2010年2月3日水曜日

成長と飽和7

・戦士階級の生活と文化: [12世紀頃の下層戦士層の生活と文化]:まず彼等は西欧の大部分においては農村生活者であり、主として城や村の館に居住した。ただし地中海沿岸ではそのかなりの部分は都市に居住した。尚封建家臣の義務を果たすべく、一年のうち何ヶ月かを王侯の宮廷で過ごすこともあった。 彼等は主たる収入はいうまでもなく所領から得ていたが、総じて所領経営にそれ程熱心ではなかった。彼等の生きがいは何よりも戦いであった。これはまず臨時収入の機会をもたらす。主君が戦争を行なう際、家臣義務としての助力、即ち封建軍役は無償であったが、日数と出動範囲に制限が設けられていた。
したがって戦争が大規模であれば、家臣には超過勤務手当が支払われる。また戦功を挙げた者には褒賞が与えられた。更に敵を捕虜にすることで身代金を得る事もあった。しかし戦争はそのほかに武名を獲得する手段でもあり、何よりも退屈な日常を塗り替える気晴らしであった。年長者の語る過去の戦いの物語は、興味と尊敬を持って聞かれたのである。 彼らの人生は家門の論理によって統制されていた。まずこの階級の子供達のうち、相続者を限定する必要から、少数の男子のみが戦士として養育された。残りの男子は教会に委託され、聖職者や修道士となった。この選別は7歳頃に行われたようである。戦士となるべき子供は以後騎馬と武技の訓練を受け、ローティーンの年齢で主君や親族の家に委託されて、そこで教育と訓練を受けながら小姓としての奉仕を行なう。20歳前後で一人前の戦士として認められた後も、父の家に直ちに戻る事は無い。主君の家にそのまま滞留し、或いは若者同士で徒党を組み、冒険を求めて各地を放浪する事が行われた。 彼らのうちでも、父の死や隠居、部分的な所領割譲によってそれなりの資産を取得した者はやがて結婚し、自ら(15)家門の支配者となることが出来た。ごくわずかとはいえ、相続財産を持つ女性との結婚に成功したものも同様の地位を手にした。しかしそれ以外の者は家中戦士として生涯を終えざるを得ない。12世紀にはこのような境遇の戦士たちは騎士修道会にも吸収されるようになった。
尚女子は家門同士の連帯性の拡大の手段として用いられた。家長は出来るだけ多数の女子を、わずかな嫁資と共に他の家に嫁がせたのである。ただし、直系の男子が欠けて居るときは、一般に直径の女性が相続者となる。 彼らには根強いげん示的消費の体質がある。高価な衣料や所持品、宴会や祝祭における大規模な消費、鷹揚な贈与は高貴さと権力の証であるとも見られていた。その結果貨幣経済の発展と共に、所領経営における怠慢とあいまって、慢性的な財政危機に苦しむ事になる。12世紀以降に彼らが王侯への従属を強めていった原因はここにもあった。 彼等の気晴らしとしては、戦争のほかに騎馬槍試合(トーナメント)、狩猟、宴会、チェスなどが挙げられる。騎馬槍試合は死傷者が出る程実戦に近いゲームであり、敗者は身代金を取られる事もあった。これらの娯楽に、12世紀の始めごろから文学が加わる。大多数の戦死は文盲であり、巡歴の芸能者が歌う韻文に耳を傾けた。武勲詩は英雄達の武勇を語り、抒情詩は目上の貴婦人への満たされる事の無い愛を謳った。この武勇と恋愛と言う二つのテーマは、宮廷において隆盛した長編叙事詩の中で合流する。 教会は11世紀から、この戦士階級に新しい道徳基準を与えるべく働きかけてきた。彼らは自らの武力を教会の統制に委ねてその守護者となり、また教会の認めた結婚関係の中に性的活動を限定する事で、初めて救済に与る事ができるというのである。彼等は教会人を必ずしも尊敬してはいなかったが、信仰心を欠いていた訳ではない。
婚姻外の恋愛の賛美とキリスト教性道徳の間に緊張を孕みながらも、「キリストに仕える戦士」のテーマもまた文学のうちに流れ込んでいく。  (16)12世紀の後半から、戦士階級一般に「騎士」(Ritter, miles, knight, chvalier)と言う称号が特別な意義をもち始める。この称号は一人前の戦士と言う意味に加えて、武勇と中世に富み、教会の守護に力を尽くし、貴婦人を厚く敬うものと言う一種の文化理想としての意味を帯びるようになった。それとともに、戦士たちは「騎士」に叙任される事によって、こうした理想の体現者となる指名を付与されるという観念も生まれてきた。騎士制度の本格的成立をここに認めることが出来る。