ヨーロッパ中世の手工業と商業(瀬原義生)
1.中世初期の商工業 …(344)[中世経済の出発点を5,6世紀として]たとえば550年トリノ司教ルーフスはトリエル司教ニケティウスの求めに応じて、聖堂修復のための建築工をイタリアから送っており、また6世紀末教皇グレゴリウス1世の書簡によると、ナポリに石鹸工の組合が存在したといわれる。643年に出されたランゴバルト王ロターリの勅令第144条には、石工の親方が同僚達と建築に従事する際の責務が書かれて居るし、同第5条には石工の賃金が規定されている。744年ピアチェンツァには石鹸工の組合があり、国王に年30ポンドの貢租を納入していた。ランゴバルト王国の首府として栄えたパ(345)ヴィアでは、10世紀初頭に両替商、金細工士、漁夫、船頭、石鹸工、毛皮商の団体があり、「国王の手工業者団体」と称している。尚、パヴィアでは春秋2回の歳市が開かれ、イタリア諸都市から商人が訪れたが、ヴェネツィア商人は715年に姿を現し、パヴィアで年額25リブラの取引税を納めて居る。このようにイタリアでは、はやくから商人、手工業者が記録に現れ、しかも組合を作っていた。…メロヴィング朝ガリアにおいて、全域的に商業取引が行われていた事は、最近の考古学的調査によっても確かめられる。即ち、メロヴィング期の造幣所と、貴金属を計量する精密秤の分布状態を見ると、セーヌ川以南に造幣所が多数点在しているのに対して、ムーズ川からライン川にかけては精密秤が多く見られ、セーヌ川とムーズ川の間では両者が混在する、と言う結果が示されて居る。つまりセーヌ川以南では、遠距離だけではなく、近距離についても、商品・貨幣流通経済が比較的活発に行なわれていたのに対し、セーヌ川以東の地域では、様々な貨幣が流れ込んでおり、それらの純度を調べ、秤にかけて貴金属の比較計量を行なって、物資・貨幣の交換が為されていたのではないか(346)と考えられる。更にライン川以東については、殆ど貨幣経済は行なわれていなかった、と考古学者ヴェルナーは結論を下している。
熟練した手工業者は、数少なかったようである。…手工業者は王宮や領主の館を巡歴し、材料の提供を受けて作業し、終えると次の土地に移ったと推定される。彼等の墓から槍の穂先、盾等の武器が発見されているところから見ても、自由に移動できる地位にあったことがわかる。[熟練手工業者の少数性、散在性を見出す事ができる]。 カロリング朝期に入ると記録はやや多彩となる。8世紀末カール大帝が発布した「荘園令」第45条に、鉄、銀、金の金属細工人、轆轤細工人、大工、盾作り、靴職人、漁労・狩猟用具制作職人、指物職人、漁師、パン焼き、ビール醸造職人などの存在が挙げられ、彼等はミニステリアーレス(役人)と呼ばれている。また荘園内には、女子作業所が設けられ、亜麻がつむがれ、羊毛がすかれ、アカネなどの染色剤の供給が証明するように,織布の染色も行なわれていた。第62条は、荘司に対し彼の管轄下に有る鉄と鉛の鉱産物の量を正確に報告するように命じている。 ところで「荘園令」第33条は、荘司に消費されなかった余剰物質の適当な価格による売却処分を規定しているが、これは局地的な市場を成立させる事になる。… 勿論、こうした国内の局地的商業と並んで、遠距離商業も存在していた。9世紀前半イスラムの南フランス海岸に対する襲撃およびシチリア島の占拠は、東地中海からマルセーユへの船の来航を困難にしたが、サン・ドニ修道院がマルセーユの王領在庫で東方の物産を購入し、それを運ぶ際の通過関税を免除されるという特許状(716年初出)が、845年シャルル禿頭王によって更新されているところを見ると、決して通行が途絶していたわけではない。またアドリア海を確保するビザンツ帝国の保護下に、8世紀末からヴェネツィアらが東方貿易に従事し始めていた。 しかし、カロリング期の遠距離貿易で特徴的なのは、北方諸地域との商業が急速に台頭してきたことである。その一つがイギリスとの通商であるが、その中継地としてカンシュ河口にカントヴィクという都市的集落が出現した。
カントヴィクの史料初見はベーダ『イギリス教会史』669年の頃であるが、710年頃の資料によると、ローマへの最短路にあたると記されて居る。この集落を通ってローマへ盛んに巡礼が赴くが、巡礼の免税特権を悪用した商人が現れるようになり、795~6年カール大帝はマーシャ王オッファに対し、それを取り締まるよう苦情の書簡を送っている。10世紀半ばノルマンの度重なる襲撃によってカントヴィクは消滅するが、イギリスとの交渉はヴィサン、ついでカレーを通じて益々頻繁となっていった。…(349)こうしてカロリング期の商業は、荘園制から派生する局地的商品流通と、毛織物、鉄、銅などの金属、塩、塩漬魚、葡萄酒など生活必需品を中心とする北海・バルト海遠隔地貿易との二元的構造を持ち、またそれに対応した手工業の発達を見たのである。そこでは最早地中海奢侈品貿易は大きな比重を持たなかったと見てよいであろう。…(350)ノルマン人の侵攻[は]西ヨーロッパの経済活動に大打撃を与え、フランク王国期を通じて着実に伸びてきた発展に一大停滞をもたらした。特にフランスでは、深刻な封建的分裂の進行もあって、その経済的停滞からの回復は緩慢であった。それに比して、ドイツはノルマンの被害をそれ程受けず、また10世紀前半マジャール人の侵入は経済活動に影響を殆ど与えず、10世紀半ばザクセン朝の登場と共に回復は速やかに進んだ。10世紀後半からドイツが国際政治においてイニシアチブを握るに至るのは、このような経済的事情を基盤としたからに他ならない。 10世紀のドイツでは、内陸開墾が急速に進み、人口増加が著しかった。これは市場開設を促したが、遠距離貿易品を対象とする公的市場の開設、或いは貨幣鋳造所の設立は、この頃国王の独占する特権であった。そして、937年オットー1世のマグデブルクに対する市場開設許可上を始めとして、ザクセン朝歴代の皇帝は盛んに市場開設特許状を発布し、その数は、北ドイツだけで29箇所に達したという。
食料品などの売買される日常的な商市場の解説は在地領主に任されていた。こうしてドイツには市場網が張り巡らされる事になり、そこから都市が発生した。…(351)11世紀に入ると、ピサ、ジェノヴァの進出が始まる。まず、ピサはコルシカ、サルディニアを奪回した。1087年にはジェノヴァ、ピサ、サレルノ、アマルフィはチュニジア海岸のマーディを占領し、焼き払い免除金10万ディナールを獲得した。そして、イタリア諸都市は十字軍の発向を静観していたが、それが成功すると見るや船団を提供し、1101年十字軍士によるカエサレア略奪に際しては、それに参加したジェノヴァは略奪品の15%を獲得したという。1123年にはヴェネツィアは全兵力(艦船300隻、兵員1万5千)を挙げて出撃し、エジプトの全艦隊をアスカロンで撃滅した。この時点からアラビア艦隊は姿を消し、イタリア商人は、地中海を我が物顔に闊歩するのである。