木村尚三郎他編『中世史講座 第3巻 中世の都市』(学生社・1982年)
b。イタリア中世都市 清水廣一郎(126)
1.古代の遺産 イタリア中世都市は、その殆どがローマ都市に起源を持っている。中世以降に建設された有名な都市としては商業都市アマルフィとヴェネツィア(いずれも6世紀ごろ)、フェラーラ(8世紀に史料初出)、それに12世紀のフリードリヒ1世とロンバルディア都市同盟との抗争の中で建設されたアレッサンドリアなどが主なもので、大多数の都市ははるかに古い伝統を持っていたのである。…5世紀から7世紀にいたる混乱期にアルプス以北の旧ローマ帝国領では多くの都市が消滅した。都市は、経済や行政の中心地としての機能を失い衰退してしまったと考えられている。…一方、イタリアを中心とする地中海沿岸の諸地域では事情が違っていた。ここでは古代以来の地中海商業が、規模は縮小しながらも存続していた。…(127)ビザンティウムからイタリアを経てアルプス以北に通ずる商業網は、7,8世紀においても維持されていたのである。恒常的な商業網は、職業的商人と彼等の生活拠点、つまり都市の存在を前提とし、欠如しているところでは新たに作り出す。このようにして、イタリアの都市は古代から中世への移行期の混乱の中でその機能の一部を維持することができたのであった。 もっとも、地中海商業と言っても、古代のそれと、ここで取り上げて居る中世初期のそれとは決して同じものではない。中でもその「経済地理」が違って居る事に注意しなければならない。古代においてはローマとコンスタンティノープルを中心として、そこから発する交易網はローマ帝国の全域を覆っていた。それに対して、中世初期の場合には、ビザンティウムを中心とする東地中海の商業網と、地中海の南岸及び西地中海をカバーするイスラム商業網が、一部において重なり合いながらも、それぞれ別個に存在していたのである。
「商業の復活」前夜の10世紀におけるアマルフィ、ヴェネツィア、それにパレルモの政庁は、この二つの商業圏の発展に負うものであった。これらの都市が、いずれも古代には存在しないか、或いは重要な経済的地位を占めていなかった事は、地中海貿易の構造変化と言う問題を考えるに当たって極めて示唆的である。…[ヴェネツィア]の商業活動の発展は、後背地であるポー川流域の諸都市に刺激を与え、アルプスを越えて北西ヨーロッパに連なる商業交易を促進した[]。ロンバルディア諸都市の興隆は、このようにヴェネツィアを媒介として東地中海の国際交易と結びついた事によっている。地中海の商業網は再編され、それに結合する事の出来た都市は、古代以来の経済的機能を維持し、或いは再獲得した。古代都市の遺産、特に経済的中心地としての都市機能は、このよう(128)な形で11世紀以降の都市の膨張期にまで伝えられたのであった。 都市は経済的中心地としての機能を持ち続けていたことは、帝国崩壊後の支配者たちにとっても無視できなかった。5世紀に建国した東ゴート王国が北イタリアの中心都市ラヴェンナを都とし、ローマ帝国の統治機構をほぼそのまま継承したことは広く知られているが、その後に続くランゴバルド族も、またフランク族も都市を行政の中心と考えていた。…都市は城壁を持つ中心地として機能していた[]。…(129)ローマ都市と東ゴートさらにランゴバルドの都市はほぼ重なって居る。その地域を中心として、都市域は12世紀末、14世紀と拡大していったのである。したがって、ローマ都市の中心forumはその後も都市の中心であり続けた。例えばフィレンツェの場合、都市中心部は今日でもローマ都市の特徴である碁盤の目状の地割を保存して居るのであるが、その中央に旧市場広場piazzadel mercato vecchioが存在した。この広場は19世紀中葉の都市改造の結果すっかり破壊され、何らその面影をとどめていないが(今日の共和国広場piazza della Repubblica)、それまで都市の中でも最も古く、最も活気にあふれた商業中心地であった。
これがかつてのフォールムの跡地なのである。また、ローマ時代の市域の北端には中世になってサンタ・レパラータ教会が建てられ、後にこれが建て替えられてサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂となった。また南端には、都市国家の市庁舎が建てられた。アルテ(ギルド)や商業裁判所もこの地域内に散在していた。このように、中世都市の中枢的な機関が殆どすべてローマ(130)の市域の範囲内に存在していた事は、都市発展の連続性を暗示しているといえよう。北西ヨーロッパの都市についてしばしば指摘されている、都市領主の直轄地区と商人定住地との地誌的二元構造は、イタリアには見られないのである。 このような連続性を担う重要な要素として司教の存在が挙げられる。ローマ時代末期においてキリスト教は優れて都市の宗教として発展した。司教座は都市におかれ、都市を中心とする行政区画であるキヴィタスないしムニキピウムがそのまま司教区として利用された。古代末期から中世の前半を通じて、世俗の支配者は次々に代わったが、司教と信徒達との関係には何の変化も無かった。特に9世紀から10世紀にかけての政治的混乱期には、司教の権威は益々増大した。東方からのマジャール人の振興と南からのイスラム勢力の拡大に直面した人々は、自分達の安全と資産を守るために司教の周りに結集する事になった。司教は単に精神的な指導者であるに留まらず、実質的に都市の秩序を維持する中心的な存在となったのである。