2010年2月3日水曜日

成長と飽和5

・教皇と教皇庁: ローマの司教である教皇は、中世初期からカトリック教会の最高権威である。しかし中世前期には侵入した外民族の圧迫を受け、あるいは ローマ地方の有力者の抗争に巻き込まれる事が多く、またそうした問題を解決すべくビザンツ皇帝やフランク、ドイツ王権といった遠方の政治権力が介入して保 護を与えたり統制を加えたりすることもしばしばであった。それだけに教皇の西欧各地の教会組織に対する実質的支配権はきわめて弱かった。 11世紀の半ば から12世紀の始めにかけて、教皇たちはグレゴリウス改革と呼ばれる一連の教会改革を推進した。これは教会の道徳的秩序を刷新すると共に、教会組織に対す る王侯貴族の介入を排除して、ローマ教皇を中心とした教会の集権化を実現しようとしたものである。
その過程では聖職者の叙任権を巡る横行との争いも生じ、特に神聖ローマ皇帝との抗争は激しく、また長期にわたった。しかしこの改革の後、教皇の権威は著しく高まった。 12,13世紀の教皇はカトリック教会に関するあらゆる問題に最終的な決定権を持ち、その事務局である教皇庁は膨大な事務をこなしていた。また教皇は西欧各地の教会や教会人から様々の上納金を集めており、経済成長期にその富は確実に増大して行った。更に教皇はイタリア半島中部に一種の領邦を築いており、軍事的にも無視できない勢力であった。教皇を補佐する聖職者の集団が枢機卿団である。これは新しい教皇を選出する選挙人団でもあった。こうしてカトリック教会は教皇を頂点とした階層秩序に整備され、教会法に基づいて運営されていた。