2010年9月19日日曜日

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The child sex abuse scandals that have swept through the Catholic church, and the cover-ups involving senior clerics, have left many ordinary Catholics feeling shamed and angry.

So much so that some are opting out of the church.

Others argue that this is the time when the church needs to make major changes – pushing subjects long dismissed by Rome, such as priestly celibacy and the ordination of women, back onto the agenda.

In the week of Pope Benedict’s visit to the UK, Edward Stourton talks to both traditional and liberal Catholics about how they negotiate their emotional and spiritual path in a church which is often portrayed as discredited in the media.

He also explores whether the current crisis could be a surprising opportunity for the church – even to the point of leading to a Third Vatican Council.

2010年4月22日木曜日

第3回講義

 今扱っている・説明している内容は、「絵本をめくっている」ようなもので、「水準の設定」を見誤る訳には行かず、この位で推移する中、せめて5%位ずつ自分にとってやり易いものを提示して行く事になる。
 内科学を担当している先生曰く「水準は下げるべきでない。アカデミックな内容に少しでも触れていられる事が大事だ」との事で、昨年度は少しそのつもりで構成したが、結局は水準を下げ・取っ掛かり易い内容に変更した。今年はその位置からスタートしている為、少しずつ上げていけるかと思ったが、見た感じ一寸無理そうである。
 このように基礎体力が無い・弱い状態だと、先がどうなる事かと思うが、そういう状況が、国が積極的に作り出そうとしたもの、その実験によって生み出された「失敗例」が顔を並べているという話になる。国が「過ちを認めた」為であるが、見渡した感じ、それ以前の者もそれ程高くない事にすぐに気付く。それを受けて「こんなもんか」と諦めるのが、どうやら知恵らしい知恵であるようだ。自分が展開・発表するものの中で、どれだけ「負荷が与えられている事に気付かず」伸ばしていけるかが、今後の課題である。

2010年4月15日木曜日

第2回講義

 「面白い講義」等、何の意味も無い。
 「面白い授業」というものは、あって良いし、その方が望ましい。生徒達がやる気になる可能性がある、それを喚起することが出来る為。ただ、これら「受身の」内容提示は、ある段階までの作業に留まる。
 問題は「情報」を提示する事ではなくて、「方法」を提示する事、それを受け取った学生達が自分のものとして「再現可能」な所まで持って行く。
 その為に「科学」として割り振られている、「~学」という名前と分野でアプローチの対象が異なるだけで、「方法」は一貫している。
 所謂「米国型」は、「相談」しているだけ。情報を増やし、相互に共通する語彙を相手に覚えさせる作業。
 「バカ(または能力の余り高くない者)は口を開かずにいる方が『得』であり『徳』」だという事を、客観的にしばしばしみじみと感じる。が、それ以上の問題は「バカである事に気付いていないケース」で、こうなるともう救いようがない。

2010年4月9日金曜日

第1回講義

 8階、100人余り収容の中教室、学生数50人余り。
 講義室を去りしな、1、2名の学生が「ありがとうございました」と頭を下げるので、こちらも軽く会釈を返す。こうしたことは昨年もあったが、もう少し伝える方法があったのではないかと思う。
 第1回目から、彼らの側から所謂「ホットな反応」等期待してはいないが、それにしても準備したものにしては、今ひとつだったと感じる。昨年は4回目位からノッて来たようだが、顔を見ている限り、今年はもう少し早める事が出来そうである。
 前回の反省としては、用意したものの水準が少し彼らの持ち合わせるそれと差があり過ぎたという事で、特に1回目については文献資料から叙述の仕方から、分からずに座って居た事であろう。それを感じ取るにつけ、2回3回と回数を重ねるにつれて話す内容や配布資料の形式を簡単なものにして行った。これが、例えば「相手を選別した上で」という事であるならば、もう少しこちらの望む仕方で進められるが、いずれにしても15回分終えての今回であるから、おおよその水準は理解しており、その前後を標榜するか、或いは反応次第では少しずつ負荷を掛けて・引っ張って行く事が出来る。
 昨年と全く同じものを、どこかの教授の如く茶色くなった紙を読んで行く仕方も無くは無いが、半年なり一年なり掛けて収集したものを元に、こちら側としてもその「成果」として彼らの前に立つ訳である、「昨年と同じ内容」等あり得ない。ついでに、教室には諸事情によりもう一度座っている者も2名程おり、彼らのことを考えても、やはり同じ結論になる。

2010年2月4日木曜日

初期中世1

1.前封建社会(58) 「ゲルマン人の歴史への登場」 4世紀後半から6世紀にかけての、いわゆる民族大移動によって、ゲルマン人が歴史の舞台に登場して以来、西ヨーロッパの歴史は始まる。彼等の足元の大地は湿って重く、肥沃であった。殆どは大森林で覆われており、年々ここにかなり大量の雨が降り注ぎ、夏涼しく冬寒かった。アルプス以北のこのような気候・風土は、古典古代世界の中心をなした地中海沿岸地方とは全く異なっていた。アルプス以南の土壌はやせて軽く、森は少なくまばらであり、気候は温暖で乾燥していた。わずかに河川流域や一部の灌漑地域だけが豊かな地味を持っていたに過ぎなかった。ゲルマン人の西ヨーロッパへの登場は、正に歴史的舞台の転回を意味するものであった。 (59)「古典的な古ゲルマン社会像」:古ゲルマン社会の経済について…考古学上からは、紀元前4千~5千年も前から農業が営まれていた事が知られ、大麦・燕麦・裸麦などヨーロッパの主要穀物の殆どが栽培されていた。燕麦・裸麦の栽培は青銅器時代からのことであり、またガリアのローマ人が無輪犂を使用していたのに対し、彼らと接触したゲルマン人は、より進んだ鉄製有輪鋤を牛に引かせていたと言われる。 土地制度については、マルク(Mark)呼ばれる森林・湖沼・池などの共同地(入会地)を中心に、これを共同利用するマルク共同体Markgenossenschaftという定住団体が形成されており、そこで人々は経済的平等を享受していた、とされる。
人々は政治・法生活の面ではジッペSippe(氏族)と呼ばれる団体をなしており、人々はその中に入る事によって初めて政治的・法的な自由と平等を受ける事が出来た。ジッペは当時の政治団体、法・平和共同体、軍事組織単位、農村共同体であり、いわば国家civitas内の国家であったと言われる。…(60)『ゲルマニア』によれば、ゲルマンの成年男子はいずれも戦死であり、平時においては田畑や家事その他を女・老人などの弱者に任せ、狩猟のほかは唯無為に日を過ごすとあり、また戦争の際には、戦士の戦う側に母・妻・子も姿を見せ、男達を声援したり、その傷を数えたりしている。更に彼等は、農業社会で最も重要な、且つ喜びのときである収穫期、「秋」の名称を知らない。更に、の地の民族大移動に家族・家畜・家財道具の全てを伴った文字通り家ぐるみの、しかも長距離にわたる移動であった。 ・「古ゲルマンの社会・経済・法制」:これらを考え合わせると、古ゲルマンの社会は牧畜経済を中心としており、いまだ定着農耕の段階には達していない事が推定可能である。事実、鉄製有輪犂、三圃制・燕麦栽培などが普及するのは、中世における主要な穀物生産地帯である北ガリアにおいて、はやくても8世紀から、一般には11-12世紀以降である事が今日確かめられて居る。
またマルク共同体の成立を可能とする集村も、同じく早くて8-9世紀以降、一般には11-12世紀以降の者であり、紀元前後の居住形態は散落ないし単一居住であった事が明らかとなっている。…(61)古ゲルマンの社会は、原理的に牧畜経済社会であり、農業は存在したものの、あくまでも副次的な産業に留まった。ただし、ゲルマン人は遊牧民とは異なり、数百年の間にはかなりの移動を示しても、数十年の単位では殆どが動かない場合が多かった。しかしながらいずれにせよ、社会の構成原理としての地縁性は存在せず、古ゲルマンの国家とされるキウィタスは、経済的地縁団体ではなく、軍事上の人的結合団体、即ち戦士団ないしは戦士団の連合体であった。キウィタスの最高機関である民会は、全民衆によって構成され、全会一致制によって運営された。従ってここには、多数決原理に見られるような、明確な団体意志を形成する場がいまだ存在せず、彼等のまとまりはやはり脆弱であった。 キウィタスは王制または首長制をとったが、いずれの場合も実際上の運営は、キウィタス内の長老達に委ねられた。彼等は、何よりもまず戦士団の存立に不可欠な軍事的指導者であり、ここから特別の「権威」を賦与され、神の子孫として人々に尊敬された。彼等はしばしば「貴族」として捉えられうるが、後の封建貴族ないし絶対王政下の貴族とは、本質的にあり方を異にしている。 (62)「民族大移動」:4世紀から6世紀にかけてのゲルマン民族大移動の原因については、今日なお不明な点が多い。しかしながら、彼らがゲルマニアの地から一様に南下ないし南西下し、ガリア、北アフリカ、イタリア半島などローマの穀倉地帯に侵入した「事実」と、彼らが牧畜遊牧民であった「仮説」とを付き合わせるなら、恐らく気候の寒冷化により生じた深刻な穀物危機が、彼らを大移動に駆り立てた事は容易に推定可能であ[る]。…ローマ領内に建設された数多くのゲルマン諸国家は、5世紀から8世紀にかけてあいついで滅亡した。それは、結局のところ牧畜経済社会に生きてきたゲルマン人が、ローマ農耕社会の原理を自らのものとなしえなかったからに他ならない。

西欧史概観

井上幸治編『西欧史入門』有斐閣・1966年
・ヨーロッパとは何か(2) ヘロドトスを読むと、エウロペー(Europee)というのはティルス王の娘で、これからヨーロッパと言う名が出たように思われるが、ティルス人はアジア人であるから、ヨーロッぱという名の起源も分からないし、またその境界も明らかでないと書かれている。…(3)ローマ世界帝国の成立は、ヨーロッパの地理的歴史的外延を決定する上に画期的な事件であった。ポリュビオスはローマの世界征服の初期に、地中海を巡るローマ支配の拡大を描いたが、それはローマとカルタゴの闘争からコリントの破壊のときまでの歴史であった。そののちタキトゥスやカエサルはゲルマニア、ガリア、ブリアニアとローマ人との交渉の歴史のあとを辿った。ここに、近世初期にいたるヨーロッパと言う歴史的概念が成立した。 ・「ヨーロッパの社会的構造」:古代文化が地中海を巡る諸地方に発展し、地中海が「その思想、その商業の媒介者」の役割をはたし…、ローマの征服地にゲルマン人が侵入した後も、地中海の伝統的役割は変わらず、ヨーロッパ各地に定住したゲルマン人にとってもビザンツ帝国との交通路であった。しかし地中海世界にイスラムが征服地を拡大して行くと、「それまで地中海は東洋と西洋の間の10世紀来の紐帯であったが、それ以後は両者の障壁となった」…このように中世ヨーロッパは外に向かって自己形成を行なうと同時(4)に、内部的にも自己形成を行なったのである。…(5)ルネサンス、宗教改革を経て、近代的市民社会の形成に伴って明確になってくる「ヨーロッパ人」の精神的構造[は](6)次の三つの歴史的要素をうけとめたあらゆる民族であるという。第1は、ローマの影響である。嘗てローマの支配したところでは法の尊厳と司法の権威が認められ、ローマは組織と制度のモデルとなった。そこにおいて権力、法律的精神・軍事的精神・形式主義的精神の浸透した権力が永く刻印を残した。
第2は、キリスト教である。ローマの支配地に広まり、その範囲は殆どローマ帝国カの領域と一致した。この宗教は道徳をもたらし、ローマの征服は政治的人間しか捉えなかったのに対して、精神を支配し、その支配は意識の内奥に及んだ。第3は、ギリシア精神である。ヨーロッパ人がギリシアにおうものこそ、恐らくヨーロッパ人を最も他の人類から区別するものであろう。ギリシア人は精神の規律、あらゆる秩序における完成の異常なモデルを提示している。この規律から科学が生まれ、ヨーロッパは何よりも科学の創造者となる。 このようにして、カエサルとウェルギリウスの名、モーゼと聖ペテロの名、アリストテレスとプラトンの名が同時に意味と権威を持つところにヨーロッパがある。三つの条件を備えたものがヨーロッパ人である。
・封建社会:(54) 西ヨーロッパ史で「中世」とか「中世世界」とかいう場合には、普通ゲルマン民族の大移動が始まった4,5世紀から英仏間の百年戦争が終わる15世紀頃までの時代をさす慣わしとなっている。 しかしながら、このほぼ千年にわたる長い時代の中には、相互に異なった少なくとも三つの発展段階が存在している。即ち1.牧畜経済の前封建社会(民族大移動期よりほぼ10世紀頃まで)、2.地縁的農業経済の封建社会(11~13世紀)、3.近代化の起点をなした、日用品商品経済の発生期、封建社会の崩壊と近代国家の端緒的形成期(14-15世紀)がそれである。 このうち2の封建社会期は、ここで地縁的経済・法組織体が地方ごとにはじめて出現して、歴史的固体としての西ヨーロッパ世界が本来的に形成され、近・現代社会の大前提となった点で、それ以前の段階とは構造上決定的な差を有し、全西ヨーロッパ史がこれを境に二分されうるほどの大きな意味を持っている。 もともと「中世」という言葉はルネサンス人の発想から生まれたものであり、自らの時代を謳歌し正当化するために、直接先行する全時代を、古典古代と当代(ルネサンス期)との間に介在する、無意味なあるいは暗黒の、「中間の時代」とするという現実的・実践的な意味を持っていた。…今日、「中世」の語は最早特定の時代概念ではなく、単に慣用上の言葉にしか過ぎない。[封建社会]という語は、…古典荘園成立期の7~8世紀頃からアンシアン・レジーム期の17-18世紀頃までの、およそ千年にわたる時代概念・社会類型概念として使用されてきた。
その中には、古典荘園制期(7,8世紀~10,11世紀)・領域的裁判領主制期(16^18世紀)など、 権力の上からも経済の仕組みからも異なった幾つかの段階が含まれて居る。にもかかわらず、一つの概念で全体を括りえたのは、そこに共通して領主権なり農村共同体なりが見られたからであった。…フランス「人権宣言」や1804年の「ナポレオン法典」に明らかなように、資本制的近代市民社会の創出・形成に当たっていた商工業ブルジョワジーにとって、何よりもまず克服・否定せねばならなかったもの、それは領主権・農村共同体の存在であった。 領主権(地方的政治権力)と農村共同体(地方的経済組織体)は、経済・法・政治を国家的規模で組織化する際に最大の障害物となったのであり、それゆえにこそ初期近代市民はその克服のために、私的所有権の神聖・不可侵性、「私的自治」の原則、「自由な」商品交換をいやがうえにも強調せねばならなかった。…(56)19世紀の市民的理性が時代の要請として受け取ったもの、それは近代市民社会像の理念的確立によるアンシアン・レジーム体制の徹底的否定だった…。

2010年2月3日水曜日

危機と再編1

江川温・服部良久編『西欧中世史(下) -危機と再編』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 危機と再編   (1)12-13世紀のヨーロッパ社会が人口・経済の成長と、政治・社会の秩序化によって特徴付けられるのに対し、14,15世紀はしばしば、社会・経済、更には政治秩序を含めた危機と衰退の時代である[とする見方がある]。 (14)・14,15世紀のヨーロッパ諸地域: [1360年ごろと1519年ごろのヨーロッパ歴史地図]:ブリテン島内部には国境線の大きな変化は見られない…スカンディナヴィア半島内の境界線も変わっていないが、16世紀の地図では北欧3国がカルマル同盟および北欧四者同盟によって一体化している。イベリア半島では大別すれば、ポルトガル、カスティリア、アラゴン、グラナダの4国が識別されるが、16世紀にはグラナダは消え、カスティリアとアラゴンは合併してスペイン王国となっている。イタリア半島では小さな変化を別とすればシチリア・ナポリ両王国、教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネチア等の都市国家の分立状態に変わりは無い。東欧ではハンガリー、ポーランド、ドイツ騎士団領がほぼ同じ位置にとどまっている。ただしポーランドは16世紀には東隣のリトアニア大公領と合併している。またハンガリーの東隣は14世紀にはセルビアとブルガリアであったが、これらは16世紀にはビザンツ帝国を飲み込んだオスマン・トルコの領地に変わっている。ドイツでは神聖ローマ帝国の外延は殆ど変化していないが、しかしその内部では例えばスイス誓約同盟の領土が新たに登場したり、ハプスブルク家領が拡大するなど、内部の変化が生じた事が分かる。大きな変化を示しているのはフランスである。14世紀の地図ではアキテーヌ公領、ブルゴーニュ公領などは独立した色で示されていたが、16世紀になるとプロヴァンスをも含めてフランス全体が同一色に変わっている。これら領地境界線の変化は、14,15世紀の2世紀間の国家統合のプロ(16)セスにおいて起こった事件、例えばレコンキスタや百年戦争を想起させるであろう。
地図からは読み取りがたい事件としては、イングランドのワット・タイラーの率いた農民一揆(1381年)や、フランスでのジャックリーの乱(1358年)、イタリア・フィレンツェにおけるチオンピの乱(1378年)、ボヘミアでのフス派の反乱(1419-36)などの、前述の社会経済的危機と関連する民衆蜂起のほか、教皇庁のアヴィニョンへの移転(1309-77)、その後の大分裂(1378-1417)、それを収集するためのコンスタンツ(1414-18)、バーゼルの公会議(1431-49)といった宗教関係の事件が上げられる。更に15世紀後半にはイングランドでばら戦争(1455-85)、フランスで公益同盟戦争(1464-65)という諸侯と王家が争う内乱が生じたが、これらが両国の国内統一の一つの契機をなした。1282年のシチリアの晩祷事件、また1303年のアナーニ事件に見られるように、13世紀後半以降、皇帝権と教皇権と言う2大権威が崩壊した後の新しい中世世界の秩序を模索していたヨーロッパ世界は、地域ごとに国家を形成する方向に向かってはいたが、各地域権力の間の交渉、同盟、対立のルールは未確立で、最終的には戦闘で決着が付けられることが多かった。初期の戦闘では王侯の私的利害に基づくものもあったが、15世紀末イタリアを舞台に繰り広げられた所謂イタリア戦争では、フランス、スペインといった国家統一を達成した国々の強さがはっきりと示された。14,15世紀の200年間に生じた国政上の変化に注目すべき理由はここにある。
・皇帝権・教皇権と地域的諸権力: 11-13世紀のヨーロッパ世界を全体として秩序付けていたのは、神聖ローマ皇帝権とローマ教皇権を二つの中心とする楕円的政治構造であった。すなわち皇帝権は全ヨーロッパの封建的君臣関係の頂点に立ち、教皇権は聖(17)職者教階制の頂点に立つという想定は当時の人、例えばイングランド王ヘンリー3世の態度にも見られる。他方では13世紀には、上述のようなヨーロッパ規模の秩序からは一応独立して、諸地域ごとに地域的な権力構造が成立していたのも事実であった。ところが13世紀半ばの神聖ローマ皇帝位の空位期と、14世紀はじめに起こったフランス・カペー王家とローマ教皇ボニファティウス8世との闘争、即ちアナーニ事件とを契機に、二つの普遍的権威は共に低下し、権力体系のバランスが崩れるという危機が生じた。そこで以後に続く時代には、ヨーロッパ全体規模での秩序の再編が必至となったのである。 ・封建国家と身分制国家の構造: (18)[教科書の説明。ヨーロッパ中世社会の近代化過程の説明]:(A)商品の生産と流通が盛んとなり経済活動の範囲が広がるにつれて都市の商人は地方的に割拠して商業の邪魔になる領主に対抗し、新たに国王と結んでその支配下に入った。(B)こうして13世紀以後のイングランド、フランスでは国王の経済力が強められ、封建諸侯の力を弱めて中央集権化を推し進める事ができた。これに対しドイツ、イタリアでは貨幣経済や社会の発展の仕方が地方ごとにばらばらであったり(ドイツ)、都市の発展が国内の商品生産に基づくというより、中継貿易に大きく頼っていた(イタリア)。
このため国内には政治的統一を生み出す広い経済的基盤が形成されず、依然として封建諸侯や都市の勢力が強かった。(C)新たに貨幣を手にしたイングランド、フランスの国王は13世紀頃から一部の貴族や市民による官僚制を作り始め、また国王の直臣にしか命令の及ばない非能率的は封建軍隊に代わって傭兵軍隊を使用し始めた。こうして国王は封建貴族から流血裁判権を奪い、国王直轄領域を拡大して中央集権化を開始し、封建社会は次第に崩壊に向かった[とするものである]。 これらの説明の特徴は①商品経済の展開は広域経済を目指すから、政治的中央集権化を志向するものである、②商人は国王と結ぶものである、③国王は封建貴族から権力を奪うものである、という3点が自明の前提とされている事である。しかも国王による中央集権化は官僚制の創設と軍制改革によって進められるとして、正に16世紀以後の所謂絶対王政期の国政上の特徴を14,15世紀に遡らせて説明に用いている…。これに対して14,15世紀を身分制的国政の時代として、独自の歴史的意義を認めようとする説明の仕方がある。[それによれば]14世紀初めまでに皇帝権、教皇権という普遍的権威の衰退が不可避となった根本的理由は、13世紀を通じての、イングランド、フランス、ドイツなどの地域に見られる「国家の緊密性の増大」であり、それは国王による封建的支配体制の一元的整序、国王による直轄支配領域の拡大、治安立法の強化による封建所領への王権の浸透と言う現象として現れた。言い換えれば通説が、交換経済の発達が封建領主制を衰退させ王権を強化するとみなし、13世紀から14世紀への国政の発達を漸進的に捉えて居るのに対して、堀米説は、13世紀における交換経済の発達は必ずしも領主制を衰退させるものではないこと、他方、王権はこの段階では錯綜した封建関係を一元的に整序するべき権力たるに留まる事に注目して、これを封建王制の段階と呼んで、14世紀以降の段階とは異なる事を主張したのである。…
・軍制上の変化(20): 封建的国政の衰退を説明する際、必ず引き合いに出されるのは封建的軍政の衰退、或いは王権による近代的軍制の整備である。封建契約によって主君から臣下への封土の供与と交換に、臣下が主君に提供する軍事奉仕を体系的に組織する事によって成立していた封建的軍制は、地域に定着し領地経営にいそしむようになった封臣たちが、軍事奉仕の金納化を望んだこと、あるいは結成された封建騎士団を一定地に留保し戦地まで移動させるよりも、戦時にのみ現地で傭兵を調達し軍団を編成する方が指揮者にとっては有利な場合もありえたことなどにより、13世紀半ばまでに大きく変化し、14世紀半ばまでには事実上、封建軍の召集は消滅した。したがって14,15世紀の軍制は制度そのものも、またそれを生み出した社会的背景の点でも、11-13世紀の軍制とは異なっていたといってよい。 14,15世紀の軍政についての教科書的見解によれば、上述のような傭兵の動因、鉄砲の採用などにより、騎士(21)軍の存在意義が低下し、封臣とりわけ陪臣層が没落する一方、都市や商人からの献金などによって経済的に豊かになり、傭兵への給与支払い、鉄砲の購入などがしやすくなった国王の地位が高められた。しかし軍制の変化と封建領主階級の運命あるいは国王と諸侯との力関係の変化とは、区別して考えるべきであろう。14,15世紀における軍事史上の大きな変化は、与平軍団(コムパニ)の大量出現と、国王や諸侯がこれらの軍団との割符契約(インデンチュア)によって軍事力動因を行なう方式の導入である。軍団の指導者達は戦士を率いて国王・諸侯や都市との間に有給で半年から数年間軍事力を提供する契約を結んで、雇い主のために働くが、期間終了後は次の契約までの間略奪を働き、住民に多くの被害を与えた。…有償で提供するように制度が改められて、兵を集めて王軍に提供する指揮者としての諸侯の軍事上の地位は大きく代わる事は無かった。