2010年2月3日水曜日

成長と飽和8

五。十字軍運動の展開 ・背景・影響: 前述の「キリストの戦士」としての騎士理念・身分の形成に大きく貢献したものとして十字軍が挙げられる。十字軍は、第一に宗教的運動であるが、その背景や影響をも含めると、同時代の極めて多様で広範な問題と関わる、巨大な複合的事象である。…十字軍運動をヨーロッパ世界の膨張として考えるなら、その前提としての地中海東部、すなわちエジプト、シリア、パレスチナ地域のイスラム勢力の興亡と推移を踏まえねばならない。西ヨーロッパ側の社会経済的要因としては、前に述べた西ヨーロッパの農業生産力の上昇、人口増加、土地を持てぬ農民屋、所領を相続できない領主の次三男、若年の騎士たちの増加、イタリア、地中海地方に始まる都市と商業の発展などを挙げる事が出来よう。また、ローマ・カトリック世界における教皇権の指導力の強化、ローマ教会とビザンツ帝国・ギリシア正教会の関係、東西教会の統一問題なども、十字軍と不可分の事柄である。 (17)十字軍は学問・文化の興隆には殆ど貢献しなかったが、城郭建築などイスラム世界の軍事・土木技術のヨーロッパへの導入は、十字軍の産物である。ネガティブな側面を挙げるなら、十字軍の多大な人的・経済的浪費が、結果として参加者に利をもたらさなかったために、取り分け中小領主家系の断絶や没落を招いた。他方、異教徒との戦いを正当化する十字軍思想は、ヨーロッパ世界の膨張過程において構成まで大きな影響力を持った。
・研究上の問題: クレルモンの宗教会議における教皇ウルバヌス2世の演説に応じて開始される1096-99年のエルサレム遠征を第1回とし、1270年の仏王ルイ9世のチュニス遠征を第7回とするナンバーつきの大遠征を中心にすえ、1291年のアッコン陥落を持って完結させるのが、通例の十字軍理解である。…勿論1回より最後に至るまでを、「聖地解放」を目的とする聖戦としての「十字軍思想」に貫かれた運動の展開として均質的に理解する事には問題があろうし、ウルバヌスの演説によって全てが突然始まったのではないとすれば、少し遡ってその起源を考える必要もあろう。… ・十字軍の成立: (18)十字軍の発端が、教皇ウルバヌスのクレルモンにおける演説と、これに続くフランス各地で勧説であったことは事実である。しかし教皇とその周辺を別とすれば、同時代人の記述は初期の十字軍を通常の巡礼と同じ言葉で表現する事が多く、「聖戦」観念はなお浸透していなかったようである。西ヨーロッパでは10世紀より活況を呈した巡礼の目的地の中で、いうまでも無く聖地エルサレムは最重要地であり、危険を伴う聖地巡礼に、貴族領主はしばしば武装従者を率いて赴いた。十字軍はその延長上にある。

さて、十字軍の直接的契機は、セルジューク・トルコの巡礼妨害よりも寧ろ、1095年のビザンツ皇帝アレクシオス1世による、異教徒の侵攻に対する救援要請である。これに選考した所謂「グレゴリウス7世の東方計画」は、教会統一志向をも含むビザンツ救援計画であったとされ、実現されなかったものの、改革教皇としてのグレゴリウスの後継者ウルバヌスに少なからぬ影響を与えたであろう。ともあれ同年のクレルモンにおけるウルバヌスの演説は、ビザンツ救援に留まらず、聖地解放を訴えたものとして聖職者、貴族、民衆に熱狂的に支持されたのである。 隠者ピエールの率いる民衆十字軍は、一部の貴族を含め、農民を主力とする二万人以上を集めて陸路エルサレムに向かったが、次第に統制を失い、コンスタンティノープルを経てまもなくトルコ軍の攻撃により壊滅した。第1回十字軍は、…フランスの諸侯を中心に構成され、ル・ピュイ司教アデマールを総司令官とした。その主力は陸路コンスタンティノープルに集結し、アンティオキア、エデッサなどを征服した後、1099年7月にはエルサレムを占領した。ここにゴドフロワ、ついでボードワンとその子孫を国王とし、各地域を封土として保有する諸侯達からなる一種の植民封建国家、エルサレム王国が成立した。この成功は、エジプトのファーティマ朝とシリア、パレスティナを支配していたセルジューク朝の対立、更にはセルジューク朝(19)内部の不和・抗争と言うイスラム側の分裂に負うところが大きかったといえる。

逆にイスラム側の大同団結が実現すれば、ヨーロッパからの人的・物的援助に頼らざるを得なかった脆弱なこの国家の命脈はつきるのである。またビザンツ皇帝はコンスタンティノープルに集合する十字軍戦士たちに何ら宗教的性格を認めず、西方からの援軍或いは安上がりの傭兵と看做し、自身への臣従誓約を要求した。他方十字軍戦士たちは皇帝のこのような態度に不満を募らせ、誓約に反して占領地を我が物とした。更に文化レベルの差や生活習慣の相違もあって相互不信、取り分け西側の「不実なギリシア人」に対する不信感は次第に募っていった。皮肉な事に十字軍は東西キリスト教世界の宥和には逆行したといわねばならない。なお教皇ウルバヌス2世は、聖地解放の知らせが届く直前に没したが、十字軍の提唱に際して彼が、聖地解放のほかに教会統一や教皇の権威強化など、具体的に如何なる意図を持っていたのかは確認しがたい。 ・君主達の十字軍: 1147年の第2回十字軍は、十字軍をキリストの戦士、下僕としての自己鍛錬と実戦と捉え、結果としての死を殉教とする独自の十字軍神学を説いた聖ベルナールの影響が大きいといわれる。確かにこのとき活躍する神殿騎士修道会は、聖ベルナールの言う、戦士と修道士を一身に兼ね備えたキリスト教徒の理想に近いものであったかもしれない。しかし初めて十字軍に参加した君主であるフランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世は小アジアで壊滅的打撃を被り、同盟都市であったダマスクスを攻撃して大敗を喫するなど、結果は無残なものであった。神への愛を実践する聖戦としての十字軍の理念と現実の乖離・矛盾は、最早ベルナールの神学的弁証によっても覆いがたいものとなったのである。
にもかかわらず12世紀以後、遠征と聖地における苦難の経験の中で、聖戦意識は寧ろ強まったとも言え、このキリスト教的聖戦理念は政治的プロパガンダとも結合して発展していく。(20)1187年、エジプト・シリアの統一を成し遂げたイスラムの指導者サラディンに対して、聖地のキリスト教徒はハッティンにおいて十字軍史の転換点となる退廃を喫し、翌年エルサレムは陥落した。そして英王リチャード(獅子心王)、仏王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の率いる第3回十字軍においても、フリードリヒは往路小アジアで水死し、最後まで戦ったリチャードも聖地巡礼の自由を確保したに留まった。以後聖地国家は海港都市アッコンを拠点に尚1世紀存続する。 ・十字軍の変容: 教皇インノケンティウス3世の、全キリスト教世界の結合による異教徒との戦いと言う理念に基づいて提唱された第4回十字軍は、資金不足から、周知のようにヴェネチア商人の目論見とコンスタンティノープルの宮廷内紛に関わって、聖地ならぬビザンツの帝都を征服し、1204年、フランドル伯ボードワンを皇帝としてラテン帝国を樹立した。この「転向十字軍」によるコンスタンティノープル征服は、西ヨーロッパ人のビザンツ・ギリシア人に対する根強い不信感を背景にしたものとは言え、計画性は無く偶然的要素が強かった。またインノケンティウス3世がこの「転向」を非難しつつも結局既成事実として承認し、コンスタンティノープル総大司教の叙任をも公認したのは、東西教会の統一を念頭においてのことであったのかもしれない。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の十字軍(1228-29年)は、歴史家によってしばしばナンバーつきの正式の十字軍と看做されなかった。この遠征がフリードリヒの破門中に行なわれ、従って教皇公認のものではなく、さらにフリードリヒが戦いを交えることなく、カイロのスルタンとの交渉によってエルサレムを返還せしめた(ヤッファ協定)ので、十字軍としての評価は当時より低かったのである。教皇の公認を別とすれば、聖地解放とキリスト教徒の保護と言う十字軍の目的をフリードリヒは最も合理的な手段で実現したのだが、異教徒に対する聖(21)戦としての十字軍理念は自立し、既にそれ自体重要な意味を持っていた。そこに「非聖地十字軍」が現れる背景がある。さて、第6,7回の十字軍とされる、1248-54年の聖王ルイ(9世)のエジプト遠征、1270年の同王のチュニス遠征が、大敗と虜囚、更に落命と言う聖王にとって悲劇的な結果に終わった後、前述のように1291年のアッコン陥落を持って、狭義の十字軍時代はkな決する。 ・十字軍概念の広がり: …[これらの]十字軍は、教皇がなおローマ・カトリック世界全体に対する精神的・政治的指導力を持ち、「国民国家」はまだその枠組みを明確にしえず、修道院・教会改革を通じて社会のキリスト教化が進み、また飽和化した社会から出て遍歴・冒険を求める人々が増加し、他方でイスラム勢力の興隆に対して、ビザンツ皇帝、ギリシア正教世界は援軍を求めていた、こうした時代にのみ展開しえた、ヨーロッパ最初のインターナショナルな膨張運動であった。…