2009年4月2日木曜日

人々の絆と祭り

人々の絆と祭り(209)[16世紀ころまで]市民自らが武器を取って都市を防衛する民兵の軍事訓練に起源があるといわれる、こうした暴力的な祭りは、中世のイタリアではいたるところで開催されていた。たとえばピサではベネチアと同じような「橋の上の戦い」が行われていたし、シエナには町を3分する地域ごとの対抗戦として、棍棒を使った模擬戦(エルモラ)があった。さらにフィレンツェの「古式サッカー」やシエナのパリオも、相当に荒々しい祭りであった。そしてこれらの祭りに共通するのは、都市を構成する地域共同体の対抗戦として行われるということである。祭りの参加者は、いわば地域の代表として、その力と名誉を競い合った。一方ベネチアのカーニヴァルでは、「喧嘩祭り」の主体であるカステッラーニ[主にベネチアの中心部を逆S字型に貫く大運河の東側に居住していた者たち]とニコロッティ[西部に住む者たち]が、今度は力と技を競い合う組体操のような「ヘラクレスの怪力」というパフォーマンスを繰り広げ、訪れた人々の目を楽しませていたのであった。 名誉をかけた祭りの背景にある共同体の対抗意識や、その直接的な表現としての暴力の意味を理解するためには、社会全体に暴力が溢れていた中世世界の性格について考える必要がある。現代とは異なり、都市当局や君主・領主の司法権力が社会の隅々にまで及んでいなかった中世では、個人や集団への攻撃や侮辱に対しては自力で立ち向かい、自分や家族、共同体の利益と名誉を守るために、攻撃と復讐の応酬が繰り広げられた。こうした私人間の実力による紛争解決のことを一般に私戦(フェーデ)といい、イタリアでは加害に対する報復行為をヴェンデッタと呼ぶ。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に描かれたモンタギュー家とキャピュレット家の果てしない争いを(210)想起するとわかりやすいだろう。そして、このような暴力の応酬は、他の共同体の間でも頻繁に行われていた。だから現実の衝突にせよあるいは祭りでの対決にせよ、参加者は真剣そのものであった。なぜなら勝者には名誉と利益がもたらされ、敗者には屈辱と失脚が待っていたからである。たとえば1548年に行われたベネチアの「サン・バルナバ橋の戦い」では、カステッラーニが勝利し、敗者は「罰ゲーム」として伝統ある呼称を捨て、改名を強いられるという屈辱を味わった。その新しい呼び名がニコロッティなのである。  しかしたとえ自分の所属する地域や集団の名誉がかかっているとしても、なぜ怪我や死の危険を冒してまで暴力そのものの祭りに参加し、それを守る必要があるのだろうか。 イタリア都市社会におけるソシアビリテ [現代社会は、個人単位で構成される一方、共同体の中で暮らしているが]この点は中世社会においても変わらない。むしろそこでは極めて濃密な人間関係が形成され、人々はその網の目の中で生活していたから、共同体の果たす役割は現代とは比べ物にならないほど大きかった。  このような共同体を形作る人と人との結びつきは、日常生活を支える有用な「絆」として捉えられ(211)る。とはいえ、この「絆」は、人々の行動や思考を縛る窮屈な「しがらみ」にも容易に添加する。こうした人間関係の性質や機能を解き明かそうとするのが「ソシアビリテ(社会的結合)」[政治的運動、多様な歴史的事象の背後にある政治的、社会的、文化的な人間関係やそれを通じて形成される集合的なメンタリティーと、社会構造や特質を明らかにするような社会的結合のあり方]という概念である。……中世イタリアに暮らす人々を取り巻くソシアビリテ[について]第一に挙げるべきものとして、家族や親族がある。中世社会における家族とは、単に血縁でつながる親子や兄弟姉妹のみならず、使用人や奴隷、従者なども含み、その血統にまつわる記憶や伝統、家名や紋章、名誉や威信を共有する成員によって強固に結ばれた集団であった。したがって『ロミオとジュリエット』のように、その構成員が攻撃され、家の名誉が汚された場合には、親族全体によって復讐が行われた。……(212) 地域における結びつき:都市民にとって、自分たちが暮らす地域の人々との結びつきは、それが都市のさまざまな祭りの基礎単位となっていたように、きわめて重要なものであった。そもそも中世イタリア都市の住環境は……富裕層が住む豪壮な邸宅を除けば、一般に狭くて暗く、設備も不十分で、快適な空間には程遠かった。そのため人々は、街路や広場といった外部の空間を生活の場として共有し、そこに設置されている井戸も共同で利用した。このように、毎日顔を合わせながら生活する中で形成されてきた自主的なソシアビリテが、教区や街区といった地縁的共同体であった。そこでは誰もが顔見知りで、互いに助け合いながら生活し、時には何世代にもわたる濃密な関係を築いていた。子供たちは地域の中で生まれ、育ち、社会のルールを学びながら、強烈な帰属意識をはぐくんで行くのである。  たとえばシエナでは、日常生活の基礎単位となったのはコントラーダと呼ばれる街区であった。街区は、それぞれ役員を選び、独自の成長や規約、財産、紋章、シンボル、色などを持っていた。街区の教会では子供に洗礼を施し、結婚式や葬式を挙げ、街区の守護聖人への崇敬が示された。住民の地縁的な結びつきは、信仰を通じて補強されたのである。そして扇形の美しいカンポ広場で行われるパリオは、まさにこの街区の名誉をかけた対抗戦として行われた。競馬はシエナの守護聖人である聖母マリアにちなんだ祝日などに開催されたが、住民たちはカタツムリやわし、一角獣や竜といったそれぞれの街区のシンボルをかたどった旗を振り、標語や歌を叫び、衆生する旗手と馬の勝利を祈った。競馬は、街区の住民としてのアイデンティティを確認し、連帯感を強化する場である一方、他の街区への対抗意識を発揮する場でもある。それぞれの街区の間には、長い歴史や(213)日常生活での利害関係に基づく対抗関係や同盟関係があった。だからこそ、敵対する街区への勝利はこの上ない満足と優越感を齎す一方、敗北による不名誉と屈辱を味わった住民たちは、次回の雪辱を固く誓い合うのである。 さらにシエナでは、テルツォと呼ばれる3分区も設定されていた。12世紀半ば以降、都市を支配する豪族層に対抗した商人や職人たちの軍事・行政組織として機能し始めたテルツォが、模擬戦の基礎単位であった。そしてこのテルツォの上に、シエナという都市共同体が存在したのである。競馬のような盛大な祭りは、各街区の結束と対抗意識を強化する一方で、同じ場所で同じ祭りに参加することによって、都市共同体の一体性をも演出した。また都市を取り囲む市壁や、信仰や行政の中心をなす大聖堂や市庁舎は、……都市の繁栄や市民の誇りを象徴する共同体のシンボルとしても機能した。こうしてシエナでは、いくつもの地縁的なソシアビリテが重層的に形成され、住民たちの帰属意識は、何よりもまず生活に密着した街区に向けられる一方で、テルツォや都市といったより工事の共同体へのベクトルをも併せ持ち、市民としての一体感と他都市への対抗意識が発揮されたのである。  こうした構造は他の多くの都市にも共通してみることができる。たとえばフィレンツェでは、都市を四つ(かつては6つ)に分ける街区(クワルティエーレ)と、16の行政区(旗区:ゴンファローネ)が設定され、さらにその下に62の教区があった。古式サッカーが街区対抗で行われていたことは既に述べたとおりである。大学都市ボローニャでも同様に都市の政治・軍事・徴税のきぞたんにとして四つの街区があり、更に各街区は、それぞれ25-30程度の教区に分けられていた。しかも人口の多い教区には、それぞれの事情に応じてモレッロやクワルティロロと呼ばれる下位区分もあった。  一方ベネチアでは、都市全体が6つの街区(セスティエーレ)に分けられる一方、相互に端で結ばれたそれぞれの島が、ほ(214)ぼひとつの教区として日常生活の基盤となっていた。また、……カステッラーニとニコロッティの対立は、都市成立期における「陸の住民」と「海の住民」としての自意識に起源を持ちつつ、時代とともに境界を移動させながら形成された地縁的な結びつきとして意識されていたとも言われている。このように、都市社会において重層的に存在していた地縁的なソシアビリテは、都市の軍事や行政、あるいは侵攻や祝祭と密接にかかわりながら、住民の生活空間として、その思考や行動を強く規定していたのである。 同じ地域に居住する人々の結びつきと並んで、同じ職業に従事しているもののつながりもまた、市民の日常生活において重要な意味を持っていた。ヨーロッパ氏においてギルドと総称される組織はその典型であり、イタリアでは同職組合(アルテ)と呼ばれていた。  同職組合とは、成員の相互扶助を目的とする自発的な仲間団体のことである。各成員の宣誓を通じて結成されたこの組織は、元は仲間の葬送儀礼と密接な関係があったといわれ、仲間の親方やその家族の葬儀にはすべての構成員が参加しなければならないことが規約に定められた。また残された寡婦や子供たち、あるいは困窮したメンバーに救いの手を差し伸べ、その面倒を見ることも同職組合の重要な役割であった。疫病の流行や災害、戦争などが頻発する社会にあって、こうした相互扶助は同職組合の最も基本的な機能の一つだったのである。  職縁的な共同体としての同職組合は、古代ローマ時代の都市の手工業者団体(コレギウム)との関連が指摘されているが、その起源は明確にはわかっていない。しかし、いわゆる「商業の復活」に伴って発展してきたヨーロッパと死では、11世紀前半ごろから遠隔地商業に従事する大商人のギルドが設立され、ピアチェンツァで1154年、ミ(214)ラノで1159年、フィレンツェで1182年に大商人の同職組合に関する記録が残されていることから、遅くとも12世紀後半にはイタリアでも成立していたと思われる。この同職組合を構成する富裕層は、法律家や公証人、医者などの専門職の同職組合の成員とともに、都市の経済や政治の実権を握ってエリート層を形成した。  大商人に続いて、手工業者や小商人もギルドを結成した。たとえばフランスでは12世紀半ばから王や領主によってパン屋や肉屋、魚屋、居酒屋などのギルドに規約が当たられている。イタリアでも、都市人口の増大や職業の多様化、都市コムーネの発展に伴って、パン屋や家事や、大工、毛織物工など、都市の経済構造に合わせて多様な業種の同職組合が設立され、12世紀末までにさまざまな文書資料に登場するようになった。同職組合の展開過程や性格には都市により違いもあるが、一般にこれらの同職組合は、同じ職業に従事するものの親睦や結束を深める相互扶助的な仲間団体としてのみならず、その業界を統括する自治的な機能や、過当な競争を排除し、構成員の利益を守る役割をも担っていた。多くの同職組合では、親方だけが正式な構成員となり、独自の規約を打定め、役員を互選し、成員間のトラブルを調停して採決を下す独自の裁判機構を持っていた。また、都市内での営業権を独占して組合員以外の自由な開業を認めず、生産や販売を調整して競争を規制する一方、営業時間や祝祭日を指定し、製品の質や価格を厳しく管理して不正を防止した。更に雇用できる徒弟や職人の数、修行に必要な機関、親方となるための試験や親方権の継承などについても規定し、技術の維持・伝承を図るとともに、自分の工房を営む親方数を管理したのである。 たとえば、1384年に定められたベネチア均衡の大学都市パドヴァの毛織物小組合の規約では、まず役員の選出や職務について決められた上で、この職に従事しようと望むものは誰でも10リラを会計係に支払って同職組合に加入すること、仲間の葬儀に参列しているものは、死者が埋葬されるまで、手にろうそくを持って境界に留まっておくこと、羊毛を盗むなどの悪い評判が立った職人や親方との関わ(216)りを禁止すること……などが定められ、業界内の秩序と名誉を保つとともに、仲間の葬儀などを通じて連帯意識を形成していたことが看守できる。 このように、同職者の利益保全と相互扶助のために作られた同職組合は、13世紀に都市の実権を握る支配層と同職組合を構成する小商人・手工業者層が対立し、後者による政治参加要求が高まりを見せる中で、次第に政治的な武装組織としての役割を果たすような場合が現れてきた。しかもその過程で、必ずしも職業上の関係を持たない複数の小さな同職組合が、組織として一定の力を確保するためにひとつに結合するなど、同職組合の統合や再編も進められた。また、都市の平民層が新たに都市の実験を握った政治機関を樹立したときには同職組合を基礎単位としてその機関の構成員を選出する事も多く、その場合には同職組合の成員であることが政治参加のための事実上の前提条件ともなっていたのである。 たとえばフィレンツェでは1250年に樹立された「最初のポポロ政権」がすぐに妥当された後、1282年には武装組織に変容していた同職組合を権力基盤として、再び小商人・手工業者層が権力を掌握し、同職組合成員の代表者であるプリオリからなる政治機関を設立した。ただし、プリオリの選出は同職組合ではなく街区ごとに行われた。また1266年から三次にわたって既存の同職組合は9つの大組合と5つの中組合、そして7つの小組合に再編され、序列化された。このうち大組合には、国際市場で活躍する遠隔地商人や金融業者、毛織物工業の織元、法律家や公証人などの同職組合が含まれ、旧来の都市貴族層の一部と融合しつつ、新たな支配層を形成して権力を掌握した。一方、中小組合に属する小商人や手工業者層は、政治参加権は認めら(217)れるものの実質的な発言力は著しく制限された。また毛織物労働者のように、大商人層と利害が対立する下層の労働者には利害が対立する下層の労働者には固有の同職組合の結成が認められない事も多く、政治参加権を奪われたまま大商人層に従属させられた。  ボローニャでも、1228年と言う比較的早い時期に起こった民衆蜂起に際して、その権力基盤となったのはやはり同職組合であった。しかしボローニャでは、武装組織としての機能は同職組合ではなく地域を単位とするアルメに与えられ、この同職組合とアルメに基づいて平民政権が樹立されたところに特色がある。一方、国際商業都市ベネチアでは商人の同職組合は結成されず、海外貿易に従事する大商人層を核として法的身分としての貴族層が創出され、政治参加権を世襲的に寡占化するとともに、その利益は国家により保護された。手工業者は職種ごとに52もの同職組合を結成したが、それらは国家による厳しい統制と管理の下に置かれ、政治参加権や独自の裁判権も認められず、他都市と比べてその機能は大きく制限されたのである。 ソシアビリテの機能(220)……このように中世イタリア都市社会ではさまざまな結びつきが形成され、人々はその絆としがらみに幾重にも取り巻かれながら生活していたのであった。  (221)そして、たとえそれぞれのソシアビリテは地縁や職業、あるいは共通の守護聖人への帰依といった多様な原理で結ばれたものであったとしても、それらが果たした役割には共通点も多かった。たとえば困窮した会員への相互扶助は、どのソシアビリテにおいても重視されている。このことは、公権力による社会保障や福祉などが欠如している一方、戦争や都市の権力闘争、頻発する疫病や飢饉、あるいは都市経済の収縮などによってもたらされる窮状や貧困に、人々が如何に対処しようとしていたのかを雄弁に物語っていると言えよう。とりわけ、農村と比べて死亡率が高かった都市社会にあって、強固な「家」共同体を作り上げ、相互に婚姻関係を結んで結束を強める富裕な人々とは異なり、人工の多数を占める職人や労働者は、家族や親族による援助を余り期待できなかったから、これらの共同体が果たす役割は非常に大きかった。だからこそ人々はこうした結びつきを重視し、自分の属する共同体への帰属意識を培っていたのである。 そして共同体の外部に対する強烈な対抗意識は、内向きの強固な帰属意識の裏返しであったといえるあろう。それが顕著に発揮される場が祭りであった。また、共同体の活動の場となる建物や教会を、著名な芸術家に依頼して飾ることもまた、成員の富や名誉や威信を誇示する手段となった。こうして、共同体の名誉やそれを守るための手段の一つとしての暴力は、私たちの生きる現代社会とは異なる実体的な意味を与えられていたのである。しかも共同体の結びつきを確認し、強化する場としての祝祭に参加することは、共同体の一員として認められ、受容される通過儀礼としての意味もあった。男たちが危険を顧みずにけんか祭りや競技的な祭りに挑む理由は、まさにこの点にあったと言えるだろう。 しかもこうした祭りは、既に述べたように、地域共同体をはじめとするソシアビリテごとの対抗戦として、都市を分断するばかりでなく、まさにその祝祭の時空を共有することで、都市共同体としての一体性を創出し、それを華麗に演出する場でもあった。都市もまた、そうしたソシアビリテのひとつなのである。しかも、中世の(222)祭りで盛んに行われた行列には、都市のお偉方を先頭に、そろいの衣装をまとった同職組合や兄弟会の構成員たちが参加していた。そこでは、都市とそれを構成する多様な要素の富や名誉や威信が誇示される一方で、厳然と存在する集団間の序列もまた可視化されたのである。  しかしながら、これらのソシアビリテも時代とともに形や機能を変えて行く。とりわけ14世紀以降甚大な被害をもたらしたペストの流行、有力商社や銀行の倒産を引き起こした経済の収縮、あるいは特定の個人に権力が集中するシニョリーア制の確立といった、都市社会の経済的、政治的な変化は、既存の社会的結合関係の弱化と変容をもたらしたことが指摘されている。フィレンツェでは、同職組合を基盤とする政治制度が次第に形骸化する一方、メディチ家をはじめとする有力家門に連なる、明確な形を持たない「友人関係」が次第に重要な意味を持つようになって来た。いわば有力者との「コネ」がものをいう社会となったのであり、制度上は単なる一市民に過ぎないメディチ家が権力を掌握できたのは、まさにこうした明確な形を持たないあいまいな人間関係を通じて、自らの党派に広く恩恵を与えることが出来たからであった。 都市空間の光と影 単調で厳しい中世都市における日常生活の中で、華やかな祝祭はまさに非日常的な時間と空間を創出するものであった。そのリズムは基本的には教会暦に従って刻まれ、節制と禁欲の日常と飽食と歓喜の祝祭が交互に訪れた。たとえば冬から春にかけて、クリスマスやカーニバル、復活祭という祝祭と、その間に設定されている改悛と節制の四旬節が、いわゆる「ハレ」と「ケ」のリズムを作り出す。そして、カーニヴァルのような祝祭では、時に権力を握る支配層や聖職者に辛らつな風刺が向けられ、「愚者の説教」のような日常の社会的役割を逆転させる「さかさまの世界」が現出した。これらの現象は、一見すると日常生活を規定する規範や秩序を破壊するもののように思われる。 しかしながら、既に見たように、さまざまな祭りの基本にあるのは、まさに日常の世界において大きな役割を果たしていた社会的な結合関係であった。したがって、非日常的な次空間であるはずの祭りにおいても、それを律しているのは日常生活の秩序や規範である。「さかさまの世界」とはその否定ではなく、単なる裏返しの姿に過ぎなかった。だから、祭りが終われば、すぐにもとの日常が復活する。祭りが日常生活の基盤となるソシアビリテの確認と強化の場であったことは繰り返し述べてきたが、そこで発揮される様式化された暴力は、祭りの非日常性の中でのみ許されていた。だからこそ都市政府やエリート層も、それを黙認し、ともに楽しんでいたのである。このように考えると、祭りとは日常生活の中で蓄積した不満やストレスを浄化し、日常生活を再生させる役割を果たしていたと言えるだろう。そして祭りに付き物の暴力は、いわば退屈な日常を一度破壊し「リセット」するためのエネルギーだったと言えるかもしれない。 ただし、こうした華やかな祝祭が演じられる都市社会の中には、ともすれば見失いがちな暗い影の部分があったことを忘れてはならない。中世イタリアとしに暮らす人々にとって重要な役割を担った強固な社会的結合は、既に指摘したような他の共同体に対する対抗意識のみならず、そうしたソシアビリテに参加することが出来ない人々、あるいは多くの都市民から異質な慣習や規範に基づく独自の共同体を形成せざるを得なかった人々に対する強烈な差別意識や排除をもたらした。……都市のマイノリティや周縁民として位置づけられるこうした人々に対しては、社会不安の増大に伴って容赦の無い差別や迫害が加えられることも少なくない。共同体における内向きの強固な結合と、外向きの排他性や攻撃性はまさに表裏一体のものであり、さま(224)ざまなソシアビリテを基盤として構成される都市社会の周縁部には、差別されながら生きる人々の姿が見え隠れしているのである。(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)