2010年2月3日水曜日

成長と飽和3

「集村化と共同体」:農民の住まい方から見ると、ローマ世界は散居集落、若しくは小村集落が一般的であった。散居集落とは個別の屋敷が分散し、それぞれの うちに取り巻かれているものをいい,小村集落とは20軒以下の家屋、屋敷地の緩やかなまとまりを言う。ゲルマン人地域でも中世初期には小村集落が一般的 だったといわれる。しかし900年から1200年の間に、西欧の大部分では、20軒以上の家屋、屋敷地が密集した塊状集落が支配的となった。ただし、この 集村の形状及び形成過程については、ヨーロッパ南部と北西部、中部では一定の相違が見られる。
集村化の原因についてはいろいろな意見があるが、最も根本的と考えられるのは、次のようなものである。先ず防衛の必要から、幾つかの小村集落、散居集落が統合される傾向があったと思われる。また牧畜の後退と農耕の発展により、一世帯に必要とされる農地面積が以前よりも小さくなれば、それはより多数の屋敷が密集する事を可能とする。更に、当時の農業技術革新の中で、生産性を高めるための強力や共同作業の役割が増大したためとも見られる。 11世紀以降、集村化地域は言うに及ばず、散居集落地域でも住民の共同体的な活動が活発になってくる。これをもたらした要因の一つは、農村部での小教区の網の目が密になって行ったことである。聖堂がたち、共同墓(7)地が整備されると、これらは住民の精神的連帯の核となった。もう一つの要因は、大陸では裁判領主制に求められる。領域的な支配に対抗して被支配者側でも領域的連帯が形成されたと見られるからである。住民共同体は聖堂の維持、土木事業、共有財産の管理、祭礼などを行なうと共に、領主から裁判や徴税において一定の業務を委ねられ、またその事によって領主権を制限した。 12,13世紀の多くの農村共同体においては、住民の領主への負担を明文の法によって制限し、また彼らに行政への参加を一定程度保証する事が行われるようになる。これは実際にはそれまでの暗黙の慣行の確認であろう。しかしそれが明確な法の形を取ったとき、その共同体成員はより「自由」になると観念されたのである。
領主は多数の住民を領内に居住せしめる事の利益を考え、こうした「自由」特権を付与する事に踏み切ったといえよう。北東フランス、ロレーヌ地方では、これは慣習法特許状の付与という形を取った。…ドイツでは村の裁判集会で領主と住民が「村法」を確認しあうと言う形で、住民の権利が確定して行った。ただし地中海沿岸部では、この種の権利の確認は低調で、せいぜい共同体の執行機関の存在が認められるに過ぎない。…