1. ローマ・カトリック秩序の確立 山辺規子 ・枢機卿団の形成(55): 枢機卿は、この時期の教会改革によって、単なるローマ近郊の聖職者から、普遍的な教会の指導者へと脱皮した。 元々枢機卿が置かれたのは、純粋に典礼のためだった。ローマ近郊の教区司教である7人の「司教枢機卿」が、教皇の主聖堂たるラテラノ聖堂において週番で祷務にあたったのが、その始まりであるとされている。一方、枢機卿と言う名称は、ローマ市内の所謂「名義聖堂」の司祭にも当て嵌められた。この時代には、名義聖堂は28を数えた。この名義聖堂の司祭たちは7名一組になって、ローマ市内の4つのバシリカでやはり週番で祷務に服した。この名義聖堂の司祭が、「司祭枢機卿」である。 …11世紀半ばの教会改革によって、枢機卿の役割は教皇の典礼の補佐から大きく広がる。…(カット)。 ・枢機卿の任務: (57) 枢機卿の第一の任務は、教皇を選出することである。これは、1059年の「教皇選出規定」によって、枢機卿にのみ認められた権限である。… 枢機卿はまた、広範囲に広がった教皇の職務の補佐役として活躍する。彼らの働きは、教書、つまり教皇の文書の副署にうかがえる。11世紀後半以降、教書が正式の者である事を明らかにする為に、多くの枢機卿が自ら署名をしていた。その数は、12世紀にはいって目だって増加した。それにつれて、枢機卿の副署は、教書に欠くべからざるものとなった。枢機卿は、国王の破門、司教選出問題、主座大司教の管轄権問題、聖人の列聖等の信仰、教義に関わる問題など、教皇が取り扱わねばならない重要な問題について助言を求められた。嘗ては四旬節会議などで取り扱われていた問題が、枢機卿団に委ねられるようになったのである。
とりわけ、最高権威による最下を求める訴えを処理する仕事はこのころ急増しており、枢機卿は教皇とともに司法の職務に携わった。このため、枢機卿となる為には、経験でしか模倣的な教養、敬虔がある事が求められるようになった。…(58)枢機卿は教皇特使としても、教皇が直接訪問する事が出来なかったり、長く滞在することが駅無い所で、ローマ教会の威信を高めた。また、シスマや教皇と皇帝との対立があるときは、教皇特使の各国での働きが大きな意味を持ったりした。元々教皇特使の制度は改革教皇庁によって多く用いられたのだが、枢機卿団が形成されるにつれて、重要な特使の任務は先ず枢機卿が担う事になった。 確かに、実際には枢機卿間に意見の不一致があったりした為に、却って教皇の指針が決まらなくなり、適切な処理が出来なくなった事もある。しかし、世襲される世俗の君主に比べ、一般に教皇は高齢になってから登位し長く在位する事が期待できないので、枢機卿段と言う集団指導体制は教皇庁の安定化に役立った。そして、必ずとはいえないが通常枢機卿の中から教皇が選出されるため、ローマ教会を指導する経験を積んだ人物が教皇となることも、円滑で継続的な教会統治体制を作り上げる事につながったのである。 ・教皇庁事務機構の発達: 教皇庁の機能を高めたのは枢機卿団ばかりではない。改革教皇庁は、長い間手付かずの状態にあって、十分に機能していなかった事務機構にも改革のメスを入れた。1100年ごろ、新しい2本の柱が出来た。教書を取り扱う尚書官chancellariusと財務担当の財務官camerariusである。 ・尚書官: 元々文書作成法でよく知られた人物だったガエタのヨハネスが、1089年に尚書官となることで、教皇の文書再編が始まった。20年にわたって尚書官の職にあったヨハネスは、教書の形式を整え、新しい字体を取り入れた。
教皇庁は、各地から受け取った文書のみならず、自らが発した文書の写しをも保管するという当時と(59)しては画期的な文書保管体制を取った。これは、個々の教書は必ずしも公表されるわけではないが、教皇の意志の表れとして援用され、教会法の中に取り入れられていく可能性を持っていたからである。尚書官が統括する小書院は、組織として何時誕生したかは明確ではない。しかし、12世紀末にはその名称が文書に登場し、13世紀には教皇庁の中で独立した部局として法的にも確立する事になる。 教書を取り扱う尚書官は、その性格上、常に教皇と行動を共にしており、教皇に最も近い助言者でもあった。その役割はきわめて重要であり、教皇に次ぐものとさえ言われた。そのため、尚書官となるのは例外なく枢機卿であった。また…尚書官から教皇への道を歩んだものを数える事ができる。…尚書官は、教皇にならなければ死ぬまでその職にあり、教皇庁の業務の継続性を高める役割も果たした。ただ、余りにも力を持った尚書官は教皇を脅かす存在となったため、12世紀後半には尚書官がいなかった事もあり、尚書院も枢機卿では無い副尚書官が統括するようになった。 ・財務官: もう一つの柱の財務官も、尚書官とほぼ同じ時期のウルバヌス2世時代に登場する。中世前期の財務関係官としては収入担当のarcarius、支出担当のsacellarius、保管担当のvestarasiusがあったが、十分に機能していなかった。… (60) 12世紀にはいると、財務官の働きを記述資料によっても確認できるようになる。
…ところで、教皇庁の財務と言う仕事は複雑である。教皇が安定した政治状況でローマに居ることが出来れば、ローマの教会への献金や所謂教皇領からの収入をも徴収する事もできた。しかし、現実には皇帝との争いやシスマのために各地を転々としなければならないことも多かったから、しばしば収入源を失う一方、多くの経費を必要とした。そのたびに、各地の聖俗諸侯に臨時の献金を求める事にもなる。また、本来、教皇に納められるべきものでも、政治情勢の変化で全く収められない場合もあった。そのため教皇に納められるべきものをはっきりさせる作業が、既に1080年代から何度か進められたが、1192年に財務官チェンチオ・サヴェッリ(後の教皇ホノリウス3世)は、上納金帳を作成し、この点を明らかにした。この上納金帳の中には実際には納入されえないものもあるが、体系だった記録は財務に欠かせないものであり、財務の基礎となる資料が作成されたという事は、財務局の発展を示すといえよう。 このようにウルバヌス2世以降、教皇庁は組織化の傾向を強めていった。教皇や枢機卿にはなすべき教会統治の仕事が山積し、彼らが典礼、祷務をなす余裕がなくなってきたために典礼、祷務の専門機関として教皇令は移動が出現するが、礼拝堂に属する聖職者もまた初期として活動する事になる。この傾向は、11世紀後半の情熱的な霊的指導者として教会をリードした教会改革者、なかんづくグレゴリウス7世の時代とは際立った違いを見せている。教皇庁が組織化していくことは、教会の本来のあり方からの逸脱として非難される事になる。たとえば、1(61)2世紀の『銀のマルクによる福音書』などで、風刺の対象ともなる。取り分け、財務官への風当たりは強かった。しかし、グレゴリウスが目指したローマ教会の主権の確立のためには、制度的裏づけが必要である。
その作業に当たったのが、アレクサンデル3世に代表される法的教養をつんだ実務肌の教皇たちであった。山積する訴訟の仕事を前にして、枢機卿団の協力の元に実務に携われる事が、教皇としての条件となっていた。その基盤の上に、中世キリスト教会でその絶頂を極めたといわれるインノケンティウス3世が登場する事になるのである。