2010年2月3日水曜日

成長と飽和11

 七。 知的状況と知識人 ・知識人の誕生: J・ルゴフによれば12世紀に「知識人」は、みずみずしさをたたえた、新しい人間として登場する。中世初期以来、学問的活動の中心であった注力修道院は、12世紀には精神的指導力と共に知的活動のエネルギーをも失い、シトー会など新たに誕生した修道会も学問研究よりは禁欲と沈黙・観想の生活に重点を置いていた。
こうした修道院の学僧に替わって、都市の学校で学び、更に研鑽の成果を教授する事を生業とする、知的労働者としての教師達が出現する。彼らこそルゴフの言う「知識人」である。おりしも12世紀には勃興する都市が、周辺世界から様々な人々をひきつけていた。そうした大きな都市における教育の場は…司教座聖堂付属学校、律修参事会付属学校、さらに教会には所属しない「私学校」などであった。学生は学校の名ではなく、学問的名声、より直接的には魅力ある講義にひきつけられて特定の教師の下にイ集し、聖職禄を持たぬ私学校の教師は主として学生の謝礼により生計を立てた。なお、稀少の手写本が財貨の如く扱われたこの時代に、「文筆」は生活の糧とはなりえない。そして学校教育が尚完全に制度化されず、私塾的な活動が可能であったこの時代にこそ、アベラールのごとき傑出した論争家は、聖ベルナールのような神学の権威によって指弾され、迫害されながらも尚教育活動を続ける事が出来たのである。…このようなやや無規律な研究と教育の営みは、やがて都市における諸団体の組織化と軌を一にして、13世紀には教会当局の保護と統制を設けつつも、自立的に自らを大学へと組織化していくであろう。 ・ラテン語古典の復活(28): ハスキンズが「ルネサンス」と表現した12世紀の知的状況は如何なるものであったのか。その特色は第一にラテン語古典の復活であり、ラテン諸作家、特に詩人の作品やその注釈が広く読まれ、文法・修辞が盛んに研究された。…この時代の知的活動は古典語と古典文学の模倣に留まらず、新たな精神の飛翔と視野の拡大を伴っていたl。既にシャルトル学派の中に生まれていた自然賛美ともいうべき新しい自然認識は、従来の宇宙の象徴的解釈に対して、神が自然に与えた法則を吟味し、これを合理的に説明しようと言う学問の基本姿勢を生み出していた。…

・アラビア経由の学問: このような新しい世界観、人間観と自然観は、アラビア語からラテン語に再翻訳されたギリシア古典やアラビア人自身の哲学、自然科学研究の導入と密接に関連する。12世紀ー13世紀前半にかけてイスラムの文書館や学校に保存されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオス、ヒポクラテス、ガレノスの著作のギリシア語、アラビア語写本、さらにはアラビアのフワーリズミーの代数学、アヴィケンナの医学、アヴェロエスのアリストテレス注釈などがシチリアのパレルモやスペインのトレドなどにおいてラテン語に翻訳され、ヨーロッパ知識人の知的(29)地平を一挙に拡大した。こうしたギリシア古典とアラビア科学の刺激による自然科学への強い関心は「12世紀ルネサンス」の特色である。また自然科学や哲学・神学の新たな問題と共に、ハスキンズは「法学の復活」をもこの時代の特色としている。後のローマ法研究の最も重要な拠り所となる『学説彙簒』digestaの注釈によって、ボローニャを西ヨーロッパにおける法学研究の中心地としたのは、12世紀のイルネリウスである。この時代のローマ法学は、今日のような意味での実学ではなかったにせよ、12,13世紀以後、国家、教会、そして都市における法の全体的な整備が進められる中で、法学者や法学の素養を備えた官僚は不可欠の存在となった。この際、教会法と相互密接に関連しながらローマ法が、新しい集権的な法秩序の手段を提供した事は言うまでも無い。
・政治思想・国家論: 他方で12世紀には政治思想や国家論において注目に値する著作は見られなかった。  ・教皇権・大学・知識人:(30) 12世紀後半以後に顕著となる、アラビアからのアリストテレスの著作とアヴェロエスのアリストテレス研究の翻訳・輸入は、哲学における実在論・唯名論を巡るかの普遍論争をあおり、また13世紀には哲学と神学、理性と信仰の不調和を助長した。その中でドメニコ会に属す二人の碩学、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスは、アリストテレスと聖書による信仰を調和させようとしたが、いわゆるラテン・アヴェロエス主義を代表するパリ大学のブラバントのシゲルスは、信仰と理性を矛盾するままに受容する二重真理を説き、異端とされるに至った。更にプラトン主義に依拠した新アウグスティヌス主義者は、双方に対して反アリストテレスの立場から厳しい批判を加えた。いずれにせよ抽象的思弁に耽る伝統的スコラ学に対して、人間の理性を信頼する合理主義的精神の台頭は衰えることなく13世紀末には既に経験主義的な知性が芽吹いていた。 しかし「哲学は神学のはしため」であり、神学は教会当局のドグマと齟齬してはならない。半ば聖職者でありながら教会からの自立性が強かった教師達の学問、教育内容が、公認教説を脅かす可能性を示したとき、教会当局の統制の手が及ぶのは当然の事であった。 …[パリ大学など]教師と学生がギルド的な結合により大学を形成しつつある時期に、教皇が世俗権力や管轄司牧に対して大学に保護と特権を与えると同時に、学内行政から教学内容にまで統制を加えようとしたのは、その証左である。教皇庁はパリ大学を教皇直属下に置き、正統教義の基本問題を判断する知的権威として位置づけようとした。
この点でパリ大学はやや特殊な事例ともいえるが、ボローニャやオクスフォードにおいても教皇の保護が、国王や都市当局からの大学の自立を促した。こうした教皇との結合の強化はしかし、常に知識人の学問的な自由と自立を損なう可能性を持っていた。以後、知的活動の中心となる大学はもはや純粋な学問の牙城たりえず、しばしば聖俗の権威との葛藤に苦しみながらも、他方では中世後期に進捗する教会、(31)国家の顕著な集権化と組織化において重要な知的・人的資源を提供する事になるであろう。このような権力に奉仕する大学のあり方は、14,15世紀のドイツにおいて領邦君主の設置した諸大学に端的に示されている。