽出し、アルコール性強壮剤やアルコールを作ることであった。教育:工業改善のヨーロッパでは、教育は近代におけるような役割を果たしていなかった。近代の教育は青年期を長引かせ、若者を労働力から引き離しておくことになった。だが、中世・ルネサンス期のイタリアの都市においては、教育とは社会生活や各種の職業、医者や法律などの専門職にもっと直結した必須知識を教えるものであった。ルネサンス期の教育を研究する歴史家がグァリーノ・ダ・ヴェローナやヴィットリーノ・ダ・フェルトレのような一般に比べて革新的な人文主義者である一握りの教師にばかり注目しすぎていたために、これまではこの基本的な事実が十分に吟味されないままになっていたのである。ヴィッラーニの『年代記』は幾つかの興味深い数字を挙げており、現代の学者達の多くはこの数字をほとんど誇張の無いものとして受け入れている。1340年代には約1万人の少年(都市人口のおよそ1割)がフィレツェの私塾に通っていた。彼等はそこで、複雑な社会の中で働くのに必要となる読み書きの初歩を習ったのである。教えられたのは俗語で、基礎的な読み書きの出来るようになることが目標であったらしい。これらの少年のうち約千人のみがそのまま続けて商人としてやっていくのに必要な数字の処理技術、つまり算術や簿記やそろばんの使い方といった技術を習った。そしておそらく500人ばかりがさらに続けて、法律や他の専門的な職業に必要な古来の学科、すなわちラテン語、修辞学、論理学を学んだのである。こうした少年は大学へ進学するはずであった。 フィレンツェでは他のイタリア都市以上に、識字力と教育に重きがおかれていたように思われる。このことは、商人やその他のギルド構成員が学業というものを非常に尊重していたことを示すものである。その他の地域、事にロンバルディアとエミリアの君主国家では、大抵は修道院や女子修道院の付属学校が子供の指導を受け持った。そこではきわめて伝統的な文脈の中での道徳を教えるとともに、当然ながら祈祷のためのラテン語を重視していた。15世紀の最も革新的な学校が北部のフェラーラとマントヴァの宮廷に付属するものであったと言う事実はこれらの学校やそれと同様な教育の中心が、その規模と質においてフィレンツェのものに匹敵するような初等教育システムを発展させられなかった事を反映しているかもしれない。そしてこのことは、一種の集中化されたパトロネージのシステムのあり方とも整合しているように思われる。そこにおいては、あらゆる種類の文化的イニシアティブは、都市を支配するエリート層の特定の要求に応じる形でとられるのみである。このエリート層が、独裁的都市ではフィレンツェよりも小さく、集中する。同時にそのエリートが求め、支援する教育システムも、限られた階層の利益と価値観に向けられると言うわけである。グァリーノやヴィットリーノの人文主義に基づく学校では、少年達はさまざまな技術、科目、徳目を教授された。これら博学な教育者は、ただ都市貴族の需要に応じたわけではなかった。彼ら自身が古典文学や歴史や道徳哲学を学ぶことに情熱を傾けており、そうした熱意から導き出された価値体系に従って若者を仕込もうとしたのである。ギリシャとローマの古典を教えることは、彼らの観点ではキリスト教の倫理上・精神上の教えと十分に両立可能なものであったし、彼らの生徒はどちらの伝統にも通じるようになるはずであった。肉体の鍛錬及び音楽や美術の鑑賞は、彼らの指導計画の中で重要な位置を占めていた。その限りで彼らを人文主義的な教育、或いは教養教育の先駆者と見るのは正しい。しかしグァリーノやヴィットリーノ及び彼らの後継者達は教育の範囲や内容を広げたが、その一方で彼らの教授用は依然として伝統的なやり方のままであった。16世紀もかなり経って印刷術の影響が教室に感じられるようになるまでは、学校での学習活動で重要なのは復唱と暗記であった。殆どの授業が、一冊の書物を生徒に読んで聞かせるという単純な内容であった。自由な思考力は機械的な暗記学習に厳密に従わされた。その結果、古典を知ることは屡、さらに知的に成長させるための手段と言うよりも、それ自体一つの目的となったようである。しかし時として博覧強記に陥り、授業を退屈なものにする傾向があったとしても、この方法は、長じて学者や教養のある君主や高位聖職者となった少年達を、そして彼らを後援したパトロン達を刺激・鼓舞するのに確か違約だったのである。 ルネサンス期の女子教育には特別な困難が伴っていた。古典の教育を受けたごく少数の女性達は、彼女達の知識を生かす術を殆ど、或いは全く見出さなかった。しかしながら大半の少女はそもそも正式の学校教育を受けることが全く無かった。またそうした教育を受けた者も、普通は読み書きの基礎だけを教わった。所帯を切り回すにはそれで十分だったのである。彼女達はまた女性に特にふさわしいと信じられていた技芸も身に着けた。すなわち裁縫、糸紡ぎ、機織、ダンス、時には楽器の演奏の仕方も習得した。勿論修道生活に入った少女の多くはある程度のラテン語を習ったが、それは純粋に祈祷の目的のためであった。個人的な蔵書を持つような身分の高い女性でさえも、所有していたのは主に聖務日課書、時祷書、聖人伝、その他これらに類したものであった。当時の女性で大学へ行ったものはいなかった。イタリアの大学で学士号をとった最初の女性はベネチア貴族であったエレーナ・コルナーロ・ピスコピーアで、1678年のことである。女性教育に対する姿勢に関して人文主義は、その主義者が賞賛し模倣に務めていた古代文明の文化的価値尺度に従ったのであった。銀行業:14世紀から16世紀のはじめにかけて、イタリア、とりわけフィレンツェの銀行家達は金を貸し付け、自分のものではない(例えば教皇庁の)金の集金を代行し、為替手形の換金や引き受けを行い、通貨を両替し、保険を設定するなど、ヨーロッパで最も多忙にして富裕であった。加えて、大抵は毛織物や絹織物の織元を買い取ったり、支店の助けを借りて直後に商業活動に従事したりして自身の資本を様々に活用していたのである。フレスコバルディ、ペルッツィ、アッチャイウォーリ、バルディといった14世紀初期の大銀行のうちでも、バルディなどはアンコーナ、アクイラ、バーリ、バルレッタ、ジェノヴァ、ナポリ、オルヴィエート、パレルモ、ピサ、ベネチア、さらにイタリア以外ではセビリヤ、マヨルカ、バルセロナ、マルセイユ、ニース、アヴィニョン、パリ、ロンドン、ブルージュ、ロードス、キュプロス、コンスタンティノープル、エルサレムにも支店を持っていた。各地の支配者(特にイングランドのエドワード3世)に対する信用貸付が巨額になりすぎたために、1340年代にバルディとペルッツィが倒産に追い込まれたが、他の銀行は生き残った。そして銀行業におけるフィレンツェの優位は、メディチ銀行の台頭によって確実なものとなったのである。メディチ銀行は1397年に設立され、15世紀半ばにはミラノ、ピサ、ベネチア、ローマ、そしてイタリアの外ではジュネーブ、ブリュージュ、ロンドン、アヴィニョンに支店を持つようになっていた。16世紀の初頭以降、イタリアの銀行は半島外での業績が振るわなくなった。既に彼らの業務に対する需要が減少して、打撃を受けていたのである。ただしジェノヴァは例外で、ここではパッラヴィチーニ家、スピノーラ家、サウリ家のような銀行家がそれまで以上に富を蓄えて言った.新大陸との貿易を行い,新大陸の金銀から得た収入を処理すると言う問題を抱えていたスペインの経済が、彼らへの依存度を次第に高めたからである。とはいえヨーロッパにおける主導権はフッガー、ヴェルザー、ヘフシュテッターといったドイツの大銀行に移ったのであった。 上述の銀行はすべて「大銀行」として知られていた。これらの銀行は一般大衆のためには業務を行なわなかった。それは質屋やその同類ではあるが社会的には上と見られていた「小銀行」の領分だったのである。彼等は両替をし、抵当を取って金を貸した。抵当は普通、宝石であった。大銀行もこれと同じ役目を果たしていたが、それに加えて、特に為替手形について国際的な規模で取引をしていた。承認などの旅行者や軍隊の主計官は、為替手形を振り出した商社の資本基盤が健全であることが分かっていれば、その手形を現金化できたのであった。利益は主に日常の業務の収入から得られていた。各国の君主に対する大口の貸付は、1440年代以降、避けられるようになった。ただし商業特権を得るため、或いは滞在特権を得るためにさえ効した貸付の必要なことがあり、その場合は例外であった。 同じ時期から倒産に対する別の用心もなされ始めた。従来の慣行では共同出資者の間の短期契約が恒常的に更新されていく形で一つの会社を維持していた。法的にそれぞれの支店を別個に扱うようにするシステムがここに加えられることになったのである。それらの支店を個別の法人として独立させ、会社の代表の署名と資本投下によってのみ親会社につながっているものとすることによってこれが可能になった。だからこそブリュージュにあるメディチ銀行の支店がロンドン支店の債務不履行について告訴され、保証を求められるようなことはありえなかったのである。これらの個別の契約において、支店長が自分の責任で決定を下すよう奨励しておくことは、情報伝達の遅さゆえに不可欠であることも認識されていた。半ば独立した支店がそれぞれ個別に親会社(現在の持ち株会社に似ている)とつながるこのシステムは、普段の監視と信頼できる人間の雇用とを必要とした。ロレンツォ・デ・メディチがこのどちらにもかなり無関心であったことが、メディチ銀行の没落に大きく影響したのである。 銀行家は貸付を一時的な贈与(任意に贈られる返礼によって返済されることになる)と偽ったり、為替業務と見えるもののうちに隠蔽したりして、高利貸をしていると言う教会の非難をかわした。為替手形を外国の通貨で現金化したり、外国で振り出された手形を現金化する場合は、リスクを埋め合わせるために付加金を請求することが合法とされたからである。銀行家達の会計帳簿(1340年以来、次第に複式記帳法を用いるようになった)には、項目として「利息」の変わりに「為替の損益」と言うのがある。手間隙掛かる偽装の工夫と言う犠牲を払って、世間体を買ったわけである。クリュソロラス、マヌエル(1350-1415):イタリアにおけるギリシャ語学習の伝説的な創始者。恐らく彼の影響は、従来からの伝説が示唆する以上に大きかったであろう。彼が最初に西欧に来たのは1394年、トルコ軍に対抗する援助を求めるため、ビザンツ皇帝マヌエル2世の使者としてであった。その折に知り合ったのがもとで、サルターティは彼のために、フィレンツェ市がギリシャ語の有給の教授職に招くよう手配した。1397-1400年の3年間のきわめて意義深いフィレンツェ滞留後に、彼は同市を去った。後に彼は再び西欧に戻ったとはいえ、余生は主として外交の仕事で忙殺された。彼の弟子の中には、ブルーニやヴェルジェリオやパッラ・ストロッツィやニッコリなどがいた。彼はこれらの人々にギリシャ語を教えたのみならず、より重要と思われることは、古典期の文学や思想や芸術に対する限りない情熱を授けた点である。経済:ルネサンス期には「イタリア経済」なるものは存在しなかった。その代わりに多くの局地的経済が存在していた。あるものは一地方の範囲で、またあるものは国際的な広がりを持ち、それらが半島という地理的なまとまりの中に押し込まれていたのである。相互に依存している経済圏もあれば、周期的に激烈な競合関係になるところもあった。人口が密集する地域がいくつか生じ、大都市は一種の磁石の役割を果たして平野の村々から富裕な階層を移住させ、山地から出稼ぎ労働者を集めた。都市は商人や金貸し、一攫千金を夢見るものの天国となったのである。彼らは自分の必要を満たすために穀物や塩、燃料、木材、工業用の原材料、建築資材を手に入れたが、それによって、自らの本拠とする地方の範囲をはるかに超えた発展を刺激しうるような需要を生み出した。ロンバルディア、トスカーナ、リグーリア、そしてベネチアとその後背地は、積極的で独創的な企業家や投機家や国外移住者を育成し、彼らの影響力は来た=西ヨーロッパへ、東地中海へ、さらにそのかなたへと広がったのである。少なくともベネチアとフィレンツェでは、彼らは常に膨張し続ける国家を作り出した。ギルドを基盤としたり、商人貴族に支配されたりしていたこれらの国家の目指すところは、少なくとも部分的には商業活動を守り、振興し、統制する実行力をつけることにあった。一方、ローマ、パレルモ、ナポリ、メッシーナといった他の都市は本質的に消費の中心地であり、農村の所領や聖職禄から得た収入、あるいは税収入を小領主から宮廷人、官僚、枢機卿が使っていた。しかし、こうした都市にしても都市の本来の住人に依存するよりは、その道に通じていて利にもさとい商人や金融業者の活動に依存した為、イタリアの他の地域の住人の独創性を刺激し、富の分配に一役買うことになったのである。 経済史家がイタリアの盛衰について語るときには、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェの形成する四角地帯の内部で、先進的な地方が輸送・手工業・金融・交易に関する主導権を保持し、国際的な商業の中で大きなシェアを確保することに成功したとか、失敗したとか言うことを論じるのが常である。こうした主導権は、これらの地方が14世紀初頭までに確立していたものであった。ここに生じた反映はイタリアの他の地域にも波及したに違いない。ひとつには地理的条件が幸いした。陸・海を介してレヴァントから低地地方、イングランドへと至る商業路において、北=中部イタリアは有利な位置を占めることが出来たのである。さらに、そうした商業路はヨーロッパと外界との交易の主軸を成していたし、胡椒やその他の香料、絹のような特殊で高価な東方の商品を(武装を固め、よく訓練されたベネチアとジェノヴァのガレー船で、あるいはまた15世紀にはフィレンツェのガレー船でも)一手に引き受け、輸送したのもイタリア人だった。これほど特別なものではないが、ジェノヴァのコグのような大型帆船がヨーロッパの織物工業に必須の商品を運んでいたことも、イタリアの繁栄の一員である。エジプトの綿花や小アジアのフォカイアの明礬がここに含まれる。イタリア商人は各地の支配者に財政的な援助をし、羊毛輸出の免税権を始めとする特権を得ていたが、彼らの経済上の主導権はそのことと密接に結びついていた。しかもそうした羊毛はイタリアの毛織物工業を促進したわけである。工業の分野ではイタリアは輸出用の商品、特に各種の織物の生産を主としていた。これらは現金の変わりにされるほどの高い品質と評判を誇り、ヨーロッパから東方へ正貨が流出するのを阻止できたのである。 発展した経済がみなそうであるようにイタリアの経済もまた、顧客たちが自力でこうした業務を行うようになるかもしれないという危険性に直面した。万一、顧客がイタリアの銀行家の代わりを見つけたり、債務の支払いを拒否したり、羊毛を輸出する代わりに自分たちで織物を製造したり、イタリア製のものを真似た安物を市場に送り出すような事態になったときは、商人の適応力と、出来る限りのチャンスを求めて、新たな土地・商売に乗り出していこうとする気力とが、大きくものを言うはずであった。イタリア諸都市の経済には農業事情によって常に制約があった。それはイタリア自体の事情のみならず、イタリアが商品やサービスを輸出している相手の国々の事情によるものでもあった。農業は消費者人口を維持できるとともに、商工業で雇用される人口を十分に維持できるものでなければならなかった。当然ながら、市場の拡大は人口の規模いかんにも左右された。もし農民と穀物商がこの人口の需要を満たせなければ、パンの価格は高く不安定になって、工業製品に対する人々の購買力をそぐ危険性があったし、そうした工業製品を作る労働力が基金や病気で激減する可能性もあったのである。ロンバルディアのような1,2の恵まれた地方を除けば、イタリアの農業は劇的な進歩を殆ど見せず、また農民が耕地を改良できるだけのたくわえを持つことはめったになかった。封建領主や聖職者が地代やその他の付加を吸い上げたこと、都市の市民にばかり有利で農民には不利な税制が施工されていたこと、そして分益小作契約が行われていたことなどがそれを阻害していたのである。顧客: 黒死病(数多くのペストの流行のうちで最悪のもの)は、14世紀半ばの経済に全般的な危機をもたらした。残酷な見方をすれば、疫病は一種の人口過剰の強制と考えられるかもしれない。しかし実際には、フィレンツェの毛織物工業の生産高は人間の数の減り方よりも急激に落ち込み、食料の価格は上がった。これはいろいろな断片的な資料の示唆するところである。トスカーナにおける人口の停滞は優に15世紀まで続いたが、これはおそらく疫病の流行の影響のみならず、劣悪な生活条件に対応した出生率の低下をも占めるものであろう。人口は適正に調節されなかっただけではない。今度は逆の極端に向かい、当分の間は(おそらく16世紀に人口が回復するまでは)経済発展を刺激することなど出来なかったのである。 15,16世紀には、イタリアの主要な地域経済はそれぞれに、しばしば困難に直面した。これらの困難はひとつにはイタリア外の競争相手の存在に、ひとつには戦争、気候、疫病のような非経済的な不可抗力に、またひとつには15世紀の地理上の発見と東回りの外洋航路の開拓による経済圏の拡大に起因するものであった。少なくとも17世紀初頭までは、これらすべての地域経済が新しい活動分野を開拓することで、伝統的な分野の損失をある程度まで埋め合わせることが出来たことは明らかである。総括的な統計がないので、長期的には経済が低落したのか、繁栄は続いていたのか、いずれにしても簡単に説明することは出来ない。上で述べたような危機的状況が例えばトスカーナとロンバルディアの相対的な地位を変化させたために、それまでとは異なる地域を繁栄させるのに一役買ったということはありえよう。もっともフィレンツェの毛織物工業の衰退は、絹織物工業の隆盛によって相殺されている。また、ジェノヴァ人はトルコの征服で黒海を失ったにしても、自前でその埋め合わせをしていた。彼らはスペインとの関係を深めて、新大陸への航海に対する財政援助に関与するとともに、時には海軍の戦力を請け負うなど直接スペイン王室のために働いていたからである。しかしながら国王への貸付のせいで、結局のところジェノヴァ人とその債権者たちは、フェリペ2世の破産宣告のたびにともすれば手ひどい痛手をこうむることになった。一方、ベネチアは、レヴァントにおいて粘り強く権益を維持してはいたものの、(東インド航路を開いた)ポルトガルが香料市場で安売りをするという脅威に直面した。しかし香料貿易に対するポルトガルの支配力は、エジプトとシリアを経由して商品が入り込むのを阻止できるほど確固たるものではなかったし、外洋ルートの固有の利点もポルトガルの当面の勝利を揺るがぬものとするほどには大きくなかった。しかもベネチアの多くの資本は16世紀に手工業と農業(湿地帯の干拓を含む)へ投下されるようになり、資本の振り替えが成功した。また、スペインによるイタリアの北部と南部の支配権は、一台帝国を築くというハプスブルク家の野心遂行のためにミラノとナポリの副王国から富が吸い上げられることを意味しただけではない。少なくともロンバルディアには何らかの援助金が送られていたからである。1572年にて一地方で戦争が起きると、オランダへ向かう軍勢と軍資金が北イタリアを通過してゆき、イタリア各地の経済にスペインの銀がある程度流れ込んだ。 16世紀には、イタリア各地の経済が国際貿易から得る利益はおそらくそれ以前よりも小さくなったが、人口の増大と他の大陸での市場の開拓によって国際的な貿易高が増加しているので、絶対的な衰退に陥ることはなかったであろう。だがその繁栄も、17世紀初頭のイングランド人とオランダ人の活動によって、強烈な、おそらく決定的な打撃を受けた。彼らは地中海とレバント市場を迂回する一方で、そこに進出してきたのである。また30年戦争に伴って不況が延々と続いたこと、恐ろしい疫病が繰り返し流行したことも痛手となった。都市の衰退はおそらく農村地帯よりもはるかに深刻であった。この事態にあっても農村部には多くの手工業が新たに起こされつつあった。賃金が年よりも安いために楽に支払えたし、都市のギルドや国家の厳しい管理を免れることが出来たからである。