2010年2月3日水曜日

農業の展開と村落2

3.定住形態のあり方 (95)カエサルが征服したケルト系ガリア地域は、アウグストゥスの時代に南から北にかけて、アクィタニア、ケルティカ、ベルギカという3つの州が置かれ、旧来の部族組織がcivitasとされ、これが地方自治と行政上の単位となった。キウィタスの領域は広く、従来の部族の有力者が引き続き従属氏を支配し、その下部組織であるpagusとともに、それぞれの中心集落を持っていた。ゲルマン人の侵入期にそれらは防壁で市域を狭く画定し、狭義のキウィタスとなり、後の司教都市の祖形を形成していった。一方、農村部には旧来の土豪の大所領のほか、皇帝やローマの有力者の所領も現れ、それらはvillaを中心とする経営体を作り、またこれとは別に自由村落も存在していたらしい。 …がリアに見られたキウィタスやパグスという部族的な定住単位は、移動と定着と言う長い過渡期を通じて、ゲルマン人の諸地域にも及んで行ったらしい。ゲルマニアに次第にキリスト教が布教され、教区組織が出現してくるフランク時代になると、キウィタスはローマ時代からの都市的集落を含め、中心集落に司教座が置かれるようになる。それと共に、キウィタスは司教座を中心とした都市的区域と周辺農村地域に分離し、後者には(96)在郷フランク貴族の拠点となる新しいパグス(ガウ)が形成される。… (99)ヨーロッパでもっと組織化された中世村落の時代が始まるのは11世紀以来の開墾運動の展開、耕地の拡大、新集落の急増といった一連の現象を通じてである。聖俗の領主達は新しい土地に対する農民の渇望を利用して、彼らを森林、荒野、沼地の開拓に駆り立てた。ピレネー山脈の彼方のイベリア半島の広大な無主地の開拓、中部・東部ヨーロッパへのゲルマン人の植民などはその大規模な例である。農耕に適した土地が殆ど無くなったライン地方や低地地方からの移民がスラブ森林地方の征服運動の後に続いた。

しかしこの東方植民はもっぱらゲルマン的運動であったわけではなく、同じ頃、スラヴの王侯たちも似たような植民活動を組織した。 さらに、西ドイツ、フランス、イギリス、そしてイタリアでさえも、多くの沼地、森林、荒野が過剰人口に悩まされていた古い定住地帯の村々からやってきた農民達によって占有された。(100) …これらの運動に共通している事は、農業植民者に新しいタイプの保有地が与えられた事で、その保有条件はわずかな賦役、軽微な貨幣地代など、古い保有地に比べてずっと恵まれたものであった。新たな人口の定住はその地方の領主達にとって、保有地の増加分から新しい賦課租を引き出すという利益があった反面、植民者を誘致するためには様々な特権を与え、負担を軽減するように図らざるを得なかった。そしてこのような農民の条件の改善は、古い集落の農民にも反作用を及ぼす結果になった。 ドイツでは、多くの農民が植民者として東部へ向けて出発したため、労働力の減少に悩まされた12世紀の西ドイツの所領では、13世紀の判告集に継承されるような、農民にとって有利な慣習法の確定を図らざるを得なかった。フランスでは11世紀に急増するブールの法が、12世紀以来北フランスではヴィル・ヌーヴ、南フランスではバスティードなどと呼ばれる新集落の「慣習法特許状」に対して先駆的な役割を果たした。中世の集村か運動も、これらの新集落において取り分け活発であった。…(101) 古い森林地帯やボカージュ地帯に設立された集落の場合は、交通が不便で危険も多かったから、開墾者は少人数の集団に分かれて入植した。このような小集落はブールであれ、ヴィル・ヌーヴであれ、概して都市へ発展する事はなく、小規模な農民集落に留まる事が多かった。森林地方の特色的な村落形態としては、主要道路に沿って住居が列状に並び、その背後に庭畑と耕地が延びる魚骨状の「路村」がある。… 自然条件の許す限り、開拓移民は集村化の方向を選んだ。なぜなら、(102)真の共同体は密集を好むからであり、また居住の増大は領主の利益にも適っていたからである。