芸術の社会的地位 美術家や著述家の社会的役割と関連した彼らの社会的地位は、難しい問題を含んでいる。仕事の文化が進展するにつれて、中世社会で公認されていた「三身分」、即ち僧侶、騎士、農民―――祈る人、戦う人、労働する人―――以外の全ての役割を社会構造の中に位置づけることは難しくなっていったが、この問題もこうした一般的な問題の特殊ケースであった。美術家の社会的地位があいまいなものであったとしたら、商人の社会的地位も同様にあいまいなものであった。そしてまさにイタリア人が、少なくとも幾つかの地域で、他のヨーロッパ人よりも商人達にはるかに高い地位を与えたとしたら、芸術家の社会的地位が最も高まったと思われるのもイタリアに於てであった。…… 美術かは機会あるごとに自分達が高い社会的評価を得ていること、或いは得る権利がある事を主張した。チェンニーニは15世紀の初頭に、レオナルドは15世紀の末に、画家と詩人が同じように彼等の想像力を用いる事を根拠にして、画家と詩人を同列においている。絵画に高い(114)地位を与えるもう一つの理由は―――ルネサンスの心性の或る側面を示しているが―――画家が優雅な服を身につけながら仕事ができるということである。チェンニーニは語っている。「心得ていて欲しいのは、板絵の制作というのは、まさしく貴人の仕事であるということである。そのわけは、ビロードを身に着けたまま、望みの事が出来るからである」。レオナルドは言う「画家は好みの服で着飾って、作品の前にゆったりと座り、優美な色の付いた絵筆を軽快に動かし……しばしば楽師や様々な美しい作品の朗読者をはべらせる」。アルベルティはその『絵画論』で、この時代に人口に膾炙した幾つもの話題を提供している。例えば、画家は修辞学や数学のような自由学芸を研究する必要があると主張したり、古代の話題―――古代ローマ時代には美術作品は高い値で売れたとか、身分の高いローマ市民はその息子達に絵を習わせたとか、アレクサンドロス大王は画家のアペレスを賞賛したとか―――を提供している。 美術家では無い人々も、画家は普通の職人とは異なるという主張を認めていたらしい。人文主義者のグァリーノ・ダ・ヴェローナはピサネッロをたたえる詩を書き、……フィレンツェ大司教の聖アントニーノは、大抵の職種では製品の値段は本質的にそれに要した時間と材料によって決められるのに「画家達は、事の正否はともかく、彼等の芸術に対する報酬を、仕事の総量によるだけでなく、寧ろ彼らの仕事への熟練や精励の度合いに応じて支払うように要求している」と述べ(115、図版。116)ている。……何人かの画家は、パトロンによって騎士や貴族の称号を与えられる事によって、当時の価値基準から見て高い社会的地位を得ている。……パトロンにとってそれは安上がりな報酬の方法であったが、芸術家にとってこうした栄誉には十分な現実的見返りが伴った。何人かの画家は高い身分と俸給を保証された官職に就いた。……都市政府の要職についた画家達もいる。……(117)そのうえ、何人かの画家達は金持ちになった事が知られている。……富は画家達に社会的地位を与えた。彼らが要求した値段は、絵画が安くは無かった事を示している。 アルブレヒト・デューラーの証言は重要な意味を持っている。ヴェネツィアを訪れた際、彼は美術家の地位が故郷のニュルンベルクよりも高い事に強い印象を受け、故国に居る友人の[ある]人文主義者にあてて「ここでは私は貴族だが、故郷では食客に過ぎない」と書いている。カスティリオーネの有名な『宮廷人』において、対話者の一人であるロドヴィーコ・ダ・カノッサ伯爵は、理想的な宮廷人は素描と絵画の心得が無くてはならないと主張している。…… 彫刻家と建築家の社会的地位についても同様の証拠がある。ギベルティの彫刻家のための研究プログラムや、アルベルティの建築家のための研究プログラムは、これらの職業が自由学芸と々水準のものである事を示唆している。アルベルティは建築家に対して、身分行為の人のためにのみ建てる事「なぜなら身分卑しき人々のために建てれば君の作品は品位を失うから」と忠告している。ウルビーノ君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが1468年にルチアーナノ・ラウラーナに与え(118)た特許状では、建築は「偉大な学問と才能を要する芸術」であり、「7自由学芸中でも最も重要な数学と幾何学の技術を基礎にしている」と述べられている。彫刻家を「手仕事の職人」の組合に属する義務から解放した1540年の教皇の勅令では、彫刻家は「古代人によって大いに賞賛され」、古代人は彼らを「知識と学問に富める人」viri studiosi et scientificiと呼んだと述べられている。パドヴァのアンドレア・イル・リッチョのように詩を献じられた彫刻かもいたし、貴族に叙せられた彫刻家もいた。…… この時代の作曲家はしばしば自らを詩人に比している。ヨハンネス・デ・ティンクトリすは、アカデミックな音楽理論家として比類ない権威を持っていたが、その旋法に関する著作を著作を二人の音楽家オケヘムとビュノワに捧げた。このことは、理論が主人であり実践(演奏や作曲)は従僕に過ぎないとす(119)る当時の常識的な考え方から見れば、異例なことであった。この時代のイタリアでは多くの作曲家が栄誉ある待遇を受けたが、それが彼らの作曲への賞賛の結果なのか、演奏への賞賛の結果なのかは用意には定めがたい。人文主義者のグァリーノ・ダ・ヴェローナとフィリッポ・ベロアルドはリュート奏者スクァルチャルーピが死亡した時、フィチーノとポリツィアーノは弔辞を書き、ロレンツォ・デ・メディチは碑銘を起草してフィレンツェ大聖堂内にその墓碑を建てさせた。……サン・マルコ聖堂楽長ジョゼッフェ・ザルリーノは共和国によって記念メダルを作られ、晩年には司教に叙せられた。 人文主義者の多くも高い社会的地位を得た。フィレンツェの場合、人文主義者はフィレンツェの有力家族の上位10%に属しているといわれてきた。たとえばブルーに、ポッジョ・ブラッチョリーニ、カルロ・マルスッピーニ、ジャンノッツォ・マネッティ、マッテオ・パルミエーリは、(120)いずれも富裕な市民である。ブルーニ、ポッジョ、マルスッピーニはフィレンツェ共和国の書記官長という要職を務め、パルミエーリは少なくとも63回官職に就き、マネッティは外交官及び行政官として際立った経歴をつんでいる。この五人のうち、三人は上層階級の出身であるが、ブルーにとポッジョは自らの努力によって上層階級への仲間入りを果たした。…… これはフィレンツェに特有の現象だったわけでは無い。…… (121)しかし、こうした状況には別の面も存在する。美術家や著述家はあらゆる人から尊敬されたわけではなかった。その業績を構成に認められた創造的エリートの何人かは、生前不遇な時代を送っている。この時代には美術家に対する三つの社会的偏見が強く残っていた。第一に彼らの仕事が手仕事であるために、第二にそれが小売業を含んでいるために、第三に彼らが学問を欠いている為に、美術家は下級な職業と見なされたのである。 ルネサンス期にはまだ一般的だった12世紀の分類を用いれば、絵画、彫刻、建築は「自由」liberal学芸ではなく「機械」mechanical学芸であった。それらはまた汚い仕事であり、貴族は絵の具を使った手を汚す事を好まなかった。アルベルティが美術家を擁護するために用いた古代の話題は、実際には相反する面を持っている。例えばアリストテレスは職人の仕事が手仕事だという理由で彼らを市民から除外し、プルタルコスはその「ペリクレス伝」において良家の人間でフェイディアスのように彫刻家になろうとするものは一人も居なかったと述べている。こうした見解に対するレオナルドの激しい抗議は良く知られている。「諸君は絵画を機械技芸の一つと見なす。……絵画が想像力の生み出すものを手で表す手仕事だからという理由で機械的と呼ぶのなら、著述家も心に浮かんだものをペンを用いて手で表現するではないか」。しかしながら、レオナルドでさえ彫刻家に対しては偏見を抱いている。「彫刻家はその作品を……機械的な作業によって作り出すが、しばしば塵芥と混じって泥と化した汗にまみれ、顔は石の粉で真っ白になりパン焼き職人みたいに見える。」 美術家に対する偏見の第2の理由は、彼らが作品を売って生計を立てていた事で、そのため彼等(122)は靴直しや食品商と同じ低い地位の人間と見なされたのである。一方、貴族は仕事の報酬としてお金を受け取る事を恥と考えていた。ロンバルディアの貴族で人文主義者のジョヴァンニ・ボルトラッフィオは画家でもあったが、彼は恐らく自分の絵を友人への贈り物と考えていた為に、普段は小型の作品を制作した。彼の墓碑銘も彼が非職業画家であった事を強調している。レオナルドは人文主義者に対しても反論している。「若し、絵画がお金のためにかかれるという理由で、それを機械的と呼ぶのなら、君達こそ一番そうした過ちに陥っているではないか。君達が学校で講義をする場合、君達は報酬の一番良い所にいかないだろうか。」現実には、王侯貴族お抱えの美術家―――これは最も優秀な美術家に限られた―――と工房を経営する美術家との間にはしばしば一線が引かれた。ミケランジェロはこの区別を強く主張している。「私は工房を経営する類の画家や彫刻家であったためしは一度も無い。いつも私の父や兄弟の名誉のためにそうする事を差し控えてきた。」同様にヴァザーリも、メディチ家の宮廷芸術家として活躍した後、ペリーノ・デル・ヴァーガのような二流の画家について見下した口調で語っている。「彼は街路に開かれた工房を経営し、人前に立って、あらゆる種類の手工芸品を作る類の美術家の一人であった」。 視覚芸術に対する第3の偏見は、美術かが「無教養」であるということであった。つまり美術家が、彼らが受けた実技の訓練よりも高い評価を受けていた種類の訓練(例えば神学や古典文学の訓練)を欠いていたということである枢機卿ソデリーニはミケランジェロがローマから逃亡した際に教皇に向かって「無知ゆえの誤りです。画家というのは仕事でも他のことでも全てこうしたもので(123)す」と語った。しかし教皇ユリウスがこうした偏見に同意しなかった事を思い起こすのは愉快である。彼はソデリーニに向かって大声で「無知なのはお前だ、彼ではない」と怒鳴ったという。 既に挙げた何人かの美術家は彼等の芸術によって裕福になったが、多くの美術家は依然として貧乏であった。彼等の貧しさは恐らく美術に対する偏見の下人でもあり結果でもあった。シエナの画家ベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニは1488年に次のように訴えている。「我々の職業の収入は僅かで限られている。描く作品も少なく、売れる数も僅かだからです」。ヴァザーリも同じような指摘をしている。「今日の美術家は名声を得るためより飢えを凌ぐために戦っている。そしてこの事が彼らの才能を駄目にし、彼等の名前をも埋もれさせているのだ」ヴァザーリの記述は、(彼自身の裕福さは別にしても)彼が他で述べている事と矛盾しており、現実味の薄い議論とみなされかねない。しかし一方、ベンヴェヌートの訴えは納税申告書に付されたもので,査察の対象となる事を前提にしたものである。同じ事はヴェロッキオの場合にも見られる。彼は1457年の納税申告所で工房の弟子達のズボンを買う金も無いと訴えている。ボッティチェリとネロッチョ・デ・ランディは借金をしている。ロットは貧乏の挙句30点の絵を競売に掛ける事になったが、そのうち7点しか売れなかった。 人文主義者も常に恵まれた境遇にあったわけではなかったし、いつも変わらずに尊敬されていたわけでもない。ギリシア人学者のヤノス・アルギュロプーロスはある時期生活に窮して書物を売らざ(124)るを得なかったといわれる。バルトロメオ・ファツィオは社会の上下に渡る幾つもの職種を経験した。…… これらの人文主義者は傑出した人たちであった。この職業の人々の社会的地位を全体として知るには、余り重要でない人たちのことをも考慮に入れる必要があるだろう。……小都市の教師や貧しい印刷校正者と言えども成功した「無学な」美術家よりも高い地位を享受したらしい。…… (125)三つの点ははっきり指摘する事が出来よう。まず、職業的訓練に於ても社会的地位においても、創造的エリート達は二つの文化を形成したこと、そして文学、人文主義、科学は、美術や音楽よりも社会的尊敬を受けたことである。しかし、人文主義者の道を職業として選択することには大きな危険が伴った。専門的訓練を受けた人は多かったが、選ばれる人はごく僅かだったからである。第2に、ルネサンスの美術家は社会学者が「身分的乖離」status disonansと呼ぶ現象の典型例であったことである。彼らの一部は高い社会的地位を獲得したが、他はそうではなかった。ある種の見方からすれば、美術家は社会的な名誉に値する存在であったし、別の見方からすれば、彼らは職人でしかなかった。実際、美術家は貴族や権力者の尊敬を受けた一方で、別の人たちからは軽蔑された。その結果生まれる社会的身分の不安定性が、ミケランジェロやチェリーニのような芸術家の神経過敏な気質を説明してくれるだろう。第3の点は、美術家と著述家のいずれの社会的地位も恐らくイタリアではヨーロッパのどの国よりも高かったこと、またイタリアではそれはフィレンツェで最も高く、そして15世紀よりも16世紀においてのほうが高かったことである。16世紀も中頃になれば、美術家が何らかの古典文学の知識を持っている事はもはや珍しくなかった。二つの文化の間の区別は取り払われつつあったのである。画家や彫刻家の社会的流動性は、「芸術家」artistという言葉が多かれ少なかれ近代的な意味で使われ始めたこと居象徴されている.(125)
社会的逸脱者としての芸術家(126) 芸術家が普通の職人ではなかったとしたら、彼は一体何物だったのだろうか。彼は、若し望むなら貴族の生活スタイルを模倣することも出来た。これは裕福で自信に満ち、まるでカスティリオーネの『宮廷人』から飛び出してきたかのように振舞うことの出来る美術家にふさわしいモデルである。ヴァザーリの『美術家列伝』には、多くの美術家―――主として16―――がこのような人物として描かれている。その代表例がラファエロで、彼は実際にもカスティリオーネの友人の一人であった。その他の紳士としての芸術家として挙げられているのは、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ヴァザーリの親類シニョレッリ、「愛想良く礼儀正しい紳士」と述べられているフィリッピーノ・リッピ、彫刻家ジャン・クリスフトフォロ・ロマーノ、その他数人で,当然ながらヴァザーリ自身も含まれている。しかし、美術家が貴族に接近した所で、手仕事に対する社会的偏見は消え去らなかった。普通の職人に甘んじることはできないが、貴紳となるには教養と平衡感覚を書いていた人たちにとって、この時代には第3のモデルが登場した。つまり……社会的逸脱者というモデルである。 この自伝で逸脱の種別分けが必要である。ヴァザーリや他の人々はこの時代の芸術家について極めてドラマティックな話を伝えている。例えば人を殺傷した話、(128)……自殺した話……これらの話の信憑性を確かめることは難しい。…… しかし美術かに関わるいっそう意味深い逸脱についてはずっと豊富な同時代の証言が残っている。即ち変則的な仕事振りである。マッテオ・バンデッロの説話集には、レオナルドの仕事振りについての生き生きとした記述が見られるが(彼はレオナルドの制作を間近で見る事が出来た)、そこでは彼の「気まぐれ」capriccio, ghiribizzoが強調されている。ヴァザーリもレオナルドについて同じようなことを述べており、仕事の停滞を叱責したミラノ港に対して画家は次のように弁明したと伝えている。「才能ある人間は手を動かしていないときにこそ多くの仕事をしているものです。というのも彼らはそうやって構想invenzioniをねっているからです」。ここでのかぎとなるのは相対的に新しい「天才」genioという概念で、それが芸術家の奇癖を不利なものから有利なものへ変化させた。パトロンもこの変化を受け入れざるを得なかった。あるときマントヴァ侯は、なぜマンテーニャは約束どおりに作品を仕上げないのかというミラノ公妃の質問に「絵描きというのは大抵気まぐれな心の持ち主です」hanno del fantastichoとあきらめた調子で答えている。これほど寛容ではない(129)注文主も居た。……別の芸術家の場合には、奇矯さは仕事に熱中する余り制作以外の事は目に入らないという形で表れた。ヴァザーリはこの種の話を数多く伝えてい(130)る。例えばマザッチョは「ひどくぼんやりとした人物」persona astrattissimaであった。「彼は全精神を芸術に注いだので、自分のことにも他人のことにも無頓着であった。……どんな状況の下でも、この世の中のことには自分の衣服にさえ何の注意も関心も払わず、貸した金を取り戻そうとさえしなかった」。またパオロ・ウッチェッロは「甘美な」dolce遠近法の研究に夢中になって「まるで隠者のように、何週間も何ヶ月も家に閉じこもり、世の中の出来事を知ることも無く、姿を見せることも無かった」という。ヴァザーリはピエロ・ディ・コジモの「奇矯ぶり」についても生彩に富んだ逸話を伝えている。彼はぼんやりとした人物で、孤独を愛し、自分の部屋を掃除させたがらず、子供が泣くのも、人が咳をするのも、鐘が鳴るのも、僧侶が聖歌を歌うことも我慢できなかった。 15世紀前半のフィレンツェではマザッチョが金銭に無関心であったことのほうが注目に値する。金銭へのさらに顕著な軽蔑はドナテッロにも見られる。「彼を良く知る人が言うには、彼は全部の金をかごの中に入れて、彼の工房の天井から綱でつるしておいたので、誰もが欲しいときに欲しいだけ取る事が出来た」。これはまさにフィレンツェ社会の基本的価値の意図的な拒絶のように見える。ドナテッロが何故こうした価値を拒否したのかは、ヴァザーリが伝える別の逸話からうかがい知る事が出来る。ドナテッロはあるジェノヴァ商人のために胸像を製作したが、この商人はドナテッロの要求した額が高すぎるといい、それでは一日あたり半フィオリーノ以上の報酬になると抗議した。(131) :するとドナテッロはひどく抽象されたと思い、激怒して商人のほうを向くと、一年も苦労して作ったものでも壊すには百分の一時間も要らないといって、胸像に一撃を加えたので、それはたちまち道路に落ちて割れ、こなごなになってしまった。そして彼は商人に、あんたはインゲン豆の商売には向いてるかもしれないが、彫刻の商売には向いてないと言った。:何処までがドナテッロの言葉で何処からがヴァザーリの言葉なのかはともかくとして、教訓的意味は明らかである。つまり芸術作品は通常の商品では無いということ、芸術家は日当で報酬を受ける普通の職人では無いということである。 ある人はホイッスラーの『夜想曲』について画家と法務長官が交わした問答を思い起こすかもしれない。「それでは二日間の仕事の報酬として200ギニーを要求するのですか。」「いや違う。私は一生の知識に対する報酬としてその額を要求するのです」。同じ主張が1878年になってもまだなされる必要があったのである。しかしルネサンス期のイタリアにおいてこの問題は極めて敏感に受け止められた。すでに見たように、フィレンツェ大司教の聖アントニーノは、美術家が自分達は通常の職人とは違うと主張するのも理由の無い事では無い、と認めている。ミケランジェロの私淑したポルトガル人画家フランシスコ・デ・オランダは、さらに力を込めて主張している。「芸術作品はいたずらにそれに費やされた努力の量によって判断されるべきではなく、それを作り出した人物の能力と熟練の価値によって判断されるべきである」。Lo merecimento do saber e da mao que as faz.(132)芸術家は普通の職人ではない、という同じ考えが(やはりヴァザーリが伝える)ポントルモの行動の背後にも存在していたのだろう。ポントルモは報酬の良い仕事を断り、気に入った人の仕事なら「すずめの涙のような値段でも」引き受けたという。彼は注文主に自分が自由な人間である事を示そうとした。芸術家の奇矯さは社会的なメッセージを含んでいたのである。(132)
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)