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2010年2月3日水曜日

危機と再編1

江川温・服部良久編『西欧中世史(下) -危機と再編』(ミネルヴァ書房・1995年)
概説 危機と再編   (1)12-13世紀のヨーロッパ社会が人口・経済の成長と、政治・社会の秩序化によって特徴付けられるのに対し、14,15世紀はしばしば、社会・経済、更には政治秩序を含めた危機と衰退の時代である[とする見方がある]。 (14)・14,15世紀のヨーロッパ諸地域: [1360年ごろと1519年ごろのヨーロッパ歴史地図]:ブリテン島内部には国境線の大きな変化は見られない…スカンディナヴィア半島内の境界線も変わっていないが、16世紀の地図では北欧3国がカルマル同盟および北欧四者同盟によって一体化している。イベリア半島では大別すれば、ポルトガル、カスティリア、アラゴン、グラナダの4国が識別されるが、16世紀にはグラナダは消え、カスティリアとアラゴンは合併してスペイン王国となっている。イタリア半島では小さな変化を別とすればシチリア・ナポリ両王国、教皇領、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネチア等の都市国家の分立状態に変わりは無い。東欧ではハンガリー、ポーランド、ドイツ騎士団領がほぼ同じ位置にとどまっている。ただしポーランドは16世紀には東隣のリトアニア大公領と合併している。またハンガリーの東隣は14世紀にはセルビアとブルガリアであったが、これらは16世紀にはビザンツ帝国を飲み込んだオスマン・トルコの領地に変わっている。ドイツでは神聖ローマ帝国の外延は殆ど変化していないが、しかしその内部では例えばスイス誓約同盟の領土が新たに登場したり、ハプスブルク家領が拡大するなど、内部の変化が生じた事が分かる。大きな変化を示しているのはフランスである。14世紀の地図ではアキテーヌ公領、ブルゴーニュ公領などは独立した色で示されていたが、16世紀になるとプロヴァンスをも含めてフランス全体が同一色に変わっている。これら領地境界線の変化は、14,15世紀の2世紀間の国家統合のプロ(16)セスにおいて起こった事件、例えばレコンキスタや百年戦争を想起させるであろう。
地図からは読み取りがたい事件としては、イングランドのワット・タイラーの率いた農民一揆(1381年)や、フランスでのジャックリーの乱(1358年)、イタリア・フィレンツェにおけるチオンピの乱(1378年)、ボヘミアでのフス派の反乱(1419-36)などの、前述の社会経済的危機と関連する民衆蜂起のほか、教皇庁のアヴィニョンへの移転(1309-77)、その後の大分裂(1378-1417)、それを収集するためのコンスタンツ(1414-18)、バーゼルの公会議(1431-49)といった宗教関係の事件が上げられる。更に15世紀後半にはイングランドでばら戦争(1455-85)、フランスで公益同盟戦争(1464-65)という諸侯と王家が争う内乱が生じたが、これらが両国の国内統一の一つの契機をなした。1282年のシチリアの晩祷事件、また1303年のアナーニ事件に見られるように、13世紀後半以降、皇帝権と教皇権と言う2大権威が崩壊した後の新しい中世世界の秩序を模索していたヨーロッパ世界は、地域ごとに国家を形成する方向に向かってはいたが、各地域権力の間の交渉、同盟、対立のルールは未確立で、最終的には戦闘で決着が付けられることが多かった。初期の戦闘では王侯の私的利害に基づくものもあったが、15世紀末イタリアを舞台に繰り広げられた所謂イタリア戦争では、フランス、スペインといった国家統一を達成した国々の強さがはっきりと示された。14,15世紀の200年間に生じた国政上の変化に注目すべき理由はここにある。
・皇帝権・教皇権と地域的諸権力: 11-13世紀のヨーロッパ世界を全体として秩序付けていたのは、神聖ローマ皇帝権とローマ教皇権を二つの中心とする楕円的政治構造であった。すなわち皇帝権は全ヨーロッパの封建的君臣関係の頂点に立ち、教皇権は聖(17)職者教階制の頂点に立つという想定は当時の人、例えばイングランド王ヘンリー3世の態度にも見られる。他方では13世紀には、上述のようなヨーロッパ規模の秩序からは一応独立して、諸地域ごとに地域的な権力構造が成立していたのも事実であった。ところが13世紀半ばの神聖ローマ皇帝位の空位期と、14世紀はじめに起こったフランス・カペー王家とローマ教皇ボニファティウス8世との闘争、即ちアナーニ事件とを契機に、二つの普遍的権威は共に低下し、権力体系のバランスが崩れるという危機が生じた。そこで以後に続く時代には、ヨーロッパ全体規模での秩序の再編が必至となったのである。 ・封建国家と身分制国家の構造: (18)[教科書の説明。ヨーロッパ中世社会の近代化過程の説明]:(A)商品の生産と流通が盛んとなり経済活動の範囲が広がるにつれて都市の商人は地方的に割拠して商業の邪魔になる領主に対抗し、新たに国王と結んでその支配下に入った。(B)こうして13世紀以後のイングランド、フランスでは国王の経済力が強められ、封建諸侯の力を弱めて中央集権化を推し進める事ができた。これに対しドイツ、イタリアでは貨幣経済や社会の発展の仕方が地方ごとにばらばらであったり(ドイツ)、都市の発展が国内の商品生産に基づくというより、中継貿易に大きく頼っていた(イタリア)。
このため国内には政治的統一を生み出す広い経済的基盤が形成されず、依然として封建諸侯や都市の勢力が強かった。(C)新たに貨幣を手にしたイングランド、フランスの国王は13世紀頃から一部の貴族や市民による官僚制を作り始め、また国王の直臣にしか命令の及ばない非能率的は封建軍隊に代わって傭兵軍隊を使用し始めた。こうして国王は封建貴族から流血裁判権を奪い、国王直轄領域を拡大して中央集権化を開始し、封建社会は次第に崩壊に向かった[とするものである]。 これらの説明の特徴は①商品経済の展開は広域経済を目指すから、政治的中央集権化を志向するものである、②商人は国王と結ぶものである、③国王は封建貴族から権力を奪うものである、という3点が自明の前提とされている事である。しかも国王による中央集権化は官僚制の創設と軍制改革によって進められるとして、正に16世紀以後の所謂絶対王政期の国政上の特徴を14,15世紀に遡らせて説明に用いている…。これに対して14,15世紀を身分制的国政の時代として、独自の歴史的意義を認めようとする説明の仕方がある。[それによれば]14世紀初めまでに皇帝権、教皇権という普遍的権威の衰退が不可避となった根本的理由は、13世紀を通じての、イングランド、フランス、ドイツなどの地域に見られる「国家の緊密性の増大」であり、それは国王による封建的支配体制の一元的整序、国王による直轄支配領域の拡大、治安立法の強化による封建所領への王権の浸透と言う現象として現れた。言い換えれば通説が、交換経済の発達が封建領主制を衰退させ王権を強化するとみなし、13世紀から14世紀への国政の発達を漸進的に捉えて居るのに対して、堀米説は、13世紀における交換経済の発達は必ずしも領主制を衰退させるものではないこと、他方、王権はこの段階では錯綜した封建関係を一元的に整序するべき権力たるに留まる事に注目して、これを封建王制の段階と呼んで、14世紀以降の段階とは異なる事を主張したのである。…
・軍制上の変化(20): 封建的国政の衰退を説明する際、必ず引き合いに出されるのは封建的軍政の衰退、或いは王権による近代的軍制の整備である。封建契約によって主君から臣下への封土の供与と交換に、臣下が主君に提供する軍事奉仕を体系的に組織する事によって成立していた封建的軍制は、地域に定着し領地経営にいそしむようになった封臣たちが、軍事奉仕の金納化を望んだこと、あるいは結成された封建騎士団を一定地に留保し戦地まで移動させるよりも、戦時にのみ現地で傭兵を調達し軍団を編成する方が指揮者にとっては有利な場合もありえたことなどにより、13世紀半ばまでに大きく変化し、14世紀半ばまでには事実上、封建軍の召集は消滅した。したがって14,15世紀の軍制は制度そのものも、またそれを生み出した社会的背景の点でも、11-13世紀の軍制とは異なっていたといってよい。 14,15世紀の軍政についての教科書的見解によれば、上述のような傭兵の動因、鉄砲の採用などにより、騎士(21)軍の存在意義が低下し、封臣とりわけ陪臣層が没落する一方、都市や商人からの献金などによって経済的に豊かになり、傭兵への給与支払い、鉄砲の購入などがしやすくなった国王の地位が高められた。しかし軍制の変化と封建領主階級の運命あるいは国王と諸侯との力関係の変化とは、区別して考えるべきであろう。14,15世紀における軍事史上の大きな変化は、与平軍団(コムパニ)の大量出現と、国王や諸侯がこれらの軍団との割符契約(インデンチュア)によって軍事力動因を行なう方式の導入である。軍団の指導者達は戦士を率いて国王・諸侯や都市との間に有給で半年から数年間軍事力を提供する契約を結んで、雇い主のために働くが、期間終了後は次の契約までの間略奪を働き、住民に多くの被害を与えた。…有償で提供するように制度が改められて、兵を集めて王軍に提供する指揮者としての諸侯の軍事上の地位は大きく代わる事は無かった。

法と権力2

(2)中世国家の特質ー法の優位 (137)若し中世の政治思想の特徴と看做しうるものがあるとすれば、それは「適法性」の果たす卓越した役割を重視している事である。…中世の法解釈は「法はその起源のゆえに国家と同等の地位にあり、またその存在のゆえに国家に従属していないと言う考え」、「国家は前存する不変の法の理念を実現する使命を負って居るという確信」に満ちている…。まさしく「最高権力にとってさえ乗り越えられない法律上の境界が存在する」という点に、ローマの国家間とは大きく異なる姿勢が中世にはあった[とする意見がある]。ローマ人もまた国家を法との関連で理解していたが、彼らにとって法と国家は相関的な観念であって、両者を引き離すのは絶対に不可能であった。これに対し中世人にとっては、国家と法は、互いに緊密な関係にあるとは言え、全く別個な二つの事柄であったばかりでなく、国家に基礎を提供するために法が国家に対して優先権をもつと理解される必要があった。 さて、ダントレーヴによると、上のような法と国家の関係についての中世世界とローマ世界の相違を理解するには、12世紀にまで遡る、教会法の大集成である『グラティアヌス法令集(1140年ごろ)』の序論の中に見(138)られる若干の定義を読むだけで十分である。最初の定義によれば「人間は二つの法によって規律されている。すなわち自然法によるのと慣習によるのとである」。自然法と実定法との相違は、ここでは普遍的で無限に強制的な諸規範と、一定の人間社会に固有の慣例(=人定法)との相違として提示されている。しかし別な箇所での定義によれば、人定法はただ単に慣習からのみなるのではなく「法律」からもなるのであり、また語の厳密な意味における法律は「成文法規」ではる。にもかかわらず、その一番奥深い本質において人定法は何よりも先ず「慣習法」であって、実定立法は「慣習法」を何か特別の目的で文章化する手段にしか過ぎないと。
このような定義から、中世の政治理論の出発点となる特有の法律感の本質的特長が明らかになる。すなわち中世においては、法は、ローマにおけるように立法者の自覚的で決然とした意志の創造行為に負って居るのではなく、集団生活の一面でありあり、慣習や慣習の全体と看做される。そして立法行為はただ単に、一定の社会において暗黙のうちに受容されていた一段の規則(慣習法)の、成文化による承認として描かれるのである。 …重要なのは、このような観念が、極端に単純化された大変に古い社会制度観、すなわち、遠い昔の慣習や伝統が宗教的色彩を帯びており、また畏敬に近い崇拝と敬意の対象となって居るような、原始人に特有の見方に明瞭に一致していると言う事実である。その上このような観念は、社会生活の優れて静態的な理解を特徴としており、その結果法は、人間の改善のために彼の手に委ねられた手段と看做されるのではなく、神秘的且つ超越的な力が人間に押し付けた制限として現れる。 こうして、ローマ人が慣習法に対する成文法規の優位を公言していたのに対して、中世においては逆に、実定立法は最早既存の慣例の承認や確認でしかなく、この非個人的な最高の慣例が、一切の政治権力の源であると同時に制限ともなるのである。 (139)「法の優位」の原則は以上のような意味において理解されるのであるが、ダントレーヴによると、この原則は中世の国家間を理解する上での出発点となる根本原理である。[中世においては]「国家」という言葉は何処にも記載されていない。言及されているのは常に、法律によって縛られ、またその権力が法律によって厳格に条件付けられている統治者だけである。…「国王は人間にではなく神と法に服さねばならない。何となれば、法が国王を作るのであるから」。そして、中世の政治理論において法の非個人性と権力の個人性がこのように奇妙に結びついている事から中世国家の特質を為すさまざまの結果が生じて居るが、ダントレーヴによるとその中でも特に重大なのは次の三点である。
恐らく一番重要な結果は、権力が制限されかつ責任あるものとしてのみ理解されえたという事である。統治者は法の執行者に過ぎなかったがゆえに、権力は制限されていたのであり、また法は統治者と被統治者を結ぶ相互の義務を表していたがゆえに、権力は責任なるものとされていたのである。そしてこのような観念は、統治者と被統治者の関係が君主と家臣の典型的な封建関係として理解されていたと言う、国制上の現実に深く根をおろしている。というのは中世の君主が「古き法」を守り、自身も遵守し、且つ執行させる事を約束した義務的宣誓によって、この関係が認められ裏付けられていたからである。こうして国家は、若しこの言葉を権力の行使と理解するならば、それは「法の優位」と言う堅固な岩に根拠を置いていたのである。 第2の結果は、権力の「私的」行使と「公的」行使の間に明確な区別が存在していなかった事である。…このような「公」「私」の混同は、ただ単に封建的社会組織の出現だけによるものではなく…(140)慣習法に由来しない普遍法規の責任を負いうるような主権的「国家」はまだ存在していなかったのである。 上と並んで第3に、宗教問題と政治問題の混同もまた、ある程度私的領域と公的領域の区別が存在していなかった事に由来していたと言える。前に見たように、中世においてres publicaはキリスト教世界を意味していた。しかしこの「キリスト教国家」は現代用語で「国家」と「教会」と呼ばれているところのものの特徴を持っていて、ただの国家ではなかった。したがってその内部においては精神的ないし宗教的関係と物質的ないし世俗的関係がはっきりと区別されておらず、統治者が遵守して起用する事を誓っていた「法律」がもっぱら世俗的な法律だけではなかったのは驚くにはあたらない。つまり、国家の固有の性格は、はっきりと定義され完全に独立した諸関係の全体と言う特徴としてはまだ認められていなかったのである。 ダントレーヴによると、中世国家はおおよそ以上のような特質を持っている。そして、中世の政治思想はやがて実際上の必要と重要なイデオロギー上の要因に刺激されて、それらの特質を凌駕していく。

法と権力

木村尚三郎他編『中世史講座 第4巻 中世の法と権力』(学生社・1985年)
五 ヨーロッパ中世国家の構造 下野義朗 (122)(1)中世国家の権力構造史的把握:…封建制と王制との関係構造的に捉えるならば、封建制がその政治的秩序形成の機能を最も良く発揮した13世紀こそが封建王制の時期であり、またそれは同時に封建制の最盛期でもある[とする見解がある]。従って13世紀における中世封建制国家の完成は二重構造を前提とした封建的階層序列の完成を意味する事になる。…(123)[他方]13世紀における封建王制の確立は実質的には封建制の「自己克服の過程」に他ならない[とする意見がある。即ち]7ないし9世紀に典型的な形で成立する「三重の構造」(領主直営地、非自由な貸与地、自由な貸与地)をもつ古典的グルントヘルシャフトこそが封建制社会を構成する基本的単位=細胞であって、そこにおいて初めて統一的農奴身分が成立し、本来の意味における領主権力が形成される。そして、下から自然発生的に且つ全く無秩序に形成されたこれらの領主権力を一つの権力秩序に組織立てて行く機能を果たしたものの中でもっとも重要なものが封建制(レーン制)に他ならない[というものである].
2.中世国家とは何か(130) [国際法の権威ダントレーヴ]によると、我々の日常用語において「国家」と言う言葉は(1)個人の意志に優越して命令を与え且つ執行せしめうる力、(2)一定の手続きに従って行使される権力、(3)権力の行使を合法化し正当化する権威(131)という三つの意味で用いられている。そしてこのような意味に対応して、国家の問題への取り組み方が異なってくるというのである。…     (1)国家の概念史(132) 古代と中世の著述家がポリスやレス・プブリカ、あるいはcivitasやregnum(133)などの様々な述語を用いて正確に述べようとしている事態を表現するのに、今日一般に「国家」と言う近代後が使用されている…。[ダントレーヴによれば]古代と中世の著述家達が政治上の題材を扱うときに「国家」の代わりに様々の言語を使用したのには2つの理由があった。その第一の理由は、彼らが当面していた状況がそれぞれの場合に異なっていたという事である。先ず、古典時代のギリシャにおいて政治経験は都市国家ポリスに要約されていて、ポリスは公益の最高の表現であり、精神的価値の化身であった(プラトン、アリストテレス)。しかしこのポリスは単に「国家」とは翻訳されえないものであって、その中で人間の一切の運命が動いている教会=国家であった。序でローマ時代には、都市国家と言う狭い視野からあふれ出て帝国と言う普遍的理想の地平が開かれたばかりでなく、国家間の中に法的要素が導入される。こうしてres publicaの定義では、力点は国家の目的から国家の構造そのものに移って、法が政治社会を他の一切の人間社会から識別する特性(キケロ)となる。最後に中世においては、政治著作の中にres publica, civitas, regnumといった術後がしばしば見えて居るが、それらの言葉の意味は、殆ど同一の意義で用いて居るアウグスティヌスを除くと、適用される状況や、人間社会の非常に多様な形態と型に応じてことなっている。
すなわち、civitasは都市国家に関係しているのが普通であり、またregnumは王国を表現し、最後にres publicaは多くの場合王国よりも大きな共同体つまりキリスト教世界を叙述するのに留保されている。…第2の理由は、この「国家」という言葉が一定の正確な意味をまだ獲得していなかったという事実にある。… (134)彼らが一般に依拠した便法はポリスについてのアリストテレスの概念を拡大して、都市国家と王国を唯一つのカテゴリーに含ませる事であって、中世の資料の中でポリスは一般に「civitasないしregnum」と訳されている。ついでアリストテレスの『政治学』が再び読まれ研究された13世紀中頃以後、政治思想は根本的な修正をこうむって、力点と関心はキリスト教共同体の統一性から、この統一体の分裂から生じた複数の個別共同体、つまり都市国家と王国に移る。そしてこれらの個別共同体のそれぞれに、アリストテレスがポリスに留保していた「自給自足可能な完全な共同体」の特性が付与されたのである。そしてダントレーヴによれば、この「完全な共同体」と言う表現は中世の政治用語の中では近代的国家間に一番近い表現である。しかし「新しい状況」に概念上の枠組みを提供する言葉が最終的に発見されるのは、要約ルネサンス期に入ってからの事であると言う。… 「国家」Etatという言葉の起源は、存在の様式ないし条件を意味するラテン語のstatusに由来する。…スタトゥスは、教会や帝国或いは王国などの特殊な共同体の、繁栄とか安寧とかよき秩序を意味している。しかし、このよう(135)なまだ曖昧で一般的な意味のほかに、もっと正確な二つの用例があった。その一つは、スタトゥスと言う言葉によって特有の社会的乃至経済的条件、従って個人を他と区別するカテゴリーないし階層を表現している場合で、これが現代フランス語の身分etatにつながる。スタトゥスという言葉のいまひとつの意味は…「一定の共同体の法的構造」を示すのに用いられている。
この意味はローマ法の『学説集Digesta』の中の公法jus publicumの定義ー「ローマ国のスタトゥスに関係するところのもの」-から着想を得たようであるが、その起源は兎も角として、ラテン語のスタトゥスとイタリア語のstatoは、中世において次第にこの意味で使用されるようになってくる。…ダントレーヴによると、マキアヴェリの『君主論』の中に、「国家」という言葉が新しい意味で用いられている決定的な証拠が見出されるのは間違いない。…本質は常に同一であるような政治上の「集合単位」を示すのに用いられている…。こうしてマキアヴェリにおいては「国家」という言葉は、一定の領土内で一定の人民に対して力を行使したり、力の使用をコントロールしたりする権能を与えられた組織体の意味で用いられているのである。

農業の展開と村落1

木村尚三郎他編『中世史講座 第2巻 中世の農村』(学生社・1987年)
三 ヨーロッパ中世における農業の展開と村落共同体 井上泰男
1.はじめに (86)西欧中世の農村社会を考える場合、その歴史的背景として、古代ローマ帝国領と帝国の国境の彼方にある部族制的なゲルマン社会のコントラストを念頭に置かなければならない。けれども5世紀以来、ゲルマン的な社会構造はローマ帝国のそれに近いものになり、このコントラストは次第に解消の方向を辿る。それとともに、異なった自然環境の下で生活する農村社会の地理的なコントラストの方が前面に出てくる。例えば地中海地方、フランス南西部、ラインラントでは、前期中世社会はローマ帝国の葡萄耕作を継承したし、アルプス、アペニン、ピレネーなどの山岳地方では、放牧が耕作よりもずっと重要であった。また東ドイツ、ポーランド、ロシアなど厳しい大陸性気候の元にある地方では、ライ麦が基本的な穀物であったが、島国のイングランドでは、春巻き穀物を令にとっても大麦、オート麦、そして野菜と言うように農業生産はより多元化していた。 このような異なった自然条件にもかかわらず、ヨーロッパ中世の農村経済は基本的に穀物耕作と家畜飼育を並存させる混合農業ないし有畜農業であるという点では共通していた。勿論耕地と牧地のバランスは自然条件、人口の圧力、並びに耕作の伝統によって様々に変化したことは言うまでも無い。 (87)アルプス以北のヨーロッパ内陸部では元々森林や原野が卓越し、耕地はまばらな居住地帯の周辺部に限られていた。9世紀頃に始まる初期の開墾運動で作られた村は、普通樹木が密生した原始林よりも茨や雑草のおい茂った草地や原野の中にあった。一方、森の中を歩き回っていたのは猟師、炭焼き、鍛冶屋、野生のミツバチやロウの採集者、ガラスや石鹸の製造に用いる灰つくり、皮なめしや網を編むのに用いられる樹皮のカワハギ人といった人たちで、彼等は普通農民とは隔たった生活空間を作っていたようである。 だがこれら森の住民も、大工や左官や陶工のような移動生活を送っていた中世の農村職人も、仕事が暇な季節に生活が可能なように、僅かではあるが土地を保有していた。
開墾が進むに連れ、これらの人々は近傍の農民共同体に次第にどうか・融合していく傾向が見られた。この傾向は耕地面積が増加する11世紀中頃から13世紀末頃に顕在化していった。ぶなやカシなどヨーロッパ特有の広葉樹林がどんなに豊かな恵みを中世の農民生活にもたらしたかはよく知られており、開墾と植民の運動が進展したからといって、森林とその資源を根絶やしにするようなことは無かった。こうしてヨーロッパは本格的な定着農耕の生活に入っていくが、それと共に農民生活の社会的な枠組みとしての村落共同体も、わずかな農家戸数のルーズなまとまりに過ぎなかった原初村落から、もっとコンパクトに住居の密集した地縁的共同体(中世村落)へ成長していく。子の村を数個または十数個、その支配と保護の中に抱え込んだ有力領主の城は、取り分け封建制が典型的に開花したライン・ロワール間の地域に群立してくる。 中世前期の荘園の領主達は、この有力領主、すなわち城主に臣従礼をとってその臣下となり、自由農民は自分の所有地を城主に寄託してその隷属民となった。城主の所領(シャテルニー)は城主の直轄領と城主の臣下の封土(騎士領)から構成されているが、それら単位所領の基礎にあるのが村であり、之を生産力発展の場とする村落共同体は村の領主と対抗しつつ、その自立性を高めて行く事になる。[以下]1.中世開墾運動の前提となる技術上の革新とそれによる農業生産力の発展。2.風土的条件とのかかわりにおける定住様式や農業制度の諸相。3.村落共同体を構成(88)する社会的諸要素並びに共同体の果たした社会的諸機能などを順次検討する。   2.技術革新と農業生産: 中世初期のヨーロッパでは概して技術上の進歩は緩慢で、地域的にも不均等であった。しかし11世紀以来進歩のテンポは少しずつ加速化され、12世紀の社会のルネサンスをもたらす原動力となった。大開墾運動の展開もこの技術革新に負うもので、木を切り倒す強力な斧、藪や下草を刈り取る鉈や鎌、川で運ぶいかだに丸太を揃えるのこぎり、木の根や切り株を取り除く鉞、滑車、犂といった道具が、大樹海に人間が食い込む事を可能にした。
このような道具の改良は、何よりも冶金術の進歩のお陰である。カロリング時代以来、鉄の溶鉱に当たって水力を利用したふいごによる通風と言う方法が考案され、これが火力を強めてより良質の鉄を生産する事を可能にした。この方法は馬鍬、犂、斧、鎌などの道具の改良に役立っただけではなく、ガラス、レンガ、陶器、そして耐火粘土の生産にも大いに貢献した。 フランドルのリルの王領荘園のような農業の先進地方では、金属製の農具がカロリング時代に出現している例も見られる。しかし当時は金属器の使用は先ず持って戦士階級に独占されたから、農村に鍛冶屋が出現して、鉄製の刃を持った農具が普及していくのは一般には9世紀と13世紀の間の事であった。蹄鉄工、金物細工人、鍛冶屋といった人たちは農民社会の中で選ばれた地位を占め、彼らがもたらした技術的進歩は農民の生活条件を大きく変えた。 R.ヒルトンは中世の村の鍛冶屋を次のように描いている。「彼は有輪犂や荷馬車の必要部分を鉄で作り、修理し、馬や牛に蹄鉄をつけ、半円形の鎌や長柄の鎌、斧やナイフを製造したり研いだりし、家の建設に必要な釘ややっとこを提供した。村の全生活は火事場の周りに集中し、そして大事なことは、鍛冶屋の技術の秘伝は、彼に半ば魔術的な威信を与えたことである」と。 (89)農具の改良で特に注目されるのは犂べらとか犂刀のように、少なくとも主要部は鉄製の大型の重量有輪犂(カルカ)が登場してきた事である。これこそ一つの革命といってよいもので、それはヨーロッパ北方の重く湿った土壌によく適合し、農民はこれによって肥沃な土壌を深く掘り起こす事が可能になり土地の生産性が高められた。同時に新型のこの重い有輪犂は多くの家畜力を必要としたから、個々の農民には高いものにつき、村落共同体による農業の共同化を促進した。… 牛馬に荷車やカルカを繋いで引っ張らせる繋馬法も著しく改善された。馬の索綱は従来のように直接首に掛けるのではなく、肩に掛ける方式に改められた。
これによって馬耕能力は倍化されただけではなく、馬は交通運輸の目的にも使われるようになった。また牛の索綱用のくびきはこれまで肩と首の中間あたりにあったが、これを前額部にあてて、牛の牽引力を高めるように工夫された。更に牛馬を縦に何頭も繋ぐ縦列繋駕法も考案された。 主要な役畜として、牡牛の変わりに馬が導入されるのは、蹄鉄の発明と馬糧としての燕麦の栽培が前(90)提条件であった。馬耕が西欧に普及し始めるのは11世紀以来で、北フランス、フランドル、ロレーヌなどの平野部では、13世紀始めには牛から馬への転換が一般化している。こうして犂耕のスピードアップと犂耕回数の増加が可能になり、農業生産の向上を促進した。 犂の革命は耕地の形状にも影響を及ぼす。何頭もの家畜を縦に繋いでひかせる重量有輪犂の隊列はそう簡単に方向転換できるものではないから、出来るだけ細長い帯状の地条からなる耕地が要求される。これらの耕地片は各農民の持ち分に属し、従って保有関係は複雑に入り組んで居るが、全体としては一続きで開放されて居ることが多かった。この共同の大解放耕地は普通三つの耕圃として組織され、その一つには夏穀(大麦、燕麦、所によっては豆類)を春まきし、他の一つには冬穀(小麦やライ麦など)を秋播きし、残りのひとつは休作して家畜の放牧に充てる。この順序を一年ずつずらして三年で一巡させる方法が三圃農法である。刈入れが終わった後の耕圃ではまず落穂ひろいが行なわれ、ついでそこでも家畜が共同放牧された。 開放耕地での播種や休作時の利用については共同体の慣行を守らなければならず、落穂ひろいにしても、また共同放牧における家畜の種類や頭数にしても或いは耕地の彼方に広がる森林・原野などの共同地への立ち入りについても、村の慣習法上のおきてを守らなければならなかった。いずれにしても、こうした事が中世村落の内部における本質的な共同体的慣行であり、三圃農法はこの慣行に最もよく適合していた。三圃制は肥沃で平坦な土地に恵まれた農業の先進地方(ライン・ロワール間の王領や大修道院領など)ではカロリング時代に既に実施されていたようであるが、一般に広まるのは11世紀から13世紀にかけてであった。
地中海地方では三圃制は殆ど発展せず、ローマ時代からの二圃制が優位を占め、北方の重量有輪犂にかわって、牛やロバやラバが引く無輪犂で土地を浅く耕していた。また都市に近接したところでは、古代以来オリーブや葡萄が栽培され、土地は個別的に囲い込まれ、共同体的慣行が制度化される余地は無かった。 ヨーロッパ内陸部でも、森林や原野が支配的な地方では、土地制度は三圃農法のような古典的な形を取らず、はるか(91)にルーズであった。家の周囲の野菜畑は恒常的に耕作されたが、大原野の中の藪を切り開いて作られた耕地は数年間耕作された後は放置され、荒れるに任された。つまり耕作用の空き地は絶えず移動していたわけで、こうした耕作様式の変種は近代初頭まで、ピレネー山脈からイギリスのケルト人高地地方にかけて広く分布していたようである。こうした地方で耕作用の空間が限定され、各種の輪作形式が生まれ、共同放牧や入会権などの共同体的慣行が定着していくのは、森林や原野が開墾され、耕地面積が増大する過程を経なければならなかった。…そのほかにも農民生活の効率を高めた道具、たとえば巻轆轤を用いた葡萄などの圧搾機の考案もあるし、農民生活に豊かな展望を開いた水車や風車のような発明もあった。特に風車と水車が農民をわずらわしい製粉労働から解放し、耕作の仕事に専念できるようにした意義は大きい。 風車はカスティリアでは早くも10世紀に使用されているが、西欧の他の地域に普及するのは12世紀以来のことである。製粉のために風力を利用する方法が伝わったのは、当時としては進んだ農業技術を持っていたイスラム教徒を介してであろう。その意味では、風車はシチリアの綿花、精糖、養蚕の技術などとともに「南方からの刺激」に負って居るとも考えられよう。いずれにしても、それは北方のイギリスやオランダなどにも広まり、長期にわたってヨーロッパの田園風景に欠かせない点景物となった。 風のむら気に影響されない水車はこれよりも更に強力で、またより広い範囲に広まった。
水力エネルギーのこの目覚しい利用法は、人力を節約する必要のあった中世の誇るべき技術革新で、これによる製粉技術の進歩は定着農耕社会への本格的な移行を示している。製粉用の水車は11世紀頃まではそれ程普及しなかったが、回転運動を往復運動に転化させるカム軸の発明ないし再発見によって、11,2世紀以来普及して行った。11世紀末イングランドではおよそ3000の地方に5600以上の水車があり、同時代のフランスではその10倍の水車があったといわれる。 水車は製粉ばかりではなく、様々な分野に応用された。鉱石や金属の圧延、刃物の研磨、織物の縮充、灌漑や製油、(92)麦芽の製造、ビールの攪拌などがそれである。 水車は領主独占に関わり、バン権(罪令権)に由来するバナリテ(領主独占による使用強制、他にもパン焼きかまどや葡萄の絞り機などがある)の主要な一環を為すものであった。水車小屋を経営したのは領主と特別な契約を交わし、種々の特権を与えられた粉挽き人で、農民は自家用の穀物をひくためにも使用料を支払って領主の水車を利用させて貰うほかは無かった。その際農民から徴収された水車使用料は領主経済にとって少なからぬ財源になったが、農民経済の側から見ても、従来の手挽きの石臼による製粉労働から解放された労働力を他の農業労働に振り向けられるという利益があった。 以上のような技術革新、取り分け三圃制の普及によって、農業の生産性も著しく向上した。[播種量に対して2~8倍。平均して3,4倍]… (93)こうして西欧中世の農業革命は必然的に「商業への農村の参加」を伴う事になる。この現象は農業における技術的変革の結果であると同時に、その原因でもあった。取り分け11世紀から13世紀に賭けて発展しつつある都市の農産物に対する需要の増大、周辺農村に対する都市の影響圏の拡大に注目しておきたい。13世紀に人口3000人の都市が存立できるためには、1000トンの穀物を生産する3000ヘクタールの耕地が必要であったといわれる。
商品流通に農村が巻き込まれていった指標のひとつは農村の週市や定期市の増加で、この現象は西欧のいたるところに見られたが、イタリアのような例外もある。ここでは10世紀に数多く存在していた農村市場は、農産物の取引の大部分が都市に集中した結果、衰退してしまった。 これに対し、フランス各地では11世紀から13世紀にかけて増殖した開墾系の新村は、多くの場合「地方市場町」としての性格を備えていた。… ところで、農業技術の革新と農産物市場の拡大は他方で農業生産の性格そのものにも大きな変化を引き起こす。J.(94)ブゥサールは11,2世紀のアンジュー地方について、農業技術の進歩を証明するブドウ栽培の発展、アンラビに穀物生産における燕麦と小麦による大麦とライ麦の駆逐、そして農民経営の文化と地方市場の成立と言う諸現象を統一的に説明している。このような経済的発展の背景には、アンジュー伯による政治的支配権の再編成過程があったことも忘れてはなるまい。 一般に中世前期の西欧農業は、穀物生産を主軸とする食用作物の多作経営と言う性格を持っていたが、それは不作の危険を回避するとともに、地方内自給経済の必要に応えるという事情によるものであった。しかしいまや都市消費市場の発展と共に、商品流通に対してより良く開かれた地方では、多作経営を完全に放棄しないまでも、その生産物の大部分が流通に振り向けられ、農村外市場に販売されるような商品作物の生産を主体とする「主作経営」へ転換していった。

知識と社会6

三。民衆的想像世界と社会   ・農村・都市の発展と普遍的イデオロギー: 第一に指摘しなくてはならないのは、農村と封建領主の台頭である。紀元千年を越えると、西欧の経済・社会の(248)構造は大きく変容した。大規模な開墾運動によって森林は征服され、次々耕地に変えられて行く。更に技術革新のお陰で農業生産力が増大すると人口も増え、農村は嘗て無い活気を呈するようになる。また農村の社会的組成は次第に複雑化するが、それは世俗・教会双方の封建的権力の網の目にとらえられて、新たな秩序が作り出される事になった。ここに成立した新しい社会構造は、俗人貴族の封建的主従関係のピラミッドと、世俗ないし教会領主に対する大多数の農民の土地と労働を媒介とした従属関係たる領主制を基本としていた。そして社会構造の細胞ともいえる農村は、概ね教会とその司祭を中心とする小教区と重なっていた。 さて、一つないし複数の農村を支配する領主のうちには、次第に力を蓄えていくものが現れる。彼らは、新たに起こした家系の正当性を公に認めさせるために民衆文化を利用する事に思い至る。メリュジーネなどの妖精物語や動物への変身譚、或いは英雄や古代都市を巡る伝説などが、そのための好個の素材となった。そうした口頭伝承は、読み書きの出来る聖職者によって書き留められ、記述と口伝を繰り返しつつ領主層・農民層に伝播していく事になった。教会は、建前としてはそこに迷信や異教の残滓や悪魔の惑わしをしかみないとしても、この時代には、多くの聖職者が、民衆が作り上げた美しくも不可思議な世界に魅惑されたこともまた確かである。民衆とエリート両者の間の思惑のずれや対立、そして融合の試行錯誤は勿論あったが、いずれにせよ貴族と農民を包括した農村生活の活性化が、脅威の世界歴史世界への関心を呼び覚まし、盛期中世において「民衆的想像世界」を育てていく第一の機動力となったのである。
 こうして端緒を得た「民衆的想像世界」は、12-13世紀に本格的展開を見せる。それは、普遍的な権力のイデオロギーによる想像世界の統合・組織化をスプリング・ボードとしている。これが、第2の要因である。フランスを例にとれば、国王は、一連の組織改革を経て諸侯達の影響力を骨抜きにし、封建制によって分断された地方主権の多元性を克服して、徐々に中央集権化を実現していった。それは12世紀末から13世紀に掛けてのこと(249)であり、その結果、法生面ではばらばらの慣習法がローマ法の影響を受けた制定法によって統一され、と同時に社会の上層から下層へと、順々に習俗の洗練の機運が高まる。それを精神面で補完したのが、教会のイデオロギーと霊性であった。いや、「民衆的想像世界」の展開にとっては、こちらのほうが必須のものであった。既に10世紀末の「神の平和」「神の休戦」で素描された普遍的なキリスト教的秩序追求は、11世紀後半以降、「グレゴリウス改革」や十字軍の遠征で一段と活発化する。13世紀には教会の中央集権化は完成し、それを裏打ちする教会法と神学も体系化する。一般信徒の中には、改革的教会人以上にラディカルなキリスト教世界の表象、すなわち、福音主義使徒的生活の理念を掲げ、清貧に徹する平等な信徒達の共同体としてのキリスト教世界像を信奉する者が現れた。とにかく、この時代に登場した、教権と俗権を包括する一つの普遍的なキリスト教世界こそ、「民衆的想像世界」の登場人物たちがそれぞれ意義深い役柄を演じながら縦横無尽に活躍する最大の舞台であった。 第3の要因としては、11世紀末ないし12世紀初頭の都市の復興をあげねばならない。都市の復興と市民生活の発展は、「民衆的想像世界」をより豊かにするとともに、やがてその変容をもたらす原因にもあった。
都市では、商人や職人と言う、土地の呪縛から解放され、思うまま富を追求する新たな社会層が生み出されたが、13世紀になると、農民とは全く異質の価値観や生活様式を持つ彼らと市民を対象とするインテンシブな司牧活動が、ローマ教皇の唱導によって展開する事に注目したい。それを主として担ったのは、托鉢修道会である。托鉢修道会は、その修道士たちが市民出身でしかも布教対象であるという、全く新しいタイプの修道会であった。信徒個人個人の内面を隈なく把握しようと言う教会当局の方針は、遂には1215年の第4回ラテラノ公会議における告解と聖体拝領の義務化に結晶する。こうして教会は、「民衆的想像世界」にも、折からのスコラ学を特徴付ける厳格な論理と倫理を注入し、更に合理化して、自分の懐に回収しようと図ったのである。「民衆的想像世界」は秩序立てられ、善悪の無造作な混合を阻むようになる。 (250)このように、盛期中世(11-13世紀)においては、農村でも都市でも民衆文化とエリートのキリスト教のより緊密な接触が見られた。両者は相互に検閲・加工しあって融合し、こうして西欧社会独自の普遍的な「民衆的想像世界」が誕生し、発展する事となったのである。… 後期中世の都市では、俗人がより積極的に、宗教生活において大きな役割を果たすことを要求し始める。教会はそれゆえ、都市においては権利や財産の侵害とともに、教義の侵害(異端)にもおびえる事になる。都市での市民の活発な信仰生活は、世俗文化の開花とあいまって、キリスト教世界と並んで都市が「民衆的想像世界」の参照系となることを赦すであろう。都市の建設神話がさおうだし、都市のコスモロジーを確認する行列や祭りの盛況、さらには国王にまつわる諸儀礼の発達もその証拠となろう。
 都市で生活するエリート達にとっては、世代を重ねるごとに、農民起源の迷信はますます理解の手の届かないものになる。都市が成熟し、周りの農村とははっきり異なった世界となると、相互の無理解と不信と侮蔑の感情が募ってくる。都市のエリートにとっては、最早、農村にすくうキリスト教と無関係な異教の残滓を「迷信」としてのろうことが問題なのではない。農村に巣食って居るのは、より由々しく、人類全体を脅かす悪魔の手下達とそのたくらみなのである。そして「迷信」のほうはといえば、その領域は異教からキリスト教内部に移り、正統な慣行の最中に侵入する涜聖行為の謂となる。即ちそれは、教会や墓地における聖性の侵害を指し、具体的に派生なる祝祭日を無視した生活態度や聖油の売買等々を意味するようになる。疫病や戦乱にひっきりなしにさいなまれた中世末になると、既に名ばかりの普遍的権力となった教会は、その権力・権威の無謬性・善性を裏付けるために、それ以前には幻覚に過ぎないと否認していた異教的表象を手のひらを返したように現実だと言い張る。しかも自らその現実性の保証人を買って出るとともに悪のレッテルを貼って裁く、(251)という原告と裁判官を兼ねたような捨て鉢な手段にすがる事になる。また他方では、市民が俗語文学や演劇などの都市文化を育んでいき、想像世界にも彼らの投射したイメージが大きな比重を占めるようになってくる。彼らはグロテスクな、滑稽な、はたまた無邪気なイメージを持ち寄って、聖なるイメージを苔にして笑い飛ばすが、それが昂じると、嘗てキリスト教的イデオロギーによって統合されていた「民衆的想像世界」は破裂し、その構成要素のイメージはてんでんばらばらになって散乱し、新たに強力なイデオロギーが登場してそれらの布置を決定するまで、気ままに浮遊する事になろう。
・時間と空間: 最後に一つ付け加えれば、「民衆的想像世界」は、その時代の人々の時間・空間認識と不可分の関係にある。対極的に見て、初期中世の農村の生活様式に適合した循環的・典礼的時間と身体や家屋の延長としての空間の認識は、盛期中世には都市の成熟や合理主義の進展とともに、より抽象的で客観的な存在としての空間と直線的で強度に組織化された時間(商人の時間)へと移行するといえるが、そこに、永遠の時に向かって世界創造から最終審判まで矢のように一直線に走る時間認識と、仮の宿りであるこの世と永遠の世界である天国と地獄を対比させた空間認識を特徴とするキリスト教的な救済史の時間・空間認識が不断に渡り合って、「民衆的想像世界」を構造化していったのである。もう一つ、12,13世紀の「民衆的想像世界」の飛躍的発展には、脅威の時間空間認識…、ケルトや古典古代の遺産を汲んだ世界観ー時間が逆に流れて若返ったり、一日が百年に相当したり、この世とあの世が貫入しあっていたりする世界ーの影響が極めて大きかったことも、言い添えておこう。

知識と社会4

chapter8 キリスト教と民衆的想像世界 池上俊一   一。創造世界における民衆的なもの   …(231)本章で扱う「民衆的想像世界」は、民衆宗教や民衆文化の一部である…。 ・民衆=迷信論: (232)まず、文化や宗教といったものを俎上に載せる場合に、中世のローマ・カトリック教会の論者そのままに、キリスト教的なイデオロギーを自らのものとして「民衆的」なるものを否定的・貶価的にとらえる見方がある。より端的には、それを異教の残滓とか、魔術的な行為とか、公式の文化や宗教の退化形態だとして、底に何ら創造的・積極的機能を見出さない立場である。 このような把握方法は、既に教父の聖アウグスティヌスに遡る。彼は、民衆的な慣習を「迷信」と呼んで、それを根絶すべきことを説いた。…当初より、樹木や泉の崇拝が異教的な偶像崇拝として教会人ののろいの的となり、それを根絶するための初期中世の布教家・聖者たちの努力は、大変なものであった。死者が周期的に聖者の親族を訪れるという俗信や、仮面をつけ、ドンちゃん騒ぎをし、互いに贈り物をしあう機会となった幾つかの異教的祝祭も、同様に断罪された。これらの断罪は、初期中世の多くの司教区教会会議の決定やフランク王国の国王による勅令に含まれるばかりか、初期中世から正規中世にかけて多数編纂された贖罪規定書にも詳細に列挙されている。 … ・民衆の固有性評価: 次に「民衆的」なるものをより積極的に評価する見解がある。民衆は、エリートとは異なる文化・宗教を持(233)っており、その中に浴して日々の生活を送っていたのであり、それはエリート的なるものの退化形態でも、異教の残滓でもなく、エリートのキリスト教や異教の影響を受けつつも、それらを独自のプランで組織化していったものである。そこに、固有の価値と機能を持つ「民衆のキリスト教」が出来上がったのである。更にそれは、単に受身の産物ではなくエリートの文化や宗教に逆に影響を及ぼして、それを変化させることさえあったのである。
[宗教史家ドラリュエル]によると、中世には、一方にエリートの公式・厳格なキリスト教があり、他方には「弱き人間」の日常の必要に見合う形で生み出された、奇跡を絶えず希求するような民衆の素朴なキリスト教があった。そしてこの二つのキリスト教は、相互に無関係ではなく影響しあうのだとされる。… 次に、霊性の歴史の探求者であるヴォシェも、キリスト教の冷静の中に民衆的なものとエリート的なものを分けて、両者の関連を探って居る。中世においては、聖性にいたりつく特権的手段は修道士や聖職者に独占されていた。彼らのみが聖書を読むことが出来、詩篇を朗誦でき、祈祷に身を捧げることが出来た。民衆は、エリートの信心行のいくつかを模倣して、沸き起こる宗教的渇仰を満足させた。四旬節の断食や日曜ミサへの出席がそれである。しかし民衆の冷静は、過激な福音主義やヒエラルキー批判に見られるように時に、教会制度の枠、そして難解な教義の枠をはみ出すことがあった。ヴォシェによると、それにもかかわらずこの二つの霊性は交流可能で、(234)あい携えて発展していったのだという。その理由は、聖職者の多くが、現実には民衆の霊性の大海原によくしていたからである。教会はカロリング期以来、民衆の霊性の構成要素のうち、取り込めるものは取り込んで教義や儀式を形成して逝った。聖者崇拝や天使崇拝がこうして生まれ、また正規の万聖説制定は、民衆の間に広まっていた死者崇拝を汲み取って出来たものなのである。 それまでどちらかと言えば受動的であった民衆は、11世紀末、教会を揺るがした改革運動の後で、魂の救いを求めて大規模な宗教運動を展開した。それは、教会改革者を援護するとともに、ラディカルになりすぎて当局を苦しめることもあった。ともあれ、歴史的・人間的キリストの姿の発見と、使徒的生活やメシアニズムへの憧れなどを中核に据えた民衆的霊性が、ここに大きく開花する。 
更にもう一人、マンセッリは、ドラリュエルとは異なり、中世キリスト教が二つに分かれて、民衆宗教とエリートの宗教に分割されていたことを否定し、それは実際は発現形態が異なる一つの宗教なのだとする。…エリートがキリスト教の啓示の言葉(聖書)によって与えられたデータを概念的に体系化する傾向があったのに対し、民衆はその同じ啓示を概念的現実としてではなく、上からの権威に保証された真実として受け取り、更にそれを主観的に選択受容して、歴史的に構造化された心的シェーマの中に統合していった。取り分け民衆は相互に普段に影響しあい、常に出会いと合流を求めていたが、その相互浸透・適応が一段と進み、新たな方向を目指したのは11世紀以降だという。それは何よりも都市の出現が原因となっている。…(235)[3社の見解はいずれも]民衆の宗教や霊性に固有の価値を認め、またエリートの宗教や冷静に対して受身一方と看做すのではなく、主体的に畑r機かけていく能動性を付与している。また3人は一致して、11世紀が大きな転機だとする。それは教会改革運動と都市の出現のためである。 このような新しい論点は、民衆宗教の母体たる「民衆的想像世界」についてもほぼそのまま当てはまるであろう。… ・口承と筆記の交替劇: (236)シュミットは…観念やイメージの伝達や変容が口頭でなされるか、それとも文字でなされるかに注視し、その交替に権力の操作の介在する余地をかぎだしている。公的な権力を身に帯びた聖職者が、彼らの独占する文字・記述行為を介して民衆文化に権威と秩序と抑圧を課すべく、口承で野放図に広がっていたイメージ世界のイデオロギー統制を試みるのである。…[ほかにグレーヴィチは](237)太古の時代に起源し現代の未開種族にも見られるような、宇宙との融即の感情、占い・予言・農耕儀礼などの呪術的慣行の存在を西欧中世に見つけ出して、それは長い中世の間殆ど不変不動であるという。…「民衆的想像世界について」、次のように纏めることができよう。それは、民衆の間に口頭で伝わるキリスト教以前の伝承とエリートのキリスト教の合作として盛期中世に大きく切り開かれた世界であり、独自の構造と機能、意味と価値を備えていた。しかしそこにはいつも権力・支配のイデオロギーが介入しようと身構えていたのであり、それは何よりも口頭伝承を文字で書き留めることを媒介として行なわれたのである。

知識と社会3

そして大学と言う制度そのものの中に、取り分け学科ごとの教師団体である「学部」と言う制度を通して、キリスト教的知識がその基盤を置く知の体系を温存しようとしたのである。[これを擁護した教皇グレゴリウス9世の教書がパレンス・スキエンティアルムである。その後パリ大学での托鉢修道会進出問題について、ローマ教皇庁のパリ大学支配、教皇庁によるパリ大学の直属機関化が、単に大学の理念という抽象論のレベルではなく、法を通しての具体的なものであったことを示して居る]。… (228) …12世紀の知的な活況の中で醸成された土壌から、新たな人的素材に担われた新たな教育・研究教育状況が生まれ、新たな知的世界を切り開いていったが、12世紀以降、新しい人間類型に属する「教師」と「学生」が「大学」と言う共同体を形成する事になった。その一方で、伝統的な知的営為の監督者、その領域での権威であるローマ教会は、普遍教会への道を進む中で、新たな知的世界の展開ーそれは既存のキリスト教的秩序を危険にさらす可能性があったという意味で挑戦と言うべきかも知れないーへの対応を迫られる。インノケンティウス3世以降のパリへの介入は、13世紀西方ラテン教会の教義と知の枠組みの中に、12世紀ルネサンスの産物である「大学」と言う新しい制度を取り込むことを目的とした一連の歩みであった。パリ大学は13世紀に、高位聖職者養成機関からキリスト教的知識の最高の研究機関となっていき、ローマ教会と言う権威に取り込まれる事によって、普遍的な知的権威を手にする事になったのである。
 …パリと並んで「最も古い」ボローニャ、オクスフォード、モンペリエの大学創設に関しても、ローマ教皇の介入は行なわれた。例えば法学の研究と教育の中心地ボローニャに学生主導型で形成された「大学」への教皇の関与を見てみよう。1219年、ホノリウス3世は、ボローニャで(229)の教授免許交付権をその知の助祭長に認可した。この措置によって、学生はコムーネが教師達を通して行なっていた管理監視から離脱することが出来たと考えられる。また1224年には教師が「大学」の規約に従うことを教会罰を持って命じた。学生組合の解散と学生の市条例への服従を狙った市当局に対して、教皇庁が学生の自由を保護する立場に立って介入したのも、同じホノリウス3世在位下の出来事である。このように、ボローニャの学生の「大学」=組合の背後にあっても、教皇庁がその権威を行使したことが理解される。オクスフォード大学に関しても、その知の学徒に裁判上の特権的地位=世俗裁判権からの離脱を承認したのはインノケンティウス3世のローマ教皇庁であった。さらにモンペリエの医学「大学」の整備[など]教皇庁の権威が当該大学のあらゆる事柄にわたって保たれると規定されたのである。こうした一連の介入の目的は、教会による高等教育機関の整備、独占と言う射程の中で理解されるであろう…。

知識と社会1

chapter7 知識と社会 大嶋誠 一。大学史研究の動向 (205)…「大学」は西欧中世独自の産物とさえ言われている。知識を蓄積し創造する教師とその知識を自らのものとしようとする学生の共同体、別の言い方をすれば知的営為にかかわるものの共同体である大学は、12世紀西欧の社会を部隊として、そこで展開された政治的・経済的・宗教的・そして更には知的状況の中から新たに生み出された歴史的生成物なのである。その大学は13世紀西欧社会の中に定着し、時代の知的営為の中心となるとともに、教皇権・皇帝権とともに普遍的権威の一つに数えられて存在する事になった。 二。12世紀ルネサンス: (207)12世紀を特徴付ける歴史現象は幾つかあるが、知的領域に関して言うならば、12世紀の特徴は「知的覚醒」という事が出来よう。…12世紀の知的活況が、大規模な開墾と耕地面積の増大、農業技術の革新とそれに伴う生産性の著しい上昇ーそれは中世農業革命とさえ呼ばれるーと人口の増加、商業や都市の発達といった当時の経済生活の飛躍的発展、更には十字軍が証明するような西欧社会の膨張を基礎にして展開された事は、多くの研究者が既に指摘しているところである。それらを確認した上で、我々は12世紀の知的領域、教育界の覚醒を検討する事になるが、その対象となるのは、グレゴリウス改革の影響、地的地平の拡大、地的活況と教育人口の膨張に伴う学校制度の再編・整備と言う三つの事象である。 ・12世紀の知的覚醒: 「教会の自由」を追求したグレゴリウス改革…、知識との関連で、グレゴリウス改革が及ぼした影響を一言で言えば、キリスト教徒を霊的に指導する聖職者、なかんずく高位聖職者の必須の条件として、読み書きできる事、学識を主張した事にある。
(208)…グレゴリウス改革の推進者は先ず、聖職への任命は教会法規に基づいて行なわれるべき事柄であること、そして、教会法規は聖職任命の装置であるばかりではなく、聖職任命の基準でもあるとの主張を行った。高位聖職者は様々な徳を有するがゆえにその職にあるとされたが、現実には、慣習によって貴族がその職につくものとされた。グレゴリウス改革推進者は、この慣習に対して積極的に反対する事もなく、この慣習を尊重した。それと同時に改革推進者は、高位聖職者、更には教会人であるためには、最低ラテン語の読み書きが出来る程度の学識を備えていることが要求されている事を理解したのである。つまり、セナトール貴族系聖職者に代表されるような貴顕の出自と学識の双方を具有する事が霊的指導者の条件と考えられたのである。ここで指摘すべき重要な点は、貴族階層型の社会階層の人物に比較してより学識があるか否かという事ではなくて、学識が、貴族による教会の行為の独占を打破する要素として登場した事なのである。教会法規はシモニアを通しての貴族による高位聖職独占を禁じたが、同時に高位聖職を学識による攻撃に晒す事になったのである。グレゴリウス改革推進者がシモニアを禁止し、その一方で教会人の学識を強調した事によって、学ぶ事の価値がそれ以前とは異なる属性を持つ事になった。つまりそれは、学識を得る事、学識を得るために学ぶ事が社会的な、少なくとも教会内的な意味での栄達の手段、或いは野心を実現する手段となりえた事を意味したのである。 教会の中での学識の強調は同時に、学ばれるべき事柄に関して教会のコントロールが行なわれることを予見させずにはおかない。
世俗の知識ー文法、修辞学、論理学からなる3学を意味するーに対して実践的な必要性が与えられる。文法は書簡を認めるために、修辞学は論争するために、論理学は議論を成り立たせるために必要であるばかりでなく、これら3学は、聖なる書き物の理解と教会の法規の研究に奉仕すべきものとされたのである。 学ぶ事、学識の獲得に関して教会の内部に生じたこのような大きな変化は、「学校」の再興と、そこでの教(209)育・研究の活性化を必然としたと考えられる…。 12世紀はまた、ローマ法が再発見され、古代ギリシアの知的遺産とアラビアの知識がラテン語への翻訳を通して西欧社会に流入し、西欧の知識の総量を増大させ、知的養分を供給し、知的覚醒を引き起こした時代である。12世紀以前の西欧が手にしていた古典古代の知的遺産は極めて乏しかった。西方ラテン世界が継承したギリシア古代の知的遺産はカッシオドルスやセビリアのイシドルスやベーダといった少数の学識ある人物が断片的に収集したものに過ぎなかった。従って、12世紀の西欧社会に知られていたラテン語訳されたギリシア語の著作と言えばごく貧困で、カルキディウスの翻訳したプラトンの『ティマイオス』断片、ボエティウスの翻訳になるアリストテレスのオルガノンの中の範疇論と命題論を数えるだけで、アルキメデスやユークリッドなどの名前すら忘れ去られていた。また、アラビアの知識の需要はごく狭い範囲に限定されていた。 12世紀のラテン語への翻訳活動は、西欧世界とイスラム世界が接するイベリア半島(カタルーニャとトレド、とりわけ後者が中心であった)、6世紀以降はビザンツ帝国の、9世紀後半以降はイスラム教徒の、そして11世紀中頃以降にはノルマン人の支配に服したシチリア、そしてギリシアとの通商外交関係を保っていた北イタリア都市と言う三つの拠点で行なわれた。
 アラビア語或いはギリシア語からラテン語へという翻訳活動の結果、西欧社会が所持する知識の総量は飛躍的に拡大する事になった。フワーリズミー、キンディ、アル・ラージー、アヴィケンナ、アヴィケブロンなどのアラビア系学者の著作、またアリストテレスの著作(天体論、生成消滅論、気象学第4巻、分析論前書、分析論後書、トピカ、詭弁論駁、自然学、霊魂論、形而上学1-4巻など)やユークリッド、プトレマイオス、ア(210)ルキメデス、ガレノス、プラトンなどのラテン語に訳された著作を西欧は手に入れたのである。 古代ギリシアやアラビアの知識が、知的活動の新しい素材を提供する事になるが、1100年前後、法学が一つの学問、一つの教科として成立する事になる。グレゴリウス改革の教皇権と皇帝権と野対立のイデオロギー論争のコンテクストにおいて、ボローニャを中心とする北イタリアで、既に11世紀に再発見されていた『ディゲスタ』の写本が流布し、またそれへの注解を施す事が盛んに行なわれるようになった。教会の職務とそれに携わる人たちを統べるとともに、社会の中で、キリスト教的倫理と規律に基づく遵守事項を定める教会法も発展を遂げ、1140年ごろ、ボローニャの修道士グラティアヌスが、それ以降の教会法教育のテキスト、注解の素材となる『教会法命題集』を編纂する事になる。こうして、法学が研究と教育の領域に入って来たのである。 ・学校組織の再編: 12世紀、教育制度・学校制度の再編が見られた。それを示す一つの現象として、教育の場の中心が農村的な修道院付属学校から、都市的な司教座聖堂付属学校に移行したことを指摘する事ができる。修道院系の学校が衰退、ないし自己閉鎖化する状況が見られる一方で、都市に置かれた司教座付属学校が活況を呈するという状況が生まれた。
修道院に関して言えば、基本的な理念において、教育活動を含めて世俗社会の活動から隔離され、己の魂の救済を目指す修道院は、社会全体が停滞している時期には過去に蓄積した知的・文化的遺産を保持する事で文化活動の担い手となりえたが、社会が停滞から運動へと変化する事によって、社会的にも知的にも農村の中に孤立して行ったし、12世紀を代表する修道会であるシトー会は、修道院付属の学校をそなえる事はなかった。 (211)これにたいして、11世紀以降…司教座聖堂付属学校が恒常的に運営されるようになったと思われる。なぜならこの時期以降、いくつかの司教座聖堂付参事会で、学監schorasticusの継続的なリストを作成する事ができるようになるからである。そして、12世紀中頃までにはすべての司教座聖堂が付属学校を持つ事になった。幾つかの学校は優れた教師を擁する事によって、単に司教区だけではなくかなり遠隔地からも学生をひきつけた…。 だが12世紀の教育・学校制度の整備を特徴付けるのは、フランス北部を中心に見られた現象であるが、「私学校」の登場である。これは、教会とのかかわりを持ちながらも自立性を持つ教師が開いた学校で、そこの教師は基本的に、教育を受けるものからの謝礼によって生計を営む。彼らは、勉強の後に彼ら自身も教師職に就くことを希望したもので、教会の機関に地位を得て教育活動につくという事が出来なかったので、自ら学校を開いたと考える事が出来よう。私学校の登場は知的活況、教育人口の膨張を端的に示す現象と言えるであろう。
これらの「私学校」の教師も学生も、基本的には教会的な性格を持ち続ける。と言うのは12世紀、学問或いは教育の領(212)域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者であるとする伝統的観念が西欧、とりわけパリでは広まっていたからである。… 「私学校」では主に自由学芸が教授されたが、それ以外の教科が教授される事もあった。いずれにせよ、伝統的な学校に比べて自由に、また学生の要求を受け入れながら教育が行なわれたのは「私学校」であるし、翻訳活動によってもたらされた新たな知識や弁証法、法学、医学など学生の関心をひきつける教科が中心的に教えられ、成功を収めたのも私学校であり、知的欲求・知的好奇心・理性の創造性への信頼といったものが大きな意味を与えられたのも私学校であった。しかし私学校での教育について伝統的教育関係者の仲には、既存の知的秩序に対する脅威と捉えるものもいたし、あるいは実用の学(法学、医学)の成功の中に、神に向かう学の衰退を懸念するものもいた。こうした不安、懸念を持つ人たちの存在にかかわらず、12世紀後半になっても私学校で教える教師、或いはそこに学ぶ学生、そして教職を希望する物の数は増加し続けたのである。[主に北フランス、パリで] 知的活況、新たな教育活動の展開の中で生じた教師及び教師志願者の増加は、既存の教育制度、教育裁治権のあり方に対しても変更を求める事になる。この問題に積極的に介入した最初の教皇はアレクサンデル3世である。12世紀、教育裁治権を掌握していたのは司教区の長であり、学監あるいは司教座聖堂参事会付文書局長cancellariusが司教から委託されてその権利を行使しており、彼らは、新たに教師として活動するもの=新たに学校を開く者に対して教授免許を交付する事によって、教育活動を監督していた。
 (213)アレクサンデル3世の施策は、教育人口の膨張と言う教育界が直面した状況の中で、教授免許制を整備し、教育の無償化を実現する事にあったといえるであろう。教皇は教授免許が売買されている事を「教育職の売買」と理解し、ガリアの司教宛の回状で教師適格者への教授免許無償交付を命じるとともに、第3ラテラノ公会議決議を持って法制化した。また、同じ公会議で、聖職者、貧困学生に無償で勉学の機会を得る事が出来るよう、各司教座聖堂に教師のための聖職禄の確保を義務付けた。 アレクサンデル3世は、観衆的であった各司教区ごとの教授免許授与権を普遍教会の名において権威付け、教えるものにはその免許が必要である事、教育が教会の管轄事項である事、そして更には、教育人口の膨張と言う状況にあって、教師適格者は無償で教授免許を得て教師として活動できる事を確認したのである。 

ローマの秩序4

三。中世盛期における都市と農村-ラティウム教皇国家の場合 ・集落間ネットワーク形成の2要因: …(143)中世盛期は都市と呼べるような集落が増加し、その一部がことに規模を拡大して上位に立ち、他の都市や農村との間に上下関係と機能分担を含むネットワークを作り出していく時期である。…こうしたネットワークが出来上がっていくには幾つもの要因が働いていたと考えられる。 一つは経済的次元での動向であり、在地的・地域的発展を基盤とする流通と密着しながら、紀元千年以降には、(144)地域間の商業が展開し、更には西欧を越える国際的商業と接合していく。…それと絡み合って、こうした広域的な商業と結びついてその結節点になった集落や、そこでことに需要の多い商品を生産する集落などが急速に規模を拡大する。他方には、主として在地的流通の中で需要を充足しうる多数の集落があったが、そうした場所も遠隔地商業とは無関係ではなかった。…凡そ至上税や流通税が貸されるほどの商業取引が行なわれる場所であれば、どのような集落でも遠隔地的流通と在地的流通とが絡み合って居ることが明らかにされてきている。ただ大きく見て、両者の比率が集落の規模によって異なり、相対的に大規模で都市と呼ばれうる集落では遠隔地商業が目立つのに対して、より小規模な集落は在地的ないし地域的な商業を主体としているのである。…[その形成にかかわる政治的要因について]中世都市が封建社会の中で正統的な位置づけを与えられている事は既に述べたが、それはとりもなおさず、都市と呼べるほどの重要な集落は、同時に有力者による支配の拠点であり、政治的中心地と言う資格を持つ場合が窮めて多いことを意味する。…特定の集落が都市に成長する過程は、同時にそれが属する地域の政治的編成と密接に関係しているのである。
この時期の支配体制は、在地的に多数の中小領域(145)的支配圏が族生した上で、それらが封建制度や君主的統治によって両方と呼ばれるより大規模な領域に纏められていくところに成立していた。そして、こうした大小の領域支配の中心地となった集落こそ、都市として成長していく可能性が大きかったというのである。 ・12世紀までの司教座集落とカストルム型集落の近似: ところで、ラティウムにおけるカストルム型集落のincastellamento移行の成り行き、ことにその都市と農村のネットワークへの編入[は]…地方を舞台とする教皇国家の形勢と言う枠の中で働いているのである。 …まず、最初に指摘しておかなければならないのは、incastellamentoが始まった10世紀のラティウムには、既に場合によっては都市と呼んでも良い一連の集落が存在していた事である。即ち、巨大都市ローマをいただきながら、その後背地として古くから司教座網が稠密であったから、ヴェローリ、アナーニ、アラトリ、ティヴォリ、リエティ、テラチーナといった司教座集落が根を下ろしていたのである。これらは総じて規模も小さく、12(146)盛期までの在地の発展に果たした役割は余り評価されていない。…これに対して農村部では、10世紀以来の活力の商店として、カストルム型集落が成長してきたのであり、停滞した司教座集落と比べてカストルム型集落間の競合のために不安定ながら、はるかに大きな発展性を内容していた。 12世紀までの司教座とカストルム型集落には、景観上も、経済活動上も、明確な対象は殆ど見られない。いずれも石造建築の集合であり、領主の住居は、カストルム型集落ではdomus major、司教座集落ではturrisとして同じく防備施設を兼ねていた。更に集落内部の中心的防備施設として、カストルム型集落ではroccaが、司教座集落ではcastellum civitatisが緊急時の避難場所となる。しばしば中世都市の指標とされてきた囲壁も、両者ともに備えて居るのである。
更に、経済活動を比較してみると、司教座においても囲壁内部の住居は尚まばらであって、菜園地も多く、かなりの程度に農耕が営まれていた。手工業者についても本質的相違はないという。職種だけを比較すれば、修道院の領主経済を反映したカストルム型集落の場合には、より多様と言えるほどなのである。…このようにみてくると incastellamentoが完成された時期のラティウムでは、司教座とカストルム型集落には本質的な相違がなく、…ここで重要なのは、としか農村化と言う二分法ではなく、新旧それぞれの集落が地域の関係網の中で果たした中心地としての役割である。正に、集村化を土台として生じた地域内部での都市機能の広い編成が、ここに見て取れるのである。 (147) 在地領主・修道院・教皇によるカストルム領域支配: この状況を出発点として領域支配が確立していくわけだが、…成長する集落は、その周辺に農地と未耕地を中心としたカストルム領域とでも呼びうるまとまりを生じさせ、領域ごとの境界が明確に確定されるようになってくる…すなわち、領域支配の根底には集村化によって成立した個々の集落が備える一円的な領域性が前提とされていた。 これらカストルム型集落の多くは、在地領主の手中にあった。ラティウムの史料がincastellamento以降のカストルム型集落の動向として最初に示してくれるのは、それらのかなりの者が、より大規模な支配を繰り広げて居る修道院の手中に吸収されていった過程である。この地方では、特にファルファとスビアーコという大修道院所有のカストルム型集落については、創設文書に加えて、年代記や文書集に伝来した寄進記録、教皇や皇帝による確認文書といった多様な史料での言及からそれらの変換を辿る事ができる。これらの修道院場自ら、或いは世俗人との契約によって多くのカストルム型集落を創出した事は言うまでも無い。
しかしこうした修道院史料の端々には、城を含む土地の寄進者やカストルム型集落建設の実行者として、またの地にはその支配圏を巡る紛争の相手方として、在地領主がしばしば登場している。後の時点で修道院領に数えられるカストルム型集落が、当初の創出は在地領主の活動に支えられていた事、しかしやがてそれは在地領主の手から離れ、修道院の支配下へ入っていくことがそれらの史料から明らかになるのである。そうした過程は、当初は臣従関係による事が多い。即ち在地領主が自由地として所有していたカストルム型集落を、自ら封臣となりつ封として請け戻すのである。しかし、在地領主の支配を吸収して所領の拡大と一円化をはかる修道院は、カストルム型集落を含む土地所有を得て、更に進んで、徴税権と裁判権など公権力起源の上級領主権の簒奪にも躊躇しなかった。修道院は、(148)単なる土地領主としての収入以外に、カストルム領主としての経済的基盤と、領域支配の梃子たる裁判権をも確保しえたのであった。 しかし、多くのカストルム型集落を支配下に収めていた大修道院も、12世紀以降次第に進む教皇国家の整備の中で、その体制の中に吸収されていく。… ・教皇国家確立と司教座集落の成長: (149)…カストルム型集落は、ラティウムが教皇国家として再編されていく過程では、重要なその支柱となっていったが、12世紀からは教皇国家確立の影響が、この時期まで特別の展開を見せていなかった司教座集落に活力を与える事になった。司教座網が教皇庁の活動拠点となっていき、教皇庁の巡回が制度的に行なわれるようになったのである。
…[司教座集落の成長について注目点]第一は、人口増加と都市内部の新たな街区区分regionesの制定である。集落内部に住居が密集し始め、市の比定に地理的な目印を必要とした事から街区区分が発展し、これが教区や租税の地区割りの基盤ともなっていく。第二は、多くの金融業者の存在とともに、これらが多様な貨幣流通の拠点となったことである。これには、緩慢ながらローマを中心とする地域の経済成長が存在した事が大きいが、同時に教皇国家確立には、新たに台頭した商人金融業者階層が教皇庁の官僚機構の一端を担って参与していた事も重要である。 このように、教皇国家の確立に応じて司教座集落が都市としての姿を整備してきたのに対して、在地の中心地として成長したカストルム型集落は、これとは対照的な途を辿る事になる。すなわち、人口増加傾向の中では、創出期に出来上がった閉鎖的な集落構造が硬直的な束縛となってきたのである。内部での家屋の高層化には限界があり、多くのカストルム型集落が停滞状況に陥って、一部は放棄される事態となってくる。このようにして、司教座とカストルム型集落とが、ともに都市的機能と農村的機能を持ちながら、本質的相違のないままに在地の中心地としての役割を分け持っていた11世紀とは全く異なった状況が生じた。それは、ローマを筆頭として司教座集落こそが都市であり、それらの連携が都市網を形成するのに対して、カストルム型集落は、多くがより会の中心地機能を示して居るとしても、ともかく都市網の下部に位置づけられているという、新たな都市と農村の関係な(50)のである。集村化の典型的な形態として、都市機能の地域的拡充に大きな役割を果たしたカストルム型集落は、教皇国家の拠点としての地位を獲得できなかったために、12,13世紀のより進んだ社会経済的事情の中では、村落としての位置にとどめられる事になったといえよう。

ローマの秩序2

三。教会の多様化   ・教会改革運動の広がり: 11世紀以降、西ヨーロッパの教会には様々な形で、改革・革新が見られた。…西ヨーロッパ社会にも再び商業、都市生活が復活してきた。教会もまた、時代の要請に応えていく事によって変化するのである。… 当時、聖俗を問わず、キリスト教徒としてあるべき姿を求めて、原始キリスト教にもどろうとする動きがあった。一つの動きは、世俗を捨てて、孤独な清貧生活の中に、自己の完徳と救霊を達成しようとする隠修士的な生活を目指す動きである。…11世紀の北イタリアにおいて、ラヴェンナのロムアルドゥスはフォンテ・アヴェラーナとカマルドリに隠修士のグループを残した。カマルドリでは一定期間のみ教会に集まった。フィレンツェのヨハンネス・グアルベルトゥスは、カマルドリから、さらにきび(62)しい戒律を持つグループをヴァロンブローサに残した。 ・革新的修道会: 当時の修道院は、クリュニーをはじめとして、人々の救済のために荘厳な儀式の中で祈祷を行う事に多くの時間を割き、来客や巡礼者を受け入れたり、寄進された土地を運営したりしていた。人々の代わりに祈る祈祷など、このような活動は、教会人として堕落したものだったわけではない。しかし、壮麗な祭式に重点を置いたその業務のために、清貧にして「祈り働く」ベネディクトゥス快速にのっとった生活をして居るとはいえなかった。このような修道院に対する不満から、隠修士的な生活を求めたり、よりベネディクトゥス会則に厳格であろうとしたりする動きが生じたのである。 
その動きの中で、最も大きく発展したのがシトー会である。1098年、シトー会はブルゴーニュの沼沢地シトーの一修道院に生まれた。シトー会は聖堂、小作地、地代などを受け入れる事を拒否し、隠修士のように荒地に住処を求めた。そこで彼らは、祈祷に当てる時間を最小限に押さえ、みずから労働に携わった。…シトー会は、従来のベネディクト修道士が黒衣をまとったのに対し、白い修道衣をまとい、単にベネディクトゥスへの回帰を目指しただけでなく、新しい修道生活を作り出す事を目指した。そして1121年、教皇インノケンティウス2世によって、最初の正式な修道会として承認された。… ・説教者の動き: 隠修士的名厳しい禁欲生活を求める動きは、他にも新しい修道会を生み出したり修道院の改革を進める事になった。その主導者となったのは、しばしば、孤独な生活をするだけでなく、各地を回って人々に説教をして(64)まわった隠修士たちである。彼らは福音書の精神に従って、自ら贖罪のため苦行と禁欲の日々を実践しており、そのカリスマ性ゆえに人々を魅了した。… もっともこのような隠修士たちは、教皇の許可を得ないままに説教をし、しばしば既存の聖職者を非難したために「孤独な生活は悪魔の誘いを受け易く、放縦になりがちである」として、彼らもまた非難の対象となった。隠修士たちは、一方で聖職者の倫理的な面での改革に清し、人々に福音の教えを広めながら、一方で教階制度を整備していく教会の発展には相容れぬものを持っていた。…カリスマ性を持つ指導者が姿を消すと、このような隠修士によって指導された集団・修道院は力を失い、伝統的なベネディクト修道院内のグループに戻る事になった。 ・聖堂参事会運動: 隠修士的な動きが一面で教会の指導者の非難の的になったのに対し、当時の教会から推奨されたのは、私有財産を捨て共住する事であった。
とりわけ、この共住生活への運動は、聖堂参事会運動として、この時期大いなる盛り上がりを見せた。… 従来、原則的に聖職者は2つに大別された。即ち、教区にあって司牧に当たる在俗聖職者と、ベネディクトゥス会則に従って祈りに捧げる禁欲的生活を送る修道士である。このうち、在俗聖職者は共住生活を送らねばならないわけではなかったが、…誓願を立てないにせよ、共同生活と財産の共有を原則とする聖堂参事会員が生まれていた。 この聖堂参事会員は半ば修道士的であり、律修聖職者とされたが、実際には参事会員の独立生活や私財所有は認められており、その生活には問題が生じていた。ウルバヌス2世は、聖職者の間に修道士的な共同生活が浸透することを奨励したが、聖堂参事会員には修道士とは異なる司牧の使命を認め、修道士と聖堂参事会員を明確に区分した。従来の修道院が免属の問題を巡って司教としばしば対立していたのに加え、新たな修道会は荒野に巨を求め、富のみならず司牧の責任を回避した。そのため、司牧にあたる聖職者の改革は、都市にあって半ば修道士的な生活をしながら、司教の監督権の元にある律修聖職者たる聖堂参事会員に求められたのである。このことは、各地の司教権を強化、安定させる事によって教会の体制を整備する目的を持っていた。…(66)12世紀前半における聖アウグスティヌス修道参事会を初めとする律修聖職者の隆盛振りは、ホノリウス2世からハドリアヌス4世にいたる35年間に登位した教皇7名のうち5名までが、律修聖職者出身であった事からもうかがえる。 ・「多様なれど敵対せず」: 更に、十字軍をきっかけとしてこの時代は新しいタイプとして騎士修道会を生み出した。聖地への巡礼を保護し、十字軍の中核となったテンプル騎士修道会や聖ヨハネ騎士修道会は、騎士たちに「戦いながらキリストに仕える」と言う目標を与えた。


騎士修道会は、聖地で活動するだけでなくヨーロッパにおいても募兵、(67)募金のため、或いは疾病、老齢の騎士を収容するための施設を各地に作り上げた。網の目のようにめぐらされた騎士修道会の組織は、聖俗の諸侯がうらやむ組織力を誇るようになる。このような騎士修道会は、聖地の十字軍活動が衰退した後も、ドイツ、或いはスペインといった辺境地域において活動を続ける事になる。 このように、11世紀後半から12世紀前半の時期は、教会の制度が様々なニーズ、運動の高まりの中で多様化する。12世紀半ばに『教会の中に存在する様々な身分や職業についての書』がかかれたことは、これを象徴的に示して居る。嘗てベネディクト会則のもと一枚岩を誇った修道院にも明確な修道会がとうじょうし、ひとつではなくなった。もっとも厳しい禁欲的、観想的カルトゥジオ会から半俗半修道士的な性格を持ち、参事会改革運動を担ったアウグスティヌス修道参事会まで、更に武器を持って神に奉仕する騎士修道会まで、その活動の場も様々である…。それぞれが固有の使命を持ち全体として調和を持つ「多様なれど、敵対せず」がうたい文句の時代であった。来る13世紀はその多様な性格を統一する力が強く働く時代となるのである。

ローマの秩序1

1. ローマ・カトリック秩序の確立 山辺規子 ・枢機卿団の形成(55): 枢機卿は、この時期の教会改革によって、単なるローマ近郊の聖職者から、普遍的な教会の指導者へと脱皮した。 元々枢機卿が置かれたのは、純粋に典礼のためだった。ローマ近郊の教区司教である7人の「司教枢機卿」が、教皇の主聖堂たるラテラノ聖堂において週番で祷務にあたったのが、その始まりであるとされている。一方、枢機卿と言う名称は、ローマ市内の所謂「名義聖堂」の司祭にも当て嵌められた。この時代には、名義聖堂は28を数えた。この名義聖堂の司祭たちは7名一組になって、ローマ市内の4つのバシリカでやはり週番で祷務に服した。この名義聖堂の司祭が、「司祭枢機卿」である。 …11世紀半ばの教会改革によって、枢機卿の役割は教皇の典礼の補佐から大きく広がる。…(カット)。 ・枢機卿の任務: (57) 枢機卿の第一の任務は、教皇を選出することである。これは、1059年の「教皇選出規定」によって、枢機卿にのみ認められた権限である。… 枢機卿はまた、広範囲に広がった教皇の職務の補佐役として活躍する。彼らの働きは、教書、つまり教皇の文書の副署にうかがえる。11世紀後半以降、教書が正式の者である事を明らかにする為に、多くの枢機卿が自ら署名をしていた。その数は、12世紀にはいって目だって増加した。それにつれて、枢機卿の副署は、教書に欠くべからざるものとなった。枢機卿は、国王の破門、司教選出問題、主座大司教の管轄権問題、聖人の列聖等の信仰、教義に関わる問題など、教皇が取り扱わねばならない重要な問題について助言を求められた。嘗ては四旬節会議などで取り扱われていた問題が、枢機卿団に委ねられるようになったのである。
とりわけ、最高権威による最下を求める訴えを処理する仕事はこのころ急増しており、枢機卿は教皇とともに司法の職務に携わった。このため、枢機卿となる為には、経験でしか模倣的な教養、敬虔がある事が求められるようになった。…(58)枢機卿は教皇特使としても、教皇が直接訪問する事が出来なかったり、長く滞在することが駅無い所で、ローマ教会の威信を高めた。また、シスマや教皇と皇帝との対立があるときは、教皇特使の各国での働きが大きな意味を持ったりした。元々教皇特使の制度は改革教皇庁によって多く用いられたのだが、枢機卿団が形成されるにつれて、重要な特使の任務は先ず枢機卿が担う事になった。 確かに、実際には枢機卿間に意見の不一致があったりした為に、却って教皇の指針が決まらなくなり、適切な処理が出来なくなった事もある。しかし、世襲される世俗の君主に比べ、一般に教皇は高齢になってから登位し長く在位する事が期待できないので、枢機卿段と言う集団指導体制は教皇庁の安定化に役立った。そして、必ずとはいえないが通常枢機卿の中から教皇が選出されるため、ローマ教会を指導する経験を積んだ人物が教皇となることも、円滑で継続的な教会統治体制を作り上げる事につながったのである。 ・教皇庁事務機構の発達: 教皇庁の機能を高めたのは枢機卿団ばかりではない。改革教皇庁は、長い間手付かずの状態にあって、十分に機能していなかった事務機構にも改革のメスを入れた。1100年ごろ、新しい2本の柱が出来た。教書を取り扱う尚書官chancellariusと財務担当の財務官camerariusである。 ・尚書官: 元々文書作成法でよく知られた人物だったガエタのヨハネスが、1089年に尚書官となることで、教皇の文書再編が始まった。20年にわたって尚書官の職にあったヨハネスは、教書の形式を整え、新しい字体を取り入れた。
教皇庁は、各地から受け取った文書のみならず、自らが発した文書の写しをも保管するという当時と(59)しては画期的な文書保管体制を取った。これは、個々の教書は必ずしも公表されるわけではないが、教皇の意志の表れとして援用され、教会法の中に取り入れられていく可能性を持っていたからである。尚書官が統括する小書院は、組織として何時誕生したかは明確ではない。しかし、12世紀末にはその名称が文書に登場し、13世紀には教皇庁の中で独立した部局として法的にも確立する事になる。 教書を取り扱う尚書官は、その性格上、常に教皇と行動を共にしており、教皇に最も近い助言者でもあった。その役割はきわめて重要であり、教皇に次ぐものとさえ言われた。そのため、尚書官となるのは例外なく枢機卿であった。また…尚書官から教皇への道を歩んだものを数える事ができる。…尚書官は、教皇にならなければ死ぬまでその職にあり、教皇庁の業務の継続性を高める役割も果たした。ただ、余りにも力を持った尚書官は教皇を脅かす存在となったため、12世紀後半には尚書官がいなかった事もあり、尚書院も枢機卿では無い副尚書官が統括するようになった。 ・財務官: もう一つの柱の財務官も、尚書官とほぼ同じ時期のウルバヌス2世時代に登場する。中世前期の財務関係官としては収入担当のarcarius、支出担当のsacellarius、保管担当のvestarasiusがあったが、十分に機能していなかった。… (60) 12世紀にはいると、財務官の働きを記述資料によっても確認できるようになる。

…ところで、教皇庁の財務と言う仕事は複雑である。教皇が安定した政治状況でローマに居ることが出来れば、ローマの教会への献金や所謂教皇領からの収入をも徴収する事もできた。しかし、現実には皇帝との争いやシスマのために各地を転々としなければならないことも多かったから、しばしば収入源を失う一方、多くの経費を必要とした。そのたびに、各地の聖俗諸侯に臨時の献金を求める事にもなる。また、本来、教皇に納められるべきものでも、政治情勢の変化で全く収められない場合もあった。そのため教皇に納められるべきものをはっきりさせる作業が、既に1080年代から何度か進められたが、1192年に財務官チェンチオ・サヴェッリ(後の教皇ホノリウス3世)は、上納金帳を作成し、この点を明らかにした。この上納金帳の中には実際には納入されえないものもあるが、体系だった記録は財務に欠かせないものであり、財務の基礎となる資料が作成されたという事は、財務局の発展を示すといえよう。 このようにウルバヌス2世以降、教皇庁は組織化の傾向を強めていった。教皇や枢機卿にはなすべき教会統治の仕事が山積し、彼らが典礼、祷務をなす余裕がなくなってきたために典礼、祷務の専門機関として教皇令は移動が出現するが、礼拝堂に属する聖職者もまた初期として活動する事になる。この傾向は、11世紀後半の情熱的な霊的指導者として教会をリードした教会改革者、なかんづくグレゴリウス7世の時代とは際立った違いを見せている。教皇庁が組織化していくことは、教会の本来のあり方からの逸脱として非難される事になる。たとえば、1(61)2世紀の『銀のマルクによる福音書』などで、風刺の対象ともなる。取り分け、財務官への風当たりは強かった。しかし、グレゴリウスが目指したローマ教会の主権の確立のためには、制度的裏づけが必要である。
その作業に当たったのが、アレクサンデル3世に代表される法的教養をつんだ実務肌の教皇たちであった。山積する訴訟の仕事を前にして、枢機卿団の協力の元に実務に携われる事が、教皇としての条件となっていた。その基盤の上に、中世キリスト教会でその絶頂を極めたといわれるインノケンティウス3世が登場する事になるのである。 

成長と飽和14

 ・フランス: 11世紀のフランスは、政治権力の極端な細分化を見た。まず王国は事実上幾つかの半独立的領邦に分裂して(41)いた。その領邦のうち、ノルマンディーやフランドルは領邦君主が強力で集権的に組織されていたが、殆どはルーズなまとまりのものに過ぎず、支配権力は更に多数のバン領主支配圏へ分散していた。
そして領邦であれバン領主支配圏であれ、その範囲を明示できるような領域的性格を持たず、恒常的な影響力の及ばない辺境をその周囲に伴っていた。 王位は987年からカペー家の手にあった。この家の先祖は嘗てはフランス侯としてロワール以北全体に影響力を持っていたが、11世紀後半にはその勢力圏(カペー領邦)は、ほぼサンリス、パリ、エタンプ、オルレアン地方に限定されていた。領邦諸侯達が王に伺候することすら稀であり、特に南フランスの諸侯は殆ど王と接触を持たなかった。当時の王権にとって最大の課題は、先ず自らの領邦における城主層の制圧であった。 12世紀に入ると、王権はパリを中心とした領邦の統合と拡大を進める一方で、全王国への封建的総主権の主張を打ち出した。当時、経済成長の影響下に、北フランスの諸領邦でも次第に集権化が進んでいたが、その際、領邦諸侯が領主達の統合に活用したのは封建的主従制であった。このことはカペー王権による諸侯達への封主権主張に有利に作用した。またプランタジネット家による「アンジュー帝国」の形成は、結果的に王国東部の諸侯達がカペー家の下に結集する事を促した。こうして12世紀を通じて、王権の威信は徐々に向上したのである。 13世紀初め、フィリップ・オーギュストはプランタジネット朝のジョン欠地王と争い、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジューを征服した。ジョンはドイツ皇帝と結んで反撃を企てたが、フィリップは1214年に両者の連合軍をブーヴィーヌの戦いで撃破した。
続くルイ8世は更にプランタジネット朝からポワトゥーを奪った。次のルイ9世(聖ルイ)はプランタジネット朝と協定を結び、後者が南西部に残ったギュイエンヌ地域をフランス王からの封として領有する事を認めたが、王権はその後もこの領邦の蚕食を続ける。またルイ8世はアルビジョワ十字軍の征服地の献呈を受けて、地中海沿岸に進出し、聖ルイの時代にはトゥールーズ・ラングドック地方全(42)域がカペー家の支配に組み込まれた。このほか王権は、婚姻や買収を通じて次々に新しい所領を入手した。 王権は広大な直轄支配圏を多数の管区に分け、バイイやセネシャルと呼ばれる有給官僚を派遣して、裁判、王領の管理、封臣の統率に当たらせた。また中央行政では、嘗ての王宮や国王会議から、文書、司法、財政についてより専門性の高い部局が分化して行った。しかし王権の力を過大に見積もるべきではない。多くの地域が尚バン領主の完結的な領域支配圏の下にあり、国王の支配は封主として彼らを統制する事に留まっていた。また国王は所領の入手につとめる一方で、しばしば親王たちにこれを割譲して王族領邦(アパナージュ)を作った。このようにして富裕で忠実な大封臣団を形成する事は、国王の望みでもあったし、地域の政治的まとまりの保持を願う住民感情にも適合的であった。こうして王国の組織においては尚、封建的主従関係が支配的な役割を果たしていたという事が出来る。 それでも13世紀を通じて、西欧世界におけるフランス王権の重要性は増大し続けた。世紀後半では、聖ルイという人格により、高い道徳的威信が加えられた。こうしてフランス王権は皇帝権に代わって西欧の政治的主導権を握るに至ったのである。
 ・ドイツ:(42) ドイツ、イタリアの両王国は10世紀に神聖ローマ帝国を構成しており、11世紀にはブルグントがこれに加わった。ドイツはこの帝国の中心であり、その王がローマに赴いて帝冠を戴くのが慣わしであった。10世紀から11世紀にかけて、ザクセン、ザーリア朝の諸帝は西欧でもっとも強力な君主であった。彼らは貴族勢力がまだ領域的権力に成長していない時代に、教会組織を王権のために活用する帝国教会政策によって、強力なヘゲモニーを発揮する事に成功したのである。 (43)しかし11世紀の後半となると、貴族支配の発展と共に、彼らと王権との緊張が高まってきた。また当時の教皇庁の教会改革運動は、ついには帝国教会政策に対立するものとなった。この対立の過程で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に許しをこうたカノッサの屈辱と言われる事件も生じた(1077年)。ハインリヒ4世、5世は50年近く教皇権に圧力をかけ続けたが、これと提携するドイツ貴族の反抗に苦しみ、ついに1122年、ヴォルムス協約で妥協した。長い内乱のうちに帝国教会制は解体し、また貴族の領域的支配圏の形成が進んだ。諸侯達は12世紀前半の二度の国王選挙に際しては、意図的に強力な世襲王権の形成を阻んだ。 1152年に帝位に着いたシュタウフェン家のフリードリヒ1世・バルバロッサは、こうした状況を前提として皇帝権力の再建を図った。まず諸侯勢力を圧倒するだけの強固な直轄支配圏の建設が彼の目標となった。北イタリアでの皇帝の諸権利(レガリア)回復の要求は教皇と都市勢力の抵抗を受け、長期にわたった抗争の末に妥協を余儀なくされた。
しかしドイツ国内でのヴェルフェン家のハインリヒ獅子侯との争いはフリードリヒの完全な勝利に終わる。彼は1180年の諸公会議でハインリヒからザクセンとバイエルンの大公権を剥奪し、これを他の諸侯に分割授封した。こうして彼は最大のライヴァルを退けて威信を高め、聖俗諸侯を封建的主従制によって統制する事に成功したのである。 フリードリヒの息子ハインリヒ6世は結婚によって両シチリア王国を入手した(1194年)。彼の死後、ドイツではシュタウフェン家とヴェルフェン家との帝位争いが再燃し、しかもこれに教皇やフランス王が介入して混乱を深めた。帝位は結局ハインリヒの息子フリードリヒ2世に戻った。しかしフリードリヒはシチリアに居住してここの統治に精力を注ぎ、ドイツ統治は息子であるハインリヒ7世、ついでコンラート4世に委ねた。ここでは諸侯が領邦支配の強化、上位権力の介入の制度的排除を目指していたが、国王達はこれに対し譲歩を繰り返したのである。 (44)1254年のコンラート4世の死で、ドイツのシュタウフェン朝は断絶した。最早王国の強固な統合は不可能となっていたが、それに代わるべき各領邦国家はまだ未成熟であった。その結果は政治的カオスであり、20年近くにわたる大空位時代の後は、一代ごとに王朝がかわる跳躍選挙の時代が70年余り続く。しかしこうした政治的混乱にもかかわらず、ドイツ人は着々とエルベ・ザーレ以東に発展していた。
12世紀には西スラヴ族の居住地であったメクレンブルク、ブランデンブルク、ポンメルンがドイツ王国の支配に入った。バルト沿岸ではドイツ騎士修道会が13世紀中にプロイセン、クールラント、リヴラントを征服して、ドイツ人農民、市民を定住させていたが、このほかにも土着の諸侯の招きに応じて、ポーランド、ボヘミア、ハンガリーに多数のドイツ人コロニーが生まれたのである。 ・イタリア: 北イタリアと中部イタリアはイタリア王国を形成しており、王位はドイツ王が兼有していた。しか始祖の権威は次第に名目的なものに過ぎなくなっていった。 まず北、中部イタリアでは、多数の自治都市が形成されていた。10世紀に都市の行政を掌握していたのは司教であったが、都市在住の戦士と商人たちは11世紀から12世紀初めにこの権力をほぼ奪ってしまう。彼等はコムーネと呼ばれる団体を結成し、またコンソレという代表を立てて自治を行なうようになったのである。 これらの都市はフリードリヒ・バルバロッサのレガリア(本来王権に属していたと看做される諸権限)回復の要求に対抗してヴェローナ都市同盟やロンバルディア都市同盟を結成し、1176年、レニャーノの戦いで皇帝軍を破った。そこでバルバロッサは1183年のコンスタンツの和で名目的宗主権のみを留保して、諸都市の自治を承認した。13世紀の前半、フリードリヒ2世と教皇権が争ったときには、諸都市は皇帝派(ギベリン)と教皇派(45)(ゲルフィ)に分かれて相互に戦った。 12,13世紀の諸都市は「伯管区(コンタード)」と呼ばれた周辺農村部を征服して、次第に領域を持った都市国家に成長していった。これにより都市民上層部には多くの戦士的領主層が加わる事になったが、彼等はしばしば党派に分かれて、武力抗争を行なった。
これを調停するために、12世紀末から外部の貴族を雇ってポデスタと言う役職に任じ、軍事、司法権を委ねる制度が生まれた。しかし13世紀には居ると、商工業者(ポポロ)がより大きな力を持つようになり、彼らを代表するカピターノ・デル・ポポロの権威が高まっていった。 中部イタリアにはローマを中心とする教皇領があった。これは11,12世紀を通じて都市国家と領主支配圏の緩やかな寄せ集めに過ぎなかったが、13世紀初めのインノケンティウス3世の時代には一定の行政組織が形成された。13世紀の前半はシュタウフェン朝の勢力に悩まされたが、世紀後半にはフランスのアンジュー家の支援を受け、教皇の支配は安定していた。 南イタリアは1000年ごろ,旧ランゴバルド王国系の諸侯とビザンツ帝国の勢力が入り乱れ、更にシチリア島はイスラムの支配下にあった。ここにノルマンディーから騎士たちが渡来し、傭兵として活動した。このうちタンクレディ家の一族はこの地域の支配者にのし上がり、シチリアを征服したルッジェロの息子ルッジェロ2世は1130年にパレルモで戴冠して両シチリア王国を創設した。ここでは西欧で最も進んだ行政組織が見られ、君主の力は強大であった。またパレルモの宮廷は、当時の西欧にあっては例外的に、イスラム、ビザンツの文化が西欧のそれと並存する場所となった。 1194年にこの王国の支配圏はドイツのシュタウフェン朝の握るところと成った。13世紀前半に皇帝フリードリヒ2世が教皇と対立すると、彼は南北から教皇を圧迫した。
フリードリヒの死後庶子マンフレディがあとを継ぐと、教皇はフランスの親王シャルル・ダンジューに両シチリア王位を提供して、マンフレディを討たせた。シャル(45)ルはこの王国を足がかりにビザンツを征服し、地中海に覇権を打ち立てることを夢見たが、1282年のシチリアの反乱によってこの島を失い、計画は挫折した。王国はシチリアとナポリに分裂し、シチリアはアラゴン王家の支流が掌握するところとなった。

成長と飽和13

九。諸王国の政治的発展   ・王の血統カリスマと政治的責務: ここではまず、諸王国に一般的な政治構造の問題から考えてみたい。まず中世の人々には上層から民衆に至るまで、呪術的思考の傾向が強い。因みにここで呪術的思考というのは、特定の人間、行為、事物の中に超自然的な力を認める事を意味している。このことは中世の国王支配にも大きなかかわりを持っているのである。 元々彼らにとって王とは、天与の超自然的な力(カリスマ)の持ち主であった。このカリスマは、異教時代には王が神々の血を引いている事に由来すると看做されていた。またその力の機能は戦いを勝利に導く事や、(36)豊かな実りを大地にもたらす事であると考えられていた。このような考え方はキリスト教改宗後も長く存続した。たとえば1081年に皇帝ハインリヒ4世がルッカに赴いたとき、農民達は争って皇帝の衣服に触れようとしたという。彼等はそれによって豊かな実りを得ようとしたのである。そして、こうした力は血統によって伝わるのであるから、「正しい」血統の王を立てることは何よりも重要であると考えられたのである。
 これに対し、異教の神々を否定するキリスト教会の立場よりすれば、王とは唯一神に選ばれ、民の統治を委託された者ということになる。これを表現する儀式が、古代ヘブライの伝統を引く塗油式であって、西欧では西ゴート王国に始まり、751年にフランク王国に導入された。言うまでもなく宮宰ピピンがメロヴィング朝から王位を奪ったときである。この論理を突き詰めるならば、血統は価値を失い、神の選びを判別する手段としての選挙王政に行き着くはずである。 しかし現実には教会人もまた、血統主義にとらわれていた。…王のカリスマについての観念にも古いものと新しいものが並存している。武運や豊饒をもたらす機能についての観念は長く残っていたが正統信仰は、それをあくまでも神の恩寵の現れとして解釈した。またフランスおよびイングランドの王に特有の能力として宣伝された「るいれき治癒力」は、血統によるカリスマという点では古い特質を備えているが、奇跡による治癒と言う点では、聖書や聖人伝の影響を強く受けていると思われる。 他方で理論化された政治思想のレベルでは、王はキリスト教世界に相応しい正義と平和を実現する責務を負(37)った存在であった。とりわけ寡婦、孤児、貧者、旅人といった社会的弱者と教会を保護する任務が彼にかされた。 また統治に際しては一定の規範を守るべきものとされた。先ず彼は絶えず人民の代表者と協議し、その助言に基づいて統治しなければならない。ちなみにここで人民の代表者と目されているのは一般的には高位聖職者、大貴族などである。また彼は古くからの秩序を尊重しなければならない。一般に古くから行われている事は正当な事であると推定され、新しく持ち込まれる事は不正な事とみなされた。
・国家統合の諸条件: 国王が現実に国家統合を進めるに際して、貴族たちによる地域支配は最大の問題となる。貴族階級は、一般にその権力の最終的正統性を王権からの委任においていた。それゆえ国王は封建制度における主君、或いは神に選ばれた至高の宗主とみなされていた。国王を核とする貴族連合体制の実現は、国王ばかりでなく貴族たちによっても希求されたところであった。 しかし同時に、国王と個別の貴族或いは貴族の集団との間には、相互の権限を巡ってある種の軋轢が存在していた。多くの場合、王権は権力の集中を進めて貴族の領主権を統制しようと努め、貴族たちはこうした介入を排除して完結的な支配を打ちたてようとした。こうした軋轢は、しばしば武力衝突にまで発展した。そしてその際には抵抗権の論理が持ち出された。不正な主君は主君ではないし、暴君は王とは認められないというのである。 国王が貴族権力を統制するためには、幾つかの条件が必要とされる。一つには国王の直轄支配を拡充し、そこから引き出される経済力や軍事力で貴族たちを威圧することである。また教会人、都市民など、貴族にある程度対抗できる階級の支持をとりつけることも重要である。その上、貴族の多数を反対派に追いやらないような政治的技量も問題になる。 次に国王や大領主が統治のために用いる事ができた現実的な諸手段が、中世盛期においてどのように変化したかを概観する。

先ず財政についてであるが、13世紀までの王権にとって、全国的課税と言う財政手段は例外的であった。王は基本的に自らの所領収入で統治を賄わねばならなかった。しかしこの所領収入に関しても、11世紀までと12世紀以降とではかなりの変化が認められる。即ち11世紀までの時代においては国王や大領主の所領は極めて広大ではあったが、森林、荒地などを多く含み、開発の拠点は分散していた。しかしその後の農業生産の増大と人口成長、流通経済の活発化によって、彼等の経済力は抽象領主のそれとは質的に異なる展開を遂げた。即ちその所領は新たに多くの開墾を受け、各拠点は商工業の核となり、商品流通から得られる税収も飛躍的に増大した。 また軍事に関して言えば、伝統的封建軍役は、動員できる人数、日数、行動範囲に制限があった。12世紀以降、国王や大領主はその経済力に依拠して、傭兵を多く活用するようになった。これにより、彼等の封建家臣に対する立場は強まった。 第三に官僚機構の問題が挙げられる。11,12世紀までの時代に国王や大領主が地方に配置したのは給地官僚、もしくは官僚の代用物としての高位聖職者であった。このうち給地官僚は委託された権限と割り当てられた所領を世襲化する傾向があり、多くは封臣と大差ないものになってしまった。また高位聖職者は11世紀後半からの教会改革の動きの中で、次第に世俗支配者との関係を切り捨てていった。これに対し12,13世紀からは俗人の現金給与官僚が現れる。彼等は一般的に言って、前の二つのタイプよりもはるかに忠実で、職務に専念する傾向があった。これを実現した要因としては、一つには現金給与を可能にした貨幣経済の発展、もう一つには読み書きや計算能力を備えた俗人の増大をあげなければならない。 しかし、こうした条件は国王の権力集中にのみ有利に働いたわけではない。これらの条件を利用して大領主、更(39)には都市共同体が国王に対抗しつつ権力集中を進め、独立的な地位を確保する例も見られる。こうして諸勢力の角逐の中に、西欧の政治地図が形成されていくのである。

・イングランド: イングランド王国は10世紀にはウェセックス王家のもとで、集権的な体制を形成していた。しかし世紀末にはヴァイキング侵入が激化し、11世紀初め、デンマーク王家のクヌートによって征服された。彼はデンマーク、ノルウェーの王を兼任していわゆる北欧帝国を築き、イングランドはその中心として経済的に繁栄した。その後、ウェセックス王家の支配が復活したが、1066年のエドワード証聖王の死と共に断絶した。このとき、 ノルマンディ侯ウィリアムは王位を要求して侵入し、ヘースティングスの戦いで対立王ハロルドを敗死させ、イングランド王として即位した(ウィリアム征服王1世)。この事件をノルマン征服と呼ぶ。こうして英仏海峡を挟んだアングロ・ノルマン国家が成立し、イングランドの情勢とフランス王国のそれとは分離しがたく絡み合う事になった。 ウィリアムは、制服に付き従った家臣たちにイングランドの所領を分配し、封建的主従制によって彼らを組織した。しかし彼はシャイアなどの伝統的な組織を活用しつつ、領域的な行政権は国王の手中にとどめたのである。ここに集権的な封建制国家が生まれた。中世最初の国勢調査ともいうべき1086年の「ドゥームズデイ・ブック」の作成は王権の強さを良く示している。12世紀初めには王領地についての財務行政も急速な発展を遂げた。 12世紀半ばにはアンジュー伯ヘンリー・プランタジネットがアングロ・ノルマン国家を継いだ(ヘンリー2世)。彼はそのほか婚姻や相続によってアキテーヌ、ブルターニュの支配権を入手し、フランスの西半部とイングランドを合わせた広大な地域の支配者となった。彼の支配圏をアンジュー帝国とよんで(40)いる。彼はイングランドでは、国王裁判権の改革と伸張に努め、また傭兵を活用して軍事における貴族への依存を弱めた。 しかしノルマン朝、プランタジネット朝の王たちは、その大陸支配を巡ってフランス王権との対立を余儀なくされた。フランス王は、彼等の大陸領土に対して執拗に封主権を主張し、またしばしば王家内部の抗争に介入して、その弱体化を図ったのである。
13世紀初め、プランタジネット朝のジョン欠地王はフランス王フィリップ(2世)・オーギュストと争い、大陸領土の大半を失った。その後、世紀半ばには新たな協定によって、両者の関係が整除された。イングランド王ヘンリー3世は、この時点で尚保持していたな聖フランスの地域(ギュイエンヌ侯領)を、フランス王からの封土と認め、家臣としての礼を取ったのである。以後イングランド王権は大陸での反撃の計画を捨て、ブリテン島統一を目指してウェールズ、スコットランドへの進出に力を注ぐ。 13世紀のイングランド王権は、国内では相変わらず強大であり続けた。この国には他の国の領邦諸侯に比較し得る様な大領主は存在せず、個々の領主の政治的権力は大きくは無かった。しかし領主達はしばしば連合して国王の圧政に抵抗した。彼等は世紀初めにはジョン王に迫ってマグナ・カルタを承認せしめ、世紀後半にはシモン・ド・モンフォールを代表とする政治改革運動を引き起こした。これらの運動の中には、王国を自分達の共有物と看做す彼等の政治思想が表現されている。国政への発言権の要求はその論理的帰結であった。 世紀後半には、彼等の意見をある程度繁栄させる手段としての身分制議会が発達してくる。また、地方行政に関しては、その地方の有力領主層の自治が慣例として定着して行った。

成長と飽和12

八。正統と異端   ・12世紀前半までの異端: キリスト教には古代から正統と異端の争いがあった。中世前期の異端問題は、主として教義解釈を巡る神学者の論争に関わる「学者的異端」であり、このような問題は11世紀以降も幾つか知られている。しかし11世紀からは新たに民衆的異端運動の問題が生じてきた。教会当局は民衆的宗教運動のある部分を自らのうちに取り込みながら、別の部分を異端として過酷な弾圧を加えたのである。 11世紀前半にはフランスとイタリアを中心に幾つかの異端の出現が報告されている。それらの多くは結婚や肉食を拒むなど強い禁欲主義傾向を持ち、またカトリック教会の司牧の意義を否定した。… 11世紀後半には異端運動は知られていないが、12世紀の前半に[現れた]異端諸派は様々な教説を奉じていたが、その勢力拡大の背景としては、グレゴリウス改革の刺激によって俗人信徒の中に使徒的生活への希求が広がってきた事があげられる。
即ち、福音書においてはイエスがその使徒たちに清貧の内に世界に伝道を行う事を命じており、これに従う事がキリスト教徒にふさ(32)わしい生き方であるとする理念が力を得始めたのである。実際これらの集団は11世紀の異端に比べてはるかに大規模であり、それぞれの立場から教会の現状を激しく非難した。 ・カタリ派: 12世紀後半における最大の異端集団はカタリ派である。この異端は北イタリア、南フランスを中心に西欧全域に広がっていた。彼等の教説はバルカン半島に勢力を伸ばしていたボゴミール派のそれを継受したものであって、善悪二元論の立場に立つ。それによれば現世と人間の肉体の創造者はサタンである。人間の霊は天国から堕ちた天使であって、肉体の牢獄の中に閉じ込められており、肉体の死によって輪廻転生を繰り返す。この輪廻を断ち切り、霊が天国の神の下に戻る事が救済であり、これは真の教会であるカタリ派の教会に属する事によってのみ可能となる。これに対しカトリック教会はサタンの教会であり、これに従ってはならない。 真の教会に帰属する「完徳者」には性行為や肉食を忌避し、人間、動物を問わず殺生を行わず、一切の権力の放棄と徹底した清貧に生きる事が要請される。カタリ派教団においては、こうした少数の完徳者を多数の「帰依者」が取り巻いている。彼等はいわば入信予約者であり、死の床で完徳者に転換する事になって居るが、そのときまでの生活においては守るべき戒律を何らもっていないのである。 このような異端の拡大の背景としては、貨幣経済の発展によって使徒的生活の理念と現実社会との緊張が愈々高まってきた事が挙げられる。

そのような状況において完徳者たちの禁欲的生き方と知的水準の高さが、カトリック教会一般の状況との対比において、広範な人々の共感を獲得したといえよう。しかし南フランスの領主層が大量に帰依した理由としては、所領支配を巡るカトリック教会との対抗関係も無視できない。 カトリック教会は異端者たちの説得に失敗し、教皇特使の殺害事件を契機に1209年から南フランスにアルヴィ(33)ジョワ十字軍を送り込んだ。これは現実には北フランスの戦士たちによる地中海沿岸地域の征服に他ならず、征服の成果は最終的にカペー王権の手に帰した。十字軍終結後、カトリック教会は異端審問制度によりカタリ派の根絶に乗り出した。南フランスでは13世紀半ばで公然たる抵抗は消滅したものの、地下活動は14世紀初めまで続いており、イタリアでは15世紀初めまで存続していた。 ・ワルドー派とフミリアーティー: リヨンの富裕な商人であったピエール・ワルドーは回心し、知人に聖書、教父著作を翻訳して貰って暗記した。彼は1173年ごろ全財産を蜂起し、托鉢しながら説教者として生きる事を決意した。彼の下に集まったものは「リヨンの貧者達」と呼ばれた。教会は1184年には彼らを異端と断定しており、後には彼らのほうでも一部のカトリック教義を否定するに至った。この宗派は12-13世紀初めに、フランス、ドイツ、イタリアに拡大したが、創始者の死後、各地域の組織間の結合は緩んだ。13世紀にはドイツ人の東方植民にともない、東欧にも拡大した。信徒は庶民が中心で、目立たない形で先祖伝来の 教えを守って生きていた。彼等の一部は激しい異端審問をかいくぐって近代にまで存続している。 俗人による使徒的清貧の運動としては、ワルドー派のほかに北イタリアのフミリアーティの集団が挙げられる。彼等は自らの労働によって質素な生活を送りながら、集会や説教を行なっていた。

当初ワルドー派と共に異端とされたが、インノケンティウス3世は彼らを正統と認め教会に復帰させた。 ・フランシスコ会とドミニコ会: 使徒的清貧の運動の中から新しいタイプの修道会も生まれてきた。このうちフランシスコ会はアッシジの聖フ(34)ランシスコによって創始された。彼は1182年に商人の子として生まれ、青年時代に傭兵生活を送った事もあったが、やがて回心し,隠修士になった後、托鉢説教の道に入る。集まった仲間に対しマタイ伝19章21節を守るべき戒律として示し、一切の財産を持たないことを旨とした。しかし教会制度には極めて従順であり、インノケンティウス3世に説教者団体としての認可を求めた。1210年の認可後には、彼の団体橋と敵清貧運動の相当部分を吸収して急速に拡大した。これは1223年に修道会「小さき兄弟会」(通称フランシスコ会)に昇格する。修道女のためには「クララ会」、在俗信徒のためには「第三会」が設けられた。 またドメニコ会はイベリアのオスマの聖堂参事会員であったグスマンの聖ドミニコによって創設された。彼は1206年ごろ上司である司教ディエゴとともに南フランスに入り、カタリ派と論戦して改宗者を得た。この敬虔から、異端者を説得するためには、自ら清貧に徹する事が必要であると考えるようになった。1216年にホノリウス3世により、彼を中心とする托鉢修道会「説教者修道会」(通称ドメニコ会)が認可された。この修道会では、修道士たちは異端に対抗しうるように学識を深める事も強く求められた。ここから13世紀にはトマス・アクィナスを初め錚々たる学者を輩出する事になる。全体として使徒的清貧の運動は都市的なものであったから、これらの托鉢修道会も都市に拠点を置いて活動する事になった。
・13世紀の異端運動: 都市民の中には使徒的清貧運動への志向が持続していた。…フランシスコ会では無所有原則を字義通りに実践する事を求める心霊派が生まれて主流派と抗争していたし、ドミニコ会では神秘主義的な神人合一説を唱える者が現れた。他方で13世紀初めに生きたカラブリアのシトー会修道院長フィオレのヨアキムは、世界史の新しい段階である「聖霊の時代」の到来を予言して、終末論思想を提供した。これらの諸要素が結びついて、13,14世紀の異端運動が展開した。

成長と飽和11

 七。 知的状況と知識人 ・知識人の誕生: J・ルゴフによれば12世紀に「知識人」は、みずみずしさをたたえた、新しい人間として登場する。中世初期以来、学問的活動の中心であった注力修道院は、12世紀には精神的指導力と共に知的活動のエネルギーをも失い、シトー会など新たに誕生した修道会も学問研究よりは禁欲と沈黙・観想の生活に重点を置いていた。
こうした修道院の学僧に替わって、都市の学校で学び、更に研鑽の成果を教授する事を生業とする、知的労働者としての教師達が出現する。彼らこそルゴフの言う「知識人」である。おりしも12世紀には勃興する都市が、周辺世界から様々な人々をひきつけていた。そうした大きな都市における教育の場は…司教座聖堂付属学校、律修参事会付属学校、さらに教会には所属しない「私学校」などであった。学生は学校の名ではなく、学問的名声、より直接的には魅力ある講義にひきつけられて特定の教師の下にイ集し、聖職禄を持たぬ私学校の教師は主として学生の謝礼により生計を立てた。なお、稀少の手写本が財貨の如く扱われたこの時代に、「文筆」は生活の糧とはなりえない。そして学校教育が尚完全に制度化されず、私塾的な活動が可能であったこの時代にこそ、アベラールのごとき傑出した論争家は、聖ベルナールのような神学の権威によって指弾され、迫害されながらも尚教育活動を続ける事が出来たのである。…このようなやや無規律な研究と教育の営みは、やがて都市における諸団体の組織化と軌を一にして、13世紀には教会当局の保護と統制を設けつつも、自立的に自らを大学へと組織化していくであろう。 ・ラテン語古典の復活(28): ハスキンズが「ルネサンス」と表現した12世紀の知的状況は如何なるものであったのか。その特色は第一にラテン語古典の復活であり、ラテン諸作家、特に詩人の作品やその注釈が広く読まれ、文法・修辞が盛んに研究された。…この時代の知的活動は古典語と古典文学の模倣に留まらず、新たな精神の飛翔と視野の拡大を伴っていたl。既にシャルトル学派の中に生まれていた自然賛美ともいうべき新しい自然認識は、従来の宇宙の象徴的解釈に対して、神が自然に与えた法則を吟味し、これを合理的に説明しようと言う学問の基本姿勢を生み出していた。…

・アラビア経由の学問: このような新しい世界観、人間観と自然観は、アラビア語からラテン語に再翻訳されたギリシア古典やアラビア人自身の哲学、自然科学研究の導入と密接に関連する。12世紀ー13世紀前半にかけてイスラムの文書館や学校に保存されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオス、ヒポクラテス、ガレノスの著作のギリシア語、アラビア語写本、さらにはアラビアのフワーリズミーの代数学、アヴィケンナの医学、アヴェロエスのアリストテレス注釈などがシチリアのパレルモやスペインのトレドなどにおいてラテン語に翻訳され、ヨーロッパ知識人の知的(29)地平を一挙に拡大した。こうしたギリシア古典とアラビア科学の刺激による自然科学への強い関心は「12世紀ルネサンス」の特色である。また自然科学や哲学・神学の新たな問題と共に、ハスキンズは「法学の復活」をもこの時代の特色としている。後のローマ法研究の最も重要な拠り所となる『学説彙簒』digestaの注釈によって、ボローニャを西ヨーロッパにおける法学研究の中心地としたのは、12世紀のイルネリウスである。この時代のローマ法学は、今日のような意味での実学ではなかったにせよ、12,13世紀以後、国家、教会、そして都市における法の全体的な整備が進められる中で、法学者や法学の素養を備えた官僚は不可欠の存在となった。この際、教会法と相互密接に関連しながらローマ法が、新しい集権的な法秩序の手段を提供した事は言うまでも無い。
・政治思想・国家論: 他方で12世紀には政治思想や国家論において注目に値する著作は見られなかった。  ・教皇権・大学・知識人:(30) 12世紀後半以後に顕著となる、アラビアからのアリストテレスの著作とアヴェロエスのアリストテレス研究の翻訳・輸入は、哲学における実在論・唯名論を巡るかの普遍論争をあおり、また13世紀には哲学と神学、理性と信仰の不調和を助長した。その中でドメニコ会に属す二人の碩学、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスは、アリストテレスと聖書による信仰を調和させようとしたが、いわゆるラテン・アヴェロエス主義を代表するパリ大学のブラバントのシゲルスは、信仰と理性を矛盾するままに受容する二重真理を説き、異端とされるに至った。更にプラトン主義に依拠した新アウグスティヌス主義者は、双方に対して反アリストテレスの立場から厳しい批判を加えた。いずれにせよ抽象的思弁に耽る伝統的スコラ学に対して、人間の理性を信頼する合理主義的精神の台頭は衰えることなく13世紀末には既に経験主義的な知性が芽吹いていた。 しかし「哲学は神学のはしため」であり、神学は教会当局のドグマと齟齬してはならない。半ば聖職者でありながら教会からの自立性が強かった教師達の学問、教育内容が、公認教説を脅かす可能性を示したとき、教会当局の統制の手が及ぶのは当然の事であった。 …[パリ大学など]教師と学生がギルド的な結合により大学を形成しつつある時期に、教皇が世俗権力や管轄司牧に対して大学に保護と特権を与えると同時に、学内行政から教学内容にまで統制を加えようとしたのは、その証左である。教皇庁はパリ大学を教皇直属下に置き、正統教義の基本問題を判断する知的権威として位置づけようとした。
この点でパリ大学はやや特殊な事例ともいえるが、ボローニャやオクスフォードにおいても教皇の保護が、国王や都市当局からの大学の自立を促した。こうした教皇との結合の強化はしかし、常に知識人の学問的な自由と自立を損なう可能性を持っていた。以後、知的活動の中心となる大学はもはや純粋な学問の牙城たりえず、しばしば聖俗の権威との葛藤に苦しみながらも、他方では中世後期に進捗する教会、(31)国家の顕著な集権化と組織化において重要な知的・人的資源を提供する事になるであろう。このような権力に奉仕する大学のあり方は、14,15世紀のドイツにおいて領邦君主の設置した諸大学に端的に示されている。

成長と飽和10

・住民の権利と統治制度: これについては、まずアルプス以北と北、中部イタリアとで状況がかなり異なっている。[前者について。] 都市的集落は、中世前期から農村所領とは多少異なった支配秩序の下に置かれたらしいが、不文の慣習であったため、良く分かっていない。これに対して11世紀以降に形成された付属集落では新しい領主ー住民関係が作られ、時には文書で表現された。その性格は、住民の負担に法によって限度を設けるという事で、一般に「ブルグスの法」と呼ばれた。具体的には軽い地代、移転税の免除、移住者の住民権獲得、軍事的徴用の制限、罰金徴収の制限などがその内容となる。当時こうした法の元に生きる人間が「ブルグス住民」burgensesと称された。そして古い都市ないし都市核集落における領主ー住民関係も、これに似た者になって言った。 しかしこのような特権の都市性をあまり強調するべきではない。「ブルグスの法」が与えられた集落にも純農村的な性格のものは多かったのである。また地方によっては既存の一般集落にもおなじたぷの文書が少し遅れて普及するが、その集落の中にも都市的なものも農村的なものも見られた。ただ商工業が発達した集落の住民は、農村の住民に比べ次第により大きな権利を持つようになっていったことは確かである。 …次に住民の自治の問題であるが、ここでも都市と農村の間に断絶を認めることは出来ない。農村においても共同体はある種の自治活動を行なっており、また領主の支配は何らか住民代表との協議に基づいて行われ(25)るべきものと考えられていた。時として共同体の執行部と看做しうるものも現れる。… しかし集落によっては、より明確な自治制度が作られた。12世紀には北フランスからライン地方にかけて、集落住民が誓約を結んで団体を結成し、彼らの権利拡大と自治を求める運動(コミューン運動)が展開した。

このうちいくらかの集落では、この団体が制度として認められ(コミューン集落)、執行部が組織された。ひとたびモデルが出来ると、領主側から特許状によってコミューン資格が与えられる事例も見られるようになる。…しかしコミューン資格を始めとする自治権は必ずしも都市的集落にのみ与えられたのではない…、例えば早期に自治権を確立した都市として知られるケルンの場合でも、ケルン大司教は1288年にいたるまで軍事高権、警察権、関税や貢租の徴収権、貨幣鋳造権などを保持していた。 ・都市社会: まず人口の問題がある。アルプス以北の地域(ピレネー山脈からポーランドに至る大陸地域とイギリス諸島)では都市の規模は大きくは無かった。ここでは13世紀の最大の都市はパリで人口は8-10万程度であり、ネーデルラントのヘント、ブルッヘなどが5万程度でこれに続く。人口1万を超える集住地は30前後であり、これを(26)大都市と呼ぶ事ができる。人口が2千を超えれば既に中都市の名に値した。これに対してイタリアでははるかに都市の規模が大きい。ミラノは最低でも10万を擁し、ジェノヴァ、フィレンツェ、ヴェネツィアが9万程度でこれに続く。…ここで大都市の階層構成を概観しておきたい。まず領主階級であるが、イタリア都市を除いて戦士階級は余り定住していない。ただ在俗聖職者、修道士など相当数の教会人が生活していた。次に上層住民は、都市貴族とも呼ばれる大土地所有者と遠隔地商人ないし大規模な卸売商人などに分けることができる。後者は事業によって財を成すと、前者に転化する傾向があった。
 中層住民としては自分の店を構えた小売商人、手工業親方達が挙げられる。自前の店を持つことは社会的経済的自立性の証であった。彼等は同業団体を構成して親睦と相互扶助に努め、また過当競争を避けると共に業種としての信用の維持を目指した。彼等の元では職人や徒弟が家内労働力として働いている。また下層住民は、恐らく人口の半数を占めていた。独立性を欠いた貧しい手工業親方から、職人層、都市内農民、日雇い、芸人、こじきにいたる多様な層がここに含まれる。このほか、都市によってはユダヤ人の集団が居住し、金融に従事していた。 都市はある意味では農村以上の階層社会であり、民主的な社会ではなかった。都市自治と言っても、下層住民の大多数には全く参政権が無く、中層住民の発言権も限られたものである。即ち大多数の住民にとって、それは遠い「お偉方」の世界に属する事だった。しかし都市住民には、階層の差を越えた強烈な共同体意識が育った。それは究極的には農村的な世界の中に、異質なものとして存在している事の自覚から生まれるものであろう。彼等は祭りなどのイベントへの参加によって、また都市の囲壁、門、中心的な聖堂の威容を誇る事によって、この共同体意識を絶えず掻き立てていたのである。 

成長と飽和9

 六。都市の発展   ・商業と都市発展:(22)かつては中世の都市発展の経済的側面をもっぱら遠隔地商業と結びつける考えが支配的であった。
それによればローマ帝政期後半から遠隔地商業が衰退し、中世前期には殆ど消滅したから、都市もまた消滅して自給自足の農村社会になった。11世紀以降、地中海と北海を中心に遠隔地商業の復活が見られ、それとともに中世都市が生まれたというのである。…しかし今日、多くの研究者は中世都市の経済的発展を寧ろ周辺農村の農業生産に支えられたものと捉えている。そしてこの見方は、中世都市のみならず都市一般の本質を地域中心としての機能に見出す主張と密接な関連を持っている。… 中世前期について…、イタリア・ガリアの大部分においては殆どの古代都市は、ある程度規模を縮小させたが、司教座都市として存続し、地域の宗教的、経済的、行政的中心であり続けた事を指摘しておきたい。そのほかイタリアでは中世前期にアマルフィ、フェラーラ、ヴェネツィアといった新都市が生まれている。ガリアではカストルムないしブルグスと呼ばれた囲壁集住地が、司教座についで都市的な機能を果たしていた。またムーズ川、ライン川の下流沿岸では9,10世紀に独立の港町が発達し、ポルトゥスと呼ばれていた。これらの集落では、遠隔地の商品と並んで在地の生産余剰が取引の対象となった。これに対してライン以東のゲルマニアでは勿論ローマ都市の伝統は存在せず、司教座の開設も8世紀以降となる。ここ(23)では司教座を含めてブルグスと呼ばれる囲壁集落が、防備拠点であると共に市場集落でもあり、「都市的核」となっていた。ローマ都市がいったん消滅したイングランドもほぼ同じ状況で、ブルフと呼ばれる囲壁集落やヴィクと呼ばれる港町がそうした機能を果たしていた。
 11,12世紀になると、都市は著しい成長を遂げた。既存の都市ないし都市的核の大多数に隣接して新しい付属集落(ブルグス)が形成され、商工業を発達させた。新旧の集落は多くの場合地誌的独立性を長く保ったが、次第に一体の活動も生まれてきた。他方でいくらかの農村大所領の拠点(修道院本院、城塞など)の周辺にもこうした新しい付属集落が成長し、そのうちのあるものは都市的発展を遂げた。 いずれの場合も商工業者の活動を促したものは、益々増大する農業余剰の集積、領主と言う大口の消費者の存在、領主の保護や防備施設によって確保された相対的安全といった要因であった。更に12世紀以降、王侯が計画的に都市を建設し、商工業者を誘致する事例も多くなった。ライン以東地域およびイングランドのかなりの都市は、このような建設都市である。しかし、この段階でも大部分の都市の主要な機能は地域の経済、宗教中心、場合によっては政治中心という事に変わりは無い。その商工業も一般には都市周辺の地域の需要に応じた生産と流通と言う性格を保持していた。 勿論地域によっては、都市は単なる地域中心の水準を超えて、遠隔地商業や大工業を擁するようになった。北イタリアと南ネーデルランドの諸都市が代表的で、それぞれ地中海商業、北海商業の拠点となり、また毛織物工業の著しい発達を見た。そのためこれらの都市は例外的な人口を有するようになったのである。12世紀以降、フランス東部にこの両地域を結ぶ南北交通路が発達し、それに応じてシャンパーニュ地方に大市が発達した。13世紀になると北東ヨーロッパのいくらかの都市は、北海、バルト海での遠隔地商業のためにハンザ同盟を結成した。こうした遠隔地商業や大工業に依拠する大都市と、地域中心としての中小都市が織り成すネットワークが、現在大(24)きな関心を集めている。

成長と飽和7

・戦士階級の生活と文化: [12世紀頃の下層戦士層の生活と文化]:まず彼等は西欧の大部分においては農村生活者であり、主として城や村の館に居住した。ただし地中海沿岸ではそのかなりの部分は都市に居住した。尚封建家臣の義務を果たすべく、一年のうち何ヶ月かを王侯の宮廷で過ごすこともあった。 彼等は主たる収入はいうまでもなく所領から得ていたが、総じて所領経営にそれ程熱心ではなかった。彼等の生きがいは何よりも戦いであった。これはまず臨時収入の機会をもたらす。主君が戦争を行なう際、家臣義務としての助力、即ち封建軍役は無償であったが、日数と出動範囲に制限が設けられていた。
したがって戦争が大規模であれば、家臣には超過勤務手当が支払われる。また戦功を挙げた者には褒賞が与えられた。更に敵を捕虜にすることで身代金を得る事もあった。しかし戦争はそのほかに武名を獲得する手段でもあり、何よりも退屈な日常を塗り替える気晴らしであった。年長者の語る過去の戦いの物語は、興味と尊敬を持って聞かれたのである。 彼らの人生は家門の論理によって統制されていた。まずこの階級の子供達のうち、相続者を限定する必要から、少数の男子のみが戦士として養育された。残りの男子は教会に委託され、聖職者や修道士となった。この選別は7歳頃に行われたようである。戦士となるべき子供は以後騎馬と武技の訓練を受け、ローティーンの年齢で主君や親族の家に委託されて、そこで教育と訓練を受けながら小姓としての奉仕を行なう。20歳前後で一人前の戦士として認められた後も、父の家に直ちに戻る事は無い。主君の家にそのまま滞留し、或いは若者同士で徒党を組み、冒険を求めて各地を放浪する事が行われた。 彼らのうちでも、父の死や隠居、部分的な所領割譲によってそれなりの資産を取得した者はやがて結婚し、自ら(15)家門の支配者となることが出来た。ごくわずかとはいえ、相続財産を持つ女性との結婚に成功したものも同様の地位を手にした。しかしそれ以外の者は家中戦士として生涯を終えざるを得ない。12世紀にはこのような境遇の戦士たちは騎士修道会にも吸収されるようになった。
尚女子は家門同士の連帯性の拡大の手段として用いられた。家長は出来るだけ多数の女子を、わずかな嫁資と共に他の家に嫁がせたのである。ただし、直系の男子が欠けて居るときは、一般に直径の女性が相続者となる。 彼らには根強いげん示的消費の体質がある。高価な衣料や所持品、宴会や祝祭における大規模な消費、鷹揚な贈与は高貴さと権力の証であるとも見られていた。その結果貨幣経済の発展と共に、所領経営における怠慢とあいまって、慢性的な財政危機に苦しむ事になる。12世紀以降に彼らが王侯への従属を強めていった原因はここにもあった。 彼等の気晴らしとしては、戦争のほかに騎馬槍試合(トーナメント)、狩猟、宴会、チェスなどが挙げられる。騎馬槍試合は死傷者が出る程実戦に近いゲームであり、敗者は身代金を取られる事もあった。これらの娯楽に、12世紀の始めごろから文学が加わる。大多数の戦死は文盲であり、巡歴の芸能者が歌う韻文に耳を傾けた。武勲詩は英雄達の武勇を語り、抒情詩は目上の貴婦人への満たされる事の無い愛を謳った。この武勇と恋愛と言う二つのテーマは、宮廷において隆盛した長編叙事詩の中で合流する。 教会は11世紀から、この戦士階級に新しい道徳基準を与えるべく働きかけてきた。彼らは自らの武力を教会の統制に委ねてその守護者となり、また教会の認めた結婚関係の中に性的活動を限定する事で、初めて救済に与る事ができるというのである。彼等は教会人を必ずしも尊敬してはいなかったが、信仰心を欠いていた訳ではない。
婚姻外の恋愛の賛美とキリスト教性道徳の間に緊張を孕みながらも、「キリストに仕える戦士」のテーマもまた文学のうちに流れ込んでいく。  (16)12世紀の後半から、戦士階級一般に「騎士」(Ritter, miles, knight, chvalier)と言う称号が特別な意義をもち始める。この称号は一人前の戦士と言う意味に加えて、武勇と中世に富み、教会の守護に力を尽くし、貴婦人を厚く敬うものと言う一種の文化理想としての意味を帯びるようになった。それとともに、戦士たちは「騎士」に叙任される事によって、こうした理想の体現者となる指名を付与されるという観念も生まれてきた。騎士制度の本格的成立をここに認めることが出来る。

成長と飽和6

 四。戦士たちの世界(12) ・戦士階級と国家秩序及び封建制: この時代の西欧における俗人領主階級は同時に戦士の階級でもある。この階級の男性には重装騎馬戦士としての活動が共通に課せられている。ただし階級上層部では政治的支配者としての役割が大きく、中層、下層においても何らかの行政的・司法的職務を帯びているものが見られる。元々この階級の上層部は高貴な血統を受け継いでいると看做され、貴族と呼ばれていたが、時代が進むにつれ、中層、下層もまた貴族の範疇に入っていった。 この階級に属する者達にとって、自らの権利の実現のために武力を行使する権利は最も基本的なものである。しかし、彼等は全く独立の権力主体であったわけではない。彼等の中には、二つの支配、服従の原理が働いている。
一つは漠然とした国家意識であり、これによって彼等は国王を思考の存在と認め、様々の留保をつけながらも自分達の服従義務を認めていた。このような君主政規範は、どんなに王権が弱体化しても完全に消滅する事は無かった。 もう一つは封建的主従制(レーエン制)の原理であって、二人の人間は臣従礼と呼ばれる儀式的契約によって主君と家臣になり、主君からは庇護が、家臣からは助言と助力が提供されるというものである。助言は主君を中心とする集団的な政治・司法活動への参加を意味し、助力は重装騎兵としての軍事奉仕を意味する。一般にこの契約には、主君から家臣への封(feodum)の貸与が伴う。封となりうるのは所領、税など持続的に収益を生む財産であり、この貸与は無償である。この時代では次第に封の授受が主従関係の設定にとって決定的要件と看做されるに至った。ただし実際には、家臣となる人間がそれまで自分のものとして保有していた「自由財産」(13)を主君からの封と認める事によって、擬制的な授封が行なわれる場合も多い。また封の相続が一般化した事により、主従契約も主君、家臣の相続人によって更新されるのが通例となった。尚封建的主従せいの形態、浸透の度合いには、地域や時期によってかなりの相違がある。 国王への服従にせよ封建的主従制にせよ、その拘束力はコンスタントなものではない。… ・戦士階級の諸階層: 戦士階級の中にも幾つかの階層が認められる。一般に、自有財産であれ封であれ、安定した世襲的領有の対象となる支配権の規模と性格が、領主の階層を規定する。
この階層構成は大陸とイングランドでは大きく異なっていた。…ドイツ、フランスでは中世初期に形成された広域的な行政単位を、10,11世紀から大貴族が私的に領有するに至った。彼らが王国レベルで諸侯と呼ばれる。これについで中規模の土地領主であり裁判領主である地方貴族の階層があり、更にその下には小規模土地領主の集団が存在する。これに対してイングランドでは、この時代を通じてシャイアと呼ばれる行政単位が王に直属しつつ存続しており、この区画の一つを完全に支配下に収めてしまうような貴族は例外的存在であった。ここでは戦士の上層部は、分散した土地所領を下封された国王直属の家臣であるバロンによって構成される。彼等の下では多数の小規模土地領主が陪臣の位置を占める。 こうした世襲的な所領を保持しない、家中戦士の集団も西欧全体に広く認められる。… 

成長と飽和3

「集村化と共同体」:農民の住まい方から見ると、ローマ世界は散居集落、若しくは小村集落が一般的であった。散居集落とは個別の屋敷が分散し、それぞれの うちに取り巻かれているものをいい,小村集落とは20軒以下の家屋、屋敷地の緩やかなまとまりを言う。ゲルマン人地域でも中世初期には小村集落が一般的 だったといわれる。しかし900年から1200年の間に、西欧の大部分では、20軒以上の家屋、屋敷地が密集した塊状集落が支配的となった。ただし、この 集村の形状及び形成過程については、ヨーロッパ南部と北西部、中部では一定の相違が見られる。
集村化の原因についてはいろいろな意見があるが、最も根本的と考えられるのは、次のようなものである。先ず防衛の必要から、幾つかの小村集落、散居集落が統合される傾向があったと思われる。また牧畜の後退と農耕の発展により、一世帯に必要とされる農地面積が以前よりも小さくなれば、それはより多数の屋敷が密集する事を可能とする。更に、当時の農業技術革新の中で、生産性を高めるための強力や共同作業の役割が増大したためとも見られる。 11世紀以降、集村化地域は言うに及ばず、散居集落地域でも住民の共同体的な活動が活発になってくる。これをもたらした要因の一つは、農村部での小教区の網の目が密になって行ったことである。聖堂がたち、共同墓(7)地が整備されると、これらは住民の精神的連帯の核となった。もう一つの要因は、大陸では裁判領主制に求められる。領域的な支配に対抗して被支配者側でも領域的連帯が形成されたと見られるからである。住民共同体は聖堂の維持、土木事業、共有財産の管理、祭礼などを行なうと共に、領主から裁判や徴税において一定の業務を委ねられ、またその事によって領主権を制限した。 12,13世紀の多くの農村共同体においては、住民の領主への負担を明文の法によって制限し、また彼らに行政への参加を一定程度保証する事が行われるようになる。これは実際にはそれまでの暗黙の慣行の確認であろう。しかしそれが明確な法の形を取ったとき、その共同体成員はより「自由」になると観念されたのである。
領主は多数の住民を領内に居住せしめる事の利益を考え、こうした「自由」特権を付与する事に踏み切ったといえよう。北東フランス、ロレーヌ地方では、これは慣習法特許状の付与という形を取った。…ドイツでは村の裁判集会で領主と住民が「村法」を確認しあうと言う形で、住民の権利が確定して行った。ただし地中海沿岸部では、この種の権利の確認は低調で、せいぜい共同体の執行機関の存在が認められるに過ぎない。…