2010年4月22日木曜日

第3回講義

 今扱っている・説明している内容は、「絵本をめくっている」ようなもので、「水準の設定」を見誤る訳には行かず、この位で推移する中、せめて5%位ずつ自分にとってやり易いものを提示して行く事になる。
 内科学を担当している先生曰く「水準は下げるべきでない。アカデミックな内容に少しでも触れていられる事が大事だ」との事で、昨年度は少しそのつもりで構成したが、結局は水準を下げ・取っ掛かり易い内容に変更した。今年はその位置からスタートしている為、少しずつ上げていけるかと思ったが、見た感じ一寸無理そうである。
 このように基礎体力が無い・弱い状態だと、先がどうなる事かと思うが、そういう状況が、国が積極的に作り出そうとしたもの、その実験によって生み出された「失敗例」が顔を並べているという話になる。国が「過ちを認めた」為であるが、見渡した感じ、それ以前の者もそれ程高くない事にすぐに気付く。それを受けて「こんなもんか」と諦めるのが、どうやら知恵らしい知恵であるようだ。自分が展開・発表するものの中で、どれだけ「負荷が与えられている事に気付かず」伸ばしていけるかが、今後の課題である。

2010年4月15日木曜日

第2回講義

 「面白い講義」等、何の意味も無い。
 「面白い授業」というものは、あって良いし、その方が望ましい。生徒達がやる気になる可能性がある、それを喚起することが出来る為。ただ、これら「受身の」内容提示は、ある段階までの作業に留まる。
 問題は「情報」を提示する事ではなくて、「方法」を提示する事、それを受け取った学生達が自分のものとして「再現可能」な所まで持って行く。
 その為に「科学」として割り振られている、「~学」という名前と分野でアプローチの対象が異なるだけで、「方法」は一貫している。
 所謂「米国型」は、「相談」しているだけ。情報を増やし、相互に共通する語彙を相手に覚えさせる作業。
 「バカ(または能力の余り高くない者)は口を開かずにいる方が『得』であり『徳』」だという事を、客観的にしばしばしみじみと感じる。が、それ以上の問題は「バカである事に気付いていないケース」で、こうなるともう救いようがない。

2010年4月9日金曜日

第1回講義

 8階、100人余り収容の中教室、学生数50人余り。
 講義室を去りしな、1、2名の学生が「ありがとうございました」と頭を下げるので、こちらも軽く会釈を返す。こうしたことは昨年もあったが、もう少し伝える方法があったのではないかと思う。
 第1回目から、彼らの側から所謂「ホットな反応」等期待してはいないが、それにしても準備したものにしては、今ひとつだったと感じる。昨年は4回目位からノッて来たようだが、顔を見ている限り、今年はもう少し早める事が出来そうである。
 前回の反省としては、用意したものの水準が少し彼らの持ち合わせるそれと差があり過ぎたという事で、特に1回目については文献資料から叙述の仕方から、分からずに座って居た事であろう。それを感じ取るにつけ、2回3回と回数を重ねるにつれて話す内容や配布資料の形式を簡単なものにして行った。これが、例えば「相手を選別した上で」という事であるならば、もう少しこちらの望む仕方で進められるが、いずれにしても15回分終えての今回であるから、おおよその水準は理解しており、その前後を標榜するか、或いは反応次第では少しずつ負荷を掛けて・引っ張って行く事が出来る。
 昨年と全く同じものを、どこかの教授の如く茶色くなった紙を読んで行く仕方も無くは無いが、半年なり一年なり掛けて収集したものを元に、こちら側としてもその「成果」として彼らの前に立つ訳である、「昨年と同じ内容」等あり得ない。ついでに、教室には諸事情によりもう一度座っている者も2名程おり、彼らのことを考えても、やはり同じ結論になる。