2009年4月2日木曜日
司教座聖堂
司教座聖堂 イタリアの主だった都市は、ベネチアなどわずかな例外を除くと、古代ローマ都市につながり、都市と司教座は古代から密接な関係にあった。もともとキリスト教は都市を中心に広まり、都市に作られた教会共同体の責任者が司教と呼ばれたが、4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認され、さらに国境化すると教会は次第に帝国行政システムを補完する組織となる。都市には司教座がおかれ、司教は都市の司法や行政の一端を担った。帝国の都市(キヴィタス)は、都市居住地のみならず、周辺の農村地帯も含んだ行政単位であったため司教区もこれに合致し、司教の権限はその地域全体の聖俗両面に及んだ。また近隣の複数の司教区は一まとまりになって大司教管区を形成し、その中で主要な都市の志向が大司教として大司教管区を統括した。 ローマ帝国の崩壊後も、イタリアの都市は、アルプス以北の地域を比較すれば、その政治、経済的な役割を大きく失うことなく存続し、都市を基盤に生まれた司教と司教区の仕組みも保たれた。司教座の多くが残存し、司教区も古代のキヴィタスの範囲を受け継いだ。(169)そのためイタリアの司教区は、新設ないしは再編されたアルプス以北の司教区と比べると、はるかに規模が小さく、数が多い。15世紀末のイタリアには約270もの司教区が存在したのに対し、同時代のフランスの司教区は130程度、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの司教区は合わせて70足らずに過ぎない。相対的に面積の広いアルプス以北の司教区には複数の都市が包含され、結果として司教座の無い都市も多かったのに対し、イタリアでは、都市とは司教座の所在地を意味し、中世になって新たに発展した居住地は、どれほど規模が大きくなろうとも司教座が無ければ、都市とみなされなかったのである。 このようにイタリアの都市と司教座は不可分の関係におかれ、古代末から中世初期の司教は都市の平和と秩序を維持し、その公的代表を務めた。司教はカロリング帝国解体後の混乱期にも都市の防衛に努力するなど、聖俗両面における都市の指導者として活動し続け、その後のコムーネの形成にも大きな影響を及ぼした。しかしながら、地域差はあるものの、11世紀から12世紀にかけて都市コムーネが司教に変わって世俗権力を掌握して行く。司教が都市政治の脇役に転じるとともに、都市コムーネは、都市の指標である司教座、特にそれを体現する司教座聖堂Duomoを積極的にコントロールし始める。都市を象徴する司教座聖堂は、司教よりも都市権力によって管理されるべきものとなったのである。他のヨーロッパ都市でも、都市民を主体とした司教座聖堂の建設が行われたが、実質的な上級権力を欠く中、コムーネ都市が行動に発達した北・中部イタリアでは、聖堂建設は、都市の経済的、政治的な趨勢と密接に関連するのみならず、互いに激しく合い争う近隣都市間のライバル関係をも投影した。トスカーナ地方の主要都市であるピサ、シエナ、そしてフィレンツェの例を見てみよう。独特の列柱が並ぶロマネスク様式のピサの聖堂、(170)シエナの華麗なゴシック様式の聖堂、ルネサンス建築の曙を告げる壮大な丸屋根をいただいたフィレンツェの聖堂。それぞれの建築様式は都市の繁栄期を如実に示している。 アルノ川の河口に位置するローマ時代からの港湾都市ピサは、11世紀から12世紀にかけてジェノバとともにティレニア海の派遣を握り、他のトスカーナ都市に先んじて大きな経済発展を遂げた。大聖堂の建設は、1064年のイスラム軍に対するパレルモでの勝利を記念し、その戦利品を資金源にして開始されている(ちなみに有名なピサの斜塔は大聖堂の鐘楼である)。大聖堂はまさしく都市の栄光を称えるモニュメントであった。1092年にピサ司教座が大司教座に昇格したことも、当時のピサの権勢を裏書している。中世の大司教は管区に所属する他の司教とその司教区に対して強い影響力を及ぼすことができたため、大司教座への昇格は都市の威信を高めるとともに、周辺領域の支配を進める上でも利益をもたらした。後発のフィレンツェが大司教座に昇格したのは、300年以上もあとの1419年である。 一方、中世の主要な交通路フランチージェナ街道上に位置した内陸都市シエナは、都市が繁栄を迎えた12世紀中ごろに大聖堂の建設を始めた。1260年代にほぼ完成した聖堂は、14世紀に入って拡張工事が加えられる。(171)さらに1339年には、人口増加とライバル都市フィレンツェへの対抗心から、建物の向きオ90度変えて既存の身廊を翼廊とする巨大な新聖堂の建設が都市評議会で決議された。けれども疫病の流行や経済の退潮によって建設費の調達が難しくなり、設計の不備もあって工事は破棄されてしまう。聖堂の脇には今も、この未完の身廊部分を見ることができる。 これに対して3都市の中で最も発達の遅かったフィレンツェが現在の大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレの建設を決定したのは、都市の基本的な政治体制が固まった13世紀末のことであった。当時の都市評議会記録には、トスカーナで最も美しく立派な聖堂の建設を目指すことが明記されている。……1339年のシエナによる新聖堂造営の決断は、まさにフィレンツェの工事が本格化した時期にあたっている。シエナところなり、フィレンツェの大聖堂建設は中断を繰り返しながらも続き、15世紀に入って天才建築家ブルネレスキがついに、不可能とも思われた巨大な丸屋根を完成させるのである。 司教座聖堂の建設はまさに都市の一大事業となり、そのために多大なエネルギーが注ぎ込まれた。教会は元々信仰の場に留まらず、法契約や商取引の場にも用いられてきた。専用の市庁舎を持つ以前の都市コムーネは教会で集会を開き、市庁舎の誕生後も、しばしば教会の建物が都市の行政業務に利用されている。特に司教座聖堂は、都市の式典や公開講演が開かれるなど、一種の公会堂のような役目も果たした。都市のシンボルとしてその栄光を目に見える形でアピールする司教座聖堂の建設は、宗教的な熱意のみならず、都市に対する誇りや帰属意識の発露であり、またそれらを鼓吹して都市民を一体化させるためのものであった。もっとも、信仰心と(172)都市称揚の融合した都市のシンボル教会がすべて、司教座聖堂だったわけではない。たとえばベネチアを象徴する壮麗なサン・マルコ聖堂は元首(ドージェ)の礼拝堂であった。またボローニャの中心で威容を誇るサン・ペトロニオ聖堂は、教皇権に対抗して市民が建設した、まさに市民の聖堂である。これらは、個々の都市の特殊な事情によって、通常は司教座聖堂が果たす機能を別の教会が担った例といえよう。 では、司教座聖堂の建設はどのように進められたのだろうか。こうした大掛かりな建設事業には、当然のことながら、莫大な資金、そしてさまざまな資材や多くの人手が必要となる。工事期間も何十年と続くのが通例であった。建設費については、聖職者がかかわったり、信徒の寄進が募られたりもしたが、多くは都市が資金調達を行い、しばしば都市が貸す税金の一部が建設費に充てられた。事業の遂行には、多額の費用を支える財力とともに、マネージメントの力が欠かせない。中性イタリアの都市では、聖俗を問わず大規模な建設事業を行う際、物資や人材の確保、資金の調達や運用といった運営面を担い、事業全体を管理する団体を組織し、これをオペラ、あるいはファッブリカなどと呼んだ。イタリア語のオペラは広く「仕事、労働、事業、作品」を意味し、元々は建設の仕事、事業そのものをさしていたが、次第にそれを担う組織のことも表すようになったらしい。またファッブリカも「建築、建物」などを意味する。 オペラは都市によっていろいろな形態をとったが、一般に独自の規約を持ち、役職者数名と、会計訳、専属の公証人などで構成されている。多くの都市では、当初加わっていた聖職者が次第に排除され、メンバーは俗人の市民に限られるようになった。建設計画全体の策定は勿論、設計案の選定や美術作品の注文、建築家や親方、職人たちの雇用などもオペラが行い、そのためにコンクールを開催することもあった。ブルネレスキが手がけたフィレンツェ大聖堂の丸屋根設計プランも、オペラ主催のコンクールを経て決定されている。さらに(173)オペラは、建設工事の終了後も解散されること無く、永続的に建物の維持管理を担い、改築や補修などを監督した。特に司教座聖堂のために設立されたオペラは、しばしば市壁や要塞の建設、広場の整備といった都市の土木建設事業に携わり、あるいは都市の財務部の役割を果たすなど、都市政府の機能の一部を受け持つようにもなった。ベネチアでは、元々サン・マルコ聖堂のオペラの役職であったサン・マルコ財務官が、市民の遺産の処理や管理を行う都市行政職に発展している。オペラは、聖俗、公私の入り混じった当時の社会に独特の団体であったといえる。(173)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)