そして大学と言う制度そのものの中に、取り分け学科ごとの教師団体である「学部」と言う制度を通して、キリスト教的知識がその基盤を置く知の体系を温存しようとしたのである。[これを擁護した教皇グレゴリウス9世の教書がパレンス・スキエンティアルムである。その後パリ大学での托鉢修道会進出問題について、ローマ教皇庁のパリ大学支配、教皇庁によるパリ大学の直属機関化が、単に大学の理念という抽象論のレベルではなく、法を通しての具体的なものであったことを示して居る]。… (228) …12世紀の知的な活況の中で醸成された土壌から、新たな人的素材に担われた新たな教育・研究教育状況が生まれ、新たな知的世界を切り開いていったが、12世紀以降、新しい人間類型に属する「教師」と「学生」が「大学」と言う共同体を形成する事になった。その一方で、伝統的な知的営為の監督者、その領域での権威であるローマ教会は、普遍教会への道を進む中で、新たな知的世界の展開ーそれは既存のキリスト教的秩序を危険にさらす可能性があったという意味で挑戦と言うべきかも知れないーへの対応を迫られる。インノケンティウス3世以降のパリへの介入は、13世紀西方ラテン教会の教義と知の枠組みの中に、12世紀ルネサンスの産物である「大学」と言う新しい制度を取り込むことを目的とした一連の歩みであった。パリ大学は13世紀に、高位聖職者養成機関からキリスト教的知識の最高の研究機関となっていき、ローマ教会と言う権威に取り込まれる事によって、普遍的な知的権威を手にする事になったのである。
…パリと並んで「最も古い」ボローニャ、オクスフォード、モンペリエの大学創設に関しても、ローマ教皇の介入は行なわれた。例えば法学の研究と教育の中心地ボローニャに学生主導型で形成された「大学」への教皇の関与を見てみよう。1219年、ホノリウス3世は、ボローニャで(229)の教授免許交付権をその知の助祭長に認可した。この措置によって、学生はコムーネが教師達を通して行なっていた管理監視から離脱することが出来たと考えられる。また1224年には教師が「大学」の規約に従うことを教会罰を持って命じた。学生組合の解散と学生の市条例への服従を狙った市当局に対して、教皇庁が学生の自由を保護する立場に立って介入したのも、同じホノリウス3世在位下の出来事である。このように、ボローニャの学生の「大学」=組合の背後にあっても、教皇庁がその権威を行使したことが理解される。オクスフォード大学に関しても、その知の学徒に裁判上の特権的地位=世俗裁判権からの離脱を承認したのはインノケンティウス3世のローマ教皇庁であった。さらにモンペリエの医学「大学」の整備[など]教皇庁の権威が当該大学のあらゆる事柄にわたって保たれると規定されたのである。こうした一連の介入の目的は、教会による高等教育機関の整備、独占と言う射程の中で理解されるであろう…。