2010年2月3日水曜日

ローマの秩序3

chapter4 インカステラメント・集村化・都市 城戸照子   一。都市と農村を巡る視点の転換  (130)…中世を通じて多数を占めたのは中小都市なのであった。1300年ごろになっても、1万以上の人口を持つ定住地はヨーロッパ全体で50を数える程度だったという。これに対して人口千にも満たない中小都市が、それぞれの地域で重要な都市的機能を担っていた。こうした中小都市の中には半都市や市場地、農村都市や巨大村落といった曖昧な語で従来呼ばれてきた、多様な集落も含まれて居る。規模ではなく在地での機能に注目すると、こうした中小都市の重要性が浮き彫りになってくるのである。…(132)古典的中世都市像が一般的であった時期の南北類型論を、イタリア都市史の立場から代表しているのN。オットカールである。これは、アルプス以北の中世都市を準拠枠とした上で、主としてイタリア北部の大都市をモデルとして、イタリアの都市と農村に固有の政治的・社会的性格を浮き彫りにする試みであった。それによれば、と市が農村から峻別されていた北西ヨーロッパと比べて、イタリアの都市は、その「周辺農村領域(コンタード)との絆を維持し、その組織化と統治の中心」であり、事実上の都市国家を形成していた。都市内部には自由な市民だけでなく、周辺農村地域の封建貴族や騎士も居住している。しかもと私法は、都市のみならず、農村を含む全領域に適用されたと言う。従って、北西ヨーロッパ派の自由と自治の牙城としての都市に対し、イタリアの都市はそのものが封建社会を構成しており、ここには完全な中世都市は育成されなかったと捉えられているのである。
…北西ヨーロッパを基準とするこうした南北類型論は、古典的中世都市像を基盤としていた以上、都市史と農村史(133)の研究の新たな展開にともない、再検討を余儀なくされた。その動向の一つが南の更新性を前提として両者の相違を対置することなく、相違を寧ろ両地域に共通する動態の発現形態の個性として捉え、そこに南北類型論を相対化しようとする試みである。…   二。Incastellamentoと集村化 ・平地から高地へ・散居から集住へ(136) ・incastellamentoモデル: ローマの後背地ラティウム地方の9-12世紀についての重厚な個別研究で、防備集落の誕生と、それを構造の基礎単位とした教皇国家の再編成を描き出し…たのがp。トゥベールであった。ラティウム地方の防備集落castrumの創設・統廃合・衰退を描き出したトゥベールは、カストルム創設を中心に展開された集村化の運動を、incastellamentoの語で呼んだ。この地方では既に10世紀から始まるインカステラメントでは、在地領主のイニシアティブにより、高地に築かれた小規模な城を核として、従来の散在の定住地とは全く断絶した囲壁を持つ集住形態が一気に創出された。これに伴って周辺に広がる多様な種目の農地の再編も行なわれる。この定住運動は集落の統廃合を繰り返しながらも11,12世紀に開花を遂げて、ラティ(137)ウム地方ではカストルム型集落の定住地が圧倒的多数を占めるようになる。そして、13-15世紀には統廃合の第2波を経験しながらも、尚主要な集落形態たる地位を保っていたというのである。 カストルム型集落の創設に際しては領主間で、或いは領主ー農民間で契約が交わされており、数は少ないもののカストルム創設文書として伝来している。土地を提供する教会領主と実際の定住活動を請け負う世俗領主間で結ばれた契約ではその主たる関心は、共同領主権における利益の折半の規定にある。これに対し、両種と農民集団の間で交わされた契約は、付加規定に加えて、家屋敷地から菜園地・ブドウ畑・耕地に至るまでカストルム型集落内部の敷地の割り当てを細かに規定した内容も含んでおり、内部の集落プランも明らかにしてくれる。
トゥベールが詳細に描き出したところによれば、集住地は城を中心に、それを囲みながら下降する様配置された農民家屋によって構成され、この家屋は細い道や勾配の急な階段を間にはさみつつしばしば相互に接合していた。家屋は全体が一つになってあたかもドームのように山頂を覆っており、時にはそのもっとも外側の家屋の壁が囲壁の役割を果たす事もあった。囲壁外に広がる領域は耕地と未耕地に大別される。未耕地は主として、放牧地と疎林からなり、カストルム領域を画する境界まで広がっている。耕地は居住地に近いほうから、耕区種目ごとにまとまって、ソ菜園・果樹栽培地→冬穀・マメ栽培地(もしくは麻畑)→ブドウ栽培地(もしくは粗放的耕作地)→採草地と、必要とされる労働の質と量に応じて効率的経営が可能なように配置されて居る。各農民は、耕区内に自分の地条を保有し、地条への入り口も個別になって居るので、耕区内外の農道は複雑になっている。こうした農道の地割や石灰質土壌からの湧出水を利用した灌漑施設の維持と管理は、共同体による運営下に置かれていた。このように形成されたカストルム領域は、司教座都市領域とともにラティウム地方のまとまりを作り上げる基礎単位となっており、貨幣流通・物流・人の移動で相互に結ばれているという。 …incastellamentoは10-13世紀における防備集落の形成と集(138)村化を広く意味するようになった。もとよりincastellamentoにはcastrumの語が含まれており、集村化の中でも特に、城を核とする防備集落の形勢を指して居る。… ・イタリア中部とフランス南部・西部のincastellamento: イタリア中部とフランス南部から西部は、中世盛期の定住形態の変化においてはincastellamentoがほぼ準拠枠として妥当し、城は集村化に向かう活力の重要な収斂点である事が確認された。イタリア中部では、ラティウムに近接したカンパーニャのモンテ・カシノ修道院領で10世紀中葉以降,2波にわたるincastellamentoがみられという。しかし、ほかに囲壁のない集落やモンテ・カシノ修道院の分院集落もあり、カストルム型集落以外の形態と並存している事も明らかになっている。…(140) …いずれの地域でも、ラティウムでみられるような10世紀と言う早い時期からの集村化は経験してはおらず、おおよそ紀元千年以降、11世紀後半から12世紀以降からの変動と考えられている。
集村化の際も、カストルム型集落が唯一の形態ではなく、また集村化を遂げた集落の間に、散在居住も尚存続しているのが確認されている。しかしながら、少なくとも領主が何らかのイニシアティブを取って、中世盛期に向けて散在から集住へ定住形態が再編されたという集村化の基本線が共通しているのは確認される。しかも集村化の際に、城の定住地形成力が程度の差こそあれ大きな影響力を持っていたことも明らかである。地域によって多様な発現形態を持つにせよ、イタリア中部及びフランス南部から西部では、中世盛期に向かう定住動態の基本的な傾向はincastellamentoであるといえよう。 ・イタリア南部とイベリア半島での部分的インカステラメント: これに対してイタリア南部とイベリア半島では、中世初期の政治的枠組みの複雑さも影響して、集村化の程度と集落形態に関してかなり異なる様相を見せて居る。イタリア南部は、11世紀にビザンツ支配からノルマン支配へと移行し、城と定住形態の変容にもこの政治的枠組みの激変が大きく影響した。ビザンツ支配下でcho^rionと呼ばれる農村定住地は、既にかなり高い度合いで集住していたという。ただし防備されるのは都市的集落のみであったため、農村定住地は囲壁を持たなかった。その後、ノルマン勢力の確立に伴う定住形態の変化の中で、先行するビザンツ期の農村集落に新たに囲壁が付加され防備集落となることがある。また、12世紀の政治的混乱(141)の中で、両種の軍事的・政治的拠点として新たに建設された城を中心に定住地が形成される場合には、確かに一部に防備集落が見られ、農地構造再編への寄与は不明としても、兎も角一部でincastellamentoがあったといえよう。しかし集村化の動きはビザンツ期に既に見られたためノルマン勢力とともに導入されたカストルム型集落の建設が、集村化を代表する動向とはいえない。…