2010年9月19日日曜日

919

The child sex abuse scandals that have swept through the Catholic church, and the cover-ups involving senior clerics, have left many ordinary Catholics feeling shamed and angry.

So much so that some are opting out of the church.

Others argue that this is the time when the church needs to make major changes – pushing subjects long dismissed by Rome, such as priestly celibacy and the ordination of women, back onto the agenda.

In the week of Pope Benedict’s visit to the UK, Edward Stourton talks to both traditional and liberal Catholics about how they negotiate their emotional and spiritual path in a church which is often portrayed as discredited in the media.

He also explores whether the current crisis could be a surprising opportunity for the church – even to the point of leading to a Third Vatican Council.

2010年4月22日木曜日

第3回講義

 今扱っている・説明している内容は、「絵本をめくっている」ようなもので、「水準の設定」を見誤る訳には行かず、この位で推移する中、せめて5%位ずつ自分にとってやり易いものを提示して行く事になる。
 内科学を担当している先生曰く「水準は下げるべきでない。アカデミックな内容に少しでも触れていられる事が大事だ」との事で、昨年度は少しそのつもりで構成したが、結局は水準を下げ・取っ掛かり易い内容に変更した。今年はその位置からスタートしている為、少しずつ上げていけるかと思ったが、見た感じ一寸無理そうである。
 このように基礎体力が無い・弱い状態だと、先がどうなる事かと思うが、そういう状況が、国が積極的に作り出そうとしたもの、その実験によって生み出された「失敗例」が顔を並べているという話になる。国が「過ちを認めた」為であるが、見渡した感じ、それ以前の者もそれ程高くない事にすぐに気付く。それを受けて「こんなもんか」と諦めるのが、どうやら知恵らしい知恵であるようだ。自分が展開・発表するものの中で、どれだけ「負荷が与えられている事に気付かず」伸ばしていけるかが、今後の課題である。

2010年4月15日木曜日

第2回講義

 「面白い講義」等、何の意味も無い。
 「面白い授業」というものは、あって良いし、その方が望ましい。生徒達がやる気になる可能性がある、それを喚起することが出来る為。ただ、これら「受身の」内容提示は、ある段階までの作業に留まる。
 問題は「情報」を提示する事ではなくて、「方法」を提示する事、それを受け取った学生達が自分のものとして「再現可能」な所まで持って行く。
 その為に「科学」として割り振られている、「~学」という名前と分野でアプローチの対象が異なるだけで、「方法」は一貫している。
 所謂「米国型」は、「相談」しているだけ。情報を増やし、相互に共通する語彙を相手に覚えさせる作業。
 「バカ(または能力の余り高くない者)は口を開かずにいる方が『得』であり『徳』」だという事を、客観的にしばしばしみじみと感じる。が、それ以上の問題は「バカである事に気付いていないケース」で、こうなるともう救いようがない。

2010年4月9日金曜日

第1回講義

 8階、100人余り収容の中教室、学生数50人余り。
 講義室を去りしな、1、2名の学生が「ありがとうございました」と頭を下げるので、こちらも軽く会釈を返す。こうしたことは昨年もあったが、もう少し伝える方法があったのではないかと思う。
 第1回目から、彼らの側から所謂「ホットな反応」等期待してはいないが、それにしても準備したものにしては、今ひとつだったと感じる。昨年は4回目位からノッて来たようだが、顔を見ている限り、今年はもう少し早める事が出来そうである。
 前回の反省としては、用意したものの水準が少し彼らの持ち合わせるそれと差があり過ぎたという事で、特に1回目については文献資料から叙述の仕方から、分からずに座って居た事であろう。それを感じ取るにつけ、2回3回と回数を重ねるにつれて話す内容や配布資料の形式を簡単なものにして行った。これが、例えば「相手を選別した上で」という事であるならば、もう少しこちらの望む仕方で進められるが、いずれにしても15回分終えての今回であるから、おおよその水準は理解しており、その前後を標榜するか、或いは反応次第では少しずつ負荷を掛けて・引っ張って行く事が出来る。
 昨年と全く同じものを、どこかの教授の如く茶色くなった紙を読んで行く仕方も無くは無いが、半年なり一年なり掛けて収集したものを元に、こちら側としてもその「成果」として彼らの前に立つ訳である、「昨年と同じ内容」等あり得ない。ついでに、教室には諸事情によりもう一度座っている者も2名程おり、彼らのことを考えても、やはり同じ結論になる。

2010年2月4日木曜日

初期中世1

1.前封建社会(58) 「ゲルマン人の歴史への登場」 4世紀後半から6世紀にかけての、いわゆる民族大移動によって、ゲルマン人が歴史の舞台に登場して以来、西ヨーロッパの歴史は始まる。彼等の足元の大地は湿って重く、肥沃であった。殆どは大森林で覆われており、年々ここにかなり大量の雨が降り注ぎ、夏涼しく冬寒かった。アルプス以北のこのような気候・風土は、古典古代世界の中心をなした地中海沿岸地方とは全く異なっていた。アルプス以南の土壌はやせて軽く、森は少なくまばらであり、気候は温暖で乾燥していた。わずかに河川流域や一部の灌漑地域だけが豊かな地味を持っていたに過ぎなかった。ゲルマン人の西ヨーロッパへの登場は、正に歴史的舞台の転回を意味するものであった。 (59)「古典的な古ゲルマン社会像」:古ゲルマン社会の経済について…考古学上からは、紀元前4千~5千年も前から農業が営まれていた事が知られ、大麦・燕麦・裸麦などヨーロッパの主要穀物の殆どが栽培されていた。燕麦・裸麦の栽培は青銅器時代からのことであり、またガリアのローマ人が無輪犂を使用していたのに対し、彼らと接触したゲルマン人は、より進んだ鉄製有輪鋤を牛に引かせていたと言われる。 土地制度については、マルク(Mark)呼ばれる森林・湖沼・池などの共同地(入会地)を中心に、これを共同利用するマルク共同体Markgenossenschaftという定住団体が形成されており、そこで人々は経済的平等を享受していた、とされる。
人々は政治・法生活の面ではジッペSippe(氏族)と呼ばれる団体をなしており、人々はその中に入る事によって初めて政治的・法的な自由と平等を受ける事が出来た。ジッペは当時の政治団体、法・平和共同体、軍事組織単位、農村共同体であり、いわば国家civitas内の国家であったと言われる。…(60)『ゲルマニア』によれば、ゲルマンの成年男子はいずれも戦死であり、平時においては田畑や家事その他を女・老人などの弱者に任せ、狩猟のほかは唯無為に日を過ごすとあり、また戦争の際には、戦士の戦う側に母・妻・子も姿を見せ、男達を声援したり、その傷を数えたりしている。更に彼等は、農業社会で最も重要な、且つ喜びのときである収穫期、「秋」の名称を知らない。更に、の地の民族大移動に家族・家畜・家財道具の全てを伴った文字通り家ぐるみの、しかも長距離にわたる移動であった。 ・「古ゲルマンの社会・経済・法制」:これらを考え合わせると、古ゲルマンの社会は牧畜経済を中心としており、いまだ定着農耕の段階には達していない事が推定可能である。事実、鉄製有輪犂、三圃制・燕麦栽培などが普及するのは、中世における主要な穀物生産地帯である北ガリアにおいて、はやくても8世紀から、一般には11-12世紀以降である事が今日確かめられて居る。
またマルク共同体の成立を可能とする集村も、同じく早くて8-9世紀以降、一般には11-12世紀以降の者であり、紀元前後の居住形態は散落ないし単一居住であった事が明らかとなっている。…(61)古ゲルマンの社会は、原理的に牧畜経済社会であり、農業は存在したものの、あくまでも副次的な産業に留まった。ただし、ゲルマン人は遊牧民とは異なり、数百年の間にはかなりの移動を示しても、数十年の単位では殆どが動かない場合が多かった。しかしながらいずれにせよ、社会の構成原理としての地縁性は存在せず、古ゲルマンの国家とされるキウィタスは、経済的地縁団体ではなく、軍事上の人的結合団体、即ち戦士団ないしは戦士団の連合体であった。キウィタスの最高機関である民会は、全民衆によって構成され、全会一致制によって運営された。従ってここには、多数決原理に見られるような、明確な団体意志を形成する場がいまだ存在せず、彼等のまとまりはやはり脆弱であった。 キウィタスは王制または首長制をとったが、いずれの場合も実際上の運営は、キウィタス内の長老達に委ねられた。彼等は、何よりもまず戦士団の存立に不可欠な軍事的指導者であり、ここから特別の「権威」を賦与され、神の子孫として人々に尊敬された。彼等はしばしば「貴族」として捉えられうるが、後の封建貴族ないし絶対王政下の貴族とは、本質的にあり方を異にしている。 (62)「民族大移動」:4世紀から6世紀にかけてのゲルマン民族大移動の原因については、今日なお不明な点が多い。しかしながら、彼らがゲルマニアの地から一様に南下ないし南西下し、ガリア、北アフリカ、イタリア半島などローマの穀倉地帯に侵入した「事実」と、彼らが牧畜遊牧民であった「仮説」とを付き合わせるなら、恐らく気候の寒冷化により生じた深刻な穀物危機が、彼らを大移動に駆り立てた事は容易に推定可能であ[る]。…ローマ領内に建設された数多くのゲルマン諸国家は、5世紀から8世紀にかけてあいついで滅亡した。それは、結局のところ牧畜経済社会に生きてきたゲルマン人が、ローマ農耕社会の原理を自らのものとなしえなかったからに他ならない。

西欧史概観

井上幸治編『西欧史入門』有斐閣・1966年
・ヨーロッパとは何か(2) ヘロドトスを読むと、エウロペー(Europee)というのはティルス王の娘で、これからヨーロッパと言う名が出たように思われるが、ティルス人はアジア人であるから、ヨーロッぱという名の起源も分からないし、またその境界も明らかでないと書かれている。…(3)ローマ世界帝国の成立は、ヨーロッパの地理的歴史的外延を決定する上に画期的な事件であった。ポリュビオスはローマの世界征服の初期に、地中海を巡るローマ支配の拡大を描いたが、それはローマとカルタゴの闘争からコリントの破壊のときまでの歴史であった。そののちタキトゥスやカエサルはゲルマニア、ガリア、ブリアニアとローマ人との交渉の歴史のあとを辿った。ここに、近世初期にいたるヨーロッパと言う歴史的概念が成立した。 ・「ヨーロッパの社会的構造」:古代文化が地中海を巡る諸地方に発展し、地中海が「その思想、その商業の媒介者」の役割をはたし…、ローマの征服地にゲルマン人が侵入した後も、地中海の伝統的役割は変わらず、ヨーロッパ各地に定住したゲルマン人にとってもビザンツ帝国との交通路であった。しかし地中海世界にイスラムが征服地を拡大して行くと、「それまで地中海は東洋と西洋の間の10世紀来の紐帯であったが、それ以後は両者の障壁となった」…このように中世ヨーロッパは外に向かって自己形成を行なうと同時(4)に、内部的にも自己形成を行なったのである。…(5)ルネサンス、宗教改革を経て、近代的市民社会の形成に伴って明確になってくる「ヨーロッパ人」の精神的構造[は](6)次の三つの歴史的要素をうけとめたあらゆる民族であるという。第1は、ローマの影響である。嘗てローマの支配したところでは法の尊厳と司法の権威が認められ、ローマは組織と制度のモデルとなった。そこにおいて権力、法律的精神・軍事的精神・形式主義的精神の浸透した権力が永く刻印を残した。
第2は、キリスト教である。ローマの支配地に広まり、その範囲は殆どローマ帝国カの領域と一致した。この宗教は道徳をもたらし、ローマの征服は政治的人間しか捉えなかったのに対して、精神を支配し、その支配は意識の内奥に及んだ。第3は、ギリシア精神である。ヨーロッパ人がギリシアにおうものこそ、恐らくヨーロッパ人を最も他の人類から区別するものであろう。ギリシア人は精神の規律、あらゆる秩序における完成の異常なモデルを提示している。この規律から科学が生まれ、ヨーロッパは何よりも科学の創造者となる。 このようにして、カエサルとウェルギリウスの名、モーゼと聖ペテロの名、アリストテレスとプラトンの名が同時に意味と権威を持つところにヨーロッパがある。三つの条件を備えたものがヨーロッパ人である。
・封建社会:(54) 西ヨーロッパ史で「中世」とか「中世世界」とかいう場合には、普通ゲルマン民族の大移動が始まった4,5世紀から英仏間の百年戦争が終わる15世紀頃までの時代をさす慣わしとなっている。 しかしながら、このほぼ千年にわたる長い時代の中には、相互に異なった少なくとも三つの発展段階が存在している。即ち1.牧畜経済の前封建社会(民族大移動期よりほぼ10世紀頃まで)、2.地縁的農業経済の封建社会(11~13世紀)、3.近代化の起点をなした、日用品商品経済の発生期、封建社会の崩壊と近代国家の端緒的形成期(14-15世紀)がそれである。 このうち2の封建社会期は、ここで地縁的経済・法組織体が地方ごとにはじめて出現して、歴史的固体としての西ヨーロッパ世界が本来的に形成され、近・現代社会の大前提となった点で、それ以前の段階とは構造上決定的な差を有し、全西ヨーロッパ史がこれを境に二分されうるほどの大きな意味を持っている。 もともと「中世」という言葉はルネサンス人の発想から生まれたものであり、自らの時代を謳歌し正当化するために、直接先行する全時代を、古典古代と当代(ルネサンス期)との間に介在する、無意味なあるいは暗黒の、「中間の時代」とするという現実的・実践的な意味を持っていた。…今日、「中世」の語は最早特定の時代概念ではなく、単に慣用上の言葉にしか過ぎない。[封建社会]という語は、…古典荘園成立期の7~8世紀頃からアンシアン・レジーム期の17-18世紀頃までの、およそ千年にわたる時代概念・社会類型概念として使用されてきた。
その中には、古典荘園制期(7,8世紀~10,11世紀)・領域的裁判領主制期(16^18世紀)など、 権力の上からも経済の仕組みからも異なった幾つかの段階が含まれて居る。にもかかわらず、一つの概念で全体を括りえたのは、そこに共通して領主権なり農村共同体なりが見られたからであった。…フランス「人権宣言」や1804年の「ナポレオン法典」に明らかなように、資本制的近代市民社会の創出・形成に当たっていた商工業ブルジョワジーにとって、何よりもまず克服・否定せねばならなかったもの、それは領主権・農村共同体の存在であった。 領主権(地方的政治権力)と農村共同体(地方的経済組織体)は、経済・法・政治を国家的規模で組織化する際に最大の障害物となったのであり、それゆえにこそ初期近代市民はその克服のために、私的所有権の神聖・不可侵性、「私的自治」の原則、「自由な」商品交換をいやがうえにも強調せねばならなかった。…(56)19世紀の市民的理性が時代の要請として受け取ったもの、それは近代市民社会像の理念的確立によるアンシアン・レジーム体制の徹底的否定だった…。

2010年2月3日水曜日

危機と再編1

江川温・服部良久編『西欧中世史(下) -危機と再編』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 危機と再編   (1)12-13世紀のヨーロッパ社会が人口・経済の成長と、政治・社会の秩序化によって特徴付けられるのに対し、14,15世紀はしばしば、社会・経済、更には政治秩序を含めた危機と衰退の時代である[とする見方がある]。 (14)・14,15世紀のヨーロッパ諸地域: [1360年ごろと1519年ごろのヨーロッパ歴史地図]:ブリテン島内部には国境線の大きな変化は見られない…スカンディナヴィア半島内の境界線も変わっていないが、16世紀の地図では北欧3国がカルマル同盟および北欧四者同盟によって一体化している。イベリア半島では大別すれば、ポルトガル、カスティリア、アラゴン、グラナダの4国が識別されるが、16世紀にはグラナダは消え、カスティリアとアラゴンは合併してスペイン王国となっている。イタリア半島では小さな変化を別とすればシチリア・ナポリ両王国、教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネチア等の都市国家の分立状態に変わりは無い。東欧ではハンガリー、ポーランド、ドイツ騎士団領がほぼ同じ位置にとどまっている。ただしポーランドは16世紀には東隣のリトアニア大公領と合併している。またハンガリーの東隣は14世紀にはセルビアとブルガリアであったが、これらは16世紀にはビザンツ帝国を飲み込んだオスマン・トルコの領地に変わっている。ドイツでは神聖ローマ帝国の外延は殆ど変化していないが、しかしその内部では例えばスイス誓約同盟の領土が新たに登場したり、ハプスブルク家領が拡大するなど、内部の変化が生じた事が分かる。大きな変化を示しているのはフランスである。14世紀の地図ではアキテーヌ公領、ブルゴーニュ公領などは独立した色で示されていたが、16世紀になるとプロヴァンスをも含めてフランス全体が同一色に変わっている。これら領地境界線の変化は、14,15世紀の2世紀間の国家統合のプロ(16)セスにおいて起こった事件、例えばレコンキスタや百年戦争を想起させるであろう。
地図からは読み取りがたい事件としては、イングランドのワット・タイラーの率いた農民一揆(1381年)や、フランスでのジャックリーの乱(1358年)、イタリア・フィレンツェにおけるチオンピの乱(1378年)、ボヘミアでのフス派の反乱(1419-36)などの、前述の社会経済的危機と関連する民衆蜂起のほか、教皇庁のアヴィニョンへの移転(1309-77)、その後の大分裂(1378-1417)、それを収集するためのコンスタンツ(1414-18)、バーゼルの公会議(1431-49)といった宗教関係の事件が上げられる。更に15世紀後半にはイングランドでばら戦争(1455-85)、フランスで公益同盟戦争(1464-65)という諸侯と王家が争う内乱が生じたが、これらが両国の国内統一の一つの契機をなした。1282年のシチリアの晩祷事件、また1303年のアナーニ事件に見られるように、13世紀後半以降、皇帝権と教皇権と言う2大権威が崩壊した後の新しい中世世界の秩序を模索していたヨーロッパ世界は、地域ごとに国家を形成する方向に向かってはいたが、各地域権力の間の交渉、同盟、対立のルールは未確立で、最終的には戦闘で決着が付けられることが多かった。初期の戦闘では王侯の私的利害に基づくものもあったが、15世紀末イタリアを舞台に繰り広げられた所謂イタリア戦争では、フランス、スペインといった国家統一を達成した国々の強さがはっきりと示された。14,15世紀の200年間に生じた国政上の変化に注目すべき理由はここにある。
・皇帝権・教皇権と地域的諸権力: 11-13世紀のヨーロッパ世界を全体として秩序付けていたのは、神聖ローマ皇帝権とローマ教皇権を二つの中心とする楕円的政治構造であった。すなわち皇帝権は全ヨーロッパの封建的君臣関係の頂点に立ち、教皇権は聖(17)職者教階制の頂点に立つという想定は当時の人、例えばイングランド王ヘンリー3世の態度にも見られる。他方では13世紀には、上述のようなヨーロッパ規模の秩序からは一応独立して、諸地域ごとに地域的な権力構造が成立していたのも事実であった。ところが13世紀半ばの神聖ローマ皇帝位の空位期と、14世紀はじめに起こったフランス・カペー王家とローマ教皇ボニファティウス8世との闘争、即ちアナーニ事件とを契機に、二つの普遍的権威は共に低下し、権力体系のバランスが崩れるという危機が生じた。そこで以後に続く時代には、ヨーロッパ全体規模での秩序の再編が必至となったのである。 ・封建国家と身分制国家の構造: (18)[教科書の説明。ヨーロッパ中世社会の近代化過程の説明]:(A)商品の生産と流通が盛んとなり経済活動の範囲が広がるにつれて都市の商人は地方的に割拠して商業の邪魔になる領主に対抗し、新たに国王と結んでその支配下に入った。(B)こうして13世紀以後のイングランド、フランスでは国王の経済力が強められ、封建諸侯の力を弱めて中央集権化を推し進める事ができた。これに対しドイツ、イタリアでは貨幣経済や社会の発展の仕方が地方ごとにばらばらであったり(ドイツ)、都市の発展が国内の商品生産に基づくというより、中継貿易に大きく頼っていた(イタリア)。
このため国内には政治的統一を生み出す広い経済的基盤が形成されず、依然として封建諸侯や都市の勢力が強かった。(C)新たに貨幣を手にしたイングランド、フランスの国王は13世紀頃から一部の貴族や市民による官僚制を作り始め、また国王の直臣にしか命令の及ばない非能率的は封建軍隊に代わって傭兵軍隊を使用し始めた。こうして国王は封建貴族から流血裁判権を奪い、国王直轄領域を拡大して中央集権化を開始し、封建社会は次第に崩壊に向かった[とするものである]。 これらの説明の特徴は①商品経済の展開は広域経済を目指すから、政治的中央集権化を志向するものである、②商人は国王と結ぶものである、③国王は封建貴族から権力を奪うものである、という3点が自明の前提とされている事である。しかも国王による中央集権化は官僚制の創設と軍制改革によって進められるとして、正に16世紀以後の所謂絶対王政期の国政上の特徴を14,15世紀に遡らせて説明に用いている…。これに対して14,15世紀を身分制的国政の時代として、独自の歴史的意義を認めようとする説明の仕方がある。[それによれば]14世紀初めまでに皇帝権、教皇権という普遍的権威の衰退が不可避となった根本的理由は、13世紀を通じての、イングランド、フランス、ドイツなどの地域に見られる「国家の緊密性の増大」であり、それは国王による封建的支配体制の一元的整序、国王による直轄支配領域の拡大、治安立法の強化による封建所領への王権の浸透と言う現象として現れた。言い換えれば通説が、交換経済の発達が封建領主制を衰退させ王権を強化するとみなし、13世紀から14世紀への国政の発達を漸進的に捉えて居るのに対して、堀米説は、13世紀における交換経済の発達は必ずしも領主制を衰退させるものではないこと、他方、王権はこの段階では錯綜した封建関係を一元的に整序するべき権力たるに留まる事に注目して、これを封建王制の段階と呼んで、14世紀以降の段階とは異なる事を主張したのである。…
・軍制上の変化(20): 封建的国政の衰退を説明する際、必ず引き合いに出されるのは封建的軍政の衰退、或いは王権による近代的軍制の整備である。封建契約によって主君から臣下への封土の供与と交換に、臣下が主君に提供する軍事奉仕を体系的に組織する事によって成立していた封建的軍制は、地域に定着し領地経営にいそしむようになった封臣たちが、軍事奉仕の金納化を望んだこと、あるいは結成された封建騎士団を一定地に留保し戦地まで移動させるよりも、戦時にのみ現地で傭兵を調達し軍団を編成する方が指揮者にとっては有利な場合もありえたことなどにより、13世紀半ばまでに大きく変化し、14世紀半ばまでには事実上、封建軍の召集は消滅した。したがって14,15世紀の軍制は制度そのものも、またそれを生み出した社会的背景の点でも、11-13世紀の軍制とは異なっていたといってよい。 14,15世紀の軍政についての教科書的見解によれば、上述のような傭兵の動因、鉄砲の採用などにより、騎士(21)軍の存在意義が低下し、封臣とりわけ陪臣層が没落する一方、都市や商人からの献金などによって経済的に豊かになり、傭兵への給与支払い、鉄砲の購入などがしやすくなった国王の地位が高められた。しかし軍制の変化と封建領主階級の運命あるいは国王と諸侯との力関係の変化とは、区別して考えるべきであろう。14,15世紀における軍事史上の大きな変化は、与平軍団(コムパニ)の大量出現と、国王や諸侯がこれらの軍団との割符契約(インデンチュア)によって軍事力動因を行なう方式の導入である。軍団の指導者達は戦士を率いて国王・諸侯や都市との間に有給で半年から数年間軍事力を提供する契約を結んで、雇い主のために働くが、期間終了後は次の契約までの間略奪を働き、住民に多くの被害を与えた。…有償で提供するように制度が改められて、兵を集めて王軍に提供する指揮者としての諸侯の軍事上の地位は大きく代わる事は無かった。

法と権力2

(2)中世国家の特質ー法の優位 (137)若し中世の政治思想の特徴と看做しうるものがあるとすれば、それは「適法性」の果たす卓越した役割を重視している事である。…中世の法解釈は「法はその起源のゆえに国家と同等の地位にあり、またその存在のゆえに国家に従属していないと言う考え」、「国家は前存する不変の法の理念を実現する使命を負って居るという確信」に満ちている…。まさしく「最高権力にとってさえ乗り越えられない法律上の境界が存在する」という点に、ローマの国家間とは大きく異なる姿勢が中世にはあった[とする意見がある]。ローマ人もまた国家を法との関連で理解していたが、彼らにとって法と国家は相関的な観念であって、両者を引き離すのは絶対に不可能であった。これに対し中世人にとっては、国家と法は、互いに緊密な関係にあるとは言え、全く別個な二つの事柄であったばかりでなく、国家に基礎を提供するために法が国家に対して優先権をもつと理解される必要があった。 さて、ダントレーヴによると、上のような法と国家の関係についての中世世界とローマ世界の相違を理解するには、12世紀にまで遡る、教会法の大集成である『グラティアヌス法令集(1140年ごろ)』の序論の中に見(138)られる若干の定義を読むだけで十分である。最初の定義によれば「人間は二つの法によって規律されている。すなわち自然法によるのと慣習によるのとである」。自然法と実定法との相違は、ここでは普遍的で無限に強制的な諸規範と、一定の人間社会に固有の慣例(=人定法)との相違として提示されている。しかし別な箇所での定義によれば、人定法はただ単に慣習からのみなるのではなく「法律」からもなるのであり、また語の厳密な意味における法律は「成文法規」ではる。にもかかわらず、その一番奥深い本質において人定法は何よりも先ず「慣習法」であって、実定立法は「慣習法」を何か特別の目的で文章化する手段にしか過ぎないと。
このような定義から、中世の政治理論の出発点となる特有の法律感の本質的特長が明らかになる。すなわち中世においては、法は、ローマにおけるように立法者の自覚的で決然とした意志の創造行為に負って居るのではなく、集団生活の一面でありあり、慣習や慣習の全体と看做される。そして立法行為はただ単に、一定の社会において暗黙のうちに受容されていた一段の規則(慣習法)の、成文化による承認として描かれるのである。 …重要なのは、このような観念が、極端に単純化された大変に古い社会制度観、すなわち、遠い昔の慣習や伝統が宗教的色彩を帯びており、また畏敬に近い崇拝と敬意の対象となって居るような、原始人に特有の見方に明瞭に一致していると言う事実である。その上このような観念は、社会生活の優れて静態的な理解を特徴としており、その結果法は、人間の改善のために彼の手に委ねられた手段と看做されるのではなく、神秘的且つ超越的な力が人間に押し付けた制限として現れる。 こうして、ローマ人が慣習法に対する成文法規の優位を公言していたのに対して、中世においては逆に、実定立法は最早既存の慣例の承認や確認でしかなく、この非個人的な最高の慣例が、一切の政治権力の源であると同時に制限ともなるのである。 (139)「法の優位」の原則は以上のような意味において理解されるのであるが、ダントレーヴによると、この原則は中世の国家間を理解する上での出発点となる根本原理である。[中世においては]「国家」という言葉は何処にも記載されていない。言及されているのは常に、法律によって縛られ、またその権力が法律によって厳格に条件付けられている統治者だけである。…「国王は人間にではなく神と法に服さねばならない。何となれば、法が国王を作るのであるから」。そして、中世の政治理論において法の非個人性と権力の個人性がこのように奇妙に結びついている事から中世国家の特質を為すさまざまの結果が生じて居るが、ダントレーヴによるとその中でも特に重大なのは次の三点である。
恐らく一番重要な結果は、権力が制限されかつ責任あるものとしてのみ理解されえたという事である。統治者は法の執行者に過ぎなかったがゆえに、権力は制限されていたのであり、また法は統治者と被統治者を結ぶ相互の義務を表していたがゆえに、権力は責任なるものとされていたのである。そしてこのような観念は、統治者と被統治者の関係が君主と家臣の典型的な封建関係として理解されていたと言う、国制上の現実に深く根をおろしている。というのは中世の君主が「古き法」を守り、自身も遵守し、且つ執行させる事を約束した義務的宣誓によって、この関係が認められ裏付けられていたからである。こうして国家は、若しこの言葉を権力の行使と理解するならば、それは「法の優位」と言う堅固な岩に根拠を置いていたのである。 第2の結果は、権力の「私的」行使と「公的」行使の間に明確な区別が存在していなかった事である。…このような「公」「私」の混同は、ただ単に封建的社会組織の出現だけによるものではなく…(140)慣習法に由来しない普遍法規の責任を負いうるような主権的「国家」はまだ存在していなかったのである。 上と並んで第3に、宗教問題と政治問題の混同もまた、ある程度私的領域と公的領域の区別が存在していなかった事に由来していたと言える。前に見たように、中世においてres publicaはキリスト教世界を意味していた。しかしこの「キリスト教国家」は現代用語で「国家」と「教会」と呼ばれているところのものの特徴を持っていて、ただの国家ではなかった。したがってその内部においては精神的ないし宗教的関係と物質的ないし世俗的関係がはっきりと区別されておらず、統治者が遵守して起用する事を誓っていた「法律」がもっぱら世俗的な法律だけではなかったのは驚くにはあたらない。つまり、国家の固有の性格は、はっきりと定義され完全に独立した諸関係の全体と言う特徴としてはまだ認められていなかったのである。 ダントレーヴによると、中世国家はおおよそ以上のような特質を持っている。そして、中世の政治思想はやがて実際上の必要と重要なイデオロギー上の要因に刺激されて、それらの特質を凌駕していく。

法と権力

木村尚三郎他編『中世史講座 第4巻 中世の法と権力』(学生社・1985年)
五 ヨーロッパ中世国家の構造 下野義朗 (122)(1)中世国家の権力構造史的把握:…封建制と王制との関係構造的に捉えるならば、封建制がその政治的秩序形成の機能を最も良く発揮した13世紀こそが封建王制の時期であり、またそれは同時に封建制の最盛期でもある[とする見解がある]。従って13世紀における中世封建制国家の完成は二重構造を前提とした封建的階層序列の完成を意味する事になる。…(123)[他方]13世紀における封建王制の確立は実質的には封建制の「自己克服の過程」に他ならない[とする意見がある。即ち]7ないし9世紀に典型的な形で成立する「三重の構造」(領主直営地、非自由な貸与地、自由な貸与地)をもつ古典的グルントヘルシャフトこそが封建制社会を構成する基本的単位=細胞であって、そこにおいて初めて統一的農奴身分が成立し、本来の意味における領主権力が形成される。そして、下から自然発生的に且つ全く無秩序に形成されたこれらの領主権力を一つの権力秩序に組織立てて行く機能を果たしたものの中でもっとも重要なものが封建制(レーン制)に他ならない[というものである].
2.中世国家とは何か(130) [国際法の権威ダントレーヴ]によると、我々の日常用語において「国家」と言う言葉は(1)個人の意志に優越して命令を与え且つ執行せしめうる力、(2)一定の手続きに従って行使される権力、(3)権力の行使を合法化し正当化する権威(131)という三つの意味で用いられている。そしてこのような意味に対応して、国家の問題への取り組み方が異なってくるというのである。…     (1)国家の概念史(132) 古代と中世の著述家がポリスやレス・プブリカ、あるいはcivitasやregnum(133)などの様々な述語を用いて正確に述べようとしている事態を表現するのに、今日一般に「国家」と言う近代後が使用されている…。[ダントレーヴによれば]古代と中世の著述家達が政治上の題材を扱うときに「国家」の代わりに様々の言語を使用したのには2つの理由があった。その第一の理由は、彼らが当面していた状況がそれぞれの場合に異なっていたという事である。先ず、古典時代のギリシャにおいて政治経験は都市国家ポリスに要約されていて、ポリスは公益の最高の表現であり、精神的価値の化身であった(プラトン、アリストテレス)。しかしこのポリスは単に「国家」とは翻訳されえないものであって、その中で人間の一切の運命が動いている教会=国家であった。序でローマ時代には、都市国家と言う狭い視野からあふれ出て帝国と言う普遍的理想の地平が開かれたばかりでなく、国家間の中に法的要素が導入される。こうしてres publicaの定義では、力点は国家の目的から国家の構造そのものに移って、法が政治社会を他の一切の人間社会から識別する特性(キケロ)となる。最後に中世においては、政治著作の中にres publica, civitas, regnumといった術後がしばしば見えて居るが、それらの言葉の意味は、殆ど同一の意義で用いて居るアウグスティヌスを除くと、適用される状況や、人間社会の非常に多様な形態と型に応じてことなっている。
すなわち、civitasは都市国家に関係しているのが普通であり、またregnumは王国を表現し、最後にres publicaは多くの場合王国よりも大きな共同体つまりキリスト教世界を叙述するのに留保されている。…第2の理由は、この「国家」という言葉が一定の正確な意味をまだ獲得していなかったという事実にある。… (134)彼らが一般に依拠した便法はポリスについてのアリストテレスの概念を拡大して、都市国家と王国を唯一つのカテゴリーに含ませる事であって、中世の資料の中でポリスは一般に「civitasないしregnum」と訳されている。ついでアリストテレスの『政治学』が再び読まれ研究された13世紀中頃以後、政治思想は根本的な修正をこうむって、力点と関心はキリスト教共同体の統一性から、この統一体の分裂から生じた複数の個別共同体、つまり都市国家と王国に移る。そしてこれらの個別共同体のそれぞれに、アリストテレスがポリスに留保していた「自給自足可能な完全な共同体」の特性が付与されたのである。そしてダントレーヴによれば、この「完全な共同体」と言う表現は中世の政治用語の中では近代的国家間に一番近い表現である。しかし「新しい状況」に概念上の枠組みを提供する言葉が最終的に発見されるのは、要約ルネサンス期に入ってからの事であると言う。… 「国家」Etatという言葉の起源は、存在の様式ないし条件を意味するラテン語のstatusに由来する。…スタトゥスは、教会や帝国或いは王国などの特殊な共同体の、繁栄とか安寧とかよき秩序を意味している。しかし、このよう(135)なまだ曖昧で一般的な意味のほかに、もっと正確な二つの用例があった。その一つは、スタトゥスと言う言葉によって特有の社会的乃至経済的条件、従って個人を他と区別するカテゴリーないし階層を表現している場合で、これが現代フランス語の身分etatにつながる。スタトゥスという言葉のいまひとつの意味は…「一定の共同体の法的構造」を示すのに用いられている。
この意味はローマ法の『学説集Digesta』の中の公法jus publicumの定義ー「ローマ国のスタトゥスに関係するところのもの」-から着想を得たようであるが、その起源は兎も角として、ラテン語のスタトゥスとイタリア語のstatoは、中世において次第にこの意味で使用されるようになってくる。…ダントレーヴによると、マキアヴェリの『君主論』の中に、「国家」という言葉が新しい意味で用いられている決定的な証拠が見出されるのは間違いない。…本質は常に同一であるような政治上の「集合単位」を示すのに用いられている…。こうしてマキアヴェリにおいては「国家」という言葉は、一定の領土内で一定の人民に対して力を行使したり、力の使用をコントロールしたりする権能を与えられた組織体の意味で用いられているのである。

農業の展開と村落3

4.共同体の構成と機能 村落共同体の構成要素としては、先ず農民経営の基本的労働力を担っていた家族を挙げなければならない。中世ヨーロッパでは血族集団としての大家族は消滅していたが、祖父母と父母のほかに、父の独身の同胞と子供達が同居するような家族共同体は珍しくは無く、祖父が壮健な間は、彼が農業経営の統括責任者としての課長的権威を保っていた。祖父が死に、成年に達した父の同胞が結婚すると、2世代からなる単婚小家族になるが、長男に妻子が出来ると元の家族構成に復帰する事になる。 これとは別に、バルカン地方やフランスの山国では「黙約共同体」と呼ばれる集団があった。これは親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団の事で、11世紀のバイエルンではその成員数は50人に上ったという。… 6世紀から11世紀頃までの農民家族は曽祖父母を共通の先祖とするような複合家族集団が一般的であったらしく、また血族間の団結はより強固だったに違いない。…また若干の農民家族は時としては、1,2名の奴隷を抱えて居るケースもあった。… (103)このような市家族の農業経営上の単位がマンス(ドイツのフーフェ、イギリスのハイド)で、それはラテン語のマンススから派生した言葉である。マンスは一家族の経営単位であると共に、領主(或いは国家)の収税単位でもあった。それは家屋と庭畑、耕地、共同地用益権の総体を現し、地域によっても、マンスの種別によっても異なるが、概して自由マンスは5~30ヘクタールの間で、平均して13ヘクタールくらい出会ったらしい。 マンスと言う言葉は他方でより特殊化され、農民家族の住居とそれに密接した庭畑(この部分は囲い込まれ、私的所有が貫徹している)と言う限定された意味にも解されている。…この集合体が固有の意味での「村落」であり、共同体的規制を伴う耕地、牧地、森林などの「村域」とはコントラストをなしていた。
ところで11世紀以来、地域によって遅速はあるが、このマンスは極めて細分化され、またマンスの面積の不均等性(従って農民階層の文化)が表面化し、次第に家族の経営単位としても、領主による課税単位としても、その意義を失っていく。(105) マンスの分裂や階層化といった農民社会の分極化傾向にもかかわらず、農民層の統合化の機能を維持したものこそ村落共同体に他ならなかった。同じのうちを耕作し、同じ村落の中に隣り合って生活していた農民家族は、経済的・社会的・宗教的な様々な絆によって結ばれていた。 村落共同体の統合機能の強度は、既に述べたように定住様式や耕地制度のあり方と密接に関わっていることは言うまでも無い。ロワール・ダニューブ間の来たの耕作地方のように、三圃制と共同放牧を伴う耕圃制村落では、領主を含めて共同体構成員の間で恒常的で広範囲にわたる協定を必要とした。耕圃や耕区の境界設定、家畜の放牧、森林や共同地の利用、作物の種類や農作業の期日の統制などがそれである。それらの協定を通じて共同体としての連帯は増大する。沼沢地や海岸を埋め立てたり、森林を開墾したりして作られた新むらの場合にも、土地は共同の維持や監視を必要とした。 … そうした農業上の共同体規制を必要としなかった地方は、寒冷でやせた土地の散居制地方しかありえなかった。しかし、そこでも枯れ木を拾ったり、家畜を放牧したり、野生の小動物を狩猟したりするためには、やはり共同体的な慣行な(106)しではすまなかった。 ここでは中世社会史の根幹を成す村落共同体が果たした精神的・法的な統合機能に重点を置いて考えてみよう。先ず注目されるのは、古い集住地方において農民の集団化の最初の核の役割を演じたのは、荘園の領主間ではなく、小教区教会であったことである。農民達は唯一の守護聖人の元に共同生活を送る教区民として自らを意識したのであり、事実11世紀半ば以前からフランス中部ではparrochia(小教区)という言葉が荘園villaと言う言葉に取って代わっている。荘園制度の解体や平和運動の進展は、この小教区の法人格化を推し進める有力な契機となった。
村落共同体が同時に「教区共同体」としての機能を有した事は次の事実からも知られよう。教会の保護者として自らを任じた農村領主は教会の維持をおろそかにしがちで合ったから、この仕事は信徒たる教区民の連帯責任とされた。また教会やその塔はしばしば唯一の石造建築であったから、それらは防備施設としての機能も果たす事ができた。…ローヌ渓谷を望む丘上の城砦集落もその一例である。この村落はカロリング時代の一修道院の近傍に生まれた。11世紀に修道士によって立てられた丘上の礼拝堂はやがて城の本丸に変貌し、14世紀には集落全体がほぼ方形の城壁で包み込まれた。住居の大部分は12世紀から14世紀にかけて建設されたといわれている。 ある小教区の守護聖人がその地方の複数教区に関わるときは、その聖人の祭日には、隣り合った(107)小教区同士の定期的な接触をも引き起こすことになる。教会の前、或いはその周囲に作られた囲い込まれた広場は村民達の聖域とされ、集会、避難、休息の場所にあてられた。… それはいわば信徒全体によって維持・管理される農民達の最初の共同財産であった。13世紀中頃まで戦士の侵入や聖職者の横領から守るために、農民達はこの共同財産を監視した。 こうして、平和の施設であり,聖域でもあった教会とその墓地は、しばしば農民の会合の場所として選ばれ、平和の先生もそこで行なわれた。…新開地に定着した移民の集団の中に生まれた連帯感にしても、これと同様な局面の中に位置づける事ができよう。…新たな植民集落は同時に法共同体としての性格を持っており、取り分け移民が様々な地方から来住した多くの異民族の混成体であるような場合にこの傾向は強かった。たとえばカタルニアでは早くも10世紀にバルセロナ伯は奴隷や受刑者達を新たに建設した村に移住させた。更にレコンキスタの全過程を通じて、多くの民族の混在(108)は共通する精神状態を作り出すための統合作用を必要とした。
fueroと呼ばれるスペインの慣習法特許状が12世紀中頃の新村に適用されたのはこのためである。…ドイツではライン地方のヴァイステューマー、中部ドイツのハンドフェステ、バイエルンの農村法などが移民の法的・経済的条件の改善に寄与した。…慣習法特許状の内容は、それぞれの方が普及した地域によって偏差が著しく、一般的にその性格を規定することは困難である。したがってそれは「ある集落ないし集落グループの住民に特別な権利(それは様々な性格、内容を含みうる)を承認したところの、王侯または領主によって布告された特許状」として、広く捉えておく事が適当であろう。 また慣習法特許状とか自治体布告と言う形で農奴制を廃止したり、領主の恣意的課税を規制するところまで至らなかったり、或いは村落住民が事実上は共同体を形成していても、租の法的認可を獲得するまでに至らなかったケースも多い。フランス北部のピカルディやアルトワあるいはフランドルなどでは、特許状によって明文化されていなくとも、事実上村方役人が存在し 、先駆的な自治体制度が機能していたケースが少なからず見られる。… (109)村落共同体は都市共同体とは違って、慣習法がコミューン運動によって一挙に確立されるというような事は無かった。寧ろ慣習法は古い時代から徐々に形成されてきたのであり、法人格化される以前から農村は事実上の共同体として存在していた。そして法人格を与えられてからは、教区共同体としての精神的な機能に加えて、法共同体としての統合機能が古い農業共同体としての機能を補完するに至った。村落共同体はその起源の古さ、その発展の普遍性と言う意味において、R.フォシュの言うように、正に「中世社会の基礎的な細胞」であったと言えよう。

農業の展開と村落2

3.定住形態のあり方 (95)カエサルが征服したケルト系ガリア地域は、アウグストゥスの時代に南から北にかけて、アクィタニア、ケルティカ、ベルギカという3つの州が置かれ、旧来の部族組織がcivitasとされ、これが地方自治と行政上の単位となった。キウィタスの領域は広く、従来の部族の有力者が引き続き従属氏を支配し、その下部組織であるpagusとともに、それぞれの中心集落を持っていた。ゲルマン人の侵入期にそれらは防壁で市域を狭く画定し、狭義のキウィタスとなり、後の司教都市の祖形を形成していった。一方、農村部には旧来の土豪の大所領のほか、皇帝やローマの有力者の所領も現れ、それらはvillaを中心とする経営体を作り、またこれとは別に自由村落も存在していたらしい。 …がリアに見られたキウィタスやパグスという部族的な定住単位は、移動と定着と言う長い過渡期を通じて、ゲルマン人の諸地域にも及んで行ったらしい。ゲルマニアに次第にキリスト教が布教され、教区組織が出現してくるフランク時代になると、キウィタスはローマ時代からの都市的集落を含め、中心集落に司教座が置かれるようになる。それと共に、キウィタスは司教座を中心とした都市的区域と周辺農村地域に分離し、後者には(96)在郷フランク貴族の拠点となる新しいパグス(ガウ)が形成される。… (99)ヨーロッパでもっと組織化された中世村落の時代が始まるのは11世紀以来の開墾運動の展開、耕地の拡大、新集落の急増といった一連の現象を通じてである。聖俗の領主達は新しい土地に対する農民の渇望を利用して、彼らを森林、荒野、沼地の開拓に駆り立てた。ピレネー山脈の彼方のイベリア半島の広大な無主地の開拓、中部・東部ヨーロッパへのゲルマン人の植民などはその大規模な例である。農耕に適した土地が殆ど無くなったライン地方や低地地方からの移民がスラブ森林地方の征服運動の後に続いた。

しかしこの東方植民はもっぱらゲルマン的運動であったわけではなく、同じ頃、スラヴの王侯たちも似たような植民活動を組織した。 さらに、西ドイツ、フランス、イギリス、そしてイタリアでさえも、多くの沼地、森林、荒野が過剰人口に悩まされていた古い定住地帯の村々からやってきた農民達によって占有された。(100) …これらの運動に共通している事は、農業植民者に新しいタイプの保有地が与えられた事で、その保有条件はわずかな賦役、軽微な貨幣地代など、古い保有地に比べてずっと恵まれたものであった。新たな人口の定住はその地方の領主達にとって、保有地の増加分から新しい賦課租を引き出すという利益があった反面、植民者を誘致するためには様々な特権を与え、負担を軽減するように図らざるを得なかった。そしてこのような農民の条件の改善は、古い集落の農民にも反作用を及ぼす結果になった。 ドイツでは、多くの農民が植民者として東部へ向けて出発したため、労働力の減少に悩まされた12世紀の西ドイツの所領では、13世紀の判告集に継承されるような、農民にとって有利な慣習法の確定を図らざるを得なかった。フランスでは11世紀に急増するブールの法が、12世紀以来北フランスではヴィル・ヌーヴ、南フランスではバスティードなどと呼ばれる新集落の「慣習法特許状」に対して先駆的な役割を果たした。中世の集村か運動も、これらの新集落において取り分け活発であった。…(101) 古い森林地帯やボカージュ地帯に設立された集落の場合は、交通が不便で危険も多かったから、開墾者は少人数の集団に分かれて入植した。このような小集落はブールであれ、ヴィル・ヌーヴであれ、概して都市へ発展する事はなく、小規模な農民集落に留まる事が多かった。森林地方の特色的な村落形態としては、主要道路に沿って住居が列状に並び、その背後に庭畑と耕地が延びる魚骨状の「路村」がある。… 自然条件の許す限り、開拓移民は集村化の方向を選んだ。なぜなら、(102)真の共同体は密集を好むからであり、また居住の増大は領主の利益にも適っていたからである。

農業の展開と村落1

木村尚三郎他編『中世史講座 第2巻 中世の農村』(学生社・1987年)
三 ヨーロッパ中世における農業の展開と村落共同体 井上泰男
1.はじめに (86)西欧中世の農村社会を考える場合、その歴史的背景として、古代ローマ帝国領と帝国の国境の彼方にある部族制的なゲルマン社会のコントラストを念頭に置かなければならない。けれども5世紀以来、ゲルマン的な社会構造はローマ帝国のそれに近いものになり、このコントラストは次第に解消の方向を辿る。それとともに、異なった自然環境の下で生活する農村社会の地理的なコントラストの方が前面に出てくる。例えば地中海地方、フランス南西部、ラインラントでは、前期中世社会はローマ帝国の葡萄耕作を継承したし、アルプス、アペニン、ピレネーなどの山岳地方では、放牧が耕作よりもずっと重要であった。また東ドイツ、ポーランド、ロシアなど厳しい大陸性気候の元にある地方では、ライ麦が基本的な穀物であったが、島国のイングランドでは、春巻き穀物を令にとっても大麦、オート麦、そして野菜と言うように農業生産はより多元化していた。 このような異なった自然条件にもかかわらず、ヨーロッパ中世の農村経済は基本的に穀物耕作と家畜飼育を並存させる混合農業ないし有畜農業であるという点では共通していた。勿論耕地と牧地のバランスは自然条件、人口の圧力、並びに耕作の伝統によって様々に変化したことは言うまでも無い。 (87)アルプス以北のヨーロッパ内陸部では元々森林や原野が卓越し、耕地はまばらな居住地帯の周辺部に限られていた。9世紀頃に始まる初期の開墾運動で作られた村は、普通樹木が密生した原始林よりも茨や雑草のおい茂った草地や原野の中にあった。一方、森の中を歩き回っていたのは猟師、炭焼き、鍛冶屋、野生のミツバチやロウの採集者、ガラスや石鹸の製造に用いる灰つくり、皮なめしや網を編むのに用いられる樹皮のカワハギ人といった人たちで、彼等は普通農民とは隔たった生活空間を作っていたようである。 だがこれら森の住民も、大工や左官や陶工のような移動生活を送っていた中世の農村職人も、仕事が暇な季節に生活が可能なように、僅かではあるが土地を保有していた。
開墾が進むに連れ、これらの人々は近傍の農民共同体に次第にどうか・融合していく傾向が見られた。この傾向は耕地面積が増加する11世紀中頃から13世紀末頃に顕在化していった。ぶなやカシなどヨーロッパ特有の広葉樹林がどんなに豊かな恵みを中世の農民生活にもたらしたかはよく知られており、開墾と植民の運動が進展したからといって、森林とその資源を根絶やしにするようなことは無かった。こうしてヨーロッパは本格的な定着農耕の生活に入っていくが、それと共に農民生活の社会的な枠組みとしての村落共同体も、わずかな農家戸数のルーズなまとまりに過ぎなかった原初村落から、もっとコンパクトに住居の密集した地縁的共同体(中世村落)へ成長していく。子の村を数個または十数個、その支配と保護の中に抱え込んだ有力領主の城は、取り分け封建制が典型的に開花したライン・ロワール間の地域に群立してくる。 中世前期の荘園の領主達は、この有力領主、すなわち城主に臣従礼をとってその臣下となり、自由農民は自分の所有地を城主に寄託してその隷属民となった。城主の所領(シャテルニー)は城主の直轄領と城主の臣下の封土(騎士領)から構成されているが、それら単位所領の基礎にあるのが村であり、之を生産力発展の場とする村落共同体は村の領主と対抗しつつ、その自立性を高めて行く事になる。[以下]1.中世開墾運動の前提となる技術上の革新とそれによる農業生産力の発展。2.風土的条件とのかかわりにおける定住様式や農業制度の諸相。3.村落共同体を構成(88)する社会的諸要素並びに共同体の果たした社会的諸機能などを順次検討する。   2.技術革新と農業生産: 中世初期のヨーロッパでは概して技術上の進歩は緩慢で、地域的にも不均等であった。しかし11世紀以来進歩のテンポは少しずつ加速化され、12世紀の社会のルネサンスをもたらす原動力となった。大開墾運動の展開もこの技術革新に負うもので、木を切り倒す強力な斧、藪や下草を刈り取る鉈や鎌、川で運ぶいかだに丸太を揃えるのこぎり、木の根や切り株を取り除く鉞、滑車、犂といった道具が、大樹海に人間が食い込む事を可能にした。
このような道具の改良は、何よりも冶金術の進歩のお陰である。カロリング時代以来、鉄の溶鉱に当たって水力を利用したふいごによる通風と言う方法が考案され、これが火力を強めてより良質の鉄を生産する事を可能にした。この方法は馬鍬、犂、斧、鎌などの道具の改良に役立っただけではなく、ガラス、レンガ、陶器、そして耐火粘土の生産にも大いに貢献した。 フランドルのリルの王領荘園のような農業の先進地方では、金属製の農具がカロリング時代に出現している例も見られる。しかし当時は金属器の使用は先ず持って戦士階級に独占されたから、農村に鍛冶屋が出現して、鉄製の刃を持った農具が普及していくのは一般には9世紀と13世紀の間の事であった。蹄鉄工、金物細工人、鍛冶屋といった人たちは農民社会の中で選ばれた地位を占め、彼らがもたらした技術的進歩は農民の生活条件を大きく変えた。 R.ヒルトンは中世の村の鍛冶屋を次のように描いている。「彼は有輪犂や荷馬車の必要部分を鉄で作り、修理し、馬や牛に蹄鉄をつけ、半円形の鎌や長柄の鎌、斧やナイフを製造したり研いだりし、家の建設に必要な釘ややっとこを提供した。村の全生活は火事場の周りに集中し、そして大事なことは、鍛冶屋の技術の秘伝は、彼に半ば魔術的な威信を与えたことである」と。 (89)農具の改良で特に注目されるのは犂べらとか犂刀のように、少なくとも主要部は鉄製の大型の重量有輪犂(カルカ)が登場してきた事である。これこそ一つの革命といってよいもので、それはヨーロッパ北方の重く湿った土壌によく適合し、農民はこれによって肥沃な土壌を深く掘り起こす事が可能になり土地の生産性が高められた。同時に新型のこの重い有輪犂は多くの家畜力を必要としたから、個々の農民には高いものにつき、村落共同体による農業の共同化を促進した。… 牛馬に荷車やカルカを繋いで引っ張らせる繋馬法も著しく改善された。馬の索綱は従来のように直接首に掛けるのではなく、肩に掛ける方式に改められた。
これによって馬耕能力は倍化されただけではなく、馬は交通運輸の目的にも使われるようになった。また牛の索綱用のくびきはこれまで肩と首の中間あたりにあったが、これを前額部にあてて、牛の牽引力を高めるように工夫された。更に牛馬を縦に何頭も繋ぐ縦列繋駕法も考案された。 主要な役畜として、牡牛の変わりに馬が導入されるのは、蹄鉄の発明と馬糧としての燕麦の栽培が前(90)提条件であった。馬耕が西欧に普及し始めるのは11世紀以来で、北フランス、フランドル、ロレーヌなどの平野部では、13世紀始めには牛から馬への転換が一般化している。こうして犂耕のスピードアップと犂耕回数の増加が可能になり、農業生産の向上を促進した。 犂の革命は耕地の形状にも影響を及ぼす。何頭もの家畜を縦に繋いでひかせる重量有輪犂の隊列はそう簡単に方向転換できるものではないから、出来るだけ細長い帯状の地条からなる耕地が要求される。これらの耕地片は各農民の持ち分に属し、従って保有関係は複雑に入り組んで居るが、全体としては一続きで開放されて居ることが多かった。この共同の大解放耕地は普通三つの耕圃として組織され、その一つには夏穀(大麦、燕麦、所によっては豆類)を春まきし、他の一つには冬穀(小麦やライ麦など)を秋播きし、残りのひとつは休作して家畜の放牧に充てる。この順序を一年ずつずらして三年で一巡させる方法が三圃農法である。刈入れが終わった後の耕圃ではまず落穂ひろいが行なわれ、ついでそこでも家畜が共同放牧された。 開放耕地での播種や休作時の利用については共同体の慣行を守らなければならず、落穂ひろいにしても、また共同放牧における家畜の種類や頭数にしても或いは耕地の彼方に広がる森林・原野などの共同地への立ち入りについても、村の慣習法上のおきてを守らなければならなかった。いずれにしても、こうした事が中世村落の内部における本質的な共同体的慣行であり、三圃農法はこの慣行に最もよく適合していた。三圃制は肥沃で平坦な土地に恵まれた農業の先進地方(ライン・ロワール間の王領や大修道院領など)ではカロリング時代に既に実施されていたようであるが、一般に広まるのは11世紀から13世紀にかけてであった。
地中海地方では三圃制は殆ど発展せず、ローマ時代からの二圃制が優位を占め、北方の重量有輪犂にかわって、牛やロバやラバが引く無輪犂で土地を浅く耕していた。また都市に近接したところでは、古代以来オリーブや葡萄が栽培され、土地は個別的に囲い込まれ、共同体的慣行が制度化される余地は無かった。 ヨーロッパ内陸部でも、森林や原野が支配的な地方では、土地制度は三圃農法のような古典的な形を取らず、はるか(91)にルーズであった。家の周囲の野菜畑は恒常的に耕作されたが、大原野の中の藪を切り開いて作られた耕地は数年間耕作された後は放置され、荒れるに任された。つまり耕作用の空き地は絶えず移動していたわけで、こうした耕作様式の変種は近代初頭まで、ピレネー山脈からイギリスのケルト人高地地方にかけて広く分布していたようである。こうした地方で耕作用の空間が限定され、各種の輪作形式が生まれ、共同放牧や入会権などの共同体的慣行が定着していくのは、森林や原野が開墾され、耕地面積が増大する過程を経なければならなかった。…そのほかにも農民生活の効率を高めた道具、たとえば巻轆轤を用いた葡萄などの圧搾機の考案もあるし、農民生活に豊かな展望を開いた水車や風車のような発明もあった。特に風車と水車が農民をわずらわしい製粉労働から解放し、耕作の仕事に専念できるようにした意義は大きい。 風車はカスティリアでは早くも10世紀に使用されているが、西欧の他の地域に普及するのは12世紀以来のことである。製粉のために風力を利用する方法が伝わったのは、当時としては進んだ農業技術を持っていたイスラム教徒を介してであろう。その意味では、風車はシチリアの綿花、精糖、養蚕の技術などとともに「南方からの刺激」に負って居るとも考えられよう。いずれにしても、それは北方のイギリスやオランダなどにも広まり、長期にわたってヨーロッパの田園風景に欠かせない点景物となった。 風のむら気に影響されない水車はこれよりも更に強力で、またより広い範囲に広まった。
水力エネルギーのこの目覚しい利用法は、人力を節約する必要のあった中世の誇るべき技術革新で、これによる製粉技術の進歩は定着農耕社会への本格的な移行を示している。製粉用の水車は11世紀頃まではそれ程普及しなかったが、回転運動を往復運動に転化させるカム軸の発明ないし再発見によって、11,2世紀以来普及して行った。11世紀末イングランドではおよそ3000の地方に5600以上の水車があり、同時代のフランスではその10倍の水車があったといわれる。 水車は製粉ばかりではなく、様々な分野に応用された。鉱石や金属の圧延、刃物の研磨、織物の縮充、灌漑や製油、(92)麦芽の製造、ビールの攪拌などがそれである。 水車は領主独占に関わり、バン権(罪令権)に由来するバナリテ(領主独占による使用強制、他にもパン焼きかまどや葡萄の絞り機などがある)の主要な一環を為すものであった。水車小屋を経営したのは領主と特別な契約を交わし、種々の特権を与えられた粉挽き人で、農民は自家用の穀物をひくためにも使用料を支払って領主の水車を利用させて貰うほかは無かった。その際農民から徴収された水車使用料は領主経済にとって少なからぬ財源になったが、農民経済の側から見ても、従来の手挽きの石臼による製粉労働から解放された労働力を他の農業労働に振り向けられるという利益があった。 以上のような技術革新、取り分け三圃制の普及によって、農業の生産性も著しく向上した。[播種量に対して2~8倍。平均して3,4倍]… (93)こうして西欧中世の農業革命は必然的に「商業への農村の参加」を伴う事になる。この現象は農業における技術的変革の結果であると同時に、その原因でもあった。取り分け11世紀から13世紀に賭けて発展しつつある都市の農産物に対する需要の増大、周辺農村に対する都市の影響圏の拡大に注目しておきたい。13世紀に人口3000人の都市が存立できるためには、1000トンの穀物を生産する3000ヘクタールの耕地が必要であったといわれる。
商品流通に農村が巻き込まれていった指標のひとつは農村の週市や定期市の増加で、この現象は西欧のいたるところに見られたが、イタリアのような例外もある。ここでは10世紀に数多く存在していた農村市場は、農産物の取引の大部分が都市に集中した結果、衰退してしまった。 これに対し、フランス各地では11世紀から13世紀にかけて増殖した開墾系の新村は、多くの場合「地方市場町」としての性格を備えていた。… ところで、農業技術の革新と農産物市場の拡大は他方で農業生産の性格そのものにも大きな変化を引き起こす。J.(94)ブゥサールは11,2世紀のアンジュー地方について、農業技術の進歩を証明するブドウ栽培の発展、アンラビに穀物生産における燕麦と小麦による大麦とライ麦の駆逐、そして農民経営の文化と地方市場の成立と言う諸現象を統一的に説明している。このような経済的発展の背景には、アンジュー伯による政治的支配権の再編成過程があったことも忘れてはなるまい。 一般に中世前期の西欧農業は、穀物生産を主軸とする食用作物の多作経営と言う性格を持っていたが、それは不作の危険を回避するとともに、地方内自給経済の必要に応えるという事情によるものであった。しかしいまや都市消費市場の発展と共に、商品流通に対してより良く開かれた地方では、多作経営を完全に放棄しないまでも、その生産物の大部分が流通に振り向けられ、農村外市場に販売されるような商品作物の生産を主体とする「主作経営」へ転換していった。

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三。民衆的想像世界と社会   ・農村・都市の発展と普遍的イデオロギー: 第一に指摘しなくてはならないのは、農村と封建領主の台頭である。紀元千年を越えると、西欧の経済・社会の(248)構造は大きく変容した。大規模な開墾運動によって森林は征服され、次々耕地に変えられて行く。更に技術革新のお陰で農業生産力が増大すると人口も増え、農村は嘗て無い活気を呈するようになる。また農村の社会的組成は次第に複雑化するが、それは世俗・教会双方の封建的権力の網の目にとらえられて、新たな秩序が作り出される事になった。ここに成立した新しい社会構造は、俗人貴族の封建的主従関係のピラミッドと、世俗ないし教会領主に対する大多数の農民の土地と労働を媒介とした従属関係たる領主制を基本としていた。そして社会構造の細胞ともいえる農村は、概ね教会とその司祭を中心とする小教区と重なっていた。 さて、一つないし複数の農村を支配する領主のうちには、次第に力を蓄えていくものが現れる。彼らは、新たに起こした家系の正当性を公に認めさせるために民衆文化を利用する事に思い至る。メリュジーネなどの妖精物語や動物への変身譚、或いは英雄や古代都市を巡る伝説などが、そのための好個の素材となった。そうした口頭伝承は、読み書きの出来る聖職者によって書き留められ、記述と口伝を繰り返しつつ領主層・農民層に伝播していく事になった。教会は、建前としてはそこに迷信や異教の残滓や悪魔の惑わしをしかみないとしても、この時代には、多くの聖職者が、民衆が作り上げた美しくも不可思議な世界に魅惑されたこともまた確かである。民衆とエリート両者の間の思惑のずれや対立、そして融合の試行錯誤は勿論あったが、いずれにせよ貴族と農民を包括した農村生活の活性化が、脅威の世界歴史世界への関心を呼び覚まし、盛期中世において「民衆的想像世界」を育てていく第一の機動力となったのである。
 こうして端緒を得た「民衆的想像世界」は、12-13世紀に本格的展開を見せる。それは、普遍的な権力のイデオロギーによる想像世界の統合・組織化をスプリング・ボードとしている。これが、第2の要因である。フランスを例にとれば、国王は、一連の組織改革を経て諸侯達の影響力を骨抜きにし、封建制によって分断された地方主権の多元性を克服して、徐々に中央集権化を実現していった。それは12世紀末から13世紀に掛けてのこと(249)であり、その結果、法生面ではばらばらの慣習法がローマ法の影響を受けた制定法によって統一され、と同時に社会の上層から下層へと、順々に習俗の洗練の機運が高まる。それを精神面で補完したのが、教会のイデオロギーと霊性であった。いや、「民衆的想像世界」の展開にとっては、こちらのほうが必須のものであった。既に10世紀末の「神の平和」「神の休戦」で素描された普遍的なキリスト教的秩序追求は、11世紀後半以降、「グレゴリウス改革」や十字軍の遠征で一段と活発化する。13世紀には教会の中央集権化は完成し、それを裏打ちする教会法と神学も体系化する。一般信徒の中には、改革的教会人以上にラディカルなキリスト教世界の表象、すなわち、福音主義使徒的生活の理念を掲げ、清貧に徹する平等な信徒達の共同体としてのキリスト教世界像を信奉する者が現れた。とにかく、この時代に登場した、教権と俗権を包括する一つの普遍的なキリスト教世界こそ、「民衆的想像世界」の登場人物たちがそれぞれ意義深い役柄を演じながら縦横無尽に活躍する最大の舞台であった。 第3の要因としては、11世紀末ないし12世紀初頭の都市の復興をあげねばならない。都市の復興と市民生活の発展は、「民衆的想像世界」をより豊かにするとともに、やがてその変容をもたらす原因にもあった。
都市では、商人や職人と言う、土地の呪縛から解放され、思うまま富を追求する新たな社会層が生み出されたが、13世紀になると、農民とは全く異質の価値観や生活様式を持つ彼らと市民を対象とするインテンシブな司牧活動が、ローマ教皇の唱導によって展開する事に注目したい。それを主として担ったのは、托鉢修道会である。托鉢修道会は、その修道士たちが市民出身でしかも布教対象であるという、全く新しいタイプの修道会であった。信徒個人個人の内面を隈なく把握しようと言う教会当局の方針は、遂には1215年の第4回ラテラノ公会議における告解と聖体拝領の義務化に結晶する。こうして教会は、「民衆的想像世界」にも、折からのスコラ学を特徴付ける厳格な論理と倫理を注入し、更に合理化して、自分の懐に回収しようと図ったのである。「民衆的想像世界」は秩序立てられ、善悪の無造作な混合を阻むようになる。 (250)このように、盛期中世(11-13世紀)においては、農村でも都市でも民衆文化とエリートのキリスト教のより緊密な接触が見られた。両者は相互に検閲・加工しあって融合し、こうして西欧社会独自の普遍的な「民衆的想像世界」が誕生し、発展する事となったのである。… 後期中世の都市では、俗人がより積極的に、宗教生活において大きな役割を果たすことを要求し始める。教会はそれゆえ、都市においては権利や財産の侵害とともに、教義の侵害(異端)にもおびえる事になる。都市での市民の活発な信仰生活は、世俗文化の開花とあいまって、キリスト教世界と並んで都市が「民衆的想像世界」の参照系となることを赦すであろう。都市の建設神話がさおうだし、都市のコスモロジーを確認する行列や祭りの盛況、さらには国王にまつわる諸儀礼の発達もその証拠となろう。
 都市で生活するエリート達にとっては、世代を重ねるごとに、農民起源の迷信はますます理解の手の届かないものになる。都市が成熟し、周りの農村とははっきり異なった世界となると、相互の無理解と不信と侮蔑の感情が募ってくる。都市のエリートにとっては、最早、農村にすくうキリスト教と無関係な異教の残滓を「迷信」としてのろうことが問題なのではない。農村に巣食って居るのは、より由々しく、人類全体を脅かす悪魔の手下達とそのたくらみなのである。そして「迷信」のほうはといえば、その領域は異教からキリスト教内部に移り、正統な慣行の最中に侵入する涜聖行為の謂となる。即ちそれは、教会や墓地における聖性の侵害を指し、具体的に派生なる祝祭日を無視した生活態度や聖油の売買等々を意味するようになる。疫病や戦乱にひっきりなしにさいなまれた中世末になると、既に名ばかりの普遍的権力となった教会は、その権力・権威の無謬性・善性を裏付けるために、それ以前には幻覚に過ぎないと否認していた異教的表象を手のひらを返したように現実だと言い張る。しかも自らその現実性の保証人を買って出るとともに悪のレッテルを貼って裁く、(251)という原告と裁判官を兼ねたような捨て鉢な手段にすがる事になる。また他方では、市民が俗語文学や演劇などの都市文化を育んでいき、想像世界にも彼らの投射したイメージが大きな比重を占めるようになってくる。彼らはグロテスクな、滑稽な、はたまた無邪気なイメージを持ち寄って、聖なるイメージを苔にして笑い飛ばすが、それが昂じると、嘗てキリスト教的イデオロギーによって統合されていた「民衆的想像世界」は破裂し、その構成要素のイメージはてんでんばらばらになって散乱し、新たに強力なイデオロギーが登場してそれらの布置を決定するまで、気ままに浮遊する事になろう。
・時間と空間: 最後に一つ付け加えれば、「民衆的想像世界」は、その時代の人々の時間・空間認識と不可分の関係にある。対極的に見て、初期中世の農村の生活様式に適合した循環的・典礼的時間と身体や家屋の延長としての空間の認識は、盛期中世には都市の成熟や合理主義の進展とともに、より抽象的で客観的な存在としての空間と直線的で強度に組織化された時間(商人の時間)へと移行するといえるが、そこに、永遠の時に向かって世界創造から最終審判まで矢のように一直線に走る時間認識と、仮の宿りであるこの世と永遠の世界である天国と地獄を対比させた空間認識を特徴とするキリスト教的な救済史の時間・空間認識が不断に渡り合って、「民衆的想像世界」を構造化していったのである。もう一つ、12,13世紀の「民衆的想像世界」の飛躍的発展には、脅威の時間空間認識…、ケルトや古典古代の遺産を汲んだ世界観ー時間が逆に流れて若返ったり、一日が百年に相当したり、この世とあの世が貫入しあっていたりする世界ーの影響が極めて大きかったことも、言い添えておこう。

知識と社会5

二。民衆的想像世界の変容   ・異界描写: (238)異界巡歴のテーマはキリスト教の初めより存在するが、「異界描写」が大量に作られて、そのイメージが一般に普及するのは12-13世紀のことであった。これは、瀕死の者或いは神の恩寵を得たものの魂が、夢の中で死後の世界を遍歴し、天国や地獄の様子を見物ないしその苦楽を実際に経験して、再び目覚めて後、周りの者達に具にその報告をするといった形式を持つものである。[それらは天国・地獄など曖昧な像でしかなかったが]…11-12世紀を過渡期として、12世紀後半から13世紀にかけて全盛期を迎える異界描写は、初期中世とは対照的に極めて迫力ある具象的イメージに満ち満ちており、異界の地理もはっきり区画化されるようになる。…(239) 盛期中世に広まった…異界描写の第一の大きな特徴は、それ以前のものには無い具象的でヴィヴィッドな描写である。たとえば、地獄や煉獄で体の各部分に加えられる微に入り細を穿った責め苦の模様や、麗しい天国の建物の有様の描写がそれである。[例えば]暗い霧が一面に立ち込めた深い死の谷の底には…焼けた石炭が一杯詰め込まれて、その上に鉄のボイラーが据えてある。ボイラーの中では殺人を犯したものの魂が炎による責め苦に喘いでいる。これらの魂たちは、ボイラーで焼かれて灰燼に帰した後、とけたロウが布でこされるように漉しだされる。この責め苦のプロセスは、何度も繰り返し行なわれるのだという…。(240)このような『トゥグヌグダルスの幻視』の描写にうかがわれるように、12-13世紀の異界描写においては、魂と言う不可死の霊体であるはずのものが、あたかも「小型人間」でもあるかのように、肉体と五感を備えて苦痛や快感を感じる存在として描かれている。
更に、魂たちの赴く場所の描写も、具体的と言うか、当時の西欧各地に見られた景観を奇怪化ないし理想化したものとなっている。それは、異界や罪の贖いや善業についてのキリスト教神学の抽象的な議論を、一般の信徒にも極めて分かり易く手に取るように、肌にしみるように、目の前に繰り広げられるようにイメージ化した結果であろう。見方を変えれば、そのように、民衆文化・民俗文化から借用した、換言すればあらかじめ民衆の「検閲」を受けた形でのみ、彼らの心に訴えかける異界描写が可能となったので[ある]。 異界描写においては、キリスト教の正統教義が、具体的イメージを用いて語られるに留まらず、時に神学者らの伝統的な見解と背馳するような教義も堂々とイメージ化され、それが逆に、神学者達の議論に変更を迫ることがあった。例えば、元々正統教義によると、キリスト教徒の魂は最終審判時にすべて纏めて裁きに掛けられ、古い分けられて地獄に堕ちるなり天国に上るなりするはずであった。ところが盛期中世の異界描写では、各人がその死亡時にただちに生前の功罪に応じて報いを得るのであり、最終審判を待つことなく、善良なものの魂はよき報いを得て、悪辣なものの魂は相応の責め苦にさいなまれるように描かれているのである。…第二に、それぞれの異界描写の発祥した地域の現実の住民がしばしば登場することも特徴的である。…(242)要するに、臨場感あふれ迫力ある異界描写が成立したのは、それが民衆の嗜好にかなったからであるし、そうした嗜好におもねる事によってのみ、教会は、その教義や倫理を彼らの頭と胸に効果的に植えつける事が出来ると判断したのであろう。 こうして12世紀以降、異界描写は発祥地域・事情の特殊な瘢痕をとどめつつも、ほぼ共通した特徴と構造を備えたものとして、幾つものヴァージョンで西欧全域に「記述」と「口伝」を繰り返しつつ流布していく。

そして、異界のイメージがその一角をなすような「民衆的想像世界」の全体像も、丁度この時期に姿を整える。それは最早「民衆的」と言う形容詞と受ける必要の無いほどにエリートをも民衆をも巻き込んで西欧全体を覆い包んだのであり、まさに想像世界における西欧の成立を、ここに認めることが出来る。… ・魔女の夜間飛行: 12,13世紀の異界描写は、民衆とエリートが共同して作り上げた想像世界を表現していた。或いは寧ろ、それは、キリスト教の起源より存在した異界とそこでの魂の運命に関する教義を、民衆が自らの嗜好にあうよ(243)うに「検閲」を加えた結果できあがったものである、といった方がよいかもしれない。しかし全く反対に、もともとの異教的な表象に、エリートが「検閲」を加えながら想像世界に取り込んでいく、といった現象もしばしば生じた。[例えば]魔女は空を飛べる。これは魔女狩りが本格化した16,17世紀には自明のことであった。夜の帳が下りると、魔女達はその体に悪魔から貰った秘密の膏薬を塗り、棒やほうきに乗って、悪魔を囲む魔女たちの集会である鯖との開催地まで飛んでいく。たとえ家の扉が仕舞っていても、人知れず煙突や窓から抜け出して飛んでいくことが出来る。そしてサバトで悪魔を礼拝し、倒錯した狂気の沙汰に耽ってから、再び空を飛んで自宅にもどり、平気な顔で朝の支度を始めるのである。[この伝承は900年ごろの『司教法典』や11世紀初頭ドイツの贖罪規定書、12世紀シャルトルの文献に見られる]。-「幾人かの悪辣な女達は、サタンのために堕落してその手下となり、悪霊のもたらす幻覚に誘惑されて、次のように信じまた言っているという事に、ここで言及しないわけにはいかない。即ち彼女らは、夜、異教徒の女神であるディアナあるいはヘロディア(洗礼者ヨハネの首をはねさせたヘロデの妻)に率いられ、無数の女達ともどもある種の動物に乗って、夜の(244)深いしじまの支配する中、地上を大変な距離、横切って移動する。
女達は、自分らは女主人たるディアナの命令に従って、予め決められた幾夜かに彼女に仕えるべく召喚されるのだ、と公言する」。『司教法典』は続けて、このように公言する女達は不信心であり、自分が破滅するだけならまだしも、他の無数の女達をも同じ過ちに導いている、として告発している。そして小教区教会を任された司祭は、唯一の神以外に女神など存在せず、女神に先導された夜間飛行は、信徒達の魂に悪霊から送られた純粋の幻影だと、全力を傾けて説き教えなくてはならないとした。…[夜間飛行する女の他]もう一つの構成要素は、女が夜、ローマの豊じょうの女神ディアナとともに騎乗して外出するというイメージである。ディアナは、月や夜と密接に関連し、またしばしば地下の冥界と魔術の女神であるヘカテーと同一視された。… このような民衆の心の古層に横たわる異教的表象はキリスト教が広布されたあとも殆ど無傷で民衆の間に温存されていた。エリート達は、盛期中世から後期中世にかけて、それらのうち幾つかのイメージの(245)意味を入れ替え、特に悪魔化しながら、西欧文明と一体化した新来の想像世界に位置づけようと努めたのである。 異教をめぐるキリスト教のかような戦略は、現実の女性に対する聖職者の態度からもうかがわれる。即ち、確かに初期中世にも、後の時代の魔女に類した人物はいた。隣人やその動物にのろいを掛けて病気にしたり、性的不能にしたりしているといった嫌疑を掛けられた女性は少なくなかったのである。11-12世紀にはその数はより一層増えて、彼女達は逮捕されたり処刑されたりすることがあった。が、そのような呪術の背後に、悪魔の存在を想定したり、ましてや彼女らが自ら悪魔と契約を結ぶ挙に出たとして追求することは、まだ全く問題になっていなかった。

 12世紀までは、悪魔や悪霊に人やものを動かす大きな力を認める神学者はいなかった。… ところが13世紀以降、呪術使いの女らは、はじめて悪魔と結びつく。それはあいつぐ民衆的異端の族生、とりわけ二元論異端たるカタリ派の蔓延が、神学者達に「悪の問題」を深刻に取り上げ反省するよう促したこと、そしてやはり同時期に、彼らが、善悪は「人格」とその「意図」があって始めて発生する倫理的関係であり、したがって「責任」もその「人格」にふりかかるのだ、という議論を展開したことが思想的背景となって居る。また同じころよりスコラ学においては、悪魔が「場所」移動に関して持つ力が際立って大きなものとされるようになるが、そうなると、悪魔の領域である大気中で、人や物を動かす力が彼らに備わって居るのは当然だと考えられ、後に「魔女の夜間飛行」が現実視されるのを助ける事になった。 かくて13世紀後半から14世紀に掛けて、かつての呪術使いの女は悪魔と結託するのみでなく、単なる迷信におぼれた哀れな女から、裁判に掛けられ自白を共用される凶悪な確信犯、即ち「魔女」に変身する。 (246)中世末・近世になると、このような思想的潮流が折からの政治的・社会的危機にもまれて黒々とした奔流となり、上に紹介した初期中世の「魔女の夜間飛行」の構図は全く逆転する。15世紀末から16世紀に掛けての悪魔学者の数々の著作を紐解けば明らかなように、サバトが実在するのと同じように、「魔女の夜間飛行」も、全く疑う余地の無い物理的現実とされるようになったのである。 魔女狩りのバイブルとなった二人のドメニコ会士ヤコプ・シュプレンガーとハインリヒ・インスティトリスによる『魔女の槌』(1486年)の第2部第3章では「魔女はいかにして場所を移動するか」について論じられている。

彼らによると、魔女達は実際にその体ごと物理的に遠隔地まで移動するのだという。神の許しを得た悪霊は、ゆりかごの子供を遠くに移して、自分がその子供と入れ替わったり、また時には罪の重荷を負っていない普通の人をも大気中に運び去って遠隔移動させることがあるのであるから、自らの意思で悪魔に未をゆだねたもの(魔女)が悪領によって遠隔移動させられても、何の不思議も無い。魔女はこの飛行のために、洗礼前の赤子のからだで膏薬を作って、椅子や木片に塗りつけて大気中に飛び上がる。そしてこの夜間飛行については、逮捕された魔女は皆自白しているし、その噂は津々浦々まであまねく広まっている、とこのように説く。 「魔女の夜間飛行」は、最早夢でも幻覚でもない。女たちは、確かに悪魔・悪霊の遠隔移動で実際に遠い距離を飛ぶのだと、教皇の或いは国王の権威を体現したエリートの司法官は宣言し、その考えを一般に普及させる事になる。「魔女の夜間飛行」は実在する。だからこそ彼らはその恐るべき犯罪のわずかな証拠・痕跡でも見つけ出そうと、密告を奨励し、徹底的な訊問をし、目をおおわしめる拷問を課したのであった。実在する夜間飛行を経験した女こそ、とりもなおさず火刑台に送って抹殺すべき「魔女」なのであるから。 …。

知識と社会4

chapter8 キリスト教と民衆的想像世界 池上俊一   一。創造世界における民衆的なもの   …(231)本章で扱う「民衆的想像世界」は、民衆宗教や民衆文化の一部である…。 ・民衆=迷信論: (232)まず、文化や宗教といったものを俎上に載せる場合に、中世のローマ・カトリック教会の論者そのままに、キリスト教的なイデオロギーを自らのものとして「民衆的」なるものを否定的・貶価的にとらえる見方がある。より端的には、それを異教の残滓とか、魔術的な行為とか、公式の文化や宗教の退化形態だとして、底に何ら創造的・積極的機能を見出さない立場である。 このような把握方法は、既に教父の聖アウグスティヌスに遡る。彼は、民衆的な慣習を「迷信」と呼んで、それを根絶すべきことを説いた。…当初より、樹木や泉の崇拝が異教的な偶像崇拝として教会人ののろいの的となり、それを根絶するための初期中世の布教家・聖者たちの努力は、大変なものであった。死者が周期的に聖者の親族を訪れるという俗信や、仮面をつけ、ドンちゃん騒ぎをし、互いに贈り物をしあう機会となった幾つかの異教的祝祭も、同様に断罪された。これらの断罪は、初期中世の多くの司教区教会会議の決定やフランク王国の国王による勅令に含まれるばかりか、初期中世から正規中世にかけて多数編纂された贖罪規定書にも詳細に列挙されている。 … ・民衆の固有性評価: 次に「民衆的」なるものをより積極的に評価する見解がある。民衆は、エリートとは異なる文化・宗教を持(233)っており、その中に浴して日々の生活を送っていたのであり、それはエリート的なるものの退化形態でも、異教の残滓でもなく、エリートのキリスト教や異教の影響を受けつつも、それらを独自のプランで組織化していったものである。そこに、固有の価値と機能を持つ「民衆のキリスト教」が出来上がったのである。更にそれは、単に受身の産物ではなくエリートの文化や宗教に逆に影響を及ぼして、それを変化させることさえあったのである。
[宗教史家ドラリュエル]によると、中世には、一方にエリートの公式・厳格なキリスト教があり、他方には「弱き人間」の日常の必要に見合う形で生み出された、奇跡を絶えず希求するような民衆の素朴なキリスト教があった。そしてこの二つのキリスト教は、相互に無関係ではなく影響しあうのだとされる。… 次に、霊性の歴史の探求者であるヴォシェも、キリスト教の冷静の中に民衆的なものとエリート的なものを分けて、両者の関連を探って居る。中世においては、聖性にいたりつく特権的手段は修道士や聖職者に独占されていた。彼らのみが聖書を読むことが出来、詩篇を朗誦でき、祈祷に身を捧げることが出来た。民衆は、エリートの信心行のいくつかを模倣して、沸き起こる宗教的渇仰を満足させた。四旬節の断食や日曜ミサへの出席がそれである。しかし民衆の冷静は、過激な福音主義やヒエラルキー批判に見られるように時に、教会制度の枠、そして難解な教義の枠をはみ出すことがあった。ヴォシェによると、それにもかかわらずこの二つの霊性は交流可能で、(234)あい携えて発展していったのだという。その理由は、聖職者の多くが、現実には民衆の霊性の大海原によくしていたからである。教会はカロリング期以来、民衆の霊性の構成要素のうち、取り込めるものは取り込んで教義や儀式を形成して逝った。聖者崇拝や天使崇拝がこうして生まれ、また正規の万聖説制定は、民衆の間に広まっていた死者崇拝を汲み取って出来たものなのである。 それまでどちらかと言えば受動的であった民衆は、11世紀末、教会を揺るがした改革運動の後で、魂の救いを求めて大規模な宗教運動を展開した。それは、教会改革者を援護するとともに、ラディカルになりすぎて当局を苦しめることもあった。ともあれ、歴史的・人間的キリストの姿の発見と、使徒的生活やメシアニズムへの憧れなどを中核に据えた民衆的霊性が、ここに大きく開花する。 
更にもう一人、マンセッリは、ドラリュエルとは異なり、中世キリスト教が二つに分かれて、民衆宗教とエリートの宗教に分割されていたことを否定し、それは実際は発現形態が異なる一つの宗教なのだとする。…エリートがキリスト教の啓示の言葉(聖書)によって与えられたデータを概念的に体系化する傾向があったのに対し、民衆はその同じ啓示を概念的現実としてではなく、上からの権威に保証された真実として受け取り、更にそれを主観的に選択受容して、歴史的に構造化された心的シェーマの中に統合していった。取り分け民衆は相互に普段に影響しあい、常に出会いと合流を求めていたが、その相互浸透・適応が一段と進み、新たな方向を目指したのは11世紀以降だという。それは何よりも都市の出現が原因となっている。…(235)[3社の見解はいずれも]民衆の宗教や霊性に固有の価値を認め、またエリートの宗教や冷静に対して受身一方と看做すのではなく、主体的に畑r機かけていく能動性を付与している。また3人は一致して、11世紀が大きな転機だとする。それは教会改革運動と都市の出現のためである。 このような新しい論点は、民衆宗教の母体たる「民衆的想像世界」についてもほぼそのまま当てはまるであろう。… ・口承と筆記の交替劇: (236)シュミットは…観念やイメージの伝達や変容が口頭でなされるか、それとも文字でなされるかに注視し、その交替に権力の操作の介在する余地をかぎだしている。公的な権力を身に帯びた聖職者が、彼らの独占する文字・記述行為を介して民衆文化に権威と秩序と抑圧を課すべく、口承で野放図に広がっていたイメージ世界のイデオロギー統制を試みるのである。…[ほかにグレーヴィチは](237)太古の時代に起源し現代の未開種族にも見られるような、宇宙との融即の感情、占い・予言・農耕儀礼などの呪術的慣行の存在を西欧中世に見つけ出して、それは長い中世の間殆ど不変不動であるという。…「民衆的想像世界について」、次のように纏めることができよう。それは、民衆の間に口頭で伝わるキリスト教以前の伝承とエリートのキリスト教の合作として盛期中世に大きく切り開かれた世界であり、独自の構造と機能、意味と価値を備えていた。しかしそこにはいつも権力・支配のイデオロギーが介入しようと身構えていたのであり、それは何よりも口頭伝承を文字で書き留めることを媒介として行なわれたのである。

知識と社会3

そして大学と言う制度そのものの中に、取り分け学科ごとの教師団体である「学部」と言う制度を通して、キリスト教的知識がその基盤を置く知の体系を温存しようとしたのである。[これを擁護した教皇グレゴリウス9世の教書がパレンス・スキエンティアルムである。その後パリ大学での托鉢修道会進出問題について、ローマ教皇庁のパリ大学支配、教皇庁によるパリ大学の直属機関化が、単に大学の理念という抽象論のレベルではなく、法を通しての具体的なものであったことを示して居る]。… (228) …12世紀の知的な活況の中で醸成された土壌から、新たな人的素材に担われた新たな教育・研究教育状況が生まれ、新たな知的世界を切り開いていったが、12世紀以降、新しい人間類型に属する「教師」と「学生」が「大学」と言う共同体を形成する事になった。その一方で、伝統的な知的営為の監督者、その領域での権威であるローマ教会は、普遍教会への道を進む中で、新たな知的世界の展開ーそれは既存のキリスト教的秩序を危険にさらす可能性があったという意味で挑戦と言うべきかも知れないーへの対応を迫られる。インノケンティウス3世以降のパリへの介入は、13世紀西方ラテン教会の教義と知の枠組みの中に、12世紀ルネサンスの産物である「大学」と言う新しい制度を取り込むことを目的とした一連の歩みであった。パリ大学は13世紀に、高位聖職者養成機関からキリスト教的知識の最高の研究機関となっていき、ローマ教会と言う権威に取り込まれる事によって、普遍的な知的権威を手にする事になったのである。
 …パリと並んで「最も古い」ボローニャ、オクスフォード、モンペリエの大学創設に関しても、ローマ教皇の介入は行なわれた。例えば法学の研究と教育の中心地ボローニャに学生主導型で形成された「大学」への教皇の関与を見てみよう。1219年、ホノリウス3世は、ボローニャで(229)の教授免許交付権をその知の助祭長に認可した。この措置によって、学生はコムーネが教師達を通して行なっていた管理監視から離脱することが出来たと考えられる。また1224年には教師が「大学」の規約に従うことを教会罰を持って命じた。学生組合の解散と学生の市条例への服従を狙った市当局に対して、教皇庁が学生の自由を保護する立場に立って介入したのも、同じホノリウス3世在位下の出来事である。このように、ボローニャの学生の「大学」=組合の背後にあっても、教皇庁がその権威を行使したことが理解される。オクスフォード大学に関しても、その知の学徒に裁判上の特権的地位=世俗裁判権からの離脱を承認したのはインノケンティウス3世のローマ教皇庁であった。さらにモンペリエの医学「大学」の整備[など]教皇庁の権威が当該大学のあらゆる事柄にわたって保たれると規定されたのである。こうした一連の介入の目的は、教会による高等教育機関の整備、独占と言う射程の中で理解されるであろう…。

知識と社会2

 ・学問の都パリ: 12世紀前半以降、パリの学問的名声は、既に述べたように、そこでギヨーム・ド・シャンポーとアベラール、とりわけ後者が教鞭を取った事に始まる。12世紀後半、それ以前に学問的名声によって学生をひきつけたシャルトル、ランス、ラン、アンジェなどはその名声を失うか、学問・教育による吸引圏の範囲を狭めた。その反対に、オルレアン、モンペリエなどがその例だが、学問的名声を挙げる都市が出て来る。そうした中でパリは12世紀後半になっても変わる事のない学問の街、学都としての高い評価を保ち続ける。 アベラールの時代、パリにはその学問的名声を支える3つの「学校」、即ちパリ司教座聖堂付属学校、サント・ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校、そしてサン・ヴィクトル律修参事会付属学校が存在していたが、大学の形成と直接結びつくのは司教座聖堂付属学校だけであると考えられる。
サン・ヴィクトル律修参事会付属学校につい(214)てみれば、当初律修参事会員以外の外部の学生にも開かれていた教育は…、[後に]外部学生の受け入れは行なわれなくなったし、またサントジュヌヴィエーヴ修道院付属学校についても、1147年から1148年の改革によって修道院の運営が律修参事会員の手によって行なわれるようになってからは、外部の学生がそこで学ぶ事は困難になったからである。 一方、パリ司教座聖堂付属学校は参集する学生に門戸を開放しており、12世紀後半にも、ピエルー・ロンバール…らの高い評判を得た教師が教壇に立った。彼らは…アリストテレスの論理学[に基づき]弁証法を適切に駆使した研究と教育を行なった。更にパリでは「私学校」が多く存在した。教師達が教鞭を取り、パリに集まる学生達の教育の機会を提供していたのである。…私学校の教師達は新しい学問、弁証法、更には文法、教会法学、医学などを教え、司教座聖堂付属学校では神学教育が行なわれていた。パリ全体が多数の教師を融資、多岐にわたる内容を持つ教育活動を実践しており、そこに学び来る学生は、自らの好みに応じた教科を選択する事ができたのである。そして、パリの学問・教育界には知的好奇心と社会的野心とが絡み合った、一種の高揚した雰囲気が認められた。… 三。パリ大学の成立とローマ教皇の介入: パリに参集した教師、取り分け私学校の教師の間で、12世紀後半以降、教師組合=「大学」universitas形成運動が展開されるようになる。「大学」形成の目的は、教師達の相互扶助の実践と自治的な教育活動の実行にあった。 ところで、パリ大学の形成に関する通説によれば、パリの教師は、教養初夏の教師…を中心にして、1208年から1210年にかけて、遅くとも1215年には教師ギルドuniversitas magistrorumを形成し自らの手でギルド構成員を選び(人事権の自治)、ギルドの活動を規定する規約を定め、パリ地方教会の教育裁治権下から離脱したと考えられる。
パリの教師ギルド形成運動は、ラッシュドール以来、教育の領域でパリ地方教会権力を体現した司教座聖堂参事会付文書局長との抗争の過程での、教師達の結束によって推進されたと解されてきた。しかし近年の研究はパリ大学の形成が、自治的な教育活動を求める教養諸科の教師、神学などそれ以外の「専門」教科の教師、パリ地方教会、教皇、フランス王権など大学形成に関与した幾つかの利益集団の「妥協」の産物であるとの見解が[出されており、]ラッシュドール的通説は修正を迫られているといえよう。 ・教師・学生の法的地位を巡って: フィリップ・オーギュストの時代(1183-1223年)、パリの人口は2万五千人から5万人、そのうち教育(216)にかかわる人口は少なく見積もっても1割と言う数字がある。パリの知的な繁栄は同時に「公権力」の目からして無視する事のできない、幾つかの問題或いは危険を生じさせる事になる。フランスのみならず遠方からパリに参集する教育人口が引き起こす住居、糧食、治安などに関わる問題、教師・学史の法的市に関わる問題、既存の教育制度との整合性の問題、更には知的活動の活性化に伴って生じる伝統的精神界にとっての「危険性」ー後述するようにそれは アリストテレスと市民法によって提起されたがーなどを列挙する事ができるであろう。この「問題と混乱」の中から「大学」が形成される。それゆえにこそ「大学」形成過程に世俗権力と教会権力が積極的に介入する事になるのである。 聖界・俗界の「公権力」が、最初に対処すべき問題は、12世紀に誕生した「教師」及び「学生」が属する法的身分を如何に既定するかと言う問題であった。既に述べたように、12世紀、学問あるいは教育の領域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者と言う伝統的観念が、西欧とりわけパリでは広まっていた。教えるものを意味する語としてmagisterないしdoctorが、また学ぶものを意味する語としてscholarisあるいはdisciplusがあったにもかかわらず、教育・研究の場が教会関係者に限定されており、「祈る」ために教育と研究が営まれていたこともあり、教えるもの・学ぶものを意味するのに一般的に用いられたのはclericusという語であった。
この事から推測されるように、教えるもの・学ぶものは聖職者と看做されていたのである。ところが、12世紀の知的な活況と教育人口の膨張の中で、祈るために教え、学ぶのではなく、「知る」ために学ぶ人、あるいは職業人として「教える」人が登場した。教える人と学ぶ人が相変わらず聖職者であるならば、彼らは新しいタイプの聖職者であったという事が出来るであろう…。聖職者は法的に見れば、裁判特権によって世俗裁判管轄権下ではなく教会裁判管轄下に置かれ、聖職者特権によって暴力から身体の安全を守られている。… ・ロベール・ド・クールソンの規約から「パレンス・スキエンティアルム」へ: パリ大学の形成から確立にわたる期間、教皇座にあったのはインノケンティウス3世、ホノリウス3世、グレゴリウス9世であった。ここでは1215年にインノケンティウス3世の特使ロベール・ドクールソンが公布した、現存する最古の「パリ大学規約」を取り上げる事にしたい。…前文には、規約の作成の目的が、インノケンティウス3世の匿名に基づく、パリのストゥディウムの改革にある事、そして規約の作成に当たって、ロベール・ド・クールソンが信頼に値する人達の助言を求めたことが明記されている。「助言を求めた信頼に値する人達」とは、ロベール・ド・クールソン自身がパリで神学教師として活動していた時期(1200年少し前から1212年まで)の同僚教師であったと考えられる。… (218)教皇が改革の必要性を認めたパリのストゥディウムの状況とは如何なるものであったのか。それは教師達の「大学」形成の問題であり、学生、教師の質に関わる問題と、パリで教授され、研究されている学問内容に関する問題であった。 「大学」形成に関しては、インノケンティウス3世が1208年に教会法、市民法に基づいて教師の組織が代理人を派遣することを認め、また同年パリの教師達が定めた規約への服従宣誓を行なわなかったため一度「教師組合」から除名された教師Gの組合再加入問題に仲介者として裁定を下したことが知られる。1212-13年には、教授免許交付を巡るパリの教師と司教座聖堂参事会文書局長との対立が顕在化し、インノケンティウス3世の任命した裁定者の手によって、紛争が一応解決されたことも知られている。
…(219)ロベール・ド・クールソンの規約は、神学、教養諸科を対象として,修学機関、教師資格取得の年齢を定めて居る。教授免許取得にかかわる規定(これは教師ギルドの人事権の自治とも関連する)については、1213年の仲裁裁定がそのまま採用されて居る。仲裁裁定では、神学、法学、医学の教師適格者の認定に関しては、当該教科教師の過半数が適格者と認定したものには(当該教科の)教授免許が交付される事とした。しかし、教養諸科の教授免(220)許交付については、教養教科教師3名とパリ司教座聖堂参事会付文書局長が指名した3名の教師の過半数が教師適格者と認定した者に教授免許が交付されたのである。この条項から、神学、法学、医学の教師については、自治的な人事権の行使が容認されたが、教養諸科教師のそれは制限されていると解することが出来る。1213年の仲裁裁定が、ある面で文書局長の教授免許交付権の制限ないし空洞化をもたらしたという事を認めるにせよ、大学形成の中心的にないてである教養諸科教師に限っては完全な人事権の自治が認められていなかったのである。その仲裁案がロベール・ド・クールソンによって取り入れられたのである。また彼は、正規の学生である為の要件を定め、学生に対する教師の監督権を確認している。 そして学習内容(カリキュラム)についても詳細な教科編成を規定し、教えられるべきテキストを指定している。その一方で、…アリストテレスの形而上学、自然哲学、[その他当時のフランス人学者の]教説が禁令の対象となった。 教養諸科教師は自治的な教師ギルドの形成を推進する。これに対応してロベール・ド・クールソンの規約は、教師ギルドの存在とギルドとしての権利(規約制定権の行使など)を確認する。その一方でロベール…は、詳細なカリキュラム、厳しい試験といった制度的枠組みの中に、新たに流入した学問の繁栄と諸学の無秩序な「混合」に対する有効な歯止めを見出したのである。

知識と社会1

chapter7 知識と社会 大嶋誠 一。大学史研究の動向 (205)…「大学」は西欧中世独自の産物とさえ言われている。知識を蓄積し創造する教師とその知識を自らのものとしようとする学生の共同体、別の言い方をすれば知的営為にかかわるものの共同体である大学は、12世紀西欧の社会を部隊として、そこで展開された政治的・経済的・宗教的・そして更には知的状況の中から新たに生み出された歴史的生成物なのである。その大学は13世紀西欧社会の中に定着し、時代の知的営為の中心となるとともに、教皇権・皇帝権とともに普遍的権威の一つに数えられて存在する事になった。 二。12世紀ルネサンス: (207)12世紀を特徴付ける歴史現象は幾つかあるが、知的領域に関して言うならば、12世紀の特徴は「知的覚醒」という事が出来よう。…12世紀の知的活況が、大規模な開墾と耕地面積の増大、農業技術の革新とそれに伴う生産性の著しい上昇ーそれは中世農業革命とさえ呼ばれるーと人口の増加、商業や都市の発達といった当時の経済生活の飛躍的発展、更には十字軍が証明するような西欧社会の膨張を基礎にして展開された事は、多くの研究者が既に指摘しているところである。それらを確認した上で、我々は12世紀の知的領域、教育界の覚醒を検討する事になるが、その対象となるのは、グレゴリウス改革の影響、地的地平の拡大、地的活況と教育人口の膨張に伴う学校制度の再編・整備と言う三つの事象である。 ・12世紀の知的覚醒: 「教会の自由」を追求したグレゴリウス改革…、知識との関連で、グレゴリウス改革が及ぼした影響を一言で言えば、キリスト教徒を霊的に指導する聖職者、なかんずく高位聖職者の必須の条件として、読み書きできる事、学識を主張した事にある。
(208)…グレゴリウス改革の推進者は先ず、聖職への任命は教会法規に基づいて行なわれるべき事柄であること、そして、教会法規は聖職任命の装置であるばかりではなく、聖職任命の基準でもあるとの主張を行った。高位聖職者は様々な徳を有するがゆえにその職にあるとされたが、現実には、慣習によって貴族がその職につくものとされた。グレゴリウス改革推進者は、この慣習に対して積極的に反対する事もなく、この慣習を尊重した。それと同時に改革推進者は、高位聖職者、更には教会人であるためには、最低ラテン語の読み書きが出来る程度の学識を備えていることが要求されている事を理解したのである。つまり、セナトール貴族系聖職者に代表されるような貴顕の出自と学識の双方を具有する事が霊的指導者の条件と考えられたのである。ここで指摘すべき重要な点は、貴族階層型の社会階層の人物に比較してより学識があるか否かという事ではなくて、学識が、貴族による教会の行為の独占を打破する要素として登場した事なのである。教会法規はシモニアを通しての貴族による高位聖職独占を禁じたが、同時に高位聖職を学識による攻撃に晒す事になったのである。グレゴリウス改革推進者がシモニアを禁止し、その一方で教会人の学識を強調した事によって、学ぶ事の価値がそれ以前とは異なる属性を持つ事になった。つまりそれは、学識を得る事、学識を得るために学ぶ事が社会的な、少なくとも教会内的な意味での栄達の手段、或いは野心を実現する手段となりえた事を意味したのである。 教会の中での学識の強調は同時に、学ばれるべき事柄に関して教会のコントロールが行なわれることを予見させずにはおかない。
世俗の知識ー文法、修辞学、論理学からなる3学を意味するーに対して実践的な必要性が与えられる。文法は書簡を認めるために、修辞学は論争するために、論理学は議論を成り立たせるために必要であるばかりでなく、これら3学は、聖なる書き物の理解と教会の法規の研究に奉仕すべきものとされたのである。 学ぶ事、学識の獲得に関して教会の内部に生じたこのような大きな変化は、「学校」の再興と、そこでの教(209)育・研究の活性化を必然としたと考えられる…。 12世紀はまた、ローマ法が再発見され、古代ギリシアの知的遺産とアラビアの知識がラテン語への翻訳を通して西欧社会に流入し、西欧の知識の総量を増大させ、知的養分を供給し、知的覚醒を引き起こした時代である。12世紀以前の西欧が手にしていた古典古代の知的遺産は極めて乏しかった。西方ラテン世界が継承したギリシア古代の知的遺産はカッシオドルスやセビリアのイシドルスやベーダといった少数の学識ある人物が断片的に収集したものに過ぎなかった。従って、12世紀の西欧社会に知られていたラテン語訳されたギリシア語の著作と言えばごく貧困で、カルキディウスの翻訳したプラトンの『ティマイオス』断片、ボエティウスの翻訳になるアリストテレスのオルガノンの中の範疇論と命題論を数えるだけで、アルキメデスやユークリッドなどの名前すら忘れ去られていた。また、アラビアの知識の需要はごく狭い範囲に限定されていた。 12世紀のラテン語への翻訳活動は、西欧世界とイスラム世界が接するイベリア半島(カタルーニャとトレド、とりわけ後者が中心であった)、6世紀以降はビザンツ帝国の、9世紀後半以降はイスラム教徒の、そして11世紀中頃以降にはノルマン人の支配に服したシチリア、そしてギリシアとの通商外交関係を保っていた北イタリア都市と言う三つの拠点で行なわれた。
 アラビア語或いはギリシア語からラテン語へという翻訳活動の結果、西欧社会が所持する知識の総量は飛躍的に拡大する事になった。フワーリズミー、キンディ、アル・ラージー、アヴィケンナ、アヴィケブロンなどのアラビア系学者の著作、またアリストテレスの著作(天体論、生成消滅論、気象学第4巻、分析論前書、分析論後書、トピカ、詭弁論駁、自然学、霊魂論、形而上学1-4巻など)やユークリッド、プトレマイオス、ア(210)ルキメデス、ガレノス、プラトンなどのラテン語に訳された著作を西欧は手に入れたのである。 古代ギリシアやアラビアの知識が、知的活動の新しい素材を提供する事になるが、1100年前後、法学が一つの学問、一つの教科として成立する事になる。グレゴリウス改革の教皇権と皇帝権と野対立のイデオロギー論争のコンテクストにおいて、ボローニャを中心とする北イタリアで、既に11世紀に再発見されていた『ディゲスタ』の写本が流布し、またそれへの注解を施す事が盛んに行なわれるようになった。教会の職務とそれに携わる人たちを統べるとともに、社会の中で、キリスト教的倫理と規律に基づく遵守事項を定める教会法も発展を遂げ、1140年ごろ、ボローニャの修道士グラティアヌスが、それ以降の教会法教育のテキスト、注解の素材となる『教会法命題集』を編纂する事になる。こうして、法学が研究と教育の領域に入って来たのである。 ・学校組織の再編: 12世紀、教育制度・学校制度の再編が見られた。それを示す一つの現象として、教育の場の中心が農村的な修道院付属学校から、都市的な司教座聖堂付属学校に移行したことを指摘する事ができる。修道院系の学校が衰退、ないし自己閉鎖化する状況が見られる一方で、都市に置かれた司教座付属学校が活況を呈するという状況が生まれた。
修道院に関して言えば、基本的な理念において、教育活動を含めて世俗社会の活動から隔離され、己の魂の救済を目指す修道院は、社会全体が停滞している時期には過去に蓄積した知的・文化的遺産を保持する事で文化活動の担い手となりえたが、社会が停滞から運動へと変化する事によって、社会的にも知的にも農村の中に孤立して行ったし、12世紀を代表する修道会であるシトー会は、修道院付属の学校をそなえる事はなかった。 (211)これにたいして、11世紀以降…司教座聖堂付属学校が恒常的に運営されるようになったと思われる。なぜならこの時期以降、いくつかの司教座聖堂付参事会で、学監schorasticusの継続的なリストを作成する事ができるようになるからである。そして、12世紀中頃までにはすべての司教座聖堂が付属学校を持つ事になった。幾つかの学校は優れた教師を擁する事によって、単に司教区だけではなくかなり遠隔地からも学生をひきつけた…。 だが12世紀の教育・学校制度の整備を特徴付けるのは、フランス北部を中心に見られた現象であるが、「私学校」の登場である。これは、教会とのかかわりを持ちながらも自立性を持つ教師が開いた学校で、そこの教師は基本的に、教育を受けるものからの謝礼によって生計を営む。彼らは、勉強の後に彼ら自身も教師職に就くことを希望したもので、教会の機関に地位を得て教育活動につくという事が出来なかったので、自ら学校を開いたと考える事が出来よう。私学校の登場は知的活況、教育人口の膨張を端的に示す現象と言えるであろう。
これらの「私学校」の教師も学生も、基本的には教会的な性格を持ち続ける。と言うのは12世紀、学問或いは教育の領(212)域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者であるとする伝統的観念が西欧、とりわけパリでは広まっていたからである。… 「私学校」では主に自由学芸が教授されたが、それ以外の教科が教授される事もあった。いずれにせよ、伝統的な学校に比べて自由に、また学生の要求を受け入れながら教育が行なわれたのは「私学校」であるし、翻訳活動によってもたらされた新たな知識や弁証法、法学、医学など学生の関心をひきつける教科が中心的に教えられ、成功を収めたのも私学校であり、知的欲求・知的好奇心・理性の創造性への信頼といったものが大きな意味を与えられたのも私学校であった。しかし私学校での教育について伝統的教育関係者の仲には、既存の知的秩序に対する脅威と捉えるものもいたし、あるいは実用の学(法学、医学)の成功の中に、神に向かう学の衰退を懸念するものもいた。こうした不安、懸念を持つ人たちの存在にかかわらず、12世紀後半になっても私学校で教える教師、或いはそこに学ぶ学生、そして教職を希望する物の数は増加し続けたのである。[主に北フランス、パリで] 知的活況、新たな教育活動の展開の中で生じた教師及び教師志願者の増加は、既存の教育制度、教育裁治権のあり方に対しても変更を求める事になる。この問題に積極的に介入した最初の教皇はアレクサンデル3世である。12世紀、教育裁治権を掌握していたのは司教区の長であり、学監あるいは司教座聖堂参事会付文書局長cancellariusが司教から委託されてその権利を行使しており、彼らは、新たに教師として活動するもの=新たに学校を開く者に対して教授免許を交付する事によって、教育活動を監督していた。
 (213)アレクサンデル3世の施策は、教育人口の膨張と言う教育界が直面した状況の中で、教授免許制を整備し、教育の無償化を実現する事にあったといえるであろう。教皇は教授免許が売買されている事を「教育職の売買」と理解し、ガリアの司教宛の回状で教師適格者への教授免許無償交付を命じるとともに、第3ラテラノ公会議決議を持って法制化した。また、同じ公会議で、聖職者、貧困学生に無償で勉学の機会を得る事が出来るよう、各司教座聖堂に教師のための聖職禄の確保を義務付けた。 アレクサンデル3世は、観衆的であった各司教区ごとの教授免許授与権を普遍教会の名において権威付け、教えるものにはその免許が必要である事、教育が教会の管轄事項である事、そして更には、教育人口の膨張と言う状況にあって、教師適格者は無償で教授免許を得て教師として活動できる事を確認したのである。 

ローマの秩序4

三。中世盛期における都市と農村-ラティウム教皇国家の場合 ・集落間ネットワーク形成の2要因: …(143)中世盛期は都市と呼べるような集落が増加し、その一部がことに規模を拡大して上位に立ち、他の都市や農村との間に上下関係と機能分担を含むネットワークを作り出していく時期である。…こうしたネットワークが出来上がっていくには幾つもの要因が働いていたと考えられる。 一つは経済的次元での動向であり、在地的・地域的発展を基盤とする流通と密着しながら、紀元千年以降には、(144)地域間の商業が展開し、更には西欧を越える国際的商業と接合していく。…それと絡み合って、こうした広域的な商業と結びついてその結節点になった集落や、そこでことに需要の多い商品を生産する集落などが急速に規模を拡大する。他方には、主として在地的流通の中で需要を充足しうる多数の集落があったが、そうした場所も遠隔地商業とは無関係ではなかった。…凡そ至上税や流通税が貸されるほどの商業取引が行なわれる場所であれば、どのような集落でも遠隔地的流通と在地的流通とが絡み合って居ることが明らかにされてきている。ただ大きく見て、両者の比率が集落の規模によって異なり、相対的に大規模で都市と呼ばれうる集落では遠隔地商業が目立つのに対して、より小規模な集落は在地的ないし地域的な商業を主体としているのである。…[その形成にかかわる政治的要因について]中世都市が封建社会の中で正統的な位置づけを与えられている事は既に述べたが、それはとりもなおさず、都市と呼べるほどの重要な集落は、同時に有力者による支配の拠点であり、政治的中心地と言う資格を持つ場合が窮めて多いことを意味する。…特定の集落が都市に成長する過程は、同時にそれが属する地域の政治的編成と密接に関係しているのである。
この時期の支配体制は、在地的に多数の中小領域(145)的支配圏が族生した上で、それらが封建制度や君主的統治によって両方と呼ばれるより大規模な領域に纏められていくところに成立していた。そして、こうした大小の領域支配の中心地となった集落こそ、都市として成長していく可能性が大きかったというのである。 ・12世紀までの司教座集落とカストルム型集落の近似: ところで、ラティウムにおけるカストルム型集落のincastellamento移行の成り行き、ことにその都市と農村のネットワークへの編入[は]…地方を舞台とする教皇国家の形勢と言う枠の中で働いているのである。 …まず、最初に指摘しておかなければならないのは、incastellamentoが始まった10世紀のラティウムには、既に場合によっては都市と呼んでも良い一連の集落が存在していた事である。即ち、巨大都市ローマをいただきながら、その後背地として古くから司教座網が稠密であったから、ヴェローリ、アナーニ、アラトリ、ティヴォリ、リエティ、テラチーナといった司教座集落が根を下ろしていたのである。これらは総じて規模も小さく、12(146)盛期までの在地の発展に果たした役割は余り評価されていない。…これに対して農村部では、10世紀以来の活力の商店として、カストルム型集落が成長してきたのであり、停滞した司教座集落と比べてカストルム型集落間の競合のために不安定ながら、はるかに大きな発展性を内容していた。 12世紀までの司教座とカストルム型集落には、景観上も、経済活動上も、明確な対象は殆ど見られない。いずれも石造建築の集合であり、領主の住居は、カストルム型集落ではdomus major、司教座集落ではturrisとして同じく防備施設を兼ねていた。更に集落内部の中心的防備施設として、カストルム型集落ではroccaが、司教座集落ではcastellum civitatisが緊急時の避難場所となる。しばしば中世都市の指標とされてきた囲壁も、両者ともに備えて居るのである。
更に、経済活動を比較してみると、司教座においても囲壁内部の住居は尚まばらであって、菜園地も多く、かなりの程度に農耕が営まれていた。手工業者についても本質的相違はないという。職種だけを比較すれば、修道院の領主経済を反映したカストルム型集落の場合には、より多様と言えるほどなのである。…このようにみてくると incastellamentoが完成された時期のラティウムでは、司教座とカストルム型集落には本質的な相違がなく、…ここで重要なのは、としか農村化と言う二分法ではなく、新旧それぞれの集落が地域の関係網の中で果たした中心地としての役割である。正に、集村化を土台として生じた地域内部での都市機能の広い編成が、ここに見て取れるのである。 (147) 在地領主・修道院・教皇によるカストルム領域支配: この状況を出発点として領域支配が確立していくわけだが、…成長する集落は、その周辺に農地と未耕地を中心としたカストルム領域とでも呼びうるまとまりを生じさせ、領域ごとの境界が明確に確定されるようになってくる…すなわち、領域支配の根底には集村化によって成立した個々の集落が備える一円的な領域性が前提とされていた。 これらカストルム型集落の多くは、在地領主の手中にあった。ラティウムの史料がincastellamento以降のカストルム型集落の動向として最初に示してくれるのは、それらのかなりの者が、より大規模な支配を繰り広げて居る修道院の手中に吸収されていった過程である。この地方では、特にファルファとスビアーコという大修道院所有のカストルム型集落については、創設文書に加えて、年代記や文書集に伝来した寄進記録、教皇や皇帝による確認文書といった多様な史料での言及からそれらの変換を辿る事ができる。これらの修道院場自ら、或いは世俗人との契約によって多くのカストルム型集落を創出した事は言うまでも無い。
しかしこうした修道院史料の端々には、城を含む土地の寄進者やカストルム型集落建設の実行者として、またの地にはその支配圏を巡る紛争の相手方として、在地領主がしばしば登場している。後の時点で修道院領に数えられるカストルム型集落が、当初の創出は在地領主の活動に支えられていた事、しかしやがてそれは在地領主の手から離れ、修道院の支配下へ入っていくことがそれらの史料から明らかになるのである。そうした過程は、当初は臣従関係による事が多い。即ち在地領主が自由地として所有していたカストルム型集落を、自ら封臣となりつ封として請け戻すのである。しかし、在地領主の支配を吸収して所領の拡大と一円化をはかる修道院は、カストルム型集落を含む土地所有を得て、更に進んで、徴税権と裁判権など公権力起源の上級領主権の簒奪にも躊躇しなかった。修道院は、(148)単なる土地領主としての収入以外に、カストルム領主としての経済的基盤と、領域支配の梃子たる裁判権をも確保しえたのであった。 しかし、多くのカストルム型集落を支配下に収めていた大修道院も、12世紀以降次第に進む教皇国家の整備の中で、その体制の中に吸収されていく。… ・教皇国家確立と司教座集落の成長: (149)…カストルム型集落は、ラティウムが教皇国家として再編されていく過程では、重要なその支柱となっていったが、12世紀からは教皇国家確立の影響が、この時期まで特別の展開を見せていなかった司教座集落に活力を与える事になった。司教座網が教皇庁の活動拠点となっていき、教皇庁の巡回が制度的に行なわれるようになったのである。
…[司教座集落の成長について注目点]第一は、人口増加と都市内部の新たな街区区分regionesの制定である。集落内部に住居が密集し始め、市の比定に地理的な目印を必要とした事から街区区分が発展し、これが教区や租税の地区割りの基盤ともなっていく。第二は、多くの金融業者の存在とともに、これらが多様な貨幣流通の拠点となったことである。これには、緩慢ながらローマを中心とする地域の経済成長が存在した事が大きいが、同時に教皇国家確立には、新たに台頭した商人金融業者階層が教皇庁の官僚機構の一端を担って参与していた事も重要である。 このように、教皇国家の確立に応じて司教座集落が都市としての姿を整備してきたのに対して、在地の中心地として成長したカストルム型集落は、これとは対照的な途を辿る事になる。すなわち、人口増加傾向の中では、創出期に出来上がった閉鎖的な集落構造が硬直的な束縛となってきたのである。内部での家屋の高層化には限界があり、多くのカストルム型集落が停滞状況に陥って、一部は放棄される事態となってくる。このようにして、司教座とカストルム型集落とが、ともに都市的機能と農村的機能を持ちながら、本質的相違のないままに在地の中心地としての役割を分け持っていた11世紀とは全く異なった状況が生じた。それは、ローマを筆頭として司教座集落こそが都市であり、それらの連携が都市網を形成するのに対して、カストルム型集落は、多くがより会の中心地機能を示して居るとしても、ともかく都市網の下部に位置づけられているという、新たな都市と農村の関係な(50)のである。集村化の典型的な形態として、都市機能の地域的拡充に大きな役割を果たしたカストルム型集落は、教皇国家の拠点としての地位を獲得できなかったために、12,13世紀のより進んだ社会経済的事情の中では、村落としての位置にとどめられる事になったといえよう。

ローマの秩序3

chapter4 インカステラメント・集村化・都市 城戸照子   一。都市と農村を巡る視点の転換  (130)…中世を通じて多数を占めたのは中小都市なのであった。1300年ごろになっても、1万以上の人口を持つ定住地はヨーロッパ全体で50を数える程度だったという。これに対して人口千にも満たない中小都市が、それぞれの地域で重要な都市的機能を担っていた。こうした中小都市の中には半都市や市場地、農村都市や巨大村落といった曖昧な語で従来呼ばれてきた、多様な集落も含まれて居る。規模ではなく在地での機能に注目すると、こうした中小都市の重要性が浮き彫りになってくるのである。…(132)古典的中世都市像が一般的であった時期の南北類型論を、イタリア都市史の立場から代表しているのN。オットカールである。これは、アルプス以北の中世都市を準拠枠とした上で、主としてイタリア北部の大都市をモデルとして、イタリアの都市と農村に固有の政治的・社会的性格を浮き彫りにする試みであった。それによれば、と市が農村から峻別されていた北西ヨーロッパと比べて、イタリアの都市は、その「周辺農村領域(コンタード)との絆を維持し、その組織化と統治の中心」であり、事実上の都市国家を形成していた。都市内部には自由な市民だけでなく、周辺農村地域の封建貴族や騎士も居住している。しかもと私法は、都市のみならず、農村を含む全領域に適用されたと言う。従って、北西ヨーロッパ派の自由と自治の牙城としての都市に対し、イタリアの都市はそのものが封建社会を構成しており、ここには完全な中世都市は育成されなかったと捉えられているのである。
…北西ヨーロッパを基準とするこうした南北類型論は、古典的中世都市像を基盤としていた以上、都市史と農村史(133)の研究の新たな展開にともない、再検討を余儀なくされた。その動向の一つが南の更新性を前提として両者の相違を対置することなく、相違を寧ろ両地域に共通する動態の発現形態の個性として捉え、そこに南北類型論を相対化しようとする試みである。…   二。Incastellamentoと集村化 ・平地から高地へ・散居から集住へ(136) ・incastellamentoモデル: ローマの後背地ラティウム地方の9-12世紀についての重厚な個別研究で、防備集落の誕生と、それを構造の基礎単位とした教皇国家の再編成を描き出し…たのがp。トゥベールであった。ラティウム地方の防備集落castrumの創設・統廃合・衰退を描き出したトゥベールは、カストルム創設を中心に展開された集村化の運動を、incastellamentoの語で呼んだ。この地方では既に10世紀から始まるインカステラメントでは、在地領主のイニシアティブにより、高地に築かれた小規模な城を核として、従来の散在の定住地とは全く断絶した囲壁を持つ集住形態が一気に創出された。これに伴って周辺に広がる多様な種目の農地の再編も行なわれる。この定住運動は集落の統廃合を繰り返しながらも11,12世紀に開花を遂げて、ラティ(137)ウム地方ではカストルム型集落の定住地が圧倒的多数を占めるようになる。そして、13-15世紀には統廃合の第2波を経験しながらも、尚主要な集落形態たる地位を保っていたというのである。 カストルム型集落の創設に際しては領主間で、或いは領主ー農民間で契約が交わされており、数は少ないもののカストルム創設文書として伝来している。土地を提供する教会領主と実際の定住活動を請け負う世俗領主間で結ばれた契約ではその主たる関心は、共同領主権における利益の折半の規定にある。これに対し、両種と農民集団の間で交わされた契約は、付加規定に加えて、家屋敷地から菜園地・ブドウ畑・耕地に至るまでカストルム型集落内部の敷地の割り当てを細かに規定した内容も含んでおり、内部の集落プランも明らかにしてくれる。
トゥベールが詳細に描き出したところによれば、集住地は城を中心に、それを囲みながら下降する様配置された農民家屋によって構成され、この家屋は細い道や勾配の急な階段を間にはさみつつしばしば相互に接合していた。家屋は全体が一つになってあたかもドームのように山頂を覆っており、時にはそのもっとも外側の家屋の壁が囲壁の役割を果たす事もあった。囲壁外に広がる領域は耕地と未耕地に大別される。未耕地は主として、放牧地と疎林からなり、カストルム領域を画する境界まで広がっている。耕地は居住地に近いほうから、耕区種目ごとにまとまって、ソ菜園・果樹栽培地→冬穀・マメ栽培地(もしくは麻畑)→ブドウ栽培地(もしくは粗放的耕作地)→採草地と、必要とされる労働の質と量に応じて効率的経営が可能なように配置されて居る。各農民は、耕区内に自分の地条を保有し、地条への入り口も個別になって居るので、耕区内外の農道は複雑になっている。こうした農道の地割や石灰質土壌からの湧出水を利用した灌漑施設の維持と管理は、共同体による運営下に置かれていた。このように形成されたカストルム領域は、司教座都市領域とともにラティウム地方のまとまりを作り上げる基礎単位となっており、貨幣流通・物流・人の移動で相互に結ばれているという。 …incastellamentoは10-13世紀における防備集落の形成と集(138)村化を広く意味するようになった。もとよりincastellamentoにはcastrumの語が含まれており、集村化の中でも特に、城を核とする防備集落の形勢を指して居る。… ・イタリア中部とフランス南部・西部のincastellamento: イタリア中部とフランス南部から西部は、中世盛期の定住形態の変化においてはincastellamentoがほぼ準拠枠として妥当し、城は集村化に向かう活力の重要な収斂点である事が確認された。イタリア中部では、ラティウムに近接したカンパーニャのモンテ・カシノ修道院領で10世紀中葉以降,2波にわたるincastellamentoがみられという。しかし、ほかに囲壁のない集落やモンテ・カシノ修道院の分院集落もあり、カストルム型集落以外の形態と並存している事も明らかになっている。…(140) …いずれの地域でも、ラティウムでみられるような10世紀と言う早い時期からの集村化は経験してはおらず、おおよそ紀元千年以降、11世紀後半から12世紀以降からの変動と考えられている。
集村化の際も、カストルム型集落が唯一の形態ではなく、また集村化を遂げた集落の間に、散在居住も尚存続しているのが確認されている。しかしながら、少なくとも領主が何らかのイニシアティブを取って、中世盛期に向けて散在から集住へ定住形態が再編されたという集村化の基本線が共通しているのは確認される。しかも集村化の際に、城の定住地形成力が程度の差こそあれ大きな影響力を持っていたことも明らかである。地域によって多様な発現形態を持つにせよ、イタリア中部及びフランス南部から西部では、中世盛期に向かう定住動態の基本的な傾向はincastellamentoであるといえよう。 ・イタリア南部とイベリア半島での部分的インカステラメント: これに対してイタリア南部とイベリア半島では、中世初期の政治的枠組みの複雑さも影響して、集村化の程度と集落形態に関してかなり異なる様相を見せて居る。イタリア南部は、11世紀にビザンツ支配からノルマン支配へと移行し、城と定住形態の変容にもこの政治的枠組みの激変が大きく影響した。ビザンツ支配下でcho^rionと呼ばれる農村定住地は、既にかなり高い度合いで集住していたという。ただし防備されるのは都市的集落のみであったため、農村定住地は囲壁を持たなかった。その後、ノルマン勢力の確立に伴う定住形態の変化の中で、先行するビザンツ期の農村集落に新たに囲壁が付加され防備集落となることがある。また、12世紀の政治的混乱(141)の中で、両種の軍事的・政治的拠点として新たに建設された城を中心に定住地が形成される場合には、確かに一部に防備集落が見られ、農地構造再編への寄与は不明としても、兎も角一部でincastellamentoがあったといえよう。しかし集村化の動きはビザンツ期に既に見られたためノルマン勢力とともに導入されたカストルム型集落の建設が、集村化を代表する動向とはいえない。…

ローマの秩序2

三。教会の多様化   ・教会改革運動の広がり: 11世紀以降、西ヨーロッパの教会には様々な形で、改革・革新が見られた。…西ヨーロッパ社会にも再び商業、都市生活が復活してきた。教会もまた、時代の要請に応えていく事によって変化するのである。… 当時、聖俗を問わず、キリスト教徒としてあるべき姿を求めて、原始キリスト教にもどろうとする動きがあった。一つの動きは、世俗を捨てて、孤独な清貧生活の中に、自己の完徳と救霊を達成しようとする隠修士的な生活を目指す動きである。…11世紀の北イタリアにおいて、ラヴェンナのロムアルドゥスはフォンテ・アヴェラーナとカマルドリに隠修士のグループを残した。カマルドリでは一定期間のみ教会に集まった。フィレンツェのヨハンネス・グアルベルトゥスは、カマルドリから、さらにきび(62)しい戒律を持つグループをヴァロンブローサに残した。 ・革新的修道会: 当時の修道院は、クリュニーをはじめとして、人々の救済のために荘厳な儀式の中で祈祷を行う事に多くの時間を割き、来客や巡礼者を受け入れたり、寄進された土地を運営したりしていた。人々の代わりに祈る祈祷など、このような活動は、教会人として堕落したものだったわけではない。しかし、壮麗な祭式に重点を置いたその業務のために、清貧にして「祈り働く」ベネディクトゥス快速にのっとった生活をして居るとはいえなかった。このような修道院に対する不満から、隠修士的な生活を求めたり、よりベネディクトゥス会則に厳格であろうとしたりする動きが生じたのである。 
その動きの中で、最も大きく発展したのがシトー会である。1098年、シトー会はブルゴーニュの沼沢地シトーの一修道院に生まれた。シトー会は聖堂、小作地、地代などを受け入れる事を拒否し、隠修士のように荒地に住処を求めた。そこで彼らは、祈祷に当てる時間を最小限に押さえ、みずから労働に携わった。…シトー会は、従来のベネディクト修道士が黒衣をまとったのに対し、白い修道衣をまとい、単にベネディクトゥスへの回帰を目指しただけでなく、新しい修道生活を作り出す事を目指した。そして1121年、教皇インノケンティウス2世によって、最初の正式な修道会として承認された。… ・説教者の動き: 隠修士的名厳しい禁欲生活を求める動きは、他にも新しい修道会を生み出したり修道院の改革を進める事になった。その主導者となったのは、しばしば、孤独な生活をするだけでなく、各地を回って人々に説教をして(64)まわった隠修士たちである。彼らは福音書の精神に従って、自ら贖罪のため苦行と禁欲の日々を実践しており、そのカリスマ性ゆえに人々を魅了した。… もっともこのような隠修士たちは、教皇の許可を得ないままに説教をし、しばしば既存の聖職者を非難したために「孤独な生活は悪魔の誘いを受け易く、放縦になりがちである」として、彼らもまた非難の対象となった。隠修士たちは、一方で聖職者の倫理的な面での改革に清し、人々に福音の教えを広めながら、一方で教階制度を整備していく教会の発展には相容れぬものを持っていた。…カリスマ性を持つ指導者が姿を消すと、このような隠修士によって指導された集団・修道院は力を失い、伝統的なベネディクト修道院内のグループに戻る事になった。 ・聖堂参事会運動: 隠修士的な動きが一面で教会の指導者の非難の的になったのに対し、当時の教会から推奨されたのは、私有財産を捨て共住する事であった。
とりわけ、この共住生活への運動は、聖堂参事会運動として、この時期大いなる盛り上がりを見せた。… 従来、原則的に聖職者は2つに大別された。即ち、教区にあって司牧に当たる在俗聖職者と、ベネディクトゥス会則に従って祈りに捧げる禁欲的生活を送る修道士である。このうち、在俗聖職者は共住生活を送らねばならないわけではなかったが、…誓願を立てないにせよ、共同生活と財産の共有を原則とする聖堂参事会員が生まれていた。 この聖堂参事会員は半ば修道士的であり、律修聖職者とされたが、実際には参事会員の独立生活や私財所有は認められており、その生活には問題が生じていた。ウルバヌス2世は、聖職者の間に修道士的な共同生活が浸透することを奨励したが、聖堂参事会員には修道士とは異なる司牧の使命を認め、修道士と聖堂参事会員を明確に区分した。従来の修道院が免属の問題を巡って司教としばしば対立していたのに加え、新たな修道会は荒野に巨を求め、富のみならず司牧の責任を回避した。そのため、司牧にあたる聖職者の改革は、都市にあって半ば修道士的な生活をしながら、司教の監督権の元にある律修聖職者たる聖堂参事会員に求められたのである。このことは、各地の司教権を強化、安定させる事によって教会の体制を整備する目的を持っていた。…(66)12世紀前半における聖アウグスティヌス修道参事会を初めとする律修聖職者の隆盛振りは、ホノリウス2世からハドリアヌス4世にいたる35年間に登位した教皇7名のうち5名までが、律修聖職者出身であった事からもうかがえる。 ・「多様なれど敵対せず」: 更に、十字軍をきっかけとしてこの時代は新しいタイプとして騎士修道会を生み出した。聖地への巡礼を保護し、十字軍の中核となったテンプル騎士修道会や聖ヨハネ騎士修道会は、騎士たちに「戦いながらキリストに仕える」と言う目標を与えた。


騎士修道会は、聖地で活動するだけでなくヨーロッパにおいても募兵、(67)募金のため、或いは疾病、老齢の騎士を収容するための施設を各地に作り上げた。網の目のようにめぐらされた騎士修道会の組織は、聖俗の諸侯がうらやむ組織力を誇るようになる。このような騎士修道会は、聖地の十字軍活動が衰退した後も、ドイツ、或いはスペインといった辺境地域において活動を続ける事になる。 このように、11世紀後半から12世紀前半の時期は、教会の制度が様々なニーズ、運動の高まりの中で多様化する。12世紀半ばに『教会の中に存在する様々な身分や職業についての書』がかかれたことは、これを象徴的に示して居る。嘗てベネディクト会則のもと一枚岩を誇った修道院にも明確な修道会がとうじょうし、ひとつではなくなった。もっとも厳しい禁欲的、観想的カルトゥジオ会から半俗半修道士的な性格を持ち、参事会改革運動を担ったアウグスティヌス修道参事会まで、更に武器を持って神に奉仕する騎士修道会まで、その活動の場も様々である…。それぞれが固有の使命を持ち全体として調和を持つ「多様なれど、敵対せず」がうたい文句の時代であった。来る13世紀はその多様な性格を統一する力が強く働く時代となるのである。

ローマの秩序1

1. ローマ・カトリック秩序の確立 山辺規子 ・枢機卿団の形成(55): 枢機卿は、この時期の教会改革によって、単なるローマ近郊の聖職者から、普遍的な教会の指導者へと脱皮した。 元々枢機卿が置かれたのは、純粋に典礼のためだった。ローマ近郊の教区司教である7人の「司教枢機卿」が、教皇の主聖堂たるラテラノ聖堂において週番で祷務にあたったのが、その始まりであるとされている。一方、枢機卿と言う名称は、ローマ市内の所謂「名義聖堂」の司祭にも当て嵌められた。この時代には、名義聖堂は28を数えた。この名義聖堂の司祭たちは7名一組になって、ローマ市内の4つのバシリカでやはり週番で祷務に服した。この名義聖堂の司祭が、「司祭枢機卿」である。 …11世紀半ばの教会改革によって、枢機卿の役割は教皇の典礼の補佐から大きく広がる。…(カット)。 ・枢機卿の任務: (57) 枢機卿の第一の任務は、教皇を選出することである。これは、1059年の「教皇選出規定」によって、枢機卿にのみ認められた権限である。… 枢機卿はまた、広範囲に広がった教皇の職務の補佐役として活躍する。彼らの働きは、教書、つまり教皇の文書の副署にうかがえる。11世紀後半以降、教書が正式の者である事を明らかにする為に、多くの枢機卿が自ら署名をしていた。その数は、12世紀にはいって目だって増加した。それにつれて、枢機卿の副署は、教書に欠くべからざるものとなった。枢機卿は、国王の破門、司教選出問題、主座大司教の管轄権問題、聖人の列聖等の信仰、教義に関わる問題など、教皇が取り扱わねばならない重要な問題について助言を求められた。嘗ては四旬節会議などで取り扱われていた問題が、枢機卿団に委ねられるようになったのである。
とりわけ、最高権威による最下を求める訴えを処理する仕事はこのころ急増しており、枢機卿は教皇とともに司法の職務に携わった。このため、枢機卿となる為には、経験でしか模倣的な教養、敬虔がある事が求められるようになった。…(58)枢機卿は教皇特使としても、教皇が直接訪問する事が出来なかったり、長く滞在することが駅無い所で、ローマ教会の威信を高めた。また、シスマや教皇と皇帝との対立があるときは、教皇特使の各国での働きが大きな意味を持ったりした。元々教皇特使の制度は改革教皇庁によって多く用いられたのだが、枢機卿団が形成されるにつれて、重要な特使の任務は先ず枢機卿が担う事になった。 確かに、実際には枢機卿間に意見の不一致があったりした為に、却って教皇の指針が決まらなくなり、適切な処理が出来なくなった事もある。しかし、世襲される世俗の君主に比べ、一般に教皇は高齢になってから登位し長く在位する事が期待できないので、枢機卿段と言う集団指導体制は教皇庁の安定化に役立った。そして、必ずとはいえないが通常枢機卿の中から教皇が選出されるため、ローマ教会を指導する経験を積んだ人物が教皇となることも、円滑で継続的な教会統治体制を作り上げる事につながったのである。 ・教皇庁事務機構の発達: 教皇庁の機能を高めたのは枢機卿団ばかりではない。改革教皇庁は、長い間手付かずの状態にあって、十分に機能していなかった事務機構にも改革のメスを入れた。1100年ごろ、新しい2本の柱が出来た。教書を取り扱う尚書官chancellariusと財務担当の財務官camerariusである。 ・尚書官: 元々文書作成法でよく知られた人物だったガエタのヨハネスが、1089年に尚書官となることで、教皇の文書再編が始まった。20年にわたって尚書官の職にあったヨハネスは、教書の形式を整え、新しい字体を取り入れた。
教皇庁は、各地から受け取った文書のみならず、自らが発した文書の写しをも保管するという当時と(59)しては画期的な文書保管体制を取った。これは、個々の教書は必ずしも公表されるわけではないが、教皇の意志の表れとして援用され、教会法の中に取り入れられていく可能性を持っていたからである。尚書官が統括する小書院は、組織として何時誕生したかは明確ではない。しかし、12世紀末にはその名称が文書に登場し、13世紀には教皇庁の中で独立した部局として法的にも確立する事になる。 教書を取り扱う尚書官は、その性格上、常に教皇と行動を共にしており、教皇に最も近い助言者でもあった。その役割はきわめて重要であり、教皇に次ぐものとさえ言われた。そのため、尚書官となるのは例外なく枢機卿であった。また…尚書官から教皇への道を歩んだものを数える事ができる。…尚書官は、教皇にならなければ死ぬまでその職にあり、教皇庁の業務の継続性を高める役割も果たした。ただ、余りにも力を持った尚書官は教皇を脅かす存在となったため、12世紀後半には尚書官がいなかった事もあり、尚書院も枢機卿では無い副尚書官が統括するようになった。 ・財務官: もう一つの柱の財務官も、尚書官とほぼ同じ時期のウルバヌス2世時代に登場する。中世前期の財務関係官としては収入担当のarcarius、支出担当のsacellarius、保管担当のvestarasiusがあったが、十分に機能していなかった。… (60) 12世紀にはいると、財務官の働きを記述資料によっても確認できるようになる。

…ところで、教皇庁の財務と言う仕事は複雑である。教皇が安定した政治状況でローマに居ることが出来れば、ローマの教会への献金や所謂教皇領からの収入をも徴収する事もできた。しかし、現実には皇帝との争いやシスマのために各地を転々としなければならないことも多かったから、しばしば収入源を失う一方、多くの経費を必要とした。そのたびに、各地の聖俗諸侯に臨時の献金を求める事にもなる。また、本来、教皇に納められるべきものでも、政治情勢の変化で全く収められない場合もあった。そのため教皇に納められるべきものをはっきりさせる作業が、既に1080年代から何度か進められたが、1192年に財務官チェンチオ・サヴェッリ(後の教皇ホノリウス3世)は、上納金帳を作成し、この点を明らかにした。この上納金帳の中には実際には納入されえないものもあるが、体系だった記録は財務に欠かせないものであり、財務の基礎となる資料が作成されたという事は、財務局の発展を示すといえよう。 このようにウルバヌス2世以降、教皇庁は組織化の傾向を強めていった。教皇や枢機卿にはなすべき教会統治の仕事が山積し、彼らが典礼、祷務をなす余裕がなくなってきたために典礼、祷務の専門機関として教皇令は移動が出現するが、礼拝堂に属する聖職者もまた初期として活動する事になる。この傾向は、11世紀後半の情熱的な霊的指導者として教会をリードした教会改革者、なかんづくグレゴリウス7世の時代とは際立った違いを見せている。教皇庁が組織化していくことは、教会の本来のあり方からの逸脱として非難される事になる。たとえば、1(61)2世紀の『銀のマルクによる福音書』などで、風刺の対象ともなる。取り分け、財務官への風当たりは強かった。しかし、グレゴリウスが目指したローマ教会の主権の確立のためには、制度的裏づけが必要である。
その作業に当たったのが、アレクサンデル3世に代表される法的教養をつんだ実務肌の教皇たちであった。山積する訴訟の仕事を前にして、枢機卿団の協力の元に実務に携われる事が、教皇としての条件となっていた。その基盤の上に、中世キリスト教会でその絶頂を極めたといわれるインノケンティウス3世が登場する事になるのである。 

成長と飽和14

 ・フランス: 11世紀のフランスは、政治権力の極端な細分化を見た。まず王国は事実上幾つかの半独立的領邦に分裂して(41)いた。その領邦のうち、ノルマンディーやフランドルは領邦君主が強力で集権的に組織されていたが、殆どはルーズなまとまりのものに過ぎず、支配権力は更に多数のバン領主支配圏へ分散していた。
そして領邦であれバン領主支配圏であれ、その範囲を明示できるような領域的性格を持たず、恒常的な影響力の及ばない辺境をその周囲に伴っていた。 王位は987年からカペー家の手にあった。この家の先祖は嘗てはフランス侯としてロワール以北全体に影響力を持っていたが、11世紀後半にはその勢力圏(カペー領邦)は、ほぼサンリス、パリ、エタンプ、オルレアン地方に限定されていた。領邦諸侯達が王に伺候することすら稀であり、特に南フランスの諸侯は殆ど王と接触を持たなかった。当時の王権にとって最大の課題は、先ず自らの領邦における城主層の制圧であった。 12世紀に入ると、王権はパリを中心とした領邦の統合と拡大を進める一方で、全王国への封建的総主権の主張を打ち出した。当時、経済成長の影響下に、北フランスの諸領邦でも次第に集権化が進んでいたが、その際、領邦諸侯が領主達の統合に活用したのは封建的主従制であった。このことはカペー王権による諸侯達への封主権主張に有利に作用した。またプランタジネット家による「アンジュー帝国」の形成は、結果的に王国東部の諸侯達がカペー家の下に結集する事を促した。こうして12世紀を通じて、王権の威信は徐々に向上したのである。 13世紀初め、フィリップ・オーギュストはプランタジネット朝のジョン欠地王と争い、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジューを征服した。ジョンはドイツ皇帝と結んで反撃を企てたが、フィリップは1214年に両者の連合軍をブーヴィーヌの戦いで撃破した。
続くルイ8世は更にプランタジネット朝からポワトゥーを奪った。次のルイ9世(聖ルイ)はプランタジネット朝と協定を結び、後者が南西部に残ったギュイエンヌ地域をフランス王からの封として領有する事を認めたが、王権はその後もこの領邦の蚕食を続ける。またルイ8世はアルビジョワ十字軍の征服地の献呈を受けて、地中海沿岸に進出し、聖ルイの時代にはトゥールーズ・ラングドック地方全(42)域がカペー家の支配に組み込まれた。このほか王権は、婚姻や買収を通じて次々に新しい所領を入手した。 王権は広大な直轄支配圏を多数の管区に分け、バイイやセネシャルと呼ばれる有給官僚を派遣して、裁判、王領の管理、封臣の統率に当たらせた。また中央行政では、嘗ての王宮や国王会議から、文書、司法、財政についてより専門性の高い部局が分化して行った。しかし王権の力を過大に見積もるべきではない。多くの地域が尚バン領主の完結的な領域支配圏の下にあり、国王の支配は封主として彼らを統制する事に留まっていた。また国王は所領の入手につとめる一方で、しばしば親王たちにこれを割譲して王族領邦(アパナージュ)を作った。このようにして富裕で忠実な大封臣団を形成する事は、国王の望みでもあったし、地域の政治的まとまりの保持を願う住民感情にも適合的であった。こうして王国の組織においては尚、封建的主従関係が支配的な役割を果たしていたという事が出来る。 それでも13世紀を通じて、西欧世界におけるフランス王権の重要性は増大し続けた。世紀後半では、聖ルイという人格により、高い道徳的威信が加えられた。こうしてフランス王権は皇帝権に代わって西欧の政治的主導権を握るに至ったのである。
 ・ドイツ:(42) ドイツ、イタリアの両王国は10世紀に神聖ローマ帝国を構成しており、11世紀にはブルグントがこれに加わった。ドイツはこの帝国の中心であり、その王がローマに赴いて帝冠を戴くのが慣わしであった。10世紀から11世紀にかけて、ザクセン、ザーリア朝の諸帝は西欧でもっとも強力な君主であった。彼らは貴族勢力がまだ領域的権力に成長していない時代に、教会組織を王権のために活用する帝国教会政策によって、強力なヘゲモニーを発揮する事に成功したのである。 (43)しかし11世紀の後半となると、貴族支配の発展と共に、彼らと王権との緊張が高まってきた。また当時の教皇庁の教会改革運動は、ついには帝国教会政策に対立するものとなった。この対立の過程で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に許しをこうたカノッサの屈辱と言われる事件も生じた(1077年)。ハインリヒ4世、5世は50年近く教皇権に圧力をかけ続けたが、これと提携するドイツ貴族の反抗に苦しみ、ついに1122年、ヴォルムス協約で妥協した。長い内乱のうちに帝国教会制は解体し、また貴族の領域的支配圏の形成が進んだ。諸侯達は12世紀前半の二度の国王選挙に際しては、意図的に強力な世襲王権の形成を阻んだ。 1152年に帝位に着いたシュタウフェン家のフリードリヒ1世・バルバロッサは、こうした状況を前提として皇帝権力の再建を図った。まず諸侯勢力を圧倒するだけの強固な直轄支配圏の建設が彼の目標となった。北イタリアでの皇帝の諸権利(レガリア)回復の要求は教皇と都市勢力の抵抗を受け、長期にわたった抗争の末に妥協を余儀なくされた。
しかしドイツ国内でのヴェルフェン家のハインリヒ獅子侯との争いはフリードリヒの完全な勝利に終わる。彼は1180年の諸公会議でハインリヒからザクセンとバイエルンの大公権を剥奪し、これを他の諸侯に分割授封した。こうして彼は最大のライヴァルを退けて威信を高め、聖俗諸侯を封建的主従制によって統制する事に成功したのである。 フリードリヒの息子ハインリヒ6世は結婚によって両シチリア王国を入手した(1194年)。彼の死後、ドイツではシュタウフェン家とヴェルフェン家との帝位争いが再燃し、しかもこれに教皇やフランス王が介入して混乱を深めた。帝位は結局ハインリヒの息子フリードリヒ2世に戻った。しかしフリードリヒはシチリアに居住してここの統治に精力を注ぎ、ドイツ統治は息子であるハインリヒ7世、ついでコンラート4世に委ねた。ここでは諸侯が領邦支配の強化、上位権力の介入の制度的排除を目指していたが、国王達はこれに対し譲歩を繰り返したのである。 (44)1254年のコンラート4世の死で、ドイツのシュタウフェン朝は断絶した。最早王国の強固な統合は不可能となっていたが、それに代わるべき各領邦国家はまだ未成熟であった。その結果は政治的カオスであり、20年近くにわたる大空位時代の後は、一代ごとに王朝がかわる跳躍選挙の時代が70年余り続く。しかしこうした政治的混乱にもかかわらず、ドイツ人は着々とエルベ・ザーレ以東に発展していた。
12世紀には西スラヴ族の居住地であったメクレンブルク、ブランデンブルク、ポンメルンがドイツ王国の支配に入った。バルト沿岸ではドイツ騎士修道会が13世紀中にプロイセン、クールラント、リヴラントを征服して、ドイツ人農民、市民を定住させていたが、このほかにも土着の諸侯の招きに応じて、ポーランド、ボヘミア、ハンガリーに多数のドイツ人コロニーが生まれたのである。 ・イタリア: 北イタリアと中部イタリアはイタリア王国を形成しており、王位はドイツ王が兼有していた。しか始祖の権威は次第に名目的なものに過ぎなくなっていった。 まず北、中部イタリアでは、多数の自治都市が形成されていた。10世紀に都市の行政を掌握していたのは司教であったが、都市在住の戦士と商人たちは11世紀から12世紀初めにこの権力をほぼ奪ってしまう。彼等はコムーネと呼ばれる団体を結成し、またコンソレという代表を立てて自治を行なうようになったのである。 これらの都市はフリードリヒ・バルバロッサのレガリア(本来王権に属していたと看做される諸権限)回復の要求に対抗してヴェローナ都市同盟やロンバルディア都市同盟を結成し、1176年、レニャーノの戦いで皇帝軍を破った。そこでバルバロッサは1183年のコンスタンツの和で名目的宗主権のみを留保して、諸都市の自治を承認した。13世紀の前半、フリードリヒ2世と教皇権が争ったときには、諸都市は皇帝派(ギベリン)と教皇派(45)(ゲルフィ)に分かれて相互に戦った。 12,13世紀の諸都市は「伯管区(コンタード)」と呼ばれた周辺農村部を征服して、次第に領域を持った都市国家に成長していった。これにより都市民上層部には多くの戦士的領主層が加わる事になったが、彼等はしばしば党派に分かれて、武力抗争を行なった。
これを調停するために、12世紀末から外部の貴族を雇ってポデスタと言う役職に任じ、軍事、司法権を委ねる制度が生まれた。しかし13世紀には居ると、商工業者(ポポロ)がより大きな力を持つようになり、彼らを代表するカピターノ・デル・ポポロの権威が高まっていった。 中部イタリアにはローマを中心とする教皇領があった。これは11,12世紀を通じて都市国家と領主支配圏の緩やかな寄せ集めに過ぎなかったが、13世紀初めのインノケンティウス3世の時代には一定の行政組織が形成された。13世紀の前半はシュタウフェン朝の勢力に悩まされたが、世紀後半にはフランスのアンジュー家の支援を受け、教皇の支配は安定していた。 南イタリアは1000年ごろ,旧ランゴバルド王国系の諸侯とビザンツ帝国の勢力が入り乱れ、更にシチリア島はイスラムの支配下にあった。ここにノルマンディーから騎士たちが渡来し、傭兵として活動した。このうちタンクレディ家の一族はこの地域の支配者にのし上がり、シチリアを征服したルッジェロの息子ルッジェロ2世は1130年にパレルモで戴冠して両シチリア王国を創設した。ここでは西欧で最も進んだ行政組織が見られ、君主の力は強大であった。またパレルモの宮廷は、当時の西欧にあっては例外的に、イスラム、ビザンツの文化が西欧のそれと並存する場所となった。 1194年にこの王国の支配圏はドイツのシュタウフェン朝の握るところと成った。13世紀前半に皇帝フリードリヒ2世が教皇と対立すると、彼は南北から教皇を圧迫した。
フリードリヒの死後庶子マンフレディがあとを継ぐと、教皇はフランスの親王シャルル・ダンジューに両シチリア王位を提供して、マンフレディを討たせた。シャル(45)ルはこの王国を足がかりにビザンツを征服し、地中海に覇権を打ち立てることを夢見たが、1282年のシチリアの反乱によってこの島を失い、計画は挫折した。王国はシチリアとナポリに分裂し、シチリアはアラゴン王家の支流が掌握するところとなった。

成長と飽和13

九。諸王国の政治的発展   ・王の血統カリスマと政治的責務: ここではまず、諸王国に一般的な政治構造の問題から考えてみたい。まず中世の人々には上層から民衆に至るまで、呪術的思考の傾向が強い。因みにここで呪術的思考というのは、特定の人間、行為、事物の中に超自然的な力を認める事を意味している。このことは中世の国王支配にも大きなかかわりを持っているのである。 元々彼らにとって王とは、天与の超自然的な力(カリスマ)の持ち主であった。このカリスマは、異教時代には王が神々の血を引いている事に由来すると看做されていた。またその力の機能は戦いを勝利に導く事や、(36)豊かな実りを大地にもたらす事であると考えられていた。このような考え方はキリスト教改宗後も長く存続した。たとえば1081年に皇帝ハインリヒ4世がルッカに赴いたとき、農民達は争って皇帝の衣服に触れようとしたという。彼等はそれによって豊かな実りを得ようとしたのである。そして、こうした力は血統によって伝わるのであるから、「正しい」血統の王を立てることは何よりも重要であると考えられたのである。
 これに対し、異教の神々を否定するキリスト教会の立場よりすれば、王とは唯一神に選ばれ、民の統治を委託された者ということになる。これを表現する儀式が、古代ヘブライの伝統を引く塗油式であって、西欧では西ゴート王国に始まり、751年にフランク王国に導入された。言うまでもなく宮宰ピピンがメロヴィング朝から王位を奪ったときである。この論理を突き詰めるならば、血統は価値を失い、神の選びを判別する手段としての選挙王政に行き着くはずである。 しかし現実には教会人もまた、血統主義にとらわれていた。…王のカリスマについての観念にも古いものと新しいものが並存している。武運や豊饒をもたらす機能についての観念は長く残っていたが正統信仰は、それをあくまでも神の恩寵の現れとして解釈した。またフランスおよびイングランドの王に特有の能力として宣伝された「るいれき治癒力」は、血統によるカリスマという点では古い特質を備えているが、奇跡による治癒と言う点では、聖書や聖人伝の影響を強く受けていると思われる。 他方で理論化された政治思想のレベルでは、王はキリスト教世界に相応しい正義と平和を実現する責務を負(37)った存在であった。とりわけ寡婦、孤児、貧者、旅人といった社会的弱者と教会を保護する任務が彼にかされた。 また統治に際しては一定の規範を守るべきものとされた。先ず彼は絶えず人民の代表者と協議し、その助言に基づいて統治しなければならない。ちなみにここで人民の代表者と目されているのは一般的には高位聖職者、大貴族などである。また彼は古くからの秩序を尊重しなければならない。一般に古くから行われている事は正当な事であると推定され、新しく持ち込まれる事は不正な事とみなされた。
・国家統合の諸条件: 国王が現実に国家統合を進めるに際して、貴族たちによる地域支配は最大の問題となる。貴族階級は、一般にその権力の最終的正統性を王権からの委任においていた。それゆえ国王は封建制度における主君、或いは神に選ばれた至高の宗主とみなされていた。国王を核とする貴族連合体制の実現は、国王ばかりでなく貴族たちによっても希求されたところであった。 しかし同時に、国王と個別の貴族或いは貴族の集団との間には、相互の権限を巡ってある種の軋轢が存在していた。多くの場合、王権は権力の集中を進めて貴族の領主権を統制しようと努め、貴族たちはこうした介入を排除して完結的な支配を打ちたてようとした。こうした軋轢は、しばしば武力衝突にまで発展した。そしてその際には抵抗権の論理が持ち出された。不正な主君は主君ではないし、暴君は王とは認められないというのである。 国王が貴族権力を統制するためには、幾つかの条件が必要とされる。一つには国王の直轄支配を拡充し、そこから引き出される経済力や軍事力で貴族たちを威圧することである。また教会人、都市民など、貴族にある程度対抗できる階級の支持をとりつけることも重要である。その上、貴族の多数を反対派に追いやらないような政治的技量も問題になる。 次に国王や大領主が統治のために用いる事ができた現実的な諸手段が、中世盛期においてどのように変化したかを概観する。

先ず財政についてであるが、13世紀までの王権にとって、全国的課税と言う財政手段は例外的であった。王は基本的に自らの所領収入で統治を賄わねばならなかった。しかしこの所領収入に関しても、11世紀までと12世紀以降とではかなりの変化が認められる。即ち11世紀までの時代においては国王や大領主の所領は極めて広大ではあったが、森林、荒地などを多く含み、開発の拠点は分散していた。しかしその後の農業生産の増大と人口成長、流通経済の活発化によって、彼等の経済力は抽象領主のそれとは質的に異なる展開を遂げた。即ちその所領は新たに多くの開墾を受け、各拠点は商工業の核となり、商品流通から得られる税収も飛躍的に増大した。 また軍事に関して言えば、伝統的封建軍役は、動員できる人数、日数、行動範囲に制限があった。12世紀以降、国王や大領主はその経済力に依拠して、傭兵を多く活用するようになった。これにより、彼等の封建家臣に対する立場は強まった。 第三に官僚機構の問題が挙げられる。11,12世紀までの時代に国王や大領主が地方に配置したのは給地官僚、もしくは官僚の代用物としての高位聖職者であった。このうち給地官僚は委託された権限と割り当てられた所領を世襲化する傾向があり、多くは封臣と大差ないものになってしまった。また高位聖職者は11世紀後半からの教会改革の動きの中で、次第に世俗支配者との関係を切り捨てていった。これに対し12,13世紀からは俗人の現金給与官僚が現れる。彼等は一般的に言って、前の二つのタイプよりもはるかに忠実で、職務に専念する傾向があった。これを実現した要因としては、一つには現金給与を可能にした貨幣経済の発展、もう一つには読み書きや計算能力を備えた俗人の増大をあげなければならない。 しかし、こうした条件は国王の権力集中にのみ有利に働いたわけではない。これらの条件を利用して大領主、更(39)には都市共同体が国王に対抗しつつ権力集中を進め、独立的な地位を確保する例も見られる。こうして諸勢力の角逐の中に、西欧の政治地図が形成されていくのである。

・イングランド: イングランド王国は10世紀にはウェセックス王家のもとで、集権的な体制を形成していた。しかし世紀末にはヴァイキング侵入が激化し、11世紀初め、デンマーク王家のクヌートによって征服された。彼はデンマーク、ノルウェーの王を兼任していわゆる北欧帝国を築き、イングランドはその中心として経済的に繁栄した。その後、ウェセックス王家の支配が復活したが、1066年のエドワード証聖王の死と共に断絶した。このとき、 ノルマンディ侯ウィリアムは王位を要求して侵入し、ヘースティングスの戦いで対立王ハロルドを敗死させ、イングランド王として即位した(ウィリアム征服王1世)。この事件をノルマン征服と呼ぶ。こうして英仏海峡を挟んだアングロ・ノルマン国家が成立し、イングランドの情勢とフランス王国のそれとは分離しがたく絡み合う事になった。 ウィリアムは、制服に付き従った家臣たちにイングランドの所領を分配し、封建的主従制によって彼らを組織した。しかし彼はシャイアなどの伝統的な組織を活用しつつ、領域的な行政権は国王の手中にとどめたのである。ここに集権的な封建制国家が生まれた。中世最初の国勢調査ともいうべき1086年の「ドゥームズデイ・ブック」の作成は王権の強さを良く示している。12世紀初めには王領地についての財務行政も急速な発展を遂げた。 12世紀半ばにはアンジュー伯ヘンリー・プランタジネットがアングロ・ノルマン国家を継いだ(ヘンリー2世)。彼はそのほか婚姻や相続によってアキテーヌ、ブルターニュの支配権を入手し、フランスの西半部とイングランドを合わせた広大な地域の支配者となった。彼の支配圏をアンジュー帝国とよんで(40)いる。彼はイングランドでは、国王裁判権の改革と伸張に努め、また傭兵を活用して軍事における貴族への依存を弱めた。 しかしノルマン朝、プランタジネット朝の王たちは、その大陸支配を巡ってフランス王権との対立を余儀なくされた。フランス王は、彼等の大陸領土に対して執拗に封主権を主張し、またしばしば王家内部の抗争に介入して、その弱体化を図ったのである。
13世紀初め、プランタジネット朝のジョン欠地王はフランス王フィリップ(2世)・オーギュストと争い、大陸領土の大半を失った。その後、世紀半ばには新たな協定によって、両者の関係が整除された。イングランド王ヘンリー3世は、この時点で尚保持していたな聖フランスの地域(ギュイエンヌ侯領)を、フランス王からの封土と認め、家臣としての礼を取ったのである。以後イングランド王権は大陸での反撃の計画を捨て、ブリテン島統一を目指してウェールズ、スコットランドへの進出に力を注ぐ。 13世紀のイングランド王権は、国内では相変わらず強大であり続けた。この国には他の国の領邦諸侯に比較し得る様な大領主は存在せず、個々の領主の政治的権力は大きくは無かった。しかし領主達はしばしば連合して国王の圧政に抵抗した。彼等は世紀初めにはジョン王に迫ってマグナ・カルタを承認せしめ、世紀後半にはシモン・ド・モンフォールを代表とする政治改革運動を引き起こした。これらの運動の中には、王国を自分達の共有物と看做す彼等の政治思想が表現されている。国政への発言権の要求はその論理的帰結であった。 世紀後半には、彼等の意見をある程度繁栄させる手段としての身分制議会が発達してくる。また、地方行政に関しては、その地方の有力領主層の自治が慣例として定着して行った。

成長と飽和12

八。正統と異端   ・12世紀前半までの異端: キリスト教には古代から正統と異端の争いがあった。中世前期の異端問題は、主として教義解釈を巡る神学者の論争に関わる「学者的異端」であり、このような問題は11世紀以降も幾つか知られている。しかし11世紀からは新たに民衆的異端運動の問題が生じてきた。教会当局は民衆的宗教運動のある部分を自らのうちに取り込みながら、別の部分を異端として過酷な弾圧を加えたのである。 11世紀前半にはフランスとイタリアを中心に幾つかの異端の出現が報告されている。それらの多くは結婚や肉食を拒むなど強い禁欲主義傾向を持ち、またカトリック教会の司牧の意義を否定した。… 11世紀後半には異端運動は知られていないが、12世紀の前半に[現れた]異端諸派は様々な教説を奉じていたが、その勢力拡大の背景としては、グレゴリウス改革の刺激によって俗人信徒の中に使徒的生活への希求が広がってきた事があげられる。
即ち、福音書においてはイエスがその使徒たちに清貧の内に世界に伝道を行う事を命じており、これに従う事がキリスト教徒にふさ(32)わしい生き方であるとする理念が力を得始めたのである。実際これらの集団は11世紀の異端に比べてはるかに大規模であり、それぞれの立場から教会の現状を激しく非難した。 ・カタリ派: 12世紀後半における最大の異端集団はカタリ派である。この異端は北イタリア、南フランスを中心に西欧全域に広がっていた。彼等の教説はバルカン半島に勢力を伸ばしていたボゴミール派のそれを継受したものであって、善悪二元論の立場に立つ。それによれば現世と人間の肉体の創造者はサタンである。人間の霊は天国から堕ちた天使であって、肉体の牢獄の中に閉じ込められており、肉体の死によって輪廻転生を繰り返す。この輪廻を断ち切り、霊が天国の神の下に戻る事が救済であり、これは真の教会であるカタリ派の教会に属する事によってのみ可能となる。これに対しカトリック教会はサタンの教会であり、これに従ってはならない。 真の教会に帰属する「完徳者」には性行為や肉食を忌避し、人間、動物を問わず殺生を行わず、一切の権力の放棄と徹底した清貧に生きる事が要請される。カタリ派教団においては、こうした少数の完徳者を多数の「帰依者」が取り巻いている。彼等はいわば入信予約者であり、死の床で完徳者に転換する事になって居るが、そのときまでの生活においては守るべき戒律を何らもっていないのである。 このような異端の拡大の背景としては、貨幣経済の発展によって使徒的生活の理念と現実社会との緊張が愈々高まってきた事が挙げられる。

そのような状況において完徳者たちの禁欲的生き方と知的水準の高さが、カトリック教会一般の状況との対比において、広範な人々の共感を獲得したといえよう。しかし南フランスの領主層が大量に帰依した理由としては、所領支配を巡るカトリック教会との対抗関係も無視できない。 カトリック教会は異端者たちの説得に失敗し、教皇特使の殺害事件を契機に1209年から南フランスにアルヴィ(33)ジョワ十字軍を送り込んだ。これは現実には北フランスの戦士たちによる地中海沿岸地域の征服に他ならず、征服の成果は最終的にカペー王権の手に帰した。十字軍終結後、カトリック教会は異端審問制度によりカタリ派の根絶に乗り出した。南フランスでは13世紀半ばで公然たる抵抗は消滅したものの、地下活動は14世紀初めまで続いており、イタリアでは15世紀初めまで存続していた。 ・ワルドー派とフミリアーティー: リヨンの富裕な商人であったピエール・ワルドーは回心し、知人に聖書、教父著作を翻訳して貰って暗記した。彼は1173年ごろ全財産を蜂起し、托鉢しながら説教者として生きる事を決意した。彼の下に集まったものは「リヨンの貧者達」と呼ばれた。教会は1184年には彼らを異端と断定しており、後には彼らのほうでも一部のカトリック教義を否定するに至った。この宗派は12-13世紀初めに、フランス、ドイツ、イタリアに拡大したが、創始者の死後、各地域の組織間の結合は緩んだ。13世紀にはドイツ人の東方植民にともない、東欧にも拡大した。信徒は庶民が中心で、目立たない形で先祖伝来の 教えを守って生きていた。彼等の一部は激しい異端審問をかいくぐって近代にまで存続している。 俗人による使徒的清貧の運動としては、ワルドー派のほかに北イタリアのフミリアーティの集団が挙げられる。彼等は自らの労働によって質素な生活を送りながら、集会や説教を行なっていた。

当初ワルドー派と共に異端とされたが、インノケンティウス3世は彼らを正統と認め教会に復帰させた。 ・フランシスコ会とドミニコ会: 使徒的清貧の運動の中から新しいタイプの修道会も生まれてきた。このうちフランシスコ会はアッシジの聖フ(34)ランシスコによって創始された。彼は1182年に商人の子として生まれ、青年時代に傭兵生活を送った事もあったが、やがて回心し,隠修士になった後、托鉢説教の道に入る。集まった仲間に対しマタイ伝19章21節を守るべき戒律として示し、一切の財産を持たないことを旨とした。しかし教会制度には極めて従順であり、インノケンティウス3世に説教者団体としての認可を求めた。1210年の認可後には、彼の団体橋と敵清貧運動の相当部分を吸収して急速に拡大した。これは1223年に修道会「小さき兄弟会」(通称フランシスコ会)に昇格する。修道女のためには「クララ会」、在俗信徒のためには「第三会」が設けられた。 またドメニコ会はイベリアのオスマの聖堂参事会員であったグスマンの聖ドミニコによって創設された。彼は1206年ごろ上司である司教ディエゴとともに南フランスに入り、カタリ派と論戦して改宗者を得た。この敬虔から、異端者を説得するためには、自ら清貧に徹する事が必要であると考えるようになった。1216年にホノリウス3世により、彼を中心とする托鉢修道会「説教者修道会」(通称ドメニコ会)が認可された。この修道会では、修道士たちは異端に対抗しうるように学識を深める事も強く求められた。ここから13世紀にはトマス・アクィナスを初め錚々たる学者を輩出する事になる。全体として使徒的清貧の運動は都市的なものであったから、これらの托鉢修道会も都市に拠点を置いて活動する事になった。
・13世紀の異端運動: 都市民の中には使徒的清貧運動への志向が持続していた。…フランシスコ会では無所有原則を字義通りに実践する事を求める心霊派が生まれて主流派と抗争していたし、ドミニコ会では神秘主義的な神人合一説を唱える者が現れた。他方で13世紀初めに生きたカラブリアのシトー会修道院長フィオレのヨアキムは、世界史の新しい段階である「聖霊の時代」の到来を予言して、終末論思想を提供した。これらの諸要素が結びついて、13,14世紀の異端運動が展開した。

成長と飽和11

 七。 知的状況と知識人 ・知識人の誕生: J・ルゴフによれば12世紀に「知識人」は、みずみずしさをたたえた、新しい人間として登場する。中世初期以来、学問的活動の中心であった注力修道院は、12世紀には精神的指導力と共に知的活動のエネルギーをも失い、シトー会など新たに誕生した修道会も学問研究よりは禁欲と沈黙・観想の生活に重点を置いていた。
こうした修道院の学僧に替わって、都市の学校で学び、更に研鑽の成果を教授する事を生業とする、知的労働者としての教師達が出現する。彼らこそルゴフの言う「知識人」である。おりしも12世紀には勃興する都市が、周辺世界から様々な人々をひきつけていた。そうした大きな都市における教育の場は…司教座聖堂付属学校、律修参事会付属学校、さらに教会には所属しない「私学校」などであった。学生は学校の名ではなく、学問的名声、より直接的には魅力ある講義にひきつけられて特定の教師の下にイ集し、聖職禄を持たぬ私学校の教師は主として学生の謝礼により生計を立てた。なお、稀少の手写本が財貨の如く扱われたこの時代に、「文筆」は生活の糧とはなりえない。そして学校教育が尚完全に制度化されず、私塾的な活動が可能であったこの時代にこそ、アベラールのごとき傑出した論争家は、聖ベルナールのような神学の権威によって指弾され、迫害されながらも尚教育活動を続ける事が出来たのである。…このようなやや無規律な研究と教育の営みは、やがて都市における諸団体の組織化と軌を一にして、13世紀には教会当局の保護と統制を設けつつも、自立的に自らを大学へと組織化していくであろう。 ・ラテン語古典の復活(28): ハスキンズが「ルネサンス」と表現した12世紀の知的状況は如何なるものであったのか。その特色は第一にラテン語古典の復活であり、ラテン諸作家、特に詩人の作品やその注釈が広く読まれ、文法・修辞が盛んに研究された。…この時代の知的活動は古典語と古典文学の模倣に留まらず、新たな精神の飛翔と視野の拡大を伴っていたl。既にシャルトル学派の中に生まれていた自然賛美ともいうべき新しい自然認識は、従来の宇宙の象徴的解釈に対して、神が自然に与えた法則を吟味し、これを合理的に説明しようと言う学問の基本姿勢を生み出していた。…

・アラビア経由の学問: このような新しい世界観、人間観と自然観は、アラビア語からラテン語に再翻訳されたギリシア古典やアラビア人自身の哲学、自然科学研究の導入と密接に関連する。12世紀ー13世紀前半にかけてイスラムの文書館や学校に保存されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオス、ヒポクラテス、ガレノスの著作のギリシア語、アラビア語写本、さらにはアラビアのフワーリズミーの代数学、アヴィケンナの医学、アヴェロエスのアリストテレス注釈などがシチリアのパレルモやスペインのトレドなどにおいてラテン語に翻訳され、ヨーロッパ知識人の知的(29)地平を一挙に拡大した。こうしたギリシア古典とアラビア科学の刺激による自然科学への強い関心は「12世紀ルネサンス」の特色である。また自然科学や哲学・神学の新たな問題と共に、ハスキンズは「法学の復活」をもこの時代の特色としている。後のローマ法研究の最も重要な拠り所となる『学説彙簒』digestaの注釈によって、ボローニャを西ヨーロッパにおける法学研究の中心地としたのは、12世紀のイルネリウスである。この時代のローマ法学は、今日のような意味での実学ではなかったにせよ、12,13世紀以後、国家、教会、そして都市における法の全体的な整備が進められる中で、法学者や法学の素養を備えた官僚は不可欠の存在となった。この際、教会法と相互密接に関連しながらローマ法が、新しい集権的な法秩序の手段を提供した事は言うまでも無い。
・政治思想・国家論: 他方で12世紀には政治思想や国家論において注目に値する著作は見られなかった。  ・教皇権・大学・知識人:(30) 12世紀後半以後に顕著となる、アラビアからのアリストテレスの著作とアヴェロエスのアリストテレス研究の翻訳・輸入は、哲学における実在論・唯名論を巡るかの普遍論争をあおり、また13世紀には哲学と神学、理性と信仰の不調和を助長した。その中でドメニコ会に属す二人の碩学、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスは、アリストテレスと聖書による信仰を調和させようとしたが、いわゆるラテン・アヴェロエス主義を代表するパリ大学のブラバントのシゲルスは、信仰と理性を矛盾するままに受容する二重真理を説き、異端とされるに至った。更にプラトン主義に依拠した新アウグスティヌス主義者は、双方に対して反アリストテレスの立場から厳しい批判を加えた。いずれにせよ抽象的思弁に耽る伝統的スコラ学に対して、人間の理性を信頼する合理主義的精神の台頭は衰えることなく13世紀末には既に経験主義的な知性が芽吹いていた。 しかし「哲学は神学のはしため」であり、神学は教会当局のドグマと齟齬してはならない。半ば聖職者でありながら教会からの自立性が強かった教師達の学問、教育内容が、公認教説を脅かす可能性を示したとき、教会当局の統制の手が及ぶのは当然の事であった。 …[パリ大学など]教師と学生がギルド的な結合により大学を形成しつつある時期に、教皇が世俗権力や管轄司牧に対して大学に保護と特権を与えると同時に、学内行政から教学内容にまで統制を加えようとしたのは、その証左である。教皇庁はパリ大学を教皇直属下に置き、正統教義の基本問題を判断する知的権威として位置づけようとした。
この点でパリ大学はやや特殊な事例ともいえるが、ボローニャやオクスフォードにおいても教皇の保護が、国王や都市当局からの大学の自立を促した。こうした教皇との結合の強化はしかし、常に知識人の学問的な自由と自立を損なう可能性を持っていた。以後、知的活動の中心となる大学はもはや純粋な学問の牙城たりえず、しばしば聖俗の権威との葛藤に苦しみながらも、他方では中世後期に進捗する教会、(31)国家の顕著な集権化と組織化において重要な知的・人的資源を提供する事になるであろう。このような権力に奉仕する大学のあり方は、14,15世紀のドイツにおいて領邦君主の設置した諸大学に端的に示されている。

成長と飽和10

・住民の権利と統治制度: これについては、まずアルプス以北と北、中部イタリアとで状況がかなり異なっている。[前者について。] 都市的集落は、中世前期から農村所領とは多少異なった支配秩序の下に置かれたらしいが、不文の慣習であったため、良く分かっていない。これに対して11世紀以降に形成された付属集落では新しい領主ー住民関係が作られ、時には文書で表現された。その性格は、住民の負担に法によって限度を設けるという事で、一般に「ブルグスの法」と呼ばれた。具体的には軽い地代、移転税の免除、移住者の住民権獲得、軍事的徴用の制限、罰金徴収の制限などがその内容となる。当時こうした法の元に生きる人間が「ブルグス住民」burgensesと称された。そして古い都市ないし都市核集落における領主ー住民関係も、これに似た者になって言った。 しかしこのような特権の都市性をあまり強調するべきではない。「ブルグスの法」が与えられた集落にも純農村的な性格のものは多かったのである。また地方によっては既存の一般集落にもおなじたぷの文書が少し遅れて普及するが、その集落の中にも都市的なものも農村的なものも見られた。ただ商工業が発達した集落の住民は、農村の住民に比べ次第により大きな権利を持つようになっていったことは確かである。 …次に住民の自治の問題であるが、ここでも都市と農村の間に断絶を認めることは出来ない。農村においても共同体はある種の自治活動を行なっており、また領主の支配は何らか住民代表との協議に基づいて行われ(25)るべきものと考えられていた。時として共同体の執行部と看做しうるものも現れる。… しかし集落によっては、より明確な自治制度が作られた。12世紀には北フランスからライン地方にかけて、集落住民が誓約を結んで団体を結成し、彼らの権利拡大と自治を求める運動(コミューン運動)が展開した。

このうちいくらかの集落では、この団体が制度として認められ(コミューン集落)、執行部が組織された。ひとたびモデルが出来ると、領主側から特許状によってコミューン資格が与えられる事例も見られるようになる。…しかしコミューン資格を始めとする自治権は必ずしも都市的集落にのみ与えられたのではない…、例えば早期に自治権を確立した都市として知られるケルンの場合でも、ケルン大司教は1288年にいたるまで軍事高権、警察権、関税や貢租の徴収権、貨幣鋳造権などを保持していた。 ・都市社会: まず人口の問題がある。アルプス以北の地域(ピレネー山脈からポーランドに至る大陸地域とイギリス諸島)では都市の規模は大きくは無かった。ここでは13世紀の最大の都市はパリで人口は8-10万程度であり、ネーデルラントのヘント、ブルッヘなどが5万程度でこれに続く。人口1万を超える集住地は30前後であり、これを(26)大都市と呼ぶ事ができる。人口が2千を超えれば既に中都市の名に値した。これに対してイタリアでははるかに都市の規模が大きい。ミラノは最低でも10万を擁し、ジェノヴァ、フィレンツェ、ヴェネツィアが9万程度でこれに続く。…ここで大都市の階層構成を概観しておきたい。まず領主階級であるが、イタリア都市を除いて戦士階級は余り定住していない。ただ在俗聖職者、修道士など相当数の教会人が生活していた。次に上層住民は、都市貴族とも呼ばれる大土地所有者と遠隔地商人ないし大規模な卸売商人などに分けることができる。後者は事業によって財を成すと、前者に転化する傾向があった。
 中層住民としては自分の店を構えた小売商人、手工業親方達が挙げられる。自前の店を持つことは社会的経済的自立性の証であった。彼等は同業団体を構成して親睦と相互扶助に努め、また過当競争を避けると共に業種としての信用の維持を目指した。彼等の元では職人や徒弟が家内労働力として働いている。また下層住民は、恐らく人口の半数を占めていた。独立性を欠いた貧しい手工業親方から、職人層、都市内農民、日雇い、芸人、こじきにいたる多様な層がここに含まれる。このほか、都市によってはユダヤ人の集団が居住し、金融に従事していた。 都市はある意味では農村以上の階層社会であり、民主的な社会ではなかった。都市自治と言っても、下層住民の大多数には全く参政権が無く、中層住民の発言権も限られたものである。即ち大多数の住民にとって、それは遠い「お偉方」の世界に属する事だった。しかし都市住民には、階層の差を越えた強烈な共同体意識が育った。それは究極的には農村的な世界の中に、異質なものとして存在している事の自覚から生まれるものであろう。彼等は祭りなどのイベントへの参加によって、また都市の囲壁、門、中心的な聖堂の威容を誇る事によって、この共同体意識を絶えず掻き立てていたのである。 

成長と飽和9

 六。都市の発展   ・商業と都市発展:(22)かつては中世の都市発展の経済的側面をもっぱら遠隔地商業と結びつける考えが支配的であった。
それによればローマ帝政期後半から遠隔地商業が衰退し、中世前期には殆ど消滅したから、都市もまた消滅して自給自足の農村社会になった。11世紀以降、地中海と北海を中心に遠隔地商業の復活が見られ、それとともに中世都市が生まれたというのである。…しかし今日、多くの研究者は中世都市の経済的発展を寧ろ周辺農村の農業生産に支えられたものと捉えている。そしてこの見方は、中世都市のみならず都市一般の本質を地域中心としての機能に見出す主張と密接な関連を持っている。… 中世前期について…、イタリア・ガリアの大部分においては殆どの古代都市は、ある程度規模を縮小させたが、司教座都市として存続し、地域の宗教的、経済的、行政的中心であり続けた事を指摘しておきたい。そのほかイタリアでは中世前期にアマルフィ、フェラーラ、ヴェネツィアといった新都市が生まれている。ガリアではカストルムないしブルグスと呼ばれた囲壁集住地が、司教座についで都市的な機能を果たしていた。またムーズ川、ライン川の下流沿岸では9,10世紀に独立の港町が発達し、ポルトゥスと呼ばれていた。これらの集落では、遠隔地の商品と並んで在地の生産余剰が取引の対象となった。これに対してライン以東のゲルマニアでは勿論ローマ都市の伝統は存在せず、司教座の開設も8世紀以降となる。ここ(23)では司教座を含めてブルグスと呼ばれる囲壁集落が、防備拠点であると共に市場集落でもあり、「都市的核」となっていた。ローマ都市がいったん消滅したイングランドもほぼ同じ状況で、ブルフと呼ばれる囲壁集落やヴィクと呼ばれる港町がそうした機能を果たしていた。
 11,12世紀になると、都市は著しい成長を遂げた。既存の都市ないし都市的核の大多数に隣接して新しい付属集落(ブルグス)が形成され、商工業を発達させた。新旧の集落は多くの場合地誌的独立性を長く保ったが、次第に一体の活動も生まれてきた。他方でいくらかの農村大所領の拠点(修道院本院、城塞など)の周辺にもこうした新しい付属集落が成長し、そのうちのあるものは都市的発展を遂げた。 いずれの場合も商工業者の活動を促したものは、益々増大する農業余剰の集積、領主と言う大口の消費者の存在、領主の保護や防備施設によって確保された相対的安全といった要因であった。更に12世紀以降、王侯が計画的に都市を建設し、商工業者を誘致する事例も多くなった。ライン以東地域およびイングランドのかなりの都市は、このような建設都市である。しかし、この段階でも大部分の都市の主要な機能は地域の経済、宗教中心、場合によっては政治中心という事に変わりは無い。その商工業も一般には都市周辺の地域の需要に応じた生産と流通と言う性格を保持していた。 勿論地域によっては、都市は単なる地域中心の水準を超えて、遠隔地商業や大工業を擁するようになった。北イタリアと南ネーデルランドの諸都市が代表的で、それぞれ地中海商業、北海商業の拠点となり、また毛織物工業の著しい発達を見た。そのためこれらの都市は例外的な人口を有するようになったのである。12世紀以降、フランス東部にこの両地域を結ぶ南北交通路が発達し、それに応じてシャンパーニュ地方に大市が発達した。13世紀になると北東ヨーロッパのいくらかの都市は、北海、バルト海での遠隔地商業のためにハンザ同盟を結成した。こうした遠隔地商業や大工業に依拠する大都市と、地域中心としての中小都市が織り成すネットワークが、現在大(24)きな関心を集めている。

成長と飽和8

五。十字軍運動の展開 ・背景・影響: 前述の「キリストの戦士」としての騎士理念・身分の形成に大きく貢献したものとして十字軍が挙げられる。十字軍は、第一に宗教的運動であるが、その背景や影響をも含めると、同時代の極めて多様で広範な問題と関わる、巨大な複合的事象である。…十字軍運動をヨーロッパ世界の膨張として考えるなら、その前提としての地中海東部、すなわちエジプト、シリア、パレスチナ地域のイスラム勢力の興亡と推移を踏まえねばならない。西ヨーロッパ側の社会経済的要因としては、前に述べた西ヨーロッパの農業生産力の上昇、人口増加、土地を持てぬ農民屋、所領を相続できない領主の次三男、若年の騎士たちの増加、イタリア、地中海地方に始まる都市と商業の発展などを挙げる事が出来よう。また、ローマ・カトリック世界における教皇権の指導力の強化、ローマ教会とビザンツ帝国・ギリシア正教会の関係、東西教会の統一問題なども、十字軍と不可分の事柄である。 (17)十字軍は学問・文化の興隆には殆ど貢献しなかったが、城郭建築などイスラム世界の軍事・土木技術のヨーロッパへの導入は、十字軍の産物である。ネガティブな側面を挙げるなら、十字軍の多大な人的・経済的浪費が、結果として参加者に利をもたらさなかったために、取り分け中小領主家系の断絶や没落を招いた。他方、異教徒との戦いを正当化する十字軍思想は、ヨーロッパ世界の膨張過程において構成まで大きな影響力を持った。
・研究上の問題: クレルモンの宗教会議における教皇ウルバヌス2世の演説に応じて開始される1096-99年のエルサレム遠征を第1回とし、1270年の仏王ルイ9世のチュニス遠征を第7回とするナンバーつきの大遠征を中心にすえ、1291年のアッコン陥落を持って完結させるのが、通例の十字軍理解である。…勿論1回より最後に至るまでを、「聖地解放」を目的とする聖戦としての「十字軍思想」に貫かれた運動の展開として均質的に理解する事には問題があろうし、ウルバヌスの演説によって全てが突然始まったのではないとすれば、少し遡ってその起源を考える必要もあろう。… ・十字軍の成立: (18)十字軍の発端が、教皇ウルバヌスのクレルモンにおける演説と、これに続くフランス各地で勧説であったことは事実である。しかし教皇とその周辺を別とすれば、同時代人の記述は初期の十字軍を通常の巡礼と同じ言葉で表現する事が多く、「聖戦」観念はなお浸透していなかったようである。西ヨーロッパでは10世紀より活況を呈した巡礼の目的地の中で、いうまでも無く聖地エルサレムは最重要地であり、危険を伴う聖地巡礼に、貴族領主はしばしば武装従者を率いて赴いた。十字軍はその延長上にある。

さて、十字軍の直接的契機は、セルジューク・トルコの巡礼妨害よりも寧ろ、1095年のビザンツ皇帝アレクシオス1世による、異教徒の侵攻に対する救援要請である。これに選考した所謂「グレゴリウス7世の東方計画」は、教会統一志向をも含むビザンツ救援計画であったとされ、実現されなかったものの、改革教皇としてのグレゴリウスの後継者ウルバヌスに少なからぬ影響を与えたであろう。ともあれ同年のクレルモンにおけるウルバヌスの演説は、ビザンツ救援に留まらず、聖地解放を訴えたものとして聖職者、貴族、民衆に熱狂的に支持されたのである。 隠者ピエールの率いる民衆十字軍は、一部の貴族を含め、農民を主力とする二万人以上を集めて陸路エルサレムに向かったが、次第に統制を失い、コンスタンティノープルを経てまもなくトルコ軍の攻撃により壊滅した。第1回十字軍は、…フランスの諸侯を中心に構成され、ル・ピュイ司教アデマールを総司令官とした。その主力は陸路コンスタンティノープルに集結し、アンティオキア、エデッサなどを征服した後、1099年7月にはエルサレムを占領した。ここにゴドフロワ、ついでボードワンとその子孫を国王とし、各地域を封土として保有する諸侯達からなる一種の植民封建国家、エルサレム王国が成立した。この成功は、エジプトのファーティマ朝とシリア、パレスティナを支配していたセルジューク朝の対立、更にはセルジューク朝(19)内部の不和・抗争と言うイスラム側の分裂に負うところが大きかったといえる。

逆にイスラム側の大同団結が実現すれば、ヨーロッパからの人的・物的援助に頼らざるを得なかった脆弱なこの国家の命脈はつきるのである。またビザンツ皇帝はコンスタンティノープルに集合する十字軍戦士たちに何ら宗教的性格を認めず、西方からの援軍或いは安上がりの傭兵と看做し、自身への臣従誓約を要求した。他方十字軍戦士たちは皇帝のこのような態度に不満を募らせ、誓約に反して占領地を我が物とした。更に文化レベルの差や生活習慣の相違もあって相互不信、取り分け西側の「不実なギリシア人」に対する不信感は次第に募っていった。皮肉な事に十字軍は東西キリスト教世界の宥和には逆行したといわねばならない。なお教皇ウルバヌス2世は、聖地解放の知らせが届く直前に没したが、十字軍の提唱に際して彼が、聖地解放のほかに教会統一や教皇の権威強化など、具体的に如何なる意図を持っていたのかは確認しがたい。 ・君主達の十字軍: 1147年の第2回十字軍は、十字軍をキリストの戦士、下僕としての自己鍛錬と実戦と捉え、結果としての死を殉教とする独自の十字軍神学を説いた聖ベルナールの影響が大きいといわれる。確かにこのとき活躍する神殿騎士修道会は、聖ベルナールの言う、戦士と修道士を一身に兼ね備えたキリスト教徒の理想に近いものであったかもしれない。しかし初めて十字軍に参加した君主であるフランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世は小アジアで壊滅的打撃を被り、同盟都市であったダマスクスを攻撃して大敗を喫するなど、結果は無残なものであった。神への愛を実践する聖戦としての十字軍の理念と現実の乖離・矛盾は、最早ベルナールの神学的弁証によっても覆いがたいものとなったのである。
にもかかわらず12世紀以後、遠征と聖地における苦難の経験の中で、聖戦意識は寧ろ強まったとも言え、このキリスト教的聖戦理念は政治的プロパガンダとも結合して発展していく。(20)1187年、エジプト・シリアの統一を成し遂げたイスラムの指導者サラディンに対して、聖地のキリスト教徒はハッティンにおいて十字軍史の転換点となる退廃を喫し、翌年エルサレムは陥落した。そして英王リチャード(獅子心王)、仏王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の率いる第3回十字軍においても、フリードリヒは往路小アジアで水死し、最後まで戦ったリチャードも聖地巡礼の自由を確保したに留まった。以後聖地国家は海港都市アッコンを拠点に尚1世紀存続する。 ・十字軍の変容: 教皇インノケンティウス3世の、全キリスト教世界の結合による異教徒との戦いと言う理念に基づいて提唱された第4回十字軍は、資金不足から、周知のようにヴェネチア商人の目論見とコンスタンティノープルの宮廷内紛に関わって、聖地ならぬビザンツの帝都を征服し、1204年、フランドル伯ボードワンを皇帝としてラテン帝国を樹立した。この「転向十字軍」によるコンスタンティノープル征服は、西ヨーロッパ人のビザンツ・ギリシア人に対する根強い不信感を背景にしたものとは言え、計画性は無く偶然的要素が強かった。またインノケンティウス3世がこの「転向」を非難しつつも結局既成事実として承認し、コンスタンティノープル総大司教の叙任をも公認したのは、東西教会の統一を念頭においてのことであったのかもしれない。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の十字軍(1228-29年)は、歴史家によってしばしばナンバーつきの正式の十字軍と看做されなかった。この遠征がフリードリヒの破門中に行なわれ、従って教皇公認のものではなく、さらにフリードリヒが戦いを交えることなく、カイロのスルタンとの交渉によってエルサレムを返還せしめた(ヤッファ協定)ので、十字軍としての評価は当時より低かったのである。教皇の公認を別とすれば、聖地解放とキリスト教徒の保護と言う十字軍の目的をフリードリヒは最も合理的な手段で実現したのだが、異教徒に対する聖(21)戦としての十字軍理念は自立し、既にそれ自体重要な意味を持っていた。そこに「非聖地十字軍」が現れる背景がある。さて、第6,7回の十字軍とされる、1248-54年の聖王ルイ(9世)のエジプト遠征、1270年の同王のチュニス遠征が、大敗と虜囚、更に落命と言う聖王にとって悲劇的な結果に終わった後、前述のように1291年のアッコン陥落を持って、狭義の十字軍時代はkな決する。 ・十字軍概念の広がり: …[これらの]十字軍は、教皇がなおローマ・カトリック世界全体に対する精神的・政治的指導力を持ち、「国民国家」はまだその枠組みを明確にしえず、修道院・教会改革を通じて社会のキリスト教化が進み、また飽和化した社会から出て遍歴・冒険を求める人々が増加し、他方でイスラム勢力の興隆に対して、ビザンツ皇帝、ギリシア正教世界は援軍を求めていた、こうした時代にのみ展開しえた、ヨーロッパ最初のインターナショナルな膨張運動であった。… 

成長と飽和7

・戦士階級の生活と文化: [12世紀頃の下層戦士層の生活と文化]:まず彼等は西欧の大部分においては農村生活者であり、主として城や村の館に居住した。ただし地中海沿岸ではそのかなりの部分は都市に居住した。尚封建家臣の義務を果たすべく、一年のうち何ヶ月かを王侯の宮廷で過ごすこともあった。 彼等は主たる収入はいうまでもなく所領から得ていたが、総じて所領経営にそれ程熱心ではなかった。彼等の生きがいは何よりも戦いであった。これはまず臨時収入の機会をもたらす。主君が戦争を行なう際、家臣義務としての助力、即ち封建軍役は無償であったが、日数と出動範囲に制限が設けられていた。
したがって戦争が大規模であれば、家臣には超過勤務手当が支払われる。また戦功を挙げた者には褒賞が与えられた。更に敵を捕虜にすることで身代金を得る事もあった。しかし戦争はそのほかに武名を獲得する手段でもあり、何よりも退屈な日常を塗り替える気晴らしであった。年長者の語る過去の戦いの物語は、興味と尊敬を持って聞かれたのである。 彼らの人生は家門の論理によって統制されていた。まずこの階級の子供達のうち、相続者を限定する必要から、少数の男子のみが戦士として養育された。残りの男子は教会に委託され、聖職者や修道士となった。この選別は7歳頃に行われたようである。戦士となるべき子供は以後騎馬と武技の訓練を受け、ローティーンの年齢で主君や親族の家に委託されて、そこで教育と訓練を受けながら小姓としての奉仕を行なう。20歳前後で一人前の戦士として認められた後も、父の家に直ちに戻る事は無い。主君の家にそのまま滞留し、或いは若者同士で徒党を組み、冒険を求めて各地を放浪する事が行われた。 彼らのうちでも、父の死や隠居、部分的な所領割譲によってそれなりの資産を取得した者はやがて結婚し、自ら(15)家門の支配者となることが出来た。ごくわずかとはいえ、相続財産を持つ女性との結婚に成功したものも同様の地位を手にした。しかしそれ以外の者は家中戦士として生涯を終えざるを得ない。12世紀にはこのような境遇の戦士たちは騎士修道会にも吸収されるようになった。
尚女子は家門同士の連帯性の拡大の手段として用いられた。家長は出来るだけ多数の女子を、わずかな嫁資と共に他の家に嫁がせたのである。ただし、直系の男子が欠けて居るときは、一般に直径の女性が相続者となる。 彼らには根強いげん示的消費の体質がある。高価な衣料や所持品、宴会や祝祭における大規模な消費、鷹揚な贈与は高貴さと権力の証であるとも見られていた。その結果貨幣経済の発展と共に、所領経営における怠慢とあいまって、慢性的な財政危機に苦しむ事になる。12世紀以降に彼らが王侯への従属を強めていった原因はここにもあった。 彼等の気晴らしとしては、戦争のほかに騎馬槍試合(トーナメント)、狩猟、宴会、チェスなどが挙げられる。騎馬槍試合は死傷者が出る程実戦に近いゲームであり、敗者は身代金を取られる事もあった。これらの娯楽に、12世紀の始めごろから文学が加わる。大多数の戦死は文盲であり、巡歴の芸能者が歌う韻文に耳を傾けた。武勲詩は英雄達の武勇を語り、抒情詩は目上の貴婦人への満たされる事の無い愛を謳った。この武勇と恋愛と言う二つのテーマは、宮廷において隆盛した長編叙事詩の中で合流する。 教会は11世紀から、この戦士階級に新しい道徳基準を与えるべく働きかけてきた。彼らは自らの武力を教会の統制に委ねてその守護者となり、また教会の認めた結婚関係の中に性的活動を限定する事で、初めて救済に与る事ができるというのである。彼等は教会人を必ずしも尊敬してはいなかったが、信仰心を欠いていた訳ではない。
婚姻外の恋愛の賛美とキリスト教性道徳の間に緊張を孕みながらも、「キリストに仕える戦士」のテーマもまた文学のうちに流れ込んでいく。  (16)12世紀の後半から、戦士階級一般に「騎士」(Ritter, miles, knight, chvalier)と言う称号が特別な意義をもち始める。この称号は一人前の戦士と言う意味に加えて、武勇と中世に富み、教会の守護に力を尽くし、貴婦人を厚く敬うものと言う一種の文化理想としての意味を帯びるようになった。それとともに、戦士たちは「騎士」に叙任される事によって、こうした理想の体現者となる指名を付与されるという観念も生まれてきた。騎士制度の本格的成立をここに認めることが出来る。

成長と飽和6

 四。戦士たちの世界(12) ・戦士階級と国家秩序及び封建制: この時代の西欧における俗人領主階級は同時に戦士の階級でもある。この階級の男性には重装騎馬戦士としての活動が共通に課せられている。ただし階級上層部では政治的支配者としての役割が大きく、中層、下層においても何らかの行政的・司法的職務を帯びているものが見られる。元々この階級の上層部は高貴な血統を受け継いでいると看做され、貴族と呼ばれていたが、時代が進むにつれ、中層、下層もまた貴族の範疇に入っていった。 この階級に属する者達にとって、自らの権利の実現のために武力を行使する権利は最も基本的なものである。しかし、彼等は全く独立の権力主体であったわけではない。彼等の中には、二つの支配、服従の原理が働いている。
一つは漠然とした国家意識であり、これによって彼等は国王を思考の存在と認め、様々の留保をつけながらも自分達の服従義務を認めていた。このような君主政規範は、どんなに王権が弱体化しても完全に消滅する事は無かった。 もう一つは封建的主従制(レーエン制)の原理であって、二人の人間は臣従礼と呼ばれる儀式的契約によって主君と家臣になり、主君からは庇護が、家臣からは助言と助力が提供されるというものである。助言は主君を中心とする集団的な政治・司法活動への参加を意味し、助力は重装騎兵としての軍事奉仕を意味する。一般にこの契約には、主君から家臣への封(feodum)の貸与が伴う。封となりうるのは所領、税など持続的に収益を生む財産であり、この貸与は無償である。この時代では次第に封の授受が主従関係の設定にとって決定的要件と看做されるに至った。ただし実際には、家臣となる人間がそれまで自分のものとして保有していた「自由財産」(13)を主君からの封と認める事によって、擬制的な授封が行なわれる場合も多い。また封の相続が一般化した事により、主従契約も主君、家臣の相続人によって更新されるのが通例となった。尚封建的主従せいの形態、浸透の度合いには、地域や時期によってかなりの相違がある。 国王への服従にせよ封建的主従制にせよ、その拘束力はコンスタントなものではない。… ・戦士階級の諸階層: 戦士階級の中にも幾つかの階層が認められる。一般に、自有財産であれ封であれ、安定した世襲的領有の対象となる支配権の規模と性格が、領主の階層を規定する。
この階層構成は大陸とイングランドでは大きく異なっていた。…ドイツ、フランスでは中世初期に形成された広域的な行政単位を、10,11世紀から大貴族が私的に領有するに至った。彼らが王国レベルで諸侯と呼ばれる。これについで中規模の土地領主であり裁判領主である地方貴族の階層があり、更にその下には小規模土地領主の集団が存在する。これに対してイングランドでは、この時代を通じてシャイアと呼ばれる行政単位が王に直属しつつ存続しており、この区画の一つを完全に支配下に収めてしまうような貴族は例外的存在であった。ここでは戦士の上層部は、分散した土地所領を下封された国王直属の家臣であるバロンによって構成される。彼等の下では多数の小規模土地領主が陪臣の位置を占める。 こうした世襲的な所領を保持しない、家中戦士の集団も西欧全体に広く認められる。… 

成長と飽和5

・教皇と教皇庁: ローマの司教である教皇は、中世初期からカトリック教会の最高権威である。しかし中世前期には侵入した外民族の圧迫を受け、あるいは ローマ地方の有力者の抗争に巻き込まれる事が多く、またそうした問題を解決すべくビザンツ皇帝やフランク、ドイツ王権といった遠方の政治権力が介入して保 護を与えたり統制を加えたりすることもしばしばであった。それだけに教皇の西欧各地の教会組織に対する実質的支配権はきわめて弱かった。 11世紀の半ば から12世紀の始めにかけて、教皇たちはグレゴリウス改革と呼ばれる一連の教会改革を推進した。これは教会の道徳的秩序を刷新すると共に、教会組織に対す る王侯貴族の介入を排除して、ローマ教皇を中心とした教会の集権化を実現しようとしたものである。
その過程では聖職者の叙任権を巡る横行との争いも生じ、特に神聖ローマ皇帝との抗争は激しく、また長期にわたった。しかしこの改革の後、教皇の権威は著しく高まった。 12,13世紀の教皇はカトリック教会に関するあらゆる問題に最終的な決定権を持ち、その事務局である教皇庁は膨大な事務をこなしていた。また教皇は西欧各地の教会や教会人から様々の上納金を集めており、経済成長期にその富は確実に増大して行った。更に教皇はイタリア半島中部に一種の領邦を築いており、軍事的にも無視できない勢力であった。教皇を補佐する聖職者の集団が枢機卿団である。これは新しい教皇を選出する選挙人団でもあった。こうしてカトリック教会は教皇を頂点とした階層秩序に整備され、教会法に基づいて運営されていた。 

成長と飽和4

3.教会と教会人 :「司祭と司教」 中世盛期から一般化した社会イデオロギーに従えば、この世界は祈る者、戦う者、耕作する者から成っていた。(8)…まずカトリック教会は大きく見て在俗教会と律修教会に分けることが出来る。在俗教会の主要な職務は俗人の司牧であって、教区聖堂や司教座聖堂で司祭或いは司教によって遂行される。この司牧活動は信仰の指導と秘蹟の付与とからなる。後者は神の恩寵を儀礼によって人間に伝達する行為と観念されており、12世紀には洗礼、堅信、告解、聖体拝領、結婚、終油、叙階の7つと定められた。このうち俗人信徒に関わるのは前の6つである。[洗礼、堅信など]が一回限りであるのに対し、告解と聖体拝領は可能な限り頻繁に受けるべき秘蹟である。前者は信徒が犯した罪を司祭に告白して神の許しを得、贖罪に関する指示を仰ぐ事を、後者はミサに出席してキリストの肉体に化すと信じられたパンを食する事を意味する。結婚は秘蹟としては12世紀から登場したもので、このことは教会の結婚制度への関与の深まりを表す。
また終油は、信徒が臨終に際して全ての罪を告白した上でもう一度自らの信仰を宣言し、司祭が主の赦しを祈念する秘蹟である。このように信徒の生活にとって秘蹟は必要欠くべからざるものと考えられていた。 司牧の管轄地として最小のものは教区であり、そこには教区聖堂がおかれている。その多くは俗人貴族や修道院が保有し、若しくはパトロンとして影響力を行使していた。十分の一税の殆どはこうした保有者若しくはパトロンの手中にあった。聖堂は彼らからの援助、小規模の固有財産からの収入、教区民の遽金などによって維持されていた。司祭職には禄が設定されていたが、多くの教区聖堂は本来の受禄者が赴任しておらず、代理司祭の手に委ねられていた。 司祭の知的水準にはばらつきがあり、底辺には殆ど文字が読めないものもいた。聖職者としての貞潔の戒律を守る度合いにもこうしたばらつきが見られ、12,13世紀においても相当数の司祭が女性と同棲していた。 教区の上に来る総合的な管轄区は司教区である。司教区の中心には司教座聖堂があり、司教及び(9)司教座聖堂参事会が置かれている。司教は各地に布教したイエスの使徒の後継者と看做され、司祭の叙階をはじめとして司教区の問題全般について広範な権限を保持している。その大多数が有力領主階級の出自であり、世俗の諸侯に対応する存在と考えられていた。概して知的水準は高く独身制も一般に守られていた。。司教座聖堂参事会はこの聖堂の業務を担う司祭の団体で、その成員は司教に告ぐ高い権威を保持していた。
司教区がいくつか集まって教会州あるいは大司教管区を形成する。この管区の司教団のうちで一つの司教座は歴史的経緯から特に高い権威を付与されており、その司教は大司教と称するのである。彼は管区内の新司教を叙階し、また司教団に対してさまざまな主導性を発揮する。 ・修道士と律修司祭: 修道士と律修司祭は、宗教的修行のために世俗社会を離れ、戒律に基づく共同生活を送る教会人であり、それぞれ修道院と律修参事会を構成する。10,11世紀は修道院改革の運動が西欧を覆ったが、その中でベネディクト会クリュニー派が大発展を遂げた。…ベネディクト会修道士は、カロリング時代以来、何よりも典礼祈祷のエキスパートとしての性格を強めていた。領主階級の人間たちは評価の高いベネディクト会修道院にしきりに寄進を行い、その祈祷の功徳に与ろうとしていた。このような状況でクリュニー派は、秩序だった修道院運営と華麗な典礼によって人々の信頼を勝ち得たのである。 ついで12世紀にはシトー会が勢力を伸ば[す]。(10)司祭が戒律に基づく共同生活を実現しようとする律修参事会運動は11世紀後半から活発となった。全体として修道院と近似したものであるが、あえて相違点を上げるならば、俗人への伝道活動が重視される点であろう。… 修道士は大多数が領主階級の子弟であり、特に修道院長はほとんど有力領主家系の出身者であった。… 13世紀のはじめには、全く新しいタイプの修道制が生まれてきた。即ち修道士が所領であれ自営地であれ土地財産を保有せず、喜捨によって生活する托鉢修道制である。
また彼等の活動の中心は典礼祈祷ではなく、俗人向けの説教である。フランシスコ会、ドミニコ会、カルメル会、聖アウグスティヌス隠修士会の4大托鉢修道会は、中世後期のカトリック教会の最も活動的な部分であった。このような修道制の発生の背景には、清貧をスローガンとする民衆の自発的な宗教運動の展開と、それを正統教会の枠内に繋ぎとめようとする教会当局の意向が働いていた。しかしより巨視的に見るならば、これは西欧の宗教活動の戦略的な舞台が農村から都市に決定的に転じた事の表れでもあった。都市には古い規範が解決できない社会問題があり、農村は都市で行われる事を模倣する。また喜捨は活発な流通経済を前提とし、説教は多数の聴衆の結集を前提とする。実際、これらの修道会に属する修道院は、以前の修道院に比べて都市的な地域に立地する傾向がはるかに強いのである。 

成長と飽和3

「集村化と共同体」:農民の住まい方から見ると、ローマ世界は散居集落、若しくは小村集落が一般的であった。散居集落とは個別の屋敷が分散し、それぞれの うちに取り巻かれているものをいい,小村集落とは20軒以下の家屋、屋敷地の緩やかなまとまりを言う。ゲルマン人地域でも中世初期には小村集落が一般的 だったといわれる。しかし900年から1200年の間に、西欧の大部分では、20軒以上の家屋、屋敷地が密集した塊状集落が支配的となった。ただし、この 集村の形状及び形成過程については、ヨーロッパ南部と北西部、中部では一定の相違が見られる。
集村化の原因についてはいろいろな意見があるが、最も根本的と考えられるのは、次のようなものである。先ず防衛の必要から、幾つかの小村集落、散居集落が統合される傾向があったと思われる。また牧畜の後退と農耕の発展により、一世帯に必要とされる農地面積が以前よりも小さくなれば、それはより多数の屋敷が密集する事を可能とする。更に、当時の農業技術革新の中で、生産性を高めるための強力や共同作業の役割が増大したためとも見られる。 11世紀以降、集村化地域は言うに及ばず、散居集落地域でも住民の共同体的な活動が活発になってくる。これをもたらした要因の一つは、農村部での小教区の網の目が密になって行ったことである。聖堂がたち、共同墓(7)地が整備されると、これらは住民の精神的連帯の核となった。もう一つの要因は、大陸では裁判領主制に求められる。領域的な支配に対抗して被支配者側でも領域的連帯が形成されたと見られるからである。住民共同体は聖堂の維持、土木事業、共有財産の管理、祭礼などを行なうと共に、領主から裁判や徴税において一定の業務を委ねられ、またその事によって領主権を制限した。 12,13世紀の多くの農村共同体においては、住民の領主への負担を明文の法によって制限し、また彼らに行政への参加を一定程度保証する事が行われるようになる。これは実際にはそれまでの暗黙の慣行の確認であろう。しかしそれが明確な法の形を取ったとき、その共同体成員はより「自由」になると観念されたのである。
領主は多数の住民を領内に居住せしめる事の利益を考え、こうした「自由」特権を付与する事に踏み切ったといえよう。北東フランス、ロレーヌ地方では、これは慣習法特許状の付与という形を取った。…ドイツでは村の裁判集会で領主と住民が「村法」を確認しあうと言う形で、住民の権利が確定して行った。ただし地中海沿岸部では、この種の権利の確認は低調で、せいぜい共同体の執行機関の存在が認められるに過ぎない。…

成長と飽和2

2.領主と農民 「土地領主制」:中世史では領主制を三種に分類している。土地領主制、裁判領主制(政治的領主制)、体僕領主制がそれである。…土地領主制は、領主が所領の一部(直営地)を直接経営すると共に、その他の土地を農民達に保有せしめ、その代償として地代や労働の提供を求める制度であり、中世初期から見られる。中世盛期の大陸においては一般に保有農の労働提供である賦役は次第に軽減された。これは領主直営地の規模縮小、或いは雇用労働力の活用に(4)よって説明される。しかし多くの場合、直営地経営は蜂起されてはいない。12,13世紀には直営地の貸し出しも見られるが、直接経営への復帰が可能な形態をとっており、14世紀以降の直営地解体とは区別される。保有農の負担の中心は現物納ないし金納の地代となったが、その価値は徐々に低減する傾向にあった。 農民保有地の規模は極めて多様化している。かつてのマンススを基準としその分数で保有地の規模を表現するシステムは、最終的に放棄され、面積による表現に変わった。この中で、一方の極には大規模な経営を行なう富農が出現し、他方では、2,3ヘクタールの農地しか持たない小農が多数現れた。保有地が極めて矮小である為、領主直営地、富農経営地での被傭者としての労働によって生計を維持しなければならない農民世帯の割合は13世紀後半には半数近くに達していた。 「裁判領主制」:裁判領主制は、管轄下の領民の重大な係争や身体刑相当の重罪事件に対する裁判権を中核とする政治的支配権である。大陸の大部分では11,12世紀以降、有力な土地領主が城を築き、その周囲に一円的な裁判領主支配権(バン領主支配権)を形成した。 彼の権力は自分の土地領主権下の農民ばかりでなく、他の土地領主支配化の農民にも及んだのである。彼はこれらの「領民」を軍事的に保護し、流血裁判権を行使して地域の治安を維持する。そ(5)の代償として彼は裁判収入を手にし、領民に労役を提供させ、課税を行なう。
これに様々の独占権や使用強制による利得、更には通行税収入が加わった。城を持たない領主も、この裁判領主権の一部を保有する事があった。大陸における裁判領主制の発達は土地領主制による搾取の後退と対を為すともいえる。 「体僕領主制」:体僕領主制は、特定の人間集団を有る領主の所有物と看做す制度であって、しばしば農奴制とも呼ばれる。…これは、まず西洋の法制史に伝統的な理解によれば、住民の一定部分が領主に対して特に緊密に従属した存在と看做され、特有の法的無能力と負担とによって特徴付けられる制度である。従って論理的には、領主支配下に有るが「自由」身分とみなされる住民集団が、この「体僕・農奴」に対置される。その上で、この隷属集団の質的、量的な変動が地域や時期に即して問題にされるのである。これに対して経済史の発展段階論では、中世盛期の領主制に対応する農民の典型的存在形態をこの言葉で表現し、概念化する場合がある。その際には上述の土地領主制、裁判領主制の下にある住民はおしなべて「体僕・農奴」と看做される。 この時代の自由と隷属の問題は地域差が大きい。しかし大筋で言えば、土地領主制、裁判領主制の発展に伴い、まず緩和された奴隷制とも言うべき中世前期の体僕制度の退化が進行する一方で、大多数の住民が領主支配下に組み込まれる。この際、住民が領主と取り結ぶ関係の中には特に緊密な人格的隷属の形態もあり、これが体僕制の中心となる。
よく知られて居るように、彼等は法原則のうえでは領主の許可無く移住することはできず、また女性が集団外の男性と結婚する場合も子供が父親の財産を相続する場合も、特別の貢納によって領主の許可を買い取る(6)ことを要求される。その他、微額の人頭税を課されることも多かった。このような隷属に入らない住民はあるレベルでは自由民と観念されるが、領主に様々な負担を負う限りで、その自由は相対的なものでしかないとも言いうる。体僕と自由民が住民に占める割合は地域、時期によって異なり、自由民が大量に体僕に転化する減少も、また多数の体僕が「解放」される現象もともに観察される。しかし13世紀の後半では体僕精度は全体として大きく後退していった。 

成長と飽和1

江川温・服部良久編『西欧中世史(中) -成長と飽和』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 成長と飽和 1.人口の増大と農業発展(1): 11世紀始めから13世紀末にいたる時期は、西欧の歴史の中でも特筆すべき経済成長の時代であった。先ず着実な人口の増大が見られる。…西欧世界全体に人口成長が見られたが、その中でもアルプス以北のエルベからピレネーまでの地域の成長が際立って高く、この地域の(2)人口総数は古代文明の中心地であった地中海沿岸地域のそれを凌駕するに至ったのである。 「農業発展」:この持続的な人口増大は、農業生産の著しい上昇の原因でもあり結果でもあった。農業発展の要素として先ず挙げられるのは農業用地の増大である。古くからの定住地における、目立たない拡大、大規模開墾と新村の建設、海岸の干拓などを、その事例として挙げる事が出来る。そしてこの農業用地の中でも、穀物栽培用地の割合が特に増加した。これは13世紀の末には既に危険な状況を作り出した。即ち森林と採草地、放牧地の現象が有畜農業のバランスを崩し始めるのである 。 次に挙げられるのは技術上の革新である。まず水車は古代にも知られていたが,11,12世紀ごろ西欧に拡大した。鉄製の農具も、既に中世前期から先進的大所領で使用されて居るとは言え、多数の農民の手元にいきわたったのは11世紀以降である。これは鉄製農具の製造、修理の技能者である鍛冶屋が村々に定着する過程を伴っていたと考えられる。この中でも取り分け重要な意味を持ったのが、犂の刃である。
中世前期の犂の刃は木製であったため、アルプス以北の落葉広葉樹の堆積した土壌を深く耕す事が困難であった。鉄製の刃と撥土板を備えた新しい犂が、この土壌の生産性を著しく高めたのである。また改良された繋駕法も同じく中世初期に始まり11世紀に普及する。馬の場合、この改良によって10倍ものエネルギーを引き出すことが可能になるという。 穀物栽培における三圃農法は、土地利用の高度化、気候変動によるリスクの分散、季節ごとの労働量の平均化といった長所を備えている。これも一般には9世紀ごろパリ地方の大所領で始まったとされるが、これが西北ヨーロッパに広く普及するのは12,13世紀の事である。取り分け共同体による耕作強制を伴う三圃制は、放牧地が乏しくなった12世紀以降の産物であると考えられる。 (3)こうした革新の結果、播種量に対する収穫量の割合も上昇した。…いくらかの教会所領や都市近郊所領の中世後期の資料から導かれる10倍前後の収穫率は、中世農業革命の成果とみなすことができる。これについては帰国条件、土壌の質と並んで、投下された資本量が恐らく重要な意味を持っていたと思われる。即ち技術革新の成果を十分に取り入れるためには、一続きの形に整序された後代で肥沃な耕地、多数の家畜などが必要であり、このような条件を満たす経営は限られていたのであろう。 ともあれ人口と農業生産の増大は、農村の数を増大させ、城や修道院を叢生させ、都市的集落の増加と成長を支えた。しかし農業生産の成長は人口のそれに追いつくことが出来なかった。14世紀の始めの西欧は人口の飽和、更には過剰の兆候を呈し始めるのである。

中世期の商業3

3.中世盛期ヨーロッパ商品流通圏の構造: 中世ヨーロッパ経済の躍進は12世紀半ばシャンパーニュの大市の出現によって口火が切られた。パリ東南部に広がるシャンパーニュ地方の諸都市…では、1年を通じてどこかで市場が開かれていて、フランドルの毛織物を始め、イタリアからもたらされる東方の物産、例えば毛織物染色の媒染剤である明礬、染料,皮革,香料、胡椒などが容易に入手出来た。フランドル商人の中では、1127年アラスとサン・トメールの毛織物商人がシャンパーニュのバポームに現れてくるのが記録の初見で、1174年ミラノ商人が市を訪れて居るのが、イタリア商人登場の最初である。以後フランドル諸都市の承認はもとより、フランス、イタリア各地の商人が[集まる]ところとなったが、彼らはそれぞれ一種の国民的単位の団体を構成し、代表者を選出していた。シャンパーニュ伯は市場の繁栄を促進するため、市場の平和、取引の自由を保障し、市場監督官を任命して取引契約の違反を取り締まらせた。債権債務の紛争は市場内の法廷にかけられ、審理に応じない場合には、被疑者の財貨が押収され、そのものの属する都市に対して「市場閉鎖」が通告された。「この「市場閉鎖」の通告令は13世紀半ばに始まり、シャンパーニュ大市の独占的地位が失われる14世紀初頭まで数多く見られる。 (357)…フランドル毛織物は、また東欧を西欧経済圏に結び付ける大きな原動力となった。フランドルとドイツを結ぶ中継点はケルン市である。ケルンは大司教座の所在地として行政的宗教的中心であったが、同時に優れた土着産業を持ち、特に刃物とか鐘といった金属加工業では全ヨーロッパに名声を謳われた。くわうるに、ライン川の中流に位置するとい(358)う好条件から、この都市へはレーゲンスブルク、オーストリア東部から商人が訪れたばかりでなく、ケルンから東へ延びる幹線商業路によって、中部ドイツ諸都市との往来も頻繁であった。…ところで、12世紀半ばに入ると、エルベ川以東の地が国際商業網に編みこまれる。ドイツ農民の、そして後にはドイツ騎士団の所謂東方植民が、プロイセン、ラトビア、エストニア地方を新たにドイツ人の活動舞台に加えたが、これと並行してバルト海沿岸に彼らの商業活動が始まっていた。
…(359) ロシアから購入されたのはキツネ、熊、テン、、海狸など高級な毛皮、樹脂、タール、木灰等である。聖ピーター館は、商取引場であると同時に、商人の宿泊所であり、教会をも兼ねていた。このような「商人教会」はスカンディナビア各地にも見られるという。こうした商人団がいわゆるドイツ・ハンザの起源を成す者に他ならなかった。 ハンザの本拠となるリューベック市[では]初期の定住者が市内の土地を独占的に所有し、後来の商人、手工業者にそれを貸し付け、或いは都市計画を実施し、港や市場の周辺部に倉庫や店舗を作って貸し付けたのは確かなようである。そして彼等は市参事会を設け、1226年皇帝フリードリヒ2世より正式の自治権認可を受けた。ドイツにおいて市参事会が登場する最初である。… リューベックではコッゲと呼ばれる舷側の高い、船蔵の大きい帆船が建造され、海上の往来が容易となった。リューベック商人はこの船を持って、またリューネブルク産の塩を携えて、スカンディナヴィアへも進出した。 …(360)スカンディナビアおよびバルト東岸スラブの物資は、全てリューベックに集荷され、西欧へと送られた。デンマークがこの経済的拠点を狙ってしばしば征服の手を伸ばすのは当然の成り行きである。…リューベックはまた1264年シュトラールズント、ロストック、ヴィスマルと同盟を結んだ。1280年にはウィスビーが、82年にはリガがこの同盟に加わり、次第に都市同盟の形を整えていった。たまたま1284年、ノルウェーがたら漁の中心地ベルゲンへのドイツ商人の来訪を阻止しようとしたことから戦争となり、都市同盟は団結してノルウェーを破り、大いに自身を強めた。その結果、1298年ノブゴロドとの貿易交渉が行なわれた際、リューベックは都市同盟を正式に代表する事を宣言し、ゴートランドの商人ハンザの権限を停止すると共に、その印章の使用を禁止した。ここに商人ハンザから都市ハンザへの脱皮が為されたのである。
…(362)では、中世盛期の地中海の状況はどうであったろうか。12世紀の地中海では、ヴェネチアとジェノヴァが次第に抜群の存在となって行った。ヴェネチアはアドリア海を制圧すると共に、コンスタンティノープル進出に重点を置き、1171年皇帝マヌエル1世コムネノスが首府在住の外国商人の逮捕を命じたとき、ヴェネチア人は1万人に達したといわれる。…1204年の第4回十字軍、ラテン帝国の建国[に向け]ヴェネツィアはコルフ、ロードス、クレタ、エウボイア島などを獲得した。コレに対してジェノヴァは、ピサと抗争しつつ、リグリア(363)海岸、コルシカ、サルディニアの支配権を確保し、南フランス、スペイン海岸、シチリア島、北アフリカの海運、貿易を独占した。しかし13世紀始めマルセイユの台頭によって、排除され、東方への転換を余儀なくされる。そこではヴェネチアと激しく競走しなければならなかった。…東方の物産は、ミョウバン、綿花、染料、砂糖、サフラン、香辛料(胡椒、しょうが、丁子、肉桂、ナツメグ、沈香など)、熱帯性果実、奢侈的織物(絹、金襴、ビロード、ダマスク、じゅうたん、金・銀糸)、真珠、宝石類などからなり、この商業を一般にはレヴァント貿易と呼んだ。…(364)ところで、ジェノヴァが東方に重点を移した13世紀中葉は、まさにモンゴルの支配が南ロシア及びメソポタミアまで及んだ時期に当たって居る。この「モンゴルの平和」を利して東方の物産は主として黒海へ流れ込み、ジェノヴァはタタールのクリム汗の認可を得て、カッファ、スダクなどに根拠地を構え、東方貿易の大半を掌握し、同時にタタール人の奴隷をエジプトに売り、或いはコンスタンティノープルに南ロシアの穀物、ロウ、漁獲物を供給した。ヴェネチアはタナに植民した。… カスピ海の南岸を通過して、黒海にいたる通商路も良く使われた。小アルメニアのアジャス港、黒海東南岸のトレビゾンドからそれぞれ東へ奥地に入り、アゼルバイジャンのタブリスにいたり、ここから東へカスピ海南岸を掠めていくのである。…タブリスには1264年にヴェネチア、ジェノヴァ、ピアチェンツァ商人の定住が見られ、コレが西ヨーロッパ人の東方進出の最先端であった。1295年、マルコ・ポーロがインド洋からホルムズに上陸して帰国した経路は、タブリスートレビゾンドの道であった。 
 しかし、14世紀半ばには居ると、この黒海の道の安全は失われる。モンゴル諸汗国に内乱が置き、さらにチムールが中央アジアから西アジアを席巻し、通商のための平和が失われたからである。再びエジプトとシリアの重要性が回復したが、同時にオスマン・トルコのバルカン進出が始まる。ジェノヴァはオスマンの侵攻を助けたがそれによって特権を維持できたわけではなく、貿易量は減少した。…(365)エジプトのマムルーク朝スルタンも、1428年胡椒貿易の独占を宣言し、100%の物品税を課し、その為胡椒の価格は殆ど倍加した。1480年市価50ドゥカーテンの胡椒に対して110ドゥカーテンの税が要求され、その納付を拒否したためヴェネチア商人は換金され、支払いを強制されたという。… 13世紀半ばヴェネチア、ジェノヴァを中心とするレヴァント貿易の全盛は、イタリア及び南ドイツに大きな影響を及ぼさずにはいなかった。例えばフィレンツェは12世紀半ばフランドル毛織物の未仕上げ品を仕入れて、これを染色し、オリエントに輸出する毛織物商業を始めて居るが、14世紀半ばには生産地に転じ、1338年輸入未仕上げ品1万クロスに対し、当地で生産される毛織物は8万クロスに達し、3万人の就業者を抱えるまでに至っている。 ヴェネチアに「ドイツ人商館Fondaco dei Tedeschi」が現れるのは1228年のことであるが、ここを訪れたのは主としてニュルンベルク、アウグスブルク、ウルムなど南ドイツ都市の商人であった。彼等はブレンナー峠を通ってヴェネチアに赴き、そこで仕入れた東方の物産を中部ドイツ、更にハンザ地域に運んだ。…ニュルンベルクはまた金属加工業でも優れ,犂、窯、鎖、錠前、針金、刃物、武具など[が生産された]。 ブレンナー峠と並び称されるアルプス中央部のサン・ゴタール峠が開通し、通商路として利用され始めたのは13世紀後半の事であった。
南ドイツ、シュワーベン地方には古くから麻織物業が盛んに行なわ(366)れていたが、14世紀には行って農村工業を基盤とする輸出産業となり、サン・ゴタール峠を経て、ジェノヴァへ運ばれ、スペイン或いはオリエントへ輸出された。… アウグスブルク、ウルムの商人は、ヴェネチアとの商業を通じて木綿を知り、これを輸入して麻との交織を開始した。これがバルヘント織物であり、オリエントで広く愛好されたという。16世紀初頭アウグスブルクの巨商フッガー家、ウェルザー家らが資本を蓄積したのは、この商業を通じてであった。 最後にドイツの鉱山業を一瞥しておこう。高価な東方の物産に対する代価は、毛織物・麻織物では到底相殺できず、金、銀によって支払うほかは無かった。その銀を大量に産出したのがドイツである。13世紀の一時的勃興・衰退を経た後、ドイツの銀山は15世紀後半に爆発的発展を示した。露天掘にかわる堅坑採掘法の採用、排水技術の改良がこれに大いに寄与している[…]。1525年皇帝カール5世の勅令によれば、ドイツの鉱産物は年産200万グルデンに達し、採鉱・精錬に従事する者10万人と評価されているが、それは決して誇張ではなかった。高度な分業に立って経営される鉱山業は莫大な資本を有し、アウグスブルク商人の絶好の投資対象となった。中世末期、近代初頭を飾る「フッガー家の時代」はこうして現出したのである。
4.ツンフト闘争 -中世末期都市経済の変貌 (367)[前節で見たように]13,14世紀は農業生産力の上昇、人口の大増加、無数の中・小都市の誕生の時期でもあった。…中小都市は近隣の農村とのみ農産物・手工業品の交易を行なう、所謂閉鎖的「都市経済」型に属するものであった。 大都市では14世紀に入ってその内部生活に大きな変化を生じた。その情況は国によって異なる。…フランドルでは13世紀に毛織物工業部門において問屋制が生まれ、問屋である大商人ら上層市民が市政を牛耳り、特にその一部の都市門閥に権力が集中していた。これに対し、増税と労働条件悪化によって圧迫された織布工を始めとする手工業者はしばしば蜂起する事になる。1280年最初の大蜂起が起こり、手工業者はフランドル伯に、都市門閥側はフランス王にそれぞれ同盟者を求め、コルトリイクの戦いで前者が勝利した。毛織物商人ギルドは解散させられたが、しかし商業資本に対する手工業者の従属は止まず、英仏百年戦争最中の1345年ガン、ブリュージュ、イーブル3市で織布工の蜂起があり、一時的に市政権を掌握した。… (368)イタリアでは、1200年以後都市内部の紛争に介入しうる上級権力が存在せず、そこで各都市とも外部から名望ある貴族を招いて、当地を委任する方法を取った。これをポデスタ制と言う。フィレンツェは、この制度を克服して、13世紀末に21組合を基礎とする民主的市政を実現したが、実権は大組合を構成する大市民の手中にあり、下層市民の抵抗は1378-82年チオンピの乱となって現れた。この後、1434年メディチ家の独裁となるが、ミラノでもヴィスコンティ家、つづいて スフォルツァ家が独裁権を握っており、15世紀イタリア都市の多くはこうした独裁形態をとった。 ひとり民主的市政を実現し、保持したのはドイツである。一般に之をツンフト闘争と言う。…[市民蜂起の後]勝利を得た新市政はツンフトを基盤とし、ツンフトの数は28とされた。即ち雑貨商、パン屋、肉屋、毛織物商…、それぞれから1名の市参事会員を選出し、全(369)市民はどれかのツンフトに属さねばならない。まとまって一つツンフトを形成し得ない少数の職業者はもよりのツンフトに加入する。市の首長もツンフト代表から選ぶ。このように市政とツンフトは完全に融合したが、この場合のツンフトは同職組合であると同時に、市民の市政参加の政治的単位といった性格を濃く持つようになっている。

中世期の商業2

2.ギルド -その起源と展開ー 中世の商人や手工業者の同職組合、所謂ギルドの起源については、様々な学説がある。…(352)社会不安の一般的な中世にあっては、人々は自衛の手段として、封建領主と支配・庇護の関係を結ぶか、或いは同等者からなる仲間を結成するほかは無かった。特に領主の支配を脱して自立的に営業を営む手工業者または事情不案内な遠隔地を旅行する商人にとっては,同職組合を結成することは必要不可欠なことであった。商工業を安全に営む集団的保証という所にギルドの本質があり、それに仲間意識を醸成する様々な行事、規約が付随的に発生したのである。 アルプス以北のギルドに関する最古の史料は、779年カール大帝のハリスタル勅令に「なにぴとも相互宣誓によりギルドに結合すべからず」とあるのがそれであるが、これは恐らく異教的礼拝行事が行われる事を禁止する措置であったと言われる。…9世紀にはギルドの萌芽形態が形成されつつあったのである。 商人ギルドが明瞭に姿を現すのは、1021-24年の頃、修道士アルベルト・フォン・メッツによって記録されているティールのギルドである。ティールはドーレシュタットの吹田以後、その地位を引き継いだ商人集落であるが、あるベルトによれば、そこの商人ギルドは、皇帝の証書によって認められた独自の商人法によって係争を裁き、債務争いが起こったときには決闘や神判によって真偽を決定するのではなく、ただ潔白の宣誓によってことを決した。また彼等は共同の金庫を持ち、その金によって毎年一定の時期に共同の飲食会を催したといわれる。 ギルド規約が伝えられている最古の例は…、(353)実際は毛織物商ギルドの規約であるが、その原初部分である28か条を見ると、第一に宗教的義務が強調される。ギルド員は聖ペトロ、聖ニコラスの祭日には、12本の灯明を献じ、聖霊降臨祭には施し物を供え、死者があれば艶を行い、埋葬に列席する。…。 初期のギルドは商人を主体とし、それに手工業者が加入するという包括的な形態を取り、位置都市にいわば一つの商人ギルドしかなかったのであるが、荘園の領主館で働く隷属手工業者が自立化し、あるいは都市近隣の農村手工業者が都(354)市に移住して、手工業者の数が増えるにつれ、手工業者は職種別のギルドを結成するようになった。

ドイツでは手工業者ギルドを、ツンフト、アイクヌンクなどと呼んだが、その最初の例は1106年ウォルムスの猟師ツンフト特許状である。特許状は、漁獲とその販売権を23名の者に制限し、更にその世襲を認め、相続者の欠けた場合の補充の仕方を規定している。…ケルン市では、1149年市の実力者市民団体によって、敷布織工ツンフトの設立が承認されて居るが、認可状は、同職者がすべて所属すべき事、加入し無い者は厳罰に処せられること、ツンフトは干拓地に開設された市場に屋台を置いて敷き布を売ることができること、と言う簡単なものである…。(355)以上の諸例によって、ギルドの目的が組合員の営業の保証、相互扶助、そして非組合員を当該営業から排除する、所謂ツンフト強制にあったことが伺われるであろう。 南ドイツの司教都市では、都市領主が個々のツンフトに営業を認可するという形を取らず、各ツンフトを一括して司教役人の統制したに置き、領主に対する貢租を義務付けていた。…イタリアの手工業者ギルドも早くから権力者を保護者に置く傾向があり…ギルドはコレギウム、オフィキイウムのほかに、アルテと(356)称され、14世紀初頭のフィレンツェには7つの大組合、14の小組合があった。 一般的に言って、商人ギルドは12-13世紀の時代に成立、普及し、手工業者ギルドは1世紀遅れて形成された。イギリスではエドワード1世時代(1271-1307年)に議会に代表を送った160の都市のうち、92までに商人ギルドの存在が確認されるという。そして、この商人ギルドが中心となり、手工業者ら下層市民を糾合して、都市自治権闘争が展開されていったのである。

中世期の商業1

ヨーロッパ中世の手工業と商業(瀬原義生)
1.中世初期の商工業 …(344)[中世経済の出発点を5,6世紀として]たとえば550年トリノ司教ルーフスはトリエル司教ニケティウスの求めに応じて、聖堂修復のための建築工をイタリアから送っており、また6世紀末教皇グレゴリウス1世の書簡によると、ナポリに石鹸工の組合が存在したといわれる。643年に出されたランゴバルト王ロターリの勅令第144条には、石工の親方が同僚達と建築に従事する際の責務が書かれて居るし、同第5条には石工の賃金が規定されている。744年ピアチェンツァには石鹸工の組合があり、国王に年30ポンドの貢租を納入していた。ランゴバルト王国の首府として栄えたパ(345)ヴィアでは、10世紀初頭に両替商、金細工士、漁夫、船頭、石鹸工、毛皮商の団体があり、「国王の手工業者団体」と称している。尚、パヴィアでは春秋2回の歳市が開かれ、イタリア諸都市から商人が訪れたが、ヴェネツィア商人は715年に姿を現し、パヴィアで年額25リブラの取引税を納めて居る。このようにイタリアでは、はやくから商人、手工業者が記録に現れ、しかも組合を作っていた。…メロヴィング朝ガリアにおいて、全域的に商業取引が行われていた事は、最近の考古学的調査によっても確かめられる。即ち、メロヴィング期の造幣所と、貴金属を計量する精密秤の分布状態を見ると、セーヌ川以南に造幣所が多数点在しているのに対して、ムーズ川からライン川にかけては精密秤が多く見られ、セーヌ川とムーズ川の間では両者が混在する、と言う結果が示されて居る。つまりセーヌ川以南では、遠距離だけではなく、近距離についても、商品・貨幣流通経済が比較的活発に行なわれていたのに対し、セーヌ川以東の地域では、様々な貨幣が流れ込んでおり、それらの純度を調べ、秤にかけて貴金属の比較計量を行なって、物資・貨幣の交換が為されていたのではないか(346)と考えられる。更にライン川以東については、殆ど貨幣経済は行なわれていなかった、と考古学者ヴェルナーは結論を下している。
 熟練した手工業者は、数少なかったようである。…手工業者は王宮や領主の館を巡歴し、材料の提供を受けて作業し、終えると次の土地に移ったと推定される。彼等の墓から槍の穂先、盾等の武器が発見されているところから見ても、自由に移動できる地位にあったことがわかる。[熟練手工業者の少数性、散在性を見出す事ができる]。 カロリング朝期に入ると記録はやや多彩となる。8世紀末カール大帝が発布した「荘園令」第45条に、鉄、銀、金の金属細工人、轆轤細工人、大工、盾作り、靴職人、漁労・狩猟用具制作職人、指物職人、漁師、パン焼き、ビール醸造職人などの存在が挙げられ、彼等はミニステリアーレス(役人)と呼ばれている。また荘園内には、女子作業所が設けられ、亜麻がつむがれ、羊毛がすかれ、アカネなどの染色剤の供給が証明するように,織布の染色も行なわれていた。第62条は、荘司に対し彼の管轄下に有る鉄と鉛の鉱産物の量を正確に報告するように命じている。 ところで「荘園令」第33条は、荘司に消費されなかった余剰物質の適当な価格による売却処分を規定しているが、これは局地的な市場を成立させる事になる。… 勿論、こうした国内の局地的商業と並んで、遠距離商業も存在していた。9世紀前半イスラムの南フランス海岸に対する襲撃およびシチリア島の占拠は、東地中海からマルセーユへの船の来航を困難にしたが、サン・ドニ修道院がマルセーユの王領在庫で東方の物産を購入し、それを運ぶ際の通過関税を免除されるという特許状(716年初出)が、845年シャルル禿頭王によって更新されているところを見ると、決して通行が途絶していたわけではない。またアドリア海を確保するビザンツ帝国の保護下に、8世紀末からヴェネツィアらが東方貿易に従事し始めていた。 しかし、カロリング期の遠距離貿易で特徴的なのは、北方諸地域との商業が急速に台頭してきたことである。その一つがイギリスとの通商であるが、その中継地としてカンシュ河口にカントヴィクという都市的集落が出現した。
カントヴィクの史料初見はベーダ『イギリス教会史』669年の頃であるが、710年頃の資料によると、ローマへの最短路にあたると記されて居る。この集落を通ってローマへ盛んに巡礼が赴くが、巡礼の免税特権を悪用した商人が現れるようになり、795~6年カール大帝はマーシャ王オッファに対し、それを取り締まるよう苦情の書簡を送っている。10世紀半ばノルマンの度重なる襲撃によってカントヴィクは消滅するが、イギリスとの交渉はヴィサン、ついでカレーを通じて益々頻繁となっていった。…(349)こうしてカロリング期の商業は、荘園制から派生する局地的商品流通と、毛織物、鉄、銅などの金属、塩、塩漬魚、葡萄酒など生活必需品を中心とする北海・バルト海遠隔地貿易との二元的構造を持ち、またそれに対応した手工業の発達を見たのである。そこでは最早地中海奢侈品貿易は大きな比重を持たなかったと見てよいであろう。…(350)ノルマン人の侵攻[は]西ヨーロッパの経済活動に大打撃を与え、フランク王国期を通じて着実に伸びてきた発展に一大停滞をもたらした。特にフランスでは、深刻な封建的分裂の進行もあって、その経済的停滞からの回復は緩慢であった。それに比して、ドイツはノルマンの被害をそれ程受けず、また10世紀前半マジャール人の侵入は経済活動に影響を殆ど与えず、10世紀半ばザクセン朝の登場と共に回復は速やかに進んだ。10世紀後半からドイツが国際政治においてイニシアチブを握るに至るのは、このような経済的事情を基盤としたからに他ならない。 10世紀のドイツでは、内陸開墾が急速に進み、人口増加が著しかった。これは市場開設を促したが、遠距離貿易品を対象とする公的市場の開設、或いは貨幣鋳造所の設立は、この頃国王の独占する特権であった。そして、937年オットー1世のマグデブルクに対する市場開設許可上を始めとして、ザクセン朝歴代の皇帝は盛んに市場開設特許状を発布し、その数は、北ドイツだけで29箇所に達したという。
食料品などの売買される日常的な商市場の解説は在地領主に任されていた。こうしてドイツには市場網が張り巡らされる事になり、そこから都市が発生した。…(351)11世紀に入ると、ピサ、ジェノヴァの進出が始まる。まず、ピサはコルシカ、サルディニアを奪回した。1087年にはジェノヴァ、ピサ、サレルノ、アマルフィはチュニジア海岸のマーディを占領し、焼き払い免除金10万ディナールを獲得した。そして、イタリア諸都市は十字軍の発向を静観していたが、それが成功すると見るや船団を提供し、1101年十字軍士によるカエサレア略奪に際しては、それに参加したジェノヴァは略奪品の15%を獲得したという。1123年にはヴェネツィアは全兵力(艦船300隻、兵員1万5千)を挙げて出撃し、エジプトの全艦隊をアスカロンで撃滅した。この時点からアラビア艦隊は姿を消し、イタリア商人は、地中海を我が物顔に闊歩するのである。