4.都市の権力構造: 既に述べたように、イタリアでは都市が常に経済のみならず行政の中心地としての機能を果たし続けていたために、都市住民の階層構造はきわめて複雑なものとなっていた。既にコムーネの成立期から、商人や手工業者のほかに司教に仕えていた法律家、司教の俗権代理人、伯の家臣その他の騎士ないし貴族のような封建的要素が都市社会の重要なメンバーを構成していた。…彼等は一般に「コンスル貴族」と呼ばれている。 しかし「コンタードの征服」によって都市の領域支配権が拡大していくと、大きな変化が生じてきた。コンタードに強固な地盤を持つ土地所有者ないし領主層が次々と都市に入住し、重要な政治勢力を形成したからである。彼等の場合も、その経済的基盤において「コンスル貴族」のうちのある者と特に違ったものではなかった。しかし、都市経済との結びつきにおいて弱く、コンタードに尚多数の家臣あるいは従属民を従え、政治的に常にコムーネに対(137)抗してきた彼等は、都市社会に吸収されたとしても、尚相対的な独自性を維持していた。彼等は、同族団としての緊密な結合を保ち続けたまま、都市の一画に堅固な館を構えてその力を誇示した。彼等はしばしばコムーネ政府に反抗するだけでなく、互いに抗争を続けていた。農村における利害関係は結局都市に集中するために、抗争は更に激化した。
こうして家と家との私闘は、イタリアの都市社会の一つの特長となったのであった。このような都市貴族の同族団は、一般に「コンソルテリーア」と呼ばれている。それは一つの政治的党派であると共に、家屋や土地の共同所有団体であった。そして、コムーネを模倣した条例やコンスルを持つ法的な組織をなしていたのである。このように「コンタードの征服」の進展は都市政治に大きな影響を与えた。有力な人々が都市外から流入した結果、コンスル貴族による都市政治の独占は事実上不可能となった。都市の有力者層は、幾つかの党派に別れて互いに激しく争った。 このような危機を回避するために、多くの都市がポデスタ制を採用した。これは、都市外から騎士身分で法学を修めたものを選任し、一定の(半年ないし一年)任期を切ってこれに都市政治を委ねるものである。ポデスタは、裁判官、騎士、兵士、馬丁、さらに料理人などからなる部下を伴って就任し、都市法(都市条例)の規定に従って統治を行い、任期満了時に都市の評議員による監査を受ける事になっていた。
局外者に政治を委ねる事によって党派の対立を超えた公平な政治を行い、都市の統一を維持する事ができると考えられていたのである。ポデスタははじめコンスルと共存していたが、やがてそれに取って代わり、13世紀10年代以降、ルネサンス期に至るまでイタリアの都市制度上の一つの特徴となった。また、中心都市は市民の間から然るべき人物を選び、ポデスタとして従属都市に派遣するという方法で領域支配を行なっていた。 以上のようなポデスタ制の採用によって都市政治の危機は一応回避されたのであるが、都市経済の発展による商人層(特に遠隔地貿易に従事する人々)の不断の社会的上昇、農村からの流入による人口の急増によって、また新たな問題を抱え込む事になった。彼らも、旧来の都市貴族に対抗して政治参加を主張したからである。やがて13世紀(138)の中葉になると、これまで政治から排除されていた人々は自衛のための団体であるポポロを作り、これを基盤に政治へ参加するようになった。
ポポロは都市の地区を基礎とした住民組織で、商人、手工業者の職業組織であるアルテ(ギルド)と手を結んで、コムーネの中のコムーネとも言うべき組織を作り上げた。そして13世紀の末には都市国家内の正規の機関に自らを高めることになる。今や都市国家は、ポデスタを長とする本来のコムーネと、カピターノ・デル・ポポロ(ポポロの長)に率いられるポポロと言う二つの団体の複合体となったのであった。カピターノ・デル・ポポロもポデスタと同様に都市外から法律家が招聘され、その条例に沿って運営を行なうのである。やがてポポロの機関が本来のコムーネのそれよりも優位に立つ事態も生じた。 注視しなければならないのは、ポポロの指導的市民(ポポラーニ)も決して一般の民衆ではなかったという事である。彼等は確かに家柄を誇る都市貴族ではなかったが、小商人や手工業者でもなかった。例えば、13世紀末のフィレンツェでは、ポポロの重要な役職についたのは、毛織物商,織元、絹織物商,医師、薬種商、両替商、裁判官、公証人などであって、市民の日常生活に必要な品物を製造し販売している人々ではなかった。
これらは出自においては伝統的な都市貴族ではなかったが、貴族の行動様式を模倣し、土地や建物を購入してその力を誇示しようとした。逆に都市貴族の家柄の者も積極的に商業活動に参加していた。14世紀フィレンツェのある都市貴族は、フランスやイギリスへいって羊毛や毛織物を扱うのは高貴な職業であると述べている。このように商人的な思考態度と騎士的な思考態度とが交錯し、独特な雰囲気を作り出しているのがイタリア中世都市なのであった。 後に触れるように、都市国家は一つのRespublica即ち市民の共同体として理解されていた。しかしその内部構造はきわめて複雑であった。住民達は空間的、階層的に様々の団体に組織されていた。都市がそれぞれ固有の条例と評議会並びに役員を持つ二つの共同体、コムーネとポポロに分かれていた事は既に述べたが、その内部には同職団体(アルテ)、洗礼教会を中心とする小教区のまとまり、その下部単位としての街区(コントラーダ)、宗教的な兄弟団、フィレンツェにおけるグエルフ会のような保守的な都市貴族のサークルなどが、縦横に重なり(139)合いながら共存し、一種のモザイク模様を作り出していたのである。
13世紀から14世紀にかけて都市国家同士が激しく争い、有力な都市が中小都市を併呑する事態が頻発するようになると、ポデスタ制が象徴しているような都市内の諸勢力のバランスを維持する事は最早不可能になった。その結果、ごく少数の家を頂点として保護・被保護の関係が拡大し、やがて都市全体を覆うようになった。かつての都市貴族と一般市民との身分的な違いが消滅したわけではなかったが、両者が二つの政治勢力として対立する事は無くなった。貴族・一般市民を問わずいくつかの有力な家が台頭し、都市政治を支配するようになったのである。更に、唯一つの家門が圧倒的な勢力を獲得し、事実上の君主として都市を支配するような事態も生じた。このような君主をシニョーレ、その支配体制をシニョリーア制と呼んでいる。この制度が多くの都市において出現するのは14世紀であるが、ミラノ、ヴェローナ、マントヴァ、フェララなど、ロンバルディアやロマーニャの都市では既に13世紀からその出現を見て居る。これらの地域がポー川流域の平原であって自然的境界が存在せず、早くから有力都市の領域拡大の動きが始まっていた事、強力な封建領主層が存在し、都市政治への介入を積極的に行っていた事などによるものであろう。 その他の都市でも、たとえシニョリーア制が確立しなかったにせよ、権力の集中は確実に進行していた。ヴェネツィアでは13世紀末にコムーネの大評議会に新しいメンバーを加える事が承認されたが、1323年になると逆にメンバーシップは世襲とすることが宣言された。フィレンツェでは、14世紀の中葉にポポロの政務委員(プリオーレ:事実上都市の内閣に相当した)に参加し得るものの範囲が拡大し、手工業者の中からもその職につくものが出るようになったが、1378年に生じた毛織物工業の下層労働者の反乱(チオンピの乱)の後、急速に権力の集中が行なわれ、所謂「オリガルキーア」の時代に入っていった。制度的に見れば、何も変わっていない様に見える。しかし重要な問題は、都市の評議会で論ずる前に特別な諮問委員会(コンスルテ)で予め方針を決めておいたり、特定の問題の処理を何らかの委員会や個人に全面的に委ねたりするという方法で、実質的には権力が少数の手に掌握されるに至ったのである。このような「シニョリ(140)ーア」あるいは「オリガルキーア」こそ、ルネサンス期のイタリア都市社会と特徴付けるものなのである。