2009年4月2日木曜日

服飾文化

服飾文化(158)[ダヴィンチ]が巷にあふれる流行の装いにいかなる視線を注いでいたかを示す興味深い一説が、愛弟子メルツィが師の膨大な手記から抜粋して編んだ『絵画論』と呼ばれる書にある。……   :子供のころ、男も子供も大人も誰も彼もが、衣服の端と言う端、頭はもとより足からわき腹に至るあらゆる箇所にフラッパ(縁飾りの一種)をつけているのを見たことを覚えている。当時はフラッパが大変素晴らしい発明のように思われていたので、そのフラッパにさらにフラッパを付け加えたり、同じようにフラッパのついた頭巾や(159)靴や頭巾帽を身に着けたりしたのである。このようなフラッパは服の主だった縫い目からさまざまな色で飛び出していた。その後私は靴や帽子、巾着、攻撃用に携帯する武器、衣服の襟、上着の下はし、服のすそ、しまいには自分を美しく見せたいと思う人の口元にいたるまで、長く鋭くとがっているのを見た。また、あるときには袖を大きくし始め、ついには各々の袖が服そのものよりも大きなものとなってしまった。ついで、衣服を首の周りに引き上げる流行が始まった結果、とうとう頭がすっぽり隠れるまでに至った。そうかと思うと、その後、首をあらわにするのがはやり始め、肩を覆うことがなくなったため、衣服を方で支えることができなくなってしまった。次いで、服を長くするのがはやったので、人々は足で服を踏まぬようにいつも両腕で服をたくし上げねばならなかった。次にわき腹とひじまでしか服をまとわぬという極端に陥った。しかもそれは恐ろしく窮屈で、人々はそのため非常(160)な苦痛を強いられ、大抵の人はその下のほうを裂いたものである。足もひどく窮屈で、足の指は互いに重なり合い、たこだらけになってしまった。: ……この記述が概ね事実であったことは、15世紀半ばの多くの絵画作品から確かめることができる。……レオナルドはこれらの奇抜な衣装を、描かれるべき人物の本質から目をそらさせてしまう、いわば「余計な付属物」として非難しているのである……。巧みな弁舌で民衆の支持を集めたフランチェスコ会士ベルナルディーノ・ダ・シエナは、常々人間の虚飾、とりわけ流行を追い求める女性に対して執拗なまでに攻撃を繰り返した。彼の口からは宗教からしからぬほどたくさんの服飾用語が飛び出してくるのだが、[1427年の説教]「この世のあらゆる物事はいかに空しいか」では、先のフラッパに加え、大裾、引き裾などの悪を説く。(160)……(161) イタリア人に、このような装いに対する過剰なまでの欲求が見られるのも無理は無い。イタリアは、服飾産業の基盤たる染色、織物の分野では疑いなくヨーロッパの中でも最も進んだ国の一つであったからである。染色に関しては古代ローマの伝統を受け継いだのみならず、ビザンツ帝国の技術も取り入れ、ベネチアやフィレンツェで発展する。ちなみにヨーロッパの古い染色技術を知ることができる現存する最も重要なマニュアルは、この2都市の職人によってかかれたものである。また毛織物産業についても古代以来の伝統があり、絹織物産業はシチリアに、ビザンツ帝国の支配下にあった8世紀、もしくは9世紀以降のアラブ支配時代に導入される。さらにオリエントーーー中近東、遠くは中国からの高級な織物が、ベネチアをはじめとする海港都市に続々と到着し、イタリアはこれらの商品を自国で加工するのみならず、内陸国に運ぶ中継地点としても栄えたのである。  豊富な素材を用いて作られる贅を尽くした服飾や装飾品の流行は、風紀の乱れを取り締まり、人々の間の目に見える格差をなくそうとする各都市の政府にとってきわめて頭の痛い問題となった。……イタリアで最初の奢侈禁止令が発布されたのは13世紀であるという。そしてその数は、知られているものだけでも13世紀には54,14世紀には101,15世紀(162)には83、16世紀には169にまで跳ね上がる。それらは高価な織物や毛皮の使用、衣服の極端な配色、切り込み飾りなどの装飾、金銀・宝石・真珠を使った装身具に至るまで、制限・禁止すべき物品を実に事細かに列挙している。  しかし絵画作品に現された服装を見ればわかるとおり、法律すらも着飾ることを喜びとする人々の前には有名無実であった。シエナ派の画家アンブロージョ・ロレンツェッティの『都市における善政の効果』には、色とりどりのギルランダ(花冠)をかぶり、トンボのような虫や幾何学モチーフなどの文様のある衣服や色分け服の裾を翻し、つま先のとがった靴を履いて踊る娘たちの姿が優美に描き出されている。……(163) 効果はさほど上がらないにもかかわらず、奢侈禁止令はイタリア全土で乱発され続ける。しかし16世紀んあると、幼少のレオナルドが目にしたような珍奇な流行は影を潜め、相変わらず高価な織物や宝石が使われているために取締りの対象になっているにしろ、より「品位」の感じられる衣装が多くの肖像画の中に見受けられるようになる。……このような装いに反映されている16世紀イタリアの美意識を余すところ無く伝えてくれるのが、カスティリオーネの『宮廷人』(1528)である。ウルビーノの宮廷を舞台に4日間にわたって繰り広げられた、理想の宮廷人についての対話の形をとるこの書には、頻繁に「優美grazia」という言葉が現れるが、これこそこの時代を読み解く重要なキーワードの一つである。宮廷人にふさわしい着こなしを問われた登場人物の一人フェデリコ・フレゴーゾは慣習に外れたものでなければ、どのようなものを着てもかまわないと答える。しか(164)しフランス風は仰々しすぎ、かといってドイツ風はつまらなすぎると述べ、そういった極端なものよりは「イタリア人によってよりよい形に変えられ、手直しされた」服装が望ましいという。そして衣装に、他の色にも増して「優美」を持たせる色は黒だというのである。  貴族のまとう色はといえば、従来、最も染色費がかかり、かつ最も美しいとみなされてきた赤であった。したがって右の発言は画期的なものであるといえる。最も嘗ては喪の色としてしか扱われなかった黒は、既に15世紀にはブルゴーニュ、ついでスペイン宮廷など、よー路派各地で好んできられるようになっていた。イタリアでこの色の評価が高まったのも、周辺諸国の新しい流行を無視できなくなったからだといえるかもしれない。さらにふぇで利己の言葉からは、両極端に走る隣国の服装をそのまま取り入れるよりは、イタリア人の感性を尊重すべきであるという作者自身の思いも読み取れる。とかく「都市」への貴族意識ばかりが強いといわれる彼らが「イタリア人」としての誇りを前面に押し出し、その着こなしに自信を覗かせているのである。アレッサンドロ・ピッコローミニの『ラファエッラ、あるいは女性の良き作法についての対話』(1539)(165)は、イタリア人の服装におけるこのような美意識が、より具体的に論じられている。……ラファエッラは、役人や聖職者が見咎める宝石類を頭ごなしに否定するようなことは無く、「程よく」身に着けることを勧める。その一方で首の詰まるようなタイプのカミーチャ(上着の下につける衣服)は、「フランスかぶれの」流行だといって排除する。何事にも「中庸の道」を説き、わざとらしさを避け、さりげなさを見せるべしという……。「優美」「中庸」「さりげなさ」、イタリアのモードはそれらの美徳をすべて兼ね備えたものなのだと、当時の識者は口をそろえて言う。そのような自負は、世界各地の服飾を図版入りで紹介したチェーザレ・ヴェチェッリオの『古今東西の服装』(1590)などにも垣間見える。ヴェチェッリオは、イタリア諸都市、とりわけ彼が活躍したベネチアの流行を誇らしげに語り、最もページを割いている一方で、当世のフランス男性の奇抜な服装、東欧や北欧、果てはアジアやアフリカの服装については好奇の目をもってーーー時としていささかの揶揄をこめて書き記しているのである。かくて次の世紀にフランス・モードの流れが本格的に押し寄せて来るまで、イタリアは「モードの中心地」を謳歌する。(165)(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)