chapter7 知識と社会 大嶋誠 一。大学史研究の動向 (205)…「大学」は西欧中世独自の産物とさえ言われている。知識を蓄積し創造する教師とその知識を自らのものとしようとする学生の共同体、別の言い方をすれば知的営為にかかわるものの共同体である大学は、12世紀西欧の社会を部隊として、そこで展開された政治的・経済的・宗教的・そして更には知的状況の中から新たに生み出された歴史的生成物なのである。その大学は13世紀西欧社会の中に定着し、時代の知的営為の中心となるとともに、教皇権・皇帝権とともに普遍的権威の一つに数えられて存在する事になった。 二。12世紀ルネサンス: (207)12世紀を特徴付ける歴史現象は幾つかあるが、知的領域に関して言うならば、12世紀の特徴は「知的覚醒」という事が出来よう。…12世紀の知的活況が、大規模な開墾と耕地面積の増大、農業技術の革新とそれに伴う生産性の著しい上昇ーそれは中世農業革命とさえ呼ばれるーと人口の増加、商業や都市の発達といった当時の経済生活の飛躍的発展、更には十字軍が証明するような西欧社会の膨張を基礎にして展開された事は、多くの研究者が既に指摘しているところである。それらを確認した上で、我々は12世紀の知的領域、教育界の覚醒を検討する事になるが、その対象となるのは、グレゴリウス改革の影響、地的地平の拡大、地的活況と教育人口の膨張に伴う学校制度の再編・整備と言う三つの事象である。 ・12世紀の知的覚醒: 「教会の自由」を追求したグレゴリウス改革…、知識との関連で、グレゴリウス改革が及ぼした影響を一言で言えば、キリスト教徒を霊的に指導する聖職者、なかんずく高位聖職者の必須の条件として、読み書きできる事、学識を主張した事にある。
(208)…グレゴリウス改革の推進者は先ず、聖職への任命は教会法規に基づいて行なわれるべき事柄であること、そして、教会法規は聖職任命の装置であるばかりではなく、聖職任命の基準でもあるとの主張を行った。高位聖職者は様々な徳を有するがゆえにその職にあるとされたが、現実には、慣習によって貴族がその職につくものとされた。グレゴリウス改革推進者は、この慣習に対して積極的に反対する事もなく、この慣習を尊重した。それと同時に改革推進者は、高位聖職者、更には教会人であるためには、最低ラテン語の読み書きが出来る程度の学識を備えていることが要求されている事を理解したのである。つまり、セナトール貴族系聖職者に代表されるような貴顕の出自と学識の双方を具有する事が霊的指導者の条件と考えられたのである。ここで指摘すべき重要な点は、貴族階層型の社会階層の人物に比較してより学識があるか否かという事ではなくて、学識が、貴族による教会の行為の独占を打破する要素として登場した事なのである。教会法規はシモニアを通しての貴族による高位聖職独占を禁じたが、同時に高位聖職を学識による攻撃に晒す事になったのである。グレゴリウス改革推進者がシモニアを禁止し、その一方で教会人の学識を強調した事によって、学ぶ事の価値がそれ以前とは異なる属性を持つ事になった。つまりそれは、学識を得る事、学識を得るために学ぶ事が社会的な、少なくとも教会内的な意味での栄達の手段、或いは野心を実現する手段となりえた事を意味したのである。 教会の中での学識の強調は同時に、学ばれるべき事柄に関して教会のコントロールが行なわれることを予見させずにはおかない。
世俗の知識ー文法、修辞学、論理学からなる3学を意味するーに対して実践的な必要性が与えられる。文法は書簡を認めるために、修辞学は論争するために、論理学は議論を成り立たせるために必要であるばかりでなく、これら3学は、聖なる書き物の理解と教会の法規の研究に奉仕すべきものとされたのである。 学ぶ事、学識の獲得に関して教会の内部に生じたこのような大きな変化は、「学校」の再興と、そこでの教(209)育・研究の活性化を必然としたと考えられる…。 12世紀はまた、ローマ法が再発見され、古代ギリシアの知的遺産とアラビアの知識がラテン語への翻訳を通して西欧社会に流入し、西欧の知識の総量を増大させ、知的養分を供給し、知的覚醒を引き起こした時代である。12世紀以前の西欧が手にしていた古典古代の知的遺産は極めて乏しかった。西方ラテン世界が継承したギリシア古代の知的遺産はカッシオドルスやセビリアのイシドルスやベーダといった少数の学識ある人物が断片的に収集したものに過ぎなかった。従って、12世紀の西欧社会に知られていたラテン語訳されたギリシア語の著作と言えばごく貧困で、カルキディウスの翻訳したプラトンの『ティマイオス』断片、ボエティウスの翻訳になるアリストテレスのオルガノンの中の範疇論と命題論を数えるだけで、アルキメデスやユークリッドなどの名前すら忘れ去られていた。また、アラビアの知識の需要はごく狭い範囲に限定されていた。 12世紀のラテン語への翻訳活動は、西欧世界とイスラム世界が接するイベリア半島(カタルーニャとトレド、とりわけ後者が中心であった)、6世紀以降はビザンツ帝国の、9世紀後半以降はイスラム教徒の、そして11世紀中頃以降にはノルマン人の支配に服したシチリア、そしてギリシアとの通商外交関係を保っていた北イタリア都市と言う三つの拠点で行なわれた。
アラビア語或いはギリシア語からラテン語へという翻訳活動の結果、西欧社会が所持する知識の総量は飛躍的に拡大する事になった。フワーリズミー、キンディ、アル・ラージー、アヴィケンナ、アヴィケブロンなどのアラビア系学者の著作、またアリストテレスの著作(天体論、生成消滅論、気象学第4巻、分析論前書、分析論後書、トピカ、詭弁論駁、自然学、霊魂論、形而上学1-4巻など)やユークリッド、プトレマイオス、ア(210)ルキメデス、ガレノス、プラトンなどのラテン語に訳された著作を西欧は手に入れたのである。 古代ギリシアやアラビアの知識が、知的活動の新しい素材を提供する事になるが、1100年前後、法学が一つの学問、一つの教科として成立する事になる。グレゴリウス改革の教皇権と皇帝権と野対立のイデオロギー論争のコンテクストにおいて、ボローニャを中心とする北イタリアで、既に11世紀に再発見されていた『ディゲスタ』の写本が流布し、またそれへの注解を施す事が盛んに行なわれるようになった。教会の職務とそれに携わる人たちを統べるとともに、社会の中で、キリスト教的倫理と規律に基づく遵守事項を定める教会法も発展を遂げ、1140年ごろ、ボローニャの修道士グラティアヌスが、それ以降の教会法教育のテキスト、注解の素材となる『教会法命題集』を編纂する事になる。こうして、法学が研究と教育の領域に入って来たのである。 ・学校組織の再編: 12世紀、教育制度・学校制度の再編が見られた。それを示す一つの現象として、教育の場の中心が農村的な修道院付属学校から、都市的な司教座聖堂付属学校に移行したことを指摘する事ができる。修道院系の学校が衰退、ないし自己閉鎖化する状況が見られる一方で、都市に置かれた司教座付属学校が活況を呈するという状況が生まれた。
修道院に関して言えば、基本的な理念において、教育活動を含めて世俗社会の活動から隔離され、己の魂の救済を目指す修道院は、社会全体が停滞している時期には過去に蓄積した知的・文化的遺産を保持する事で文化活動の担い手となりえたが、社会が停滞から運動へと変化する事によって、社会的にも知的にも農村の中に孤立して行ったし、12世紀を代表する修道会であるシトー会は、修道院付属の学校をそなえる事はなかった。 (211)これにたいして、11世紀以降…司教座聖堂付属学校が恒常的に運営されるようになったと思われる。なぜならこの時期以降、いくつかの司教座聖堂付参事会で、学監schorasticusの継続的なリストを作成する事ができるようになるからである。そして、12世紀中頃までにはすべての司教座聖堂が付属学校を持つ事になった。幾つかの学校は優れた教師を擁する事によって、単に司教区だけではなくかなり遠隔地からも学生をひきつけた…。 だが12世紀の教育・学校制度の整備を特徴付けるのは、フランス北部を中心に見られた現象であるが、「私学校」の登場である。これは、教会とのかかわりを持ちながらも自立性を持つ教師が開いた学校で、そこの教師は基本的に、教育を受けるものからの謝礼によって生計を営む。彼らは、勉強の後に彼ら自身も教師職に就くことを希望したもので、教会の機関に地位を得て教育活動につくという事が出来なかったので、自ら学校を開いたと考える事が出来よう。私学校の登場は知的活況、教育人口の膨張を端的に示す現象と言えるであろう。
これらの「私学校」の教師も学生も、基本的には教会的な性格を持ち続ける。と言うのは12世紀、学問或いは教育の領(212)域での活動は、聖職者の活動領域に含まれ、読み書きの出来る人は聖職者であるとする伝統的観念が西欧、とりわけパリでは広まっていたからである。… 「私学校」では主に自由学芸が教授されたが、それ以外の教科が教授される事もあった。いずれにせよ、伝統的な学校に比べて自由に、また学生の要求を受け入れながら教育が行なわれたのは「私学校」であるし、翻訳活動によってもたらされた新たな知識や弁証法、法学、医学など学生の関心をひきつける教科が中心的に教えられ、成功を収めたのも私学校であり、知的欲求・知的好奇心・理性の創造性への信頼といったものが大きな意味を与えられたのも私学校であった。しかし私学校での教育について伝統的教育関係者の仲には、既存の知的秩序に対する脅威と捉えるものもいたし、あるいは実用の学(法学、医学)の成功の中に、神に向かう学の衰退を懸念するものもいた。こうした不安、懸念を持つ人たちの存在にかかわらず、12世紀後半になっても私学校で教える教師、或いはそこに学ぶ学生、そして教職を希望する物の数は増加し続けたのである。[主に北フランス、パリで] 知的活況、新たな教育活動の展開の中で生じた教師及び教師志願者の増加は、既存の教育制度、教育裁治権のあり方に対しても変更を求める事になる。この問題に積極的に介入した最初の教皇はアレクサンデル3世である。12世紀、教育裁治権を掌握していたのは司教区の長であり、学監あるいは司教座聖堂参事会付文書局長cancellariusが司教から委託されてその権利を行使しており、彼らは、新たに教師として活動するもの=新たに学校を開く者に対して教授免許を交付する事によって、教育活動を監督していた。
(213)アレクサンデル3世の施策は、教育人口の膨張と言う教育界が直面した状況の中で、教授免許制を整備し、教育の無償化を実現する事にあったといえるであろう。教皇は教授免許が売買されている事を「教育職の売買」と理解し、ガリアの司教宛の回状で教師適格者への教授免許無償交付を命じるとともに、第3ラテラノ公会議決議を持って法制化した。また、同じ公会議で、聖職者、貧困学生に無償で勉学の機会を得る事が出来るよう、各司教座聖堂に教師のための聖職禄の確保を義務付けた。 アレクサンデル3世は、観衆的であった各司教区ごとの教授免許授与権を普遍教会の名において権威付け、教えるものにはその免許が必要である事、教育が教会の管轄事項である事、そして更には、教育人口の膨張と言う状況にあって、教師適格者は無償で教授免許を得て教師として活動できる事を確認したのである。