2010年2月3日水曜日

中世期の商業3

3.中世盛期ヨーロッパ商品流通圏の構造: 中世ヨーロッパ経済の躍進は12世紀半ばシャンパーニュの大市の出現によって口火が切られた。パリ東南部に広がるシャンパーニュ地方の諸都市…では、1年を通じてどこかで市場が開かれていて、フランドルの毛織物を始め、イタリアからもたらされる東方の物産、例えば毛織物染色の媒染剤である明礬、染料,皮革,香料、胡椒などが容易に入手出来た。フランドル商人の中では、1127年アラスとサン・トメールの毛織物商人がシャンパーニュのバポームに現れてくるのが記録の初見で、1174年ミラノ商人が市を訪れて居るのが、イタリア商人登場の最初である。以後フランドル諸都市の承認はもとより、フランス、イタリア各地の商人が[集まる]ところとなったが、彼らはそれぞれ一種の国民的単位の団体を構成し、代表者を選出していた。シャンパーニュ伯は市場の繁栄を促進するため、市場の平和、取引の自由を保障し、市場監督官を任命して取引契約の違反を取り締まらせた。債権債務の紛争は市場内の法廷にかけられ、審理に応じない場合には、被疑者の財貨が押収され、そのものの属する都市に対して「市場閉鎖」が通告された。「この「市場閉鎖」の通告令は13世紀半ばに始まり、シャンパーニュ大市の独占的地位が失われる14世紀初頭まで数多く見られる。 (357)…フランドル毛織物は、また東欧を西欧経済圏に結び付ける大きな原動力となった。フランドルとドイツを結ぶ中継点はケルン市である。ケルンは大司教座の所在地として行政的宗教的中心であったが、同時に優れた土着産業を持ち、特に刃物とか鐘といった金属加工業では全ヨーロッパに名声を謳われた。くわうるに、ライン川の中流に位置するとい(358)う好条件から、この都市へはレーゲンスブルク、オーストリア東部から商人が訪れたばかりでなく、ケルンから東へ延びる幹線商業路によって、中部ドイツ諸都市との往来も頻繁であった。…ところで、12世紀半ばに入ると、エルベ川以東の地が国際商業網に編みこまれる。ドイツ農民の、そして後にはドイツ騎士団の所謂東方植民が、プロイセン、ラトビア、エストニア地方を新たにドイツ人の活動舞台に加えたが、これと並行してバルト海沿岸に彼らの商業活動が始まっていた。
…(359) ロシアから購入されたのはキツネ、熊、テン、、海狸など高級な毛皮、樹脂、タール、木灰等である。聖ピーター館は、商取引場であると同時に、商人の宿泊所であり、教会をも兼ねていた。このような「商人教会」はスカンディナビア各地にも見られるという。こうした商人団がいわゆるドイツ・ハンザの起源を成す者に他ならなかった。 ハンザの本拠となるリューベック市[では]初期の定住者が市内の土地を独占的に所有し、後来の商人、手工業者にそれを貸し付け、或いは都市計画を実施し、港や市場の周辺部に倉庫や店舗を作って貸し付けたのは確かなようである。そして彼等は市参事会を設け、1226年皇帝フリードリヒ2世より正式の自治権認可を受けた。ドイツにおいて市参事会が登場する最初である。… リューベックではコッゲと呼ばれる舷側の高い、船蔵の大きい帆船が建造され、海上の往来が容易となった。リューベック商人はこの船を持って、またリューネブルク産の塩を携えて、スカンディナヴィアへも進出した。 …(360)スカンディナビアおよびバルト東岸スラブの物資は、全てリューベックに集荷され、西欧へと送られた。デンマークがこの経済的拠点を狙ってしばしば征服の手を伸ばすのは当然の成り行きである。…リューベックはまた1264年シュトラールズント、ロストック、ヴィスマルと同盟を結んだ。1280年にはウィスビーが、82年にはリガがこの同盟に加わり、次第に都市同盟の形を整えていった。たまたま1284年、ノルウェーがたら漁の中心地ベルゲンへのドイツ商人の来訪を阻止しようとしたことから戦争となり、都市同盟は団結してノルウェーを破り、大いに自身を強めた。その結果、1298年ノブゴロドとの貿易交渉が行なわれた際、リューベックは都市同盟を正式に代表する事を宣言し、ゴートランドの商人ハンザの権限を停止すると共に、その印章の使用を禁止した。ここに商人ハンザから都市ハンザへの脱皮が為されたのである。
…(362)では、中世盛期の地中海の状況はどうであったろうか。12世紀の地中海では、ヴェネチアとジェノヴァが次第に抜群の存在となって行った。ヴェネチアはアドリア海を制圧すると共に、コンスタンティノープル進出に重点を置き、1171年皇帝マヌエル1世コムネノスが首府在住の外国商人の逮捕を命じたとき、ヴェネチア人は1万人に達したといわれる。…1204年の第4回十字軍、ラテン帝国の建国[に向け]ヴェネツィアはコルフ、ロードス、クレタ、エウボイア島などを獲得した。コレに対してジェノヴァは、ピサと抗争しつつ、リグリア(363)海岸、コルシカ、サルディニアの支配権を確保し、南フランス、スペイン海岸、シチリア島、北アフリカの海運、貿易を独占した。しかし13世紀始めマルセイユの台頭によって、排除され、東方への転換を余儀なくされる。そこではヴェネチアと激しく競走しなければならなかった。…東方の物産は、ミョウバン、綿花、染料、砂糖、サフラン、香辛料(胡椒、しょうが、丁子、肉桂、ナツメグ、沈香など)、熱帯性果実、奢侈的織物(絹、金襴、ビロード、ダマスク、じゅうたん、金・銀糸)、真珠、宝石類などからなり、この商業を一般にはレヴァント貿易と呼んだ。…(364)ところで、ジェノヴァが東方に重点を移した13世紀中葉は、まさにモンゴルの支配が南ロシア及びメソポタミアまで及んだ時期に当たって居る。この「モンゴルの平和」を利して東方の物産は主として黒海へ流れ込み、ジェノヴァはタタールのクリム汗の認可を得て、カッファ、スダクなどに根拠地を構え、東方貿易の大半を掌握し、同時にタタール人の奴隷をエジプトに売り、或いはコンスタンティノープルに南ロシアの穀物、ロウ、漁獲物を供給した。ヴェネチアはタナに植民した。… カスピ海の南岸を通過して、黒海にいたる通商路も良く使われた。小アルメニアのアジャス港、黒海東南岸のトレビゾンドからそれぞれ東へ奥地に入り、アゼルバイジャンのタブリスにいたり、ここから東へカスピ海南岸を掠めていくのである。…タブリスには1264年にヴェネチア、ジェノヴァ、ピアチェンツァ商人の定住が見られ、コレが西ヨーロッパ人の東方進出の最先端であった。1295年、マルコ・ポーロがインド洋からホルムズに上陸して帰国した経路は、タブリスートレビゾンドの道であった。 
 しかし、14世紀半ばには居ると、この黒海の道の安全は失われる。モンゴル諸汗国に内乱が置き、さらにチムールが中央アジアから西アジアを席巻し、通商のための平和が失われたからである。再びエジプトとシリアの重要性が回復したが、同時にオスマン・トルコのバルカン進出が始まる。ジェノヴァはオスマンの侵攻を助けたがそれによって特権を維持できたわけではなく、貿易量は減少した。…(365)エジプトのマムルーク朝スルタンも、1428年胡椒貿易の独占を宣言し、100%の物品税を課し、その為胡椒の価格は殆ど倍加した。1480年市価50ドゥカーテンの胡椒に対して110ドゥカーテンの税が要求され、その納付を拒否したためヴェネチア商人は換金され、支払いを強制されたという。… 13世紀半ばヴェネチア、ジェノヴァを中心とするレヴァント貿易の全盛は、イタリア及び南ドイツに大きな影響を及ぼさずにはいなかった。例えばフィレンツェは12世紀半ばフランドル毛織物の未仕上げ品を仕入れて、これを染色し、オリエントに輸出する毛織物商業を始めて居るが、14世紀半ばには生産地に転じ、1338年輸入未仕上げ品1万クロスに対し、当地で生産される毛織物は8万クロスに達し、3万人の就業者を抱えるまでに至っている。 ヴェネチアに「ドイツ人商館Fondaco dei Tedeschi」が現れるのは1228年のことであるが、ここを訪れたのは主としてニュルンベルク、アウグスブルク、ウルムなど南ドイツ都市の商人であった。彼等はブレンナー峠を通ってヴェネチアに赴き、そこで仕入れた東方の物産を中部ドイツ、更にハンザ地域に運んだ。…ニュルンベルクはまた金属加工業でも優れ,犂、窯、鎖、錠前、針金、刃物、武具など[が生産された]。 ブレンナー峠と並び称されるアルプス中央部のサン・ゴタール峠が開通し、通商路として利用され始めたのは13世紀後半の事であった。
南ドイツ、シュワーベン地方には古くから麻織物業が盛んに行なわ(366)れていたが、14世紀には行って農村工業を基盤とする輸出産業となり、サン・ゴタール峠を経て、ジェノヴァへ運ばれ、スペイン或いはオリエントへ輸出された。… アウグスブルク、ウルムの商人は、ヴェネチアとの商業を通じて木綿を知り、これを輸入して麻との交織を開始した。これがバルヘント織物であり、オリエントで広く愛好されたという。16世紀初頭アウグスブルクの巨商フッガー家、ウェルザー家らが資本を蓄積したのは、この商業を通じてであった。 最後にドイツの鉱山業を一瞥しておこう。高価な東方の物産に対する代価は、毛織物・麻織物では到底相殺できず、金、銀によって支払うほかは無かった。その銀を大量に産出したのがドイツである。13世紀の一時的勃興・衰退を経た後、ドイツの銀山は15世紀後半に爆発的発展を示した。露天掘にかわる堅坑採掘法の採用、排水技術の改良がこれに大いに寄与している[…]。1525年皇帝カール5世の勅令によれば、ドイツの鉱産物は年産200万グルデンに達し、採鉱・精錬に従事する者10万人と評価されているが、それは決して誇張ではなかった。高度な分業に立って経営される鉱山業は莫大な資本を有し、アウグスブルク商人の絶好の投資対象となった。中世末期、近代初頭を飾る「フッガー家の時代」はこうして現出したのである。
4.ツンフト闘争 -中世末期都市経済の変貌 (367)[前節で見たように]13,14世紀は農業生産力の上昇、人口の大増加、無数の中・小都市の誕生の時期でもあった。…中小都市は近隣の農村とのみ農産物・手工業品の交易を行なう、所謂閉鎖的「都市経済」型に属するものであった。 大都市では14世紀に入ってその内部生活に大きな変化を生じた。その情況は国によって異なる。…フランドルでは13世紀に毛織物工業部門において問屋制が生まれ、問屋である大商人ら上層市民が市政を牛耳り、特にその一部の都市門閥に権力が集中していた。これに対し、増税と労働条件悪化によって圧迫された織布工を始めとする手工業者はしばしば蜂起する事になる。1280年最初の大蜂起が起こり、手工業者はフランドル伯に、都市門閥側はフランス王にそれぞれ同盟者を求め、コルトリイクの戦いで前者が勝利した。毛織物商人ギルドは解散させられたが、しかし商業資本に対する手工業者の従属は止まず、英仏百年戦争最中の1345年ガン、ブリュージュ、イーブル3市で織布工の蜂起があり、一時的に市政権を掌握した。… (368)イタリアでは、1200年以後都市内部の紛争に介入しうる上級権力が存在せず、そこで各都市とも外部から名望ある貴族を招いて、当地を委任する方法を取った。これをポデスタ制と言う。フィレンツェは、この制度を克服して、13世紀末に21組合を基礎とする民主的市政を実現したが、実権は大組合を構成する大市民の手中にあり、下層市民の抵抗は1378-82年チオンピの乱となって現れた。この後、1434年メディチ家の独裁となるが、ミラノでもヴィスコンティ家、つづいて スフォルツァ家が独裁権を握っており、15世紀イタリア都市の多くはこうした独裁形態をとった。 ひとり民主的市政を実現し、保持したのはドイツである。一般に之をツンフト闘争と言う。…[市民蜂起の後]勝利を得た新市政はツンフトを基盤とし、ツンフトの数は28とされた。即ち雑貨商、パン屋、肉屋、毛織物商…、それぞれから1名の市参事会員を選出し、全(369)市民はどれかのツンフトに属さねばならない。まとまって一つツンフトを形成し得ない少数の職業者はもよりのツンフトに加入する。市の首長もツンフト代表から選ぶ。このように市政とツンフトは完全に融合したが、この場合のツンフトは同職組合であると同時に、市民の市政参加の政治的単位といった性格を濃く持つようになっている。