2010年2月3日水曜日

中世都市の成立2

 「2.コムーネの成立」
 教会は精神的な権威の中心であるだけでなく、その堅固な建築によって秩序と安定を象徴する。そしてまた、信徒の大小様々な寄進や託身によって、多くの資産と臣下を有する組織となっていた。10世紀から11世紀にかけて、北中部イタリアの各地で伯や侯のような称号を有する伝統的な権力者の家が没落し、司教や司教領の土地を受封している封建臣下の勢力が増大していく傾向が認められる。都市においても、司教は事実上その代表者となっていた。904年、イタリア王ベレンガーリオ1世は、ベルガモの司教に市壁の債権を認める特権状を与え、司教と住民が協力して都市防衛の責任を負うべきことを命じている。945年に国王ロターリオはマントヴァ司教がかねてから行使(131)していた貨幣鋳造権を再確認し、この銀貨がマントヴァ、ヴェローナ、ブレーシャの3都市で流通する事を認めた。銀貨の品位は、この3都市の住民集会conventus civiumが決定するべきものであった。このような例は他に幾つも挙げる事が出来るが、コムーネ(自治都市)の発展にとって見逃せないのは、司教権力の背後で都市住民の発言力が次第に増大しつつあったという事である。 「コムーネ」や「コンスル」(市民の代表)のごとき用語が資料に現れるのは11世紀末から12世紀初頭の事であるが、それ以前から事実上の市民団体が存在した事はほぼ確実である。…1081年にハインリヒ4世がピサの市民に与えた特許状は、「都市の全体集会」の存在について述べて居るが、それによると、市民は鐘の音で集合し、都市全体を代表する12名を選出する事になっていた。この12名の機能権限は分からないが、既に一種の都市機関が成立していたことは確かである。… 1090年代のピサは、党派の対立抗争によって極めて混乱した情況にあった。殺人、暴力行為、強盗事件などが横行し、秩序は全く無視されたと当時の資料は伝えて居る。この状態を解決するためにピサの全ての住民が集まってやはり都市の全体集会を開催し、全員一致で司教に全権を委ねる事を決定した。
司教はこれに応えて、都市の利益のために力を合わせ、平和と秩序を守るように呼びかけた。…ここには司教と都市住民との協力関係が示されているが、これまでの資料とは違ってリーダーシップをとって居るのは市民の側である。都市の危機的な状況に直面して市民達は団結し、伝統的な権威である司教を前面に押し立てて(132)危機の回避を図ったのであった。…危機に際して都市の住民が(実際は有力市民達が)うって一丸となって結集する、おそらくここにコムーネの本来の意味があるのではないだろうか。 コムーネの成立についてはジェノヴァの例が比較的よく知られている。ここでも11世紀の都市は、党派の対立による混乱の中にあった。特にこの頃急速に拡大していた教会改革運動の影響は、司教の選任を巡って深刻な対立を市民の間に残していた。しかし、ライヴァルであるピサとの商業的・政治的競争に打ち勝って発展するためにはどうしても都市内部の平和を達成しなければならなかった。1100年にいたって、十字軍に対する支援部隊の派遣が決められたとき、平和を実現するために都市の地区団体を統合して共通の団体を作る事になった。この団体の存続期限ははじめ3年とされ、コンスルが代表として全体を統括した。コンスルが職務の履行を誓約し、メンバーはコンスルに対して誓約を行なった。最初の期限が満了した後もこの団体は存続し、四年目ごとに更新を続けながら都市貴族の中からコンスル(コンソレ)が選出されて12世紀中葉にまでいたって居る。コンスルが誓約を行う際の書式集が今日まで残っていて、以上のような事情が分かるのであるが、この書式集こそ、やがてコムーネの法が編纂される際の中心になっていくのである。危機に際して結成される一時的平和団体がやがてコムーネとして恒常的な都市団体に上昇していく過程がここからうかがわれるのである。
既に見たように、イタリアの都市は中世初期の混乱期にも商業活動の中心としての機能を維持していると共に、行政の中心となっていた。ニコラ・オットカールは次のように述べている。 ・・・アルプス以北の諸国と違って、イタリアの生活は都市と農村の間の障壁を知らない。逆に、両者を絶えず混和させ、相互に干渉しあうものとする。周辺農村地域(コンタード)の土地所有者や封建領主たちは都市内で生活し、しばしば都市(134)の経済活動にも参加する。逆に、もっとも厳密な意味での市民的(ボルゲーゼ)要素も、少なくとも最も富裕で有力なものは、コンタードに足場を持っており、そこに資産を所有し、或いは封建的なものをも含めて様々な名目の元に土地や権利を保持している。・したがって、農村における諸々の利害と関係は、それらの集中と体系化の中心をなして居る都市の生命にかかわる重要部分である。中心部と周辺部との決して破壊されることの無い統一、分離と孤立化の欠如は、イタリアのコムーネの歴史における最初からの条件である。・・・ つまり、コムーネの成立に積極的な役割を果たしたのは商人的な市民だけではない。周辺の土地所有者層も都市に密接な利害関係を持っており、有力なメンバーとしてコムーネに参加したのである。 このような領域国家としてのコムーネの発展にとって重要であったのが「コンタード」と言う概念である。Contadoとはラテン語のComitatusのイタリア語化したもので、Comesつまり伯の支配領域を意味する。地方行政の長官として伯をおくことは、カロリング家によってイタリアに持ち込まれたものであるが、その際都市に伯が居住した事は既に述べたとおりである。そして、伯の支配領域は、同じ都市に座を持って居る司教の管轄区(司教区)に一致するものと考えられていた。
さて、司教座都市にコムーネが成立し、都市の支配権を握るだけでなく、農村地帯へも勢力を拡大していくにつれ、コムーネの世俗的支配権は司教区の全域に及ぶべきものであるという主張が生まれてきた。伯にとって伯領がそうであったように、都市コムーネにとっても司教区の範囲は当然の支配領域であるというものであった。これがコンタードと言う考え方である。12世紀中葉の皇帝フリードリヒ1世バルバロッサと北イタリア諸都市との抗争の時期に、この「コンタード概念」が確立した。フリードリヒはイタリアにおいて失われた皇帝権の回復を目指して6回に及ぶイタリア遠征を行い、北中部イタリアのコムーネが本来国王特権(レガリア)である裁判権、官職の選出権、徴税権、貨幣鋳造権などを「不法に」行使している現状を正そうとした。これに対して都市の側は、有名なロンバルディア都市同盟を結成して(1167年)(135)皇帝に対抗した。このロンバルディア同盟とすぐ続いてトスカーナで結成されたグエルフィ同盟に参加した諸都市は、それぞれの司教区の範囲を固有の領域として相互に尊重しあうことを約束した。 レニャーノの戦い(1176年)において都市同盟軍によって手痛い敗北を喫したフリードリヒ1世は、結局1186年にコンスタンツにおいて都市同盟と平和を締結し、こうして20年にわたる紛争は漸く収拾される事になった。これまでコムーネが事実上行使してきた諸権利は、若干の制限を受けただけで認められる事になった。コムーネのコンスルは皇帝に忠誠を誓約し、五年ごとに皇帝またはその代理から叙任を受ける義務を負ったのであるが、それも形式的なものとなってしまった。こうして、「不法な」存在であったコムーネはいまや帝国の合法的秩序の中に位置づけられ、公権力を行使する主体として認められた。それは、正にコンタードを固有の領土とする領域国家なのである。 もっとも、都市によって大小があるが小型の県ほどもあるコンタードの全域を中心都市が一円的に支配する事は極めて困難である。
都市は所謂「コンタードの征服」を行い、コンタード周辺部に勢力を張っていた領主層とたたかわねばならなかった。たとえばフィレンツェ都市軍は大領主アルベルティ伯と戦ってこれを破り、1184年に次のような約束をさせている。アルベルティ伯は(1)フィレンツェの都市と周辺部の全ての人間を保護する、(2)その拠点である幾つかの集落の囲壁を破壊する。(3)アルノ川のエルザ川に挟まれた地域の全ての集落と住民をフィレンツェのコンスルに委譲する、(4)毎年、戦時には2ヶ月、平和時には1ヶ月フィレンツェに居住する、などを誓約している。同様な約束は改めて1200年にも行なわれたがその際にはアルベルティ伯はアルノ川とエルザ川の間で徴収した税をフィレンツェに支払う事、フィレンツェの市民からは通行税を徴収しない事を約束している。逆にフィレンツェの側はアルベルティ伯を保護する事になっていた。 このように都市コムーネは、コンタードの領主層を制圧すると、それを吸収し同化していったのである。このような「コンタードの征服」は、恐らく13世紀中にほぼ達成されたと思われる。 しかしコムーネの膨張はこれで止まったわけではなかった。ミラノ、ジェノヴァ、ヴェローナ、フィレンツェな(136)どの有力都市は、更に隣接都市との抗争に勝利を収め、やがて他都市の領域を併呑する事になる。13世紀から14世紀にかけて、北中部イタリアの各地でこのような事態が生じていた。フィレンツェを例にとれば、ピストイア(1331年)、コルトーナ(1332年)、プラート(1351年)、アレッツォ(1384年)というように周囲の中小都市を次々に征服し、その版図を拡大していった。この段階になると、このような大都市の支配領域は単にコンタードの範囲に限定されるものではなく、中小の従属都市やそのコンタードを含む領邦的なものになっていった。中心都市は支配共同体として、司教座のあるような都市から農村のささやかな集落に至る無数の従属的共同体を統括するものとなった。それは、優れて複合的な都市国家であった。このような複雑な領域構成は、やがて支配共同体である中心都市の権力構造に影響を与え、その再編を迫る事になるのである。