江川温・服部良久編『西欧中世史(下) -危機と再編』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 危機と再編 (1)12-13世紀のヨーロッパ社会が人口・経済の成長と、政治・社会の秩序化によって特徴付けられるのに対し、14,15世紀はしばしば、社会・経済、更には政治秩序を含めた危機と衰退の時代である[とする見方がある]。 (14)・14,15世紀のヨーロッパ諸地域: [1360年ごろと1519年ごろのヨーロッパ歴史地図]:ブリテン島内部には国境線の大きな変化は見られない…スカンディナヴィア半島内の境界線も変わっていないが、16世紀の地図では北欧3国がカルマル同盟および北欧四者同盟によって一体化している。イベリア半島では大別すれば、ポルトガル、カスティリア、アラゴン、グラナダの4国が識別されるが、16世紀にはグラナダは消え、カスティリアとアラゴンは合併してスペイン王国となっている。イタリア半島では小さな変化を別とすればシチリア・ナポリ両王国、教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネチア等の都市国家の分立状態に変わりは無い。東欧ではハンガリー、ポーランド、ドイツ騎士団領がほぼ同じ位置にとどまっている。ただしポーランドは16世紀には東隣のリトアニア大公領と合併している。またハンガリーの東隣は14世紀にはセルビアとブルガリアであったが、これらは16世紀にはビザンツ帝国を飲み込んだオスマン・トルコの領地に変わっている。ドイツでは神聖ローマ帝国の外延は殆ど変化していないが、しかしその内部では例えばスイス誓約同盟の領土が新たに登場したり、ハプスブルク家領が拡大するなど、内部の変化が生じた事が分かる。大きな変化を示しているのはフランスである。14世紀の地図ではアキテーヌ公領、ブルゴーニュ公領などは独立した色で示されていたが、16世紀になるとプロヴァンスをも含めてフランス全体が同一色に変わっている。これら領地境界線の変化は、14,15世紀の2世紀間の国家統合のプロ(16)セスにおいて起こった事件、例えばレコンキスタや百年戦争を想起させるであろう。
地図からは読み取りがたい事件としては、イングランドのワット・タイラーの率いた農民一揆(1381年)や、フランスでのジャックリーの乱(1358年)、イタリア・フィレンツェにおけるチオンピの乱(1378年)、ボヘミアでのフス派の反乱(1419-36)などの、前述の社会経済的危機と関連する民衆蜂起のほか、教皇庁のアヴィニョンへの移転(1309-77)、その後の大分裂(1378-1417)、それを収集するためのコンスタンツ(1414-18)、バーゼルの公会議(1431-49)といった宗教関係の事件が上げられる。更に15世紀後半にはイングランドでばら戦争(1455-85)、フランスで公益同盟戦争(1464-65)という諸侯と王家が争う内乱が生じたが、これらが両国の国内統一の一つの契機をなした。1282年のシチリアの晩祷事件、また1303年のアナーニ事件に見られるように、13世紀後半以降、皇帝権と教皇権と言う2大権威が崩壊した後の新しい中世世界の秩序を模索していたヨーロッパ世界は、地域ごとに国家を形成する方向に向かってはいたが、各地域権力の間の交渉、同盟、対立のルールは未確立で、最終的には戦闘で決着が付けられることが多かった。初期の戦闘では王侯の私的利害に基づくものもあったが、15世紀末イタリアを舞台に繰り広げられた所謂イタリア戦争では、フランス、スペインといった国家統一を達成した国々の強さがはっきりと示された。14,15世紀の200年間に生じた国政上の変化に注目すべき理由はここにある。
・皇帝権・教皇権と地域的諸権力: 11-13世紀のヨーロッパ世界を全体として秩序付けていたのは、神聖ローマ皇帝権とローマ教皇権を二つの中心とする楕円的政治構造であった。すなわち皇帝権は全ヨーロッパの封建的君臣関係の頂点に立ち、教皇権は聖(17)職者教階制の頂点に立つという想定は当時の人、例えばイングランド王ヘンリー3世の態度にも見られる。他方では13世紀には、上述のようなヨーロッパ規模の秩序からは一応独立して、諸地域ごとに地域的な権力構造が成立していたのも事実であった。ところが13世紀半ばの神聖ローマ皇帝位の空位期と、14世紀はじめに起こったフランス・カペー王家とローマ教皇ボニファティウス8世との闘争、即ちアナーニ事件とを契機に、二つの普遍的権威は共に低下し、権力体系のバランスが崩れるという危機が生じた。そこで以後に続く時代には、ヨーロッパ全体規模での秩序の再編が必至となったのである。 ・封建国家と身分制国家の構造: (18)[教科書の説明。ヨーロッパ中世社会の近代化過程の説明]:(A)商品の生産と流通が盛んとなり経済活動の範囲が広がるにつれて都市の商人は地方的に割拠して商業の邪魔になる領主に対抗し、新たに国王と結んでその支配下に入った。(B)こうして13世紀以後のイングランド、フランスでは国王の経済力が強められ、封建諸侯の力を弱めて中央集権化を推し進める事ができた。これに対しドイツ、イタリアでは貨幣経済や社会の発展の仕方が地方ごとにばらばらであったり(ドイツ)、都市の発展が国内の商品生産に基づくというより、中継貿易に大きく頼っていた(イタリア)。
このため国内には政治的統一を生み出す広い経済的基盤が形成されず、依然として封建諸侯や都市の勢力が強かった。(C)新たに貨幣を手にしたイングランド、フランスの国王は13世紀頃から一部の貴族や市民による官僚制を作り始め、また国王の直臣にしか命令の及ばない非能率的は封建軍隊に代わって傭兵軍隊を使用し始めた。こうして国王は封建貴族から流血裁判権を奪い、国王直轄領域を拡大して中央集権化を開始し、封建社会は次第に崩壊に向かった[とするものである]。 これらの説明の特徴は①商品経済の展開は広域経済を目指すから、政治的中央集権化を志向するものである、②商人は国王と結ぶものである、③国王は封建貴族から権力を奪うものである、という3点が自明の前提とされている事である。しかも国王による中央集権化は官僚制の創設と軍制改革によって進められるとして、正に16世紀以後の所謂絶対王政期の国政上の特徴を14,15世紀に遡らせて説明に用いている…。これに対して14,15世紀を身分制的国政の時代として、独自の歴史的意義を認めようとする説明の仕方がある。[それによれば]14世紀初めまでに皇帝権、教皇権という普遍的権威の衰退が不可避となった根本的理由は、13世紀を通じての、イングランド、フランス、ドイツなどの地域に見られる「国家の緊密性の増大」であり、それは国王による封建的支配体制の一元的整序、国王による直轄支配領域の拡大、治安立法の強化による封建所領への王権の浸透と言う現象として現れた。言い換えれば通説が、交換経済の発達が封建領主制を衰退させ王権を強化するとみなし、13世紀から14世紀への国政の発達を漸進的に捉えて居るのに対して、堀米説は、13世紀における交換経済の発達は必ずしも領主制を衰退させるものではないこと、他方、王権はこの段階では錯綜した封建関係を一元的に整序するべき権力たるに留まる事に注目して、これを封建王制の段階と呼んで、14世紀以降の段階とは異なる事を主張したのである。…
・軍制上の変化(20): 封建的国政の衰退を説明する際、必ず引き合いに出されるのは封建的軍政の衰退、或いは王権による近代的軍制の整備である。封建契約によって主君から臣下への封土の供与と交換に、臣下が主君に提供する軍事奉仕を体系的に組織する事によって成立していた封建的軍制は、地域に定着し領地経営にいそしむようになった封臣たちが、軍事奉仕の金納化を望んだこと、あるいは結成された封建騎士団を一定地に留保し戦地まで移動させるよりも、戦時にのみ現地で傭兵を調達し軍団を編成する方が指揮者にとっては有利な場合もありえたことなどにより、13世紀半ばまでに大きく変化し、14世紀半ばまでには事実上、封建軍の召集は消滅した。したがって14,15世紀の軍制は制度そのものも、またそれを生み出した社会的背景の点でも、11-13世紀の軍制とは異なっていたといってよい。 14,15世紀の軍政についての教科書的見解によれば、上述のような傭兵の動因、鉄砲の採用などにより、騎士(21)軍の存在意義が低下し、封臣とりわけ陪臣層が没落する一方、都市や商人からの献金などによって経済的に豊かになり、傭兵への給与支払い、鉄砲の購入などがしやすくなった国王の地位が高められた。しかし軍制の変化と封建領主階級の運命あるいは国王と諸侯との力関係の変化とは、区別して考えるべきであろう。14,15世紀における軍事史上の大きな変化は、与平軍団(コムパニ)の大量出現と、国王や諸侯がこれらの軍団との割符契約(インデンチュア)によって軍事力動因を行なう方式の導入である。軍団の指導者達は戦士を率いて国王・諸侯や都市との間に有給で半年から数年間軍事力を提供する契約を結んで、雇い主のために働くが、期間終了後は次の契約までの間略奪を働き、住民に多くの被害を与えた。…有償で提供するように制度が改められて、兵を集めて王軍に提供する指揮者としての諸侯の軍事上の地位は大きく代わる事は無かった。