2009年4月2日木曜日
文化と芸術、パトロネイジ
都市の文化と芸術(225) 都市社会と文化・芸術を結ぶものはパトロネイジである。……イタリア語では芸術パトロネイジを「メチェナティズモ」、社会的政治的パトロネイジを「パトロンチーノ」と区別している……。芸術パトロネイジは、パトロンの種類によって都市政府、同職組合、兄弟界などの「公的パトロネイジ」と、君主、教皇、貴族、市民などの「私的パトロネイジ」に区分される。しかし、厳密な区別ではなく、半ば「公的」で半ば「私的」という性質を持つ場合もある。……全体の流れとしては「公的パトロネイジ」から「私的パトロネイジ」へ、「宗教的パトロネイジ」から「世俗的パトロネイジ」へと比重が移っていく。この変化がルネサンスと言う時代の特(226)徴である(フィレンツェ、ベネチア、ミラノ、ナポリ、マントヴァ、フェラーラ、ウルビーノ、ローマ)。 フィレンツェ: 毛織物業で繁栄したフィレンツェの公的パトロンの代表格は、同職組合である。同職組合は政治基盤だったので、支配階級の市民は必ずどれかの同職組合に属していた。そして毛織物製造組合は大聖堂、毛織物取引商組合は洗礼堂、絹織物業組合は捨児養育院と言った具合に、それぞれの同職組合が資金を出し合って公共建築を造営管理し、都市の壮麗化に貢献したのである。 同職組合同士がプライドを競い合う格好の舞台となったのがオルサンミケーレ聖堂である。造営管理権を持っていた絹織物業組合が、14の壁龕を同職組合の守護聖人像で飾ることを提案したのだ。洗礼堂の門扉を製作中の彫刻家ギベルティは、大組合である毛織物製造業組合のために「聖ステファノ」、毛織物取引商組合のために「洗礼者聖ヨハネ」、両替商組合のために「聖マタイ」のブロンズ像を制作した。ドナテッロは小組合である武具甲冑師組合のために「聖ゲオルギウス」、麻織物業組合のために「聖マルコ」の大理石像を制作した。同じ大きさならば、ブロンズ像は大理石像のほぼ5倍の値段である。財力を誇る大組合は高価なブロンズ像を、財力の劣る商組合は安価な大理石像を注文したことがわかる。 私的パトロンの巨人として歴史に燦然たる名を残しているのが、大富豪の銀行家メディチ家である。1434年に市政を掌握したコジモ・デ・メディチはサンタ・クローチェ聖堂、サン・ロレンツォ聖堂、サン・マルコ(227)修道院、フィエーゾレの大修道院の債権事業に合計17万8千フィオリーノの巨額を投じた。一個人としては驚異的な高額であるが、金貸しのやましさが宗教的パトロネイジを背後から後押ししたといえよう。またコジモが建てたメディチ邸にはドナテッロの「ダヴィデ」と「ユディットとホロフェルネス」、ウッチェロの「サン・ロマーノの戦い」3部作が飾られ、メディチ邸の礼拝堂にはゴッツォリの壁画「ベツレヘムへ向かう東方3博士の旅」が描かれた。この壁画にはコジモ、ピエロ、ロレンツォのメディチ家3代の肖像が行列の中に挿入されており、一族の世俗的名声を後世に伝えようとする意図がうかがえる。 カレッジにあるメディチ荘には『プラトン全集』の翻訳者で『プラトン神学』の著者でもあるマルシリオ・フィチーノ、『スタンツェ』の詩人ポリツィアーノ、『人間の尊厳について』の哲学者ピコなどが集まり、プラトン・アカデミアを開催した。そのカレッジのメディチ荘にはヴェロッキオの「ダヴィデ」や「イルカを抱く童児」が飾られていた。アカデミアの常連ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチが所有していた作品には、ボッティチェリの有名な「春」と「ヴィーナスの誕生」があるが、この古典の主題にはアカデミアで論じられた新プラトン主義思想の影響が認められる。[メディチ銀行支配人、支店長など]メディチ党派の有力市民も重要なパトロンである。…… 銀行家ジョヴァンニ・ルチェッライはメディチ家に次ぐ大パトロンである。レオン・バッティスタ・アルベル(228)ティにルチェッライ邸やサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファサードを設計させたが、そのファサードには「パオロの息子ジョヴァンニ・ルチェッライ、1470年」というラテン語の銘文を堂々と刻み、地上に於ける個人の名声を永遠化している。 古典文化の影響で自宅に肖像彫刻を飾る習慣も復活した。ドナテッロ作「ニッコロ・ダ・ウッツァーノ」、ギベルティ作「ロレンツォ・デ・メディチ」と「ジュリアーノ・デ・メディチ」、アントニオ・ロッセリーノ作「フランチェスコ・サセッティ」……などである。 1494年にメディチ家が追放された後に、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」やミケランジェロの「ダヴィデ」が制作されたが、芸術家はより高額な報酬を約束してくれるパトロンにひきつけられて行く。そのパトロンのいるところがローマであり、時にはフランスであった。こうしてフィレンツェに発祥したルネサンス美術はイタリア各地へ、そしてヨーロッパ各地へと拡散して行くのである。 ミラノ(229):ヴィスコンティ家のミラノ支配は、大司教オットーネ・ヴィスコンティと皇帝代官になったマッテオ・ヴィスコンティによって13世紀末から14世紀はじめに確立した。1395年にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコ(230)ンティが皇帝からミラノ公の称号を得て、名実ともにミラノの君主になった。ジャン・ガレアッツォはミラノの強大化を図ってフィレンツェやベネチアを脅かした。この時代に同家は最大領域を獲得し、ミラノは織物、金工品、武具甲冑の製造で繁栄した。彼の最大の建築事業は、1386年に着工したゴシック様式のミラノ大聖堂の造営である。ジャン・ガレアッツォの長男ジョヴァンニ・マリアが暗殺されると、次男フィリッポ・マリア・ヴィスコンティが公位をつぎ、父の事業を継続したが、彼の死をもって直系男子の血統が絶えた。 1450年に武力でミラノ公位を奪ったのは、フィリッポ・マリア・ヴィスコンティの庶出の娘と結婚していた傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァである。彼は友人のコジモ・デ・メディチと結んでベネチアを牽制し、メディチ銀行ミラノ支店の開設を認めた。またフィレンツェ人建築家フィラレーテを招聘してマッジョーレ施療院を建設させるなど、フィレンツェ風の都市整備に力を入れた。 フランチェスコの長男ガレアッツォ・マリアが1476年に暗殺されると、実験は次男ロドヴィーコ・スフォルツァ通称イル・モーロに移った。彼は外交政策を転換してベネチア、ローマと結び、ナポリ、フィレンツェに対抗した。そしてフランス王シャルル8世のナポリ侵攻を手引きしたが、逆に1499年にフランス王ルイ12世に追放され、1508年、フランス軍にとらわれたまま没した。 政治家としては評判の悪いロドヴィーコ・スフォルツァだが、芸術のパトロンとしては偉大だった。大聖堂とスフォルツェスコ城をほぼ完成に導いただけではない。ブラマンテに多くの聖堂を建立させ、ダヴィンチには「最後の晩餐」を描かせ、父の顕彰碑として巨大な「フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像」を注文した(未完)レオナルドがミラノで八面六臂の活躍が出来たのは主君ロドヴィーコのおかげであり、パトロンと同時に宮廷芸術家がこの都市を去ったのは、両者の強い絆を物語っている。……[ナポリ省略] マントヴァはゴンザガ家が1327年から1627年まで支配した。皇帝から1433年にマントヴァ侯、1530年にマントヴァ公の称号を得たため、ゴンザガ家の宮殿は、現在パラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)の名で呼ばれている。(232)ジャンフランチェスコ1世は、傭兵隊長としてはベネチア側に仕えてミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの侵略を撃退したことで知られるが、パトロンとしても宮殿に隣接してサン・ジョルジョ城を増築した。 その子ロドヴィーコ3世は、人文学者ヴィットリーノ・ダ・フェルトレから教育を受けた学識ある君主であり、傭兵隊長、政治家、パトロンとしても高名である。レオン・バッティスタ・アルベルティには古代風のサン・セバスティアーノ聖堂、サンタンドレア聖堂を造らせた。1460年にはマンテーニャを宮廷画家として雇い、宮殿の客間である「夫婦の間」をフレスコ画で飾らせた。その壁画にはミラノ公フランチェスコ・スフォルツァのきさきからの手紙を手にするロドヴィーコ自身と妃バルバラ、次男のフランチェスコ枢機卿などの家族、人文学者ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ、さらに皇帝フリードリヒ3世やデンマーク王クリスチャン1世まで描かれている。 ロドヴィーコの孫フランチェスコ2世は、マンテーニャに「カエサルの凱旋」を描かせたが、フェラーラから嫁いだ妃のイザベッラ・デステのほうが芸術のパトロンとしては有名である。彼女は1490年に16歳でマントヴァに到着すると、すぐに宮廷の花形になった。マンテーニャに「パルナッソス」を描かせ、レオナルドやティツィアーノにも肖像画を描かせた。また彼女の周囲には、ベンボ、カスティリオーネ、バンデッロ、アリオストなどの文人も集まった。 フランチェスコ2世とイザベッラ・デステの子フェデリコ2世は……絵画の趣味はよく、コレッジョに「ダナエ」「イオ」「ガニュメデス」「レダ」などの神話画を描かせたほか、……離宮パラッツォ・デル・テをジュリオ・ロマーノに改築・装飾させた。 フェラーラは1267年以降、エステ家が支配した。15世紀にはニッコロ3世と三人の息子、レオネッロ、ボルソ、エルコレが統治し、居城のエステ城を中心に芸術パトロネイジを展開した。 人文学者グァリーノ・ダ・ヴェローナから教育を受けたレオネッロ・デステは、ヤコポ・ベッリーニに肖像画を描かせたほか、ピサネッロに多数のメダルを作らせた。メダルの鋳造はローマ皇帝を連想させるものであり、共和国よりも君主国で流行した習慣だった。 ボルソ・デステは1471年に最初にフェラーラ公の称号を手に入れた人物である。何事にも豪華趣味で、彼が所蔵する豪華写本の聖書は2200ドゥカートもする、15世紀イタリアでもっとも高価な書物の一冊であった。彼が精力を傾注したのは、マントヴァのゴンザガ宮殿に刺激を受けたスキファノイア宮殿の造営である。その中の「月暦の間」には、フランチェスコ・デル・コッサらが、神話の神々、黄道12宮の象徴、ボルソの宮廷生活を描いた。 エルコレ・デステは教養の無い軍人であったが、周囲に学者や芸術家を集める偉大なパトロンであった。彼の子供たちは、枢機卿となったイッポリトを別にすれば、当時の有力者と結婚して強力なネットワークを築いた。すなわち、1490年にイザベッラ・デステはフランチェスコ・ゴンザーガと結婚、1491年にベアトリーチェ・デステはロドヴィーコ・スフォルツァと結婚、1502年にアルフォンソは教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと結婚した。長女イザベッラ・デステと侍女ベアトリーチェ・デステの二人は人文学者バッティスタ・グァリーノに教えを受けて教養ある美貌の妻ルクレツィア・ボルジアに任せた。ボルジア家の政略の道具として翻弄された彼女は、三度目の結婚でやっと幸せをつかんだ。教養あ(234)るルクレツィアは、枢機卿で文学者のピエトロ・ベンボと文通し「アゾラーニ」を献呈されている。 アルフォンソ・で捨ての書斎を飾っていた絵画作品には、ヴェネチア派のジョヴァンニ・ベッリーニの「神々の饗宴」、ティツィアーノの三部作「バッカスとアリアドネ」「バッカス祭」「ヴィーナスへの封建」などの傑作があった。[フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ、フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレのウルビーノ省略。] 「海の都」ベネチアは、中世初期にフン族やゲルマン諸族の襲撃を逃れて潟湖の中に移り住んだ人々のコミュニティに起源を持っている。ベネチア人はやがて東地中海に進出し、当方とヨーロッパの中継貿易で繁栄を極めた。このような国際貿易に従事する商人たちが世襲の貴族階級を作り上げ、彼らだけが参政権を持つ共和制は、ナポレオンの侵攻によってベネチアが独立を失う18世紀末まで維持された。 支配階級である貴族はヴェネチアで最も重要な文化のパトロンだった。彼らは私生活におけるパトロネイジだけでなく、政府官職を通じて公的なパトロネイジも行なった。また、中近世のヨーロッパで屈指の人口規模を誇ったベネチアには、現在もおびただしい数の聖堂が残っているが、それらの建設や美化も貴族たちの富に大きく依存していた。……(236)ヴェネチアの文化遺産の中で第一に挙げられるのは、サン・マルコ聖堂である。……サン・マルコ聖堂の管理運営は政府の公的パトロネイジのもとに置かれていたが、その他の聖堂は、貴族や市民の私的パトロネイジ、あるいは兄弟会(スクオーラ)の半公的パトロネイジの対象となった。殆ど例外なく、聖堂には家名を冠した礼拝堂があり、美しい祭壇画や彫刻や墓碑などで飾られている。このような礼拝堂は、多額の使用料を教会に払うことの出来る裕福な家が私費を投じ、芸術家を雇って作らせたものである。また、礼拝室以外にも聖堂のいたるところに個人が奉納した絵画や彫刻、墓碑などがある。このような例の枚挙には暇が無い……(237)聖堂には、個人的な礼拝室だけでなく、兄弟会の礼拝室や祭壇も見出される。ベネチアでは同職組合が政治的にも文化的にも大きな力を持たなかった代わりに、兄弟会が集団的パトロネイジの重要な担い手となった。たとえばサンタ・マリア・フォルモーサ聖堂の中央祭壇は、16世紀末に聖秘蹟の兄弟会によって新しく作りかえられた。どうせ移動には、ほかに聖母マリアのお清めの兄弟会など4つの兄弟会が礼拝室を持っていた。…… ベネチアの貴族たちの富は、伝統的に海上貿易に基づいていた。彼らが運河沿いに競って建てさせた邸宅の多くは、オリエント風の趣を持つ商館建築である。12世紀に期下を持つダ・モスト館やファルセッティ館などには、サン・マルコ聖堂と同様に、ビザンツ文化の影響が色濃い。14世紀になると、ベネチア独特のゴシック様式が発展し[た]。しかし、15世紀にベネチア共和国の領土がイタリア本土に拡大すると、資本を商業から本土の土地に移す傾向が広まった。地主貸した貴族や浮遊市民は贅沢にふけるようになり、より多くの富が芸術に注がれるようになった。屋敷を美術品や家具調度品で飾り、効果な衣服をまとい、楽団や劇団を雇って宴会を催したりすることが、ステイタス・シンボルとして追求されるようになったのである。また、絵画やメダル、古代彫刻などの収集は、所有者の教養を示すものとみなされた。……(238)広大な本土量の獲得はまた、政治的にも文化的にも東から西への方向転換をベネチアに促した。領土問題や同盟や和平をめぐる外交折衝の機会が増え、貴族やその秘書を勤める有力市民が、フィレンツェ、ミラノ、ローマなどに派遣された。彼らはこれらの都市で新しい文化(ルネサンス)に触れ、それをベネチアにもたらす役割を果たした。ベネチアの主な人文主義者には、政府の施設としてフィレンツェに長く滞在したフランチェスコ・バルバロやベルナルド・ベンボなどを挙げる事が出来る。彼らの周辺ではアカデミアや、それに類した知識人のサークルが生まれ、哲学・文学・自然科学など、さまざまな面でベネチア文化の中核となった。15世紀後半から16世紀にかけて、ベネチアはヨーロッパ最大の出版業の中心地であったが、それを支えたのもアカデミアの活動だった。有名な出版業者アルド・マヌツィオは、ピエトロ・ベンボ(ベルナルドの息子)やエラスムスを含むアカデミア員の協力によって、古典の注釈など、優れた書物を世に出した。 1500年前後は、一方においてベネチアが多くの苦難を経験した時代でもあった。ベネチアの誇りであった東地中海の覇権と東方貿易の半独占状態は、オスマン帝国の海上進出と大航海時代の到来によって脅かされ始めた。また1509年のカンブレー同盟戦争では、本土領の大半を一時的に失うと言う屈辱を喫した。いずれも即座にベネチアを衰退させる事は無かったものの、経済大国、軍事大国としてのベネチアの威信は大きく傷つけられた。この威信を回復する事が、16世紀ベネチアの重要な政治課題となる。それは文化政策にも顕著に表れた。とりわけ、サン・マルコ広場周辺の再整備を通して、政府はベネチ(239)ア共和国の偉大さを可視化しようとした。こうして生み出された古典主義様式の建築群は、ルネサンス的な都市景観をベネチアに与えた。また、サン・マルコ聖堂の鐘楼の足元につくられた小開廊のレリーフ装飾、元首官邸(パラッツォ・ドゥカーレ)の内部装飾などは、綿密な図像プログラムに基づいて制作され、ベネチア共和国の栄光を賛美するシンボルに満ちている。ローマ:古代ローマ帝国の首都として栄えたローマは、中世に著しく荒廃した。特に、教皇庁がアヴィニョンに移されている間(1309-77)に、この「永遠の都」は廃墟同然になってしまった。しかし、再びローマに教皇が立った後、アヴィニョンとローマにカトリック世界を二分した教会大分裂(1378-1417)が収束すると、ローマの再生プロジェクトが開始された。この事業に本格的に着手したのは、自らも人文主義者だった教皇ニコラウス5世である。彼の計画は、バチカン宮殿(教皇の在所をラテラーノからバチカンに移したのも彼である)の拡充やサン・ピエトロ大聖堂の改築からローマ市外のインフラ整備にいたる壮大なものだった。彼の存命中に実現されたものはわずかだったが、ローマの再整備は、彼の後継者である歴代の教皇達により、その後約100年にわたって続けられることになる。 バチカン宮殿は、現在のバチカン美術館を中心とする建築複合体であるが、教皇の居室、教皇庁組織のための施設、図書館など、教皇庁のさまざまな用途のために建てられたものであり、度重なる増改築を経て現在のような姿になった。幾つもの施設の中でもっとも有名なのは、教皇選挙が行われるシスティーナ礼拝堂であろう。この礼拝堂の名称は、これを建てさせたシクストゥス4世にちなんでいる。彼は、ボッティチェリ、(240)ギルランダイオ、ペルジーノら、当代一流の画家達をローマに招き、礼拝堂の壁画を依頼した。ミケランジェロの手による天井画「天地創造」はシクストゥス4世の甥にあたるユリウス2世の命令によるものである。荒々しい性格で恐れられたユリウス2世がいやがるミケランジェロに無理矢理この仕事をさせた話は良く知られているが、彼が確かな審美眼を持つ優れたパトロンだった事は疑いない。まだ若きラファエロを抜擢し、「アテネの学堂」をはじめと刷る壁画を宮殿に描かせたのも彼だった。ミケランジェロは天井画の完成から約20年後、パウルス3世の要請で再びシスティーナ礼拝堂で筆を執り、傑作「最後の審判」を描いた。 サン・ピエトロ大聖堂の改築は、ローマ再生の核心だった。改築前の大聖堂は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が自ら礎石を据えた由緒ある建物だったが、築後千年以上を経て、すっかり老朽化していた。15世紀の教皇達もあれこれと対策を講じたが、16世紀初頭に教皇の座に着いたユリウス二世が英断を下し、全面的な改築が実行に移されることになった。教皇権力の強化に全霊を傾けたユリウス2世は、かねてから宮殿内ベルヴェデーレの中庭の仕事を任せていた建築家ブラマンテを大聖堂改築プロジェクトの責任者に任命し、1506年、以後120年間に及ぶ大工事が始まったのである。 大聖堂は、どの都市においても、その都市の威信をかけた象徴的建造物である。当時、キリスト教最大の聖堂はミラノ大聖堂だったが、それは、後にミラノ公となるジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが14世紀末にこの巨大な聖堂の建設を思い立ったときそれまで最大だったフィレンツェ大聖堂を上回る規模を目指した結果であった。従って、ローマだけでなく全キリスト教世界の中心となるべき新サン・ピエトロ大聖堂は、規模でもデザインでも、他のすべての聖堂を凌駕しなければならなかった。ルネサンス建築を完成の域に高めたとされるブラマンテが考えた新サン・ピエトロ大聖堂の平面プランは、正方形とギリシア十字と円を組み合わせた、きわめて理知的なものだった。しかし大聖堂の建設は人間の寿命よりもはるかに長い時間を要した。……現在我々が目にする世界最大のキリスト教建築が完成したのは、ようやく1626年の事であった。工事はそれぞれの建築家がそれぞれの修正を加えながら進められたが、最も決定的な影響を残したのはミケランジェロである。また大聖堂の内装と広場の整備は、17世紀にベルニーニによって行われた。これらの芸術家達の登用が、各時期の教皇の個人的なパトロネイジによるものであった事は、言うまでもない。 ユリウス2世の後任教皇レオ10世は、フィレンツェのメディチ家の出身だった。偉大なパトロンであったロレンツォ・デ・メディチを父にも疲れは、幼いころから美と知識に囲まれて育った。彼は、ラファエッロをはじめとする芸術家達へのパトロネイジをユリウス2世から引き継いだが、旧知のミケランジェロに関してゃ、ローマよりも地元フィレンツェで使う事を好み、サン・ロレンツォ聖堂新聖具室(実質的なメディチ家の霊廟)の仕事を強制的に行わせた。 教皇にとって、ローマの美化は最も重要な課題だった。教皇は全カトリック世界の宗教的指導者であると同時に、教皇領と言う国家を治める君主でもあった。その両面を兼ね備えるがゆえに、世俗の君主達以上に、教皇は自らの権力と絶対性を可視化する必要に迫られていたのである。しかし、それには途方もない費用が必要だった。その確保のために教皇達が訴えた手段は、贖宥状と聖職の売買である。この「悪徳」に手を染めたのは、当然ながら、とりわけ芸術に情熱を傾けた教皇だった。ルターの教会批判によって宗教改革の口火が切られたのがレオ10世の在位中(1517)だった事は、偶然ではない。そして、次のハドリアヌス6世が即位後1年半で没した後、レオ10世のいとこジュリオ・デ・メディチがくれメンス7世となって4年目の1527年、ローマは皇帝カール5世の軍隊(兵士の多くは新教徒だった)によって蹂躙されてしまうのである。 (242)「ローマ劫掠」事件によって再び荒廃したローマの再建に尽力したのはパウルス3世である。彼はミケランジェロを重用し、ローマ市議会のあるカピトリーノ大聖堂の主任建築技師に任命した。パウルス3世はまた、トレント公会議を召集したり、イエズス会を認可したりするなど、カトリックの勢力挽回にも貢献した。 教皇や枢機卿達は、私的なパトロネイジも活発に行なった。ローマ市内には、パウルス2世の邸宅……、ユリウス3世の別荘……など、贅を尽くし趣向を凝らした館が現在も数多く残っている。 中近世において、文化、とりわけ芸術が成立する枢要な条件はパトロン、すなわち芸術作品や建築物を注文し、その制作費用を負担する人々の存在であった。文化のあり方はパトロンのあり方によって規定され、パトロンのあり方は社会のあり方によって規定された。よって、共和国と君主国の間、また同じ共和国でもベネチアのような特殊な海港都市とフィレンツェの間、同じ君主国でも王や公が治める所と教皇が治めるローマの間には、さまざまな差異が認められたし、同じ場所でも時代の変化による差異が生じたのである.(243)しかし、すべてのパトロネイジには、ある共通した特質があった。それは、個人であれ集団であれ、君主であれ政府であれ、パトロンの社会的な立場を明示する機能を持っていた事である。パトロン達は自らの趣味のためと言うよりはむしろ、権力を誇示し威信を高めるため、あるいは地位を正当化するためにパトロネイジを行なった。イタリア・ルネサンス文化の輝きは、各都市、各君主、各集団ん、各個人が、しのぎを削るようにして自己主張をした結果であり、それを可能にした社会的活気の表れだったのである。(243)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)