2009年4月2日木曜日

ルネサンス事典(抜粋) 1

アウグスティヌス: Augustinus(354-430)ラテン教父。ヌミディアのタガステ生まれ。ローマとミラノで修辞学を教えた後、マニ教徒からキリスト教徒に改宗し、ヌミディアのヒッポの司教となる。古代の修辞学とプラトン哲学を学んだ彼は、「エジプト人から略奪すること」、すなわちキリスト教に役立てるために古代文化の最上の部分を用いることの正当性を主張し、この立場はルネサンスの人文主義者たちによって受容された。アウグスティヌスの思想は絶えず発展し、いくつかの異なる神学体系をその中に析出することができるので、そこから「アウグスティヌス主義」という言葉のあいまいさも生まれる。観想の諸段階を通じての霊魂の上昇に関する彼の示唆と、精神的照明についての彼の理論は、中世後期、そして15-16世紀に再び影響を与え、彼の思想が持つこれらの側面はプラトン主義者、とりわけフィチーノの関心を引いた。しかし、16世紀の環境にあって「アウグスティヌス主義」は、きわめて屡々、恩寵と義認をめぐる一連の神学的立場に関係している。 アウグスティヌスは『告白』において、改心の心理学を探求し、神が彼の霊魂を無の段階から真の存在の状態へと変容させたという確信を表明している。さらに、比較的後期の反ペラギウス主義的著作において、人間は、援助を受けない自己自身の力によっては功徳を得ることができないことを力説している。万能の神の恩寵についてのアウグスティヌスの神学は、プロテスタント的神学者と、カトリック教会の中に留まりつつも苦悩する多くの探求者に影響を与えた。アウグスティヌスの心理学もまた、ルネサンスにおいて大きな権威を持っていた。これは、理性と情念の二分法を措定する代わりに、医師の概念に注目する。この心理学には、アウグスティヌスの情動の価値付けが結びついており、反宗教改革期の精神性に甚大な影響を与える事になる。アクィナス、トマス: St. Thomas Aquinas(c.1225-74)ドミニコ会の神学者にして哲学者。彼の思想体系は「トマス主義」と呼ばれ、ルネサンス期を通じて大きな影響を与え続けた。彼はカンパーニャの由緒ある家系に生まれ、パリとイタリアで教えた。彼の偉大な著作は『対異教徒大全』Summa contra gentilesと『神学大全』Summa theologicaである。彼は当時の神学者たちの仲でも、世俗の哲学の受容能力、理性に対する高い評価、「自然」の擁護の点において際立っており、中世のラテン・キリスト教思想に最も豊穣な影響を与えた一人である。 彼はアリストテレスとラテン世界の新ストア主義に深く負っている。彼の形而上学的概念は本質的にはアリストテレスのものである。すなわち、アリストテレスの「形相」と「質料」の概念は、アクィナスの神学においては、本質と存在にそれぞれ対応する。彼は、理性的霊魂を人間の「形相」と定義することにおいてアリストテレスに従っているが、確かに16世紀になってポンポナッツィが主張するように、霊魂は身体から離れても存続しうるという彼の確信は、アリストテレスの「エンテレケイア(現実化する形相)」という概念とはおそらく合致しないだろう。ストア哲学に従いながら、彼は「自然」を規範的なものとして、つまり存在者の善は自らの自然に従うことだと考えた。 アクィナスの神学体系において、自然の領域は「恩寵」の領域の基体である。「恩寵は自然を廃棄するどころか、それを完成する」と彼は主張している。彼の自然法(即ち、理性によって認識される普遍的な道徳律)の理論は、ラテン世界の新ストア主義およびローマの法学に由来するものである。彼の影響は主としてドミニコ会の中で16世紀まで存続した。しかし、彼はまた、ルネサンスの折衷的な哲学者たち、たとえばマルシリオ・フィチーノやジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラによっても大きな敬意を払われた。アルフォンソ2世アルベルティ、レオン・バッティスタ(1404-72):「アルベルティを教養人のどの範疇に位置づけるべきであろうか」。同時代人ランディーノはこう記し、アルベルティがいかなる分類にも収まりきらない存在であるとみなした。事実アルベルティは人文主義者であり、かつ自然科学者、数学者、建築家、暗号書記家であり、そして俗語(イタリア語)の開拓者であると同時にラテン語による擬古典文作家、さらに絵画と建築に関する論文によって美術の理論・実践両面を変革した人物でもあった。  アルベルティはフィレンツェから追放された家計の庶子としてジェノヴァで生まれ、パドヴァとボローニャで古典文学、数学、教会法を学んだ。1430年代、ローマで教皇庁の書記職を得て、学究生活のための経済的基盤を得る。また1428年には一族のフィレンツェ追放刑も赦免され、教皇エウゲニウス4世のフィレンツェ入り随行も可能となった。アルベルティは『絵画論』の序文で述べているように、ブルネレスキ、マザッチョ、ドナテッロの作品によりフィレンツェで(古代)芸術が復活されうると確信したのである。最初1435年にラテン語で執筆されたこの論文は、絵画の基礎に数学的遠近法と言う合理的な法則を導入し、絵画作品に修辞学を推奨することによって絵画の知的側面を広げた。この『絵画論』Deppa Pittura(1436のイタリア語版)は、形式は文学的であるが同時に美術家のための実践的手引きでもあり、光と色彩、表情や運動といった問題に対しては画家の感性を示している。画家や芸術庇護者達に甚大な影響を与えたアルベルティの考え方こそが、レオナルドの『絵画論』Trattato della pitturaの出発点であり、ひいてはそれに続く美術アカデミーの理論的基礎となったのである。  アルベルティは1430年代後半から、教皇庁の傍らしばしばフィレンツェに長期滞在し、さらにフェラーラ、マントヴァ、ウルビーノ、リーミニとイタリア各地の宮廷を歴訪し、美術に関する助言を行なった。この時期に執筆した『家族論』では、彼自身の家族が家庭道徳を論ずる代弁者として登場する。風刺文学や道徳哲学の著作を出した後、アルベルティの関心は次第に移ろい、古典古代の遺跡や遺物の研究に没頭していく。その状況は小論文『彫像論』やローマ遺跡の調査の概要によって知ることが出来る。また、ウィトルウィウスの不明瞭な点を解明しようとするアルベルティの努力は、彼自身の『建築論』の発表、さらに晩年に先進する事となる実践的な建築活動となって結実した。アルベルティは、自己の建築観の枠組みとしてキケロの言う有用性と装飾性の区分を採用しているが、そこでは美は均整であり、部分的には音楽的諧調に基づく、固定した数的比例に由来するとみなされている。またアルベルティが建築に与えた堅固な社会的・政治的基礎は、種々雑多な社会やその住民の本性に対応すると見られる、同じく根本的な要素である。そしてさまざまな種類の建造物の序列の中で、最高位を占めるのは教会であり、問題解決の適切さと多様さが重視されている.……アルベルティの『建築論』には技法の手引きが含まれており、彼を建築に関する単なる好事家とみなすべきではない。たとえば書簡のやり取りだけでの設計を強いられた場合でも、意匠と構造のあらゆる細部にいたるまで監督を怠ることは無かった。アルベルティの建築思想は教皇ピウス2世の都市計画やウルビーノ工の宮殿設計に影響を及ぼす一方、その『建築論』はロレンツォ・デ・メディチやエルコレ・デステのような芸術庇護者たちに熱心に読まれた。この書は485年に刊行され、多くの国語に翻訳され、実に18世紀にいたるまで建築家にとっての必読書であった。  アレクサンデル6世:(在位1492-1503.1431頃生)ロドリーゴ・ボルジアは最初、叔父の教皇カリストゥス3世に勧められて、ボローニャで教会法を学んだ。彼はすぐに枢機卿(1456)、ヴァレンシアの大司教(1458)、教皇庁尚書院代理(1457)となった。この教皇庁の政務における最高の地位を彼は、数多くの有益な聖職禄とともに、教皇に選出されるまで保持した。感覚的な快楽と名家の野望は教皇庁において珍しいものではなかったが、このカタルーニャ出身の貴族がこれらに示した多大な関心は、彼に悪評をもたらした。政務における熟練と熱心さ、教義と信心における妥当性、個人的な礼儀正しさと学問の推進といた現代の弁護者たちが挙げる彼の肯定的な特質にもかかわらず、彼に向けられた悪評は今尚その評判を貶めている。  多数決による彼の教皇選出が賄賂と約束によって果たされたとしても、それは多くの他の教皇についても同様である。さらに、教皇領における無秩序と外国からの侵略の脅威にに対抗する為には強力な個人が必要だったし、またこのために自己の一族を重用した多くの選考する教皇が存在した。ナポリのフェランテへの敵意のゆえに、アレクサンデルは最初シャルル8世のイタリア侵攻を阻まなかったが、公式にナポリ王の称号を授けることは控え、1495年には彼に対抗する同盟を発足させた。他方、彼は自己の一族と政治的な利得を勘案して、ルイ12世の進攻(1499)を支持した。  アレクサンデルはキリスト教国の最高権威としてある行為を実行した。すなわち新世界におけるスペインとポルトガルの境界を画定したのである(1493)。しかし彼の熱心な世俗的関心は自分の一族に向けられていた。これは子供達(4人は同じ女性ヴァノッツァ・カターネイから1474-81に生まれた)、甥たち、そして他の親族の出世に腐心したことから明らかである。長子のフアン・ガンディア公(1497没)は、教会において最も成功したが、実は軍事的、政治的指導者となることが望まれていた。続いてチェーザレが1498年に枢機卿を辞し、フランス人との結婚と軍事的援助によって支えられて、この役割を担うことになった。アレクサンデルの娘であるルクレツィアは、最初の夫ペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻を教皇の無効宣告によって、次の夫ビシェーリエ公アルフォンソとの婚姻を、恐らくはチェーザレの手引きによる暗殺(1500年5月)で破棄した。  このときまでに、アレクサンデルは恐怖を嫌悪感に以外のものを生み出すことがなくなっていた。しかし1497年においても彼の人間的な特質は、ガンディア公の暗殺に対する彼の落胆に見て取ることが出来る。この後、彼は数ヶ月の間、熱心に教皇庁の腐敗と奢侈を減じるための改革の提案を模索したのである。……数人の子供が教皇への就任後に生まれている。彼はローマの幾つかの小道を整備させ、バチカン宮の部屋をピントゥキッリオに命じて、彼の宗教的な献身(特に聖母マリアに対する)だけではなく、また彼の占星術への関心と一族の家紋である雄牛の神話話を表す主題によって装飾させたが、パトロンや収集家として慧眼の持ち主ではなかった。彼は死去すると、いかに気候が暑かったとはいえ、普通の教皇の基準から言えば性急で、不面目な葬儀と埋葬が行なわれた。スペイン人に対する偏見という外国人嫌悪の要素を考慮に入れるとしても、きわめて多くの資料が、彼について恥ずべき者として言及している……。医学:ルネサンスにおける医学的実践はもっぱら中世に確立された職業の継続だった。15世紀及び16世紀の内科医は長いガウンをまとった大学の「博士」であり、何世紀にもわたって続いた伝統の中で教育を受け、ギリシア=アラビアの教科書の指示に従い、長い間神聖視されていた疫病、診断、治療の概念に精通していた。ルネサンスの内科医は、彼らの先輩たちよりもヒッポクラテス医学のある側面によって影響を受けていた。たとえば15世紀ととりわけ16世紀に書かれた症例集がそれ以前のどの時代よりも多く残っている。  しかしながら、医学、特に外科学の実践は15世紀の技術から大きな影響を受けていた。鉄砲による外傷が最初に現れたのは14世紀だったが、それはきわめて増加し、新しい外科技術、すなわち弾丸摘出の新しい道具と傷を処置する新しい方法が必要になった。あらゆる国家には軍隊つきの外科医がおり、彼らは新しい治療法の草分けとなった。最も著名なイタリアの代表者はジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴである。15世紀後半の探検(船の改良によってはじめて可能になった)は新しい病気を、特に「軍隊の新しい病気」である、「ウェヌスの病」、すなわち梅毒syphilisを持ち込んだ。専門家の間でも見解の相違があるが、梅毒がコロンブスの艦隊の帰還とともにヨーロッパに到来したことは確実である。彼らの帰港の直後にマドリードで症例が報告されており、1495年にナポリのスペイン軍隊で流行している。この病気は外的な病変で断定されるので、外科医によって水銀軟膏によって処置され、後には水銀化合物の摂取によって治療された。それらに変わるものは南イタリア産のユソウボクだけであって、元来自然はある土地に固有の病気に対しては同じ原産の治療薬を持つはずであるという原理に基づいていた。同時代の化学は「甘い水銀」(明らかに安全な形態の水銀)を摂取のために提供した。ペストは続いた。新たに特定された伝染病であるチフスは伝染力の強い型として続き、カルダーノとフラカストーロによって詳述された。この伝染病は、それを広く流布させた軍隊に一般に結び付けられていた.医学(解剖学と生理学の洞察)は、芸術と人文主義という二つの刺激によって中世の知識をはるかに乗り越えた。レオナルドは解剖学の芸術的探求者の中でも最も完璧であるが、絵画と彫刻において自然主義を改善しようと考えていた。体表部分の解剖は広く芸術家の工房で教えられたし、多くの芸術家が解剖を助けた。ガレノスの『自然の能力について』(1523)と『解剖学』(1531)の再発見と翻訳は、1500年頃に唯一知られていた『諸器官の有用性について』の研究から発展した関心を大きく刺激した。ヴェサリウスによって築かれ、レアルドゥス・コルンブスによって発展させられたパドヴァの解剖学伝統は、エウスターキオ、ファロッピオ、ファブリキウスらに受け継がれ、彼らによってイタリアの諸大学、特にパドヴァ大学は解剖学及び生理学の研究と教育の国際的中心地となった。ヴァッラ、ロレンツォ(1407-57):「コンスタンティヌス帝の寄進状」に対する有名な論駁書の著者。ローマで生まれ、教皇庁に職を得ることを望むが失敗に終わり、そこを支配していたフィレンツェ出身の著作家達に激しい敵意を抱いた。1430年から3年間パヴィーアで修辞学を教え、同地で『快楽について』(1431)を刊行するこの著作は有名はフィレンツェの人文主義者たちの想像上の冗談めいた議論という概観の元に、ブルーニが採用したような、キケロに発する因習的なストア派的倫理に対してまっとうな批判を提出している。それへの反論は、目的として有徳性それ自体を受け入れることは非キリスト教的で自己矛盾的である、というものである。唯一受け入れられる倫理はエピクロス主義であり、快楽は行為とか観照の実利本位の目的であることを認めている。  ヴァッラは1435年にナポリ王アルフォンソ1世の宮廷に移り、約10年間そこに留まった。アルフォンソの国王としての認可をめぐる、エウゲニウス4世とアルフォンソの係争の間、この宮廷は反教皇的だったのであり、この背景がヴァッラの著作に直接的に、また間接的に影響を及ぼしている。『偽造され、誤って信用されたコンスタンティヌスの寄進状について』(1440)は教皇権が世俗の権力への権利主張の根拠として用いてきた偽造文書(8世紀)に対して、原点批判の新しい人文主義的基準を適用している。これは、現在では最も有名なヴァッラの著作であるが、哲学的・宗教的意味を持つ他の著作ほど興味深いものではない。『自由意志について』(c1440)は、ボエティウス(c480-524)が予知を神に帰し、意志を人間に帰した論考への批判である。ヴァッラは彼が神の意志の重要性を無視するものだと述べている。神の意志は人間の哲学者達によって分析されえないというヴァッラの議論は、スコラ哲学への批判を含んでいる。『弁証論的論議』は、さらに破壊的な哲学的論考である。この中でヴァッラは、数多くのアリストテレスの概念を、常識と哲学の二重の立場から攻撃し、彼の哲学がボエティウスと後代のラテン=アリストテレス主義者達によって誤って伝えられたと主張し、今一度スコラ主義と対決している。ヴァッラは常に明瞭な古典主義者であった。『ラテン語の優雅さ』は、初期の人文主義的文献学の論考である。『新約聖書注釈』(1444)では、新しい言語学的基準を、ギリシャ語新約聖書と比較しながら、ラテン語のウルガタ聖書に適用した。同時代の教皇権と同時代のキリスト教哲学に対する彼の懐疑的な態度は、異端の責めを彼に負わせた。それにもかかわらず、ヴァッラは最終的にはローマへと招かれ(1448)、ニコラウス5世によるギリシャ語からラテン語訳を作成する計画に参与し、自らはトゥキュディデスの翻訳に貢献した。彼はこの地で没した。彼が人文主義的文献学の新約聖書への適用と言う点で、またキリスト教とギリシャ哲学流の融合を嫌悪したと言う点で、しばしばエラスムスの先駆者とみなされるのはもっともなことである。ヴィルトゥ:ヴィルトゥスはルネサンス時代には「一般に、私は名目だけの政府の力(virtue)をあまり高くは評価しない」という場合の意味を次第に帯びるようになっていった(「実際の力」及び「潜在的な能力」)。古典ラテン語のヴィルトゥス(卓越性を意味する、強い男性的な含みを持った言葉)の影響の下、とりわけ政治的手腕や軍事の文脈においては、「ヴィルトゥ」は生来的に具わった積極的行動力を表すために用いられた。「ヴィルトゥ」を備えていると言うことは、精力的で向こう見ずでさえある人物を、普通の意味での有徳な人物から区別する性格的特徴であった。この特徴は「フォルトゥーナ」の気まぐれに対して、人を傷つきにくく頑健にした。 ヴェサリウス、アンドレアス(1514-64):彼はイタリア人ではないが(ベルギーのブラバントの生まれである)彼のおかげで16世紀にパドヴァは解剖学の中心地となった。彼はルーヴァンとパリ(そこでガレノス全集の編集を手伝った)で学んだ後、パドヴァへ行き、外科学と解剖学の講師に任命され、新たに利用可能になったガレノスに従って解剖学研究を続けた。1538年には『6枚の解剖図集』6 Tabulae anatomiaeを、また1543年には見事な図版を伴った教科書『人体構造論』De humani corporis fabrica、またその『梗概』Epitomeを出版した。その後彼は、神聖ローマ帝国皇室つきの内科医及び外科医の地位を求めて任命された。1555年にはスペインのフェリペ2世の侍医となったが、同年『人体構造論』を改訂している。この著作はガレノス以来最初の人体解剖学と生理学に関する大規模で独創的な研究であり、きわめて著名なものである。ベネチア:ポルトガルとスペインが海外に勢力を伸ばす以前、ベネチアはヨーロッパ国家としては唯一、植民地帝国でもある国家であった。1300年までにベネチアは、ビザンツ帝国及びジェノヴァの攻撃から一連の港と島々を首尾よく守りおおせていた。東ははるかクレタにまで達するこれらの港や島々が、ベネチアの海上帝国を構成したのである。1340年までにはビザンツ皇帝との関係は安定した。そして1381年までに、勢力を回復したジェノヴァがキオッジャトマラモッコを占領し、さらにはラグーナを超えてベネチアの都市本体をも脅かすと言う戦争を経た挙句、この宿敵もベネチアに頭を抑えられてしまった。この海上帝国はひたすら商業上の理由でのみ獲得された。ベネチアは極東の薬種;公領・占領、優等の絹・面・銀器が地中海へ持ち込まれる経由ほか、すなわち国会、シリア、エジプトへの恒常的で安全な往来を求めたのである。こうしたかさばらず、しかも高価な品物の運搬にガレー船を使うようになると、ダルマチア及びアルバニアの沿岸を下り、ギリシャ南岸を回ってエーゲ海に至る安全な通商路の確保がますます必要になった。ガレー船を使えば、安い保険料ではやくしかも定期的な輸送が可能であったが、多数の船員に食糧補給をするために一定の間隔で寄港地が無ければならなかったのである。この貿易網はキュプロスを含むようになったときに最大規模に達した。キュプロス王国は1489年に女王カテリーナ・コルナーロによってベネチアに譲渡されたのであった。レヴァント地方でほぼ独占的に商品を購入できても、いったんそれらの商品が倉庫に入れられ、ベネチアからの輸出の準備が整ったならば、今度はアルプス以北の各市場拠点との安全で通行料なしの輸送路が必要になると言うことは、ずっと以前から認識されていた。1405年までにベネチアが本土に確保していた唯一の足場は、トレヴィーゾ、ベッルーノ、フェルトレを境界とする地域であった。しかしこの都市までに、ベネチアの傭兵隊はパドヴァの支配者カッラーラ家から同市を奪い、ヴィチェンツァおよびヴェローナではデッラ・スカーラ家を権力から追った。1420年までにはオーストリアからフリウーリを奪った。さらに1428年までに、ロンバルディーア平野の主要部を含む一種の陸上帝国にブレッシャとベルガモが加わり、ミラノのヴィスコンティ家に損失を与えた。この2都市の征服には抵抗があってしかるべきであったが、これらの都市をベネチアが領有することはローディの講和(1454)で保障された。そして1500年までには征服活動はクレモーナとポレージネ・ディ・ロヴィーゴまでも含むほどに展開され、ベネチアの支配領域をポー川の北岸伝いにフェラーラからアドリア海まで広げた。1400年までにはベネチアは、植民地帝国の支配者としての地位と東方文化と西欧文化とのエキゾティックな融合ゆえに、イタリアの他の国々とは一線を画しつつ、その本土の支配領域での「略奪行為」によってそれらの国家の間に共通した敵意を惹起していた。加えてベネチア共和国がイタリア戦争の初期の状況に付け込んで、教皇領の有益な港町(ラヴェンナとファエンツァ)とナポリ王国の同様の港町(バーリとブリンディチ)を占領したときに、教皇ユリウス2世(在位1503-13)はベネチアの敵国に支援を呼びかけたが、これに答える態勢は出来ていた。カンブレー同盟の参加国は、ベネチアに領土をくすねられたり領主権を横奪されたイタリア内外のすべての国家の点呼を取ったようなものであった。1509年にアニャデッロで惨敗を喫した後に、ベネチアは1517年まで本土の支配領域を再建すべく、戦争と交渉を続け、そのあとは1797年のナポレオンの侵入までこれを無傷で維持した。こうしてベネチアはロマーニャ地方の諸港と、1529年までにプーリア地方の諸侯を失っただけであった。  それ以後、同世紀を通じてベネチアは異例な存在であり続けた。つまりキリスト教諸勢力が対立しあう相関図の中で独立を保ち、強大で、しかも(軍隊と防衛施設と広範な外交網に多大な費用を費やして)見事に中立を維持したのである。他のイタリア諸国はハプスブルク帝国の保護国(ミラノ公国、ナポリ王国)になるか、きわめて反抗的な衛星国(トスカーナ大公国、教皇庁)になるかのどちらかであったが、ベネチアは海上帝国であったおかげで、トルコの地中海以外の拡大への懸念を共有する国々から、とりあえず仲間とみなされた。一度は小規模な、一度は大規模な対トルコ戦争において、ベネチアはスペイン及び教皇と同盟を結んだ。二度目の戦争でベネチアはキュプロスを失ったが、ヨーロッパ列強のひとつと言う国際的な地位が交代したのは、16世紀末頃に商業的繁栄の源が地中海から大西洋へゆっくりと、しかし確実に移ってからであった。しかもベネチアはこうした情勢の変化をにらみ、地元の手工業と本土の農地及びその改良に資本を転化することによって対処を図っていた。  この間、ベネチアの政体は、200家あまりの貴族家門のメンバー以外に対して1297年に大評議会の議席が閉鎖されていこう、ほとんど変わることが無かった.そのときからこれらの貴族のみが、大評議会の議員になれる(そしてそれゆえに国政に関与できる)世襲の権利を独占した。1325年より彼らの名前はリブロ・ドーロ’(黄金の書)として知られるようになった紳士録に記載された。この大評議会の議席は自動的に世襲され、終身であった。大評議会は日常的な実務を行なうには余りにも不向きであった。ここから個々の議員が選出され、各小評議会のメンバーのいすに短期間(余りに大きな実権を持ってしまうのを防ぐため)座ったのである。これらの評議会の中で最も重要なのは政府の最高政策決定機関たる元老院であり、議員数は約200名であった。またこの元老院の審議事項を用意し、その決定事項の施行を受け持ったのは政務委員会で、さらに10人委員会が国家保安の責務を負った。これらすべての機関の頂点に立って統括するのがドージェ(国家元首)であった。ドージェは、この役職が私利私欲や特定派閥を後ろ盾にした野心の対象になるのを防ぐために、巧妙に工夫された手続きを経て選出され、政治的な主導権は与えられていなかったが、潜在的には影響力を持っていた。ドージェが終身職であるのに対して、その下にある諸機関のメンバーは常に入れ替わったからである。ルネサンス期の数世紀にわたるベネチアの政体のこの並外れた安定性は、羨望や脅威の的、時には模倣の対象となった.ナポレオンが思想的な動機による3段階の文化破壊を許可したのも、ベネチアがルネサンス期に果たした役割に対する、一種の悪意が混じった逆説的な賛美だった。まず聖マルコ像(ベネチアの統治の象徴)が破壊された。次にサン・マルコ大聖堂からブロンズの馬(レヴァント征服の形見のような物。1204年にコンスタンティノープルから略奪されてきたものであった)がはずされ、パリに持ち去られた。そして最後に儀式用の屋形船であるブチントーロが焼き払われた。それまでは毎年キリスト昇天祭の日にドージェがこのブチントーロに乗って、船上からベネチアとアドリア海との結婚を祝い、半島の一勢力として安穏としているよりも、むしろ地中海に覇を唱えようとしたベネチアの意思を祝っていたのである。ウェルギリウス・マロー、プブリウス(前70-前19):ウェルギリウスの名声は中世の間いささかもかげることなく、衰退することも無かった。しかし彼はある種オ錬金術をかけられた。6世紀の文法学者フルゲンティウスがぷブリウス・ウェルギリウス・マローの『アエネイス』を人生の複雑な寓意とみなす(5-6世紀)以前に、既に4世紀には彼の『牧歌』第4歌は帝政ローマ的文脈からキリスト教的文脈に移し変えられていた。魔術師ウェルギリウスという伝説は増大し否応無く広がっていったが、キリスト教化されたウェルギリウスはもっとも正統的な考えとして受け入れられた。ダンテはこの受容の特殊なケースに過ぎない。なぜなら、ウェルギリウスは世界を正しく秩序化する天の配列を賞賛する聖なるテクストだと、ダンテはみなしたからである(ダンテは、ローマが世界帝国にのし上がっていく過程に神の手の介入を見ていた)。自らの信念を完全なものとするために、ダンテは必要なステップを踏み、魔術師ウェルギリウスと言うナンセンスをすべて却下した。しかし、彼がこうした拒否を行なった文化的背景を考慮すれば(聖書的な権威を持つウェルギリウスに対して敬意を抱いていたからこそダンテの拒否は生じた)、新たな批判精神が生まれたと言うことは出来ない。またダンテのウェルギリウスに対する愛は、彼のラテン語の書き方(中世的な書き方)になんらの影響も及ぼさなかった。 ペトラルカにとっては、ウェルギリウスは「言葉の壮麗さ、ラテン語の第二の希望」を意味した。彼とキケロが二人でペトラルカの基礎となり、純正な古典ラテン語への回帰を促した。またペトラルカは、ローマ帝国は滅んで久しいと認識し、普遍的な統治形態を求めないので、ウェルギリウスの中には政治的なメッセージの痕跡すら見出さない(ダンテにとってはこの政治的メッセージこそ最も重要なものだった)。ペトラルカは魔術師ウェルギリウスと言う中世的な伝説を拒否したが、それは理性と批判精神の声によるものだった。ペトラルカはまた、ウェルギリウスはキリスト生誕の予言者であるとの大方の意見を却下したが、このときも同じ声が働いた。ウェルギリウスは自分の知る最高のもの、すなわちローマ帝国について語った。しかし、もしまことの光が彼の目の前で輝いていたら、疑いも無く、ウェルギリウスは考えをほかの出来事に向けていたことだろう。桂冠を得るために1341年ナポリでロベルト王(アンジュー家)から諮問を受けた際に示したように、確かに、ある意味ではペトラルカも依然として過去に囚われていた。彼は寓意としての詩を受け入れ、それぞれの言葉は私的な雲の下に光を隠しているとした。しかしペトラルカは、この寓意を人に押し付けたりはしなかった。そうする代わりに彼は、教養を高めるものとしてのウェルギリウス、ともに生き瞑想すべき対象としてのウェルギリウスを初めて提示した。これは、ウェルギリウス理解に対してペトラルカが果たした、きわめて重要な貢献であった。ペトラルカは『アフリカ』で『アエネイス』と競い合おうと立派な試みを企てたが、それはどちらかと言えば失敗に終わった。だが、この失敗よりも、上に述べた貢献のほうがはるかに重要なのである。『アフリカ』の題材は、ペトラルカが広くヨーロッパに知らしめた第3の主要作家(リウィウス)に由来している。また文体はウェルギリウスに由来するはずであったが、実際には殆どそうならなかった。ルネサンスの文芸文化の基盤となったのは、ペトラルカが持った古代世界との交流であった。嘗てペトラルカが所蔵したウェルギリウス写本は、彼のローマ世界との個人的な触れ合いを記録した大切な記念碑、最も感動的な文書である。  写字生の書き誤りによって欠陥の多いテクストが伝わった。こうしたテクストを校訂しようという努力は、ペトラルカ以降、絶えず行なわれ続けた。しかしそれは長い間、計画性を欠き便宜主義的に行なわれてきた。……ペトラルカは『アフリカ』で『アエネイス』と競い合おうとした。しかし、彼はこの作品を人には見せようとしなかった。ようやく人の目に触れるようになったときには、多くの注意を集めたり影響を与えたりするには遅すぎた。15世紀前半の人文主義の努力は、主として、散文に向けられていた。それゆえ、モデルとしてウェルギリウスに注意が払われることは無かった。パルミエーリが『生の都市』でウェルギリウスをモデルとしたときには、この詩人に依拠したために聖職者の激しい批判を招くこととなり、20世紀になってようやく『生の都市』の再評価が行なわれる結果となった。もっとも模倣しやすかったのは『牧歌』であった。……サンナザーロの牧歌は以後のラテン語作品の伝統の支柱となり、ウェルギリウス模倣の絶頂を極めた。……ポリツィアーノが最初に教鞭をとり始めて以降(1482年以降)、取り込みやすく模倣しやすいモデルとしてマイナーな詩人にも目を向けるよう、若者達は勧められた。このことは、心に銘記しておかねばならない。ウェルギリウスは独占的な模倣の対象ではなくなった。タッソの詩の表面を見ると、古代のすべての詩人達がその下に隠れている。当然のことながら、ルネサンスは純粋にウェルギリウス的な叙事詩タイプの作品を生み出さなかった。ウェルギリウスが取り組んだもっとも重大な作品、すなわち叙事詩『アエネイス』に対応する作品は無かった。……ヴェロッキオ、アンドレーア・デル(1435-88)ウルビーノエウゲニウス4世エステ、アルフォンソ1世・デエステ、アルフォンソ2世・デエステ、イザベッラ・デ(1474-1539): イザベッラはエステのエルコレ1世とアラゴンのエレオノーラの娘で、イタリアで最も優れた宮廷のひとつでの古典教育の恩恵を満喫した(それはベネチアとフェッラーラ間の戦争(1482-84)によって中断されたが)彼女の教師の中にはグァリーノ・ダ・ヴェローナの息子で、フェラーラでの修辞学の講座を継いだバッティスタ・グァリーノがいた。彼女の晩年の古典学や占星術への関心もまた、公爵つきの司書だったペッレグリーオ・プリシャーノや、公爵の周囲にいた他の人文主義者の影響を示唆している.イザベッラは16歳でフランチェスコ・ゴンザーガと結婚したとき(1490年2月15日)、既にきわめて明敏で教養のある女性として、明らかに知的にも社会的にも夫に匹敵すると認められていた。フランチェスコの軍隊生活好みと、イザベッラの外交における明白な手腕と関心とがあいまって、両者が一緒にすごす時間はほとんど無かった。  彼女は、国政の遂行とともに、文芸と音楽、視覚芸術の保護へその勢力と知性と思慮を傾けた。彼女の視力と手稿、そして傲慢な態度が、当時の最も優れた芸術家達が競って彼女のために奉仕することを可能にした。とりわけレオナルド、フランチャ、ティツィアーノは彼女の肖像画を描いた。彼女の芸術家に対する契約と指示は、彼女が地震の考え方を知っている、目の肥えた、幾分気ままな買い手であることを示している。1503年に、彼女はペルジーノに、依頼したかったアレゴリーの為の素描を送り渡すように言っている。彼女の芸術への保護は学問的関心から生まれており、人文主義者の助言者の指図の下に行なわれたことが知られる。パーリデ・ダ・チェレザーラは彼女の書斎装飾のため「創意」をまとめる手助けをし、ベンボやマリオ・エクイコラのような文人が他の装飾的な計画を提案している。彼女の周りにはバッティスタ・スパニョーロやカスティリオーネ、バンデッロ、そして余り知られていないマントヴァの人文主義者達の一団がいた。……彼女は敬虔なキリスト教信仰を古代、さらには異郷への関心と結びつけることに全く矛盾を感じなかった。彼女は男女の修道院を支持し、公爵の礼拝堂のために歌手を雇うことに大きな関心を示した。その歌手の幾人かは、カーラとトロンブンチーノによってマントヴァで作曲された世俗曲(フロットラ)を歌うという仕事も務めた。彼女の敬虔さは、マントヴァにおける祝祭生活を妨げなかったように、反教皇政策と衝突することも無く、彼女はマントヴァとフェラーラの独立を脅かすものを阻止した。1519年に彼女の退屈で不誠実な夫が死んだとき、イザベッラは長男のフェデリーコ2世の信頼できる助言者として職務を果たし続けた。晩年はローマとマントヴァの間で板ばさみになった。