2009年4月2日木曜日
食文化
食文化中世の慣用句に「人間はワインを飲み、パン、そしてパンとともに食べる「そのほかのすべてのもの」を食べて生きる」という言葉がある。肉料理にせよ魚料理にせよ浅いにせよ、おかずをさす名辞としてコンパナギウム(パンとともに食べるもの)が一般的になるのが、都市の成立期であった。一方「パンを共にする集まり」がコンパニウムであり、それがカンパニーになる。文字通り、パンは食の中心であり、人々が集まって食べる場の主役だった。そしてと市民はパン、とりわけ良質の小麦から作られる白いパンを求めた。 実のところ、小麦はそれほど生産性の高いものではない。しかし、農業生産の発展を見た中世中期には全体の作付面積が増えたこともあり、ニーズの高い小麦の生産が増え、市場に出されるようになった。農村では相変わらず野菜と大麦、キビやモロコシ、アワなどの雑穀中心の食であるのに対して、都市市場は明確に小麦志向であり、飢饉に備えた備蓄の対象となったのもまずは小麦であった。フィレンツェやベネチア、ジェノヴァなどでは都市近郊から持ち込まれる小麦だけでは足りず、かなり遠くからの輸入にたよってでも小麦を求めた。不作の年でも可能な限り小麦が求められていた。 もちろんと市民なら誰でも白いパンが食べられたというわけではない。雑穀によるパンや、雑穀と豆やクリ(154)などを引き合わせて作った粥を食べていた都市下層民や農民も多い。しかし、家畜の飼料ともなる雑穀は出来れば避けたいものだったのに対し、ステイタス・シンボルたる白いパンは常に求められるものだった。……食費に限りがあっても、パンを手に入れるための出費は削れなかったのである。 イタリアにおいて、パンの傍らにあるべき飲料はワインである。地中海沿岸においては、古代から最も重要な飲料はワインであったし、中世においては、カトリックの聖体拝領の秘蹟でキリストの血と位置づけられたワインはその重要性を増していた。ぶどうは生活圏近くで作付け可能なところではどこでも栽培され、フィレンツェの一人当たりの平均年間消費量は260-270リットルに達し、ボローニャの中世後期の一人当たりの平均消費量は現在の消費量の三倍から四倍であったと試算されている。……より強い赤ワインは支配者のものであり、貧しいものは軽いワインや、ぶどうを搾るときに出る絞りかすに水を加えたピケットを飲んでいた。産地や品種で差があるのはもちろん、安定して熟成させることが出来なかったので、ワインの味は変わりやすく、香りがよく風味のある評判の高いワインはまさしく支配者のものであった。 多様な食材 イタリアの食は、アルプス以北に比べて、多様な食材でも特徴づけられる。古来、最も重要な油はオリーブ油で、南部、とりわけプーリャ地方ではオリーブが大きなウエイトを占めていた。しかし北の地方ではそれほど多くが栽培されたわけではない。オリーブ油は一種の奢侈品的性格を持っており、オリーブ油が手にいれられない階層の人々はラードを用いた。 (155)肉もまた、ステイタス・シンボルであった。 強さを誇示したい貴族にとって力を連想させる肉は、食の基本であり、都市支配者層はその貴族のライフ・スタイルに従ったのである。とりわけ特権的な行為である狩猟によって得られる肉は、評価が高かった。これに対して、貧民の食は、豆、野菜類を中心としていた。豆で一番よく食べられたのはソラマメである。にんにく、たまねぎ、洋ねぎ、カブやキャベツなどが貧民の職として位置づけられた。ただ肉食に走っていた他のヨーロッパ貴族と違うのは、このような豆や野菜がめいんでぃっしゅの付けあわせとして、上層市民の食卓にも並んだことであった。豆、野菜、根菜、きのこ類を適宜合わせて行くことで、イタリアではヨーロッパの中でもバラエティに富んだ食生活が営まれるようになった。 イタリアの食が豊富なのは、イスラム世界から影響を受けたことも関係しているに違いない。米、砂糖、ほうれん草、なす、スイカ、杏、柑橘類等の食材が入ってきたかあるいは定着した。 イタリア料理を代表するパスタも、しばしばイスラム世界と結び付けられる。パスタの起源については諸説があるが、パスタの起源を問うときには、どのようなものをパスタと呼ぶかをまず定義しなければならない。水か卵で小麦粉をこねてすぐ調理する生パスタは、ローマ帝国でも知られていた。一方、ある程度乾燥させて保存できるようにした乾燥パスタの製法は、アラブ起源だとも言われる。……12世紀のアラビア語の地理書に拠れば、シチリア王国にトリイと呼ばれるパスタを作る製造業が存在した。13世紀に入ると、パスタは南部のナポリと並んで、とりわけパスタを北部に紹介する役割を果たしてジェノバと結び付けられるようになる。ジェノヴァは保存に適するため航海用食料となる硬質小麦を大量に輸入していたが、この硬質小麦、後には粗挽き硬質小麦であるデュラム・セモリナがパスタ製造に用いられることになる。13世紀半ば以降、パスタはまだイタリアの国民的食材とは呼べないとしても、イタリア各地で麺(156)状のパスタをはじめとして、さまざまな形のパスタが作られるようになった。 イスラム世界との交易は、さらに東方の香辛料の流入につながる。古代には圧倒的に胡椒に関心が集中していたのにたいして、十字軍時代の東方との交易は、胡椒のみならず、生姜、シナモン、クローブなどさまざまな香辛料が、大量にイタリアへ、イタリアからさらにヨーロッパ各地にもたらされた。このような香辛料をふんだんに使えるのは、都市上層民だけだったが、香辛料は東方に対する夢を膨らませた。 さらに当時の認識では、香辛料は消化に役立つとされた。「熱い」性質を持つ香辛料は、胃の中で燃えて消化を助けるとされたので、香辛料は調味料としてだけでなく、おつまみのようにも使われた。中世後期において実際に香辛料がどの程度使用されたかははっきりしないが、健康によい夢の香辛料を、好きなように使えることは憧れの的であり、ステイタス・シンボルであった。 一般の香辛料と並んで求められたのが砂糖である。北方の資料では砂糖に触れられることがめったに無いのに対して、地中海沿岸ではサトウキビが栽培されるようになっていた上に、甘味あるいは酸味と合わせて甘酸っぱい味が好まれたので、砂糖を求める傾向は強かった。最もサトウキビから取れる砂糖は少量だったので、甘味をつけるために干しぶどうや干しイチジクといった乾燥果物そして何よりも蜂蜜が用いられた。やがて香辛料に取って代わった砂糖は高級料理に大量に用いられるようになる。 中世後期の食12,13世紀からの経済成長、そしてそれに伴う都市の発展は、13世紀末から深刻な停滞状況に陥る。人口増加と食料増産のバランスは崩れ、繰り返し基金が発生した。そこにペストが追い討ちをかけ、人口は著しく減少した。 (157)ペストの流行がひと段落すると、人生を楽しみたい、宴会を楽しみたいという欲求が復活し、さらに顕在化した。ひとつの大きな特徴は、肉の消費量が増えたことである。しかも量が増えただけでなく、それまで豚肉が中心であったのに、羊肉や牛肉が市場に出回るようになった。「新しい肉」への志向が見られるよういなった。農民の肉消費量さえ増えたといわれるが、豚肉、それも塩漬けの豚肉を食べる貧民に対して、上層市民は新鮮な肉、流行の「羊肉」や値段が張る牛肉を食べることで差異化を図った。 さらに価値があると考えられたのは鳥類である。空を飛ぶ鳥類はより「天」に近い存在で、軽くて白い肉が好まれた。特にヤマウズラや雉のように狩猟の対象となる鳥類は、貴族の特権に属するものであり評価されるものだった。逆に「地」の要素に結び付けられるものは価値が低かった。土の中にある部分を食べる根菜、地上近くにある野菜は下層の人々のものというわけである。 食物が食べる人のステイタスを示す。逆にステイタスにあった職をとるべきとされる。身分が高ければ、より多くの料理を食べられる。より価値のあるものを食べられる。いろいろな種類のものを食べることができる。それは人々にはっきりと印象付けられるべきだと考えられた。そのため、奇をてらった大掛かりな宴会や、見せびらかすことを目的とした食の工夫がなされた。すでに13世紀に年代記作者サリンベネ・ダ・パルマは「身分が高いがゆえに、貴族は庶民よりも食べることと装うことを気にかける」と語っているが、このような食に対する姿勢がよりきめ細かく体系的に取り上げられるようになったのである。中世後期に料理書が登場し、食事のマナーを語る書物が出るのも、このようなイデオロギーを背景に、差異化を図る傾向のひとつの現れであろう。その結果として、イタリアの食はヨーロッパの食の革新をもたらした。材料、分量、料理時間、調理法、調理器具などを示した『料理術の書』(1460)を著したことにより、最初の有名な料理人といわれるコモのマルティーノ、ヨーロッパ各国で版を重ねることになる『適度の楽しみと健康について』をあらわした人文主義者プラティーナ、『料理法大全』を著したバルトロメオ・スカッピなどは、その後のヨーロッパの食に大きな影響を与えることになる。(斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年)