2010年2月3日水曜日

成長と飽和2

2.領主と農民 「土地領主制」:中世史では領主制を三種に分類している。土地領主制、裁判領主制(政治的領主制)、体僕領主制がそれである。…土地領主制は、領主が所領の一部(直営地)を直接経営すると共に、その他の土地を農民達に保有せしめ、その代償として地代や労働の提供を求める制度であり、中世初期から見られる。中世盛期の大陸においては一般に保有農の労働提供である賦役は次第に軽減された。これは領主直営地の規模縮小、或いは雇用労働力の活用に(4)よって説明される。しかし多くの場合、直営地経営は蜂起されてはいない。12,13世紀には直営地の貸し出しも見られるが、直接経営への復帰が可能な形態をとっており、14世紀以降の直営地解体とは区別される。保有農の負担の中心は現物納ないし金納の地代となったが、その価値は徐々に低減する傾向にあった。 農民保有地の規模は極めて多様化している。かつてのマンススを基準としその分数で保有地の規模を表現するシステムは、最終的に放棄され、面積による表現に変わった。この中で、一方の極には大規模な経営を行なう富農が出現し、他方では、2,3ヘクタールの農地しか持たない小農が多数現れた。保有地が極めて矮小である為、領主直営地、富農経営地での被傭者としての労働によって生計を維持しなければならない農民世帯の割合は13世紀後半には半数近くに達していた。 「裁判領主制」:裁判領主制は、管轄下の領民の重大な係争や身体刑相当の重罪事件に対する裁判権を中核とする政治的支配権である。大陸の大部分では11,12世紀以降、有力な土地領主が城を築き、その周囲に一円的な裁判領主支配権(バン領主支配権)を形成した。 彼の権力は自分の土地領主権下の農民ばかりでなく、他の土地領主支配化の農民にも及んだのである。彼はこれらの「領民」を軍事的に保護し、流血裁判権を行使して地域の治安を維持する。そ(5)の代償として彼は裁判収入を手にし、領民に労役を提供させ、課税を行なう。
これに様々の独占権や使用強制による利得、更には通行税収入が加わった。城を持たない領主も、この裁判領主権の一部を保有する事があった。大陸における裁判領主制の発達は土地領主制による搾取の後退と対を為すともいえる。 「体僕領主制」:体僕領主制は、特定の人間集団を有る領主の所有物と看做す制度であって、しばしば農奴制とも呼ばれる。…これは、まず西洋の法制史に伝統的な理解によれば、住民の一定部分が領主に対して特に緊密に従属した存在と看做され、特有の法的無能力と負担とによって特徴付けられる制度である。従って論理的には、領主支配下に有るが「自由」身分とみなされる住民集団が、この「体僕・農奴」に対置される。その上で、この隷属集団の質的、量的な変動が地域や時期に即して問題にされるのである。これに対して経済史の発展段階論では、中世盛期の領主制に対応する農民の典型的存在形態をこの言葉で表現し、概念化する場合がある。その際には上述の土地領主制、裁判領主制の下にある住民はおしなべて「体僕・農奴」と看做される。 この時代の自由と隷属の問題は地域差が大きい。しかし大筋で言えば、土地領主制、裁判領主制の発展に伴い、まず緩和された奴隷制とも言うべき中世前期の体僕制度の退化が進行する一方で、大多数の住民が領主支配下に組み込まれる。この際、住民が領主と取り結ぶ関係の中には特に緊密な人格的隷属の形態もあり、これが体僕制の中心となる。
よく知られて居るように、彼等は法原則のうえでは領主の許可無く移住することはできず、また女性が集団外の男性と結婚する場合も子供が父親の財産を相続する場合も、特別の貢納によって領主の許可を買い取る(6)ことを要求される。その他、微額の人頭税を課されることも多かった。このような隷属に入らない住民はあるレベルでは自由民と観念されるが、領主に様々な負担を負う限りで、その自由は相対的なものでしかないとも言いうる。体僕と自由民が住民に占める割合は地域、時期によって異なり、自由民が大量に体僕に転化する減少も、また多数の体僕が「解放」される現象もともに観察される。しかし13世紀の後半では体僕精度は全体として大きく後退していった。