パトロンと注文主 (141)パトロネージの方式は幾通りかに分けられる。5つの主なタイプに分けてみると便利だろう。第一は食客として遇する方式である。裕福な人物が美術家や著述家を自宅に何年間か抱え込み、食事、居室、贈り物を与えて、彼らが主人の美術や文学上の要求にこたえるのを期待するというやり方である。第二は一時的食客システム。これも美術家や著述家とパトロン(この場合は「注文主」criantと呼ぶほうが適切だろう)との個人的な関係であるが、一時的なもので、絵や詩が引き渡されるまで続くに過ぎない。第3は作品売買のシステムで、美術家や著述家は何かしらの「既製品」を作り、公衆にそれを直接ないし仲介人を通して売るというシステムである。最初の二つのタイプの方式が主流を占めてい(142)たが、この第3のシステムもこの時期のイタリアで出現し始めていた。第4と第5のタイプは当時はまだ存在していなかった。つまりアカデミー・システム(信頼すべき美術家や著述家で構成された組織を通じて行政機関が統括するシステム)と補助金システム(財団が創造的な芸術家を後援するが、何を製作するかについては一切口を出さないシステム)である。……
パトロンとは誰か パトロンの分類には……まず聖職者と俗人に分けるのが簡単で有益な分類である。例えばペルジーノが『キリストの昇天』の祭壇画を描いたペルージャのサン・ピエトロ聖堂の僧侶達と、ボッティチェリが『春』を描いたロレンツォ・デル・ピエルフランチェスコ・(143)デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコの又従兄弟)の違いは一見して明らかだろう。教会は伝統的に美術の偉大なパトロンであり、ヨーロッパにおいて非常に長い間(4cから17cにかけて)宗教絵画が主流を占めていたのはまさにこのためである。ルネサンス期のイタリアでは、しかし、大部分の宗教絵画は俗人が注文した。彼らは教会堂(例えば彼等の家族礼拝堂)のために絵画を注文した。パッラ・ストロッツィはフィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂内にあるストロッツィ礼拝堂に設置するために『東方三博士の礼拝』の制作をジェンティーレ・ダ・ファブリアーノに依頼した。一般市民は宗教画を自分の家に掛けるためにも注文した。例えばメディチ家がそうであった事を我々は彼らの邸宅の財産目録から知る事が出来る。俗人が宗教作品を注文したとしたら、聖職者も世俗的主題の絵画を注文した。ユリウス2世のためにラファエロがバチカン宮殿に描いた『パルナッソス』がその例である。俗人側が世俗的作品を注文する事が多かったのか、それとも次第に強まる絵画の世俗化はパトロネージ全体の世俗化を反映しているのかという問題は興味深いが、こうした問いに答えるのに十分な証拠は残されていない。 第2のパトロンの分類方法は公的か私的かの分類である。15世紀はじめのフィレンツェの同職組合guildのパトロネージはとりわけ良く知られている。羊毛組合は大聖堂の造営に責任を持っていたが、その中には新しい作品の委嘱も含まれており、例えばドナテッロに『預言者エレミヤ』像を、ミケランジェロに『ダヴィデ』像を注文している。カリマーラ組合(毛織物取引商組合)は洗礼堂に対して責任を持っており、ギベルティに有名なブロンズ門扉を注文したのはこの組合であ(144)る。大組合と並んで小組合もオルサンミケーレ聖堂の外壁面に一連の彫像を設置した。例えば,ドナテッロの『聖ゲオルギウス』は武具組合によって依頼されたものである。組合は彫刻ばかりでなく絵画も注文している。1433年、亜麻布組合は彼らの組合会館のためにフラ・アンジェリコに聖母画の制作を依頼している。 別の種類の団体のパトロンは同信会confraternitaである。同信会は社交的宗教的クラブであり、普通は特定の教会堂に付属し、慈善事業を行うと共に銀行としても活躍していたらしい。「スクオーラ」と呼ばれたヴェネツィアの同信会のパトロン活動はことのほか活発であった。ヴィットーレ・カルパッチョが1490年代に描いた聖ウルスラ伝の大型連作は,貴族や庶民の男女の会員からなる小同信会である聖得るすら同信会が彼等の会館のホールのために注文したものである。…… 同信会のパトロネージはヴェネツィアに於てばかりでなくヴェッキエッタやバッティスタ・ドッ(145)シの絵画作品に見られるように、イタリア全土で重要なものであった。レオナルドの『岩窟の聖母』はミラノのサン・フランチェスコ聖堂に属する「無限財の御宿り」同信会によって依頼された。ウッチェッロに『聖体の冒涜』を、ヨース・ファンヘント(ジュスト・ド・ガン)に『聖体拝領』を注文したのはウルビーノの「キリストの聖体」同信会であった。こうした同信会の美術史における重要性は、それらが個人では作品を注文する金を持っていない大衆をパトロネージ活動に参加させたという点にある。ところで,ある特定の美術家や主題が選ばれるまでには一体どんな議論が交わされたのであろうか。この点で興味をそそるのは、1433年にフィレンツェの大聖堂造営局がドナテッロへの作品委嘱の詳細を決定する権限を一人の人物に託したことである。…… もう一つの団体のパトロンは国家(共和国或いは君主国)であった。レオナルドに『アンギアーリの戦い』を、又それと対を成す作品としてミケランジェロに『カッシーナの戦い』を委嘱したのは、フィレンツェ共和国政府(シニョリーア)であった。ヴェネツィアではプロトと呼ばれる共和国の主席建築家、および共和国準公認画家([ベッリーニ、ティツィアーノ、デューラーなど])の地位が設けられていた。 (146)しかし一人の画家だけで国家の政策委嘱の全てをまかなうことは出来なかった。1495年にヴェネツィアの政庁宮殿parazzo ducaleの大評議会ホールを戦闘画面で飾る仕事には、ジョヴァンニ・ベッリーニやアルヴィーゼ・ヴィヴァリーニをはじめ9人の画家が参加している。合議制による共和国のパトロネージの問題は、同じホールのためのティツィアーノの戦闘画に関する記録から、はっきり浮かび上がってくる。1513年にティツィアーノは10人会議に二人の助手を用いてこの戦闘画を制作したいと申し出た。この申請は認可されたが、ベッリーニが抗議した。1514年3月、この認可は覆され、助手は支払い台帳から抹消された。今度はティツィアーノが抗議。11月、再裁定が覆され、助手の名は再び支払い台帳に登場する。この時点で当(147)初の予定額より3倍もの経費が掛かった事が明らかにされたため、全ての契約は破棄された。ティツィアーノは助手は一人という条件を受け入れ、彼の申請は1516年に認可された。しかしこの戦闘画は1537年になってもまだ完成していなかった。 君主国の場合には、パトロネージが公的なのか私的なのか、或いは実際に君主が自分のために制作された作品の全てを個人的に依頼したのかどうかを区別するのは難しい事が多い。明らかなのは君主のパトロネージのやり方が組合や同信会や共和国のやり方とは非常に異なっていたということである。君主のために仕事をする美術家にとっての一番の問題は,制作の遅延ではなく,パトロンのせっかちな催促であった。1475年、ミラノ公がレアッツォ・マリア・スフォルツァは、ロンバルディアの画家ヴィンチェンツォ・フォッパに宛てて次のように書いている「当方貴殿に作品の制作を依頼すべきことあり。本書状を受け取り次第全てを中断し、直ちに馬を駆って当方に参上されたし」。同じミラノ公はスフォルツァ城の装飾のため画家達を昼夜を分かたず働かせるように命じているし、又当時のある年代記は「たった一夜で」壁画で飾られた部屋の話を伝えている。彼の後継者も同じようにせっかちで、一旦事を思いつくや命令を下した。「ミラノの舞踏場を直ちに物語絵で飾らせよう、それも一気呵成に」。 フェラーラの君主アルフォンソ・デステも同様に短気な性格の人物であった。注文した作品をラファエロがなかなか完成できないで居ると、アルフォンソは次のような伝言を送りつけた「余の怒りを買わぬよう彼に忠告するべし」……。(149)もう一人の性急なパトロンはマントヴァ侯爵フェデリーコ・ゴンザガ2世である。たとえば1531年に彼はティツィアーノにマグだらのマリアの絵を注文した手紙で「何を於ても、早く完成するように」と指示している。…… この章の冒頭で触れたパトロンの分類の中で、おそらく最も重要な区別は、美術家を多かれ少なかれ恒常的に(ミラノのレオナルド、マントヴァのマンテーニャなど)雇いあげるパトロン―――一般に君主―――と、単一の作品を注文するだけの顧客との間の区別であろう。芸術家の側から見ると―――(151)記録から再構成する限り―――それぞれのシステムに長所と短所があった。恒常的な宮廷での奉仕は、美術家を工房経営のわずらわしさから解放し、彼に相対的に高い社会的地位を保障した。このことは又衣食住や金銭、土地などの経済的な保障を意味している。しかし君主が死ぬと美術家は全てを失う事になった。……このシステムのもう一つの欠点はその隷属性である。マンテーニャは、旅行したり他の注文を引き受ける際にはマントヴァ宮廷に許可を願い出ねばならなかった。一時的な顧客の場合のように、簡単にパトロンの要求を回避する事は不可能であった。宮廷芸術家にとっての大きな危険は(当時の味方というより後世から見ての話だが)名声にとんだ「何でも屋」に成り果てることであった。 二つの例がこの危険を良く示している。コスメ・トゥーラがフェラーラ公ボルソ・デステに仕えていた時、彼は絵画だけでなく、家具装飾、貴重品用小箱の金泥装飾、馬の飾り衣装、さらにいすの背もたれや扉賭け、寝台カバーや食器類、騎馬試合用の衣装のデザインなどの仕事によって、定期的な俸給を受けていた。レオナルドもミラノのロドヴィーコ・スフォルツァの宮廷で同様に種々雑多な企画に携わった。彼はミラノ公の愛妾チェチリア・ガッレラーニの肖像を描き、スフォルツァ城の室内を壁画で装飾し,ロドヴィーコの父フランチェスコの大騎馬像を制作し、宮廷の祝典のために衣装や舞台を考案し、又軍事技師として働いた。少なくともレオナルドの場合には、こう(152)した仕事を全て承知の上でミラノに赴いたといえるだろう。というのも、現存するミラノ公宛の自薦状の草稿の中で、彼は橋梁、臼砲、戦車の設計といった自己の能力を列挙した跡、「十番目に」絵や彫刻も作れる、と結んでいるからである。いずれにしても、ミラノ時代のレオナルドがロドヴィーコ公の委嘱によるのでは無い二つの作品によって知られるという事実は、その宮廷の環境を良く物語っている。つまり『最後の晩餐』は(ロドヴィーコが関与した可能性もあるが)僧院のために描かれ、『岩窟の聖母』は同信会のために制作されたのである。 しかし芸術家にとっての環境として宮廷の不便さを誇張すべきではない。共和国も祝祭の際に一時的な装飾を注文したし、こうした仕事を軽視する事は、恐らく美術館時代の恒久的な作品を前提にした偏見でしかないだろう。とはいえ、宮廷芸術家が、噴水装置の水力学や王のカード遊びの研究に専念していた17世紀のヴェルサイユの宮廷数学者と同様にその場限りの瑣末な仕事に他の芸術家よりも勢力を浪費しなければならなかったという印象は残る。 一方、美術家が工房を持った場合、経済的には不安定で、社会的地位も低かったが、ジョヴァンニ・ベッリーニがイザベラ・デステから注文を受けたときにしたように、美術家は自分がしたくない仕事を気軽に断る事が出来た。注文主の側は美術家に種々雑多な仕事を依頼したが、幾つかの工房ではそれに対応して内部で専門的分業が行われていた。美術家にとってこの仕事上の自由がどの程度重要なものであったのかを言うことは難しいが、しかし1459年にマンテーニャがマントヴァの宮廷画家に指名されたとき、あたかも出発を決意するのと躊躇するかのように(153)彼がパドヴァに暫く留まっていた事は意味深長である。個々の美術家が自由を望もうと望むまいと、制作条件の違いは作られた作品に反映しているように思われる。この時代の主要な美術上の革新は、宮廷ではなく、工房主達の共和国であるフィレンツェとヴェネツィアでおこったのである。 もう一つの区別は金持ちのパトロンとそうでないパトロンとの区別である。芸術家に作品を注文する習慣はどの程度の社会的広がりを持っていたのだろうか。建築や彫刻は高額に就いたが、つつましい収入しかない庶民が絵を注文した可能性も見逃せない。記録の殆ど全ては上流階級のパトロネージに関するものであるが、それはその種の記録が最も残りやすかったからである。ヴァザーリの伝記には、アンドレア・デル・サルトに聖母子画を注文した小間物商や指物師,ポントルモの最初に記録の残る作品を注文した裁縫師の様な職人の顧客が挙げられている。しかしこうした状況が……一般的であったのかどうかは良く分かっていない。 この時代の芸術パトロネージには三つの主要な動機―――信心、名声、個人的楽しみ―――があったといえる。4番目の動機として投資が考えられるが、これは恐らくこの時代には存在しなかった。将来の価格高等を予測して芸術作品を購入する事が投資だとしたら、18世紀以前にこうした行為の証拠を見出すことは難しい。一方、美術家との契約書には「神の愛」という言葉がしばしば書かれているが、若し信心がパトロンにとって重要かつ社会的に歓迎される動機でなかったとしたら、この時代の宗教絵画や宗教彫刻の優勢振りを説明することは難しくなるだろう。名声もまた、(154)とりわけフィレンツェにおいては社会的に歓迎された動機であった。これも契約書の中にしばしば見られる。例えばフィレンツェの大聖堂造営局がミケランジェロに12使徒像を委嘱した際、彼らは「全市の名声」とその「栄誉と栄光のために」と述べている。ジョヴァンニ・トルナブオーニがサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の一族の礼拝堂にフレスコ画(ギルランダイオ作)を注文したとき、彼は公然と「家門と一族の顕揚のために」とうたい、家門の紋章をはっきりと描きあらわすように念を押している。しかし、名声への要求の最も顕著な例は、ピエロ・デ・メディチがフィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂のために注文した聖壇(ミケロッツォ作)で、そこには「大理石のみで4000フィオリーノ」と刻まれている。この新興成金特有の自己顕示主義の古典的な例から推測されるのは新興の富裕な家族は芸術パトロネージというものを自分達の社会的優越性を世間に見せびらかす手段と見ていたこと、又彼らのほうがすでに社会的地位を確立した古い家族よりパトロンとしてずっと活発であったということである。 芸術パトロネージによって得た名声は支配者にとって政治的価値を持っていた。フィラレーテは、勿論自分が宮殿を建てたいといういとあってのことだが、この点を強調し,建築が高くつきすぎるという経済本位の議論を覆そうとしている。 (155) :度量の大きな偉大な君主や共和国は、費用の事を考慮して壮大な美しい建物の建設を躊躇するべきではない。建物を建てた事によって国が疲弊したり人が死んだりした試しはかつて無い……壮大な建物が完成した暁には、その国の金が尽きたとしても、国や都市には名声と栄誉と共にその建物が残るのである。: マキャヴェリもまた芸術パトロネージが政治的に有益な事を察知しており、「君主は自分が才能あるものの愛護者である事を示し、一芸に秀でたものに経緯を払わなければならない」と述べている。 パトロネージの三番目の動機は「個人的楽しみ」である。つまり自分自身の所有物ないし室内装飾としての絵画や彫像やその他の作品を多かれ少なかれ自分の趣味で味わう喜びである。しばしば指摘されてきたように、この動機はルネサンス期のイタリアでは、この一千年来のヨーロッパのどの国におけるよりもいっそう重要で自覚的なものであった。この「いっそう」がどの程度のものだったのかを図る事は出来ないが、こうした傾向の諸例を挙げれば十分納得がいくことだろう。 例えば、フィラレーテは建築それ自体の喜びを強調し「建物を造る事は、まさに人が恋に陥ったときのような官能的な喜びun piacere voluntarioに他ならない」と述べている。パトロンは自分の建物を見れば見るほど夢中になり、それをあらゆる人に吹聴したくなる―――これは典型的な恋する人間の振る舞いである。幾つかの別荘の名前はそれが楽しみのための建物であった事を暗示している。(157)フェラーラのスキファノイア(気晴らし)やマントヴァのカーザ・ゾイオーサ(幸福の家)。書籍商ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチによれば―――この伝記作者は視覚芸術を決して賞賛しようとしなかったが―――彼の卓越した顧客であるウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとコジモ・デ・メディチの二人は,彫刻と建築に大変深い個人的愛着を持っていた。フェデリーコが彫刻家と話をしているのを聞いていると「まるで彫刻が彼の職業のように思えた」。一方コジモは、建築に大変造詣が深かったので、建物を建てようとする人はこぞって彼の助言を求めに来たという。イザベラ・デステの手紙を読むと、彼女が絵を注文したのはひたすら絵を所有したいためであったという印象を受ける。このように考えたパトロンは彼女一人ではなかった。イザベラがジョルジョーネの二枚の絵を入手する事が出来なかったのは,それらの絵が二人のヴェネツィア貴族によって「彼等の個人的な楽しみのため」に注文されたものだったからである。当時のヴェネツィアには貴族のコレクターのサークルが存在したらしく、その中にはタッデオ・コンタリーニ(ジョルジョーネの『三人の哲学者』の所有者)や、1530年に有名な『嵐』を所蔵していた名高い芸術愛好家ガブリエーレ・ヴェンドラミンが含まれていた。 こうした芸術作品をそれ自体の目的のために手に入れようとする要求は、とりわけ人文主義的教育を受けた人たちに共通して見出される。マントヴァ侯ジャンフランチェスコ・ゴンザガは人文主義者のヴィットリーノ・ダ・フェルトレに息子達の教育を任せたが,その後彼等(ルドヴィコおよびフェデリコ・ゴンザガ)は芸術パトロンに成長した。同じヴィットリーノの教育を受けたウルビーノ(158)公フェデリーコも同様に息子達に人文主義的教育を授けた。同様に、グァリーノ・ダ・ヴェローナの教育を受けたフェラーラの君主エステ家の子弟達も後に芸術パトロンになっている。ロレンツォ・デ・メディチは、少年時代に古典学者ジェンティーレ・ベッキを家庭教師としていた。ガブリエーレ・ヴェンドラミンはエルモラオ・バルバロやベルナルド・ベンボといった博学な人文主義者のサークルと交流があった。人文主義者は必ずしも芸術家に敬意を払っていたわけではないが、古典研究が絵画や彫刻に対する趣味を助長した事は確かであろう。
(ピーター・バーク著 森田義之・柴野均訳『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、岩波書店・2000年)