2010年2月3日水曜日

成長と飽和14

 ・フランス: 11世紀のフランスは、政治権力の極端な細分化を見た。まず王国は事実上幾つかの半独立的領邦に分裂して(41)いた。その領邦のうち、ノルマンディーやフランドルは領邦君主が強力で集権的に組織されていたが、殆どはルーズなまとまりのものに過ぎず、支配権力は更に多数のバン領主支配圏へ分散していた。
そして領邦であれバン領主支配圏であれ、その範囲を明示できるような領域的性格を持たず、恒常的な影響力の及ばない辺境をその周囲に伴っていた。 王位は987年からカペー家の手にあった。この家の先祖は嘗てはフランス侯としてロワール以北全体に影響力を持っていたが、11世紀後半にはその勢力圏(カペー領邦)は、ほぼサンリス、パリ、エタンプ、オルレアン地方に限定されていた。領邦諸侯達が王に伺候することすら稀であり、特に南フランスの諸侯は殆ど王と接触を持たなかった。当時の王権にとって最大の課題は、先ず自らの領邦における城主層の制圧であった。 12世紀に入ると、王権はパリを中心とした領邦の統合と拡大を進める一方で、全王国への封建的総主権の主張を打ち出した。当時、経済成長の影響下に、北フランスの諸領邦でも次第に集権化が進んでいたが、その際、領邦諸侯が領主達の統合に活用したのは封建的主従制であった。このことはカペー王権による諸侯達への封主権主張に有利に作用した。またプランタジネット家による「アンジュー帝国」の形成は、結果的に王国東部の諸侯達がカペー家の下に結集する事を促した。こうして12世紀を通じて、王権の威信は徐々に向上したのである。 13世紀初め、フィリップ・オーギュストはプランタジネット朝のジョン欠地王と争い、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジューを征服した。ジョンはドイツ皇帝と結んで反撃を企てたが、フィリップは1214年に両者の連合軍をブーヴィーヌの戦いで撃破した。
続くルイ8世は更にプランタジネット朝からポワトゥーを奪った。次のルイ9世(聖ルイ)はプランタジネット朝と協定を結び、後者が南西部に残ったギュイエンヌ地域をフランス王からの封として領有する事を認めたが、王権はその後もこの領邦の蚕食を続ける。またルイ8世はアルビジョワ十字軍の征服地の献呈を受けて、地中海沿岸に進出し、聖ルイの時代にはトゥールーズ・ラングドック地方全(42)域がカペー家の支配に組み込まれた。このほか王権は、婚姻や買収を通じて次々に新しい所領を入手した。 王権は広大な直轄支配圏を多数の管区に分け、バイイやセネシャルと呼ばれる有給官僚を派遣して、裁判、王領の管理、封臣の統率に当たらせた。また中央行政では、嘗ての王宮や国王会議から、文書、司法、財政についてより専門性の高い部局が分化して行った。しかし王権の力を過大に見積もるべきではない。多くの地域が尚バン領主の完結的な領域支配圏の下にあり、国王の支配は封主として彼らを統制する事に留まっていた。また国王は所領の入手につとめる一方で、しばしば親王たちにこれを割譲して王族領邦(アパナージュ)を作った。このようにして富裕で忠実な大封臣団を形成する事は、国王の望みでもあったし、地域の政治的まとまりの保持を願う住民感情にも適合的であった。こうして王国の組織においては尚、封建的主従関係が支配的な役割を果たしていたという事が出来る。 それでも13世紀を通じて、西欧世界におけるフランス王権の重要性は増大し続けた。世紀後半では、聖ルイという人格により、高い道徳的威信が加えられた。こうしてフランス王権は皇帝権に代わって西欧の政治的主導権を握るに至ったのである。
 ・ドイツ:(42) ドイツ、イタリアの両王国は10世紀に神聖ローマ帝国を構成しており、11世紀にはブルグントがこれに加わった。ドイツはこの帝国の中心であり、その王がローマに赴いて帝冠を戴くのが慣わしであった。10世紀から11世紀にかけて、ザクセン、ザーリア朝の諸帝は西欧でもっとも強力な君主であった。彼らは貴族勢力がまだ領域的権力に成長していない時代に、教会組織を王権のために活用する帝国教会政策によって、強力なヘゲモニーを発揮する事に成功したのである。 (43)しかし11世紀の後半となると、貴族支配の発展と共に、彼らと王権との緊張が高まってきた。また当時の教皇庁の教会改革運動は、ついには帝国教会政策に対立するものとなった。この対立の過程で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に許しをこうたカノッサの屈辱と言われる事件も生じた(1077年)。ハインリヒ4世、5世は50年近く教皇権に圧力をかけ続けたが、これと提携するドイツ貴族の反抗に苦しみ、ついに1122年、ヴォルムス協約で妥協した。長い内乱のうちに帝国教会制は解体し、また貴族の領域的支配圏の形成が進んだ。諸侯達は12世紀前半の二度の国王選挙に際しては、意図的に強力な世襲王権の形成を阻んだ。 1152年に帝位に着いたシュタウフェン家のフリードリヒ1世・バルバロッサは、こうした状況を前提として皇帝権力の再建を図った。まず諸侯勢力を圧倒するだけの強固な直轄支配圏の建設が彼の目標となった。北イタリアでの皇帝の諸権利(レガリア)回復の要求は教皇と都市勢力の抵抗を受け、長期にわたった抗争の末に妥協を余儀なくされた。
しかしドイツ国内でのヴェルフェン家のハインリヒ獅子侯との争いはフリードリヒの完全な勝利に終わる。彼は1180年の諸公会議でハインリヒからザクセンとバイエルンの大公権を剥奪し、これを他の諸侯に分割授封した。こうして彼は最大のライヴァルを退けて威信を高め、聖俗諸侯を封建的主従制によって統制する事に成功したのである。 フリードリヒの息子ハインリヒ6世は結婚によって両シチリア王国を入手した(1194年)。彼の死後、ドイツではシュタウフェン家とヴェルフェン家との帝位争いが再燃し、しかもこれに教皇やフランス王が介入して混乱を深めた。帝位は結局ハインリヒの息子フリードリヒ2世に戻った。しかしフリードリヒはシチリアに居住してここの統治に精力を注ぎ、ドイツ統治は息子であるハインリヒ7世、ついでコンラート4世に委ねた。ここでは諸侯が領邦支配の強化、上位権力の介入の制度的排除を目指していたが、国王達はこれに対し譲歩を繰り返したのである。 (44)1254年のコンラート4世の死で、ドイツのシュタウフェン朝は断絶した。最早王国の強固な統合は不可能となっていたが、それに代わるべき各領邦国家はまだ未成熟であった。その結果は政治的カオスであり、20年近くにわたる大空位時代の後は、一代ごとに王朝がかわる跳躍選挙の時代が70年余り続く。しかしこうした政治的混乱にもかかわらず、ドイツ人は着々とエルベ・ザーレ以東に発展していた。
12世紀には西スラヴ族の居住地であったメクレンブルク、ブランデンブルク、ポンメルンがドイツ王国の支配に入った。バルト沿岸ではドイツ騎士修道会が13世紀中にプロイセン、クールラント、リヴラントを征服して、ドイツ人農民、市民を定住させていたが、このほかにも土着の諸侯の招きに応じて、ポーランド、ボヘミア、ハンガリーに多数のドイツ人コロニーが生まれたのである。 ・イタリア: 北イタリアと中部イタリアはイタリア王国を形成しており、王位はドイツ王が兼有していた。しか始祖の権威は次第に名目的なものに過ぎなくなっていった。 まず北、中部イタリアでは、多数の自治都市が形成されていた。10世紀に都市の行政を掌握していたのは司教であったが、都市在住の戦士と商人たちは11世紀から12世紀初めにこの権力をほぼ奪ってしまう。彼等はコムーネと呼ばれる団体を結成し、またコンソレという代表を立てて自治を行なうようになったのである。 これらの都市はフリードリヒ・バルバロッサのレガリア(本来王権に属していたと看做される諸権限)回復の要求に対抗してヴェローナ都市同盟やロンバルディア都市同盟を結成し、1176年、レニャーノの戦いで皇帝軍を破った。そこでバルバロッサは1183年のコンスタンツの和で名目的宗主権のみを留保して、諸都市の自治を承認した。13世紀の前半、フリードリヒ2世と教皇権が争ったときには、諸都市は皇帝派(ギベリン)と教皇派(45)(ゲルフィ)に分かれて相互に戦った。 12,13世紀の諸都市は「伯管区(コンタード)」と呼ばれた周辺農村部を征服して、次第に領域を持った都市国家に成長していった。これにより都市民上層部には多くの戦士的領主層が加わる事になったが、彼等はしばしば党派に分かれて、武力抗争を行なった。
これを調停するために、12世紀末から外部の貴族を雇ってポデスタと言う役職に任じ、軍事、司法権を委ねる制度が生まれた。しかし13世紀には居ると、商工業者(ポポロ)がより大きな力を持つようになり、彼らを代表するカピターノ・デル・ポポロの権威が高まっていった。 中部イタリアにはローマを中心とする教皇領があった。これは11,12世紀を通じて都市国家と領主支配圏の緩やかな寄せ集めに過ぎなかったが、13世紀初めのインノケンティウス3世の時代には一定の行政組織が形成された。13世紀の前半はシュタウフェン朝の勢力に悩まされたが、世紀後半にはフランスのアンジュー家の支援を受け、教皇の支配は安定していた。 南イタリアは1000年ごろ,旧ランゴバルド王国系の諸侯とビザンツ帝国の勢力が入り乱れ、更にシチリア島はイスラムの支配下にあった。ここにノルマンディーから騎士たちが渡来し、傭兵として活動した。このうちタンクレディ家の一族はこの地域の支配者にのし上がり、シチリアを征服したルッジェロの息子ルッジェロ2世は1130年にパレルモで戴冠して両シチリア王国を創設した。ここでは西欧で最も進んだ行政組織が見られ、君主の力は強大であった。またパレルモの宮廷は、当時の西欧にあっては例外的に、イスラム、ビザンツの文化が西欧のそれと並存する場所となった。 1194年にこの王国の支配圏はドイツのシュタウフェン朝の握るところと成った。13世紀前半に皇帝フリードリヒ2世が教皇と対立すると、彼は南北から教皇を圧迫した。
フリードリヒの死後庶子マンフレディがあとを継ぐと、教皇はフランスの親王シャルル・ダンジューに両シチリア王位を提供して、マンフレディを討たせた。シャル(45)ルはこの王国を足がかりにビザンツを征服し、地中海に覇権を打ち立てることを夢見たが、1282年のシチリアの反乱によってこの島を失い、計画は挫折した。王国はシチリアとナポリに分裂し、シチリアはアラゴン王家の支流が掌握するところとなった。