三。中世盛期における都市と農村-ラティウム教皇国家の場合 ・集落間ネットワーク形成の2要因: …(143)中世盛期は都市と呼べるような集落が増加し、その一部がことに規模を拡大して上位に立ち、他の都市や農村との間に上下関係と機能分担を含むネットワークを作り出していく時期である。…こうしたネットワークが出来上がっていくには幾つもの要因が働いていたと考えられる。 一つは経済的次元での動向であり、在地的・地域的発展を基盤とする流通と密着しながら、紀元千年以降には、(144)地域間の商業が展開し、更には西欧を越える国際的商業と接合していく。…それと絡み合って、こうした広域的な商業と結びついてその結節点になった集落や、そこでことに需要の多い商品を生産する集落などが急速に規模を拡大する。他方には、主として在地的流通の中で需要を充足しうる多数の集落があったが、そうした場所も遠隔地商業とは無関係ではなかった。…凡そ至上税や流通税が貸されるほどの商業取引が行なわれる場所であれば、どのような集落でも遠隔地的流通と在地的流通とが絡み合って居ることが明らかにされてきている。ただ大きく見て、両者の比率が集落の規模によって異なり、相対的に大規模で都市と呼ばれうる集落では遠隔地商業が目立つのに対して、より小規模な集落は在地的ないし地域的な商業を主体としているのである。…[その形成にかかわる政治的要因について]中世都市が封建社会の中で正統的な位置づけを与えられている事は既に述べたが、それはとりもなおさず、都市と呼べるほどの重要な集落は、同時に有力者による支配の拠点であり、政治的中心地と言う資格を持つ場合が窮めて多いことを意味する。…特定の集落が都市に成長する過程は、同時にそれが属する地域の政治的編成と密接に関係しているのである。
この時期の支配体制は、在地的に多数の中小領域(145)的支配圏が族生した上で、それらが封建制度や君主的統治によって両方と呼ばれるより大規模な領域に纏められていくところに成立していた。そして、こうした大小の領域支配の中心地となった集落こそ、都市として成長していく可能性が大きかったというのである。 ・12世紀までの司教座集落とカストルム型集落の近似: ところで、ラティウムにおけるカストルム型集落のincastellamento移行の成り行き、ことにその都市と農村のネットワークへの編入[は]…地方を舞台とする教皇国家の形勢と言う枠の中で働いているのである。 …まず、最初に指摘しておかなければならないのは、incastellamentoが始まった10世紀のラティウムには、既に場合によっては都市と呼んでも良い一連の集落が存在していた事である。即ち、巨大都市ローマをいただきながら、その後背地として古くから司教座網が稠密であったから、ヴェローリ、アナーニ、アラトリ、ティヴォリ、リエティ、テラチーナといった司教座集落が根を下ろしていたのである。これらは総じて規模も小さく、12(146)盛期までの在地の発展に果たした役割は余り評価されていない。…これに対して農村部では、10世紀以来の活力の商店として、カストルム型集落が成長してきたのであり、停滞した司教座集落と比べてカストルム型集落間の競合のために不安定ながら、はるかに大きな発展性を内容していた。 12世紀までの司教座とカストルム型集落には、景観上も、経済活動上も、明確な対象は殆ど見られない。いずれも石造建築の集合であり、領主の住居は、カストルム型集落ではdomus major、司教座集落ではturrisとして同じく防備施設を兼ねていた。更に集落内部の中心的防備施設として、カストルム型集落ではroccaが、司教座集落ではcastellum civitatisが緊急時の避難場所となる。しばしば中世都市の指標とされてきた囲壁も、両者ともに備えて居るのである。
更に、経済活動を比較してみると、司教座においても囲壁内部の住居は尚まばらであって、菜園地も多く、かなりの程度に農耕が営まれていた。手工業者についても本質的相違はないという。職種だけを比較すれば、修道院の領主経済を反映したカストルム型集落の場合には、より多様と言えるほどなのである。…このようにみてくると incastellamentoが完成された時期のラティウムでは、司教座とカストルム型集落には本質的な相違がなく、…ここで重要なのは、としか農村化と言う二分法ではなく、新旧それぞれの集落が地域の関係網の中で果たした中心地としての役割である。正に、集村化を土台として生じた地域内部での都市機能の広い編成が、ここに見て取れるのである。 (147) 在地領主・修道院・教皇によるカストルム領域支配: この状況を出発点として領域支配が確立していくわけだが、…成長する集落は、その周辺に農地と未耕地を中心としたカストルム領域とでも呼びうるまとまりを生じさせ、領域ごとの境界が明確に確定されるようになってくる…すなわち、領域支配の根底には集村化によって成立した個々の集落が備える一円的な領域性が前提とされていた。 これらカストルム型集落の多くは、在地領主の手中にあった。ラティウムの史料がincastellamento以降のカストルム型集落の動向として最初に示してくれるのは、それらのかなりの者が、より大規模な支配を繰り広げて居る修道院の手中に吸収されていった過程である。この地方では、特にファルファとスビアーコという大修道院所有のカストルム型集落については、創設文書に加えて、年代記や文書集に伝来した寄進記録、教皇や皇帝による確認文書といった多様な史料での言及からそれらの変換を辿る事ができる。これらの修道院場自ら、或いは世俗人との契約によって多くのカストルム型集落を創出した事は言うまでも無い。
しかしこうした修道院史料の端々には、城を含む土地の寄進者やカストルム型集落建設の実行者として、またの地にはその支配圏を巡る紛争の相手方として、在地領主がしばしば登場している。後の時点で修道院領に数えられるカストルム型集落が、当初の創出は在地領主の活動に支えられていた事、しかしやがてそれは在地領主の手から離れ、修道院の支配下へ入っていくことがそれらの史料から明らかになるのである。そうした過程は、当初は臣従関係による事が多い。即ち在地領主が自由地として所有していたカストルム型集落を、自ら封臣となりつ封として請け戻すのである。しかし、在地領主の支配を吸収して所領の拡大と一円化をはかる修道院は、カストルム型集落を含む土地所有を得て、更に進んで、徴税権と裁判権など公権力起源の上級領主権の簒奪にも躊躇しなかった。修道院は、(148)単なる土地領主としての収入以外に、カストルム領主としての経済的基盤と、領域支配の梃子たる裁判権をも確保しえたのであった。 しかし、多くのカストルム型集落を支配下に収めていた大修道院も、12世紀以降次第に進む教皇国家の整備の中で、その体制の中に吸収されていく。… ・教皇国家確立と司教座集落の成長: (149)…カストルム型集落は、ラティウムが教皇国家として再編されていく過程では、重要なその支柱となっていったが、12世紀からは教皇国家確立の影響が、この時期まで特別の展開を見せていなかった司教座集落に活力を与える事になった。司教座網が教皇庁の活動拠点となっていき、教皇庁の巡回が制度的に行なわれるようになったのである。
…[司教座集落の成長について注目点]第一は、人口増加と都市内部の新たな街区区分regionesの制定である。集落内部に住居が密集し始め、市の比定に地理的な目印を必要とした事から街区区分が発展し、これが教区や租税の地区割りの基盤ともなっていく。第二は、多くの金融業者の存在とともに、これらが多様な貨幣流通の拠点となったことである。これには、緩慢ながらローマを中心とする地域の経済成長が存在した事が大きいが、同時に教皇国家確立には、新たに台頭した商人金融業者階層が教皇庁の官僚機構の一端を担って参与していた事も重要である。 このように、教皇国家の確立に応じて司教座集落が都市としての姿を整備してきたのに対して、在地の中心地として成長したカストルム型集落は、これとは対照的な途を辿る事になる。すなわち、人口増加傾向の中では、創出期に出来上がった閉鎖的な集落構造が硬直的な束縛となってきたのである。内部での家屋の高層化には限界があり、多くのカストルム型集落が停滞状況に陥って、一部は放棄される事態となってくる。このようにして、司教座とカストルム型集落とが、ともに都市的機能と農村的機能を持ちながら、本質的相違のないままに在地の中心地としての役割を分け持っていた11世紀とは全く異なった状況が生じた。それは、ローマを筆頭として司教座集落こそが都市であり、それらの連携が都市網を形成するのに対して、カストルム型集落は、多くがより会の中心地機能を示して居るとしても、ともかく都市網の下部に位置づけられているという、新たな都市と農村の関係な(50)のである。集村化の典型的な形態として、都市機能の地域的拡充に大きな役割を果たしたカストルム型集落は、教皇国家の拠点としての地位を獲得できなかったために、12,13世紀のより進んだ社会経済的事情の中では、村落としての位置にとどめられる事になったといえよう。