2010年2月3日水曜日

成長と飽和12

八。正統と異端   ・12世紀前半までの異端: キリスト教には古代から正統と異端の争いがあった。中世前期の異端問題は、主として教義解釈を巡る神学者の論争に関わる「学者的異端」であり、このような問題は11世紀以降も幾つか知られている。しかし11世紀からは新たに民衆的異端運動の問題が生じてきた。教会当局は民衆的宗教運動のある部分を自らのうちに取り込みながら、別の部分を異端として過酷な弾圧を加えたのである。 11世紀前半にはフランスとイタリアを中心に幾つかの異端の出現が報告されている。それらの多くは結婚や肉食を拒むなど強い禁欲主義傾向を持ち、またカトリック教会の司牧の意義を否定した。… 11世紀後半には異端運動は知られていないが、12世紀の前半に[現れた]異端諸派は様々な教説を奉じていたが、その勢力拡大の背景としては、グレゴリウス改革の刺激によって俗人信徒の中に使徒的生活への希求が広がってきた事があげられる。
即ち、福音書においてはイエスがその使徒たちに清貧の内に世界に伝道を行う事を命じており、これに従う事がキリスト教徒にふさ(32)わしい生き方であるとする理念が力を得始めたのである。実際これらの集団は11世紀の異端に比べてはるかに大規模であり、それぞれの立場から教会の現状を激しく非難した。 ・カタリ派: 12世紀後半における最大の異端集団はカタリ派である。この異端は北イタリア、南フランスを中心に西欧全域に広がっていた。彼等の教説はバルカン半島に勢力を伸ばしていたボゴミール派のそれを継受したものであって、善悪二元論の立場に立つ。それによれば現世と人間の肉体の創造者はサタンである。人間の霊は天国から堕ちた天使であって、肉体の牢獄の中に閉じ込められており、肉体の死によって輪廻転生を繰り返す。この輪廻を断ち切り、霊が天国の神の下に戻る事が救済であり、これは真の教会であるカタリ派の教会に属する事によってのみ可能となる。これに対しカトリック教会はサタンの教会であり、これに従ってはならない。 真の教会に帰属する「完徳者」には性行為や肉食を忌避し、人間、動物を問わず殺生を行わず、一切の権力の放棄と徹底した清貧に生きる事が要請される。カタリ派教団においては、こうした少数の完徳者を多数の「帰依者」が取り巻いている。彼等はいわば入信予約者であり、死の床で完徳者に転換する事になって居るが、そのときまでの生活においては守るべき戒律を何らもっていないのである。 このような異端の拡大の背景としては、貨幣経済の発展によって使徒的生活の理念と現実社会との緊張が愈々高まってきた事が挙げられる。

そのような状況において完徳者たちの禁欲的生き方と知的水準の高さが、カトリック教会一般の状況との対比において、広範な人々の共感を獲得したといえよう。しかし南フランスの領主層が大量に帰依した理由としては、所領支配を巡るカトリック教会との対抗関係も無視できない。 カトリック教会は異端者たちの説得に失敗し、教皇特使の殺害事件を契機に1209年から南フランスにアルヴィ(33)ジョワ十字軍を送り込んだ。これは現実には北フランスの戦士たちによる地中海沿岸地域の征服に他ならず、征服の成果は最終的にカペー王権の手に帰した。十字軍終結後、カトリック教会は異端審問制度によりカタリ派の根絶に乗り出した。南フランスでは13世紀半ばで公然たる抵抗は消滅したものの、地下活動は14世紀初めまで続いており、イタリアでは15世紀初めまで存続していた。 ・ワルドー派とフミリアーティー: リヨンの富裕な商人であったピエール・ワルドーは回心し、知人に聖書、教父著作を翻訳して貰って暗記した。彼は1173年ごろ全財産を蜂起し、托鉢しながら説教者として生きる事を決意した。彼の下に集まったものは「リヨンの貧者達」と呼ばれた。教会は1184年には彼らを異端と断定しており、後には彼らのほうでも一部のカトリック教義を否定するに至った。この宗派は12-13世紀初めに、フランス、ドイツ、イタリアに拡大したが、創始者の死後、各地域の組織間の結合は緩んだ。13世紀にはドイツ人の東方植民にともない、東欧にも拡大した。信徒は庶民が中心で、目立たない形で先祖伝来の 教えを守って生きていた。彼等の一部は激しい異端審問をかいくぐって近代にまで存続している。 俗人による使徒的清貧の運動としては、ワルドー派のほかに北イタリアのフミリアーティの集団が挙げられる。彼等は自らの労働によって質素な生活を送りながら、集会や説教を行なっていた。

当初ワルドー派と共に異端とされたが、インノケンティウス3世は彼らを正統と認め教会に復帰させた。 ・フランシスコ会とドミニコ会: 使徒的清貧の運動の中から新しいタイプの修道会も生まれてきた。このうちフランシスコ会はアッシジの聖フ(34)ランシスコによって創始された。彼は1182年に商人の子として生まれ、青年時代に傭兵生活を送った事もあったが、やがて回心し,隠修士になった後、托鉢説教の道に入る。集まった仲間に対しマタイ伝19章21節を守るべき戒律として示し、一切の財産を持たないことを旨とした。しかし教会制度には極めて従順であり、インノケンティウス3世に説教者団体としての認可を求めた。1210年の認可後には、彼の団体橋と敵清貧運動の相当部分を吸収して急速に拡大した。これは1223年に修道会「小さき兄弟会」(通称フランシスコ会)に昇格する。修道女のためには「クララ会」、在俗信徒のためには「第三会」が設けられた。 またドメニコ会はイベリアのオスマの聖堂参事会員であったグスマンの聖ドミニコによって創設された。彼は1206年ごろ上司である司教ディエゴとともに南フランスに入り、カタリ派と論戦して改宗者を得た。この敬虔から、異端者を説得するためには、自ら清貧に徹する事が必要であると考えるようになった。1216年にホノリウス3世により、彼を中心とする托鉢修道会「説教者修道会」(通称ドメニコ会)が認可された。この修道会では、修道士たちは異端に対抗しうるように学識を深める事も強く求められた。ここから13世紀にはトマス・アクィナスを初め錚々たる学者を輩出する事になる。全体として使徒的清貧の運動は都市的なものであったから、これらの托鉢修道会も都市に拠点を置いて活動する事になった。
・13世紀の異端運動: 都市民の中には使徒的清貧運動への志向が持続していた。…フランシスコ会では無所有原則を字義通りに実践する事を求める心霊派が生まれて主流派と抗争していたし、ドミニコ会では神秘主義的な神人合一説を唱える者が現れた。他方で13世紀初めに生きたカラブリアのシトー会修道院長フィオレのヨアキムは、世界史の新しい段階である「聖霊の時代」の到来を予言して、終末論思想を提供した。これらの諸要素が結びついて、13,14世紀の異端運動が展開した。