1.前封建社会(58) 「ゲルマン人の歴史への登場」 4世紀後半から6世紀にかけての、いわゆる民族大移動によって、ゲルマン人が歴史の舞台に登場して以来、西ヨーロッパの歴史は始まる。彼等の足元の大地は湿って重く、肥沃であった。殆どは大森林で覆われており、年々ここにかなり大量の雨が降り注ぎ、夏涼しく冬寒かった。アルプス以北のこのような気候・風土は、古典古代世界の中心をなした地中海沿岸地方とは全く異なっていた。アルプス以南の土壌はやせて軽く、森は少なくまばらであり、気候は温暖で乾燥していた。わずかに河川流域や一部の灌漑地域だけが豊かな地味を持っていたに過ぎなかった。ゲルマン人の西ヨーロッパへの登場は、正に歴史的舞台の転回を意味するものであった。 (59)「古典的な古ゲルマン社会像」:古ゲルマン社会の経済について…考古学上からは、紀元前4千~5千年も前から農業が営まれていた事が知られ、大麦・燕麦・裸麦などヨーロッパの主要穀物の殆どが栽培されていた。燕麦・裸麦の栽培は青銅器時代からのことであり、またガリアのローマ人が無輪犂を使用していたのに対し、彼らと接触したゲルマン人は、より進んだ鉄製有輪鋤を牛に引かせていたと言われる。 土地制度については、マルク(Mark)呼ばれる森林・湖沼・池などの共同地(入会地)を中心に、これを共同利用するマルク共同体Markgenossenschaftという定住団体が形成されており、そこで人々は経済的平等を享受していた、とされる。
人々は政治・法生活の面ではジッペSippe(氏族)と呼ばれる団体をなしており、人々はその中に入る事によって初めて政治的・法的な自由と平等を受ける事が出来た。ジッペは当時の政治団体、法・平和共同体、軍事組織単位、農村共同体であり、いわば国家civitas内の国家であったと言われる。…(60)『ゲルマニア』によれば、ゲルマンの成年男子はいずれも戦死であり、平時においては田畑や家事その他を女・老人などの弱者に任せ、狩猟のほかは唯無為に日を過ごすとあり、また戦争の際には、戦士の戦う側に母・妻・子も姿を見せ、男達を声援したり、その傷を数えたりしている。更に彼等は、農業社会で最も重要な、且つ喜びのときである収穫期、「秋」の名称を知らない。更に、の地の民族大移動に家族・家畜・家財道具の全てを伴った文字通り家ぐるみの、しかも長距離にわたる移動であった。 ・「古ゲルマンの社会・経済・法制」:これらを考え合わせると、古ゲルマンの社会は牧畜経済を中心としており、いまだ定着農耕の段階には達していない事が推定可能である。事実、鉄製有輪犂、三圃制・燕麦栽培などが普及するのは、中世における主要な穀物生産地帯である北ガリアにおいて、はやくても8世紀から、一般には11-12世紀以降である事が今日確かめられて居る。
またマルク共同体の成立を可能とする集村も、同じく早くて8-9世紀以降、一般には11-12世紀以降の者であり、紀元前後の居住形態は散落ないし単一居住であった事が明らかとなっている。…(61)古ゲルマンの社会は、原理的に牧畜経済社会であり、農業は存在したものの、あくまでも副次的な産業に留まった。ただし、ゲルマン人は遊牧民とは異なり、数百年の間にはかなりの移動を示しても、数十年の単位では殆どが動かない場合が多かった。しかしながらいずれにせよ、社会の構成原理としての地縁性は存在せず、古ゲルマンの国家とされるキウィタスは、経済的地縁団体ではなく、軍事上の人的結合団体、即ち戦士団ないしは戦士団の連合体であった。キウィタスの最高機関である民会は、全民衆によって構成され、全会一致制によって運営された。従ってここには、多数決原理に見られるような、明確な団体意志を形成する場がいまだ存在せず、彼等のまとまりはやはり脆弱であった。 キウィタスは王制または首長制をとったが、いずれの場合も実際上の運営は、キウィタス内の長老達に委ねられた。彼等は、何よりもまず戦士団の存立に不可欠な軍事的指導者であり、ここから特別の「権威」を賦与され、神の子孫として人々に尊敬された。彼等はしばしば「貴族」として捉えられうるが、後の封建貴族ないし絶対王政下の貴族とは、本質的にあり方を異にしている。 (62)「民族大移動」:4世紀から6世紀にかけてのゲルマン民族大移動の原因については、今日なお不明な点が多い。しかしながら、彼らがゲルマニアの地から一様に南下ないし南西下し、ガリア、北アフリカ、イタリア半島などローマの穀倉地帯に侵入した「事実」と、彼らが牧畜遊牧民であった「仮説」とを付き合わせるなら、恐らく気候の寒冷化により生じた深刻な穀物危機が、彼らを大移動に駆り立てた事は容易に推定可能であ[る]。…ローマ領内に建設された数多くのゲルマン諸国家は、5世紀から8世紀にかけてあいついで滅亡した。それは、結局のところ牧畜経済社会に生きてきたゲルマン人が、ローマ農耕社会の原理を自らのものとなしえなかったからに他ならない。