2009年4月2日木曜日
ルネサンス世界の成立と拡大
ルネサンス世界の成立と拡大 時代意識としてのルネサンス(11) ……[ペトラルカについて]……古典発見の現場に真っ先に駆けつけたペトラルカは、光り輝く古代と、これに続く(自らもまた居合わせている)次代との間に質的差異を覚え、この暗黒に終わりをもたらすであろう時の到来を予感する。彼は中間的な時代、つまり後に「中世」と呼ばれる時代が、自分の時代と古代との間に介在している事を気づき始めた、最初の人物であった。その間に流れた時間は古典を見失った時間であり、そこには無意味で無残な時の経過があった。やがてこれが周知のように歴史の三区分、古代・中世・近代の三時代成立に繋がる。 彼は暗黒の中世に生きた皇帝カールに敬称の「大帝」をつけて呼ぶ必要は覚えないし、この長い時代の出来事に顧慮を払う必要も感じなかった。ソールズベリのジョンやダンテ・アリギエーリにとり、異教的古代とキリスト教的中世の歴史的出来事は相互に類似性を有し、それゆえに並行して語る事が出来た。これに対し、ペトラルカは中世の事件を価値無きが故に無視する。皇帝の居る中世は帝政ローマと続いている。ペトラルカの中で帝政以前のローマ、共和制ローマ、ロムルス=カトーへの思いが高まる。……ローマ不在の世紀、13世紀と違って、ペトラルカにより14世紀にローマが登場する。こうしてブルクハルトの言に拠れば、ルネサンスは世界史的必然性となり、イタリアの民族精神とともに西欧世界を征服する。 ここで特に注目しておきたいのは、先述の第2点、移行期に生きる人達の時代認識と時間感覚の問題である。……(12)古代の学芸がときに「更新」したという意識、弱くなっていた過去とのつながりが強化されたという意味での「復古」の意識は紛れも無く存在したが、時代区分をもたらす感覚、ほかの時代とは異なる意味での再生意識では決して無かった。自分達がペトラルカの後継者であり、中世と異なる新たな時代に属しているという意識は若い世代、例えばブルーニの時代では明瞭となった。継続を意味する「文化推移」では過去は常に現存し、まことの、狭義の「ルネサンス」は生まれない。 これらは勿論、ペトラルカやその後継者達、サルターティなどの意識や彼等の時代が考えられているほど革新的と限らず、中世的な側面も付着していたという事を否定するものではない。移行期・転換期の様相も色濃い時代である。…… ただ、この時代意識の問題を広範な史的文脈で見ておくと、ルネサンス以後の、レトリックの伝統に沿った古代人=近代人間の優劣論争とも通底する所があり、中世との断絶意識の発展なしにもこの論争はありえないのではなかろうか。他方で、古代礼賛には「愛国的」反発もあった。反古典古代、特に反ギリシャ故に、別の伝統、例えばジョヴァンニ・ダ・ヴィテルボのようにエジプト文明やエトルリア文明を持ち出してくる事なども、古代熱の裏面として考慮しなければならない。なお、ルネサンスにおけるエトルリア文明問題は、これ事態重要な研究対象である。16世紀のメディチ家が先祖をエトルスキに求める思考法に関心を寄せた事は、比較的知られている。これは歴史的に、トスカーナ地方などが同文明と理屈ぬきで密接に繋が(13)っていたためである。15世紀前半、既にブルーニは例えば『フィレンツェの騎士ナンニ・ストロッツィの為の葬送演説』で、フィレンツェの起源を誇らかにローマとエトルリアに求めている。こうして古代は必ずしもギリシアやローマに限らず、時代の3区分のその中身は実に多様で多岐に渡っていたのである。(13) (根占献一著『フィレンツェ共和国のヒューマニスト』、創文社・2005年)