2010年2月3日水曜日

農業の展開と村落1

木村尚三郎他編『中世史講座 第2巻 中世の農村』(学生社・1987年)
三 ヨーロッパ中世における農業の展開と村落共同体 井上泰男
1.はじめに (86)西欧中世の農村社会を考える場合、その歴史的背景として、古代ローマ帝国領と帝国の国境の彼方にある部族制的なゲルマン社会のコントラストを念頭に置かなければならない。けれども5世紀以来、ゲルマン的な社会構造はローマ帝国のそれに近いものになり、このコントラストは次第に解消の方向を辿る。それとともに、異なった自然環境の下で生活する農村社会の地理的なコントラストの方が前面に出てくる。例えば地中海地方、フランス南西部、ラインラントでは、前期中世社会はローマ帝国の葡萄耕作を継承したし、アルプス、アペニン、ピレネーなどの山岳地方では、放牧が耕作よりもずっと重要であった。また東ドイツ、ポーランド、ロシアなど厳しい大陸性気候の元にある地方では、ライ麦が基本的な穀物であったが、島国のイングランドでは、春巻き穀物を令にとっても大麦、オート麦、そして野菜と言うように農業生産はより多元化していた。 このような異なった自然条件にもかかわらず、ヨーロッパ中世の農村経済は基本的に穀物耕作と家畜飼育を並存させる混合農業ないし有畜農業であるという点では共通していた。勿論耕地と牧地のバランスは自然条件、人口の圧力、並びに耕作の伝統によって様々に変化したことは言うまでも無い。 (87)アルプス以北のヨーロッパ内陸部では元々森林や原野が卓越し、耕地はまばらな居住地帯の周辺部に限られていた。9世紀頃に始まる初期の開墾運動で作られた村は、普通樹木が密生した原始林よりも茨や雑草のおい茂った草地や原野の中にあった。一方、森の中を歩き回っていたのは猟師、炭焼き、鍛冶屋、野生のミツバチやロウの採集者、ガラスや石鹸の製造に用いる灰つくり、皮なめしや網を編むのに用いられる樹皮のカワハギ人といった人たちで、彼等は普通農民とは隔たった生活空間を作っていたようである。 だがこれら森の住民も、大工や左官や陶工のような移動生活を送っていた中世の農村職人も、仕事が暇な季節に生活が可能なように、僅かではあるが土地を保有していた。
開墾が進むに連れ、これらの人々は近傍の農民共同体に次第にどうか・融合していく傾向が見られた。この傾向は耕地面積が増加する11世紀中頃から13世紀末頃に顕在化していった。ぶなやカシなどヨーロッパ特有の広葉樹林がどんなに豊かな恵みを中世の農民生活にもたらしたかはよく知られており、開墾と植民の運動が進展したからといって、森林とその資源を根絶やしにするようなことは無かった。こうしてヨーロッパは本格的な定着農耕の生活に入っていくが、それと共に農民生活の社会的な枠組みとしての村落共同体も、わずかな農家戸数のルーズなまとまりに過ぎなかった原初村落から、もっとコンパクトに住居の密集した地縁的共同体(中世村落)へ成長していく。子の村を数個または十数個、その支配と保護の中に抱え込んだ有力領主の城は、取り分け封建制が典型的に開花したライン・ロワール間の地域に群立してくる。 中世前期の荘園の領主達は、この有力領主、すなわち城主に臣従礼をとってその臣下となり、自由農民は自分の所有地を城主に寄託してその隷属民となった。城主の所領(シャテルニー)は城主の直轄領と城主の臣下の封土(騎士領)から構成されているが、それら単位所領の基礎にあるのが村であり、之を生産力発展の場とする村落共同体は村の領主と対抗しつつ、その自立性を高めて行く事になる。[以下]1.中世開墾運動の前提となる技術上の革新とそれによる農業生産力の発展。2.風土的条件とのかかわりにおける定住様式や農業制度の諸相。3.村落共同体を構成(88)する社会的諸要素並びに共同体の果たした社会的諸機能などを順次検討する。   2.技術革新と農業生産: 中世初期のヨーロッパでは概して技術上の進歩は緩慢で、地域的にも不均等であった。しかし11世紀以来進歩のテンポは少しずつ加速化され、12世紀の社会のルネサンスをもたらす原動力となった。大開墾運動の展開もこの技術革新に負うもので、木を切り倒す強力な斧、藪や下草を刈り取る鉈や鎌、川で運ぶいかだに丸太を揃えるのこぎり、木の根や切り株を取り除く鉞、滑車、犂といった道具が、大樹海に人間が食い込む事を可能にした。
このような道具の改良は、何よりも冶金術の進歩のお陰である。カロリング時代以来、鉄の溶鉱に当たって水力を利用したふいごによる通風と言う方法が考案され、これが火力を強めてより良質の鉄を生産する事を可能にした。この方法は馬鍬、犂、斧、鎌などの道具の改良に役立っただけではなく、ガラス、レンガ、陶器、そして耐火粘土の生産にも大いに貢献した。 フランドルのリルの王領荘園のような農業の先進地方では、金属製の農具がカロリング時代に出現している例も見られる。しかし当時は金属器の使用は先ず持って戦士階級に独占されたから、農村に鍛冶屋が出現して、鉄製の刃を持った農具が普及していくのは一般には9世紀と13世紀の間の事であった。蹄鉄工、金物細工人、鍛冶屋といった人たちは農民社会の中で選ばれた地位を占め、彼らがもたらした技術的進歩は農民の生活条件を大きく変えた。 R.ヒルトンは中世の村の鍛冶屋を次のように描いている。「彼は有輪犂や荷馬車の必要部分を鉄で作り、修理し、馬や牛に蹄鉄をつけ、半円形の鎌や長柄の鎌、斧やナイフを製造したり研いだりし、家の建設に必要な釘ややっとこを提供した。村の全生活は火事場の周りに集中し、そして大事なことは、鍛冶屋の技術の秘伝は、彼に半ば魔術的な威信を与えたことである」と。 (89)農具の改良で特に注目されるのは犂べらとか犂刀のように、少なくとも主要部は鉄製の大型の重量有輪犂(カルカ)が登場してきた事である。これこそ一つの革命といってよいもので、それはヨーロッパ北方の重く湿った土壌によく適合し、農民はこれによって肥沃な土壌を深く掘り起こす事が可能になり土地の生産性が高められた。同時に新型のこの重い有輪犂は多くの家畜力を必要としたから、個々の農民には高いものにつき、村落共同体による農業の共同化を促進した。… 牛馬に荷車やカルカを繋いで引っ張らせる繋馬法も著しく改善された。馬の索綱は従来のように直接首に掛けるのではなく、肩に掛ける方式に改められた。
これによって馬耕能力は倍化されただけではなく、馬は交通運輸の目的にも使われるようになった。また牛の索綱用のくびきはこれまで肩と首の中間あたりにあったが、これを前額部にあてて、牛の牽引力を高めるように工夫された。更に牛馬を縦に何頭も繋ぐ縦列繋駕法も考案された。 主要な役畜として、牡牛の変わりに馬が導入されるのは、蹄鉄の発明と馬糧としての燕麦の栽培が前(90)提条件であった。馬耕が西欧に普及し始めるのは11世紀以来で、北フランス、フランドル、ロレーヌなどの平野部では、13世紀始めには牛から馬への転換が一般化している。こうして犂耕のスピードアップと犂耕回数の増加が可能になり、農業生産の向上を促進した。 犂の革命は耕地の形状にも影響を及ぼす。何頭もの家畜を縦に繋いでひかせる重量有輪犂の隊列はそう簡単に方向転換できるものではないから、出来るだけ細長い帯状の地条からなる耕地が要求される。これらの耕地片は各農民の持ち分に属し、従って保有関係は複雑に入り組んで居るが、全体としては一続きで開放されて居ることが多かった。この共同の大解放耕地は普通三つの耕圃として組織され、その一つには夏穀(大麦、燕麦、所によっては豆類)を春まきし、他の一つには冬穀(小麦やライ麦など)を秋播きし、残りのひとつは休作して家畜の放牧に充てる。この順序を一年ずつずらして三年で一巡させる方法が三圃農法である。刈入れが終わった後の耕圃ではまず落穂ひろいが行なわれ、ついでそこでも家畜が共同放牧された。 開放耕地での播種や休作時の利用については共同体の慣行を守らなければならず、落穂ひろいにしても、また共同放牧における家畜の種類や頭数にしても或いは耕地の彼方に広がる森林・原野などの共同地への立ち入りについても、村の慣習法上のおきてを守らなければならなかった。いずれにしても、こうした事が中世村落の内部における本質的な共同体的慣行であり、三圃農法はこの慣行に最もよく適合していた。三圃制は肥沃で平坦な土地に恵まれた農業の先進地方(ライン・ロワール間の王領や大修道院領など)ではカロリング時代に既に実施されていたようであるが、一般に広まるのは11世紀から13世紀にかけてであった。
地中海地方では三圃制は殆ど発展せず、ローマ時代からの二圃制が優位を占め、北方の重量有輪犂にかわって、牛やロバやラバが引く無輪犂で土地を浅く耕していた。また都市に近接したところでは、古代以来オリーブや葡萄が栽培され、土地は個別的に囲い込まれ、共同体的慣行が制度化される余地は無かった。 ヨーロッパ内陸部でも、森林や原野が支配的な地方では、土地制度は三圃農法のような古典的な形を取らず、はるか(91)にルーズであった。家の周囲の野菜畑は恒常的に耕作されたが、大原野の中の藪を切り開いて作られた耕地は数年間耕作された後は放置され、荒れるに任された。つまり耕作用の空き地は絶えず移動していたわけで、こうした耕作様式の変種は近代初頭まで、ピレネー山脈からイギリスのケルト人高地地方にかけて広く分布していたようである。こうした地方で耕作用の空間が限定され、各種の輪作形式が生まれ、共同放牧や入会権などの共同体的慣行が定着していくのは、森林や原野が開墾され、耕地面積が増大する過程を経なければならなかった。…そのほかにも農民生活の効率を高めた道具、たとえば巻轆轤を用いた葡萄などの圧搾機の考案もあるし、農民生活に豊かな展望を開いた水車や風車のような発明もあった。特に風車と水車が農民をわずらわしい製粉労働から解放し、耕作の仕事に専念できるようにした意義は大きい。 風車はカスティリアでは早くも10世紀に使用されているが、西欧の他の地域に普及するのは12世紀以来のことである。製粉のために風力を利用する方法が伝わったのは、当時としては進んだ農業技術を持っていたイスラム教徒を介してであろう。その意味では、風車はシチリアの綿花、精糖、養蚕の技術などとともに「南方からの刺激」に負って居るとも考えられよう。いずれにしても、それは北方のイギリスやオランダなどにも広まり、長期にわたってヨーロッパの田園風景に欠かせない点景物となった。 風のむら気に影響されない水車はこれよりも更に強力で、またより広い範囲に広まった。
水力エネルギーのこの目覚しい利用法は、人力を節約する必要のあった中世の誇るべき技術革新で、これによる製粉技術の進歩は定着農耕社会への本格的な移行を示している。製粉用の水車は11世紀頃まではそれ程普及しなかったが、回転運動を往復運動に転化させるカム軸の発明ないし再発見によって、11,2世紀以来普及して行った。11世紀末イングランドではおよそ3000の地方に5600以上の水車があり、同時代のフランスではその10倍の水車があったといわれる。 水車は製粉ばかりではなく、様々な分野に応用された。鉱石や金属の圧延、刃物の研磨、織物の縮充、灌漑や製油、(92)麦芽の製造、ビールの攪拌などがそれである。 水車は領主独占に関わり、バン権(罪令権)に由来するバナリテ(領主独占による使用強制、他にもパン焼きかまどや葡萄の絞り機などがある)の主要な一環を為すものであった。水車小屋を経営したのは領主と特別な契約を交わし、種々の特権を与えられた粉挽き人で、農民は自家用の穀物をひくためにも使用料を支払って領主の水車を利用させて貰うほかは無かった。その際農民から徴収された水車使用料は領主経済にとって少なからぬ財源になったが、農民経済の側から見ても、従来の手挽きの石臼による製粉労働から解放された労働力を他の農業労働に振り向けられるという利益があった。 以上のような技術革新、取り分け三圃制の普及によって、農業の生産性も著しく向上した。[播種量に対して2~8倍。平均して3,4倍]… (93)こうして西欧中世の農業革命は必然的に「商業への農村の参加」を伴う事になる。この現象は農業における技術的変革の結果であると同時に、その原因でもあった。取り分け11世紀から13世紀に賭けて発展しつつある都市の農産物に対する需要の増大、周辺農村に対する都市の影響圏の拡大に注目しておきたい。13世紀に人口3000人の都市が存立できるためには、1000トンの穀物を生産する3000ヘクタールの耕地が必要であったといわれる。
商品流通に農村が巻き込まれていった指標のひとつは農村の週市や定期市の増加で、この現象は西欧のいたるところに見られたが、イタリアのような例外もある。ここでは10世紀に数多く存在していた農村市場は、農産物の取引の大部分が都市に集中した結果、衰退してしまった。 これに対し、フランス各地では11世紀から13世紀にかけて増殖した開墾系の新村は、多くの場合「地方市場町」としての性格を備えていた。… ところで、農業技術の革新と農産物市場の拡大は他方で農業生産の性格そのものにも大きな変化を引き起こす。J.(94)ブゥサールは11,2世紀のアンジュー地方について、農業技術の進歩を証明するブドウ栽培の発展、アンラビに穀物生産における燕麦と小麦による大麦とライ麦の駆逐、そして農民経営の文化と地方市場の成立と言う諸現象を統一的に説明している。このような経済的発展の背景には、アンジュー伯による政治的支配権の再編成過程があったことも忘れてはなるまい。 一般に中世前期の西欧農業は、穀物生産を主軸とする食用作物の多作経営と言う性格を持っていたが、それは不作の危険を回避するとともに、地方内自給経済の必要に応えるという事情によるものであった。しかしいまや都市消費市場の発展と共に、商品流通に対してより良く開かれた地方では、多作経営を完全に放棄しないまでも、その生産物の大部分が流通に振り向けられ、農村外市場に販売されるような商品作物の生産を主体とする「主作経営」へ転換していった。