2010年2月3日水曜日

農業の展開と村落3

4.共同体の構成と機能 村落共同体の構成要素としては、先ず農民経営の基本的労働力を担っていた家族を挙げなければならない。中世ヨーロッパでは血族集団としての大家族は消滅していたが、祖父母と父母のほかに、父の独身の同胞と子供達が同居するような家族共同体は珍しくは無く、祖父が壮健な間は、彼が農業経営の統括責任者としての課長的権威を保っていた。祖父が死に、成年に達した父の同胞が結婚すると、2世代からなる単婚小家族になるが、長男に妻子が出来ると元の家族構成に復帰する事になる。 これとは別に、バルカン地方やフランスの山国では「黙約共同体」と呼ばれる集団があった。これは親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団の事で、11世紀のバイエルンではその成員数は50人に上ったという。… 6世紀から11世紀頃までの農民家族は曽祖父母を共通の先祖とするような複合家族集団が一般的であったらしく、また血族間の団結はより強固だったに違いない。…また若干の農民家族は時としては、1,2名の奴隷を抱えて居るケースもあった。… (103)このような市家族の農業経営上の単位がマンス(ドイツのフーフェ、イギリスのハイド)で、それはラテン語のマンススから派生した言葉である。マンスは一家族の経営単位であると共に、領主(或いは国家)の収税単位でもあった。それは家屋と庭畑、耕地、共同地用益権の総体を現し、地域によっても、マンスの種別によっても異なるが、概して自由マンスは5~30ヘクタールの間で、平均して13ヘクタールくらい出会ったらしい。 マンスと言う言葉は他方でより特殊化され、農民家族の住居とそれに密接した庭畑(この部分は囲い込まれ、私的所有が貫徹している)と言う限定された意味にも解されている。…この集合体が固有の意味での「村落」であり、共同体的規制を伴う耕地、牧地、森林などの「村域」とはコントラストをなしていた。
ところで11世紀以来、地域によって遅速はあるが、このマンスは極めて細分化され、またマンスの面積の不均等性(従って農民階層の文化)が表面化し、次第に家族の経営単位としても、領主による課税単位としても、その意義を失っていく。(105) マンスの分裂や階層化といった農民社会の分極化傾向にもかかわらず、農民層の統合化の機能を維持したものこそ村落共同体に他ならなかった。同じのうちを耕作し、同じ村落の中に隣り合って生活していた農民家族は、経済的・社会的・宗教的な様々な絆によって結ばれていた。 村落共同体の統合機能の強度は、既に述べたように定住様式や耕地制度のあり方と密接に関わっていることは言うまでも無い。ロワール・ダニューブ間の来たの耕作地方のように、三圃制と共同放牧を伴う耕圃制村落では、領主を含めて共同体構成員の間で恒常的で広範囲にわたる協定を必要とした。耕圃や耕区の境界設定、家畜の放牧、森林や共同地の利用、作物の種類や農作業の期日の統制などがそれである。それらの協定を通じて共同体としての連帯は増大する。沼沢地や海岸を埋め立てたり、森林を開墾したりして作られた新むらの場合にも、土地は共同の維持や監視を必要とした。 … そうした農業上の共同体規制を必要としなかった地方は、寒冷でやせた土地の散居制地方しかありえなかった。しかし、そこでも枯れ木を拾ったり、家畜を放牧したり、野生の小動物を狩猟したりするためには、やはり共同体的な慣行な(106)しではすまなかった。 ここでは中世社会史の根幹を成す村落共同体が果たした精神的・法的な統合機能に重点を置いて考えてみよう。先ず注目されるのは、古い集住地方において農民の集団化の最初の核の役割を演じたのは、荘園の領主間ではなく、小教区教会であったことである。農民達は唯一の守護聖人の元に共同生活を送る教区民として自らを意識したのであり、事実11世紀半ば以前からフランス中部ではparrochia(小教区)という言葉が荘園villaと言う言葉に取って代わっている。荘園制度の解体や平和運動の進展は、この小教区の法人格化を推し進める有力な契機となった。
村落共同体が同時に「教区共同体」としての機能を有した事は次の事実からも知られよう。教会の保護者として自らを任じた農村領主は教会の維持をおろそかにしがちで合ったから、この仕事は信徒たる教区民の連帯責任とされた。また教会やその塔はしばしば唯一の石造建築であったから、それらは防備施設としての機能も果たす事ができた。…ローヌ渓谷を望む丘上の城砦集落もその一例である。この村落はカロリング時代の一修道院の近傍に生まれた。11世紀に修道士によって立てられた丘上の礼拝堂はやがて城の本丸に変貌し、14世紀には集落全体がほぼ方形の城壁で包み込まれた。住居の大部分は12世紀から14世紀にかけて建設されたといわれている。 ある小教区の守護聖人がその地方の複数教区に関わるときは、その聖人の祭日には、隣り合った(107)小教区同士の定期的な接触をも引き起こすことになる。教会の前、或いはその周囲に作られた囲い込まれた広場は村民達の聖域とされ、集会、避難、休息の場所にあてられた。… それはいわば信徒全体によって維持・管理される農民達の最初の共同財産であった。13世紀中頃まで戦士の侵入や聖職者の横領から守るために、農民達はこの共同財産を監視した。 こうして、平和の施設であり,聖域でもあった教会とその墓地は、しばしば農民の会合の場所として選ばれ、平和の先生もそこで行なわれた。…新開地に定着した移民の集団の中に生まれた連帯感にしても、これと同様な局面の中に位置づける事ができよう。…新たな植民集落は同時に法共同体としての性格を持っており、取り分け移民が様々な地方から来住した多くの異民族の混成体であるような場合にこの傾向は強かった。たとえばカタルニアでは早くも10世紀にバルセロナ伯は奴隷や受刑者達を新たに建設した村に移住させた。更にレコンキスタの全過程を通じて、多くの民族の混在(108)は共通する精神状態を作り出すための統合作用を必要とした。
fueroと呼ばれるスペインの慣習法特許状が12世紀中頃の新村に適用されたのはこのためである。…ドイツではライン地方のヴァイステューマー、中部ドイツのハンドフェステ、バイエルンの農村法などが移民の法的・経済的条件の改善に寄与した。…慣習法特許状の内容は、それぞれの方が普及した地域によって偏差が著しく、一般的にその性格を規定することは困難である。したがってそれは「ある集落ないし集落グループの住民に特別な権利(それは様々な性格、内容を含みうる)を承認したところの、王侯または領主によって布告された特許状」として、広く捉えておく事が適当であろう。 また慣習法特許状とか自治体布告と言う形で農奴制を廃止したり、領主の恣意的課税を規制するところまで至らなかったり、或いは村落住民が事実上は共同体を形成していても、租の法的認可を獲得するまでに至らなかったケースも多い。フランス北部のピカルディやアルトワあるいはフランドルなどでは、特許状によって明文化されていなくとも、事実上村方役人が存在し 、先駆的な自治体制度が機能していたケースが少なからず見られる。… (109)村落共同体は都市共同体とは違って、慣習法がコミューン運動によって一挙に確立されるというような事は無かった。寧ろ慣習法は古い時代から徐々に形成されてきたのであり、法人格化される以前から農村は事実上の共同体として存在していた。そして法人格を与えられてからは、教区共同体としての精神的な機能に加えて、法共同体としての統合機能が古い農業共同体としての機能を補完するに至った。村落共同体はその起源の古さ、その発展の普遍性と言う意味において、R.フォシュの言うように、正に「中世社会の基礎的な細胞」であったと言えよう。