2010年2月3日水曜日

成長と飽和10

・住民の権利と統治制度: これについては、まずアルプス以北と北、中部イタリアとで状況がかなり異なっている。[前者について。] 都市的集落は、中世前期から農村所領とは多少異なった支配秩序の下に置かれたらしいが、不文の慣習であったため、良く分かっていない。これに対して11世紀以降に形成された付属集落では新しい領主ー住民関係が作られ、時には文書で表現された。その性格は、住民の負担に法によって限度を設けるという事で、一般に「ブルグスの法」と呼ばれた。具体的には軽い地代、移転税の免除、移住者の住民権獲得、軍事的徴用の制限、罰金徴収の制限などがその内容となる。当時こうした法の元に生きる人間が「ブルグス住民」burgensesと称された。そして古い都市ないし都市核集落における領主ー住民関係も、これに似た者になって言った。 しかしこのような特権の都市性をあまり強調するべきではない。「ブルグスの法」が与えられた集落にも純農村的な性格のものは多かったのである。また地方によっては既存の一般集落にもおなじたぷの文書が少し遅れて普及するが、その集落の中にも都市的なものも農村的なものも見られた。ただ商工業が発達した集落の住民は、農村の住民に比べ次第により大きな権利を持つようになっていったことは確かである。 …次に住民の自治の問題であるが、ここでも都市と農村の間に断絶を認めることは出来ない。農村においても共同体はある種の自治活動を行なっており、また領主の支配は何らか住民代表との協議に基づいて行われ(25)るべきものと考えられていた。時として共同体の執行部と看做しうるものも現れる。… しかし集落によっては、より明確な自治制度が作られた。12世紀には北フランスからライン地方にかけて、集落住民が誓約を結んで団体を結成し、彼らの権利拡大と自治を求める運動(コミューン運動)が展開した。

このうちいくらかの集落では、この団体が制度として認められ(コミューン集落)、執行部が組織された。ひとたびモデルが出来ると、領主側から特許状によってコミューン資格が与えられる事例も見られるようになる。…しかしコミューン資格を始めとする自治権は必ずしも都市的集落にのみ与えられたのではない…、例えば早期に自治権を確立した都市として知られるケルンの場合でも、ケルン大司教は1288年にいたるまで軍事高権、警察権、関税や貢租の徴収権、貨幣鋳造権などを保持していた。 ・都市社会: まず人口の問題がある。アルプス以北の地域(ピレネー山脈からポーランドに至る大陸地域とイギリス諸島)では都市の規模は大きくは無かった。ここでは13世紀の最大の都市はパリで人口は8-10万程度であり、ネーデルラントのヘント、ブルッヘなどが5万程度でこれに続く。人口1万を超える集住地は30前後であり、これを(26)大都市と呼ぶ事ができる。人口が2千を超えれば既に中都市の名に値した。これに対してイタリアでははるかに都市の規模が大きい。ミラノは最低でも10万を擁し、ジェノヴァ、フィレンツェ、ヴェネツィアが9万程度でこれに続く。…ここで大都市の階層構成を概観しておきたい。まず領主階級であるが、イタリア都市を除いて戦士階級は余り定住していない。ただ在俗聖職者、修道士など相当数の教会人が生活していた。次に上層住民は、都市貴族とも呼ばれる大土地所有者と遠隔地商人ないし大規模な卸売商人などに分けることができる。後者は事業によって財を成すと、前者に転化する傾向があった。
 中層住民としては自分の店を構えた小売商人、手工業親方達が挙げられる。自前の店を持つことは社会的経済的自立性の証であった。彼等は同業団体を構成して親睦と相互扶助に努め、また過当競争を避けると共に業種としての信用の維持を目指した。彼等の元では職人や徒弟が家内労働力として働いている。また下層住民は、恐らく人口の半数を占めていた。独立性を欠いた貧しい手工業親方から、職人層、都市内農民、日雇い、芸人、こじきにいたる多様な層がここに含まれる。このほか、都市によってはユダヤ人の集団が居住し、金融に従事していた。 都市はある意味では農村以上の階層社会であり、民主的な社会ではなかった。都市自治と言っても、下層住民の大多数には全く参政権が無く、中層住民の発言権も限られたものである。即ち大多数の住民にとって、それは遠い「お偉方」の世界に属する事だった。しかし都市住民には、階層の差を越えた強烈な共同体意識が育った。それは究極的には農村的な世界の中に、異質なものとして存在している事の自覚から生まれるものであろう。彼等は祭りなどのイベントへの参加によって、また都市の囲壁、門、中心的な聖堂の威容を誇る事によって、この共同体意識を絶えず掻き立てていたのである。