2009年4月21日火曜日

古代神学 1

「古代神学」という語で私がさすのは、成立年代を誤って想定されたテクストに基づくキリスト教護教神学の伝統である。初期の教父の多く、とりわけラクタンティウス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスは、異教の哲学者に対抗して著した護教論の中で、極めて古い時代に遡ると考えられていたテクストを利用した。即ち、「ヘルメス文書」「オルペウス教文書」、「シビュラの託宣」、ピュタゴラスの『黄金の歌』などがそれだが、実のところ、これらは紀元1-4世紀に書かれたものである。ヘルメス・トリスメギストス、オルペウス、ピュタゴラスのような「古代神学者」によって書かれたこれらのテクストは、一神論、三位一体、「言葉」による無からの世界創造といった真の宗教の痕跡を蔵しているとされた。プラトンがその著作中に見られる宗教的真理を取ったのもこうしたテクストからであると考えられた。ユダヤ教=キリスト教の啓示の特異さを損なわないために、この異教の「古代神学」はモーセに由来すると主張するのが通例だった。しかし時として、それはより以前の時代、ノアと二人の善良な息子セムとヤペテ、あるいはエノクのような大洪水前の太祖、更にはアダムにまで遡ると考えられる事もあった。後期新プラトン主義者もやはりこの種のテクスト、とりわけ「オルペウス教文書」から引用し、新しく『カルデア人の神託』をそこに加えた。この神託集は後に、ゲミストス・プレトンによってゾロアスターの作とされたため、ゾロ(8)アスターも「古代神学者」の仲間入りをする事になった。 教父が相手にしていたのは生身の異教徒であり、その努力は、同じ人間が新プラトン主義者とキリスト教徒の両方になれることを示して彼らを回収させようとするか、最高の哲学者達が英知を「選ばれた民」から盗んだと言う事を証明してキリスト教を哲学者の攻撃から守ろうとするかのいずれかに向けられた。それゆえ、教父の「古代神学者」への態度は、キリスト教の真理を証する者としての彼らへの称賛と、卑劣な偶像崇拝者としての彼らへのかなり苛烈な非難との両極を揺れ動いていた。 ルネサンスに「古代神学」が復活したときには、勿論もはや異教哲学者は生きていなかったし、フィチーノからカドワースにいたるプラトン主義神学者は依然としてしばしば護教論的枠組みを用いていたとはいえ、その主要な動機は、自分達の宗教的・哲学的信条が一致するようにプラトン主義・新プラトン主義をキリスト教に統合することにあった。そうしたわけで、教父に較べると、彼らは概して「古代神学者」に対して好意的な姿勢をとったが、それでも尚そこには教父たちの両義的な態度が姿を見せている。こうして、暫くの間、「神のごときプラトン」、このオルペウスとヘルメス・トリスメギストスとモーセの弟子が、いける宗教的活力の源となった。カトリックとプロテスタント双方の正統派教徒は、プラトンをキリスト教化するのではなくキリスト教をプラトン主義化してしまう危険に対して警告を発したが、これには最もな理由があった。ルネサンスにおいては、この神学=哲学的伝統は通例、殆どが既にその源泉に現れている、他の様々な信仰や観念を伴っていた。即ち、善き自然魔術と占星術、数秘学、強力な音楽、愛国的な国民史、深遠な心理は寓話や寓意に包まれていなければならないと言う信念、そして、これらと組み合わされた聖書予型論である。ルネサンスのシンクレティストは、様々な哲学流派や宗教の間に相違点では無く類似性を見出そうと心を砕いていたので、キリスト教の諸宗派に対しても、またキリスト教以前及び異国の善き(9)異教徒に対しても、寛容でリベラルな態度を取る傾向があった。 「古代神学」の伝統が含んでいる魔術的要素は、ルネサンスにおいて最大級の重要性を持っていた。……魔術と宗教、降神術と神学の境界線は曖昧なものであるし、両者は重なり合い、相互に影響するのである。……「古代神学」を受け入れるか拒絶するかは、しばしばそれに相伴う魔術的伝統の魅力或いは危険によって大いに決定付けられた。エラスムス主義者のカトリック教徒やカルヴァン派のプロテスタント教徒は、キリスト教から魔術的要素を排除しようとしていたために、「古代神学者」を拒絶しようとする強い傾向があった。「古代神学者」の多くは同時に「古代魔術師」でもあったからである。 「古代神学」がルネサンスにおいて帯びていた意味は、キリスト教と異教哲学、特にプラトン主義、新プラトン主義、ストア派の長い調和・対立・妥協の歴史を背景にする事で最も明瞭になる。……

 キリスト教の教理とある種の異教哲学・宗教の間にはかなりの類似性があり、その為に両者を決定した(10)形でうまく統合する事の可能な思考の領域が存在する。そのほかにも、二つが真っ向から対立する領域があり、また対立が避けられないか言い逃れや妥協によって始めて回避できる領域がある。まず類似点から見ることにしよう。 最初に想起しなければならないのは、キリスト教が新プラトン主義とストア派を優勢な哲学とするヘレニズム世界に誕生し、成長したという事である。この事実を示す証左は既に新約聖書に見ることが出来る。「ヨハネによる福音書」の「ロゴス」は、旧約聖書および外典の知恵文学に遡り、どちらもストア派の宇宙に内在する神的「ロゴス」とプラトンの創造する「知性(ヌース)」に明確な関連を持っている。聖パウロはアテナイで、ストア派詩人アラトスから引用した。   :「我々は神の中に生き、動き、存在する」、また、あなた方のある詩人たちも言ったように、「我々もその子孫である」と。:   これは異教文学をキリスト教のために利用する事を正当化するときに絶えず使われたテクストであった。 次の数世紀に、キリスト教の伝統はますますこうしたヘレニズムの、とりわけプラトン主義的要素を取り入れていった。異教哲学者に対してキリスト教を擁護していた教父は、自分達の教理を展開するのに論敵の用語と思考の枠組みを援用する傾向があったので、たとえばオリゲネスが行なったように、部分的にプラトン主義化されたキリスト教を生み出した。聖アウグスティヌスのマニ教からキリスト教への改宗は、『告白』での述懐によれば、プラトン主義者の書物を読んだ事が一つの原因だったと言う。アウグスティヌスはここに、「言葉は肉となれり」という章句を除いた「ヨハネによる福音書」の冒頭、そして悪の否定的観念を見出したと言うのである。『神の国』では、プラトン主義とキリスト教の親縁性を認めている。   (11):されば、至高にして真なる神について、これが被造物の創造者であり、知識の光、行為の養分である事、この神によって自然の始原、学識の真理、生の幸福が我々の下にあることを信じた哲学者達を、よりふさわしくプラトン主義者と呼ぶにせよ、何か別の学派の名を冠するにせよ‥‥彼ら全てを、我々は他の者たちよりも重んじ、彼らが我々により近しいものであることを認める。:   しかし、異教哲学に対するアウグスティヌスの態度がいつでもこれほど好意的でなかったことは、後に見るとおりである。 「古代神学」以外にも、誤った年代を想定された他のテクストや偽書がキリスト教にきわめて重要な影響を及ぼした。プラトン主義=新プラトン主義とキリスト教神学の統合を大いに促進したのが、ディオニュシオス・アレオパギテスの作とされた、プロクロスと『パルメニデス』に基づいて紀元6世紀に成立した文書である。この文書は聖パウロがアテナイで改宗させたディオニュシオスの手になるものと考えられたために、殆ど正典に等しい地位を獲得し、ルネサンス期に入っても暫くこの地位を保ち続けた。ストア派からの影響を助けたのは、聖パウロとセネカの間で交わされたと言う捏造された往復書簡であって、このために、セネカは4世紀から15世紀に至るまで「隠れキリスト教徒」となった。しかし、エラスムスがこのばかげた捏造を徹底的に暴き立てた後、16世紀以降その影響力は取るに足らないものになった。 ルネサンスのシンクレティズムがキリスト教徒の教理とプラトン、新プラトン主義者、そしてセネカのような後期ストア派哲学者との間に見出した類似点は、次の2種類に分ける事が出来る。一つは今日でも客観的に見て真正のものと認めることの出来るものであり、いまひとつは、どう贔屓目に考えても疑わしいと言わざ(12)るを得ないものである。 第一の分類のうち最も重要なのは、一神論である。プラトンには唯一至高の神がある。この「一」にして「善」なる存在は、ユダヤ教=キリスト教の人格を備えた父なる神からはかけ離れた存在だが、偽ディオニュシオスがキリスト教の伝統に全く超越的な神を導入していた事を思い起こしておこう。更に、ソクラテスの最後の言葉が多神教信仰を含意しているという面倒な事実がある。しかし、後に見るように、これをうまく説明する方法は幾つもあった。新プラトン主義者達は、古代の神々を一神論と調和させるために、神々が「一者」からの位階を為す流出物であるという形而上学的解釈を案出した。 霊魂の不滅と、永遠の刑罰を含む応報の待つ死後の生は、『パイドン』や他の幾つかのプラトンの対話編で強力に打ち出されている。もっとも、『ソクラテスの弁明』ではこの問題に解答は与えられていない。その一方で、プラトンの霊魂論は前世と輪廻転生を含んでいる。 倫理について言えば、プラトンの禁欲主義、霊魂に比較しての完全な肉体蔑視、性行為に対する厳格な考え方は、キリスト教の主要な傾向とよく一致する。ストア派の、霊魂の外部にある全てのものへの無関心と不動心(アタラクシア)の理想、即ち霊魂によってあらゆる情念、快楽、苦痛を完全に統御する事は聖パウロの教えのある面……に類似している。 疑義のある類似点のうち、最も明白な二つは、三位一体論及び無からの世界創造と終末論である。新プラトン主義の三原理と三位一体論の間に歴史的関連があった事は、かなり蓋然性が高い。また、キリスト教出現以後に活動した新プラトン主義者達に関して言うなら、影響は相互的なものであったかもしれない。しかしながら、プラトンについてはこの関連はより疑わしく、主として、偽作の「第2書簡」が根拠となっている。…… (13)断然重要なのが多神論であった。如何に巧みに哲学者の形而上学的一神論を擁護したところで、彼らが多神教を信仰していた事、そしてキリスト要を是認する事も出来たはずの新プラトン主義者達がそうしなかった事は、事実なのである。 キリスト教は、それが異端の一つであるユダヤ教に似て排他的な宗教であり、この点で異教の多神論と鋭い対照をなしている。初期キリスト教時代のローマでは、土着と外来双方の多種多様な宗教が共存していた。伝統的なローマの神々に並んで、キュベレのような中東起源、イシスのようなエジプト起源の祭儀が行なわれていたのである。同一人物がこれら全てに参加し、その上、神格化された皇帝を崇拝する事さえあった。ところが、キリスト教徒には唯一の神があり、唯一の礼拝方法がある。他の祭儀は全て罪深い偶像崇拝とされたのである。異教徒はこのほかに、エレウシスやオルペウス教のような密儀宗教に参入する事もできた。これらは参加者の数を制限すると言う意味では排他的だったが、信徒が公的宗教を信仰する事を妨げはしなかった。密儀宗教はその信徒に幸福な来世を約束したので、キリスト教にとっては強敵となった。しかしキリスト教が独特だったのは、信者には永遠の至福を約束すると同時に、教会に属さない全ての人間を永遠の刑罰で脅かしたと言う点なのである。 こうしたわけで、異教の神々と妥協点を見出す事は、初期キリスト教徒には不可能であった。多神教はただ単に誤った宗教であるばかりでなく、全く邪悪な、文字通り悪魔的なものとされたのである。教父の用いた典型的なエウヘメロス説は、異教神の名は彫像を立てられた名高い支配者や発明家の名前に過ぎず、こうした人間には人々の崇拝を求める奸智に長けた悪霊が取り付いていたというものであった。
III (17)1462年にコジモ・デ・メディチはフィチーノに伝存するプラトンの全著作を含む写本を与え、ラテン語に翻訳するよう命じた。しかしその前に、プラトンの主要な典拠(とされた)『ヘルメス選集』の翻訳が命ぜられた。フィチーノはこれを果たし、それからプラトンに取り掛かった。フィチーノ訳のプラトンは彼自身の注解を付して1484年に上梓され、16世紀における定本となった。1490年には、やはり注解つきのプロティノスのラテン語訳が現れた(公刊は1492年)。フィチーノはまた、ポルピュリオス、イタンブリコス、プロクロスといった後期新プラトン主義者の、主として魔術的な著作をいくつか翻訳した。フィチーノ自身の主著は、『キリスト教について』(1474)、『プラトン神学』(1476)、『三重の生について』(1489)である。 これらは全体としてプラトンの一解釈を構成しており、かなり忠実なプラトンの翻訳を含んでいるものの、現代のプラトン観とは極めて異なった解釈を示している。ルネサンスのプラトン主義と我々のプラトン観との最大の差異は、フィチーノやその追随者にとって、プラトンがまず宗教的著述家と考えられていた事にある。プラトンをこのように考えることが出来たのには、二つの理由があった。第一に、プラトンの対話編には、例えば『饗宴』のソクラテスの演説のように宗教観を表明したり、『ティマイオス』の世界創造や『パイドロス』の様々な善き狂気のように宗教と密接な関連のある事柄を論じたり、『国家』の「洞窟」の比ゆのように宗教的意義を用意に付与できる神話を物語ったり、『パルメニデス』のように宗教的に解釈する事の容易な、高度に抽象的な言葉を用いている箇所が多数ある。プラトンが自らの思想を表現するのにしばしば採用した神話や詩的言語は、多様かつ巧妙な解釈を容認している。プラトンには、聖パウロや新プラトン主義者と同様に、柔軟で豊かな多様性を備えた長い伝統の基礎となるべきテクスト群には不(18)可欠の曖昧さが十分にあるのである。 第二に、ルネサンスのプラトン主義者がプラトンの正しい解釈を示していると考えた新プラトン主義者の生きた紀元3-5世紀は、古代世界の全体にわたって、密儀宗教、占星術、魔術への関心と信仰が大幅に増大した時代であった。キリスト教、グノーシス派、マニ教、ヘルメス主義、オルペウス教、新ピュタゴラス派といった多種多様な宗教が互いに混ざりあっていた。これらの諸宗教においては、占星術・魔術的実践、神学ではなく降神術、理性と思考よりも寧ろ行為と祭儀に重点が置かれる傾向があった。新プラトン主義者達はますますこの宗教的・魔術的世界、ルキアノスとアプレイウスの『黄金のロバ』の世界へ引き込まれていった。プロティノスは依然として、まず我々の言う意味での哲学者であった。とはいえ、魔術を非難したのは事実だが、プロティノスがその効力を信じていた事は明らかであり、フィチーノがオルペウス教魔術を行なううえでの出発点の一つがプロティノスだった。彼の弟子ポルピュリオスは、神霊を呼び出したり太陽と火の祭儀を行なうための指示を記した、後代にゾロアスターの作とされた神秘的なギリシア語の韻文『カルデア人の神託』の注釈を書いた。イアンブリコスもやはり同じ書物に注釈を施し、フィチーノが翻訳した著作『秘儀について』では、神を知るために、降神術を行なう事が他の理性的・知性的な方法に優る事を主張した。背教者ユリアヌスは、新プラトン主義哲学に帰依し異教を復活させると降神術の強力な庇護者となって、とりわけ太陽神に祈りを捧げた。プロクロスは依然哲学者であり、ユークリッドの良い注釈を書いたが、他方で、特に降雨の術に優れた偉大な魔術師でもあった。…… こうしたフィルターを通してみたとき、ルネサンスの思想家にとってのプラトン主義が、論理学と自然学(19)の広大な領域でアリストテレス主義が主張できたように、世俗的で宗教的に中立の、無害な自然哲学という地位を主張するのは到底不可能だった事が理解できる。プラトン主義は神学と降神術を伝授するものであった。キリスト教に敵対する宗教になるのでなければ、両者はどうにかして融合する必要があったのである。 降神術、宗教的・魔術的儀式は、フィチーノらによる復活の試みがなされたものの、正統的にはキリスト教と両立させる事ができなかった。しかしプラトン神学はその大部分をキリスト教神学に組み込む事が可能だった……。統合が成功した大きな原因は、プラトンの背後にモーセと「古代神学者」たちが経っているという誤った信念にあったのである。…… フィチーノは勿論孤立してはいなかったし、実際、自らが中世のプラトン主義者の伝統を受け継いでいる事を自覚していた。しかしながら、ここでフィチーノを出発点に選ぶのは、便利なだけでなく正統な選択でもある。なぜなら、ルネサンスのプラトン主義は確かに中世に源泉をもっていたが、それまでにない全く新しい可能性を齎したのだった。即ち、伝存するプラトンの全著作、プロティノスの全著作、後期新プラトン主義者の著作の多く、『ヘルメス撰集』そして「古代神学」の豊かな宝庫であるエウセビオスやアレクサンドリアのクレメンスのようなギリシア教父が、初めてラテン語で読めるようになったのである。だが、ルネサンスの枠内で、このシンクレティズム的プラトン主義の萌芽をフィチーノよりも更に以前に遡らせる事もできるだろう。 クリステラーは、フィチーノがゾロアスターからプラトンに至る「古代神学者」の系譜の発想を得たのはゲミストス・プレトンからだったと示唆している。……こうした仮説に対して想起すべき事は、フィチーノがエウセビ(20)オス、プロクロス、更にはアウグスティヌスといった著述家を読み始めたならば、早晩「古代神学」に関する一般理論を思いついただろう、という事である。……しかしながら……プレトンの反キリスト教的態度にもかかわらず、フィチーノは公刊した著作の中で、プラトンを復活させようと言うコジモの計画がプレトンからの影響によるものだったと書いているし、枢機卿ベッサリオンも、どうやらこのプラトンの再来に対する賞賛の念を変えることがなかったのである。 ベッサリオンは、当然フィチーノが用いたもう一つの典拠と考えられるであろうが、しかしフィチーノは1469年にベッサリオンから『プラトンの中傷者に応える』を送られるまでこの書物を読んでいなかったらしいという事実がある。とはいえ、ベッサリオンはやはり、プラトンと「古代神学」のキリスト教的解釈の重要な出発点の一つである。トラペズスのゲオルギオスの『哲学者アリストテレスとプラトンを比較考量す』への反論として書かれたこのプラトン擁護の書では、プラトンがオルペウスの弟子だったと述べてはいるが、ベッサリオンは概してプラトン以前の神学者をさほど論じていない。しかしエジプト滞在中のプラトンがモーセの著作から多くを学び取った事が主張されている。ベッサリオンは更に、プラトンはソクラテスの死を教訓として、自分の本当の宗教的見解を明確に公表する事を控えた、と言う偽ユスティノスの説を援用しており、プラトンと新プラトン主義者の3原理と三位一体論との類似点及び差異を細部にわたって見事に論じている。これらは全て、……シンクレティストに典型的な、一貫した主題である。
IV. オルペウス、ヘルメス・トリスメギストスについて   :「オルペウス教文書」は三つのグループに分けられる。(1)古代作家、とりわけプロクロスや、偽ユスティノス(『異教徒への勧告』の著者)、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスのようなギリシア教父に散在する韻文の断片。これらの年代はまちまちであり、一部は恐らくプラトン以前に遡るが、かなり明白なキリスト教=ユダヤ教徒による偽作も含んでいる。(2)賛歌。現在ではこれらは通例紀元2-3世紀の者とされ、古代作家による引用は無い。内容は取り立ててオルペウス教的ではなく、現代の学者の諸説では、なんらかの宗教の信徒が実際に歌った賛歌とされている。ヘレニズム時代の他の賛歌同様、大部分が形容辞を連ねたものである。(3)『アルゴナウティカ』。これは紀元4世紀末の、概ねロドスのアポロニオスの『アルゴナウティカ』に依拠する詩である。   そもそも[(1)の]断片集はキリスト教的=プラトン主義的解釈をする事が容易だった為に、教父や新プラトン主義者に選ばれ、引用されたの(22)であった。「賛歌集」はキリスト教=プラトン主義が用いるにはあまり適していないが、具体的な内容を欠いているので、巧妙なプロクロス風の解釈には公的だった。フィチーノによる『自然賛歌』の注釈はこれを良く示す例である。『アルゴナウティカ』の重要性は、主に、オルペウスが短い宇宙創成譚を歌う詩句と、エジプトを訪れた事があるという言及にある。 これらのテクストはいずれも、15世紀まで西欧には知られなかった。トラペズスのゲオルギオスがエウセビオスの『福音への準備』をラテン語訳(印刷本は1470年刊)してから、(1)の主要なオルペウス断片が容易に手に入るようになった。「賛歌集」と『アルゴナウティカ』は1500年まで交換されなかったが、前者はフィチーノの手で1462年に翻訳されており、彼の著作の中でしばしば言及されている。 以上の作品の成立年代とオルペウスとの関係について言えば、ルネサンスの学者は、オルペウス詩篇の多くが実に様々な時代にかかれたことを知っていたし、事典『スイダス』から、数人の異なる作者がオルペウスの名で書いたことを知っていた。……レオナルド・ブルーニは1420年ごろ、ジャン・フランチェスコ・ピコは1496年に、オルペウスが「オルペウス教文書」の作者である事、またそもそもオルペウスが実在した事を否定したアリストテレスの文言を引用しさえしている。しかしながら、こうした問題は少なくとも(1)のテクスト群に関する限りさほど論議の対象にはならなかった。オルペウスをよく利用しているシンクレティストたちは、「オルペウス教文書」が全てオルペウスその人の手になるものではないとしても、極めて古い宗教的伝統に連なる真正の聖典であると考えていたのである。 「ヘルメス文書」は2種類に分けられる。まず、『アスクレピオス』(または『神的意思について』)。これはアプレイウスによるとされるラテン語訳でのみ現存する対話編である。もう一つは、『ポイマンドレス』((23)または『神の叡智と権能について』)および『アスクレピオスの定義集』、これらはあわせて15編のギリシア語の短い対話編を構成する。(本書ではこれらを『ヘルメス選集』と総称する)どちらも、紀元2ないし3世紀にかかれたものである。エジプト起源である事を謳っているが、この問題に対する最高権威フェステュジエールによれば、実際には主にギリシア起源の、プラトン主義、ストア派、ユダヤ教、キリスト教の教説をグノーシス主義と魔術の枠組みにおいて合成したヘレニズム的産物である。 『ヘルメス選集』はそれ自体多様な内容を含んでいるが、ここに収められた様々な論考は互いに相似性を持ち、いずれも、ある種のグノーシス的神秘主義、入信者を強力な魔術師に変身させようと説く、星辰が支配する魔術的宗教を教示している。「ヘルメス文書」を他の「古代神学者」のテクストと比較して歴史的に遥かに重要なものとしているのは、正にこの多様ではあるが特定化された宗教的内容なのである。「古代神学」の他のテクストは、多かれ少なかれ謎めいた表現の断片からなっているために、正統的キリスト教に吸収する事がさほど困難ではなかった。しかし「ヘルメス文書」は最初から厄介な問題を投げかけた。フィチーノがオルペウス教魔術を始めたのは、主として『アスクレピオス』の偶像作成法を述べた章句を読んだのがきっかけだった。アグリッパにおいては、フィチーノとピコの比較的おとなしい魔術が、明白なキリスト教のライヴァルとして更に表面に出て来る。これがジョルダーノ・ブルーノに至ると、この古代エジプト人の魔術的宗教がより若い信仰を呑み込んでしまう―――キリストは、ヘルメス主義の伝統に属する、宣教し奇跡を行なう数人の魔術師の一人に過ぎず、ブルーの自身もその一人なのである。…… 「オルペウス教文書」と同じく「ヘルメス文書」も15世紀に至るまで西欧では知られなかった。例外は、中世においてかなり広く知られていた『アスクレピオス』、これはラテン語訳があり、アウグスティヌスが(24)『神の国』で長く論じているためであり、もう一つは、ラクタンティウスが引用している他のヘルメス主義対話編からの章句である。フィチーノによる『ポイマンドレス』は1471年に、ラザレッリ訳の『アスクレピオスの定義集』は1507年に出版された。 シンクレティストたちは時折、「ヘルメス文書」がプラトンの言及しているエジプトの王トート神と以前同一人物とされていたヘルメス・トリスメギストスの著作であると言う説には疑義を表明したが、この文書が非常に古い時代に成立した者である事は一般に認められていた。……アプレイウスに帰されるラテン語訳でのみ伝えられていた『アスクレピオス』の地位は、常により不安定だった。それゆえ、魔術師であり偶像崇拝者であった事が知られていたアプレイウスがテクストを改ざんしたという説も行なわれた。 ルネサンスの学者がこれらのテクストに最初に出会った文脈は、極めて重要だった。即ち、「オルペウス教文書」の(1)はニカイア公会議以前の教父及びプロクロスにおいてであり、「ヘルメス文書」はラクタンティウスとアウグスティヌスにおいてだったのである。初期教父は、ギリシア哲学に何か価値のある(25)ものが見られるとすればそれはモーセから盗まれたものだ、という事を示すためにオルペウスとヘルメスを引用していたし、プロクロスは、複雑な形而上学的実態の理論を用いて多神論を解釈する方法を示していた。また、プロクロスも教父も、オルペウス、『カルデア人の神託』、ピュタゴラスを包含する、プラトン以前にまで遡る原初宗教の伝統の存在を示唆していた。こうした様々な水脈をないまぜにしたところで、ルネサンスのシンクレティストは活動したのである。ラクタンティウスとアウグスティヌスが、ヘルメスが非常に古い時代の人物である事、そして伝ヘルメスの著作が真正のものであることを保証した。ラクタンティウスがキリスト教の預言的証者としてのヘルメスに対して全く好意的であったとすれば、アウグスティヌスはヘルメスを偶像崇拝者として厳しく断罪し、先に引用した「ローマの信徒への手紙」第1章の章句「なぜなら、神を知りながら……」を投げつけた。この断罪は、ルネサンスのヘルメス賞賛者を不安にさせたが、アプレイウスによって改ざんされた可能性のある『アスクレピオス』だけに当てはまるものであり、ラクタンティウスの賞賛でアウグスティヌスの非難を相殺する事も出来たのである。
V. キリスト教の啓示をある程度まで余示する一連の「古代神学者」が存在した事を信じようとするキリスト教徒は、次の事を歴史的事実として想定或いは容認しなければならない。 唯一の、または主要なキリスト教以前の啓示がユダヤ人に与えられたものであること。ただし、この啓示が異教徒に伝播したこと。伝播の経路は通例、モーセが神官たちを教授したか書物を書き残したエジプトとされる。 または、ユダヤ人に与えられたもの以外にも、部分的な啓示がいくつかあった事。 異教徒の啓示がユダヤ人の啓示によって強められたり完全なものとなった、と考える事も出来るから、この二つは必ずしも矛盾するものではない。最初の想定は、旧約聖書の権威の独自性を損なわないため、正統信仰により一致したものであることは確かであり、教父と慎重なルネサンスのシンクレティストが採用したのもこの想定であった。これらの想定の一つあるいは両方から、全て同一の宗教的真理を教えた、著作を残した者も残さなかった者もいるとされる、「古代神学者」のリストが出て来る。典型的なリストは……、次のようなものである。(アダム、エノク、アブラハム、ノア、)ゾロアスター、モーセ、ヘルメス・トリスメギストス、(バラモン教徒、ドルイド神官、)ダビデ、オルペウス、ピュタゴラス、プラトン、シビュラ……この系譜は新約聖書で終わる。しかし、その主たる意図はキリスト教プラトン主義を生む事であるから、プラトンの優れた解釈者としての新プラトン主義者、更に、年代を遡らせれば彼らの典拠となる偽ディオニュシオスにまでリストを続ける事もできる。 これらの「古代神学者」はそれぞれんが先行者の弟子であるとされたり、あるいは各自エジプトを訪れてモーセの教えを学んだと……された。たとえば、オルペウスは殆ど常に最古のギリシア人「神学者」とされ、エジプトを訪れた後、ピュタゴラス、プラトンらの宗教的心理の源となる。しかし、彼らもまたエジプトで学び、ゾロアスターやヘルメス・トリスメギストスからも影響を受けている、とされる。…… この系譜におけるモーセの年代的位置は、正統的であろうとするシンクレティストの大多数のように、「古代神学」がモーセ五書から生まれたと考えようとすれば、明らかに最重要なものとなる。オルペウス及びその(27)他のギリシア人がモーセよりかなり後世に現れたことを示すのは、たやすい事であった。だが、ヘルメス・トリスメギストスの位置はこれほど明確ではなかった。聖アウグスティヌスはヘルメスをモーセのひ孫の同時代人と考え、フィチーノは『ピマンデル』の序文でこれをそのまま踏襲している。ラザレッリはこれに異議を唱え、ヘルメスの方をかなり先代の人物だとした。D・P・ウォーカー著、榎本武文訳『古代神学』、平凡社・1994年。

2009年4月10日金曜日

年表

 『略年表』
前7世紀中頃:エトルリア文化全盛。 前509:ローマ共和制樹立。 前6世紀:ジェノヴァに最初の居住地(カストゥルム)が築かれる。 前44:カエサル暗殺さる 前27:オクタウィアヌス、元老院よりアウグストゥスの称号を得る  313:コンスタンティヌス帝、ミラノ勅令を発布しキリスト教公認。 401:アラリック率いる西ゴート族がイタリアに侵入 452:フン族王アッティラ、北イタリアを脅かす 493:東ゴート族王テオドリック、イタリアに東ゴート王国を建国(~555) 5~6世紀初め:カンパーニアの住民、東ゴート族の侵入により、アマルフィに逃れる 564:ビザンツ帝国、全イタリアを支配 568-569:ランゴバルド族がイタリアに侵入、建国 595:アマルフィ、公式文書(教皇グレゴリウス1世の手紙)に登場する。 697:ヴェネツィア住民、ドージェ(総督)を選び、自治機構を形成する。 800:フランク王国のカール大帝、教皇レオ3世より西ローマ皇帝として戴冠 810:カール大帝の息子ピピン、マラモッコに侵攻(これによりヴェネツィアは新しい首都に移転を考える) 829:福音史家聖マルコの遺骸が、アレクサンドリアよりヴェネツィアに運ばれる 839:アマルフィ、ナポリ公国から独立、自治権を持つ共和国となる。徐々に特定の貴族が力を持ち、十世紀半ばには世襲性の公国となる 849:ナポリ、アマルフィ、ガエタなどの艦隊が、オスティア沖でイスラム艦隊を破る 992:ヴェネツィア商人、ビザンツ皇帝より貿易上の特権を獲得 1041:ノルマン騎士団が南イタリア征服を開始する 1054:キリスト教会が東西分裂 1063:ピサ、パレルモ攻略を進めるノルマン軍に加担 1066:イギリスでノルマン朝始まる 1070年代:アマルフィ、ノルマンの支配下に入る。ピサ、独立したコムーネ(自治都市)となる 1077:カノッサの屈辱 1080-85:ヴェネツィアが、ノルマンとの戦いに勝利 1082:ヴェネツィア商人、ビザンツ皇帝より特権を獲得。ビザンツ領内の商業にほぼ独占的な地位を確保 1096:ジェノヴァと周辺地域、コムーネとなる。第1回十字軍(~1099)。ピサの大司教ダゴベルト、120隻のガレー船艦隊を率い、ノルマン軍のアンティオキア公国征服を援護。エルサレムの総大司教の任命権を獲得。アマルフィとピサの同盟関係始まる 1097:ジェノヴァの10隻のガレー船、トルコのアンティオキア港占領。指揮官グリエルモ・エンブリアコ、エルサレム奪還に寄与、アンティオキアに居留地を得る 1113:ジェノヴァ、ポルト・ヴェーネレを占領。ピサ、自前の十字軍遠征を行なう 1131:アマルフィ、シチリア王国に併合される 1135:アマルフィ、ピサの艦隊の攻撃を受ける 1137:アマルフィ、再度ピサの艦隊の攻撃を受ける 1147:第2回十字軍(-1149) 1162:ジェノヴァ、フリードリヒ1世(赤ひげ王)より、モナコからコルヴォにいたる全ての海岸線上の都市を報土として授けられる。ピサは、ポルト・ヴェーネレからチヴィタヴェッキアまでのティレニア海の所有を許される。 1165:ピサ、フリードリヒ1世から全サルデーニャを報土として与えられる 1179:アマルフィの「海の門」建造 1189:第3回十字軍(-1192) 13世紀初め:コンスタンティノープルから運ばれた聖アンドレアの遺骸が、アマルフィの教会に安置される 1202:第4回十字軍(-1204)。ヴェネツィアの総督エンリコ・ダンドロ、艦隊の行き先をコンスタンティノープルに変えてラテン帝国成立 1241:ピサ、ジリオ島でジェノヴァを打ち破る 1252:ヴェネツィア、クレタ島のハニアを征服、ジェノヴァに一時奪われた時期(1267-90)を除き、1645年までクレタ党の支配が続く 1261:ジェノヴァ、ビザンツ皇帝とのニンフェウム条約によって、黒海とクリミアにおける商業権独占を保証される。その後コンスタンティノープルのガラタ地区に居留地を得る 1264:アマルフィ大聖堂の「天国の回廊」建設 1284:ピサ、メロリアの海戦でジェノヴァに大敗 1295:マルコ・ポーロが東洋より帰国 1297:ヴェネツィアの大評議会メンバーが約200の家柄に制限される 1298:ジェノヴァ、「クルツォラーリの戦い」でヴェネツィアに勝利、マルコ・ポーロが捕虜となり、その間ジェノヴァの監獄で「東方見聞録」を口述 
1304 ダンテ『神曲』を書き始める。この頃ジオット活躍。1309 教皇庁のアヴィニョン捕囚(~1377)。1320 インドのトグルク朝成立(ハルジー朝滅亡)。1328 (仏)フィリップ6世即位。カペー朝断絶し、ヴァロア朝成立(~1589)。1333 シモーネ・マルティーニ『受胎告知』。1337 英仏百年戦争勃発(~1453)。1340頃 イタリア初の多声音楽文化、トレチェント音楽。1341 ペトラルカ、桂冠詩人に。 1343:アマルフィの海底で大規模な地滑りが起きる 1344 ボッカチオ、『デカメロン』を書く。1346 クレシーの戦いで、イギリス軍大勝。1347頃 黒死病、全ヨーロッパに流行、人口減少。ボッカッチョがデカメロンを著す (ペスト文学)。この頃ハンザ同盟全盛期。1358 (仏)ジャックリーの農民一揆。1376 ウィクリフ、宗教改革を提唱。1378 フィレンツェにチオンピ(梳毛工)の暴動。教会大分裂(~1417)。 1380:ジェノヴァ、キオッジャの戦いでヴェネツィアに完敗。 1381 (英)ワット・タイラーの農民一揆。この頃チョーサー『カンタベリー物語』。 1388:ヴェネツィア、ナフプリオンを支配(-1540) 1395 ヴィスコンティ家、ミラノ公国を世襲するようになる。1396 ケルンのツンフト、都市貴族を破り市の実権掌握。 1399:ピサ、ミラノ公ヴィスコンティに譲渡される 1401 フィレンツェ大聖堂洗礼堂の扉の設計競技、ロレンツォ・ギベルティが当選。1402 アンゴラの戦い(チムールがオスマン・トルコ破る)。1403 フス、プラハ大学で宗教改革を唱える。 1406:ピサ、フィレンツェに併合される。ヴェネツィアは積極的に本土に進出、領域を拡大 1407 ヴェネツィア、トルコ艦隊を破る。(英)冒険商人組合、王より特権獲得。1414 コンスタンツの宗教会議(~1418)。1415 フス、火刑に処せられる。この頃ブルネレスキ、ギベルティ、ドナテロ、ファン・アイクら活躍。1418 フィレンツェ大聖堂大ドームの設計競技、フィリッポ・ブルネレスキが当選(1436年に大聖堂の献堂式)1419 フス戦争起こる。フス派の反乱(~1436)。 1425:フィレンツェとヴェネツィア、反ヴィスコンティ同盟を結ぶ 1429 (仏)ジャンヌ・ダルク、イギリス軍を破りオルレアン解放。ロレンツォ・ヴァッラ論文『快楽論』(エピクロス主義)。バーゼル公会議(~1449)。1433 コジモ・デ・メディチ、アルビッツィ派によってフィレンツェから追放される。ボンザガ家ジャンフランチェスコ1世、皇帝ジギスムンドからマントヴァ侯の称号を得る。1434 コジモ、フィレンツェに呼び戻され、メディチ家のフィレンツェ支配始まる(1464年死去するまで実験掌握)。コシモの学芸保護。教皇エウゲニウス4世、フェラーラ・フィレンツェ公会議を主催、メディチ家が支援する中(~1445)、東西教会の合同を採択。ハプスブルグ家、この年以降神聖ローマ皇帝位を世襲。1445 エンリケ航海王の命によるポルトガル探検隊、ヴェルデ岬に達す。1450 スフォルツァ家のミラノ支配始まる。この頃グーテンベルク金属活字を作る。1453 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、コンスタンティノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)。百年戦争終わる。 1454:ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ、教皇がローディの和約を結ぶ 1455頃 グーテンベルクによる活版印刷の聖書刊行。イギリスでバラ戦争始まる(~1485)。1463 フィチーノ『ヘルメス文書』を翻訳1464 コシモ・デ・メディチ死去。この頃ルネサンス文化全盛。1469 イザベル、アラゴンのフェルナンド王子と結婚。ロレンツォ・デ・メディチのフィレンツェ支配。 1475:ジェノヴァの黒海の植民都市カファ、トルコの手に落ちる 1479 スペイン王国統一。1480 モスクワ大公国独立。1483 フランス、シャルル8世即位。1485頃 ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』。イギリス、ヘンリー7世即位。チューダー王朝始まる。1488 バルトロメオ・ディアス、喜望峰発見。1492 スペイン、グラナダを陥落、レコンキスタ完成。コロンブス、新大陸を発見。フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ死去。1494 フランス軍、イタリア侵入。メディチ家、フィレンツェ支配権を失う。ポルトガル間にトルデシラス条約成立。サヴォナローラによるフィレンツェの神政政治(~1498)。 1495:ヴェネツィア、モノーポリに侵攻。その後友好関係を樹立し、活発な交易が為される。 1498 ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。サヴォナローラ火刑。レオナルド・ダ・ヴィンチ、最後の晩餐(ミラノ)。1503 アメリゴ・ヴェスプッチ『新世界』を出版、新大陸が未知の大陸であるとの見解を表明。1506 ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』完成。コロンブス死去。1508 ミケランジェロ、システィナ礼拝堂壁画に着手。1509 イギリス、ヘンリー8世即位、スペインのキャサリンと結婚。エラスムス『愚神礼賛』を書く。教皇ユリウス2世、独帝、仏王、西王などとカンブレー同盟を結び、ヴェネツィアに対抗。 1510 ボッティチェリ死去。ポルトガル、インドのゴアを占領。 1511:ユリウス2世、ヴェネツィアなどと対仏神聖同盟結成。 1513 法王レオ10世即位。バルボア、パナマ地峡を横断し太平洋到達。マキャヴェリ『君主論』を書く。1516 トマス・モア『ユートピア』を書く。ハプスブルク家、スペインを継承(カール1世)。ラファエロ『サン・シストの聖母』完成。ヴェネツィア、ユダヤ人をゲットー内に住まわせる 1517 マルチン・ルター『95か条の論題』発表。ドイツ宗教改革始まる。1518 ツヴィングリ、スイスのチューリヒで宗教改革運動始める。ライプツィヒ討論。ルター、エックと論争。スペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝、カール5世となる。マゼラン、世界一周の途につく。ダ・ヴィンチ死去。

2009年4月7日火曜日

参考文献

入手可能な参考文献・ 樺山紘一著『<世界の歴史 16> ルネサンスと地中海』、中央公論社・1996年。・ 伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年。:総論.ペトラルカ。市民的人文主義者(ブルーニ。アルベルティ。パルミエーリ。)。ニコラウス・クザーヌス。フィチーノ。ピコ・デッラ・ミランドラ。ポンポナッツィ。マキアヴェリ。エラスムス。トマス・モア。ルター。ジャン・ボダン。モンテーニュ。自然哲学者(カルダーノ。テレージオ。パトリッツィ。)。ブルーノ。スアレス。カンパネッラ。ガリレオ。フランシス・ベイコン。・ 佐藤三夫編『ルネサンスの知の饗宴 ――ヒューマニズムとプラトン主義』、東信堂・1994年。:ルネサンスにおけるプラトン主義の諸問題。「宇宙の美」に関するノート。信仰の都市化―――聖トマスの場合。ガスパリーノ・ダ・バルツィッツァの修辞学再編。ルネサンスの呪力魔術―――フィレンツェ・プラトン主義を中心に。『イデアの影』におけるジョルダーノ・ブルーノの影の思想と新プラトン主義。フィレンツェ・プラトニズムとクリストフォロ・ランディーノの文芸批評。プラトン・アカデミーとオルティ・オリチェッラーリ―――メディチ=指導者像形成の過程。レオン・エブレオにおける自然とスペイン牧歌小説。カルダーノと夢解釈。ルネサンス期イタリアにおける民衆の知的状況について。太陽崇拝思想と太陽中心説。・橋口倫介他、共著『ヨーロッパキリスト教史 III』、中央出版社・1971年。・磯見辰典他、共著『ヨーロッパキリスト教史 IV』中央出版社・1972年。・ 会田雄次・中村賢二郎著『世界の歴史12 ルネサンス』、中央出版社・1989年。・ 松井透他、共著『岩波講座 世界歴史15 商人と市場』、岩波書店・1999年。・ A・マッキンタイアー著 管豊彦他訳『西洋倫理思想史 上』凸版印刷・1985年。・ A・マッキンタイアー著 井上義彦他訳『西洋倫理思想史 下』凸版印刷・1986年。・ 中島昭和 渡部容子訳『フィレンツェ史』、白水社・1986年。 :第1部 フィレンツェ共和国、起源より1434年まで(第1章:起源、そして都市国家の形成。第2章:都市国家の隆盛、1115年より1293年まで。第3章:市民共和国、1293年より1434年まで)。 第2部 メディチ家初期の人々、1434年より1530年まで(第1章:コジモからサヴォナローラへ、1434年より1494年まで。第2章:機器の時代、1494年より1530年まで)第3部 フィレンツェ公国、トスカーナ大公国の首都、1530年より1860年まで(第1章:メディチ家、1530年より1737年まで。第2章:1737年より1859年まで ロートリンゲン家の統治)第4部 現代、1860年より今日まで(第1章:1860年より1922年まで、君主制からファシズムへ。第2章:1922年より1982年まで、ファシズムより今日まで)・ ポール・フォール著 赤井彰訳『改訳 ルネサンス』白水社・1971年。・ 中森義宗監訳『イタリア・ルネサンス事典』、東信堂・2003年。・エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』、太陽出版・1999年・斎藤寛海 山辺規子 藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』、昭和堂・2008年。・ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年。:序章 第1部 ルネサンスの問題(第1章:イタリア・ルネサンスの芸術。第2章:歴史家たち―――社会史と文化史の発見) 第2部 芸術とその環境(第3章:芸術家と著述家。第4章:パトロンと注文主。第5章:芸術作品の用途。第6章:趣味。第7章:イコノグラフィー) 第3部 社会的背景(第8章:世界観―――その主な特徴。第9章:社会的枠組み。第10章:文化的・社会的変化。第11章:比較と結論)・ セルジョ・ベルテッリ著 川野美也子訳『ルネサンス宮廷大全』、東洋書林・2006年。・ チャールズ・B・シュミット/ブライアン・P・コーペンヘイヴァー著 榎本武文訳『ルネサンス哲学』、平凡社・2003年。 :第1章 ルネサンス哲学の歴史的背景(古代と中世の哲学的遺産。ルネサンスという枠組みにおける哲学。人文主義。教会と国家。ルネサンス期における哲学の変形)第2章 アリストテレス主義(ルネサンス期の多様なアリストテレス主義。アリストテレス主義の伝統における統一性と多様性。ルネサンス期の八人のアリストテレス主義者)第3章 プラトン主義(アリストテレスからプラトンへ。マルシリオ・フィチーノ。ジョヴァンニ・ピコとニコラウス・クザーヌス。敬虔な哲学、永遠の哲学、プラトン哲学―――フランチェスコ・パトリッツィ)第4章 ストア主義者、懐疑主義者、エピクロス主義者、その他の革新者(人文主義、権威、疑い。ロレンツォ・ヴァッラ―――言語対論理学。ペトルス・ラムスの単純な方法とその先駆者たち。懐疑の危機。ユストゥス・リプシウスの新しい倫理体系。政治と倫理的混乱―――エラスムス、モア、マキアヴェリ。第5章 自然の権威の対立―――古典からの解放(学問の書物と自然の書物。ジョルダーノ・ブルーノの哲学的情熱。新しい自然哲学)第6章 ルネサンス哲学と現代人の記憶。・ 根占献一著『共和国のプラトン的世界』、創文社・2005年。・ 根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年。・ 森田義之著『メディチ家』、講談社・1999年。・ 藤沢道郎著『メディチ家はなぜ栄えたか』、講談社・2001年。・ 池上俊一著『万能人とメディチ家の世紀』、講談社・2000年。・ マーガレット・アストン編 樺山紘一監訳『図説 ルネサンス百科事典』、三省堂・1998年。・ 会田雄次編『世界の名著16 マキアヴェリ』、中央公論社・1967年。・ 会田雄次編『世界の名著45 ブルクハルト』、中央公論社・1967年。・ 中森義宗・岩重政敏編『ルネサンスの人間像』、近藤出版社・1981年。・ 鯖田豊之著『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』、中央出版社・1989年。・ 阿部謹也著『中世賤民の宇宙 ヨーロッパ原点への旅』、筑摩書房・2007年。・ 金子晴勇著『人間と歴史 -西洋思想における人間の理解』、YMCA出版・1975年。・ 前川道郎著『ゴシックと建築空間』、ナカニシヤ出版・1978年。・ チェーザレ・ヴェチェッリオ著 加藤なおみ訳『西洋ルネッサンスのファッションと生活』、柏書房・2004年。・ 澤井繁男著『イタリア・ルネサンス』、講談社・2001年。・ 甚野尚志『中世ヨーロッパの社会観』、講談社・2007年。・ミルチア・エリアーデ著 石井忠厚訳『転換期を読む3 ルネサンス哲学』、未来者、1999年。:ルネサンス哲学(I.ユマニスム、公会議とギリシア人の到来。II.古代的諸価値の復興と超克。III.スペインにおける哲学的ルネサンス。) イタリア紀行(1927年。1928年)

Burckhardt

(168)ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス1 ブルクハルトの総括に至るまでの書誌学 14,5世紀のイタリアで「人文主義者」と呼ばれた人々は、稀に見る文化高潮の時代に生まれ合わせたことを意識して、前時代を振り返り、主観的・偏見的一瞥を与えた。それゆえ、彼等は自らの、特に文学活動が古代文化の表現力豊かな形態を、そのローマ的概観の基に復元していると考え始めたのである。そこで暗示されるのは、西ローマ帝国の終焉と歴史上の現在との間に存する中断、或いは間隙の時代という考えである。これがのちに、ヨーロッパ史の時代区分を作り上げる元となった「中世」の概念の芽生えである。しかし人文主義者たちが「闇―光」「死―再生」(後世その後継者達は対照を誇張するようになった)という表現にもかかわらず、直前の(169)過去の時代に冠しては二十の判断、即ち、政治経済活動の面では肯定的、文化面では否定的判断を下している事は意味深い事である。 実際、15世紀には、人文主義的理想を抱き、同時に政治活動に強く引かれる人々が現れた。これらの人々は、共和主義的自由を理想とする見地に立って、当時の貴族諸侯の世紀を前時代と比較して、退歩的であると考えていた。時あたかもイタリアの諸都市が経済力と共同体(コミューン)の自由を同時に発達させていたので、これを比較して、まさにローマ帝政に対するローマ共和制の理想へと立ち返りつつあるかのように彼らには思われたのである。人文主義者であり歴史家であるレオナルド・ブルーニLeonardo Bruniとフラヴィオ・ビオンドFlavio Biondoは、こうした態度を良く表す例である。ブルーには西ローマ帝国の崩壊を、やがて都市コミューンによって政治的自由が回復されていくための一過程として積極的出来事とみなしている。ビオンドはローマ滅亡後の千年を752年(イタリアにおけるピピンの出現)までの混乱と衰退の時期と、都市が再建され、市民生活が繁栄し、平和と安寧が保持される時期とに区分している。 しかし、文化面では、その千年は、ローマと彼らの時代との間の連続性を断つ、間隙と見られた。イタリア以外のヨーロッパにおける発展の全容を見ないで、「ゴティック(当然「野蛮」と同じ意味に用いている)としてこれを軽蔑する事により、人文主義者たちは、後に侮蔑的に「中世」と呼ばれた時代の価値を理解できなかった。 芸術面におけるルネッサンス観の最初の体系的描写はジョルジオ・ヴァザーリGiorgio Vasariに負うものである。コンスタンチヌスの時代には創造的エネルギーが枯渇した事を指摘しながら、ヴァザーリは十三世紀における芸術の目覚めに注目し、これを十六世紀まで延長させる。この三世紀間における絵画・建築・彫刻をヴァザーリは「リナスシタRinascita’」と呼ぶのだが、矢張り幾つかの時期に区分している。彼の評価の基準となるもの(170)は、名称にせよ、規範にせよ、最早古典のそれである。「復帰」「回帰」「再開花」などの観念は、周知の如く、後世の歴史学において容認される事になった。(172)中世とルネッサンスと言う両概念の発展過程は結果的に平行しており、相互に依存している。ヘーゲルはその弁証法により、中世とルネッサンスの関係を純粋のアンチテーゼ(反律)として哲学的根拠を与えている。同時にルネッサンスについて述べるとき、これを伝統的な型から切り離す。すなわち、中世は超越性への執着によって特色付けられ、ルネッサンスは自然界における内在への復帰を意味し、そしてプロテスタント主義は、双方の立場の総合において、近代世界の統合を示すのである。自由を意識する「精神」の自己への復帰は、結果として現実に適合していくのである。即ち精神として発見された人間、および自然に立ち帰ることであった。ここから、あの有名な言葉「人間と世界の発見」に到達するには、最早一歩を遺すのみである。 このヘーゲル流の史観の後を継ぐのがミシュレーJ. Micheletであるが、彼の貢献は、ルネサンスの概念を、歴史的価値を与える為に、哲学的抽象の世界から移す事にあった。即ち、芸術と理性、真実と美の融合を行う事である。こうした融合は、ルネサンスという特定の時代の作品に表明されている。非常に主観的で国家主義者のミシュレーは、その高度の美文体をもって、あらゆる面で魅力的なルネサンスを示す事が出来た。美のルネサンスは、創造の世界の自由な表現としての新しい美術の登場、史学上のルネサンスは古典古代研究の刷新、(173)法律上のルネサンスは、多様で混沌とした古い慣習の中から起こる秩序の芽生え、最後に地理上、天文学上、生物学上、倫理学上では、世界と人間の発見がそのルネサンスである。「ブルクハルトの業績」の評価(173)ヴォルテールが中世の概念に関して行った事は、ヤコブ・ブルクハルトJacob Burckhardtが、その素晴らしい著書の中でルネサンス概念に関して行った。このスイスの歴史家の著作中には、彼以前のあらゆる研究が集大成されている。今日でも尚、多くのものが加えられつつあるその伝統的ルネサンス像に、彼は形質を与え、認可する。その上更に、19世紀半ばのヨーロッパ文明―平等化と民衆化されたーに対する彼の保守的で貴族的な嫌悪感は、彼を郷愁的な一幅の絵画の前に誘い、そこから彼自身の文化上の理想である一つのルネサンス主義が生ずるのである。ブルクハルトは、歴史上のある時代に、ある国民(イタリア人)に一つの「固有の精神」が存在すると考えた。従って、個々の事実は全てこの「固有の精神」によって解釈されねばならない。即ち、そうした事実は、それ自身の価値において評価されたものではないのである。それゆえ、あの若干主観的な「民族精神」という根源的概念の要請に従って、資料が強いて解釈される事もありうる。 ニーチェ的な言葉で表現された「超時代」たるルネサンスを、ブルクハルトは6つの異なる角度から表現する。第一、政治的側面(国家)、第二、心理的側面(個人)、第三、学識上の側面(古代復興)、第四、自然的側面(世界と人間の発見)、第五、社会的側面(社会)、第六、倫理的側面(道徳と宗教)。経済的、哲学的、科学的側面は特別な項を与えられていない。だが、とにかくブルクハルトのルネサンス像は、理論的で調和の取れた一つの総合なのである。それは後世に残される確定的・具体的ルネサンス像である。彼のルネサンスの特質は我々にも親しまれている。即ち、ルネサンスは中世に対する明らかなコントラストをなしている。異教的自然主義は(174)刷新され、中世のキリスト教の超自然主義に勝利を占める。かくして、ルネサンス人は中世人の知らなかった価値を獲得する。ユニークで自由な自立的な価値として自我を発見し、古典古代の模範に影響されて、個人主義が強調される。ルネサンス人は宗教的なあらゆる妨げや規範を無視し、超自然的理想に反して、溢れるような自然の賞賛の中に生きるのである。

Weltanshauung

(164)中世キリスト教世界と楕円的統一 ~中世キリスト教世界の理念と社会学的構造 精神構造に基づく、近代精神の源泉との対比~ ドウソン教授による宗教と文化の結合様式の類型に従えば、中世キリスト教社会は、「完成した宗教が未完成の文化を形成していく一つの要素となって作用し」て形成されたのである。キリスト教は、古代東洋に深く根を張った歴史的啓示宗教であるユダヤ教の上に成立し、ギリシア語世界での文化思想との接触において、教会と公会議による神学を発展させ、更にラテン語世界での法律や文明吸収によって、法的で組織的な一大共同社会を形成したのであった。このような独自の秩序原理と社会組織と市民的伝統とを持つカトリック教会が、その有機的統一性と連続性とによる伝統を確保する傍ら、ゲルマン民族、ケルト民族の未開野蛮な文化や、社会的伝統を育み、ヨーロッパ文明世界の形成に力を尽くしたのであった。 ところが、この形成には、二つの社会学的構造上の差から生じる困難が内在していた。ローマ帝国の都市行政法を基礎とした市民社会構造と、ゲルマン・ケルトの蛮族王国の民族部族乃至小血族集団である分散社会構造との対立である。そこで、社会組織の基礎となる中核を新民族の社会組織におく場合、その困難な事は並大抵なものではなかった。ケルト民族間では修道院を建設する事によって自らその中核を構成し、イングランドでは部族領有地小王国をそのまま司教座に新編成したのである。ただフランク王国のみが従来どおりの都市制度による組織基盤を保存しえたのであった。ところが、社会の封建化に伴って、教会と国家乃至地方権力との相互依存関係が深まり、教会の社会的変質を被るに至った。都市中心性から土地中心性に移行し、やがて、国立教会(Landeskirche)へと変質し、王侯の干渉という危険に晒されていた。この国立教会の遠心的発展に伴う世俗化と変質の危機を救うものが、ローマ教皇の求心的統一による刷新改革運動だったのである。 この普遍性回復の改革運動は、キリスト教の第三要素である修道者の援助に依存し、修道院の自律的伝統がそのまま、カトリック統一の中心、ローマに結合されたのである。まず、大聖グレゴリウス教皇と聖ボニファチウスによってその第一歩が踏み出されていた。そして、全ゲルマンの改宗という成果は、グレゴリウス二世に、歴史的政策転(166)換、すなわち、ローマ・ビザンツの決定的決別に伴うローマ・フランクの接近を断行させ、中世史の将来を方向付ける決定的転換期となったのである。それは、シャルル・マーニュの帝国との協力態勢のもとで、キリスト教がラテン的ゲルマン的ニ大文化要素を有機的に統一して、新しい社会的統一体を創立するに当たって貢献するのであったが、反面において、教皇直属の首都大司教制度の復活という聖ボニファチウスの中央集権化による改革では、フランクとの利害関係の対立に伴う妥協と言うマイナス面をも齎したのであった。そこで、帝国の圧力からの教会解放という新段階が、11,2世紀の「叙任権闘争」として表面化して来たのである。 クリュニーとクレルヴォーを中心とする大改革運動は、教皇が、修徳と超俗の理想に燃え立つ修道者の力を借りて、帝国の支配下から教会の主導権を教皇聖座のもとに取り戻す運動となり、教会固有の法と教会固有の立法裁治機関を有する自由で普遍的な精神共同体を再建しようと言う企てなのであった。しかし、五百年以上続いた社会制度の打ち崩しは容易な業ではないのであったが、それでも、ストリの政教条約やウォルムスの政教条約という妥協や曲折をたどって、教会の超国家的統一性と、教皇の首位制とを明確な事実として確認させる事に成功し、教父時代より叫ばれてきた理想の実現を見たのであった。教会は、社会の一次的根源的実存者となり、国家は、社会の平和と秩序を維持する責任を負うだけとなった。この中世的理念を、十二世紀の教会法学者ステファヌスは、次のように伝えている。「同じ国、同じ王の下に二種の国民がいる。この二種の国民に対して二通りの生活がある。二通りの生活に対して二つの権威があり、二つの権威に対して二つの裁治権が存在する。……さて、国というのは教会のこと、王とはキリスト、二種類の国民とは聖職者と平信徒、二つの生活様式とは霊的なものと肉的世俗的なものの事、二つの権威とは教権と政権、二つの裁治権とは神の掟(教会法)と人の掟(国法)を指すのである。これらの各々に、正しい位置を与えるならば、万事巧みに行われることだろう」と。このように、理念は確立したのであるが、現実の試みにおいては、神聖ローマ皇帝の推進によるのでは、中世国家の持つ本質的宿命的脆弱さのために完成が望まれず、ロ(167)ーマ教皇の推進では、国立教会制度の為に教会法の適用が妨げられた為に完成を見なかった。ただ、ストリ政教条約の根本原理(政教両権の分離独立)によるこの世界の二大中心(皇帝と教皇)が相互依存を確立したときはじめて、その完成は実現されるはずのものであった。ところが、この根本原理の不徹底が、やがて分裂を生むに至ったのである。 以上のように、中世キリスト教世界は、それを、社会学的側面から考察してみると、相対立する二元的要素をその内に有しながらも、内的有機的統一による共同体であった事が分かる。(『ヨーロッパキリスト教史 III』1971年・中央出版社)

C.Firenze

フィレンツェ公会議と公会議首位主義 -東西教会一致の試みの一側面― 中村正夫(345) フィレンツェ公会議は十五世紀半ばに教皇エウジェニウス四世Eugenius IVにより開かれた、一般に東方教会との一致の公会議として知られるものである。1054年、コンスタンチノープル総大主教ミカエル・チェルラリウスMichael cerulariusと教皇レオ9世Leo IXとの間に起こった不幸な離教から1438年のフィレンツェ公会議までの400年間になされた一致の試み、そして一時的に一致がある型で成された例はあったが、いずれも不幸な結果に終わった。(346)教会大分裂、それに伴う教皇権の失墜、頭部から肢体に及ぶ醜状と悪弊に満ちた14,5世紀は、また改革思想の時代でもあった。そして「病める社会にとっての万能薬」であると、当時の少なからぬ人々により支持された改革の一案が、教会法思想の伝統に根差した公会議首位主義conciliarismus、即ち教会の一般副詞の為に全体教会tota ecclesiaたる公会議concilium generaleが教皇の行政権を制限し、それに代わって一致と改革の責任を持つという道であった。 (347)さてこの公会議と教皇の対決がきわめて大きな脅威となったのは1431年のバーゼル公会議に於てであった。これは初期において一人の司教の出席すらも得られなかった為に、教皇エウジェニウス4世Eugenius IVは五ヵ月後には会議の解散を命じた。ところが公会議は服従を否んだ。これは明らかにその初期から公会議首位主義の傾向の見られたバーゼル公会議に対する教皇の疑惑と恐れによる早まった行動であった。その際に教皇の念頭にあった今一つの事は、前教皇マルティヌス5世Martinus Vから継承した東方教会との一致の交渉についてであった。彼はバーゼル公会議の解散を命じた教書Bullaにおいて「ローマ、アンコナ、ボロニヤそしてその他の幾つかのイタリアの地が指摘され、我々(訳注、教皇自身を指す)と我々の兄弟達にとってローマが適当である事が明らかであるにもかかわらず、彼等(訳注、ギリシア人たちを指す)の航海技術と、アルプスの彼方からやって来る人々のイタリアへのより近い出入り口aditumとして……」ボロニヤを選びたいと述べ、バーゼルがギリシア人たちとの約束を果たす場所として地理的に不適格である事を暗に述べている。そして早速教皇使節としてガラトニCristoforo Garatoniをコンスタンチノープルに派遣して、一致の公会議開催について交渉を始めさせた。ガラトニはその後この面での教皇側の主役を演じるようになる。 一方教皇の解散命令に反発したバーゼル公会議派(今後バーゼル派と呼ぶ)は教皇に対抗して自らの手で同様な交渉を始めた。ここに教皇とバーゼル派が同時に自らに主催する公会議にギリシア人を招待する事を競う事になった。両者は各々公会議開催地へのギリシア人たちの旅行・滞在等の費用一切の援助と十字軍による東方救援等を約束した。そして公会議開催地としてバーゼル派はバーゼル、アヴィニョンを提案し、教皇側はフェララ、ウディネ、そしてコンスタンチノープルでも良いとさえ言った。勿論ここにはビザンチン皇帝の一致に伴う西方のコンスタンチノープルへの救援の期待があったことを忘れてはならない。バーゼル派は初期においては教皇を通じてビザンチン皇帝をバーゼルに出席せしめようとした。しかしそれが不可能である事を知ると教皇に対抗して自らの手で達成し(348)ようと試み始めた。そこでスダSuda司教アントニオAntonioらがギリシア人たちにバーゼルに出席するよう招聘するべく出発したのは、教皇が自らの情勢の不利を悟って涙を飲んでバーゼル公会議への譲歩をせざるを得なくなった頃であった(1433年12月15日、教皇のバーゼル公会議解散の教書を撤回し、バーゼルの正統性を承認した)。 アントニオらは翌年三人のギリシア使節を伴ってバーゼルに帰り一致の公会議についての交渉を始め、その結果シクット・ピア・マーテルSicut pia materに始まる教書Bullaによって同意に達した。これは三年前に教皇マルティヌスが皇帝ヨハネス8世との間で達せられた協定に基づくものであった。この中でギリシア人たちは公会議の開催される場所について「カラブリア・アンコナその他の海岸都市、ボロニヤ・ミラノあるいはイタリアの他の都市またはイタリアの外辺、ハンガリアのブダBuda、オーストリアのヴィエンナ、あるいはせいぜいサヴォイSavoy」の中の一つを要求し、更に全ての交渉における取り決めについては「教皇が教書Bullaによって明瞭なる同意を示すであろう」事をうたっている。このようにギリシア側は一致の為の公会議開催地としてバーゼルは承諾できない事、また決議の結果については教皇も同意する事を条件としている。またバーゼル派は教皇の主意見は否定するけれども教皇制そのものを廃しようとするものではなく、またバーゼルで決定された事には教皇は当然従うはずであるとの公会議首位主義の明らかな権限を示していると言えよう。1433年12月30日にフス派との間に「プラーグ協定」prager kompaktatenを結ぶのに成功したのとあわせて、当時のバーゼル派の勢いを知る事が出来る。 このようなバーゼル派の発展と比べると当時の教皇はイタリアの内政争いに権力と財産の殆どを失い、ローマから逃亡せざるを得ない状態にあり、加うるに枢機卿たちも教皇を見捨て教皇の幾度課のバーゼル派に対する抗議もこれと言った効果を生まなかった。バーゼル公会議は最早教皇の手に負いかねるものとなってしまった。エウジ(349)ェニウスの優柔不断さがこのような結果を齎したと言える。それゆえに公会議で取り上げられているものは全て教皇の意図を離れて、公会議の意のままになってしまう。このような状況において公会議首位説との争いを続けることは最早不可能であり、これを解決する方法として考えられる事は嘗てマルティヌス5世がパヴィアPavia1の公会議を無害なものとするために会場をシエナSienaに移転させた例にならって、バーゼルからどこかに公会議を移転するのが良い。そしてその為の大義名分を成したのが東方教会との(ビザンチン帝国の立場から見れば西方の救援を待機する為に差し迫った要求であった)一致の交渉であり、その為の公会議開催の場所を教皇の手の中において実現する事であった。 一方バーゼル派はというとギリシア人らとの一致の功績を教皇に譲る事は決して出来なかった。公会議は同時に二箇所で開く事は出来ない以上、バーゼルか或いはバーゼル派に有利な場所で開かれねばならず、それが出来ないならばそれはバーゼル派の破滅を意味するものであり、教皇の思う壺となるのであった。しかしバーゼル公会議によって提出された教会改革に関する数多くの提案は、もしこれが首尾一貫して実施されていたならば教会改新に大きく寄与していたに違いないものであった。しかしバーゼル公会議の発した諸教令の中多くはただひたすらに教皇の権力を削減し、公会議の行政権を拡大しようとする意図から発するものであった。バーゼル派は何かの霊に取り付かれた如く徐々に原理的問題、すなわち教会と公会議との関係の考察に熱中し続けて行った。ローマ教皇庁に対するアンナーテならびに諸税の全面的納入停止を規定し、また教皇の集金人達に対して徴収したものをバーゼルに差し出すことを命じた。そしてそのような動きが顕著にあらわれるようになったのはコンスタンチノープルにおける一致の公会議についての話し合いに成功したガラトニが、二人のギリシア人を伴って教皇の意図を伝えるべく出席したバーゼル第21会議(1535年6月9日より開催)の頃からであった。 この頃からバーゼル公会議における教皇代理チェザリーニCesariniの会議での発言力は弱まり、フランスに教(349)皇権を復帰させようとするフランス派の勢力が強くなってきた。尚この頃のバーゼル派のメンバー500人中20人が司教、他は下級聖職者か俗人である。「料理人の声は司教或いは大司教の声と同じくらいの価値を有し、そしてこの荒れ狂える烏合の衆の決定する如何なる法令も聖霊に基づくものとされている」と当時のある人は嘆いている。ちなみに第24会議においては司教20人、大修道院長13人、第25会議ではチェザリーニが公会議をフィレンツェかモデナModenaに移転して継続すると言う教皇の提案をしようとしたところ、反教皇派は人数を近隣の聖職者から駆り集めて提案を妨げ、あくまでバーゼルを主張した。第26会議にいたってチェザリーニはついに会議の司会をつかさどる事を拒絶した。このように過激化し党派化したバーゼル公会議はついにここに至って過激な多数派majoresとSicut pia materに忠実でギリシア人に同情的、したがって教皇の提案に賛成する少数派minoresとに分裂した。 以上のような動きは先ほど述べたようにガラトニの出席した第21会議頃より顕著になってきたものである。「教皇の尊厳が単に影のようなものになってしまうことを望まなかったエウジェニウスの不平は、バーゼルでの聖職者民主主義the clerical democracyの行状が全く限界を超えるようになったので正当化された。会議の多数派は追放された教皇(訳注、ローマ以外のフィレンツェその他への)に対して示されるどんな敵意も受け入れた。……彼らの真の目的はある会議でトゥールToursの司教が述べた次のような言葉によって驚くべき率直さを持って示された。即ち、我らは教皇座をイタリア人の手から奪取せざるべからず。あるいはまた教皇座を完膚なきまでにかきむしり、それがどこに存在するとしても痛痒を感ぜざるものとなすべからずと」。パストールPastorはこの有様を以上のように説明する。状況の展開に用心深かったエウジェニウスもついにSicut pia materを承認し、ついで1437年12月30日、公会議がバーゼルよりフェララへ移される事を宣言する。またバーゼルの多数派に対してはもしもそれを彼等が妨害するような事があれば、破門を持って対処する事を命じている。 (351)以上述べたように教皇にバーゼルの公会議首位主義に対する断固たる決意を取らせたのは、本来両者にとって論争の本質的な問題点でありえなかった東方教会との一致問題に関連してであった。このような解決の仕方は教皇と公会議の間に存在する本質的な問題点解決への努力を怠らせ、公会議開催の場所(東方教会側の立場への物分りのよさの見せ掛けの元に)をめぐる両者の争いとなり、いわば東方教会問題に対する主導権を獲得する事によって自らの存在を強化しようとする政治的意図があったのではなかったか。両者の決裂は教会改革に関する論争によってではなかったところに後に問題点を未解決のまま残したといえよう。その結果は教皇は教会改革を後回しにして専ら東西教会の一致を達成する事に熱意を注ぎ、一方公会議首位主義者たちは過激な離教への道をひた走り、世俗諸権力の支持をも失い自滅してしまう。このようにしてエウジェニウスが自らに課した唯一つの務めは「教会のどんな権利をも犠牲にしない」という事であり、「教会の伝統的組織を確保する」戦いには成功したと言える。しかし一つの思想の擁護者を打ち負かす事は出来ても思想そのものを打ち負かすことはまた別問題である。いまや公会議首位主義は人々が教会について考えようとする際の一つの思考様式としての地位を獲得してしまったのである。公会議首位説を本当に克服する為の唯一の道は、放置されたままの教会改革にすぐに断固として取り掛かることこれをおいて他になかったのである。教会改革はこの時こそ最も必要とされたのである。ニ(353)バーゼルに残留した多数派はその第31会議において(それはエウジェニウスが荘厳にフェララに入城した三日前の事であった)エウジェニウスの権利剥奪と停職の処分を宣言し、全聖職者は彼に従う事を禁じ、公会議に出席する権利と義務を有するものは直ちにバーゼルに赴くべき事を宣した。 一方フェララに入ったエウジェニウスは参集した聖職者達を前に、教会内の和合を試みるべき事、頭部と肢体における悪弊を改革する事が彼の望みである事を述べ、彼が今回なさざるを得なかった成り行きを短く概括した。更に彼はバーゼルの越権を抑圧する方法を案出するよう援助を頼み、彼等の態度の中に若し何らかの不適当さがあるならばそれを改めるように訓戒した。それに対し枢機卿オルシニOrsiniとラヴェンナの大司教トマスThomasが代表して教皇への忠誠を誓った。その後幾つかの会議が行われたがそれらは殆どバーゼルに対処する論議に終止した。 フィレンツェ公会議のまさにその前夜における公会議首位説の排除、そしてその後に反対宗教改革によって行われた引き締めは、ガリカニズムGallicanismそしてエピスコパリズムEpiscopalismとの相違を鋭く示すことになった。即ち、教会史のうえに何度か現れてくるところの一種の反動が、このフィレンツェ公会議にも現れたのであった。エウジェニウスの「教会の伝統的組織を確保する」事、「教会のどんな権利をも犠牲にしない」という態度は公会議首位主義に向かって示されたものであったが、その態度が今教皇によって開かれようとする一致の公会議の中においても示されようとする。特にバーゼル公会議に見られた公会議首位説とある点で共通性を有すると思われる東方教会の五頭政治Pentarkyとの対決においては、教皇は一歩も譲る事の出来ない点であった。なぜなら(354)ば教皇にとって当面の最も大きな問題は、東方教会との一致もさることながら、それを達成する事によって齎されるであろう公会議首位説に対する勝利であり、教皇権の確立であったと考えられるであろう。教皇エウジェニウスに教会一致への強い願望があったとしても、バーゼルの公会議首位主義に心を動かされないではいなかった。だから特に東方教会の五頭政治理念と対決したときに、教皇の首位権を明確に打ち出しておくことは彼のどうしてもしなければならないことであった。 教皇の首位権についてフィレンツェ公会議においてなされた決議は次のようである。「使徒の座(教皇座)ならびに教皇は、全地上にわたってその優位を保つ。教皇は、ペトロの後継者として、かつまたキリストの代理者として、全教会の頭であり、全てのキリスト教徒の父にして教師である。かかるがゆえにまた教皇は、いにしえの諸公会議の記録とカノンに従い、全教会を指導する権力を有する事を明言する」。この中「いにしえの諸公会議の記録……に従い」というつけたりについては、ラテン教会側ではこれを単なる説明的なものと解釈していたのに対して、ギリシア教会側ではこれを権限に枠をはめる意味での、制限的なものと解釈したのであった。この部分についてはエドワード・ギボンEdward Gibbonが有名な彼の著書「ローマ帝国衰亡史」Decline and Fallの中で皮肉を込めて「ギリシア人たちが名誉を汚されることなく、しかもラテン人が満足するように、進学面でバランスがわずかばかりバチカンに優勢に傾くように言葉と音節に重みをつけたのだと述べている。だからもしもこの決議が単にギリシア人との関係のみにおいて考慮されるのであるならば、この決議の価値は薄れるのである。しかし「そこに定義された教皇の位置は、だから第一にギリシア人が考慮されていたとしても、ラテン人のために定義された」のであったから、教皇はたとえその一部であろうとも首位権をそこなってはならなかったし、その宣言を広くヨーロッパに公布しなければならなかった。当時バーゼルは既に孤立化しつつあり諸国家の関心もまた離れつつあった。教皇にとって国家の背景を欠いたバーゼルなどは恐るに足らぬ存在となりつつあった。教皇はバーゼルの公会議首位主義者達に勝った(355)のである。 エウジェニウスの功績はフィレンツェにおける東方教会との一致(それは一時的であった)を達成する事により、公会議首位主義によって大きく失われた教皇権を回復することによって伝統を固守した事にあった。このような状況の下に成された東西教会の一致が一体真のものであり、また永続するものであろうか。1439年宣言されたギリシア教会との一致は「これに先立つ合同の試みを全て不成功に終わらせたあの不信の念を東方に起こさしめたのみであった」。そして不信の念とは一体何を指すのであろうか。それはむやみに自らの伝統を他に強要することである。それは一致に対する誠実さと同程度に必要条件であろう。そしてたとえエウジェニウスに一致への情熱が純粋にあったとしてももう一つの条件に欠けていたといえないだろうか。東ローマ帝国は数ヵ月後オスマン・トルコの支配下におち、バルカンおよび小アジアのキリスト教徒は彼らを救う事は出来なかったローマ教会との全ての絆を断ち、自分達の典礼と信仰への忠実さの中に、自分達の司教と修道者の周囲に結束した。当時のヨーロッパ人たちはこれに殆ど関心を持たず、教皇の十字軍の呼びかけも殆ど効果なく、ただ僅かのヒューマニスト達だけが「ホーマーの第二の死」を悲しんだのみであった。そしてこのとき東方の諸教会が拒否したが故に、教皇が統一計画を追及していた中世キリスト教世界の領域は本来西欧にあるということになった。 バーゼル公会議によって生じた不一致は、史上最後の対立教皇側の全面的屈服によって1449年終わりを告げた。しかし公会議首位主義は人の思考様式としての地位を獲得し、「やがてルターの革命がその起源においてこの首位説の上に基礎を置くこととなるのである」。

Grund 1 M zu R

(p5)磯見辰典 概観ヨーロッパの統一と分裂 クリストファ・ドウソンが好んで用いる表現に従えば、近代の歴史的本質は「キリスト教世界の分裂the dividing of Christendom」にある。その中世的共同体理念の崩壊が、ネガティブな面として国際的統一の喪失と教皇権の衰微、ポジティブな面として近代国家の成立と国民的統一によって齎されたとすれば、それら全ての要素は、十五世紀ヨーロッパに起こった一連の歴史的事件を列挙しただけで、既に明白に示されると言えよう。 ローマ教会にとって、15世紀が教会大分裂Magna Scismaに一応の解決を与えたコンスタンツKonstanz公会議(1414-1418)に始まったことは象徴的である。その指導的理念である公会議至上主義Conciliarismeは、ほどなくバーゼルBasel公会議(1431-1449)の混迷を招き、ローマ教皇権の権威に深刻な打撃を与えることになった。もとより教皇権の衰微と国家的統一と言う二面は、有機的な密着を持って歴史に反映される。バーゼル公会議を背景にもち、1438年に教皇とフランス王の間で結ばれたブールジュの宗教勅令Pragmatique Sanction de Bourgesは、聖職禄保有権・裁判権、教会課税をめぐる教皇庁の全面的な譲歩であるとともに、百年戦争を通じて常備軍の編成、恒久的タイユ税の設置などを基礎に近世国家体制を形成しつつあったフランスの伝統的ガ(6)リカニズムGallicanismeの勝利であった。この宗教勅令の短命(1461年廃止)は実質的に何の影響も無い。それどころか、政治的理由で一時的にこれを廃止したルイ11世(1461-1483)は、中央集権化を推進するとともに(中略) (6)ヨーロッパ史の観点に立つとき、広大な領域と多様な民族を含む神聖ローマ帝国の存在と変遷の重要性を疑うものは無いであろう。コンスタンツ公会議で焚刑に処せられたフスJ.Husの同調者によるフス派の反乱(1419-1436)を鎮圧した後、皇帝に選出されたアルブレヒト二世(1438-1439)以来、その帝位はハプスブルク家Habsburgerによって独占される事になった。東ローマ帝国の滅亡(1453)は、トルコとの接触と言う、それまでビザンツ世界が西ヨーロッパに対して果たしていた役割を、長期間にわたってハプスブルク家に課することになった。二世紀余りにわたってトルコの侵入に脅かされながら、武力抵抗とともに、時に平和条約を締結してその脅威から脱した帝国の軍事的外交的役割は、意識するとしないに関わらず、西ヨーロッパの運命に多大の影響を与える事になる。グラナダ陥落によるカリフ王国のイベリア半島の撤退は、この帝国の存在があって更に重要性を帯びるのである。しかし、もとより神聖ローマ帝国を、その版図の広大さ、国際性事情の地位の重要さを持って、古代ローマ帝国に擬する事は出来ない。この中世の普遍的なキリスト公的理想を示す名称を持つ帝国は、その内部に近代そのものの矛盾を抱えた理念的帝国であった。前世紀、『黄金勅書Bulla Aurea』の発布(1356)が、七選帝侯による選(8)挙制を確立した時点で既に世俗的国家としての統一への希望は失われた。同時に一皇帝による両方諸国家の支配という強力な権力の存在の可能性さえ疑わしくなった。オーストリアを支配する「神聖ローマ皇帝」は、帝国全体にとっては、もう一つの称号「ローマ人の王」、更に1491年以後に加わった「ハンガリー王」としてその世俗的権力を有したのである。しかもなお神聖ローマ帝国を存続させたものは、その中世的普遍的理念であった。そして、その理念はローマ教会との結びつき無しにはありえないものなのである。しかし現実にはイタリア問題をめぐって教皇支持者と対立し、プラハではフス派の反乱を見るとともに、やがてはルターとその支持者を内部に抱える事になる。少なくとも神聖ローマ帝国が民族的国民的統一国家たり得ないことは明らかである。皇帝もまた、フランス王とは対照的に、直轄地の拡大、中央集権化という方向には向かい得ない。皇帝は如何なる意味においてもドイツ人共通の王ではなかった。それは後述する如く、16世紀のカール5世(1519-1556)の治世に於てさえ例外ではなかったのである。ドイツ統一の遅れを口にする者は、各領邦国家の分裂を固定化したものが、神聖ローマ帝国の持つ普遍的理念に他ならなかったと言う逆説的な歴史現象に気付くべきであろう。 統一の遅れは、イタリアでは全く別な意味を持っていた。皇帝派Ghibellinesと教皇はGuelfsの争いで分裂していたイタリア半島では、神聖ローマ帝国はー その野心と実際的な干渉は尚三世紀にわたって存続するとは言え - 最早その権威を失っていた。教皇領、ナポリ、シチリア王国、サヴォイ、ミラノ、モデナ公国、マントヴァその他の侯国、アスティ、ヴェネチア、ジェノア、ルッカ、フィレンツェ、サン・マリノ共和国によって分有されたイタリアの政治的統一は殆ど不可能に近かった。共和国は自由都市として構想を繰り返すとともに、そのいくつかは、後継者の為にこれを領有しようとする野望家Condottieriに身をゆだね、ナポリ、シチリア王国は、フランス、特にアラゴンの外国勢力による干渉の対象となり、教皇領ではネポティズムNepotismによる混乱が続いた。しかし、イタリア諸邦の一種の勢力均衡が時に同盟による結果を実現させる事があった。1454年から翌年にかけての(9)神聖同盟Lega Santiはー 世紀末フランスの侵入に対し皇帝、スペインを加えて結成された依存的なそれと異なり - 全イタリアに浸透する後期ルネサンス文化に対する政治的基盤を提供した。 コンスタンチノープル陥落に直面して、中世の教皇が当然抱くべき構想を十五世紀の教皇も抱いた。ニコラウス5世(1447-1455)の十字軍遠征宣言に続いてピウス2世(1458-1464)は1460年これを召集、三年後自ら指揮を執ってこれを実現する。しかしその結果は、十五世紀が最早キリスト教的ヨーロッパという共同体的意識の中に生きていない事を証明したに留まった。のみならず、相次ぐイタリアの政争の只中にある教皇座は、やがてサヴォナローラSavonarolaの痛烈な攻撃の対象となるアレクサンデル6世(1492-1503)を迎えるに至る。中世における教皇座を巡る争いは、聖俗両界を通じての教皇権の強力な実験を物語るものであった。しかし、十五世紀末の教会の危機は、教皇座が自らルネサンスの世俗文化に浸り、その文化の指導的、創造的意欲を欠いた事にある。教皇権の衰微が国民国家の成立と発展との相関関係にあるというとき、それは単に政治的な力関係を意味するのではなく、何よりも精神的、文化的領域におけるエートスの問題なのである。 以上、概観したとおり、十五世紀ヨーロッパの政治的状況は分裂と統一の錯綜の中にある。内に諸国民国家の統一、連合を抱えながらヨーロッパは、既に中世の精神共同体としての統一を喪失した。しかし分裂のあるところには常に統一への意志を見出す事が出来る。 それを政治思想に見るとすれば、イタリアの統一と安定を目指したマキャベリの思想的影響を見るべきであろう。この誤解される事の多い思想家は、絶対専制王政の理論的擁護者としてのみ理解されるが、その手段は、正反対とみなされる思想家、たとえばイギリスのピューリタン革命時の平等派Levellersを援用する事も可能だったのである。 平和思想も単に理念的平和を求めるより、むしろ、国家間の条約による平衡安定と言う構想に移行する。(中略)(10)教会による統一への志向はニコラウス・クザーヌスN. Cusanusの神学界における精神的統一、寧ろ宗教的対立を超えたヨーロッパ統一に向かうその教義を一高峰とし、すそ広く広がっていた。それは広範にわたる修道院改革によって示される。ベネディクト会、カルメル会、フランシスコ会、クララ会の会員に起こる神秘主義の傾向、シャルトルー会の内部に生まれる新しい信仰(デヴォーシオ・モデルナ)、ベギナ会による献身的な社会奉仕を通じての信仰実践、これらの多面的な運動の目指すものは一つであった。しかし、これらはヨーロッパにキリスト教による統一を齎すと言う目標を達成することは出来なかった。寧ろ、そのあるものからは - 十分な理由があってのことだが - 教会分裂を促す運動が生まれるのである。

Re-naissance

(2)ルネサンス観の変遷 阿部玄治 ::ルネサンスre-naissanceはフランス語で、「再生」を意味するキリスト教の用語である。これは羅:renascorから生じたイタリア語のリナシタrinascitaから由来するもので、したがって復活、復興といった概念はキリスト教以前のローマやギリシアにまでさかのぼる事が出来るが、ここでは特定の歴史時代をさす用語としてのルネサンスを取り上げる。時代を特定するならば、イタリアでは14-16世紀、西中欧で15世紀末―16世紀を指すものとする事が出来る。:: (3)この頃、古代ローマ帝国の没落から続いた長い古典古代文化の衰退期が終わり、再び古典古代文化が復活したと言う意識が生じ、これを源にして、ルネサンスという表現が生まれて来た。(中略)コンスタンティヌスの寄進状を偽書だと断定したルネサンス期の歴史家ロレンツォ・ヴァッラは、『ラテン語の優雅さについて』(1444)の中でこう語っている。「自由な学芸と言ってほぼ差し支えないようなもの、つまり、絵画、彫刻、建築など、はじめは見るかげもなく堕落し、学芸ともども死滅に近い有様だった。それが今や目覚めて再生した。善良で、学問的にも素養をつんだ芸術家が花の咲き乱れるように活動している。このような我々の時代は幸福である」。(中略)(4)はっきり再生(リナシタ)という言葉を用いて表現したのは、ジョルジオ・ヴァザーリの『イタリアのいとも優れた画家、彫刻家、建築家の列伝』(初版1550)と言われる。この書の中で彼はこう語っている。 古代エジプトで始められた会が彫刻は、ギリシア、ローマに引き継がれて最も優れた作品を生み出した。しかし、ローマ帝国末期に至ると芸術は次第に衰え始める。コンスタンティヌスの凱旋門がそれをはっきり示している。そして蛮族の侵入によるローマ帝国の崩壊についで「全ての最善の芸術家、彫刻家、画家、建築家も、(ローマ)同様に全て滅び去った」。しかし、あらゆる敵以上に、芸術にとって無限に破滅的だったのは、新しいキリスト教信仰の熱狂だった。素晴らしい彫像、会が、モザイク、異教神殿の装飾がことごとく破壊されたのみならず、教会建築の為に、最も著名な異教の神殿自体も破壊された。ロンバルド人のイタリア侵入後も、事態は悪化し続けた。やがて新しい建築が起こるが、蛮族風のゴシック様式に過ぎない。11世紀頃からゆっくりとトスカーナ地方に進歩が始まり、1250年ごろになると、トスカーナ地方が日々に生み出す高潔な人々に点は哀れみを感じ、彼らを太古の形式に連れ戻した。これまでは、ローマ時代の遺跡が残っていてもこれを利用するすべを知らなかったのに、今や魂が目覚め、天才の力とともに、つたない方法を捨て、古代の模倣に戻った。このような再生(リナシタ)を齎した最初の偉大な天才はチマーブエ、ついでジョットである。古代を模倣する事によって、芸術美の一般法則は調和である事、絵画彫刻においては、自然の最も美しい部分の模倣であると言う認識に達した。こうして成し遂げられた進歩はミケランジェロに至って完成の域に達するのである。 (8)ブルクハルトはルネサンスの全文化を「新しい人間」の個人主義的世界観から導き出す。中世の人間も個人には違いなかったが、ブルクハルトによれば、個人としての自分を特別に意識もしなかったし、尊重もしなかった。「人間はただ種族、国民、、団体、家族、その他いずれも何らかの全体的形式の一分子として自己を見るに過ぎなかった」。ところが、ルネサンス期のイタリアでは「人間は精神的個人となり、そしてかくのごときものとして自分自身を自覚した」、このような高められた意識は「国家や一般にこの世のあらゆる事物を客観的に扱い考慮する」事を可能にする。中世人にとっては、この人間意識の二つの面―――外的世界についての知識と人間自身の心的内面についての観念―――は宗教から織り成されるヴェールの元に「半ば夢みつつ、半ば醒めつつ包まれ」ていた。イタリアでは何処よりも速く、このヴェールが取り除かれたのである。彼等は「近代ヨーロッパの息子達の中で最初に生まれ」て来たのである。 自己を人格として意識した、この「新しい人間」は自己を全面的に発展させ、自己の進化を発揮しようとする。このような個性の完成はレオン・バッティスタ・アルベルティのごとき万能人(uomo universale)となって現れた。彼は建築家、画家、彫刻家、音楽家、芸術理論家、詩人、哲学者であり、法律学や物理、数学をも研鑽し、靴直しに至るまでの百般の技能に通じ、荒馬をも御しうる体育競技の達人でもあった。 集団に拘束されぬ個人主義は「名を捨て、身に余る恥を忍んで」まで郷土に留まる事を必要としない。世界いずこに行こうと「我がパンの不足する日の来る事ありとも更に思わず」というダンテの世界市民主義に「個人主義の最高の段階」が認められる。 中世の集団的名誉感に変わったこの近代的「名誉感は、はなはだしい利己主義や大きな悪事とも手を携えて途方も無い欺瞞をもあえてするが、またおよそ人間の人格に残留しえた一切の高尚なものは、これと関連して、この源泉からして力を汲む事も出来る。」 ブルクハルトはここで特にラブレーから、テレムの僧院の規約を引用する。そこでは「何時の欲するところを行えとの掟あるのみである。自由にしてよく生まれ、かつ善き教養を受けた人々は生まれながらにして、正しき行をなし、(10)悪を避けるという本能なり、衝動を有しているからである。そしてこれを人々は名誉と名づける」。この後更にブルクハルトは続ける。「これは18世紀の後半に生気を吹き込んで、フランス革命の為に進路を開拓するにあずかって力のあった人間本性の善に対するあの同一の信念である」。 しからば、かくのごとき「新しい人間」はどのようにして、いかなる原因の元に生み出されたのであろうか。ブルクハルトは13世紀末から16世紀前半にかけてのイタリアの政治状態を指摘する。「これら諸国の性格の中に、それが共和国たると僭主国たるとを問わず、かのイタリア人をして早くから近代的人間としての完成を遂げしめた発展の、唯一とまではいえなくても、少なくとも最も有力な理由が存在する」。教皇と皇帝の長い闘争はイタリアにおける中央権力の発展を妨げた。皇帝は最も有力な場合でも既存の諸勢力の指導者、支持者として尊敬を払われただけであり、教皇は皇帝の統一を妨害する力はあったが、自ら統一を成し遂げるだけの力を欠いていた。この二つの勢力の間に都市や僭主や様々の政治的形態が存在しえた。挙句の果て、皇帝権は著しく衰え、教皇もアヴィニョンに移された。しかし対外事情はイタリアを政治的真空状態にしておいた。フランスはイギリスとの百年戦争に忙しく、スペインはレコンキスタ(再征服)の最中であった。このような正統性の欠如―――「非正統性」―――という状態の中で、イタリア諸都市が繁栄し、かつ相互に戦った。様々の僭主、党派、社会階級が争い合い、彼等は自己の個性を最高度に発揮した。優れた個性が芸術品を作り出すように、彼等の個性が国家を作り出した。「打算と意識の産物としての国家、芸術品としての国家」がこうして作られたのである。しかし彼等はその非正統性の故に、常に暗殺や裏切りの危険に取り巻かれていた。このような個性を示す典型的人物として、傭兵隊長Condottiereが挙げられる。武勲を挙げれば傭主から危険人物として処分される心配があり、敗れれ(11)ば責任を追及され、あるいは復讐される恐れもあった。彼等は教皇の破門も意に介せず、反覆つねなく、残酷で打算的な人物となったが、部下からは尊敬され、驚嘆される。最高度にまで精錬された才幹・人格を発展させた。 非正統の支配者は当然、門地を誇りとする事は出来ない。彼等が「結びうる唯一の光栄ある交際と言えば、氏素性を問わず、優れた天稟に恵まれた人々との交遊であった……彼等が必要としたものは、才能であって、門地ではなかった。詩人や学者の間に伍して彼等は新しい立脚地に立つのを感じーーー否新しい正統性を所有したと感じた」のである。ここに専制君主や権勢家とルネサンス文化の担い手であるヒューマニスト(人文主義者)とが、その個人的才能のみを頼りとして同盟するという事態が生まれた。(中略)(12)ルネサンス人の持つこの「強烈な個性」は宗教においても「徹頭徹尾彼らをして主観的ならしめ、更に外界及び精神界の発見が彼らに与える刺激は、彼らをして現世的ならしめる」。加うるに、「古代の思弁と会議とは往々にして、イタリア人の精神を完全に圧倒した」。「ヒューマニストは異教的であり、その分野が15世紀に広がるにつれ、ますますそうなった」。(中略)(13)ブルクハルトはヒューマニストがキリスト教と異教の古典とを調和させようとつとめた事を知っており、マルシリオ・フィリーノのプラトン研究に基づくキリスト教神学に注目し、このような宗教的活動と世俗的活動の総合の中に近代の先導者を認めている。「古代の復興」という点に関しては、ブルクハルトはこれをもって上に述べたような個人主義を生み出す原因とはみなさなかった。古代は他の実際の原因の元で利用された材料であり、受動的な対象であった。「古代の復興はその独力をもって西欧の天地を征服したものではなかった。寧ろこれと並んで存在したイタリア国民精神と密接に連合して初めてこれを成し遂げえたのである」。 世界の発見という点では、ブルクハルトは「真の発見者とは、偶然最初に何処かの地に行き当たった者ではなく、自ら求めてこれを発見する人々」であるとし、「イタリア人こそ、中世後期における主たる近代的発見の国民」であるとしている。自然科学による世界の発見に関しては、ヒューマニストによる直接の寄与は殆どなく、逆にヒューマニストが「最良の精鋭(エリート)を己が陣営に吸収して」自然の機能的研究に害を与えた事を認めている。しかし、ブルクハルトが重視したのは、特別な科学的成果ではなく、外的世界を正確に、客観的に自主的に見ようとする考え方の普及であり、地理、旅行、風景、植物、動物、人種の型などに対する関心―――自然に対する態度であった。ブルクハルトはダンテやペトラルカの登山について語り、更にファン・アイクらのフランドル派の画匠による自然の描写を指摘し、そこに「近代的風格」を認めるのである。・(17)ブルクハルト自身は中世の中にルネサンスの先駆者や先駆的事象のあったことを良く知っていて、「カール大帝を代表とする……文化は、7-8世紀の野蛮主義に対し、本質的に一つのルネサンスである……修道院の学問もまたローマの著作家から多量の資料を吸収した……ロンバルド人によってドイツから輸入された政治制度、騎士道、その他の北方の文化形態、宗教と教会の影響……などが一緒になって近代イタリア精神を作り出した」とも述べている。(中森義宗・岩重政敏編『ルネサンスの人間像』、近藤出版社・1981年)

Charakter

性格付け(184)ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス3、イタリア・ルネサンスに関する三つの付言 1 異教的ローマとキリスト教的ローマ -二つのローマの対話としてのルネサンス(1)イタリアの人文主義者は「古代人」とともに生き復活すると言う理想を持っていた。マキャベリは意味深い言葉でイタリアは「詩歌・絵画・彫刻に見られるように、死滅したものを甦らせる為に生まれたかのようだ」と述べている。しかしそれら「死滅したもの」が現世にとり、かくも重要かつ必要なものと判断されるなら、それはつまりそれらは身近なところにあり、いずれにせよ完全には死んでいないのだということである。 実際、異教的ローマは決してキリスト教ヨーロッパの中に死滅したのではなかった。中世史家はそのことに関して十分すぎるほどの証拠を指摘する。彼らの中でボルガーBolgarは、西欧がその文学的素材と思考方法のインスピレーションを養ったローマ帝国末期の文明の残存を正確な研究で示している。それはなんら驚くべき事ではな(185)い。つまり、キリスト教ローマが異教的ローマを知的隣人として受け入れた事は、他に代わるもの、すなわち、古代ローマと競う事の出来る別の文明が存在しなかっただけに、一層明白である。既に二世紀に聖ユスティヌスは、「あらゆる気高き思想は何処から来たものであれ、キリスト教徒にとって利用できるものである」と、断言した。そして聖ヒエロニムスは古典研究に余り情熱を示したので、キリスト教徒的というよりキケロ的だと非難されたにもかかわらず、死ぬまで自分の弟子達に異教の古典を教え続けた。同様に、キリスト教に改宗する前は修辞学の教師であった聖アウグスティヌスは、二つのローマのこの対話を象徴している。かくして、全ての教父の伝統はーそれが中世に非常に有力であった事は言う前も無いがーヒエロニムスやギリシア教父たちのように熱心に古典文化を学ぶのであれ、アウグスティヌスや大グレゴリウス教皇のように宗教的動機により、ある制限を設けるのであれ、どんな場合にもその明白な価値によって受け入れている。ボルガーが教父の伝統について述べた章の最後に「明らかに六世紀から十六世紀まで、異教―キリスト教を学ぼうとする波は愈々高まっていった」と指摘した事に同意しなければならない。 こうした異教―キリスト教的対話が、特別に思想的になんら相容れないところがなかった事を認めれば、セビリアのイシドールIsidoro de Sevillaの百科全書から、ベダBedaやアルクインAlcuinのアングロ・サクソン学派、そしてローマの模倣への夢に満ちたカロリング・ルネサンスまで、二つの伝統のもつれ合った糸を手繰って、ついに12,3世紀、翻訳者と古典古代への復帰の時代に一気に突入することは容易である。自ら、「常に古代の陰で生きている」中世全体は、古代への復帰への一連の努力、換言すれば、一連の部分的「ルネサンス」である。中世の作品においては、ドナトゥスDonatus、プリシリアヌスPriscilianus、プラウトゥスPlautus、オヴィディウスOvidius、テレンシウスTerencius、ヴェルギリウスVirgilius、キケロCiceroなどの引用が頻繁に出て来る。彼らの著作は、修道院や大聖堂付属の図書室に真の宝として保存されてい(186)る。イタリア人分主義者の偉大な功績を汚すことなくその仕事は、古代知識回復へのあの世俗的努力の最後の段階を意味するものである。 14,15世紀のイタリアでの「復興」からはるかに隔たった異教的古代が中世の文化・芸術の中に行き続けたと言う事は、はっきりと認められる事実であると結論できる。しかも、ギリシア・ローマの神々さえ―中世キリスト教文化によって没落させられたと考えられやすいが―イタリア・ルネサンスの間に甦ったのではなく、ローマの著作家たちが前キリスト教時代の末期に持っていた宗教的概念に包まれ、中世全体にわたって存在していた。キリスト教世界の真っ只中にギリシアの神々が根強く生き残ったと言う奇妙な現象は、セズネックが良く描いている(『古代の神々の残存』La survivance des dieux antiques)。(2)確かに、ルネサンスを古代への単なる復帰であるとする事は、それを歪め不完全なものにする。もしそれだけなら、多くのルネサンスを有する中世とそれほど変わらないものとなろう。実際、イタリア・ルネサンスは、単なる古代知識の伝達ではなく、それ以上のものである。ルネサンスの新しさは、この伝達のみでなく、その独特な受容にある。換言すれば、それは単なる内容(古代への復帰)だけでなく、主観的態度つまり中世とは異なったものの見方である。更に具体的に言うと、たとえばシャボーChabodが、中世とルネサンスにおける、古典古代の理念やリアリズムや個人主義を比較し、確かな証拠を元に出した結論は、この三つの点がただ、ルネサンスには存在する、中世には存在しないといった単純なものでなくて、古典古代に対する「異なった見方」という事である。かくて「人文主義者」、ル・マンのイルドベールHildebert le Mans ―12世紀―による過去への賞賛は、遠く隔たった感じ(‘’par tibi Roma, nihil cum sis prope tota ruina’ローマは美しい世界、だ(187)が既に消滅してしまっている)を伴っている。これに反し、コラ・ディ・リエンツォCola di Rienzo、サルターティSalutati、マキャヴェリMachiavelliなどは、過去を見るときイルドベールと似た感激を持ちながらも、同時に現在において、模倣すべき模範として過去を見る。―(’latent omnia quae scire non est satis, nisi operibus impleantur’ Salutati「隠れた全てを知るだけでは十分でない、それを実行に移すべきだ」)―換言すれば、ルネサンスにおいては古代は当時の理想とされたと言うことである。 ガレンGarinの次の言葉も同様な解釈を示すものである。「ルネサンス、闇を追い払う光、復活する古代の誇り高き神話、それは具体的にその内容を言うのではない。新しい活気溢れる状態、ものの新しい見方を強調するのである。古代は、郷愁のまなざしで見ると、それまでとは違った風に見られ、愛される」。(3)この新しい見方は、中世人とルネサンス人とでは違っている。実際、ヴァイスWeissが断言するように、「完全な障壁が人文主義者をローマの古代人から切り離していた」。人文主義者の好むと好まざるとに関わらず、千年以上ものキリスト教の伝統が、彼らを彼等の生きているキリスト教社会特有の信念・偏見・神への賛仰で包んでいた。古代への復帰は、しばしば人工的・偽装的なものとなり、人文主義者は歴史的知識の欠如により、余りにも頻繁に自己の思想を古代思想に帰した。そして、どんな場合でも、二つのローマの対話は続くのである。それは自分達が栄えあるローマ時代に完全に帰ったと信じようとしたが、しかし事実上、そう出来なかったということなのである。確かに、キリスト教ローマの精神が全体を貫いていた。 a. フォイクトVoigtによれば、人文主義者たちの古典への復帰にとり、鍵となる人物と考えられるペトラルカPetrarcaは、その著書『自分と多くの人の無知について』(De sui ipsius et multorum ignorantia ---(188)1337-38)の中で次のように述べる。「キケロを尊敬する事がキケロ的であるとすれば、私はキケロ的である……しかし、宗教、つまり永遠の救済のような至高の真理、真の幸福について言うなら、確かに私はキケロ的でもプラトン的でもなく、キリスト教徒である。更に、私はキケロがキリストを見て、彼の教義を理解する機会を得たなら、彼こそキリスト教徒になったであろうと確信する」。そして、彼の古代の偉大な人々(ホメロス、ヴェルギリウス、リヴィウス、キケロ、セネカ)にあてられた彼の書簡の中では、「あなた(キケロ)の知らなかった神の時代、1345年に書かれた」とか、またセネカへの書簡の中では、「あなたの主人(ネロ)が崇拝するより迫害する事を選んだ御方の誕生より1350年に」というキリスト教的表現を用いている。 時間的に、また精神的に隔たった意識はまだ明白である。ペトラルカは、彼の生きた時代、つまり14世紀の人間であった。それゆえ、何世紀かのキリスト教の伝統が古典古代人とペトラルカならびに彼の仲間の人文主義者たちとの間に立っていた。これら二つの伝統は、保存され調和されるべきものであった。ペトラルカがローマのカピトリウム(ジュピターの神殿)で詩人の月桂冠を戴いたとき、きわめて象徴的であったのは、聖ペテロの墓に冠を置きに行った(1341年4月)ということである。いずれにせよ、彼はセネカやキケロとともに、聖アウグスティヌスが最高の導師であり、インスピレーションの源であって、またアウグスティヌスの人生に彼自身の人生を見る事が出来ると信じていた。(’’Legere arbitror, non alienam, sed propriae peregrinationis historiam’’ 「私は他人の人生を読んでいるのではなく、自分の人生を読んでいるようだ」)。聖アウグスティヌスとの自伝的対話は、件の二つのローマの美しい対話を成している。しばしば用いられる、よく知られた引用は、所謂「発見する」対象たる自然を眺望できるベントソ山Monte Veentosoへのあの有名なペトラルカの登山である。しかし意外な事は、ペトラルカが書いているように、そういうときにも「常に携えている」聖アウグスティヌスの告白禄を開いたと言う事である。彼はそのとき、次のような言葉に出会い、感銘を受ける。―――「人は、高い山々、海の(189)巨大な波、広い河床、広大な太洋、銀河を眺めようとやって来る。しかし、人は自分自身の事を忘れ眺めようとしない」(Confess, X, 8,15)。ここで、ペトラルカは、「まだ地上のものを眺めている自分自身に腹を立て」自分の内部に目を向け、一言も口を聞かずに山を降りた。これは、1336年4月のことであり、この偉大なフィレンツェの人文主義者にとり、精神的にきわめて意義深い日となった。 b. しかし、ペトラルカのようなルネサンスの情熱的な代表的人物から、より客観的なイタリアの図書館の蔵書目録に目を転じると、そこには二つのローマの自然な「共存」がみられる。15世紀のイタリア・ルネサンスの都市の中でフィレンツェほど代表的な都市を、またその中でメディチ家ほど熱心で啓蒙的な推進者を見つける事は難しいだろう。さてコシモCosimoとロレンツォ・デ・メディチLorenzo de Mediciの図書目録に記載されている写本や著書には、聖書や教父伝のようなものと、ギリシア・ローマ作家のものがあるが、質量ともにきわめて意義のある均衡が感じられる。そしてどんな図書館でも、それが新しいものであれば一層、その計画や選択には明らかに、創立者の趣味・精神が具体的に示されている。この目録の明白な価値は、これが教会のでなく、世俗の図書館のものである事を考えると、いっそう増大するのである。 c. 結局、芸術において―――それはヴァザーリにとってまさにルネサンス概念の特徴であった―――中世の断絶の後の純粋な、古代への復帰という伝統的概念は疑わしいものとなり、更に少なからぬ人々によって捨て去られた。ただ、ルネサンスの代表的建築と古代のローマ寺院とが、両者の建築様式の明白な際を知るために、比較されねばならない。即ち、疑いなくビザンツ的要素や中世的要素が数多く付け加えられている。たとえば柱廊の上のアーチ、円筒状の外周を持つ教会、ロマネスク様式の回廊にのせられた円屋根、その中で最も有名なミケランジェロのドームも、古典ローマ的というよりビザンツ様式である。また、古代ローマには存在しなかった十字架形で一点に集まる脇廊など。(190)ルネサンスの有名な墓までがキリスト教的装飾の元に、石棺に亡き人の肖像を刻むと言う中世の伝統に従っている。メディチ家の墓―新しい香部屋―では、公爵たちがローマの武具を身につけている。しかしミケランジェロの、ピエタとともに最も評価されている、聖母マリアの像がその中央を占めている。つまりルネサンスの墓も、当然人間にささげられてはいるが、最後の永遠の救済と言うキリスト教的観念に向かっていくのである。(四)イタリア・ルネサンスの成果である、この古典古代への「条件づけられた」復帰はまさに逆説的結果を持つことになろう。実際、モンテヴェルディA. Monteverdiの鋭い直感に寄れば、ルネサンスは古代の理解に可能な限り一層深く入ろうとして、ついには自己の近代化を実現し、既に完全に消滅してしまった古代の精神と形体を復活させたいという中世的熱狂から、急速に永久に西欧を開放する。勿論、ルネサンスが中世に連続的に興ったルネサンスの最後のものであるなら、それ自体、単に一つのルネサンスと言うより寧ろ既に中世において熟していた新旧あらゆる要素を融合した止揚なのである。 然るべきときに近代ヨーロッパを生み出すのは、二つのローマの伝統の共生したものである。しかし、未来の近代ヨーロッパを作りつつあった、こうした古代―中世の歴史的過去の融合が芽生え始めている。換言すれば、ルネサンス期は本質的には過渡的転換期なのである。

Die Zeit

過渡的・混合的性格の時代としてのルネサンス(ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス) 中世とルネサンスの間に境界線を引く事が困難なのは、理論的に「闇―光」というような有名な反律が既にその学問的価値の多くを失ってしまったからである。実際、ルネサンスは明らかに二つの側面を持っている。一方では、中世の終わりであり頂点である。もう一方では、近代の始まりであり、玄関である。確かに「歴史の連続性」の根本的起源は、それぞれ隔離した世界のような、確固とした各時代から湧き出る。当然の事ながら、各時(193)代に優先した真の特徴とか差異を過小視するような極端に走るべきではない。「ルネサンス」という言葉は不運な言葉であるかも知れぬが、中世とルネサンスは、二つの異なったものであることは否定できない。しかしそれだからといって百科全書派のように、二つの間に大きな溝を作ったり、皮相的コントラストを示したりすべきではない。ルネサンスは、近接した過去―中世―と完全に決裂したものでも、未来に向かって突然に飛躍したものでもなく、歴史的過程の結果であって、その真正な根源は中世の土壌の中に求められるべきものである。(一) 中世とルネサンスの連続性―中世に関する最近のー研究は、中世についての数多の古い見解を修正した。実際、以前あれほど酷く、無責任に中傷された中世は今や、それ自身の文化的・社会政治的特質によって、再評価されるようになった。さらに、最後には、中性はルネサンスに取り不可欠な準備段階であると考えられた。そして、芸術・文学・思想において、さらにはその後近代が直面せねばならなかった深刻な社会・政治・宗教的危機は、すでに中世に生起していたものとされるに至った。マティングリーMattinglyはルネサンスをブルジョワ文化の結果と考え、政治面(他の方面にも適用できる)に冠しては、ファーガソンFergusonの年代区分(1300-1600)に賛同していない。そして、トインビーのように、11世紀、イタリア・コンミューンの始まりに、その起源を求めることに一種の正しい論理があると考えるに至っている。また、ルネサンスの政治史をフランス革命にまで伸ばす人もいる。更にバラクラフG. Baracloughは彼特有の知的大胆さで、ルネサンスを排斥し、独特な「中世」を、1789年つまりペトラルカからヴォルテールまでの時代に広げている。マティングリーの穏健な意見に戻れば、西欧の政治史のドラマ全体は国家の成立である。ルネサンスはその「ドラマの一幕」、すなわち、統一的・階層的・精神的なキリスト教(194)社会から異質的な独立自治国家の世俗的社会である近代ヨーロッパへの転換の危機的段階であるとみなされねばならない。ルネサンス期における基本的人間像は、ベイカーBakerの言う「惰性の原理」に従って、古代および中世に依存している。これは人間の学における思想の歴史の連続性を示すものであって、そこではルネサンスは「過去と未来に向かって」広がっている、と彼は断言するのである。ホイジンガは、この問題を広くかつ独創的に論じている。彼は示唆に富んだ言葉で、ルネサンスを「日曜日の衣装(晴れ着)」と呼ぶ。この言葉は、中世と近代の間に置かれ、それ自身の内部に転換的要素と言う大きな異質性を持つルネサンスの表面性、および臨時的性格を現すものである。更に中世と近代のアンチテーゼにおいて、ホイジンガは疑いなくルネサンスを中世の側に置く。かような断定は、中世のあらゆる重要な思想形態がルネサンスの間、生き残ったと言う根拠に基づくものである。実際あらゆる知的なものを規定する権威の原理は、ルネサンスに存続し、ルネサンスはその殆ど盲目的ともいえる、古代の範例に対する尊敬において、「権威の文化」である。美・礼服・美徳についての永久的価値基準が指標となるべく求められる。中でもイタリア文芸ルネサンスの「四人の世俗的博士」(ヴァイスが呼ぶように)――サンナザロSannazaro、カスティリオーネCastiglione、アリオストAriosto、マキャベリ――は、具体的な生きている個々人ではなく、ルネサンスの理想の人格化、「抽象的な理想的典型」を描く。例えば、君主、宮廷人、知識人=人文主義者など。サンナザロの牧人たちも、アリオストの騎士同様、完全に虚構の世界に住んでいる。カスティリオーネの宮廷人は、現実を理想化したモデルである。かの有名な「万能人」までも、中世から取られた理想なのである。 同様な事が、新知識の獲得についてもいえる。ルネサンスは論理的証明や権威の証明によって、既存の知識を堅固なものとする事に努力する。いまだ表明されていない知識の追求は、デカルトと彼の時代以来の方向転換となろう、実際に、進歩の概念はルネサンス的概念ではない。宇宙論的には、コペルニクスの存在にもかかわらず(195)(ガリレオは17世紀)、地球中心説が17世紀の後半まで続く。最後に、ホイジンガの意見によれば、社会学的には、社会的責任感の殆ど全面的な欠如、中世的概念が存続した身分観、他人に対する奉仕観によって、ルネサンスが近世より中世的であるばかりか、この社会的特徴に於ても、中世に比し後退している事を示している。 明らかに、中世史家達の断言(多かれ少なかれ、論議の対象になったり、認めがたい点があるかもしれないが)の中の、ある発言とか細部に関わりなく、中世的要素がルネサンスの中に生き残っているという重要な基本的見解は全く否定できないものである。そして、おのずから、中世と近代が交差するルネサンス内部のこういった曖昧さとか矛盾とかいうものは全て、いわゆるルネサンス像がごく少数の教養ある人々により作られたものであると言う事実を見抜けばたやすく説明できる。確かに、このような少数派は時代とともに重要性を増していったが、状況を支配するようになるのは、ポール・アザールPaul Hazardが納得の行くよう証明したように、ずっとあと、17世紀末のことである。16世紀には、この知的エリート、また理想主義的少数派は、大多数の人々の持つまだ圧倒的に中世的なヴィジョンに従って、しばしば妥協しなければならない。そして、このような少数派の人々の人格の内面に深く入り込んでいくと、彼らも心理学的な二重性の状態で分裂しており、彼等の学問的・哲学的宗教的思想といったものはまだ統一されていず、異なった段階で同居しているのがわかっる。それゆえ、彼等の精神的矛盾が後代の歴史家達に、ルネサンス人たちの知的かつ宗教的誠実性についての問題を提起した動機となったのである。ペトラルカのような人物の内的葛藤は、ルネサンス精神史全体に横たわり、ボッカチオ、ポンポナッツィ、ピコ、ミケランジェロそしてガリレオ自身にも見られる。(ニ)殆ど全てのギリシア・ラテンの古典文化とキリスト教の始原的要素が実際に西欧文明に付与されたことに加(195)え、比較的新しい、一連の諸要素が付加された事はルネサンス人文主義運動の結果と考えられる。 文体の洗練は明らかな業績であり、文法書や辞書が数多く書かれた。写本を発見し、それを刊行するだけで満足せず、比較分類し、異動を明らかにしながら研究した。こういった仕事から、きわめて価値のある新しい種々の学問が生まれた。例えば、文献学、古代言語研究学、原典および、原典批評、古代の歴史と地理である。 大学は多数存在したけれど、ルネサンス人文主義は、大学でよりも、芸術・文学・哲学同好者が集まるきわめて生彩ある名称を持つ、数多くの協会や学会で発達した。最後に、ルネサンスの真の新しさは、前に指摘したように、その単なる内容よりも、新しい見方、またその強調する点にある。自らを古代世界の刷新者と考え、彼らはギリシア・ラテンの古典文献を土台として文法・修辞学・歴史・詩・倫理学などのカリキュラムを定めた(Studia humanitatis)。 典型的なのは人間の価値を主張することである。刷新された教育を通して人間の理想が追及される。余りに強調されすぎるきらいはあるが、ブルクハルトがたくみに述べているような、個人主義が人間の理想の主要な点であった。この点に関し、偉大な人文主義者であり、教育者であるヴェルギリウス、サルターティ、マネッティ、ピコ、フィチーノ、――もっとも重要な人々のうち、ほんの数人を挙げただけであるが――達が書いた著作を読めば、彼等の持つルネサンスのヴィジョンが全て中世とキリスト教に連なっていることを完全に納得できる。それらにはなんら革命的な所はなく、その根拠はキリスト教の教義上、完全に正統である。

Intellektuelle Schaffenskraft

異教でも、反キリスト教でもない知的運動としてのルネサンス(ルネサンスに関する問題点への付言 J.M.ドミンゲス) (199)人文主義の性格は確かにルネサンス概念にとり重要なものである。ブルクハルトがきっぱりと断言するごとく「かかる人文主義が世俗的事実である」か、否かを決めるのは大切な事である。これらルネサンスを代表(200)するイタリア人の才能と近代性を主張して、このスイスの歴史家は彼らを描くのに強い個性、完全に主観的であり、懐疑的、確固とした信仰を持たず、運命論者で、罪の意識が無いなどの形容を用いている。ブルクハルトは、こうした世俗化の根拠に、古典古代と同一視されるヒューマニズムと異教の復活に変わった、15世紀の人文主義運動を、その起源として置く。ここで注意せねばならないのは、ブルクハルトがそうした問題を取り扱うときには、ためらいの態度を取ったり、弁解したりしているが、後の後継者達は彼の賢明な態度を忘れて過激化したのである。とにかく、これは、常にブルクハルトのルネサンス像の弱点の一つであろうし、実際、既に弁護の余地の無い点となった。(一)人文主義と古典古代文化に対する熱狂。古典文化の価値と、文学・芸術の様式への賛美とその復興にはなんら非難すべき点も、反キリスト教的な点もなかった。これが特に、中世後半にキリスト教の伝統全てにわたって実現された業績の頂点であったのを、我々はすでに指摘した。しかし、古代に対する誇張された熱狂というものは、(既に聖バシリウスS. Basiliusが指摘したように)ある危険を含んでいた。文学的・美術的様式の美の元には、キリスト教徒は無縁な生命の自然主義的概念が脈打っていた。理想化された古代の魅力的な幻影は、明らかに人をひきつける力を持っていた。古代世界の皮相的ヴィジョンにおいては、古代世界は人文主義者にとり、何か美しく、調和の取れた、楽しく楽天的な、今日知られているそれとは確かに違うものに見えた。事実上、古典古代に対する熱狂、また、一種の軽薄な見方によって、その結果中世世界を軽視する態度を齎す事となった。しかし当時の自然主義は、後世の自然主義の意味ではなく、単なる、習慣からの緩和、道徳や規律よりの解放を目指している。’’memento vivere’’(人生を楽しむ事)、いっそう完全に表現するなら’’credere ut decet, vivere ut libet’’(信(201)ずべきものを信じ、好むがままに生きる事)は、多くのルネサンス人の規範であった。これが明らかになるのは、当時の多くの著作家――即ち、ヴァザーリ、チェリーニCellini、マキャヴェリなど――の著作においてである。しかし、これは決してルネサンスだけの特徴的な現象ではない。ワルザーWalserは、中世に於てもルネサンスよりみだらな事があり、それは春祭や謝肉祭であった事を研究した。このヨーロッパの伝統は、豊作を祈る儀式に過ぎないもので、その後のイタリア・ルネサンスになると、ただ、古典の外面的形式だけで現れたのである。実際、メディチ家のフィレンツェがこのような騒々しく刺激的な謝肉祭を発見したのではなかった。ルネサンスの祭は中世の祭よりも多かれ少なかれ異教的であったとはいえない。だから、その地には異教的な祭りが、最早存在していた故に、両者の間には何の関係も無い。 ルネサンス人の外的行動から表現法「話し方」に移ると、古典古代作家達の模倣の流行は、人文主義を異教的な表現法というよりも、こっけいな言葉遣いに陥りやすくさせた。既にダンテは次のように、イエスの名を呼ぶ。’’O Sommo Giove, che fosti in terra per oni crocefisso’’ おお、我らがために地上で十字架に付けられた至高の神ジュピターよ)。この表現は、彼にとっては神への冒涜ではなく、ただ形式的、外的な異教徒の言葉で表現されているだけである。これは、ワルザーの言う「ことばのあや」tricks of speechであり、まさに代表的キリスト教徒の詩人であったダンテが異教徒であるとか、信仰心に欠けているとか結論しているのではない。ザマの戦いの前に、カルタゴとローマのニ神をジュピターの前にささげるペトラルカの精神もこれと同じことである。そして、このようにして、似非異教的流行には、「不滅の神々」とか、「ロレトの女神マリア」とか、聖人を「神々」扱いして、お悔やみの手紙に、死者達がオリンポスの神々と踊る為、天に昇っていったと書く、真面目な枢機卿ベッサリオンBessarionさえもが含まれている。こういった表現を真面目に受け取るのは、イタリア人文主義者の真の精神全体を害するような、歴史的時代錯誤を招く事になる。他方、ホイジンガの指摘によるとこういった表現は、12世紀(202)に既に用いられていたという事である。 結論を言えば、大部分の人文主義者は、自分が考え、またそうであると思い込みたがったほど「異教徒的」ではなかった。異教への復帰は、キリスト教の否定を代償としなければ実現されえなかった。そして、このことは何百年ものキリスト教の伝統に住んでいては、決して容易なことではなかった。異教徒的な人々は極めて少なく、まれにしかいなかったし、それほど優れてもいなかった。例えばフィレルフォFilefo、ポッジオPoggio、ポンポニオ・レトPomponio Letoなどである。彼らと比較して、ブルクハルト自ら認めざるを得なかったのは、非常に多くの「敬虔な心を持ち、しかも行者的風貌を持った人々」がいたという「奇妙な」事実であった。(ニ)無信仰はまだ15,16世紀には不可能であった。そして、敵意を持った人々に簡単に言われているように、「彼らのうち誰も、形式的哲学的無神論を宣言したり、また宣言しようともしなかった」のを認めるのは、また、このブルクハルトである。この点に関する最初の人物――確かにイタリアに良く当てはまるものである――についての著書’’Le problema de l’incroyance au XVIe siecle’’(『16世紀における無信仰の問題:ラブレーの宗教』)において、フェーブルL. Febvreは、かかる「無神論」もしくは宗教的自由思想が、一つの不可能な単なる空想であったと言う結論を下した。つまり、社会状況に従わない、如何なる人間であっても、彼は常に「その時代の人間」であるという事である。一般に認められている考え(つまり、一層極端に表現すれば、共通の偏見とか神話)を打ち砕く為には、十分に有効な理由が必要である。しかし、歴史的に15世紀にも16世紀にも信仰に対する懐疑や否定が、すくなくとも、見たところ科学的とか哲学的でありうるための科学的根拠は、まだなかった。宗教的諸問題を惹起した地理上の発見、宗教戦争、新科学、新哲学は、ヨーロッパにおいては、まだ十分に成熟してはいなかった。(203)実際、フェーブルの言葉を借りれば、「16世紀は信じたがっている時代」であり、また、ラブレーはデカルト同様「深く宗教的な人間」である。19世紀の歴史家達は、イタリアの人文主義者や芸術家達に宗教的、キリスト教的表現が豊富であると言う事実を無視する事が出来なくて、彼等の無神論とか不信仰を隠す簡単な欺瞞的方法をそこに見出すと言う、ありふれた説明法を行った。クリステラーは、人文主義者の不誠実さと言う説とともに、この新しい異教主義をも否定し、こうした解釈は、後世の歴史家達の偏見であるとともに現実を反感や狭量さでぼかしてしまう人文主義者や同時代人の悪意のせいだとしている。人文主義者自身、その著書で、敵意を持つ神学者達の非難に十分に反論した。15,16世紀のイタリアの偉大な説教師たちが一般民衆や教養階層に深い感銘を与えた事は、彼等の間にどの程度まで誠実な信仰心があったかを示すものである。サヴォナローラSavonarolaの場合は――たしかに、唯一の例ではないが――最も有名であり、きわめて深い意味を持つ。丁度15世紀末期のフィレンツェこそ、彼の宗教的説教に納得させられていたのである。そして、偉大な哲学者であり、人間の尊厳の高揚者であるピコ・デッラ・ミランドラも、柔和さと透明感の画家であるボッティチェリBotticelliも、情熱的なドミニコ会士サヴォナローラの公に認められた弟子である。ルネサンスの人間は確かに富と人生を愛した。しかし彼等は心奥では、人生、死そして死後の世界の大きな問題を考えるとき、常にその行動に何か不安なものがあるのを感じていた。そして、彼等は教会に戻り、以前の生活の許しを請うのであった。シャボーChabodは経済的なものと道徳的なものとの興味深い関係を、当時の人々が「罪」の意識によって教会の告白の秘蹟に導かれていくのを説明するために、ヴィラーニVillaniの『アレサンドラ・マチンギ・ストロッツィの手紙』(‘’Lettere di Alessandra Macinghi Strozzi’’)や『フィレンツェ史』Croniche Fiorentineを引用した。マキャベリさえ――彼の息子、ピエロPieroの書簡を信ずるなら――「彼は、死ぬまで彼とともにいた、マテオ神父Brother Matteoに告白をした」のである。そして、――ブルクハルトが断言するほどは強くないような――個性人(204)に対し、ヨーロッパのその他の国々と同じく、イタリアにおいて、まだ俗人達の行動を指導し、視覚的芸術、音楽、文学にきわめて強い影響を与える宗教的ギルドが生きていた。パストールは『教皇史』の第5巻の序説の中で、ルネサンス・イタリアの宗教的雰囲気について、きわめて印象的に描写している。しかし、宗教面では幾つかの新しい傾向が認められる。世俗化は進み続ける。一方、教皇を頂点とする、その時代の教会主義は、ボニファティウス8世Bonifatius VIII以後だんだん凋落する。ここでブルクハルトは世俗化と反キリスト教精神を証するものではない。ヨーロッパの社会経済的・政治的構造の変遷がこれを良く説明している。隠して、文化の中心は漸次聖職者から、文学者や教養のある商人層に移っていくその主体が変わるようにヴィジョンも変わるが、その内容は変わらない。象徴的な言い方をすれば、中世の大聖堂教会建築に続き、ルネサンスの別荘が建てられる。しかしこのような別荘の広間の一つには、殆ど例外なくイエスに捧げられた礼拝堂がある。つまり、ある程度世俗化はあるが、無宗教でない事は勿論である。(三)更に、ルネサンス人文主義はまさに宗教的運動である。「ルネサンスの時代の知的状況の最も重大な特徴をなすものは、本質的に世俗的であり、また根本的にキリスト教的なことである」。もっとも代表的な人文主義者の大部分が真の信仰者であった。ペトラルカについては、既に彼の精神を評価するに十分なだけ述べた。そして『ラウラLauraの死における抒情詩』の最後の部分、聖母マリアに捧げた詩は、彼の深いキリスト教的ヴィジョンを短くまとめている。ボッカチオBoccacioをこのような系列に入れるのは、いっそう困難であるよ(205)うに思われるが、事実はそうではない。イタリア以外の彼の同時代人にとって、彼はまさに道徳的哲学者として有名であった。特にその著書’’De casibus virorum illustrium’’(『偉大な人の失敗』)および’’De claris mulieribus’’(『偉大な女性について』)(1355-60)により「逆境の中でも忍耐強い学者」と考えられたボッカチオは、『デカメロン』(1353)を書いた後、驚くほど変化した。『コルバッチオ』Corbaccio(1354-55)という著作は、強調された道徳的教訓的性格を持っている。そして、彼の友人、カヴァルカンティMainardo Cavalcantiへの書簡(1373)の中で、彼の青年時代の作品『デカメロン』を放棄するようになり、更にボッカチオ自身、原稿を焼いてしまったように思われる。15世紀末、イタリア・ルネサンスが最盛期に入ると同時に、宗教精神が復活した。フィレンツェでは、コシモ・デ・メディチCosimo de Mediciが「プラトン・アカデミー」を設立し、その指導はマルシリオ・フィチーノに任された。プラトンや新プラトン学派の著作家たちの翻訳や注釈と自己自身の哲学の説明により、フィチーノは「ルネサンス哲学の形成者」と考えられる。ルネサンスの人文主義者は自分自身の哲学に欠けていたが、フィチーノの『プラトン神学』’’Theologia Platonica’’や『キリスト教信仰について』’’De Christiana Religione’’などの作品により、ルネサンス哲学が形成されたと思われる。実際、それは中世的伝統への復帰であり、しかもある程度まではスコラ哲学的思想への復帰であるが、しかし、やはりその雰囲気や表現の仕方はルネサンス的である、とバロンH.Baronは指摘する。実際、プラトンの解釈は、聖アウグスティヌスと中世のドイツ神秘主義者によって行われている。「アテネのモーゼ」といわれるプラトンを頂点とする古代知識は、キリスト教の出現をつげ、確認するものに過ぎないとフィチーノは考える。それゆえ、キリスト教とプラトン哲学の総合が行われる。人間を神化するために、知識より強力なものであるプラトン的愛の哲学は、神秘的・精神的面を強調し、16世紀の文学・芸術のみならず、ルネサンス思想に計り知れないほどの影響を及ぼした。たとえば、現世を超越した、透き通るような優美さを持つ女性の肉体的美しさ――ルネサンス後期の(206)理想――は美しい精神は、美しい肉体に宿ると言うキリスト教的・新プラトン主義的な、この憧憬から芽生えたものである。それゆえ、ミケランジェロのピエタに描かれたイエスの母は、永遠の肉体的若さを浮き彫りしているが、それはまさに腐敗させる罪から、マリアの魂が完全に守られていたからである。このような誠実な宗教観は、ルネサンスの教育家にも影響を与える。最も重要な二大人物は、ヴィトリノ・ダ・フェルトレVittorino da Feltre( 1446)、グアリノ・デ・ヴェロナGuarino de Verona (1460)である。彼等はブルクハルトが扱っているたった二人の人物で、彼等の名声は全土ばかりでなく、ドイツにまで広がり、その力も弟子入りにやって来た。そして二人とも万能で完全な人間を追及し、ギリシア・ローマ的古典とキリスト教的なもの、学問と肉体的訓練を結びつけ、それらを「たくさんの、修道院よりも厳格な、大規模な、道徳的、宗教的規則」のもとに置いた、とブルクハルトは付け加える。生徒の為の毎日のミサや毎月の聖体拝領は、これらの施設学校では生徒の一般教育のための根本的な、行いの原理である。世俗的動機、真理への愛、キリスト教的目的といったものの融合した、不可解な人物、ヴァッラは、近代キリスト教文献学の基礎を築いた。彼の『新約聖書への注釈』’’Adnotationes in Novem Testamentum’’は、原典への深い、しっかりした批判を示すものであり、ルネサンス・キリスト教神学に対する人文主義的貢献を成すもので、クリステラーが「神聖な文献学Sacred Philology」と呼ぶものを形成している。マネッティ、ポリツィアンおよびフィレンツェのプラトン・アカデミーに続いて、フィチーノと書簡の交換を行った英国人コーレットJ.Coletを通して、北方へも広がり、まだ刊行されていなかったヴァッラの『注釈』を、エラスムスが1501年に出版することになる。ルネサンスと人文主義は、人間の尊厳の高揚と言う真の根本的内容において統合されている。勿論、人間の賛美は決してルネサンスの発見ではないし、神への背信とか宗教への攻撃のようなものではない。繰り返し用いられる有名な表現、「中世の神中心主義とルネサンスの人間中心主義」は、互いに排他的なアンチ・テーゼとして、つまり中世で(207)の人間の否定、ルネサンスでの神の否定として解釈されるなら、それは誤りである。しかも、人間の尊厳に対するルネサンス独特の強調は、神の創造の計画の中では、人間が一つの素晴らしい作品であるという事に関して、完全にキリスト教の正当に則っている。こうしたことは、まさにペトラルカ、マネッティ、フィチーノから『人間の尊厳について』’’Oratio de hominis dignitate’’ (1488)を書いたピコにおけるルネサンスの典型的具体化に至るまでの人文主義者によって、しばしば表現された類似の考えである。人間の中心的位置、また宇宙や救済のドラマの中の人間の自由は、明瞭に認められるが、しかし、そのために宗教的真理は無視されなかったし、無論否定される事もなかった。人文主義者のこうした思想は、最も優秀な芸術家達の作品に生き生きとした形態で残っている。たとえば、ミケランジェロがシスティナ聖堂で描いているものは(1508-12)、ルネサンスの全ての宗教的聖画群の概要を示すものであり、そこでは人間は、天地創造から勝利者であり審判者たるイエス・キリストの再臨までの救済の歴史に組み込まれている。そして同様にラファエロは、彼独特の調和的な柔和な調子で、スタンツァ・デラ・シグナトゥラStanza della Signatura(1509-12)の中で、ルネサンスのキリスト教的世界観の真の百科全書とも言うべきものを残している。それは、「聖体の勝利」(信仰―神学)とともに、「アテネ」(思想―哲学)、「パルナッソス」(芸術―絵画)、「正義」(道徳)、「ヘリオドロスとコンスタンティヌス」(教会史)を描いた絵画である。このように、ヘレニズムとヘブライズム、自然なものと超自然なもの、古典古代的伝統とキリスト教的伝統は、14-16世紀のイタリアの最も偉大な人文主義者や芸術家の作品中では、大きな困難無しに共存し、融合している。

Cusanus und Ficinos Akademia

第2章:クザーヌスとイタリア。2.1.(クザーヌスの体系の精神史的意味。世俗的知識の理想。比例の概念。「神の書物」としての自然。数学の尺度。数学的知識と技術的知識。)2.2.フィレンツェのプラトン・アカデミー。フィチーノ学説の歴史的位置と根本性格。フィレンツェ・プラトン主義における美学的モチーフ。クザーヌスとフィチーノにおける自由概念。世界及び人間の「改革」。人間精神の無限性。クザーヌスとフィチーノにおけるキリスト=理念)。第3章:ルネサンス哲学における自由と必然。3.1.(フォルトゥナ=象徴の変遷。ルネサンス文芸におけるフォルトゥナ=問題。ロレンツォ・ヴァッラ。ヴァッラの著作『自由意志について』。ポンポナツィにおける自由意志と必然性。「人間の尊厳」に関するピコの弁明。ピコにおける人間性の理念。カロルス・ボヴィルス(シャルル・ドゥ・ブィーユ)。ボヴィルスにおける存在と自己意識。「自然」の人間と「技術Kunst」の人間。プロメテウス=モチーフ。ルネサンスにおけるプロメテウス=モチーフの変遷。人間性と自律性。)3.2.(中世およびルネサンスにおける占星術。近代的自然概念の成立に対する占星術の意義。ポンポナッツィによる奇跡の占星術的批判。「占星術的因果性」の基本的性格。占星術的歴史哲学。「神々の変容」。小宇宙=モチーフーーーパラケルスス。フィチーノにおける占星術の地位。ピコによる占星術批判。因果概念の改造。天才の概念。占星術に対するケプラーの態度。ブルーノと『驕れる野獣の追放』)。第4章:ルネサンス哲学における「主観」・「客観」問題。4.1.(ギリシャ哲学における霊魂と自我意識。プラトン及びアリストテレスの霊魂概念。アヴェロエス主義。ペトラルカとクザーヌスにおけるアヴェロエス主義との戦い。フィチーノにおけるエロス説。エロス説の宗教哲学的意義。エロス説の認識論及び美学に対する影響。霊魂不滅説に対するポンポナッツィの批判。アヴェロエス主義及びスコラ心理学との対立。個体性問題の唯心論的把握と自然主義的把握。)4.2.(新しい自然感情――ペトラルカ。「自然の発見」の方法。テレジオの自然哲学とその認識論的基礎。経験的魔術的世界観。ルネサンスの自然観における魔術の地位。「自然的魔術」。レオナルドの真理概念。レオナルドによる「自然の必然性」概念。レオナルドの自然観察における理論的なモメントと美学的なモメント。形式の問題。自然と天才。新しい「自然の真理」の概念。数学と芸術理論。プラトン、レオナルド、ガリレイ。神秘的=魔術的自然観の克服。感覚についての新しい位置づけ。「純粋」数学と「応用」数学。)4.3.(アリストテレス自然学の諸前提。場所と運動の相対性の発見。クザーヌスにおける運動の相対性の原理。集合=空間から体系=空間への移行。幾何学的基本概念としての運動。デカルトとフェルマにおける座標概念。ジョルダーノ・ブルーノにおける空間、力、生)(93)フィレンツェのプラトン・アカデミー 数学者としてのクザーヌスは、ただちに自分の周りに一群の学徒たちを集めて堅固なサークルを作り上げている。ドイツ人のポイルバッハやレギイオモンタンだけでなく、イタリアの大多数の数学者もまたこのサークルに属していたのである。当時のイタリアには、数学の分野で問題設定の独創性と深さにおいてクザーヌスに匹敵するだけの、真に指導的な精神、思想家が見当たらなかったのである。M.カントールは、15世紀の数学の叙述において次のような判断を下している。――「発明家の刻印を帯びた天才的な頭脳として際立った存在はたった一人、クザーヌスのみである。彼の発明の欠点となったのは恐らく、彼が専門の学者と言うわけではなかった事、何よりもまず専門の数学者である事が許されなかった事に依っている」。 これに対して時代の哲学は、過去に根を持っていたにせよ、それ自身、固有の独特の問題に富んでいた。進歩しつつある原典批判の仕事や翻訳のお陰で、徐々に「真の」アリストテレス、「真の」プラトンが開かれ始めていた。アリストテレスとプラトンは今や、単に歴史的偉人として時代の前に登場するのではない。それだけでなく、プラ(93)トンの愛の学説、イデア説、それに新しく形成されたアリストテレスの霊魂説が、直接影響力を持った力として時代の思想に関与するのである。これによって、ここでは至る所、生き生きとした運動が展開される。一つの運動がある地点に到達し、確固たる体系化が行われたかと思うと、いずれもそれらは直ちに克服され、更に新しい地点、新しい体系を目指して凌駕されていくのである。 クザーヌスの学説もまた、こうした運動に引き入れられる。しかし、一層詳細な考察において明らかにされるのであるがーークザーヌスの学説の影響はこの分野においても見紛う事無く明々白々の事実であるが、その影響は体系全体からというより、単に基本的な個々の問題と動機から発しているのである。これらの問題と動機は、いまや視点に入り込んできた新しい哲学的課題全体に適合されうる限りにおいて、取上げられ更に紡がれ、発展されるのである。しかも、こうした適合自体、様々の困難、障害を克服して初めて可能とされたのである。このような生涯は、「ルネサンス」精神が15世紀中葉から後葉にかけて体験した内的変化を思い起こすとき、理解しうるものとなる。 クザーヌスの哲学的主著と、フィチーノあるいはピコのそれを分かつ時間的隔たりは、わずかに一世代でしかない――しかもそれらを互いに対置させるとき、ただちにその抽象的な問題性においてばかりでなく、思想の調子それ自体においても、すなわち、精神的な態度全体においても、はっきりした変化が認められるのである。またこの面からしても、ルネサンスの「中世」からの解放があたかも直線的な絶えず進捗する発展と言う形で行われたと言うような信念が、いかに謝っているかが明らかになるのである。ここで問題になるのは、そのような静かで均整の取れた発展、内部からの単なる成長といったものではない。ここで行われている諸力の戦いにおいては、常に一時的な、全く不安定な均衡しか達せられない。クザーヌスの体系もまた、宗教的な真理概念と哲学的な真理概念、信仰と知識、(94)宗教と世俗教養との偉大な対立におけるそのような均衡を意味したのである。 クザーヌスの宗教的楽観主義は、あえて世界全体を結合できるとした。人間とコスモス、自然と歴史を自らのうちに引き入れて、自らのうちで調停しようと試みたのである。しかし、ここで克服され結合されねばならないはずの相対立する諸力の強さを過小評価したのである。このような悲劇的な過ちは、クザーヌスの哲学においてばかりでなく、彼の生涯、彼の政治的・教会的活動にも現れている。彼はこうした活動を教皇の絶対権力に反対する闘争ではじめる。『普遍的な和合について』(De concordantia catholica)なる著作で、教皇職に対してクザーヌスは全体教会の主権説を対置させている。この全体教会は普遍的な宗教会議に具体化される限り、司教や教皇の上位にある。教皇はカトリック教会の統一を代表するものである.彼は一つの教会の象徴である。これは教会其者がキリストの象徴であるのと同様である。しかし、原像が模像に、キリストが教会に優越しているように、教会も教皇に優越している。しかし、このような基本的な理論的確信は、既にバーゼル宗教会議の闘争中に難破してしまう。早くもここでクザーヌス自身、教会の統一と言う理想を堅持し、教会の分裂と没落から教会を守るためには敵陣営に身を投ぜざるを得ないと思うのである。 彼は教皇派に改宗し、以後ずっと教皇派に留まり、自今、その最も強力な支柱と目されるようになるのである。彼の全生涯、その政治的・精神的活動は、このような教会ヒエラルキーの圏内で行われる。このヒエラルキーの名において、彼は世俗的な反対の要求に対して闘い、その戦いをぎりぎりのところまで推し進め、その結果、自由と生命を危険に晒すことにもなる。思想においてクザーヌスは相対立する諸力を結合し、体系的な統一と調和に結び付けようと企てたが、生活の場、直接彼の立っている現実生活において再びこれらの力が対立するのを、ここにおいて既に我々は知るのである。クザーヌスはこうした幻滅のさなかにあっても、偉大な楽観主義者であり、偉大な協(95)調家であり、また諸対立の可能にいて必然的な「一致」を信じ続けたが、しかしその後の歴史の進展はこのような希望を益々裏切っていくように思えたのである。 歴史の進むところ、新しい力は今やそれ自身明確な意識を持ち始め、その発展において限界を知らず、また狭まりもせず、それぞれが完全な独立を要求したのである。こうした要求に対して、哲学は二重の方法で対処しえた。即ち、スコラ哲学の打ち立てた古い思想の建造物の基礎を一個一個取り払うことによって、その要求を促進し支持しえたであろう。――あるいは古典的=人文主義的教養の与える手段によって、このような建造物を修復せねばならなかったか、そのいずれかである。15世紀哲学はこうした二つの傾向に分かたれるのである。しかし徐々に後ろ向きの運動、即ち、スコラ学的思想形式の「修復」の試みが益々拡張し強さを増していくのである。15世紀後半の数十年間は、フィレンツェのプラトン学園の支配した特色ある時期であるが、この時期にこうした運動がその最盛期に達しているのである。
 フィチーノ学説の歴史的位置と根本性格 哲学はあらゆる方面から迫ってくる世俗的な力に対する塁壁、掩護物となる。しかし、哲学がこのような課題を実現しうる為には、クザーヌスの到達したあの独立したとくシュア方法論の最初の萌芽を再び危険に晒しーー哲学は益々「神学に後退し形を変えていかねばならなかった。マルシリオ・フィチーノが彼の主著に『プラトン神学』Theologia Platonicaというタイトルを与え、ピコ・デッラ・ミランドラが哲学的・文学的活動を始めるに当たって「ヘプタプルス」、すなわちユダヤの創造史の比喩的な注釈を持ってしたということは決して偶然ではないのである。確かに、近代の偉大な観念論体系においては、プラトン主義は科学的哲学の基礎として理解されており、ライ(96)プニッツのごとき思想家においては「いわば永遠の哲学」Perennis quaedam philosophiaの要求ともなったが――フィレンツェのプラトン主義は「いわば敬虔な哲学」Pia quaedam philosophiaの要求で満足したのである。この際、信仰は完全にその中世的=教会的形式において「盲目的信仰」Fides implicitaとして革新される。フィチーノの書簡には次のように述べられる――「当然ながら私は人間的に知ることよりも神的に信ずる方を取る。Ego certe malo divine credere quam humane scire.」。 我々はこの尖鋭化された成句において、いまや再びあの信仰と知識との間の緊張がいかに高まったかを感じるのである。『デ・ドクタ・イグノランティア』の原理において、クザーヌスはこうした緊張其者を指摘しているが、同時に、彼はまさにこの原理の中にはこうした緊張を哲学的な方法、思弁的な方法で克服できる手段が存在するのを知っていたのである。フィチーノもピコもこのような思弁の道を辿ろうと試みる。しかし、最早知識それ自体ではその始まりと終わり、その出発点と目標地点を保証し得なくなっているのである。いまや、それらを保証出来るのは啓示のみである――なかば神秘的、半ば歴史的な意味で理解された啓示である――。 フィレンツェのサークルの生活感情を、主としてロレンツォ・マニーフィコの頌歌やあるいは彼の「謝肉祭歌」Canti carnascialeschiに従って判断するとすれば、きわめて一方的な観念像を得ることになろう。事実、ここでは芸術と美の崇拝が世界と官能の崇拝になっており、事実の純粋な「此岸性」に対する喜びが強力にとらわれることなく表現されているが、たとえそうであるとしても、やがてこうした根本感情の表現の中に他の響きが混じってくるのである。いまだサヴォナローラが登場せず、いまだ本来の彼の歴史的活動も始まってもいないのに、このサークルには殆ど彼の影を認める事が出来るのである。フィレンツェの学園の本来の代表的な人々が最終的にはサヴォナローラに屈服し、彼の前では殆ど抵抗力を失って拝跪してしまったという事実は、彼等の世界像に最初から混(97)じっていた禁欲的な特徴を考慮に入れるとき、初めて理解しうるのである。 ふぃリーの野生涯において、まさにこの禁欲的特徴が益々その精神的形式と倫理的な態度全体を決定していくのである。フィチーノ自身の報告によれば、44歳のとき重い病を得た後、哲学や世俗作家のものに慰めを求めたが、その甲斐もなかったという。聖母マリアに祈願して快癒の徴を祈った後にはじめて本復したというのである。いまやフィチーノは、この病気を、哲学のみでは魂の真の救済には不十分であると言う神意のあらわれとして説明する。彼は異教徒の過ちを宣伝して、その共犯者とならないよう、自らものしたルクレティウスの注釈書を火中に投じてしまう。そして宗教の為にのみ、信仰の強化と不況の為にのみ、自らの哲学的・文学的活動全体を方向付けようと決意するのである。 ピコ・デッラ・ミランドラは同時代人にとって光り輝く存在であり、真に「精神の不死鳥」であると思われていたのであるが、このピコの姿にも徐々に陰影は愈々深く暗く覆いかぶさってくる。最初は約束された上昇の時期で、人間精神の力に対する、人文主義的な生活=教養理想の力に対する殆ど限りない信頼に満たされていたが、この時期を過ぎると、ここでもまた禁欲的な特徴が増してくる。特に書簡文の中に、強烈に紛れも無くこうした世界否定、世界蔑視のアクセントが現れ出ている。サヴォナローラの戦った相手で、ピコの魂を相手にしたときほど彼が頑固に情熱的に熱狂的に戦った事はなかった――しかも、最終的に勝利を得たのはサヴォナローラであった。死の直前、ピコはサヴォナローラの再三の忠告に従って、サン・マルコ修道院に入ろうとしている。かくして、ピコの生涯の結末においても一つの断念――単に宗教的な教義への回帰だけではなく、教会の秘蹟とキリスト教的=中世的生活形式への諦念に満ちた帰還が現れるのである。
(98)フィレンツェ・プラトン主義における美学的モチーフ しかし、ここで単に逆行的な運動にのみ関わりあっている限り、プラトン学園が偉大なフィレンツェ人全てに与えた強烈な直接の影響――時折あの懐疑的で冷ややかなマキャヴェリの精神をすら捉えたのであるが――そうした影響を説明する事は出来ないであろう。ここでは宗教的=神学的関心が哲学思想全体の態度を規定し、その発展を決定したのであるが、それにもかかわらず、この間に宗教的精神そのものがいまや新しい局面に立つのである。15世紀前半の思想的な仕事から新しい「近代的」な宗教の概念そのものが生長してきていたのであるが、この仕事は失われてしまっていたのではない。プラトン学園とこうした仕事とを結び付けている糸を、仔細に明らかにし、追跡していくことはきわめて困難ではある。しかし他方、一般的な、間接的な関連という事になれば、至るところ明白に認められるのである。 フィチーノの学説とクザーヌスの学説の結びつきは、単に認識問題の設定及び解決に見られる主要な処理の仕方にのみあるのではない。こうした論理的な根本問題以上に、形而上学と宗教哲学の問題において、両者の関係は密接に認められるのである。神と世界との新しい関係はクザーヌスの思弁において確立され、同時にまたクザーヌスの思弁にその特徴的な性格を付与してもいるが、この神と世界の新しい関係はフィチーノにおいても思想的な反対の流れがあるにもかかわらず、依然として力を持っているのである。 そしてこの関係は今や、クザーヌスとは比較的縁遠い一動機から新しい確証を得るのである。世界の宗教的な「正当化」Rechtfertigungを試みるに当たって、クザーヌスは本質的には数学的・宇宙論的諸問題を持って始めたのであるが――フィレンツェの学園は再三再四、美の奇跡、芸術家的形式=芸術家的創造の奇跡に根拠を求めるのである。同じく彼等の弁神論もまた、この奇跡にその根拠が求められたのである。他ならぬ宇宙の美によって、宇(99)宙が神に起源を持つ事が示されるのである。その精神的価値の究極的にして最高の確証が与えられるのである。美は完全に客観的なものとして、即ち、尺度と形式として、事物そのものの比例および調和として現れる――しかし、こうした客観的なものを精神はそれ自身に属するもの、精神の本質から出てきたものとして捉えるのである。教育の無いありふれた理性ですら美と醜を識別し、形の無いものから逃れ、形のあるものに向かうのであるが、そうであるとすれば、この事から美の確固たる規範は一切の経験や教えから独立して、そのもののうちに内在している事が結論付けられるのである。   「いかなる精神も事物のうちに丸い形を始めて見出すとき、それを称賛する。しかもその称賛する理由は分からないのである。また、我々は建築物においては壁の均整さ、石の配置、窓や扉の形状などを称賛する。同じく人間の身体においては四肢のプロポーションを、旋律においては音の調和を称賛する。仮にどの精神もこれら全てを可とし、しかもその可なる理由を知らずに可とせねばならないとすれば、これは自然の必然的な本能によってのみ生じ得るのである……したがって、このような判断の根拠は精神に生得のものといえる」 かくして、調和は神がその作品に押印したところの印章となる。調和によって神は自らの作品を高貴にし、調和によってその作品を人間精神と内的で必然的な関係に置いたのである。人間精神は美の知識と自らのうちにある尺度を持って神と世界の間に踏み入るのであるが、これによって初めて、神と世界の両者を結びつけて真の統一を齎すのである。ここで再び、我々はクザーヌスによって刻印されたあの特徴的な形の小宇宙=思想に出合う。この思想において、人間は世界の紐帯として現れる――それは人間が宇宙(コスモス)の全ての元素を自らのうちで統一するからで(100)あるが、単にそれだけではなく、むしろコスモスの宗教的運命がある意味で人間のうちで決定されるからである。人間は宇宙の代表者であり、その全ての力の精髄である。したがって、人間自身、神的な存在に上昇すれば、必然的にその過程によって、その過程において、宇宙の上昇も同時に実現され得るのである。かくて、人間の救済は世界からの人間の離脱を意味するものではない。即ち、人間が離脱した後に、世界そのものは低次の感覚的な領域として放置されたまま取り残されるという事を意味するのではない――人間の救済は今や存在全体に及ぶのである。
 クザーヌスとフィチーノにおける自由概念 フィレンツェの学園はこの思想を受け容れる――かくして、この思想はフィチーノの宗教哲学において最も重要な、最も有効なモチーフの一つとなるのである。フィチーノにおいても魂は世界の精神的「中間」として、すなわち、英知界と感覚界との間の「第三の世界」として現れる。神は時間を包含するが故に時間の上にあるが、しかし同時に時間に全く関与する事の無い事物の下にある。魂は動くものであり不動のものである。単一のものであり多様のものである。魂はより高いものを包含するが――しかしより低いものを見捨てるわけではない。なぜなら、魂は唯一つの運動にのみ没入する事はなく、そのような運動の最中にあっても立ち帰り向きを変える可能性を保持しているからである。こうした方法で魂は、宇宙を静的ではなく、寧ろ力学的に自らのうちに把握するのである。魂は大宇宙(マクロコスモス)を構成する個々の部分から合成されるのではない。その意図に従ってそれら全ての部分に向けられるが、これら目的の方向のどれか一つにのみ固執し没入する事はかつてないのである。しかも、こうした方向は外から由来するのではなく魂自身に基づくのである。魂は優勢な運命の力、すなわち単なる自然の暴力によって感覚的なものに引きずりおろされるのでもなく、またひたすら受動的に受け容れねばならぬ神の恩寵の働きによって超感覚的なもの(101)に引き上げられるのでもない。 この点で、フィチーノはアウグスティヌスと離れるのである。他の点では、アウグスティヌスはフィチーノにとって――ペトラルカにとっても同じであるが――殆ど宗教的な最高権威とみなされているのである。アウグスティヌスからのこうした分離は、再びフィチーノをクザーヌスに結びつける事を意味する。なぜなら、クザーヌスの哲学を支配している基本的な態度からすれば、パウロ的=アウグスティヌス的予定説に対抗すべきはほかならぬクザーヌスだからである。クザーヌスは恩寵の働きに異議を唱えたり、これを制限したりはしない。しかし、クザーヌスにとって、本来の宗教的な衝動が魂の外からではなく魂の内奥から来るものである点については、疑問の余地がなかったのである。なぜなら、魂そのものの本質は自己運動、自己決定の能力にあるからである。『デ・ヴィジオーネ・デイ』において、魂は神に対して語る――。   「汝を所有していない者は汝を見ることは出来ない。汝が自らを与えない限り、何びとも汝を捉える事はない。しかし、いかにしたら私は汝を所有できるのか。いかにしたら私の言葉は汝の下に、我々の近づき得ない汝の元に届く事が出来ようか。いかにしたら、私は汝に請い求める事が出来ようか。なぜなら、全てのものの全てである汝が、汝自身を私に与える事ほど不合理な事があろうか――天や地や、そこに存する一切のもの同時に与える事無く、いかにしたら汝は汝自身を私に与える事が出来ようか。」 しかし、魂が神から受け取った返答はこのような疑惑を一掃してしまう。その返答とは、「汝は汝のものたれ、さすればわれは汝のものたらん」というものである。己自身を欲するか、欲しないかは、人間の自由に任されている(102)――自発的に前者を選んだ場合にのみ、神は彼に与えられるのである。その選択、その最終的な決定は人間自身に任されているのである。フィチーノの著作『キリスト教について』もまた、このような基本的見解に固執している。この書においても、こうした基本的見解からして救済のモチーフは方向を転ぜられ、いまや宇宙も、感覚的世界そのものも、宗教的な意味で救済される事になる。人間の救済は人間自身に新しい存在を与えただけでなく、そのことによって宇宙にも新しい形式を付与したのである。
 世界及び人間の「改革」 このような改造、このような「改革」reformatioは、精神的な新しい創造にも匹敵する。人間が自己自身の神性を意識し、自らの本質に対する不信を克服すれば、これによって世界に対する不信もまた消滅するのである。神はその受肉において、最早世界には向け意識のもの、唾棄すべきものは一切存在しないと言う事を明言し、実現したのである。神はその受肉において、最早世界には無形式のもの、唾棄すべきものは一切存在しないという事を明言し、実現したのである。神が人間を自らの元に引き上げれば、そのことにおいて世界をも同時に高貴にするのである。人間が己の本質を一層深く把握し、その起源の純粋な精神性を一層良く理解すれば、それだけ世界により大きな価値を与えねばならなくなるが――他方、己自身に対する信頼が動揺すると、己も宇宙全体も再び無の中に、即ち、死すべきものの領域の中に突き戻されてしまうであろう。救済思想のこのような解釈は、フィチーノが強調しているように、最早階層的な階段、あるいは媒介の如何なるものをも認めない。神は中間媒体absque medioなしに、己を人間に結びつけたのである。かくして我々は、仲介者なしに神に付着するのであり、この点に我々の救済が存するのを知らねばならないのである。 ここで我々の立っているのは宗教改革への道の上であるが、他方、このような転換を準備したのは正真正銘、(103)ルネサンスの基本モチーフに他ならない。なぜなら、人間の自己肯定が同時に今や世界肯定となるからである。即ち、「人間」humanitasの理念が大宇宙に対しても新しい内容と意味を付与するからである。そしてこのことから、初めて完全に、プラトン学園がルネサンスの偉大な芸術家達に及ぼさねばならなかったあの深い影響力を理解できるのである。外見上の一切の非形式Unformを世界から抹殺する事、一切の形のないものを形に関与しているものとして認識する事――これはフィチーノに言わせれば、宗教的=哲学的認識の総体という事になる。しかし、このような認識は単なる概念に留まっている事が出来ない。行為に移され、行為において確認されねばならない。ここに芸術家の仕事が始まるのである。思弁では単に要求する事しか出来ないが、芸術家はその要求を実現するのである。感覚界が形式と形態を持っているということ――このことを人間は感覚界に絶えず新たに形式を与える事によってのみ保証する事が出来るのである。感覚界の一切の美しさは、究極的に感覚界そのものから由来するのではない。そうではなくて、次のような事実に基づいているのである。すなわち、感覚界はいわば人間の自由な創造力が確認され、自らをそのようなものとし認識する媒体となると言う事実にである。 しかしこのように考えると、芸術は最早宗教的観点の外にあるのではなく、宗教的過程そのものの一つの契機となる。救済が人間の形式と世界の形式の革新として、真の「改革」reformatioとして捉えられるならば、精神生活の焦点は「理念」が物としての性質Koerperlichkeitを獲得する地点、芸術家の精神に存在している悲感覚的な形象が目に見える世界に躍り出て、現実化されるその地点にあるといえる。したがって、単に形作られたもののみを凝視して、形成という基本的な行為そのもののうちに沈潜しない限り、一切の思弁は必然的に誤ることになる。レオナルドは次のように述べている――「事物の探求者よ、自然がその自然の営みにおいて生み出した事物についての知識を誇ってはならない。お前の精神の立案した事物の目的と目標を知って喜べばよい」。レオナルドにとって(104)科学と芸術はこのような種類のものである。なぜならば、科学とは理性によって、芸術とは想像力によって生み出される自然の第二の創造だからである。そして両者、即ち、理性と想像力とはここでは最早互いによそよそしく対立するのではない。なんとなれば、両者とも人間の、造形一般への同一の原動力の異なった表明に過ぎないからである。
 人間精神の無限性 ここで再びこのような思想の前史を振り返ってみると、人間精神と神との「生き写し」Ebenbildlichkeitという基本モチーフに対して、クザーヌスの学説が与えた重大な変化に突き当たる。クザーヌスにおいては、最早この生き写しのモチーフは人間精神と神との事実的=内容的な「類似性」Aehnlicheを意味する事は無い。なぜなら、そのような生き写しは『デ・ドクタ・イグノランティア』の原理、すなわち「有限なものと無限なるものは如何なる関係にもない」finit et infiniti nulla proportioという原理によって初めから排除されているからである。かくして神と人間はその存在においても、その働きにおいても、類似したものではないのである。なぜなら、物そのものが生ずるのは神の創造によるが、これに対し、人間精神は常に単に物の記号、象徴にのみ関わりあうだけであるから。他ならぬこれらの象徴を人間精神は自らの前に立て、認識においてそれらを関係させ、厳格な規則にしたがって互いに結びつけるのである。神が物の実在を創造するとすれば、人間は理念の秩序を打ち立てるのである。「物を生み出す力」vis entificativaが神のものとすれば、「同化の力」vis assimilativaは人間に属するのである。 しかし神の精神と人間の精神がこのようにある意味で異なった次元に属し、その存在形式と物を作り出す対象において互いに異なっているとしても、それにも関わらず、両者の関係は創造の仕方そのもののうちに存するのである。(105)真の比較点tertium comparationisはここにのみある。神と人間との関係は、我々が完結した事物世界から引き出してくる如何なる比較によっても把握されえない。なぜなら、問題になるのは動的な関係であって、静的な関係ではないからである。ここで要求され追求されるのは何らかの実態の本質上の比較ではない。そうではなくて行為における一致、作業における一致である。事実、模写と言うものは、我々がどれほど多く原像の実体的本質をそれに伝えようとしても、そのことによって死んだ模写であるという事実が止むわけではないのである。働きの形式における一致が、初めて模写に生の形式を与えるのである。 創造力そのものである神を「絶対的な芸術」と仮定して、今これが自己自身を一つの画像に具体化しようと決意したとすると、この場合、ニ重の道が可能となろう。まず、一般に創造されたものが取り得る限り多くの完全性を備えた画像を生み出す事が出来るであろう。しかしこの画像は他方、既に可能な完全性のまさにその限界に立っているので、最早この限界を越えることは出来ない。あるいはこれとは別に、それ自体不完全ではあるが、それ自身を絶えず高め、原像に益々近づけていく事の出来る力を備えた画像を作り出す事も出来るであろう。これら二つの画像のうち、どちらが優越しているか疑問の余地がない。ある画家によって描かれた一人の人間の、あらゆる点でそっくりそのままの肖像画を考えてみる事が出来よう。しかし、この肖像画は黙したままで死んでいるといえる。他方、それ自体対象にそれほど似ていないが、画家によって運動する能力を与えられた肖像画を考えてみる事も出来よう。この二つの肖像画の関係が、先の第一の画像と第二の画像の関係に妥当するのである。まさにこうした意味で、我々の精神は無限の芸術の完全な生きている画像である。なぜなら、人間の精神もまた創造の初めにおいてその現実のあり方の点で、このような無限の芸術にはるかに劣ったものであるが、それにもかかわらず、益々自らをそれに適したものに作り上げていく事の出来る生得の力を持っているからである。 (106)したがって、人間精神の特殊な完全性についての証明は次の点に存する。即ち、それが如何なる目標に達しても、停止しないで絶えずその目標を超えて新たな問いを発し、それに向かって努力していかねばならないと言う点にである。感覚としての眼が、眼に見える如何なるものにも満足させられず、限界づけられないように――なんとなれば目は見る事に飽き飽きするということは決してないので――知的な眼も真理の注視に決して飽きる事はないのである。この地点にいたって、恐らく、ルネサンスのファウスト的な基本的態度Grundstimmungが、その最も明晰な哲学的表現と最も深い哲学的な正統性を獲得したのである。無限への衝動、与えられたもの、到達されたものに留まる事が出来ないという性質、これらは精神の罪ではない。精神の傲慢さでもない。そうではなくて、精神が神に起源を有する事の印であり、その不滅性の印なのである。 ルネサンスの精神生活の全ての領域に、このような特徴的な基本モチーフが如何に入り込み、如何に変化して行ったか、我々は一歩一歩辿る事が出来る。この基本モチーフは、フィチーノの哲学的な霊魂不滅説の中心にあるが、同様に、レオナルドの芸術理論の中心にもある。クザーヌスは無限概念について三重の方向と三重の意味を区別していた。何となれば、絶対的に=無限なるものAbsolut-Unendlichenとしての、最大そのものとしての神は人間の知性では到達出来ないものであるが、この絶対=無限の神に対して、相対的に=無限なるものRelativ-unendlichenの二つの形式が対立しているからである。その一つは世界に、他の一つは人間の精神の中に示される。世界においては絶対者の無限性は次のような比喩で表現され、その比喩の中に反映させられる。即ち、宇宙とは空間的に限界のないものであり、何処までも茫漠とした広がりで伸びている、という比喩である。――人間の精神においては、絶対無限との関係は次の点に、即ち、人間の精神はその働きの進行Fortgangにおいていかなる「これ以上はない」ne plus ultraをも承認しないと言う点、その努力に対する如何なる限界も承認しないという点に示される(107)のである。 クザーヌスのこのような基本的見解は、その宇宙論的な側面について言えば、ずっと後になってはじめて、16世紀の自然哲学において、特にジョルダーノ・ブルーノにおいてはじめて影響力を持つが、他の側面、すなわちその思弁的な心理学の側面について言えば、クザーヌスの見解はフィレンツェ学派によって取上げられ、更に発展させられるのである。フィチーノの主著『プラトン神学』は完全にクザーヌスの見解に基づいている。確かに、この作品は古代及び中世の模範に大きく依存しており、プラトンやプロティノス、、新プラトン主義者やアウグスティヌスに見られる霊魂不滅説の議論を全て新たに繰り返しているが、それにもかかわらず、この作品の論証の力点の置かれたところ、認識の情熱が傾けられたところ、それは次のような考量に対してである。すなわち、精神のみが始めて時間的な境界の一切、生成の連続的な流れの一切を一定の段階と周期に区画するが故に、精神は時間の中で消滅し得ない、といった考量に対してである。 こうした時間についての知識によって、断然、精神は時間を超える事が出来るのである。その知識とは即ち、時間の無限の進行についての知識と、その厳格な時間単位決定の知識である。時間単位が決定される事によって、時間の無限の進行はある意味でとめられ、思想を媒介として「定着」festgestelltされるのである。同じように、我々は意志の側面からも同じような結論に導かれる。なぜならば、意志は全ての有限な目的設定を越えてその先に目的を据える事によって、真に人間的な意志になるからである。自然の全ての存在と生は一定の生活圏で満足し、その状態に留まろうとするが、人間にとっては全て達成されたものは、いまだ獲得すべきものが何か存する限り、つまらないものに思われるのである。人間にとって休息すべき時点は存在し得ない。また、停止すべき地点も存在し得ないのである。こうした思想が完全な意味を持つのは、それが個としての人間の本質から種としての本質(108)に向けられたときーーすなわち、心理学的な考察圏から歴史哲学的な考察圏に拡大されたときである。
 クザーヌスとフィチーノにおけるキリスト=理念 そして、ここでもまた、これら二つの領域の橋渡しをするのはフィチーノの宗教哲学の根本思想である。クザーヌスによれば、人間全体はキリストにおいて統一される。したがって、個々の人間は「全てのものから成る一人のキリスト」unus christus ex omnibus である。フィチーノはまた、こうしたクザーヌスのキリスト=理念を転回し、これを言葉の古代=ストア主義的な意味での人間性理念に変えていく。この結果、一つの歴史哲学が可能となる。すなわち、宗教の概念が専らここの信仰形式にではなく、歴史的な信仰形式全体に具体化されているのを見る事に成功する限り、この歴史哲学は、未だキリスト教的な教条的な思想圏に留まってはいたものの、やがてその教条的な狭さを次々と克服していく事になる。しかしこれとともに、アウグスティヌスがその著『神の国について』De Civitate Deiにおいて作り出したような、キリスト教的歴史哲学の古典的形式は粉砕されるのである。アウグスティヌスにおいては、専ら歴史の目的にのみ考察の眼が向けられる。歴史の意味はその目的において初めて目に見えるものとなるからである。堕罪と救済は宗教的な両極である。特殊な出来事は全てこれによって初めてその神学的な解釈を与えられるからである。フィチーノにあっては今や、視線はこのような出来事の幅の広さそのものに注がれることになる。これによって発展の思想が宗教的な領域に受け容れられ、神崇拝の形式と段階の多様性が神観念の統一性そのものから正当化されるのである。真のキリスト教は、信仰の敵を絶滅せよ、とは要求しない。理性によって説得し、教育によって改宗させるか、あるいは静かに許容するかを望むのである。なぜなら、何時の時代でも地球の何処かに何らかの神崇拝の形式と無関係の地域が存在するのを神意は許さないからである。神意にとっては、(109)あれこれの儀礼や仕草で崇拝されるという事ではなく、どんな形でも一般に崇拝されると言う事実が問題なのである。信仰と礼拝の一見、最も下等で愚かな方法でも、それがその必然的な限定において人間的な形式であり、人間性の表現でさえあれば、神意に適うのである。 ここにおいて我々は、フィチーノの哲学がたとえ徹頭徹尾、啓示という神学的な概念に結びついていたとしても、まさにその概念そのものの内部で弁証法的な急展開を準備していたのを知るのである。人間性の歴史を内包する全ての精神的な価値は統一的な啓示に換言され、啓示において基礎付けられるが、たとえそうであるとしても、逆に、このように追い求められた啓示の統一はまさに他ならぬ歴史の全体の中に、その形成物の相対の中に求めらるべきであるという思想がここに存しているのである。全てを拘束する教条的Dogmatischな定式で表現される抽象的な単一性に取って代わって、今や宗教的意識の取る形式の具体的な普遍性が登場する。これは、こうした意識が自らを表す象徴の差異性を、その必然的な相関物として持つことになる。(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)

De Fortuna

第三章――ルネサンス哲学における自由と必然(111) フォルトゥナ=象徴の変遷 1501年末、フェラーラの使節団がローマに現れる。エステ家のアルフォンソと結婚することになったルクレーツィア・ボルジアをフェラーラまで案内する為である。教皇宮では使節団に敬意を表して、幾つかの祝祭劇が演ぜられたが、その中に、運命の女神フォルトゥナFortunaとヘラクレスの戦いを扱ったものがある。ユノは昔からの宿敵ヘラクレスに対して、運命の女神フォルトゥナを送り込む。しかし、フォルトゥナはヘラクレスを倒すどころか、逆に打ち負かされ、捕らえられ、鎖につながれてしまう。ユノの懇願を容れて、ヘラクレスはフォルトゥナを釈放する事になるが、ただしその釈放は、ユノにしろフォルトゥナにしろ、今後再び、ボルジア家に対してもエステ家に対しても、敵対的なことは企てない事、寧ろ両者とも両家に結ばれた縁組を祝福する事、という条件付きである。 我々がここで問題にしているのは、単に宮廷風の慣習の言葉で装われた全く宮廷風の祝祭劇に過ぎない。――ヘラクレス=象徴を選び出したのも一見したところでは、統治者のフェラーラ侯、アルフォンソの父エルコーレ・(112)デステErcole d’Esteの名Namenを暗に指したもので、それ以上の意味は無い様に思われる。それだけに、この祝祭劇がここで演じだしたのと全く同様の比ゆ的な対決が同時代の文学に繰り返し現れるだけでなく、哲学にさえ進入していると言う事実は驚くべき事と言わねばならない。事実、16世紀の末になっても依然としてなお、同一のモチーフがジョルダーノ・ブルーノの道徳哲学的著作に繰り返されるのである。 ブルーのの『驕れる野獣の追放』Spaccio della bestia trionfante,(1584)では、次のごとき話が展開される。すなわち、ゼウスやオリンポス神の居並ぶ集会に現れた運命の女神フォルトゥナは、ヘラクレスが今まで聖座の序列の中で占めていた位置を要求する。しかし、フォルトゥナの要求はとるに足らぬものとして一蹴されてしまう。定めなく放浪するものである運命の女神フォルトゥナに対しては、宇宙の如何なる地位であれ拒まれるという事はない。好みに任せ、天上界であれ地上界であれ、いずこにも現れることが出来るからである。しかし、ヘラクレスの地位は勇気Tapferkeitに与えられるのである。なんとなれば、審理、法、正しい判断の支配すべきところには、勇気が欠けてはならないからである。勇気はその他全ての徳の砦であり、正義の楯であり、真理の塔である。勇気とは即ち、悪徳にとらわれず、苦難に圧倒される事もなく、危険に対しては根気強く、欲望には厳格にして、富の侮蔑者であり、運命の女神フォルトゥナの征服者である、というのである。 我々はここで、こうした思想の宮廷風の表現を哲学的な表現に直接並置して考察するのを避けてはならない。なぜなら、このような関係、このような並置が可能であると言う事実、まさにこの事がルネサンス文化とその精神的態度全体にとって特徴的なことだからである。ルネサンス期の社交、その祝祭と祝祭劇の形式がどれほどルネサンスの精神を伝えているかを明らかにしたのは、ブルクハルトである。また、ジョルダーノ・ブルーノのような人物が教えているのは、こうした祝祭劇を支配している比ゆ的な仮面劇が、我々の思考の習慣からすれば当然ながら、(113)抽象的、概念的=非比喩的begrifflich-bildlosenな思考にのみ委ねられねばならぬ領域にまで広くその影響を広げていたという事である。生活がいたるところで精神的な形式によって支配され、貫かれている時代、人間の、世界に対する地位についての根本思想、即ち、自由と必然に関する根本思想が祝祭劇の中にまで影響するような時代――そのような時代においては、思想もまた単にそれ自身のうちに閉塞しているだけではなく、眼に見える象徴(シンボル)を追い求めるのである。 ジョルダーノ・ブルーノはルネサンス哲学のこうした基本的な状況、基本的な調子Grundstimmungの最も明白な代表者なのである。その最初の著作『イデアの影について』De umbris idearumから一貫して、ブルーノは、人間の認識にとって観念は比喩的な形式以外では表現され具体化されえないという思想を堅持している.比喩的な形で表現されたものは、観念の永遠の先験的な内容に対して、依然として影のごときものに見えるかもしれない。それにもかかわらず、比喩的な表現は我々の思想、我々の精神にのみ相応しいものである。影が単に暗黒ではなく光と暗さの混合であるように、人間的な形式で把握された観念は幻や幻影ではなく、限られた有限の存在が捉え得る限りでの真理そのものである。このような思考様式にとっては、比喩Allegorieは単に外的な装飾品、偶然の衣服ではなく、思想そのものを乗せる車輪となる。特に、宇宙の形式ではなく人間のそれを扱っているブルーノの倫理学Ethikは、いたるところでこのような特殊=人間的な表現手段を取るのである。 ブルーノの『驕れる野獣の追放』はこうした倫理的=比喩的な様式言語Formelspracheを多面的に発展させたもので、内面的な世界の関係を目に見える空間的な宇宙の諸形象を通して明らかにしようとするものである。人間の内面世界das Innereを動かしている諸力は宇宙の力とみなされ、美徳や悪徳は聖座となる。このような考察においては、剛毅fortezzaが中心位置に移されているが、しかしそうであっても、単にその倫理的な意味においての(114)み、すなわち倫理的に狭く限定してのみ理解されるべきではない。剛毅とはーーvirtusの語原学的な意味、ここで表現されているのはこのvirtusの概念に他ならないが、この本来の意味にしたがって、一般に男らしさの力、男性的な意志の力を意味しており、この力が運命の女神の制御者、「運命の女神の支配者」domitrice della fortunaとなるのである。ここで我々の聞き取るのは――ヴァールブルクが他の分野で作り出した表現を使えば――新しいが、しかし同時に真に古代的なパトスの様式Pathosformelである。それは英雄的な情熱ein heroischer Affektであり、その言葉と思想的な正統性を求めているのである。 自由と必然との関係についての、ルネサンス期に現れた哲学学説をその固有の深さにおいて理解しようとすれば、常にこのような究極的な根元にまでさかのぼっていかねばならない。この永遠にして、その基本的な形式においては変化する事のない問題の、純粋に弁証法的なモチーフに対してルネサンス哲学が付け加えたものは殆どない。ポンポナッツィの『運命、自由意志、予定について』De Fato, libero arbitrio et praedestinationeのような著作は、このようなモチーフの全てを完全に枚挙し形式的な徹底さをもって、もう一度、我々の前に並べてくれるのである。この書は、問題をその全ての分枝にいたるまで追跡する。即ち、人間の意欲と行為の自由は神の予知と一致するのを証明しようと、古代哲学及びスコラ哲学はあらゆる概念区分を駆使して努力してきたのであるが、この書はそれら一切の概念区分allen begriffichen Distinktionenを注意深く追跡しているのである。しかし、このポンポナッツィの著作其者は、原理的に新しい解決を齎しもしないし、またそのような解決を求めてもいないように思われる。ポンポナッツィ固有の立場をはっきり確定する為には、我々は彼の他の主要な哲学的著作、特に霊魂不滅を扱った著作に立ち返って把握しなければならない。ポンポナッツィは、これらの著作において全面的に伝統的な概念や形式を受け継いでいるが、それにもかかわらず、我々はここで――とくに『霊魂の不滅につ(115)いて』De immortalitate animaeと題する著作に見られる倫理Ethikの新しい基礎付けに当たって――いかに伝統的な概念や形式の硬直さが緩み始めているかを知るのである。 フォルトゥナ=象徴Fortuna-Symbolの変化はルネサンスの造形芸術において辿る事が出来るが、ここで我々はこれと類似したプロセスの前に立つのである。造形芸術に見られるフォルトゥナ=象徴の変化のプロセスを明らかにしたのは、ヴァールブルクとドーレンの研究である。これらの研究によれば、硬直した中世的なフォルトゥナの諸形式は尚、長期間にわたって存続していくが、やがてそれとは別の、根元においては古代的ではあるが、今や新しい精神と新しい生に満たされた他のモチーフが益々強力に出現してくる事になるという――実はこれと全く同じ事が知的な分野の内部においても妥当するのである。ここでもまた、新しい弛緩は直ちに生じたわけではない。こうした弛緩が始まる前にはまず、思想の新しい緊張状態ともいうべきものが生み出されねばならないのである。哲学的な過去との断絶とも言うべきものは、どこにも現れていない。しかし、思想の変化した力学Dynamikといったもの――ヴァールブルクの言葉を借りて言えば――新しい「エネルギーの平衡状態」energetischen Gleichgevichtszustandへの努力と言ったものが告知されているのである。
 ルネサンス文芸におけるフォルトゥナ=問題 造形芸術が造形的な平衡方式を求めるように、哲学もまた「中世的な神信仰とルネサンス人の自己信頼」zwischen mittelalterlichem Gottvertrauen und dem Selbstvertrauen des Renaissancemenschenとの間に思想的な平衡方式を求めるのである。こうした努力は同時代の本来のいわば「哲学的」文献に於てよりも、新しい人文主義的時代の文学的なレッテルとなる、あの半ば哲学的、半ば修辞的な論文において一層明確に現れている。この際、道はペ(116)トラルカの論文「二つの運命に対する処世術」De remedies utrisque fortunaeからサルターティを越えて、更にポッジョとポンターノへと続いている。ポッジョの試みた解決策は、即ち、人間の生を形成するこれら互いに対立した力は、人間存在の種々異なった時期Epochenに応じてそれぞれ優勢になったり劣勢になったりする、と説明することである。 人間を外から脅かす危険、すなわち、運命の力による危険は、本来の自己が未だ形成されていない限り、つまり人間が未だ子供状態或いは少年の状態にある限り、最も強力に作用するのである。このような自己が覚醒し、自由な人間性の原動力により、すなわち倫理的・知的努力のエネルギーによって完全な活動力が展開されるや、ただちに、このような危険は後退していくのである。したがって、天上界の敵対的な全ての力に打ち勝つのは最終的には、力virtusと努力studiumに他ならない。 このような表現の仕方には信仰の新しい傾向が示されている。しかし同時に、この傾向には魂の新しい分裂も示されているのである。ダンテのフォルトゥナ像に見られるあの造形的=思想的な統一は、再び戻っては来ないのである。ダンテのフォルトゥナ像は全ての対立するモチーフを偉大な一つの総合にまとめ上げ、フォルトゥナをそれ自身の存在と特質を持った本質として存立させるとともに、それにもかかわらず、それを精神的=神的宇宙に適合させたのであるが、――このような統一は二度と再び達せられる事はないのである。しかし、まさにこうした不確実性は中世的摂理信仰の確実性と安全性に対して、一つの新しい解放を意味している。中世的な両世界説Zweiweltenlehreとそれから導かれた全ての二元論にあっては、人間は単に人間をめぐって争う書力に対立しており、ある意味でその犠牲とされるのである。人間はこれらの力の対立抗争を体験するが、自らこうした抵抗に関与する事は無い。人間はこのような偉大な世界劇の行われる舞台である――しかし人間は未だ真に独立した相手役になってはいないの(117)である。 とはいえ、ルネサンスは益々はっきりとこれとは異なる他の像を示すようになる。人間をひっとらえ、転がし、持ち上げるかと思うと、深遠に突き落とす、このような車輪を持ったフォルトゥナ像から、帆船Segelに乗ったフォルトゥナ像が出現する――ここでは船を導くのはフォルトゥナのみではない。舵に取り付いているのは人間自身なのである。理論家の発言もこれと同じような方向を示している。理論家の発言と言っても、形式的な学問知識に由来するものではなく、寧ろ一定の行動分野、あるいは精神的創造の分野に属する理論家の発言の事である。マキャヴェリにとって、幸運は人間の行動の半分を支配する。しかし幸運は行動する者、荒々しく大胆に掴みかかる者に与えられるのであって、行動をしないで拱手傍観しているものには与えられないのである。レオン・バッティスタ・アルベルティにとって、フォルトゥナの急流は、自らの力を信じ有能な泳者として流れを乗り切って進む者を呑みこむ事はないのである。La fortuna per se’, non dubitare, sempre fu e sempre sara` in becillissima et debolissima, a chi se gli opponga.(運命の女神フォルトゥナは彼女に抵抗する者に対しては、常に最も弱きもの、最も愚かなものであったし、これからもそうであろう事を疑う事なかれ)。両者、つまりマキャヴェリとアルベルティは、ここではフィレンツェ社会の雰囲気の中から物を語っているのである――すなわち、サヴォナローラによって、その力と自信を打ち砕かれるまでのロレンツォ・マニーフィコのごとき政治家や行動人だけでなく、思弁的な思想化をも支配していたところのあの雰囲気である。 フィチーノは確かにルッチェライ宛の書簡で、フォルトゥナが暴力を振るって、我々を不愉快な未知に引きずり込まないように、我々の意志をフォルトゥナの意志に従わせ、フォルトゥナと和解し停戦する事が最良の道である、と説いているが、たとえそうであるとしても――プラトン学園の若きリーダー、ピコ・デッラ・ミラン(118)ドラの合言葉は既に一層大胆に、いっそう自由に響き渡るのである。「精神の奇跡は天上界よりも偉大である……地上界にあっては人間を於て偉大なものは存しない。人間にあってはその精神と霊魂をおいて偉大なものは存在しない。お前が精神と霊魂にまで上昇すれば、天上界を越えて昇る事になる」。フィレンツェのプラトン主義の厳格に宗教的な事実、厳格に教会的な世界の真っ只中に、今やあの「英雄的な熱情」がほとばしり出るのである。この熱情は後に、ジョルダーノ・ブルーノの対話編『英雄的な激情について』Degli eroici fuoriを導き出す事になろう。
(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)

Prometheus-Motiv

(126)「人間の尊厳」に関するピコの弁明 ポンポナッツィのこの著作と、ヴァッラのそれとは80年以上もの歳月の隔たりがある。すなわち、前者は1520年にかかれたものであるが、後者は1436年頃のもののようである。そしてまさに、この80年の間に、ルネサンスの哲学思想はフィレンツェ・アカデミーのプラトニズムによって変質させられるのである。時間的にも体系的にも、このアカデミーの学説は、人文主義とあのパドヴァ学派に見られた後咲きのスコラ哲学との丁度中間に位置している。しかし同時に、それらの学説の形成に当たっては、フィレンツェのプラトニズムに対して与えたクザーヌスの深い影響が終始一貫して働いているのである。ローマにおける900条テーゼを弁護すべく、その序文として考えられた有名なピコの弁明は、このような思想の精神的系譜を明らかに認識せしめる。ピコは「人間の尊厳」についてのテーマをその中心に据えるが、それでもこのことによって、彼は既に古い人文主義が繰り返し形を変えて修辞的に取上げてきた一定のモチーフを受け容れたに過ぎないのである。 すでに、ジャンノッツォ・マネッティが1452年に著していた論文「人間の尊厳と優越について」De dignitate et excellentia hominisは、形式的にも思想的にもその後のピコの弁明と全く同一の型(シエーマ)に従って構成されている。マネッティは単に成った世界としての自然の世界に対して、成る世界、すなわち文化の世界を対置する。この世界においてのみ、人間精神はのびのびしたものを感じる事が出来る。即ち、人間精神の品位と自由はこの世界に示されるのである。   「これら我々の眼にそれと認められるもの、即ち、全ての家屋、全ての城塞、全ての都市、要するに世界の全ての建築物は人間によって創造されたもので、従って我々のものである。即ち、人間のものである。絵画、彫刻、技芸、学問…知識のいずれも我々のものである。……全ての発明、様々な全ての言語、それに文字も我々のものである。これら無しでは済まされぬ実用性を考えれば考えるほど、我々はこれに激しく驚かされ、息を呑まざるを得ないのである。」Nostra namque,hoc est humana, sunt, quoniam ab hominibus effecta, quae cercernuntur: omnes domus, omnia oppida, omnes urbes, omnia deniue orbis terrarum aedificia. Noatrae sunt picturae, nostrae sculpturae, nostrae sunt artes, nostrae scientiae, nostrae……sapientiae. Nostrae sunt……omnes adinventiones, nostra omnium diversarum linguarum ac variarum litterarum genera, de quarum necessariis usibus quanto magismagisque cotitamus, tanto vehementius admirari et obstupescere cogimur. このようなマネッティの文章は、本質的に古代=ストア風の思想財産に遡る事が出来るが、ピコの弁明にはこれと異なった新しい要素が加わっている。なぜならば、ピコの見解は全体としてあの、クザーヌスやその後ではフィチーノにおいて完成された小宇宙(ミクロコスモス)=モチーフの特徴的な変種と言えるからである。このモチーフによってはじめて、ピコの弁明は単なる弁論術的な見世物の境地から抜きん出ているのである。即ち、その修辞的なパトスが同時に特殊的=近代的な、思想的パトスを内に含むのである。 人間の品位はその存在にあるのではない――即ち、宇宙の構造において人間に指定されたその低位置に存するのではない。たしかに階層的な体系は世界を階段に分割し、全ての存在にそれらの階段の一つを宇宙における存在の位置として指定している。しかしこのような基本的見解をもってしては、人間の自由の意味と問題性は捉えられないのである。なぜなら人間の自由の問題は、我々が他の場合いたるところで仮定している存在Seinと(128)働きWirkenとの関係を逆転したUmkehr所に存するからである。事物世界Dingweltに妥当するのは、古くからのスコラ学的原理、すなわち「働きは存在に従う」operari sequitur esseなる原理である。人間世界においてはこれとは逆の規定が妥当するのであり、その点にこそ人間世界の本質と特異性が存するのである。ここでは、形成の仕方に一度きりの確固たる方向を指示するのは存在ではない――逆に、形成の本来の方向がまず存在を決定し措定するのである。 人間の存在はその行為から生ずる。しかも、この行為は単に意志のエネルギーの中にあって消滅してしまう事無く、その形成力全体を包括する。なぜなら、真の創造的な形成は何れも世界に対する単なる働きかけ以上のものを内包しているからである。即ち、働きかけるものdas Wirkendeが働きかけられるものGewirktenから、行為の主体がその対象から、自らを区別し、意識的にそれを対置させていくという事を前提としているのである。しかも、この対置Entgegensetzungは一定の結果を得て終結するという一回限りのプロセスではなく、常に新たに繰り返されねばならないのである。人間の存在も人間の価値も、このような対置行為に依存しているのである。――即ち、対置行為にしたがってのみ、人間の存在と価値は、静的にではなく、ダイナミックに決定され規定され得るのである。我々は存在の階層的な段梯子において、更に高く昇って行く事が出来るかもしれない。我々は天上の英知界にまで、しかり、全ての存在の神的起源に至るまで高まる事さえ可能かもしれない。我々がこうした段梯子のいずれか一つの横木に留まっている限り、そこに自由という特殊な価値を見出すことは出来ないのである。硬直した階層的な体系においては、この価値は常に他者、測りえぬもの、「非合理的なもの」Irrationalesとして現れざるを得ない。なぜなら、こうした単なる存在の秩序は純粋な生成Werdenの意味と運動を容れる余地が無いからである。 (129)こうした思想とともに――ピコの学説は全体として、一方ではアリストテレス的=スコラ学的伝統によって、他方では新プラトン的伝統によって決定されているとは言え――新しい突破口が開かれるのである。なぜならば、いまや創造Schoepfungのカテゴリも流出Emanationのカテゴリも、神と人間、人間と世界との関係を示すには十分でない事が明らかとなるからである。普通の意味での創造とは即ち、創造によって造られたものは一定の=他から限定された存在を与えられるだけでなく、同時に、一定の意欲と実現の円周も規定されるという事であり、それ以外には理解されようが無い。 しかし、人間はこのような限界を突破してしまう。人間の行為はその存在によって強制されるのではなく、原理的に、有限な範囲を越えた、常に新しい可能性を内包しているのである。これが人間性の秘密であって、このために低次の世界も英知界も人間を羨望するのである。なぜなら、人間においてのみ、あの他の至る所妥当する創造の法則、即ちその固定した型Typusが解消されているからである。 ピコの弁明の冒頭には一つの神話が語られる。――創造の最後に当たって、デーミウールゴスは創造の根拠を認識し、その美しさの故にこれを愛する事の出来る存在を生み出そうという欲望を抱く。(略)
 ピコにおける人間性の理念 ブルクハルトはピコの弁明を、ルネサンスという文化時期の最も高貴なる遺言状のひとつと名づけた――事実、ここにはルネサンス期の意欲の全体、認識概念の全体が雄大な簡潔さと含蓄の深さで総括されているのである。ここにはあの両極がはっきりと相対して登場している。すなわち、ルネサンス精神に特有のあの倫理的=知的な緊張は、この両極の対立に基づいているのである。人間の意志と認識について要求されるのは、全面的な世界への献身と、全面的な世界からの区別である。意志と認識は宇宙のどの部分にも献身できる。否、献身せねばならないのである。なぜなら、人間は宇宙全体を通り抜ける事によってのみ、己自らの決定の円周を踏破できるからである。しかし世界に対してこのように完全に開かれている事は、他方、世界の中に消滅してしまう事、即ち、神秘的=汎神論的な自己=喪失を意味するものでは決して無い。なぜならば、人間の意志は何時になってもここの目的の実現によって満足される事は無いが、これを意識する事によってのみ、初めて人間の意志は人間の意志となるからであり、また人間の知識も何時になってもここの内容を知ることによって満足される事は無いが、この事を覚ったときにのみ、、初めて人間の知識は人間の知識となるからである。 かくして、宇宙全体への転換は同時に、その何れの部分にも結びつく事が無いと言う能力を内包しているのである。全面的な転換の力は、全面的な逆転換の力に相応しているのである。人間と世界、「精神」と「自然」という二元論は厳しく堅持されている。――それにもかかわらず、他方、この二元論はスコラ学的=中世的な烙印を押された絶対的な二元論にまで推し進められてはいないのである。なぜなら、両極性は絶対的なものではなく、相対的な対立であり、両極の相違は同時に、それらにおける相互的な関係を内包する事によってのみ可能となり、把握可能となるからである。 (132)ここで我々は、フィレンツェ・プラトニズムの根本概念の一つを問題にしているのである。これはフィレンツェ・プラトニズムにおける他のこれとは対立する思想規定、すなわち、絶えず強烈になっていくあの「超越」と禁欲への傾向によって完全に征服されたり、あるいは消し去られたりする事は決してなかったものである。他のどの著作を見ても、フィチーノとピコは一般に新プラトン主義的モチーフの極めて強烈な影響下にある。しかしここには、「分離」Chorismosと関与Methexisという、真にプラトン的な概念の基本的な意味が再び出現している。「超越」それ自体は「関与」を前提とし、これを要求する。また「関与」は「超越」を前提とし、これを要求する。こうした相互決定性は客観的に見た場合、なぞめかしく、矛盾に満ちたように思われるかもしれない。しかし、我々が意欲し認識する主体としての自我の性格から出発する限り、ただちに、この相互決定性は必然的・一義的に明白になる事が分かるのである。意志の自由な行為と認識の自由な行為において、単なる存在にあっては永遠に逃れ去るように思えるものが直接結合するのである。なぜなら、分離の力と結合の力は等しくこうした行為に固有のもので、こうした行為のみが最も先鋭な形で区別する事が出来、しかもこれによって区別が絶対的な分離Trennungへと崩壊する事も無いからである。 ここで再び自我と世界、主観と客観との関係が真にクザーヌス的に「反対の一致」Coincidentia oppositorumとして把握されるのであるが、更にピコが「人間の尊厳について」の演説で打ち出した思想動機の歴史的な影響を追跡していくと、このような関係は一層明白に現れてくるのである。既にピコの演説そのものの中に、我々はクザーヌス的思弁の余韻をはっきり聞き取る事が出来る。『憶測について』De conjecturisなる著作では次のように述べられている。   「人間性の統一は人間的な形で縮限されているので、この縮限の性格にしたがって、全てを包含しているのが分かる。すなわち、その統一の力は万物を取り囲み、その領界の中に包含する。そのため、全てのものは如何なるものも統一の力から逃れる事が出来ない。……すなわち、人間は神なのである。しかし絶対的ではない。なぜなら、人間であるから。従って、人間的な神なのである。沢に人間は世界でもある。しかし、縮限されているので万物ではない。なぜなら、人間であるから。要するに、人間は小宇宙なのである。あるいは人間的な世界ともいえる。それゆえに、人間性の直線それ自体はその人間的な力によって神と全世界を取り囲むのである。……それゆえ人間は人間的な神となりうるし、また人間のやり方で神となる事が出来るのである。また人間的な天使、人間的な獣、人間的なライオン、あるいは熊、あるいはその他如何なるものにもなる事が出来る。したがって、人間性の能力の中には全てのものが人間的な仕方で出現するのである。したがって、人間性の中では全てのものは人間的な形で展開されている。これは宇宙それ自体の中では宇宙的な形で展開されているのと同様である。というのも世界は人間的に現れるからである。要するに、万物それ自体は人間的な形で包含されているからである。なぜなら、人間的な神だからである。人間性は統一なのである。また、これは人間的なやり方で縮限された無限なのである。……したがって、明らかに人間性の創造活動の目的は人間性をおいて他にはないのである。なぜならば、創造に当たって、それは己の外に出て行くのではなく、その力を展開しつつ己自身へと到達するからである。何か新しいものを作り出すのではなく、展開しつつ創造する一切のものは、己自身に存在していたことを確認するのである。 Humanitatis unitas cum humaniter contracta existat, Omnia secundum hanc contractionis naturam complicare videtur. Ambit enim virtus unitatis ejus universa atque ipsa intra suae regionis terminos adeo(134) coercet, ut nihil omnium ejus aufugiat potentiam……Homo enim Deus est, sed non absolute, quoniam Homo. Humanus est igitur Deus. Homo etiam mundus est, sed non contracte omnia, quoniam Homo. Est igitur Homo [mikrokosmos] aut humanus quidem mundus. Regio igitur ipsa humanitatis Deum atque universum mundum humanali sua potentia ambit. Potest igitur homo esse humanus Deus atque deus humaniter, potest esse humanus angelus, humana bestia, humanus leo aut ursus, aut aliud quodcumque. Intra enim humanitatis potentiam omnia suo existunt modo. In humanitate igitur omnia humaniter, uti in ipso universo universaliter, explicata sunt, quoniam humanus existit mundus. Omnia denique in ipsa complicata sunt humaniter, quoniam humanus est Deus. Nam humanitas unitas est, quae est et infinitas humaniter contracta……Non ergo activae creationis humanitatis alius extat finis quam humanitas. Non enim pergit extra se dum creat, sed dum ejus explicat virtutem ad se ipsam pertingit neque quicquam novi efficit, sed cuncta quae explicando creat, in ipsa fuisse comperit.
 (140)プロメテウス=モチーフ ルネサンス哲学がこうした思想を表現するのに抽象的な表現に満足せず、比喩的=象徴的な表現を追及するのは、いかにもルネサンス哲学の特殊なあり方Wesensartに一致している。ここでは当然ながら、古代のプロメテウス(141)=神話が登場するが、以後、この神話はある種の復活と精神的復興を経験することになる。プロメテウス=モチーフは既に古代哲学が再三再四関連付けたあの神話の原モチーフに属している。プラトンはプロタゴラスにおいてその比喩的な解釈を試みたし、プロティノスや新プラトン主義者も同じ試みをしている。いまやこのモチーフは、キリスト教的なアダム=モチーフと出会い、これと融合し、あるいはこれと対決し、これとの対決によってこれを内的に変形していくのである。 ブールダッハはアダム=モチーフの辿った道と発展とを仔細に追跡し、中世からルネサンスにかけての過渡期にあって、どれほどこのモチーフが実り豊かな推進的な力を発揮したかを示したのである。教会が聖書の叙述にしたがって作り上げてきた最初の人間像は今や、プラトン的=アウグスティヌス的思想と新プラトン主義的=ヘルメース的思想とがともに影響して、新しい意味を獲得する。最初の人間が精神的人間、即ちhomo Spiritualisの表現となることによって、人間の革新、再生、復活を目指す時代の精神的傾向の全てはこの形式のうちに集約されるのである。こうした転換はイギリス文学ではウィリアム・ラングランドの詩「農夫ピアス」い、ドイツ文学では1400年頃のヨハネス・フォン・ザーツの著した農夫と死との対話に明白に表現されている。ブールダッハはこの対話をドイツ文学史上最大の傑作と呼んでいるが、既にしてその想像力と強力な文章力において、今や表現を求めている新しい観念の力が知られるのである。 我々がここで扱っているのは詩であって、教説ではない。――しかし、この詩は新しい思想の息吹によってくまなく浸透され、霊感を吹き込まれたものである。しかもこの新しい思想はスコラ学的な付属品との結びつきも一切無く、いわば思想の自由な空間において我々の前に現れる。問題を投げかけ、これを展開していくのは抽象的な哲学的考察ではない。生の起源とその価値について、永遠の問いを発しているのは生そのものと言える。した(142)がって、すべての対立は単なる弁証法的な対立から劇的なものへと変わっている。対話が我々に示すのは、こうした対立そのものであって、その解決ではない。農夫と死、破壊の運命力とこの力に反抗する人間精神との闘争には、一見、決着が付かないように見える。対話の結末で、神の審判が下されるが、これによると勝利は死のものである。しかし、戦いの名誉は告白者である農夫のものとされる。「戦いは理由の無い事ではない、お前達は両人とも良く戦った。一方が告発せざるを得ないのは苦悩の為であり、他方は告発者の攻撃に答えて真理を語らざるを得ないのである。従って、告発者よ、お前には名誉を!死よ、お前には勝利を!」 しかも、この死の勝利は同時に敗北となる。なぜなら、いまや死の肉体的な力は証明され保証されたが、同時に、その精神的な力は無効とされるからである。生命の破壊、即ち、神が生命を死の手にゆだねたと言う事情は、最早この生命の無価値を意味するものではない。なぜなら、生命がたとえその存在において破壊されるとしても、破壊される事の無い価値が生命には残されているのである。その価値とは、自由な人間が己自身と世界に付与するものに他ならない。人間性そのものに対するこうした信念のうちに、人間性の再生の保証がある。この詩の比喩的な形式は、単に薄いヴェールのごとき働きしかしない。我々はこうしたヴェールを通して、はっきりと明確に偉大な芸術的形成と思想展開の道程を認める事が出来る。しかも、ここに我々は来るべきルネサンスの基本的見解をはっきりと認める事が出来るのである。 死に対する告発演説の中で、農夫は人間を最も完全なもの、素晴らしきものとして賞賛する。なぜなら、人間は神の造り給うたものの中で最も自由な被造物であるからである。ブールダッハがこの死に対する農夫の偉大な告発演説の中に、ニ世代以上もの後、人間の尊厳に関するピコの演説でものを言うあの精神を再び見出したのは正当である。「天使、悪魔、怪物、魔女、これらは神による強制存在の霊である。人間は神の創造物の中で最も価値のある、最も(143)機敏な、最も自由なものである」。この告発演説の特徴的な基本的性格を更に挙げれば、キリスト教的教義のペシミスティックな特徴を決然と排除した事、人間固有の力と神によみされる所のその善良な本性に対する揺らぐ事なき信頼のうちにペラギウス的要素が内包されている事である。 同時にまた、この告発演説はその後まもなくドイツ哲学にその概念的な表現と概念的な正当性を与える見解を先取りしているのである。人間の堕落はアダムの堕落に始まり、神の呪いによって明らかにされ、各世代を通して人間全体にいつまでも相続されていくのであるが、ベーメン出身のこの農夫の詩人はここではこのような人間性の堕落を無視している。その後、ニコラウス・クザーヌスは、ただちにこれと殆ど同じような言葉で、こうした人間の堕落の教説に反論している。   「己が最良のものからなることを知っている全ての力は、己が最良に存在している事を知っている。存在する全てのものは、己の特殊な本性に安らっている。あたかも最良のものから成り、最良の形で存在しているかのごとくである。従って、存在する全てのものに与えられた自然の賜物は、いかなるものであれ、最良のものである。……それは上方の無限の全能からのものであるから。」Omnia vis illa quae se esse cognoscit ab optimo, optime se esse cognoscit. Omne id, quod est, quiescit in specifica natura sua, ut in optima ab optimo. Datum igitur naturale qualecumque in omni eo quod est, est optimum…de sursum igitur est ab omnipotentia infinita.
(144)ルネサンスにおけるプロメテウス=モチーフの変遷 ここにいたって我々は、アダム=モチーフが内的変化を遂げた結果、これによって直接、プロメテウス=モチーフに移行することの出来る地点に立つのである。こうした移行を完成させるために、思想の内容を変える必要は全く無い。アクセントの軽い移動で十分である。人間は被造物である――しかし人間を他の全ての被造物から分かつもの、それは創造主から創造の能力そのものを与えられているという点である。人間はこの基本的な=根元の力を働かせる事によって始めて己を決定し、己の存在を完成するのである。人間を創造する芸術家としてのプロメテウス神話は、中世思想にとっても無縁ではない。即ち、テルトゥリアヌスやラクタンティウス、さらにアウグスティヌスにも繰り返し現れるのである。しかし、中世の見方は本質的にこの神話の否定的な特徴を捉えて、聖書的創造モチーフの異教的な戯画としてしか見なさないのである。したがって、こうした聖書的創造モチーフの倒錯に対しては、いっそう厳格に本来の創造モチーフを再建せんとするのである。すなわち、真のプロメテウスは――キリスト教的信仰の認め許容する限り――人間ではなく唯一の神である。「万物を創造し、土から人間を捏ね上げた唯一の神、これこそ真のプロメテウスである」Deus unicus qui universa condidit, qui hominem de humo struxit, hic est verus Prometheus. これに対しボッカチオは『神々の系譜』Genealogia deorumにおいて、プロメテウス=神話をオイヘーメリス的に解釈して創造を二重に区別する。即ち、一つは存在者としての人間の創造であり、一つはこの存在者としての人間に初めて精神的な内容を付与するという意味での創造である。こうしたボッカチオの解釈は、キリスト教的解釈に対してすでに基本的な気分の変化を意味していると言える。即ち、ボッカチオによれば、自然の手から出てきた素朴で無知な人間は、新しい創造の行為によってはじめて完成されるのである。第一の創造が肉体的な実在を(145)与えるとすれば、第二の創造はそれに特殊な形式を与えるのである。ここでは、プロメテウスは人間的な文化的英雄となっている。知識を齎し、国家的=倫理的秩序を導入した英雄であり、その天賦の能力によって人間を本来の意味において「改造」reformiertしたのである。すなわち、人間に新しい形式と本質を刻印したのである。 しかしいまやルネサンス哲学は、このモチーフのこうした解釈を越えてますます成長し、ますます決定的に形式付与の力を個々の主体の行為に移していくのである。いまや個の活動そのものが、創造者の活動、救済者の活動と並び立つのである。このような基本的見解は「キリスト教的プラトン主義」の思想世界にまで浸透する。フィチーノにおいてさえ、時折こうした英雄的な個人主義が出現するのである。フィチーノにとっても人間は創造的自然の奴隷ではない。寧ろその競争者であって、自然の仕事を完成し、改善し、純化するのである。「人間の技芸は自然が作り出すものをすべてそれ自身で作り出す。あたかも我々が自然の奴隷ではなく、競争者であるかのように」humanae artes fabricant per se ipsas quaecumque fabricat ipsa natura, quasi non servi simus naturae, sed aemuli.。(中略) (146)かくして、今やプロメテウス=モチーフはボヴィルスにとって自然哲学を精神哲学に結びつける連鎖となる事が出来る。地上的人間から天上の人間を、潜在的な人間から現実の人間を、自然から知性を生み出すことによって、賢者は、あの天上に昇り、神々から活力の源泉たる火を盗み出して来たプロメテウスに見習うのである。賢者は己自身の創造者となり支配者となる――己自身を獲得し所有するのである。これに反し、単なる「自然的」人間は、絶えず見知らぬ力に属し、その永遠の債務者に留まるのである。かくして「自然」の人間と「技芸」の人間、「第一の人間」と「第二の人間」との時間的序列は、価値の序列に踏み入れるや否や逆転する。即ち、時間的には第二の序列が価値の序列では第一位になるのである。なぜなら、人間が真に人間としての決定に至るのは、人間が自己自身にその決定を与える事によって――すなわち、ピコが弁明で表明しているように、人間がそれ自身の自由な形成者(自由裁量のある、かつ栄誉ある己自信の彫刻家にして形成者)となることによって始めて人間としての決定に達する事が出来るからであるsui ipsius quasi arbitrarius honorariusque plastes et fictor.
 人間性と自立性 ついで、この思想はジョルダーノ・ブルーノにおいては、完全に当初の宗教的根拠から解放された形で、否、寧ろ意識的に宗教的根拠に背を向けた形で立ち現れてくる。ブルーノにおいて支配しているのは、英雄的なもの、タイタン神のごときものにまで高められた自我の自己主張の情熱である。超越的な存在、即ち、人間の認識能力の限界を越えて存在するものを、たとえ承認するにしても、それにもかかわらず、自我はこうした超感覚的な存在を単(147)なる恩寵の賜物として受け容れようとはしないのである。そうした賜物を与えられているものは、自分の力で神的なものの認識に達しようとするものに比べて、より大きな財宝を所有しているかもしれない――しかしこのような客体的な=財宝は自律的な努力や行為の特殊な価値に及ばないのである。なぜなら、神を把握するに当たっては、人間は神の容器、道具としてではなく、芸術家として、動因wirkende Ursacheとして神を把握せねばならないからである。かくしてブルーノは、単に敬虔に受け容れるものと己自身のうちに神的なものへの上昇の衝撃、神的なものへの飛躍の力、即ち神的なものへの「合理的な衝動」Iimpeto razionaleを感じ取る者とを区別している。   「第一の人々は己のうちにより多くの尊厳と力と効力を有している。なぜならば、彼等は神を有しているからである。第二の人々は彼等自身で、より尊厳であり、力があり、効力があり、そして神聖である。第一の人々は聖体を運ぶロバとしての尊厳であり、第二の人々は聖なる者としての尊厳である。第一の人々においては、実際に神が考えられ目撃される。神が賞賛され、崇拝され、服従される。第二の人々においては、人間性そのものの優越さが考えられ見られるのである。Gli primi hannno piu` dignita`, potesta et efficacia inse`,perche` hanno la divinita`; gli secondi son essi piu` degni, piu potenti et efficaci et son divini. Gli primi son degni come l’asino che porta li sacramenti; gli secondi come una cosa sacra. Nelli primi si considera et vede in effetto la divinita` et vede in effetto la divinita` et quella s’admira, adora et obedisce, negli secondi si considera et vede l’eccellenza della propria humanitade. ブルーノの対話編『英雄的な激情について』からのこのような文章と、ニコラウス・クザーヌスが『デ・ドクタ・(148)イグノランティア』の中で人間性humanitasの概念と理想とを定義した令の文章とを比較すれば、15,16世紀における思想運動全体を包括することになる。クザーヌスはこのような理想を宗教的な思想圏に組み入れようと試みただけでなく、彼にとってこの理想はまさにキリスト教の基礎的な教義の完成、実現を意味したのである。即ち、人間性の理念がキリストの理念と一つに合流するのである。しかし、哲学的な発展が進捗すればするほど、この結びつきは弛緩して、ついには全面的に解き放たれる事になる。ジョルダーノ・ブルーノの定式は、こうした解離を迫る諸力を特徴的にはっきりと認識せしめるのである。人間性の理想は自律性の理想を内包している。自律性の理想が強化されればされるほど、ますますこの理想は宗教的な世界を粉砕する事になる。クザーヌスやフィレンツェ・アカデミーはとりもなおさず、こうした宗教的世界に人間性概念を封じ込めようと努力したのである。(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)

De Astrologia 1 

De Astrologia 1 (148)中世及びルネサンスにおける占星術 以上の考察において、我々は、ルネサンスの宗教的思想世界の内部において、自由の問題が次第に形を変えていき、自由の原理が愈々強力に前面に躍り出ていく経過を明らかにしてきた。このような自由の原理の進出に対しては、神学的教義は一歩一歩その根拠を奪われていかねばならなかったのである。しかし、その過程は余程困難なものであった。それというのも、他ならぬこの神学的教義の創始者は、ルネサンス哲学にとっても依然として古典的な著述家、哲学的・宗教的な権威として重んぜられていたからである。アウグスティヌスに対するこのような崇拝において、その先鞭をつけたのはペトラルカである――すなわち、ペトラルカは一群の古代の偉大な先達の中からアウグスティヌスを特に取上げ、「数千の古代作家の中で最も親愛なる者」unter Tausenden Teuerstenというのである。フィレンツェ・アカデミーもこれを受け継ぎ、アウグスティヌスの裏に、いたるところ「キリスト教的プラトン主義者christlichen Platonikersの真の模範を見る事になる。 このような歴史的関係をはっきり思い浮かべる事によって、初めて我々は、ここで克服されねばならなかった抵抗の大きさを完全に計る事が出来るのである。しかも、このような抵抗を除去したとしても、尚、それのみでは自由思想の勝利を決定づけるに十分ではなかったはずである。なぜなら、このような抵抗の除去がなされる以前に、その他の、ルネサンスの精神生活と無数の糸によって結び付けられている力との戦いが為されねばならなかったからである。 ライプニッツはその弁神論において、運命Fatumの三重の形式を区別している。即ち、「キリスト教的運命」Fatum Christianumに対して、「マホメット的運命」Fatum Mahumetanumと「ストア的運命」Fatum Stoicumを対置している。ところで、ライプニッツのこのような概念にはっきり刻印されているがごとき三重の基本的な思想傾向は、すべて、ルネサンスにおいては尚依然として完全に生きた力である。ルネサンスにおいては、キリスト教的思想世界に劣らず、異教的なアラビア的起源によって養われた占星術的思想世界も強力に作用している。キリスト教的=中世的伝統Traditionや、キリスト教的=中世的教養Dogmatikに対抗する為には、古代Antikeを召還する事が出来たが、しかし占星術的思想世界と言う、この新しい敵手に対しては、当初、古代は無力そのものであった。むしろ、古代は占星術的思想世界を強化するかの如くさえ思われたのである。なぜなら、ギリシャ哲学の「古典期」Klassischen Epocheへの道は、当初、ルネサンスには閉ざされていたのである。ルネサンス(150)期においては、ギリシャ哲学は一般に、ヘレニズム風のヴェールと衣装を通したもののみしか与えられなかったからである。即ち、プラトンの学説は新プラトン主義の媒介を通してのみ眺められるのである。 かくして、ルネサンスにおいては、古代の概念世界の復活が、同時に、古代の神話的世界をも直接身近なものたらしめることになる。ジョルダーノ・ブルーノに至っても依然として、このような神話的世界は、最終的に消滅してしまう事無く、いたるところ彼の哲学思想そのものに決定的な仕方で関与しているのを、我々は知るのである。しかも、こうした世界の影響は、自我と世界、個と宇宙との和解を、概念的な思惟によってではなく、芸術的な感情或いは情緒によって求めていくような場合、はるかに強力に、はるかに深く及んだはずである。ルネサンスにおけるこうした力の登場が愈々独立的になり、その影響もいっそう無拘束になっていくにつれ、それだけ従来、中世が占星術体系に対置させてきたところの抵抗は崩れていくのである。 他方、キリスト教的中世もまたこうした体系を欠いては存立しえぬものであり、したがって、完全にこれを克服し得なかったのである。キリスト教的中世は一般に、古代的=異教的な基本観念を許容し継続させたが、それと同様に、他ならぬこの占星術体系も受け容れるのである。古い神々の形象は生き残って、しかも悪魔や卑しい悪霊に転落させられる。しかし、人間の悪霊恐怖と言う原始的感情がどれほど強かろうと、今やこれは唯一神の全能に対する信仰によって鎮められ、抑制される事になる。唯一神の意志に対しては、対立する全ての力は屈服せねばならないのである。したがって、中世の「知識」Wissen、特に中世の医学や自然科学が、占星術的な要素と徹頭徹尾、混在していようとも、これに対しては中世の信仰が恒常的な矯正力として働くのである。中性の進行は占星術的要素を否認したり除去したりはしない。しかし、神的摂理の力に従属させるのである。こうした従属によって、占星術は世俗知識の原理として無傷のまま存続しえたのである。 (151)ダンテでさえも、こうした意味で占星術を理解している。事実ダンテは『饗宴』Convivioにおいて、完全な知識体系を展開したが、その一つ一つが占星術体系に相応しているのである。三学Trivium、四科Quadriviumの七自由学科は、七つの惑星球に順序正しく配列される。即ち、文法は月に、論理学は水星に、修辞学は金星に、算術は太陽に、音楽は火星に、幾何学は木星に、天文学は土星に相応するのである。ついで、本来の形式における人文主義に関して言えば、これも占星術に対しては依然として、異なった態度を示してはいない。ペトラルカはここでは依然として尚、キリスト教的見解に完全に従っている。すなわち、占星術に対するペトラルカの態度は、この点に関するアウグスティヌスの議論をそのまま援用しており、したがってアウグスティヌスの態度と異なったものではない。サルターティは青年時代に占星術的運命に対する信仰に傾斜した事はあるが、後年の著作『運命とフォルトゥナについて』De fato et fortunaの中で、こうした誘惑を克服し、占星術への信仰をはっきり排撃したのである。星には独立した如何なる力も無い、星は単に神の手にある道具と見なされ得るのみである、と言うのである。 しかしながら、時代が進むにつれ、我々が益々強く感じる点がある。それは世俗的な精神や世俗的な教養が前面に躍り出てくれば来るほど、他ならぬこの事事態が占星術の基本的教説への傾斜を強化していくと言う点である。他の点ではきわめて威厳のある、平衡の取れたフィチーノの生涯の中に、不安と絶えざる内的緊張のモメントが入り込んでくるのも、占星術との分裂した精神的=倫理的な関係によるのである。フィチーノもまた、キリスト教的=教会的な基本見解に服従しており、天球は人間の肉体を支配する力は持っているが、人間の精神と意志に対しては如何なる強制力も行使し得ないことを強調する。ここからして、フィチーノは占星術を駆使して未来を解明しようとする試みに対して戦うのである。「物事をそれ自体注意深く考察すれば、我々の相手にしているのは予言その(152)ものではなく、予言を擁護する愚か者である」si diligentius rem ipsam consideramus, non tam fatis ipsis, quam fatuis fatorum assertoribus agimur。それにもかかわらず、このような苦闘を通して勝ち得た理論的な革新も、フィチーノの生活感情の革新を変える事が出来なかったことは紛れもない事実である。フィチーノの生活感情は依然として星の力、特にフィチーノ自身のホロスコープの上昇点に現れた不吉な星、即ち、土星の力に対する信仰によって支配されているのである。 賢者は己の星の力から逃れようとはしない。せいぜい出来ることといえば、星から来る影響のうち、恵みのあるものはこれを自らのうちで強化し、外のあるものは可能な限り逸らせ、こうすることによって星の力を良い方向に導いていく一事だけである。生をそれぞれその規定された範囲の中でinnerhalb統一させ完成させるこうした能力に基づいて、生はその形式を与えられるのである。我々の最高の努力もまた、こうした限界を飛び越える事は出来ないし、越えてはならない、というのである。フィチーノはその著『三重の生について』De triplici vitaの第三巻に「天界に規定された生について」De vita coelitus comparandaという名称を与えているが、ここで彼は、星の力によって規定される生形成の完全にして極めて精緻な体系を展開したのである。ルネサンスの新しい生活感情、人間性というルネサンス概念と理想は、これに敵対する二つの異なった基本的な力Grundmaechteと対決せねばならなかったが、この事実を我々は、フィチーノのこのような例からきわめて明らかに知る事が出来るのである。
 近代的自然概念の成立に対する占星術の意義 自我の解放のあらゆる試みに対して、二重の性質と、刻印を帯びた一つの必然性が立ちはだかる。一方において(153)恩寵の王国regnum gratiaeが他方において自然の王国regnum naturaeが、自我に対して承認と服従を要求するのである。第一の要求が抑えられること愈々はなはだしくなれば、それだけ力強く第二の要求が強まり、これのみが正当なものと言明する事になる。いまや超越的な束縛に対して内在的なそれが、宗教的・神学的な束縛に対して自然主義的なそれが対置されるのである。このような内在的・自然主義的束縛を克服し、これに打ち勝つのは一層困難なことであった。なぜならば、ルネサンスの自然概念Naturbegriffは究極的にはルネサンスの精神概念、その人間概念が生まれてきたのと同一の精神的諸力から自らを養ってきたからである。したがって、ここで要求されたのは、いわばこれらの諸力が己自身に対して立ち向かい、己自身に対してその限界を置くこと以外の何者でもなかったのである。 スコラ哲学と中世的教義学に対する闘争が外に向けられているとすれば、いまやうちに向けての戦いが始まるのである。この戦いが以下に困難で頑固なものとならざるを得なかったのかを、我々は理解できる。事実、15世紀に成立し、16世紀から、実に17世紀初頭に至るまで生き続けたルネサンス自然哲学は、全て因果性についての魔術的=占星術的な基本見解と密接に絡み合っているのである。自然を「その固有の原理Prinzipienに従って」juxta propria principia理解する事、これは自然を、自然そのものの中に存在している生得の諸力Kraeftenから説明する以外の何ものをも意味するものではないと思われたのである。しかしながら、これらの諸力がより明らかに現れるのは、どこにおいてであろうか。これらがより捉え易く、かつ、より一般的な形で示されるのは、どこにおいてであろうか。それは天球の運動の中をおいて他にないのではなかろうか。宇宙の内在的な法則、特殊な生起一切に対する包括的な普遍法則を何処かで読み取る事が出来るとするならば、他ならぬここ、天球の運動の中でなければならないのである。(154)したがって、ルネサンス期においては占星術と魔術は「近代の」自然概念と少しも対立するものではなく、寧ろ両者とも近代の自然概念を担った最も強力な車となるのである。占星術と新しい経験的な自然の「科学」とは、互いに人的にも物的にも同盟を結ぶ事になる。こうした同盟が生そのものに対して、すなわち、生の理論的な把握に対しても、その実践的形成に対しても影響を及ぼしたその力を完全に測定する為には、こうした同盟を個々の思想家自体の形象において明らかにせねばならない。たとえば、カルダーノのような人物の自叙伝に見られるような形式において、それを考察せねばならない。このような絆を解消したのは、やっとコペルニクスとガリレイに至ってである。しかもその際の解消も、単なる「思考」に対する「経験」の勝利、思弁に対する計算と測定の勝利を示すものではなかった。これが成功する為には、寧ろ前もって思考方式そのものDenkart selbstの転換がなされねばならなかった。すなわち、自然把握の新しい論理学が形成されねばならなかったのである。 ルネサンス哲学内部の偉大な体系的関連を認識するためには、何よりもまず、こうした論理学の成立を追跡する事が重要である。なぜなら、ここで決定的で本質的な事は、結果そのものではなく、そのような結果に至った道程だからである。しかも、この道程を辿る事によって、我々は、或いは錯綜した空想的な迷信の真っ只中に迷い込んでしまうかもしれない。何しろ、ブルーノやカンパネッラのような思想家にあってさえ、依然として神話と科学、「魔術」と「哲学」との境界ははっきり区別されてはいないのであるから――それにも関わらず我々は、この道程において二つの領域の間の「対決」Auseinandersetzungがはじめて、ゆっくりと絶え間なく行われていった、あの精神的なプロセスの力学を、それだけに尚一層深く覗き見る事が出来るのである。 こうしたプロセスの普遍性を持って当然ながら我々は、ここには思想の時間的な連続が同時にその体系的な連続を示し表しているものと理解してはならない。直線を描いて一定の目標に達するような持続的な時間的「進歩」(155)は、どこにおいても問題にならない。古いものと新しいものは長期間にわたって互に並行して進むだけでなく、両者は互に絶えず入り混じるものでもある。したがって、ここで「発展」Entwicklungについて云々するにしても、せいぜい次のような意味でしかない。即ち、ここの思想モチーフはまさにこうした流動的な、あちらへ行ったりこちらに来たりHin und Herを互に繰り返しながら、次第により鋭く分離され、ついに一定の典型的なtypischen形体として出現すると言う意味での「発展」に過ぎない。思想の内在的な進展は、こうした典型的な形態を取るに至った事において明らかとなるが、その形態の時間的=経験的な経過と一致する必要は全く無いのである。 占星術的世界像が克服されていく中で、なかんずく、我々は二つの異なった段階を区別する事が出来る。第一段階の特質は占星術的世界像の内容Inhaltを否定する事にあり、第二段階のそれはこの内容を新しい形式で表し、それとともにこれに新しい方法論的基礎を与えようとする試みにある。この後者の試みは、その自然観察のやり方において特徴的である。すなわち、その自然観察とは、現象そのものから直接由来するようなものではなく、現象をアリストテレス的=スコラ学的自然概念を媒介として考察し、これをこのような概念体系に適合させようとするものである。ここに成立するのは特殊な混合形態、すなわち、一種のスコラ学的占星術と占星術的スコラ学といったもので、これは若干の中世的な諸体系、なかんずく、アヴェロエス主義にその原型が見出されるのである。(ポンポナッツィによる占星術 155-165)
 (166)小宇宙=モチーフ  しかし、これらと並行して、これら両極の対立を調停し、和解させようと言う努力にも事欠かないのである。こうした調停は、我々がルネサンス哲学の基本モチーフ、即ち「小宇宙」Mikrokosmosモチーフに再び立ち帰りさえすれば、ただちに可能となるように思われよう。なぜなら、この「小宇宙」モチーフこそ、そもそもの初めから、ルネサンスの自然概念と「人間性」概念とが出会い、互に規定し合う中間領域だからである。これに寄れば、人間は自然の象徴として、自然の肖像として自然から区別untershiedenされているが、同じように、自然に関連付けられbezogenてもいる。人間は自然を自らのうちに抱擁しているが、他方、自然の中に同化されてしまう事は無い。人間は自然の有する一切の力を有しているが、それにもかかわらずこれに加えて、特に=新しい意識Bewusstheitの力を有しているのである。これによって再び、占星術的思想世界の中には新しいモチーフが進入してくる事になり、次第に内部からこれを改造していく事になる。占星術的世界観は古くから小宇宙=思想と結合していただけでなく、端的にこれから引き出された結論であり実現であって、それ以外の何者でもないように思われる。 『三重の生について』なる著作において、フィチーノは占星術体系の叙述を行っているが、彼はこれを次のような思想を持ってはじめている。即ち、世界が単に死んだ元素の集積でなく、魂を吹き込まれた存在である限り、自然には、どこをとっても全体と並行し、かつ全体の外部に一つの独立した存在を有するがごとき単なる「部分」Teileは存在し得ない、とする思想である。我々が表面的に宇宙の部分と見なしているものは、より深く把握してみると、寧ろ宇宙(コスモス)の生活関連の中に一定の地位と必然的な機能を有している器官Organとして捉えねばならないのである。宇宙的作用連関の一元性は分化して、諸器官のこうした多様性を生み出す。しかし、こうした文化は如何な(167)る意味でも、部分の全体からの乖離を意味するものではない。単に、全体のその時その時の異なった表現Ausdruckを意味しているに過ぎない。それぞれが全体の自己表現の特殊な一側面なのである。 とはいっても、他方、こうした宇宙の完結性Geschlossenheit、すなわち、こうした「世界の調和」は特殊な諸力の歯車の如き相互の噛合いIneinandergreifenの中にあって、同時にそれら諸力間に一定の階層的な秩序Hierarchische Ordnungが存在しなかったならば可能とはならないであろう。宇宙の働きは一定の形式を維持しているだけでなく、至る所で一定の方向Richtungをも示している。その道は上から下へ、英知界から感覚界へと続いている。上の天上界からは絶えず下へと流出が続き、これによって地上の存在は養分を与えられるだけでなく、絶えず新たに受胎せられているのである。しかしフィチーノの説いたこうした流出論的Emanatistische自然学の形式は、尚依然として古代的な叙述、特にヘレニズム後期の魔術と占星術の古典的な手引書であるピカトリクスの意味において取上げられたものであり、いつまでもそのままの形を取り続けるわけには行かなかった。なぜなら、15世紀Quattrocentoの哲学思想が、階梯的な宇宙Stufenkosmos概念に決定的な批判を加えて以来、その最も強固であった基礎が破壊されていたからである。 ニコラウス・クザーヌスをもって始まった新しい宇宙論Kosmologieにおいては、絶対的な「上」Obenや「下」Untenは存在しない。従って最早、単なる一義的な作用の方向もまた存在しないのである。世界有機体の思想は、ここでは拡張されて、世界の元素おのおのが同一の権利をもって宇宙の中心と見なされうる、という形にまで変えられているのである。従来の、低次の世界と高次の世界との一面的な隷属関係は、いまや、ますます純粋な相関関係Korrelationsverhaeltnissesの形式を取り始めるのである。かくして、占星術的思想の一般的な諸前提が未だ力を残しているところでも、次第にこうした思想類型はその理論的基盤ともども変形せざるを得なかったのである。 (168)ドイツにおいては、こうした変形はパラケルススの自然哲学において最も明らかに示されている。「大」宇宙と「小」宇宙との関連及びその全面的な照応は、ここでは完全に保持されている。パラケルススにとって、これは全ての薬物学の前提を為している。「哲学は薬物の第一根拠」であり、天文学は「そのもう一つの根拠」とされる。「何よりもまず、医者の知らねばならぬ事は、<天文学>astronomicam philosophiamの取り扱う他の半分の部分、即ち、天上界において人間を理解する事であり、人間を天上界に移し、天上界を人間に移すことである。さもなければ、人間の医者足り得ないであろう。なぜなら、天上界はその領域に肉体を半分包含しており、したがって、半分の数の病をも包含しているからである。この半分の病について知らなくて、どうして医者たり得ようか。……宇宙誌に通暁していないものが、どうして医者たり得ようか。宇宙誌は医者の、とくに熟達せねばならぬものである……なぜなら、全ての認識は宇宙誌から生まれるのであり、これを欠いては何事も生じないからである」とされる。 それにもかかわらず、ここでは世界と人間との調和Harmonieは、最早単純な隷属Depenzという意味には理解されていない。しかも、全ての理論的な薬物学の主要課題は、この調和を理解する事にあるというのである。「互いに似ている二人の双生児のうち、これほどまで似ているのは、いずれが他を真似たものと言えようか。いずれでもないのである。それならば、我々はどうして自らを、木星の子であり、月の子であるというのであろうか。互いに我々は双生児と同じ関係にあるというのに」。ここで我々が、類似関係を因果関係に還元せんとすれば、この場合、因果関係の重心は「外的」存在から「内的」存在へ、事物の存在から「心情」Gemuetsの存在へと移されねばならないであろう。なぜなら、人間が火星を真似たと言うより、火星が人間を真似たと言ったほうがより適切だろうからである。「なぜなら、人間は火星やその他の遊星以上のものだからである」。 (169)ここにおいても、我々は再び、占星術の、緊密に接合されている自然主義的思想世界に、新しい、根本においては異質のモチーフが入り込んでいるのを知るのである。純粋に因果的な考察方法が突如として目的論的なそれに変化する――そしてこのことによって、いまや小宇宙と大宇宙との関係に関する一切の規定が、たとえその内容からいえば変化していないとしても、いわば異なった兆候を帯びてくるのである。ここでもまた、倫理的な人間の自意識が占星術の運命モチーフに対抗する事になる。このような独特の混合は、既にパラケルススの薬物学と自然哲学の外的な構成のうちに暴露されている。パラグラーヌム書Buch Paragranumは医学の「四つの柱」を示さんとするものであるが、ここには哲学Philosohia、天文学Astronomia、錬金術Alchimiaという三本の柱と並べて、勇気Virtusがあげられている。「第四の柱は勇気でなければならない。これは死に至るまで、医者のもとに留まらねばならない。なぜなら、これは他の三本の柱を管理し、保持するものだからである」。 小宇宙=思想――すなわち、ルネサンス哲学の理解した小宇宙=思想は、このような「Metabasis eis allo genos」このような自然学から倫理学への移行を許しただけではない。まさにそれを要求しさえするのである。なぜなら、小宇宙=思想においては、宇宙論は当初から生理学や心理学と結合していただけではない。倫理学とも結びついたからである。小宇宙=思想によれば、人間の自我Das Ichは世界よりして認識されねばならないのであるが、他方、この思想は真正にして真実の世界認識は自己知識という媒体を通して為されねばならぬ、という要求を自らのうちに抱いているのである。パラケルススにおいてはこの二つの要求は尚、直接並置されている。一方において、パラケルススは人間を「四元素によって構成された、鏡に映った肖像」以外の何者でもないとしている。「鏡の中の像は、いかにしても、自らの存在を他のものに理解させえない。他の者に己が何者であるかを決して知らせる事が出来ない。なぜなら、それは死んだ像として鏡の中に立っているだけだからである。これと同じく、人間もまた己自身の(170)中に立っているのである。人間からは外的な知識以外の如何なるものも引き出せない。人間は鏡に映った外形なのである」。それにも関わらず、この「死せる肖像」tote Bildnisはそれ自身のうちに純粋な主観性の全ての力、認識と意欲の全ての力を包含しており、まさにそのことによって、新しい意味で、世界の核、世界の中心となるのである。「なぜなら、人間の心情は何人も言い表せないほど、偉大なものである。かくして、神をはじめとして、第一物質prima material、天上界、これら三者は全て永遠にして、破壊されえないものであるが、同じように人間の心情もそうである。従って人間はその心情によって、その心情あるが故に祝福されるのである。我々人間が、我々の心情を正しく理解しさえすれば、この世で不可能な事はなくなるであろう。
(エルンスト.カッシーラー著 末吉孝州訳『ルネサンス哲学における個と宇宙』太陽出版・1999年)