2010年2月3日水曜日

ローマの秩序2

三。教会の多様化   ・教会改革運動の広がり: 11世紀以降、西ヨーロッパの教会には様々な形で、改革・革新が見られた。…西ヨーロッパ社会にも再び商業、都市生活が復活してきた。教会もまた、時代の要請に応えていく事によって変化するのである。… 当時、聖俗を問わず、キリスト教徒としてあるべき姿を求めて、原始キリスト教にもどろうとする動きがあった。一つの動きは、世俗を捨てて、孤独な清貧生活の中に、自己の完徳と救霊を達成しようとする隠修士的な生活を目指す動きである。…11世紀の北イタリアにおいて、ラヴェンナのロムアルドゥスはフォンテ・アヴェラーナとカマルドリに隠修士のグループを残した。カマルドリでは一定期間のみ教会に集まった。フィレンツェのヨハンネス・グアルベルトゥスは、カマルドリから、さらにきび(62)しい戒律を持つグループをヴァロンブローサに残した。 ・革新的修道会: 当時の修道院は、クリュニーをはじめとして、人々の救済のために荘厳な儀式の中で祈祷を行う事に多くの時間を割き、来客や巡礼者を受け入れたり、寄進された土地を運営したりしていた。人々の代わりに祈る祈祷など、このような活動は、教会人として堕落したものだったわけではない。しかし、壮麗な祭式に重点を置いたその業務のために、清貧にして「祈り働く」ベネディクトゥス快速にのっとった生活をして居るとはいえなかった。このような修道院に対する不満から、隠修士的な生活を求めたり、よりベネディクトゥス会則に厳格であろうとしたりする動きが生じたのである。 
その動きの中で、最も大きく発展したのがシトー会である。1098年、シトー会はブルゴーニュの沼沢地シトーの一修道院に生まれた。シトー会は聖堂、小作地、地代などを受け入れる事を拒否し、隠修士のように荒地に住処を求めた。そこで彼らは、祈祷に当てる時間を最小限に押さえ、みずから労働に携わった。…シトー会は、従来のベネディクト修道士が黒衣をまとったのに対し、白い修道衣をまとい、単にベネディクトゥスへの回帰を目指しただけでなく、新しい修道生活を作り出す事を目指した。そして1121年、教皇インノケンティウス2世によって、最初の正式な修道会として承認された。… ・説教者の動き: 隠修士的名厳しい禁欲生活を求める動きは、他にも新しい修道会を生み出したり修道院の改革を進める事になった。その主導者となったのは、しばしば、孤独な生活をするだけでなく、各地を回って人々に説教をして(64)まわった隠修士たちである。彼らは福音書の精神に従って、自ら贖罪のため苦行と禁欲の日々を実践しており、そのカリスマ性ゆえに人々を魅了した。… もっともこのような隠修士たちは、教皇の許可を得ないままに説教をし、しばしば既存の聖職者を非難したために「孤独な生活は悪魔の誘いを受け易く、放縦になりがちである」として、彼らもまた非難の対象となった。隠修士たちは、一方で聖職者の倫理的な面での改革に清し、人々に福音の教えを広めながら、一方で教階制度を整備していく教会の発展には相容れぬものを持っていた。…カリスマ性を持つ指導者が姿を消すと、このような隠修士によって指導された集団・修道院は力を失い、伝統的なベネディクト修道院内のグループに戻る事になった。 ・聖堂参事会運動: 隠修士的な動きが一面で教会の指導者の非難の的になったのに対し、当時の教会から推奨されたのは、私有財産を捨て共住する事であった。
とりわけ、この共住生活への運動は、聖堂参事会運動として、この時期大いなる盛り上がりを見せた。… 従来、原則的に聖職者は2つに大別された。即ち、教区にあって司牧に当たる在俗聖職者と、ベネディクトゥス会則に従って祈りに捧げる禁欲的生活を送る修道士である。このうち、在俗聖職者は共住生活を送らねばならないわけではなかったが、…誓願を立てないにせよ、共同生活と財産の共有を原則とする聖堂参事会員が生まれていた。 この聖堂参事会員は半ば修道士的であり、律修聖職者とされたが、実際には参事会員の独立生活や私財所有は認められており、その生活には問題が生じていた。ウルバヌス2世は、聖職者の間に修道士的な共同生活が浸透することを奨励したが、聖堂参事会員には修道士とは異なる司牧の使命を認め、修道士と聖堂参事会員を明確に区分した。従来の修道院が免属の問題を巡って司教としばしば対立していたのに加え、新たな修道会は荒野に巨を求め、富のみならず司牧の責任を回避した。そのため、司牧にあたる聖職者の改革は、都市にあって半ば修道士的な生活をしながら、司教の監督権の元にある律修聖職者たる聖堂参事会員に求められたのである。このことは、各地の司教権を強化、安定させる事によって教会の体制を整備する目的を持っていた。…(66)12世紀前半における聖アウグスティヌス修道参事会を初めとする律修聖職者の隆盛振りは、ホノリウス2世からハドリアヌス4世にいたる35年間に登位した教皇7名のうち5名までが、律修聖職者出身であった事からもうかがえる。 ・「多様なれど敵対せず」: 更に、十字軍をきっかけとしてこの時代は新しいタイプとして騎士修道会を生み出した。聖地への巡礼を保護し、十字軍の中核となったテンプル騎士修道会や聖ヨハネ騎士修道会は、騎士たちに「戦いながらキリストに仕える」と言う目標を与えた。


騎士修道会は、聖地で活動するだけでなくヨーロッパにおいても募兵、(67)募金のため、或いは疾病、老齢の騎士を収容するための施設を各地に作り上げた。網の目のようにめぐらされた騎士修道会の組織は、聖俗の諸侯がうらやむ組織力を誇るようになる。このような騎士修道会は、聖地の十字軍活動が衰退した後も、ドイツ、或いはスペインといった辺境地域において活動を続ける事になる。 このように、11世紀後半から12世紀前半の時期は、教会の制度が様々なニーズ、運動の高まりの中で多様化する。12世紀半ばに『教会の中に存在する様々な身分や職業についての書』がかかれたことは、これを象徴的に示して居る。嘗てベネディクト会則のもと一枚岩を誇った修道院にも明確な修道会がとうじょうし、ひとつではなくなった。もっとも厳しい禁欲的、観想的カルトゥジオ会から半俗半修道士的な性格を持ち、参事会改革運動を担ったアウグスティヌス修道参事会まで、更に武器を持って神に奉仕する騎士修道会まで、その活動の場も様々である…。それぞれが固有の使命を持ち全体として調和を持つ「多様なれど、敵対せず」がうたい文句の時代であった。来る13世紀はその多様な性格を統一する力が強く働く時代となるのである。