2009年4月2日木曜日
宮廷
宮廷(244) 宮廷とは……場所ではなく、君主とその一族および彼らに使える人々からなる人間集団を示している。その核は……君主……、君主の妃、皇太子、君主の弟[等である]。 宮廷には、君主やその一族のプライベートな側面とパブリックな側面が混在する。プライベートな側面としては、宮廷は君主の「家」としての機能を持つ。衣食住と言った人間なら誰でも必要とする基本的な必要を満たすためであり、また人としての君主一族が生活する場でもある。しかし宮廷は、君主の居場所であるがゆえに、パブリックな側面を免れることは出来ない。宮廷は国の政治・経済・文化の中心であり、外国からの大使も宮廷に伺候する。政府機関とは異なり、記録も残されないあいまいな世界である宮廷は、しかしながら近世のヨーロッパにおいて、さまざまな決定権を持つ重要な機関でもある。宮廷はまた、君主を物理的にも精神的にも外界から守ると言う役目を持つと同時に、君主と外界を仲介するや雲も持つ。人やもの、そして情報も、ある(245)時は宮廷に阻まれ、あるときは宮廷を通して君主へと伝わっていくのである。宮廷の機能としてもうひとつ重要な事は、君主の威信を示す場を提供する事である。宮廷内では宮廷に集まる国内外の社会的エリート層に対して、祝祭などの機会に宮廷が外に出るときは一般市民に対しても、宮廷があるからこそ君主は自らの威信を示す事が出来るのである。 近世イタリアの宮廷(246):近世イタリアに[おける宮廷について」最初にあげるべきはやはりローマであろう。長い伝統を持つローマ教皇の宮廷は、特に15世紀以降、教皇の君主的側面が強まるに連れて、発展してきた。近世以前から儀礼や宮廷職も発展していたローマ教皇の宮廷は、ヨーロッパの宮廷に大きな影響を与えたと言われている。ローマにはまた、枢機卿の宮廷がある。これも教皇の宮廷とともに発展したもので、枢機卿によって差はあるが、大きなものは小君主の宮廷をも凌駕するほどの役職者を抱えていた。 ローマを除けば、近世イタリアで最も古い伝統を持つ世俗の宮廷は、エステ家のフェラーラの宮廷であろう。13世紀には既にシニョリーア体制を確立したエステ家は、1452年に皇帝からモデナ・レッジョ公の照合を、1471年には教皇からフェラーラ公の称号を獲得した。しかしアルフォンソ2世が嫡子を残せな(247)かった為、後継者を嫡子に限っていた教皇からフェラーラ公の称号を剥奪され、1598年にモデナに遷都する事を余儀なくされる。以後エステ家は1796年まで、モデナ・レッジョ公として、モデナに宮廷を置くことになる。 次に古い宮廷と言えば、マントヴァのゴンザガ家である。ジャンフランチェスコ1世が神聖ローマ皇帝ジギスムンドから1433年にマントヴァ侯の称号を獲得し、その後1530年にはフェデリコ2世が公の称号を獲得した。……[トリノのサヴォイア家、パルマのファルネーゼ家のほか]、フィレンツェのメディチ家の宮廷であるが、これは1532年にフィレンツェが共和国から君主国へ変わったため君主となったメディチ家の宮廷が誕生したものである。元々は一市民であったメディチ家による宮廷と言う事で、ヨーロッパ規模で見ても異色の宮廷と言えるだろう。メディチ家は1532年にフィレンツェ公の地位を皇帝から認められたが、その後1557年にはシエナ公の称号も獲得し、さらに1569年にはトスカナ大公の称号も得る。メディチ家の宮廷は、1737年に直径の子孫が絶えるまで続き、その後トスカーナ大公国はロートリンゲン家の支配下に入る事(248)になる。……ローマとトリノを除くと、フェラーラとマントヴァが多少古いとはいえ、どの国も元々はコムーネに発する伝統を持ち、フランスやイギリスのような中世からの伝統を持っていない。 宮廷の構造 宮廷の大きさ:ローマの教皇の宮廷では、既にレオ10世の時代に約700人が宮廷職にあったという。一方枢機卿の宮廷は、16世紀の前半で40人から350人までとかなりの格差がある。平均すると、100人から120人くらいの人数が宮廷職についていたとされる。 (249)フェラーラの宮廷では1565年に477人が、マントヴァでは1595年に529人が宮廷職についていた。一方トリノはかなり少なめで、1568年に157人、カルロ・エマヌエーレ1世の時代に増加するが、それでも241人しかいない。もっともトリノの宮廷の場合、君主に仕える者の数のみが判明しており、公妃の宮廷はサヴォイア公の宮廷からは全く独立していたため、公妃につかえる者たちが含まれていない。フィレンツェの宮廷は、1564年には168人と少なめだが、1621年には457人、1670年には719人と17世紀に入るとかなり大きな宮廷となる。パルマも16世紀末までは小さな宮廷だったが、ラヌッチョ1世の時代に急増して350人以上となる。どこの宮廷でも17世紀に入ると人数が増加し、大きくなっていくが、これはヨーロッパ全般に言えることである。 宮廷職:中世末期のブルゴーニュ公の宮廷は、多くのヨーロッパの宮廷に影響を与えたと言われているが、宮廷職を侍従職、厩舎職、家政職の三つに分類するブルゴーニュ型の分類法を取っているのは、イタリアではトリノの宮廷のみである。そのほかの宮廷は仕事内容によって分類されており、特に三つに分けられてはいない。役職名などはイタリア全体でほぼ同じであり、イタリア方の宮廷職といえるものが存在していた。もっともローマ教皇の宮廷は、教皇という特殊な長を頂く為、他の宮廷にはない役職もあるが、枢機卿の宮廷は、他のイタリア型とほぼ同じである。ここではフィレンツェの宮廷を例に……構造を見ていく。 フィレンツェの宮廷職は、仕事内容から大きく分けて、執事、侍従、食、家政、厩舎・狩猟、女官・乳母、芸術家・職人の7つのカテゴリーに分類される。第一に挙げられる執事は、宮廷全体を統括する。執事を補佐する副執事や執事補佐がつく事もある。執事はその仕事上、宮廷における君主の代理人であり、一部の行為の宮廷(250)人を除いたその他の宮廷人の雇用や解雇、給料の決定権を持っている。 宮廷執事に告ぐ、あるいは同程度の権威を持っているのが、君主の間(君主の私室や謁見の間も含む一連の部屋)で働く侍従職などについている者達である。部屋侍従と呼ばれるものたちは、1626年のフィレンツェの宮廷では22人おり、侍従長が彼らを統括していた。彼らの役割は、常に君主の間の近くにいて、君主と宮廷の仲介役となる事であった。謁見者を取り次ぐのは彼らの仕事であったし、君主の命令を最初に聞くのも彼らであった。侍従たちはみな貴族や有力市民であり、彼らが君主の周りにいる事によって、君主の威光は増したのである。ただ特別侍従と呼ばれるものだけは、寝起きも君主のそばで行い、常に君主の個人的な用務を受ける役割を担っていた。そのほかの者達は、何人かが組になって、交代制で仕事を行なっていたようである。また侍従たちは、大使や施設として、外交的な役割を果たす事もあった。 侍従たちの役割は基本的に儀礼的なものであって、実際的な仕事は出自の低い部屋侍従補佐が行なっていた。彼らは給料こそ安いが、君主の寝室に入る事が出来、君主と親しく接する事が出来たため、君主のお気に入りになる事も出来た。17世紀のメディチ家の大公たちには、特にお気に入りの部屋侍従補佐を一人選ぶ慣わしがあった。コジモ3世は、彼の最もお気に入りだった部屋侍従補佐に「彼の心の奥底の秘密」まで打ち明けたと言う。トリノの宮廷でも、やはり部屋侍従補佐は特別に気に入られる事が多く、より地位の高い役職や名誉を受けて、社会的上昇を果たすものもいた。 儀礼的な職ではないが、君主と直接接する事が出来る重要な役職として、書記たちがいる。彼らは公私に渡って君主の手足となって活動する者たちであった。君主と政府機関の橋渡しをするのも彼らの仕事である。政府機関は君主のコントロールしたに置かれていたので、書記たちを束ねる第一書記は実質的には総理大臣のような役割を担っていた。一方で芸術作品の収集など、君主の個人的な以来を受けて活動するのも彼らであった。また(251)職を求めてやってくる芸術家や知識人と応対するのも彼らの仕事であり、まさに君主の手足として活動していたのである。1626年のフィレンツェの宮廷会計簿には、12人の書記が登録されている。このほかに、君主のそばで働く事が出来る人物として、宮廷司祭、侍医、床屋、宮廷が移動する際に宿泊や食事の手配などを行なう行幸係官、小姓などがいる。小姓とは、宮廷で部屋侍従や従者の補佐的な役割をしながら教育を受ける貴族や有力市民の子弟である。教育や訓練のために宮廷に来ているため、報酬は与えられなかった。 執事、侍従に告ぐ第3のグループは、食に関わるものである。その中で貴族や有力市民のみが担う役職は三つある。すなわち、メニューからテーブルセッティングにいたるまで職全般を管理する食事監査役、テーブルで肉やパンを切り分ける切り分け侍従、水やワインを注ぐ献酌侍従である。その他の役職は、より実質的な役割を担っており、また君主一族に直接接する事はない。食器係は、銀器などの高価なものも含む食器の管理やテーブルセッティングを担当する。ワイン係は君主一族の食事の際にワインを準備するが、ワイン貯蔵室の係りは別におり、こちらはもっぱら貯蔵室の管理をする。食事のための買出しや保管にも専門の役職がある。購入係は食料に限らず、購入全般を担当する役職である。購入されたものは、保管係の管理下に置かれる。料理のためには勿論料理人が雇われていたが、君主一族専用の料理人は特別料理人と呼ばれ、給料も高かった。また君主一族ではなく、宮廷役職者が食事をする食堂tinelloを担当する役職もあった。 第4のグループである家政全般の責任者は、家政監督庁で、この下に会計・事務が置かれていた。しかしこのグループの中で重要なのは、調度・衣装部である。この部署では、絵画やタペストリーと言った高価なものも含む家具調度と君主一族の衣装や宮廷人の制服などの衣類が管理され、宮廷の各部屋の調度を整えたり、清掃したりする役目を負っていた。17世紀になると、この部門の長は家政監督庁よりも行為に位置づけられ、貴族や有力市民がつく役職となった。 (252)第5のグループは、厩舎や狩猟を担当する。最も高位のものは主馬長であるが、これは外国の貴族がつく事の多い一種の名誉職だったようである。その下に厩舎長がおり、こちらが実質的な監督責任者であった。厩舎にはこのほかに、御者や馬丁、ラバ係などがいる。狩猟関係では、鷹匠、鷹飼育係、猟犬係等の役職があった。また厩舎にも狩猟にも関係のある役職として獣医がいる。 第6のグループは、君主一族の女性に仕える女官や一族の子供の面倒を見る乳母と言った女性達で構成される。最後の第7のグループは、芸術家や職人である。画家、彫刻家、音楽家から道化師、タペストリー職人などが宮廷に雇われていた。 高位の宮廷職の出身:既に宮廷職のところで見たように、君主一族に接触する可能性のある儀礼的な役割を持った職は、貴族や有力市民層が担っていた。西欧では、このような行為の宮廷職には貴族がつくのが一般的であったが、都市国家の伝統を持つイタリアでは、有力市民層も宮廷人になった。もっとも、封建貴族と有力市民の割合は、各国の歴史や政治情勢によって異なっている。 君主制の伝統の長いフェラーラやマントヴァ、そしてトリノでは、貴族の数も多く、高位宮廷職には貴族が多かった。一方フィレンツェでは、市民だったメディチ家が君主になったため、有力市民層が反発し、16世紀には外国人貴族が高位の宮廷職につく事が多かった。フィレンツェ市民が高位の宮廷職につくようになるのは、16世紀末からである。フィレンツェと同じく新たに宮廷を作ったパルマでは、君主がパルマと関係のない外国人だったため封建貴族層が反発し、高位の宮廷職につくものは、有力市民層が多かった。封建貴族が増加するのは16世紀の後半以降である。 (253)宮廷の構造が特殊なのは、ローマである。教皇は世襲制ではないため、教皇が変わる度に宮廷のメンバーも変化した。しかも高位の宮廷人は基本的に聖職者であるため、女性が存在しないと言う点で異色の宮廷である。俗人も宮廷にいなかったわけではないが、彼らは主に軍事的役割を担っていた。 宮殿と都市 宮殿:近世ヨーロッパの宮廷は、中心となる宮殿を首都である都市の中に持っている事が青く(ベルサイユ宮殿は例外的な存在である)、イタリアの宮廷も同様である。ローマのバチカン宮殿、フェラーラのエステ城(サン・ミケーレ城)、マントヴァの公爵宮殿、フィレンツェのピッティ宮殿、パルマのピロッタ宮殿、トリノの王宮は、全て市内にある。 宮殿は、君主の間を一種の聖所とする構造になっている。宮殿に廊下は存在しない。訪れるものは、部屋から部屋へと移動しなければならず、次の部屋へと移動するには、身分や君主の寵愛と言う宮廷内のステイタスが必要になる。最深部である君主の間を訪れる事が出来るのは、ほんの一部の者のみである。その君主の間は一連の部屋からなっており、究極の聖所である寝室以外には、謁見室や控えの間、礼拝堂などがある。君主に仕えるものたちは、そのそばの小さな個室や中2階などに控えている。 男性の部屋と女性の部屋も分かれている。君主とその妃はそれぞれが一連の部屋を持っており、宮廷で働くものたちも、居住空間は厳格に分けられている。君主とその妃あるいは皇太子とその妃の寝室のみは、行き来ができるようになっているが、必ずしも隣り合っているわけではない。ヨーロッパの他の宮廷と同様、君主夫妻は別々(254)の生活を営んでいたのである。 宮廷と都市:都市内に宮殿が、当然都市は影響を受ける。まず宮殿が作られる場合、その周囲は一種の区画整理が(255)なされ、貧しいものの家などは取り除かれる。フィレンツェのピッティ宮殿が作られたとき、宮殿前に大きな広場を作るために、多くの家が壊された。フィレンツェ公コジモ一世は、ピッティ宮殿から役人達の庁舎であるウフィツィ(現ウフィツィ美術館。複数のオフィス)を通ってヴェッキオ宮殿をつないで、新旧の宮殿を君主が安全に行き来できるように、いわば空中通路である「ヴァザーリの回廊」を作った。この回廊はヴェッキオ橋の上を通っていたが、この橋の1階部分には肉屋が連なっていた。1616年にはその臭いのために肉屋は立ち退かされ、金細工師の店が入るようになった。 また宮廷では、位の高いものから低いものまで多くのものが働いている。宮廷は大量の雇用も創出するのである。実際、17世紀のフィレンツェでは、全世帯数の8-10%が宮廷となんらかの関係を持っており、1500人が直接的にあるいは間接的に宮廷と関係のある職についていたという。しかし都市内の宮殿の場合、彼ら全てに宮殿内の部屋を与える事は不可能である。宮殿の中に住居を持っているのは、君主の信頼する高位の宮廷役職者の一部か、侍女や乳母といった宮殿に常駐する事が求められる役職についているもの立ち、そして教育を受ける立場にある小姓たちだけであり、多くの者は宮殿のそばにすみ、通ってくる事になる。その中でも高位の宮廷役職者は自らの邸宅を宮殿の近くに造ることになる。宮殿は国の中心であり、従ってその周辺の土地はいわば特権的な区画を形成するのである。宮殿の周囲には貴族の邸宅が出来、それによって都市の概観も変わっていく。それは君主も意識していた。…… 儀礼と名誉 儀礼(256):宮廷で行なわれる儀礼は3種類……、第一に即位式や葬礼といった国家儀礼、第二に宗教儀礼、第3に日常的な宮廷儀礼である。…… 第一の国家儀礼であるが、イタリアの宮廷の多くは、フランス等と異なり、即位式や壮麗の定式やそれを支える理論(王は生身の自然的身体と不可視の政治的身体の二つを持つという「王の二つの身体」のような)を持たない。ローマ教皇だけは、その空位期間を理論付けるために、個人としての教皇と教皇の地位を引き離そうとする試みがされた。また16世紀半ばのフェラーラやフィレンツェでは、君主やその一族の壮麗に際して、フランスなどと同じように、死んだ者に似せて作られた人形を利用したと言うが、明確な理論付けはされなかった。ともあれ即位式や壮麗は君主の威信を示す為に、壮麗に行なわれた。 第2の宗教儀礼としては、クリスマスや復活祭などの重要な祝日がローマに限らずどこの宮廷でも、盛大に祝われた。宗教儀礼は単に宗教的な意味を持つばかりではなく、国家と君主の偉大さを演出するため、そして君主を聖なる者に近づけるためのものでもあった。…… 第三に……、日々の宮廷の活動は、儀礼で満ちている。宮殿の中は、誰がどこまで入ってもいいのか厳密に決められていたし、目上の者に呼びかける際に使われる尊称も、ランクによって決まっていた。特に17世紀以降になると、切れは厳格になり、細かく規定されるようになる。……フィレンツェの宮廷における謁見について見ておこう。トスカーナ大公フェルディナンド2世は、謁見室に続く二つの控えの間を持っていた。トスカーナ大公の臣下は誰でも謁見する事が出来たが、控えの間によって区別がつけられる。最低のレベルは、第一の控えの間にも入れない者達である。第一の控えの間には、宮廷に仕える高位の宮廷人や軽騎兵、高位の官職保有者やそれと同等の地位と考えられる外国人が入る事が出来る。しかし彼らは第二の控えのまで待つ事は出来ない。第二の控えの間はより謁見室に近いため、彼らはそこを通り抜けなければならないのだが、足早に通り過ぎる事を期待されている。第二の控えの間こそが真の控えの間であり、非常に高位の宮廷人や力のある君主国から派遣された対し、有力市民の家の党首などが、ここで謁見まで待機する事が出来る。 いざ謁見の際も、謁見者のランクによって待遇が異なる。謁見者を案内するのは大執事か侍従長であるが、大執事に案内されるものの方がランクが高い。またかなりランクの高い謁見者には、謁見中にいすが準備される。そ(258)のいすに肘掛がついていれば、最高のランクである。一方、謁見者が誰であれ、君主は常に天蓋の下の一段高い所にいる。謁見者が外国人だった場合には、さらにこの後の歓待の方法も、ランクによって細かく分かれている。このように、イタリアの宮廷でも日々行なわれる謁見の際に厳格な儀礼があり、宮廷生活を支配していたのである。 名誉の社会:宮廷社会を理解するためには、名誉onoreの概念を避けて通るわけには行かない。宮廷社会における名誉は、人々の地位を決定する。宮廷人は名誉を求めて争い、それが失われる事を恐れるのである。では、宮廷における「名誉」とは、どのようにして獲得されるのだろうか。 まず、君主のそばにいる権利を持つ事、これは最大の名誉である。君主の寝室に入る権利は、宮廷人なら誰でも望む事だろう。既に見たとおり、宮廷は厳格な儀礼社会であり、宮廷人はヒエラルキーを形成していた。その頂点に君臨する君主にアクセス出来る権利は、名誉以外の何者でもない。しかも君主は名誉の分配者である。宮廷職だけではなく、封土や称号、土地、年金、君主自身が描かれたメダルや肖像画を、君主は臣下達に与える。重要なのは直接的な物質的利益ではない。君主が描かれたメダルや肖像画を賜る事は、物質的な利益を超えた名誉のシステムにおける利益を受けることなのである。そして一度名誉を受ければ、それが物質的な利益につながる可能性もある。 しかし君主が常に名誉のシステムを容易に操作できるわけではない。臣下達は名誉を求めて争う一方で、不当と思われる名誉の分配には不満を抱く。君主が容易に操作できない権利の例として、優先権が上げられるだろう。優先権とは、儀式や行列の際により名誉ある場所にいる権利である。この権利は国際的な問題にも発展す(259)る。それはたいした地が集まる大きな宮廷で、優先権を競い合うからである。……1530年にボローニャで行なわれたカール5世の皇帝戴冠式では、フェラーラとジェノヴァとシエナの大使の間で優先権をめぐる論争がエスカレートした結果、掴み合いのけんかにまでいたった事もある。 しかし名誉への道はひとつではない。特に、都市国家の伝統を受け継いでいるイタリアの近世国家の場合はそうである。中央、地方を問わず都市の高位官職に就くことは近世になっても名誉であり、それは官職が君主によって与えられる恩恵である場合でも、そうでない場合でもかわらなかった。また軍隊に入る事も、名誉への道のひとつである。特に封建貴族層はヨーロッパ各地の軍隊で一旗上げようと努力した。騎士団も重要である。国際的なマルタ騎士団は、近世国家に仕えるのとは別の名誉への道を準備し、時には国家に仕えるのをよしとしない者達が一族の栄光を守るための道となった。一方、サヴォイア公国のサンティッシマ・アヌンツィアータ騎士団やトスカーナ大公国のサントステファノ騎士団は、中央のエリートと地方のエリートを統合させ、団長である君主との中世の絆を強化する重要な装置であった。そしてこの騎士団の一員となる事もまた名誉への道のひとつだったのである。 宮廷文化:君主はその国内の最大のパトロンであり、優秀な芸術家や職人達をその宮廷に抱えている。それは、自らの楽しみのためであり、また自らの威信を示すためでもあった。 (260)もっとも君主の威信を示すのはやはり宮殿であろう。宮殿の増改築はどこの宮廷でも良く行なわれた。臣下や大使たちが訪れる宮殿内部の装飾も大切である。壁や天井には入念にプログラムされたフレスコ画が描かれ、貴石を使った家具が置かれ、彫刻が飾られた。宮殿の外に広がる庭園もまた重要である。グロッタ(人工的に作られた洞窟)や彫刻が配され、幾何学的に整えられた庭園もまた、君主の威信を示すものであった。 宮廷で雇われている芸術家や職人達は、多くの場合、芸術監督間の下に置かれた。近世においては、現在のような芸術家と職人の区別はなく、画家や彫刻家も、武具製造者や仕立て屋と基本的に同じ扱いであった。無論、高名な画家や彫刻家には多くの報酬が払われるが、優れた職人にも同じように高額の報酬が支払われた。当時のイタリアでもっとも高額の報酬を受けていた芸術家・職人は、タペストリー職人である。タペストリー製造の技術は、当時フランドル人しか持っていなかったため、タペストリーを自国で製造するためには、高額な報酬を払って彼らを招聘するしかなかった。実際、1553年のフィレンツェの宮廷では、執事についてタペストリー職人がもっとも高額の報酬を得ていたのである。このほかにも、フィレンツェのメディチ家礼拝堂にその究極の形を見る事になる貴石細工や公や公妃を飾る宝飾品などの職人達も、決して軽視される事は無かった。 画家や彫金師は、肖像画やメダルの作成によって、君主のイメージの形成に貢献していた。彫刻家もまた重要である。彫刻は宮殿や邸宅内部だけではなく、屋外にも置かれ、全ての人々の目にさらされるため、より多くの人々に向けて、君主のイメージを発信する事が出来た。フィレンツェでは、16世紀半ばには君主制のモニュメントとして「メドゥーサの首を持つペルセウス」や「ネプチューンの噴水」がヴェッキオ宮殿の周りに作られた。三代目のトスカーナ大公フェルディナンド1世は、フィレンツェのみならず国内の各地に自らも含む3台に渡る大公の騎馬像や立像を配置させた。都市空間は君主称揚の場に帰られていったのである。 宮廷文化の中で最も重要なのは、君主や一族の結婚などを祝うための祝祭であろう。それは現代にはほ(261)とんど痕跡を残さない、はかないものであるが、プロパガンダの点では、恐らく最も重要なものである。宮殿のようなある程度永続的なものとは異なり、祝祭には、それが行なわれる時点での政策やメッセージを、的確に発信できるからである。 祝祭はいくつかの要素に分ける事が出来る。最初に行なわれるのは入市式とパレードである。結婚の際には、妃となるものが最初に都市内に入るときに、入市式が行なわれ、その後市内をパレードするのが通例である。このとき市門やパレードが通る道には、凱旋門が幾つも作られ、君主と妃、そして一族の繁栄を称える事になる。市内のどこを通るかは、市民に向けての重要なメッセージでもあった。君主制になったばかりのフィレンツェでは、嘗ての共和国の政庁であるヴェッキオ宮殿の前を通らない事で、君主制の現実を市民に告げたのである。 祝祭は一日で終わるものではない。君主の結婚のような重要な出来事を祝う場合、祝祭は数ヶ月にわたって続けられ、さまざまな出し物が行なわれる。出し物には、劇場での演劇やインテルメッツォ(幕間に行なわれる一種のショー)、舞踏、馬上槍試合、模擬海戦、バレエなどがあった.フィレンツェでは、現在では庶民の祭りとして行なわれている「古式サッカー」を、貴族達が祝祭のときに行なっていた。近世には君主達が自らの意向を示すために、より壮観で大規模な祝祭を行なおうとしていた。その為に大きな常設劇場が作られるようになり、そこでは機械仕掛けで人を吊り上げたり、場面を転換させたり出来るようになり、壮大な構想のインテルメッツォや演劇が行なわれた。しかし常設劇場が作られたために、君主の祝祭の一部は民衆の目から届かない所へ移動し、エリートのためだけのものとなったのである。 宮廷と都市(262):宮廷社会は、独自のルールを持つ一つの社会であり、そのルールは市民や商人の世界とは異なるものであった。しかしだからと言って、宮廷が都市に影響を与えなかったわけではない。イタリアの場合、どの宮廷でも、メインとなる宮殿は都市に存在しており、都市と宮廷は相互補完的な関係にあった。都市は宮廷にその役職者、彼らの住居、そして食料を含む日用生活品を提供した。一方、宮廷は、都市に雇用と商業のチャンスを与えたばかりではなく、都市の景観を変え、君主を称えるための芸術で都市を飾った。儀礼と名誉の概念も、都市とは無関係ではありえなかった。有力市民達は徐々に宮廷に入るようになり、宮廷のルールを自分達のものとしていった。宮廷は国家の政治的、社会的、経済的、そして文化的な中心であり、都市民をもひきつけるものだったのである(262) (斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)