2010年2月4日木曜日

西欧史概観

井上幸治編『西欧史入門』有斐閣・1966年
・ヨーロッパとは何か(2) ヘロドトスを読むと、エウロペー(Europee)というのはティルス王の娘で、これからヨーロッパと言う名が出たように思われるが、ティルス人はアジア人であるから、ヨーロッぱという名の起源も分からないし、またその境界も明らかでないと書かれている。…(3)ローマ世界帝国の成立は、ヨーロッパの地理的歴史的外延を決定する上に画期的な事件であった。ポリュビオスはローマの世界征服の初期に、地中海を巡るローマ支配の拡大を描いたが、それはローマとカルタゴの闘争からコリントの破壊のときまでの歴史であった。そののちタキトゥスやカエサルはゲルマニア、ガリア、ブリアニアとローマ人との交渉の歴史のあとを辿った。ここに、近世初期にいたるヨーロッパと言う歴史的概念が成立した。 ・「ヨーロッパの社会的構造」:古代文化が地中海を巡る諸地方に発展し、地中海が「その思想、その商業の媒介者」の役割をはたし…、ローマの征服地にゲルマン人が侵入した後も、地中海の伝統的役割は変わらず、ヨーロッパ各地に定住したゲルマン人にとってもビザンツ帝国との交通路であった。しかし地中海世界にイスラムが征服地を拡大して行くと、「それまで地中海は東洋と西洋の間の10世紀来の紐帯であったが、それ以後は両者の障壁となった」…このように中世ヨーロッパは外に向かって自己形成を行なうと同時(4)に、内部的にも自己形成を行なったのである。…(5)ルネサンス、宗教改革を経て、近代的市民社会の形成に伴って明確になってくる「ヨーロッパ人」の精神的構造[は](6)次の三つの歴史的要素をうけとめたあらゆる民族であるという。第1は、ローマの影響である。嘗てローマの支配したところでは法の尊厳と司法の権威が認められ、ローマは組織と制度のモデルとなった。そこにおいて権力、法律的精神・軍事的精神・形式主義的精神の浸透した権力が永く刻印を残した。
第2は、キリスト教である。ローマの支配地に広まり、その範囲は殆どローマ帝国カの領域と一致した。この宗教は道徳をもたらし、ローマの征服は政治的人間しか捉えなかったのに対して、精神を支配し、その支配は意識の内奥に及んだ。第3は、ギリシア精神である。ヨーロッパ人がギリシアにおうものこそ、恐らくヨーロッパ人を最も他の人類から区別するものであろう。ギリシア人は精神の規律、あらゆる秩序における完成の異常なモデルを提示している。この規律から科学が生まれ、ヨーロッパは何よりも科学の創造者となる。 このようにして、カエサルとウェルギリウスの名、モーゼと聖ペテロの名、アリストテレスとプラトンの名が同時に意味と権威を持つところにヨーロッパがある。三つの条件を備えたものがヨーロッパ人である。
・封建社会:(54) 西ヨーロッパ史で「中世」とか「中世世界」とかいう場合には、普通ゲルマン民族の大移動が始まった4,5世紀から英仏間の百年戦争が終わる15世紀頃までの時代をさす慣わしとなっている。 しかしながら、このほぼ千年にわたる長い時代の中には、相互に異なった少なくとも三つの発展段階が存在している。即ち1.牧畜経済の前封建社会(民族大移動期よりほぼ10世紀頃まで)、2.地縁的農業経済の封建社会(11~13世紀)、3.近代化の起点をなした、日用品商品経済の発生期、封建社会の崩壊と近代国家の端緒的形成期(14-15世紀)がそれである。 このうち2の封建社会期は、ここで地縁的経済・法組織体が地方ごとにはじめて出現して、歴史的固体としての西ヨーロッパ世界が本来的に形成され、近・現代社会の大前提となった点で、それ以前の段階とは構造上決定的な差を有し、全西ヨーロッパ史がこれを境に二分されうるほどの大きな意味を持っている。 もともと「中世」という言葉はルネサンス人の発想から生まれたものであり、自らの時代を謳歌し正当化するために、直接先行する全時代を、古典古代と当代(ルネサンス期)との間に介在する、無意味なあるいは暗黒の、「中間の時代」とするという現実的・実践的な意味を持っていた。…今日、「中世」の語は最早特定の時代概念ではなく、単に慣用上の言葉にしか過ぎない。[封建社会]という語は、…古典荘園成立期の7~8世紀頃からアンシアン・レジーム期の17-18世紀頃までの、およそ千年にわたる時代概念・社会類型概念として使用されてきた。
その中には、古典荘園制期(7,8世紀~10,11世紀)・領域的裁判領主制期(16^18世紀)など、 権力の上からも経済の仕組みからも異なった幾つかの段階が含まれて居る。にもかかわらず、一つの概念で全体を括りえたのは、そこに共通して領主権なり農村共同体なりが見られたからであった。…フランス「人権宣言」や1804年の「ナポレオン法典」に明らかなように、資本制的近代市民社会の創出・形成に当たっていた商工業ブルジョワジーにとって、何よりもまず克服・否定せねばならなかったもの、それは領主権・農村共同体の存在であった。 領主権(地方的政治権力)と農村共同体(地方的経済組織体)は、経済・法・政治を国家的規模で組織化する際に最大の障害物となったのであり、それゆえにこそ初期近代市民はその克服のために、私的所有権の神聖・不可侵性、「私的自治」の原則、「自由な」商品交換をいやがうえにも強調せねばならなかった。…(56)19世紀の市民的理性が時代の要請として受け取ったもの、それは近代市民社会像の理念的確立によるアンシアン・レジーム体制の徹底的否定だった…。